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2012年4月3日火曜日

河内飛鳥 王陵の谷 ー もう一つの飛鳥 ー




日本の古代史には、不明な点が多く、様々な論争がある。何も邪馬台国論争ばかりではない。4世紀に現れたという、河内政権(王朝)の存在もその一つだ。崇神天皇に始まる初期ヤマト王権(三輪政権/王権)と、4世紀の応神天皇・仁徳天皇に始まる河内政権/王権とは連続しているのか?あるいは断絶があったのか?というものだ。

中国南朝の宋の史書(488年)に記されている倭の五王の時代が河内政権/王権の時代なのだろうか。五王の一人、倭王「武」は雄略天皇ではないかと言われているが、4世紀は中国の史書にも倭人の記録が無い空白の時代と言われている。しかし、「空白の時代」は必ずしも倭国の停滞の時代を意味するものではなく、むしろこの時代は三輪山の麓に佇む初期ヤマト政権の時代から、ヤマトの国家の統一と発展に向けた画期的な時代であったのでは、とされている。そこには王朝の連続があったのか、あるいは新たな王朝が起こり、既存勢力が打倒されたのかが論争となっている。

記紀にあるヤマトタケルによる東国、熊襲征討伝説や、前述の倭王武の「ソデイ(変換不能)甲冑を貫き山河を跋渉し寧所にいとまあらず」、埼玉や熊本の古墳で見つかった鉄剣の「ワカタケルの金石文字」等、ヤマトが次第に国家として日本全体に広がっていった事を示す状況証拠が見つかっている。しかし,いかんせんそれを証明する文献や資料が整ってない,謎の時代でもある。

それだけ日本の古代史解明には、文献史学的には困難がつきまとう。推古天皇が編纂させたという天皇記/国記は、巳支の変の蘇我宗家滅亡時に失われたとされ、8世紀の天皇制確立期に、その正統性を内外に誇示する目的で編纂された日本書紀と古事記が、ほぼ唯一無二の日本側での文献である。戦前には記紀の記述が日本の古代史の全てである,とされ、神話の世界から天照大神一族の子孫である神武天皇に始まる万世一系の天皇制が史実であると理解されていた(あるいは理解させられていた)。

戦後は、日本古代史をより自由かつ客観的に研究できる環境が出来た。しかし、依然として、その記紀の記述を検証するための主な文献としては中国の史記、朝鮮半島の史記しか無い。この辺が文献史学の困難さを示している。一方、考古学的な物証で補強するにも限りがある。特に宮内庁が管轄する天皇陵墓はいまだに,考古学的な調査が許されず、幾多の古代史論争に考古学的な側面から解明のメスを入れる事も出来ていない。

話がドンドンそれて行く。河内政権/王権の話に入り込むとそれだけで別に稿を起こさなくてはならなくなるのでこのヘンにしたい。今日の話は、聖徳太子の時代、7世紀初頭、河内にもう一つの飛鳥があった,河内が日本古代史の謎を解くための重要地域であった,という事に留める。

現在の大阪府南河内郡太子町、羽曳野市辺りは「近つ飛鳥」と呼ばれている。竹内峠、長尾峠を越えた向こう側の(大和の)飛鳥は「遠つ飛鳥」と呼ばれている。日本古代史においては、三輪、飛鳥、藤原京、平城京と、奈良盆地の中でヤマト王権が遷都、発展して行ったかのごとく錯覚しがちだが、上述のように、4世紀5世紀まで時代を遡れば、河内が大和に匹敵する古代史の重要地域である事は百舌鳥古墳群の巨大古墳の出現を見ても明らかだろう。

