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2011年10月4日火曜日

熊本城 ー九州の首都の栄光は今...ー


天守閣

復元再建された本丸御殿



 出張で熊本へ行った。九州新幹線の鹿児島中央、博多間全線開通に伴い,新大阪から3時間ほどで熊本へ直通で行けるようになった。「さくら」は素晴らしい列車だ。欧州の優等列車に引けを取らない品格と質感を持つ。九州島内の緑濃い筑紫平野を南へ疾走する姿は美しい。この九州新幹線の全線開通の日は3月12日。そう、東日本大震災の翌日だ。一切のセレモニーはキャンセルされ、しずかに開業した。しかし,それでもJR九州のあの開業CMは感動的で涙が出るほどだ。名作でしょう、あれは。

ところで、新幹線開通で熊本は活気づいているのだろうか?熊本駅前の住宅地が公示価格高騰率が日本一になった,と報道されている所を見ると、少しバブルしているのかもしれない。市内でタクシーの運転手さんに聞くと,たしかに熊本駅から街中まで乗る客が増えた,と言っている。「じゃあタクシーとしては新幹線歓迎だね」というと。「なんも。いっちょんもうからんばい」。新幹線が来る前は、東京や大阪から来る客は、たいてい飛行機。しかも熊本市街からはるかにはなれた阿蘇山との中間(は少しオーバー?)に位置する熊本空港との間を乗ってくれるんで、タクシーウハウハ状態だったと... なるほど。

熊本駅はそもそも都心から外れた所に位置している。城下町の常で,明治の頃の鉄道開通に際し,陸蒸気への期待と忌避が相半ばして,鉄道停車場は大抵が御城下の外れに造られた。ここ熊本もそういう事だった。確かに駅前には何もない。最近になって国の出先機関が入るビルが中心街から移ってきたという。さらに熊本初の超高層マンションが建設中だ。しかしなあ... 新幹線側にいたってはましていわんや。広大な空き地が広がる。ここが地価高騰率一位なのは0がスタートだからかあ、と妙に納得。

熊本城は,疑いもなく名城だ。加藤清正が築城し,その後加藤家断絶後は細川家の居城となった。肥後細川は明治維新まで続いたにもかかわらず,この名城を築いたのは清正公(せいしょうこう)だと言う事実。加藤神社もあれば、清正公銅像もそびえる熊本。熊本人にとっては,清正公こそおいらの兄貴なのだ。細川さん,少しかわいそう。

熊本城は西南戦争の時には九州鎮台として、官軍の拠点であった。土佐出身の谷干城率いる明治新政府軍が立てこもる熊本城を西郷軍は攻めあぐねた。田原坂の戦いなどの激戦の末、西郷軍は敗退。鹿児島の城山で自刃。こうして最後にして,最大の不平士族の反乱は終わった。しかし、この戦いのなかで熊本城の天守閣は燃え落ち、多くの櫓が破壊された。戦後(西南戦争の戦後)も破却が進むが、城跡は軍都熊本の基となる九州鎮台、のちの第六師団司令部として使われる。

この頃から、熊本は九州の「首都」としての地位を固める。帝国陸軍はもとより、中央政府の九州出先機関はここ熊本にあつまり、旧制高等学校もいわゆるナンバースクール第五高等学校が熊本に設置される。ラフカディオ・ハーンや夏目漱石が教鞭をとった。なぜか九州帝国大学は福岡に持ってかれてしまったが,熊本は誰もが認める九州の中心であった。

我が社もつい最近まで,九州総支社は熊本にあった。いまは九州本部は福岡に移転。ここは熊本支店に格下げ。往年のよすがを忍ぶものはその城を望む絶好のロケーションと偉容を誇る建物だけだ。ちなみに九州の拠点を福岡に移すにあたっては,熊本の地元からは猛烈な抵抗が予想された。まるで明治維新後に京都から明治天皇が東京へ「行幸」されたまま帰ってない(?)という例のように、最初は法人営業本部など営業拠点を福岡に移し、管理機能は熊本から移さない事で移転を進めた。しかし、本部長は熊本、福岡両方に椅子を持ち、行き来していたが、徐々にネズミの引越のように移り、結局最後は全てを福岡に移してしまったのだから、熊本人にすれば「やられた」という事だろう。京都人の気持ちがわかる?