大阪阿倍野橋から近鉄南大阪線の電車に乗り、上ノ太子駅下車。ここをスタートに太子町を散策した。駅周辺は大阪の通勤圏内という事で、奈良盆地以上に開発が進み、第2阪奈道路の高架橋や新興住宅が建ち並び,もはや時空トラベラーとして古代の面影を探すのも容易ではない。しかし、いつもは大阪のオフィスの窓から遠望する二上山、葛城山が、今日は眼前にそびえる。歩を進めて行くうちに景観が徐々に変わって行き、タイムスリップしてゆくことが出来る。推古天皇の時代に建設されたという、飛鳥宮から難波宮に至る古代の大道、すなわち横大路、二上山の脇を抜ける竹内街道、堺から真っ直ぐに北へ伸びる難波大道。その途中の山の鞍部を越えた河内側の一帯が、「河内飛鳥」、「近つ飛鳥」と呼ばれるエリアである。

この古代官道、竹内街道散策については,別に書く予定だ。今の太子町一帯は古代から「磯長(しなが)の里」あるいは「磯長谷」と呼ばれており、ここには、聖徳太子御廟/叡福寺、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵がある。五枚の花弁に例えて「梅鉢御陵」と呼ばれている。この他にも、聖徳太子が派遣した遣隋使、小野妹子、乙巳の変の立役者の一人、倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流家)など、王家ゆかりの人々の墓もあり、「王陵の谷」とも呼ばれている。

しかし、何故に、大和飛鳥を宮都とし、歴史の表舞台で活躍した日本古代史のスター達の墓が、ここ山を隔てた河内の飛鳥にあるのか。もちろん聖徳太子伝説はいたるところにある。太子創建の難波の四天王寺、斑鳩の法隆寺はもとより、ここ河内飛鳥にも、叡福寺(上ノ太子)、野中寺(やちゅうじ)(中ノ太子)。大聖勝軍寺(下ノ太子)が太子信仰の場として今も参詣者を集めている。しかし、太子は生前、自分の墓所をここ河内の磯長の地と決め、陵墓建設を進めたという。その太子御廟を守る為に後の建立された寺が叡福寺だ。今見ると太子の墓は円墳であり、母である穴穂部間人皇后と、妃とともに埋葬されていると言う。

聖徳太子の父、用明天皇、その兄すなわち太子の叔父、敏達天皇もここに御陵がある。そして太子が摂政として輔佐した、叔母の推古天皇の陵墓もここだ。ともに巨大な方墳である。なぜ陵墓なのに前方後円墳や八角墳でないのか、という考古学的な研究テーマもある、また宮内庁管理の陵墓比定地が果たして本当に太子や推古天皇の陵墓であるのか、先述のように調査されていないために論争がある。現に推古天皇の本当の墓は、近くの二子塚古墳であるという地元の言い伝えがある。が、それはさて置いておいて、なぜこの一族は河内に安寧の場を求めたのか?

一説には、ここ河内の磯長は蘇我氏の発祥の地であるという。乙巳の変で蘇我宗家が滅ぼされるまで、天皇外戚として権勢を振るった蘇我一族はここから、山を越えて大和の飛鳥に進出したのだという。その蘇我氏ゆかりの故地、河内飛鳥の磯長が、蘇我一族の血筋を引く用明天皇、推古天皇、太子の心の故郷になったのだ、という説だ。ここには蘇我馬子創建と伝わる寺院跡もある。

蘇我氏の出自については、渡来人の末裔だとか、大和曾我辺りの豪族だ、とか、諸説あって定まらないが、いずれにせよこの河内磯長谷辺りも勢力範囲だったのだろう。この地は大和飛鳥と難波宮、さらには瀬戸内海を通じて、筑紫、朝鮮半島,中国、さらにはインド、ペルシャ、ローマ帝国へと通じる、いわば文明の回廊(シルクロード)の東端に位置する重要な場所であった。蘇我氏はこうした外来の文物、文化、技術をいち早く取り込む格好の位置を確保し、渡来人や帰化人をオーガナイズして、守旧派の抵抗勢力、大伴氏や物部氏を打倒して、飛鳥にイノベーションを起こしたグローバル派だった。その最たるものが仏教の導入であった事は改めて言うまでもないだろう。

冒頭に触れた、河内政権の始祖,すなわち応神天皇の御陵はここから近い古市古墳群の中のもっとも大きな前方後円墳である誉田山古墳が比定されている。仁徳天皇陵は竹内街道の終点で、かの有名な百舌鳥古墳群の大仙古墳が比定されている。両方とも群を抜く巨大古墳である。ちなみに人民から慕われたという仁徳天皇の宮は、難波の上町台地の高津宮とされている。