江戸時代、明治維新、戦前とあまりぱっとしない通過都市であった福岡はいまや人口150万を数える政令指定都市、九州の中心都市に発展。逆に新幹線が開通しても熊本は通過都市になってしまう可能性すらある。あるいはストロー現象で客が博多駅や天神の商業施設に吸い取られる。先ほどの熊本駅前の地価高騰も博多へ30分という通勤の便利さからか?? 

九州新幹線で、鹿児島は多くの観光客を集めているようだが、熊本は,県の代表クマゴン(いやクマモン)が県知事に伴われて大阪に出張、熊本をアピールしてきたにもかかわらずその成果は... 先ほどのタクシーの運転手さんも「熊本はなんも観るもんはナカでっしょ」と切り捨てる。熊本城は?水前寺公園は?と水を向けると、「二つ観たらそれで終わりたい」と冷たい。食べるもんは旨いし,水はいいし...とさらにゴマを擦ると「馬刺と辛子レンコンだけですたい」。肥後モッコスらしい反応。取りつくシマもない。ミもフタもない。それを言っちゃあオシマイよ。まあまあそういわずに、この清正公の名城見るだけでも熊本に行く価値充分ですよ。木造で再建された本丸御殿も昭君の間も眼を見張る美しさですよ。緑の山と清流に包まれた壮麗な平山城、熊本城。本当に凄い城です。国の宝です。熊本人よもっと地元に誇りをもって。来年は九州で3番目の政令指定都市にもなるんだしね。道州制が導入されたら熊本が九州の首都に返り咲き...かな?










大天守

宇土櫓














本丸御殿へ通じる回廊







昭君の間






加藤家と細川家の家紋が並存する

天守閣から本丸御殿を展望する

天守閣から宇土櫓を展望する







九州新幹線熊本駅


2011年9月26日月曜日

Ricoh GXR Mount A12 ーライカレンズ資産活用プラットフォーム登場ー

 予約入れてたGXRのMマウントアダプターをついにゲット。すなわちリコーGXRでライカMマウントレンズが使える待望の製品だ。APS-Cサイズの1230万画素CMOSセンサーを搭載しており、レンズ焦点距離の1.5倍となる。コンデジクラスのコンパクトなボディーで名レンズを堪能出来る。縦走りフォーカルプレーンシャッターと静音電子シャッターの両方が搭載されており、最速1/8000秒の電子高速シャッターも利用出来る。撮影シチュエーションにより選択出来る事もユニークだ。

 当然,往年のクラシックレンズや、銘玉、クセ玉を装着して楽しむ事も出来る。この時気になる周辺光量不足や歪曲収差を補正する機能もついている。もちろん,クセ玉を補正せずにそのまま使ったり、さらに周辺光量を落として個性的な作画を試みる事も出来る。クラシックレンズが現代のデジタル技術とマッチングして新しい表現方法を手に入れることが出来た訳だ。

 また、ライカM8、9同様、ローパスフィルターがないのでとてもクリアーでキレの良い画像が得られるのがうれしい。手振れ防止は当然ボディー側に。ライカMにはない細かいセッティングも可能だ。なによりライカレンズの像をライブビューで見れる事自体に感動する。液晶モニターの解像度もM8、9のそれよりもはるかに高く、よりクリアーな画像を確認しながら撮影出来る事でワクワク感も高まる。

 ベストマッチングはやはり広角系レンズか。21mmスーパーアンギュロンも後玉の出っ張りにも関わらず装着可能で全ての機能が動作可能。Mボディーでは装着出来ても測光不可だった。特にTri-Elmar-M 16-18-21が出番を得たという感じだ。これでブラパチ試写した銀座の写真。こういうノーファインダーでのキャンデットフォトに最適。軽量で手に収まるサイズで、ライカのような気負いを持たなくても気楽に撮れる。