これら河内政権の応神天皇に始まる代々の天皇(正確にはまだ天皇制を確立しておらず,大王と呼ぶべきか)が活躍した時代は4世紀後半から5世紀であり、武烈天皇で一旦血統が途切れたらしく、越の国(現在の越前福井)から(応神天皇の血筋を引くと言われるが)継体天皇が大和に入っている。やがて継体王朝系譜の欽明天皇の血を引く敏達天皇、用明天皇、推古天皇、聖徳太子へと繋がってゆく。こうして「血統の断絶」を見ると、7世紀前半の人、聖徳太子は河内政権/王権の大王達と血統的な繋がりはないだろう。ただ、この地を支配した母方の蘇我氏との縁で河内と繋がっているのだろう。

この時期は大和飛鳥に統一王権が収斂されつつあった時期であって、4〜5世紀の河内政権/王朝の時代はすでに終わり、河内に独自の王朝や政権が存立していた訳ではない。やがて、大化の改新、壬申の乱をへて、都も奈良盆地内で、藤原京,平城京と遷都して行き、「ヤマト王権の倭国」が、「天皇中心の日本」に変わってゆく。河内は蘇我氏の故地、王陵の谷、太子信仰の地となった。もちろん、奈良盆地に都がある限り、百済人も、新羅人もここを通り、遣隋使も、その答礼使も、後の遣唐使も通った、大陸との交流の要衝としての意味が失われる事はなかった。









































(撮影機材:Fijifilm X-Pro 1,Fujinon 18,35,55mm)




(大阪府南河内郡太子町辺りの地図。敏達天皇陵は画面左に外れている)





2012年3月30日金曜日

ミモザの花咲く頃

桜の開花前のこの時期は、水仙やジンチョウゲ、ハクモクレンなどが咲き、本格的な春の到来を待ち遠しく感じる季節だ。これからは花が一斉に咲き誇るワクワクするような季節。そして、目に鮮やかな新緑の季節へとうつろって行く。東京にいては気付かない季節の移り変わりが、関西ではわかる。日本は四季があってなんと美しい国だろう、と今頃になって気付く。そんな歳になったのだろう。年齢を重ねないと気付かないものや、わからない価値、美があるものだと、なんだか年寄りくさい感慨に耽る。

 今年は,厳冬の影響で、梅が3月に入ってようやく満開になるなど春の訪れが遅い。寒さは去らずとも春の嵐だけはちゃんと来て、雨や強風の日が続き、うっとうしい毎日であったが、ここのところさすがに暖かくなって、晴れる日も増えて来た。カメラ磨いてヤマト國時空旅行への準備に余念がないが、ふと自分が身を置いている日常の中にも「美」を発見することがある。

 朝夕の通期途中、夙川の住宅街を歩いているとミモザがそのふわふわした黄色い花をイッパイにつけ始めている。いままであまり気付かなかったが、華やかで、いかにも春の到来を告げるような花樹木... ミモザ自体あまり実物を見た事が無くて、良く知らなかった。英国ケントの田舎に住んでいた時には、自宅の玄関先に、黄色い花房をイッパイつけるゴールデンレインという樹があった。英国風の鉛格子で縁取られた窓から見る黄色い華やかな花が、どんよりした灰色の空の永い永い英国の冬を終わらせてくれる春告げ花であった。最初はそれかと思ったが、花が細かい。まさにミモザサラダの卵黄のようだから、やはり違う。しかし、この辺りの佇まいによく似合う花だ。今年の春の到来を告げてくれている。

 いよいよ春本番だ。阪急電車沿いの土手の松並木は枯れてしまって、あまり多くは残っていないが、桜はまだ残っている。堅い蕾をイッパイ付けて、花開く時を待っている。夙川沿いの桜並木もいよいよ本番を迎える準備ができているようだ。初めての夙川での春。

 ミモザの花咲く頃... いやいやあれは「すみれの花咲く頃」だ。そういえば昨日は宝塚音楽学校の合格発表の日だった。入学、卒業...の季節。 清く,正しく、美しいタカラジェンヌの華やかな旅立ちの春だ。

阪急夙川駅から我が家へ帰る途中のお宅のミモザが素晴しい。


 ミモザはアカシアの一種だそうで、花房がつく「房アカシア」と、葉が銀色の「銀葉アカシア」という種類があるそうだが、これは後者のようだ。(撮影機材:Fijifilm X10)

2012年3月21日水曜日

奈良の「三名椿」を巡る

 今年はいつまでも寒くて、しかも週末ごとに雨や曇り空で春遠しという感じだ。3月20日の春分の日にようやく晴れとなり、勇躍、ゲットしたばかりのFujifilm X-Pro1とレンズ三本バッグに詰め込んで、梅田から大和路快速に飛び乗った。なかなか、この新機材が活躍出来る機会が無くてうずうずしていた。

 今日は奈良の「三名椿(ちん)」巡り。

 誰がどういう理由で選んだのかわからないが、伝香寺の「散り椿」、白毫寺の「五色椿」、東大寺開山堂の「糊こぼし椿」が、三名椿と言われている。

 1)まずは伝香寺の「散り椿」。奈良市内の中心、三条通からやや南に下った小川町、率川神社の隣に位置する。ここは筒井順慶一族の菩提寺であるそうで、創建は聖武天皇の時代。あまり観光ガイドに出て来ない小さな寺で、日頃は公開されていないが、椿の季節の休日に一般公開されている。現在の境内はそのほとんどが幼稚園の園庭になっているが、御本尊釈迦如来のおわします本堂前の椿の古木がその「散り椿」だ。

 この「散り椿」は別名「武士椿(もののふつばき)」とも呼ばれている。椿は散る時に。ボトリと花ごと落ちるが、この椿は、花びらがハラハラと散るので、武士のように潔い,という事で名付けられたそうである。なかなか見事な立ち姿の古木で、本堂、石仏背景に画になる椿である。ちょうど見頃を迎え、ピンクの花弁がバラの様でもあり美しい花姿だ。つぼみもイッパイついていたのでしばらく見頃が続くと思われる。

 早くも散り始めた花びらが石仏の辺りに舞い落ちる有様に思わずシャッターを押す。確かに椿の散華は紅い花びらに黄色い花心の花ごと転がっている様が普通だが、この「散り椿」は美しいピンク色の花びらが楚々と散っている。











 2)次は白毫寺の「五色椿」。三条通を西に向い、ならまちに折れ、さらに西、春日山に向ってひたすら歩を進める。緩い勾配の高畑町を抜けて、新薬師寺辺りまで来ると、大阪の民放主催のウォークラリーの一団に遭遇。すごい人の群れだ。幸いにも新薬師寺がゴールだったと見えて、さらに白毫寺まで歩く行列は無い。長大な列を横切って、一路白毫寺町の古い町並みを抜けて白毫寺へ向う。

 ここは、春は椿、さくら、秋は萩と紅葉、という花の寺として有名だ。何度か足を運んだ事があるが、坂を上り、萩と椿の石段を上り切ると、古い土塀越しに、奈良市内が一望できる。ふと一息入れて伸びやかな気分になる瞬間だ。

 ここの五色椿は、一本の木で、紅、白、桃、絞り、大絞りの五色のは花を咲き分ける珍しいもので、天然記念物にも指定される古木であるが、残念ながら、まだほとんど花は咲いていなかった。春分の日ではまだ早すぎたようだ。寺の人に伺うと、今年は寒さで開花が遅いこと、例年でもだいたい盛りは3月下旬から4月初めだそうだ。

 それでも五色椿以外の山椿は盛んに咲き誇っていて、そろそろ散華の舞を演じている木もあった。特に居並ぶ石仏に降りかかる紅椿の黄色い花弁が、彩りを添えてそこはかとない美しさを醸し出している。寺の方の配慮か、蹲や歌碑、古木のウロに落花を配して、そのはかなげな椿の散華を演出しているのが心地よい。わざとらしくないアレンジメントが、まるで生け花の心を持っているようで、「人の手の加わった自然美」もまた良しであると思う。