 マニュアルフォーカスをアシストする機能がついている。拡大表示だけではなく、フォーカス部分をハイライト表示する事によってピントを知らせる。広角系レンズの場合はチョット分かりにくいが,標準、中望遠の場合はピントの合う範囲まで確認出来便利だ。

 レンジファインダーがついていると,逆説的だが、いちいちファインダーを覗かなくては、という強迫観念にとらわれてしまう。かといって、ライカMボディーについている標準のファインダーでは28mmがせいぜい。Tri-Elmar付属のファインダーはまるでカメラの上にもう一つカメラ載っけたみたいな形相となり、およそ軽快なスナップシュータとはほど遠いカメラになってしまう。

 GXRももちろん、オプションのEVFをアクセサリーシューに装着して,ファインダーでの撮影も可能だ。新しい撮影スタイルをとれる事が新鮮だ。例えば、ノーファインダー撮影で、時々液晶ライブビューでフレーミングしながら何枚も取るスタイルが心地よい。

 とうことで遂にライカレンズの出番が多くなったぞ。やっぱりM8、9のオールドスタイルのレンジファインダーボディーにこだわった撮影スタイルもいいが、しょぼい液晶モニター(画素数が粗い、遅い、ライブビューができない)や、トラブルの多いSDカードとのマッチング等等、まだまだ解決すべき課題が多いライカMデジタル。高価なプライスに見合った性能なのか疑問を禁じ得ないが、ライカファンはこんな事くらいで文句は言わないのだろう。しかし,このリコーGXRのようなカメラが出てくると,もう少しなんとか出来るんじゃないの?と言いたくなる。

 ライカはカメラの王様だが、どうしても「あの王様は裸だ!」と思わず叫んでしまった童話の子供の気持ちが分かるように気もする。。ライカよ,謙虚にシロウトの意見に耳を傾けよ。




 ライカズミクロン35ミリを装着した姿。最もコンパクトで取り回しの良い組み合わせだ。これで約52ミリの標準レンズ画角が得られる。




 トリ・エルマーの16ミリで撮影。24ミリの画角となる。ちなみに、この写真はレンズのディストーションが出てるんではなくて,このビルの在りのままの姿。これくらいの広角になると被写界深度が深く,ノーファインダーでほぼパンフォーカスで撮れる。


2011年9月25日日曜日

友泉亭探訪 ー「城下町」福岡に大名文化は残っているか?ー

 筑前福岡は、関ヶ原以降に豊前中津から筑前国主として入府した黒田長政が開いた城下町だ。筑前藩52万石という外様の大藩の藩府だ。しかし、発展著しい現代の福岡市を尋ねて、福岡が城下町であったというイメージが希薄なのは何故だろう?黒田官兵衛(如水)の軍師としての活躍や、その忠臣、母里太兵衛がモデルとなっていると言われる「酒は飲め飲め...」の黒田節(黒田武士)を聴いて「ああそうだよね,黒田は福岡だよね」という事になるが... 町を歩いてみると,他の城下町と比べて福岡には城下町の痕跡があまり残っていないような気がする。もちろん舞鶴城は如水(官兵衛),長政父子が築いた名城であるが、平城で熊本城のような壮麗さはない。極めて実用的な合理性重視の縄張りだ。城下町は城の北の博多湾に面した細長い狭い土地に形成されていて、山城中心に城下町が四方八方に広がる他都市とも異なる。。金沢の兼六園や、岡山の後楽園、高松の栗林公園、熊本の水前寺公園,鹿児島の嚴仙園、水戸の偕楽園といった、名園といわれ今日まで残る大名庭園もない。高取焼のような藩用窯はあるが、隣の肥前鍋島藩の藩用窯ほどの規模ではない。金沢の能などの芸能、金箔などの工芸、松江の茶道のような文化の痕跡も薄い。博多織、博多人形はお隣さんの博多のもの。祇園山笠、どんたく、松囃子などのお祭りもお隣さんのもの。