 3)最後は、東大寺開山堂の「糊こぼし椿」だ。白毫寺からは延々春日大社を横切って向う。つい先週までお水取りが行われていた二月堂の正面に立っているのが開山堂。この「糊こぼし椿」の名は、二月堂のお水取り儀式に使う造花の椿の赤に、間違って白い糊をこぼしたような模様が入っている事から来ているそうだ。

 ところで、東大寺の開祖は誰なのだろう。聖武帝のもと、東大寺造営を指揮した行基は、東大寺完成を見る前に世を去っている。もちろん鎌倉期に戦乱で荒廃した東大寺の再建、勧進を指揮した重源ではないだろう。良弁僧正だそうだ。知らなかった。故にこの椿は「良弁椿」とも呼ばれている。

 この開山堂は非公開なので中には入れない。門から覗いたり、隣の四月堂の縁石に登って塀越しに覗いたりで、ようやく堂横の椿の木が見えたが、花は咲いていないようだ。早すぎるのか、終わってしまったのか。手前に紅梅が盛りを迎えているのが見えるのみだ。

 寺の配慮で、四月堂の縁に、この赤地に白い斑の入った「糊こぼし椿」三輪が水盤に浮かべられて、目を楽しませてくれている。ちょうど開山堂を塀越しに覗ける位置に、この水盤がおかれているのが憎い。見たい人が多いのは当然だし、かといって聖域にみだりに観光客を入れたくない寺側の思いがそこに置かれている。

 以上が、駆け足で廻った「奈良三名椿」鑑賞の旅である。奈良は何度行っても新しい発見があるが、こうした花にまつわる散策もまた良しだ。







(撮影機材: Fujifilm X-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)


2012年3月11日日曜日

あれから一年

一年前のあの日、ちょうど東京にいた。経験した事も無い様な揺れにたじろぎ、「帰宅困難者」の一人として会議室で一夜を過ごした。

今年もその日は東京だった。あれから一年。時間が止まったように,あまりにも何も進んでいない。この国の狼狽ぶりと、政治のリーダーシップの無さが顕著に見えてしまう。人々の絆や我慢強さや優しさが、世界の人々の賞賛を浴びているが、それも、何もしてくれない政治や,お上に、そろそろ憤懣のエネルギーが蓄積しつつある。特に原発事故対応は、終点どころか、明日の行動指針すら誰にも共有出来ていない。

凄惨な出来事も、一年経つと、「あの時の衝撃映像」として、テレビでも流れ始める。今や,ケータイやデジカメが普及し、誰もが静止画や動画を、いつでもどこでも撮れる時代。報道機関の眼でなく、その厄災のただ中にいた人々の動揺が如実に伝わってくる写真や動画はリアルだ。リアルすぎて残酷だ。だから今までテレビでも流さなかったのだろう。もうそろそろいいか、と流してみたら、やっぱり眼を覆いたくなる無惨さ...一年経ったからと言ってその衝撃はとても薄れる事は無い。そんな事分かってたはずだけど...

そんな今日,東京から大阪に戻った。羽田から伊丹に戻る飛行機は、最新鋭の787だった。ANAが自慢しているハイテク機だ。しかし、何とも狭くて窮屈な機内。シートピッチは、最近流行の各安航空会社の機内のような狭さ。私の「長い足」だと膝が前席に当たっている。立ち上がると、座席上の荷物棚のハッチに思いっきり頭をぶつけてしまった。機体が軽量で燃費が良くて、航続距離が長いので、こんな中型機でも米国東海岸や欧州のようなロングホールに使える,というので航空会社がもてはやしている。しかし、乗客から見ると、こんなに狭くて、これじゃ長距離路線なんかとても窮屈だろう。NY便なんか777でも狭い気がする。昔の747ダッシュ400のサロンのようなゆったりした機内が懐かしい。

生活が効率優先になると面白くなくなるなあ。などと考えながら、今年の3.11のある時間をこの狭い最新鋭機機内で過ごした。このハイテク最新鋭機にしろ、原発にしろ、インターネットにしろ、世の中進んでいるのか,退化しているのかよく分からない。このごろケータイ経由のインターネットがホント繋がりにくい。私が羽田で搭乗前にFacebookに投稿した3.11に寄せたメッセージは,伊丹に着陸した後もとうとうアップされてなかった。

ただ、窓から眺める富士山の気高さだけは、今も昔も変わらない。不変のものを探す旅に出たいという強い衝動に駆られた。





2012年2月26日日曜日

西宮神社 ー西宮の地名の由来となった神社をX-Pro 1で撮るー



西宮市に移り住んで、半年になる。西宮市って、夙川や苦楽園、甲陽園などの高級住宅地や、関西の名門私立学校キャンパスの所在地というイメージがあるが,それ以外、あまり想起するものは無かった。そうそう、お酒好きには灘五郷の一つ、西宮郷は辰馬酒造の故郷でもあるが。

しかし、この西宮という地名は、この地に鎮座まします西宮神社に由来する事を、これまであまり意識して来なかった。古来よりこの地は鳴尾村と呼ばれ、漁業が盛んであったそうだ。この西宮神社のご神体、えびす様も、この鳴尾村の漁師が和田岬の沖で見つけたご神像をこの地にお祀りしたのが始めとされているそうだ。したがって豊漁の神様として信仰が篤かった。また、この地はかつて西国街道の宿場町としても開けた土地で、定期的に市も立っていたことから、商売繁盛の神様としても崇められてきた。神社の創建の年代ははっきりしないが、平安時代後期の文献には記載があるそうだ。

そういう事で、西宮神社は、福の神、えびす様をお祭りする全国のえびす宮の総本社である。毎年一月の「十日えびす」は100万人の参詣者で賑わうほか、十日払暁の開門神事、走り参りは「福男選び」として、新年を告げる行事となっており、全国的にも有名だ。関西では大阪の今宮戎が商売繁盛の神様として有名だが,ご本家はコチラなのだそうだ。

神社の境内は、重厚な大練塀に囲まれた広大なものだ。この「練塀」とは土を着き固めて築造する土塀のことで、古代大陸から渡ってきた、城塞や土塁の構築法である「版築法」が起源とされている。筑紫の国太宰府の大野城の土塁にその原型を見ることが出来る。しかし、これほどの規模で現用されている練塀をここだけのようだ。

また神域は、鬱蒼たる杜に囲まれている。この「えびすの森」は県指定の天然記念物である。本殿は「三連春日造り」という珍しい構造の建物で国宝。初代の本殿は1663年に徳川四代将軍家綱によって造営された。古地図によれば今の西宮神社のある場所は,かつては海に突き出た岬といった地形であったようで、その名残か境内には松林が残っている。阪神電車と阪神高速の高架に挟まれた市街地の真ん中に、このような由緒正しく静かな神域がある事に今まで気付かなかったのは不覚であった。

神社仏閣巡りが面白いのは、いくら時代が進んで辺りの光景が様変わりしても、ほぼ創建時の位置に存在している(もちろん移築されたり、様々な事情で破壊されて再建されなかったりするものもあるが)点である。古来からの信仰、伝承や、由緒、文物を今に承継するタイムカプセルの役割を果たしている。特に神社は、後にその時代時代の権力者が創建した有名な神社ばかりでなく、日本古来の祖霊信仰や、自然崇拝のための、いわば「鎮守の杜」がいたるところに現存している点が面白い。歴史のタイムスリップホールは、京都や奈良にばかり存在しているのではない。自分の住んでいる町や村の神社の由来を調べてみると、きっと新たな発見があると思う。