黒田の殿様は歴代どのような殿様だったのか。豊臣秀吉の名軍師黒田官兵衛(如水)、関ヶ原で東軍に勝利をもたらした、その子長政。この藩祖父子の軍師、知将のイメージから、質素堅実を旨とし、あまり文化芸能にうつつ抜かす家系の匂いはしない。しかし、かといってただ無骨なイメージもない。江戸期の長く続いた天下太平の時代には何をしていたんだろう。加賀前田の殿様のように武力に金を使わず文化芸能に金を使い徳川幕府への忠誠心の証にしていた,という風でもない。薩摩島津の殿様のように密かに琉球を通じて海外の文物を取り入れ、国力を蓄えていた様子もない。

隣の博多が商人の街としての長い歴史と文化を継承しているのに比べ、城下町福岡は関ヶ原以降に建設された新興都市で、祭りも芸能も、工芸も食文化も,博多の商人文化に飲み込まれているような気がする。他藩のような壮麗なお城や有名な大名庭園もないので、今となっては城下町としての観光資源にも乏しいということになる。金沢や熊本や松江を見て,そのように感じていた所、福岡市が黒田家ゆかりの友泉亭趾を公園として整備し市民に公開している、という話を聞いた。こりゃ是非行ってみよう,という事で出かけた。

友泉亭。懐かしいその「地名」に、まず反応した。私が小学校5年生から高校3年生まで過ごした福岡市別府。その南、樋井川を隔てた田島に友泉亭という所があった。油山を望み、樋井川に面したのどかな半分住宅地、半分農地といったエリアだった。実は黒田家の別邸があった所であり,その名称「友泉亭」が「地名」として残ってきた事を今頃になって知った。

その友泉亭は黒田家六代藩主継高公が宝暦四年(1754年江戸時代中期)に、この樋井川東岸の田島村にもうけた別邸であった。当時の敷地は現在の友泉亭公園の敷地の約10倍を有する広大なものであったようで、樋井川東岸の別邸に続く道路は、領民の通行が禁止されていたと言う。しかし屋敷は、割に質素で実用的な建物が池畔に並んでいくつか建っていたようで、豪壮な大名御殿を想像するとがっかりするようなものだったらしい。

この友泉亭趾は、その後の歴史の流れの中で様々に変遷し、明治維新後は一時小学校になったり、樋井川村役場になったりしている。その後は荒廃の危機に瀕していたが、筑豊炭坑御三家(貝島、麻生、安川)の一つ貝島炭坑の創業者貝島太助翁の息子健次郎氏が敷地を買い取り,ここに邸宅を建てた。今残っている邸宅と庭園はその貝島邸の遺構をもとに昭和56年に福岡市が公園として再整備したものだ。

敷地には池泉廻遊式庭園が整備されており見事。一見の価値有りだ。四季折々の花や樹木が広い敷地に適度な密度で配されており心地よい。池に面した書院造りの大広間でいただく抹茶は美味しい。東京の黒田家から寄贈され、移設された庭園池畔の根府川石の一枚岩が豪壮だ。室内には筑前福岡出身で、中央政府で活躍した官僚、政治家である、金子堅太郎、広田弘毅が揮毫した「友泉亭」の額も残っている。庭園内には茶室如水庵がしつらえられているが,これは昭和56年公園として開園時に建てられたものだそうだ。由緒を感じる素晴らしい邸宅と庭園である。しかし、此れ等はいずれも貝島家によって整備されたもので、残念ながら黒田家友泉亭を彷彿とさせる遺構らしいものはほとんど見当たらない。

福岡の都市景観の中で、黒田家ゆかりの藩主邸宅や武家屋敷よりも、炭坑王の残した「御殿」の方が有名なのは、明治期以降の福岡という街の成り立ちを示しているような気がして面白い。この友泉亭公園も先述の通り、貝島別邸が原型となっている。かの有名な筑豊の伊藤伝右衛門邸は大名屋敷よりも立派な門構えを持ち、飯塚に現存している。再婚離婚劇で名を馳せた妻、柳原白蓮の為に、福岡天神町に建てた伊藤別邸(通称あかがね御殿)も武家屋敷を圧倒する構えであったそうだ。そういえば、天神町から大名町、赤坂門にかけての旧電車通り沿いに延々と続く築地塀のお屋敷街があったのを記憶している。いまはその気配すら残っていないが。現在も高級住宅街とされる福岡の山の手、薬院、高宮、浄水通辺りのお屋敷街も元の住人はたいがい炭坑主であった。その炭坑も高度成長期に入ると廃れ、石炭御殿も次々取り壊されて消滅... マンション街になってしまった。時の流れを感じずにはいられない。

このように城下町の武家屋敷的景観は炭坑主達によってある時期まで継承され,石炭産業の衰退、炭坑の閉山とともに消滅して行ったと言っても良い。福岡はこうして城下町としての景観や佇まいを失ってきた。黒田家が戦前まで福岡に有していたと言う浜の町別邸も戦災に遭い、福岡城の武具櫓を移設したという豪壮な邸宅とともに様々な家伝来の文物、品々が焼失したそうだが、いくつかは福岡市博物館に収蔵展示されている。しかし福岡という街全体を見渡すと、「城下町」「大名文化」の痕跡はあまり残っていない。敢えて探すと、藩校東学問所「修猷館」が現在も九州を代表する名門県立高校としてその歴史と伝統を継承している事だろうか。

友泉亭公園は、福岡市の城下町としての福岡復活プロジェクト(そのようなものがあるのかどうか知らないが)の一環なのだろう。その試みは舞鶴城内の病院、裁判所、平和台球場の転居移転。城跡公園としての再整備。大濠公園の能楽堂、日本庭園などの建設(これも立派な庭園だが、歴史的な由緒はなく、全く新規に企画設計された現代の庭園だ)と連動するものなのだろう。その努力は多とするが、何とも武家文化、城下町文化の残存率が低過ぎるのがいかんともしがたい。一方で舞鶴城に創建当時あったとされる「幻の天守閣」再建、などという構想もあるそうだが、あまり大きな市民レベルの運動にはなっていないようだ。藩祖黒田孝高(官兵衛/如水)長政父子、その家臣団で勇名を馳せた母里太兵衛、栗山善助、井上九郎右衛門、後藤又兵衛の黒田二十四騎などが、筑前入府時期に名を残した割には、城下町としての福岡のプロファイルはあまり高いものとはいえず、最後は、明治維新に乗り遅れてしまうなど「悲劇の城下町」なのかもしれない。































2011年9月19日月曜日

Ginza. Center of Universe

 バブル崩壊、GDP世界3位に後退、右肩下がり、震災、放射能汚染、電力不足、企業の海外脱出、政治の漂流、就職難民、草食系男子... 元気のないニッポン。もう日本は終わりか?

 そんなときは銀座に行こう! ここは世界の中心、宇宙の中心。世界中探しても、いや宇宙中探しても,こんなにキラビやかで、クリーンで、時代の最先端を行く街はない。東洋の伝統と西洋のモダニズムと日本独特の美学とが共存する街。夜と昼とで違う顔...

 ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、みんな素敵な街だ。上海、香港、シンガポール、中華文化圏も負けてない。しかし、この東京の広大な都市域と人口集中度合いと、その割にクリーンな街、効率的な交通システムによるスムースな移動。多少ごちゃごちゃしてるが近代的な町並み、カオスが進化してカオスを脱している。まさに奇跡だ。銀座はそのシンボル。

 そう,リフレームしてみよう。少し視点とアングルを変えて見てごらんなさい。新しい未来の姿が見えてくるぞ、日本と日本人の...