ところで、この散歩、新しくゲットした富士フィルムのX-Pro 1の撮影デビューであった。スライドショーで見ていただくのが,くだくだ語るより雄弁にその写りの良さを語ってくれるのだが、ひとことで言って、軽快な取り回しと、高精細な写りに感動した。特に「ファインダーを通じて被写体と向き合う」という、これまでの銀塩カメラのお作法を、ストレス無く執り行なうことが出来ることは、デジタル一眼レフと比べて軽量でコンパクトなカメラであるだけに、あらためて写真撮影の楽しさを思い出させてくれた。そして、LeicaM9, RicohGRXのライカMモジュールに続き、ローパスレスとなったX-Pro1のすっきりした画がうれしい。デジカメ独特のもっさり感が無くなった。

これからの季節、このX-Pro1を連れ出しての花と歴史散策が,一段と楽しくなるだろう。幸い梅も例年より2週間ほど開花が遅れているそうだから、焦る事は無い。春の訪れとともに一斉に開花する花々が彩る歴史の舞台、考えただけでワクワクする。





































(撮影機材:Fujifilm X-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)

2012年2月20日月曜日

Fujifilm-X Pro 1 遂にゲット!

 予約しておいた富士フィルムの新デジタルカメラ、X-Pro 1とレンズ三本(18mm, 35mm, 60mm)とグリップが、2月18日の発売日に送られてきた。久しぶりに物欲煩悩を激しく刺激する新ジャンルのカメラが、富士フィルムから出された。これまでのX100やX10とのシリーズ性を主張しつつも、撮影に本気出させる本格的な道具へと進化したシステムカメラの登場だ。ボディー、レンズ全てに誇らしげにMade in Japanの刻印があり、それが高品質、高品位を示すブランドになり、商材としても高い付加価値を生む事を証明しているのがうれしい。

 まず,開封。最初の印象。「デカイ!」 X100より一回りくらい大きいのかな?と思っていたが、チョットした一眼レフ並み、あるいはライカM9並のボディーサイズだ。いわゆるミラーレス機サイズを想像していたら,大きく期待を外される。実際、富士フィルムはこれをミラーレス機とは称していない。レンズも鏡胴が太くてまさに一眼レフ並だ。

 そのファーストインプレッションの衝撃は、ライカM5が発売された当時に,保守的なライカユーザがM3サイズを想像していたのに、そのサイズに裏切られた、と大騒ぎしたのに近いくらいのインパクトかもしれない。しかし、Xシリーズはこれでむしろ丁度手になじむ本格撮影機材となった感じがする(ライカM5も一番手になじむボディー形状だが)。

 今の日本製のコンデジやミラーレス機は、正直言って小さすぎる。扱いづらい。思いもかけずへんなボタンに触ってしまって,誤作動させたりしがちだ。カメラというものは両手でしっかりとホールドして撮影する道具のはずだから、極小化を目指す必要なんてないのに、やたらに軽小短薄を競って、世界最小、とか、歴代最軽量、とか、薄さを極限まで追求、だとか、余計な競争しなくていい。あげくにSonyのNexシリーズのようにボディーとレンズがアンバランスなデザインになったりする。道具はその適切な「形」が命なのだ。個人的には、程よい握り心地の大きさで,ずっしりした手応えのあるカメラが好きだ。

 少し気になる点は、スイッチオンで働くプレAFが、一生懸命ピント合わせようと、ギコギコ絶えずレンズを前後させる音(と,思ったら、絞り羽根を自動調整する音も重なっていた)。静かな所では結構耳につくだろう。全般にレンズの駆動音は大きめのようだ。

 ところでX-Pro 1はミラーレス機(そもそもこの定義もはっきりしないが)なのか?富士フィルムはそうでは無い,としているが、それではなんなんだろう。もちろん一眼レフ機ではない。じゃあ、レンジファインダー機か?まあ,カメラの分類学などどうでも良いのだが、敢えて言えば、ライカMシリーズのような古典的なレンジファインダー機のスタイルを継承した、あたらしいハイブリッドファインダー機かな?

 デジカメになってファインダーの存在意義が薄れてきた,という人がいるが、やはりキチッとした見えの良いファインダーは、写欲を増進するし、感性を刺激する重要なデバイスだ。そういう意味でミラーレス機が、一眼レフから文字通りミラーとプリズムファインダーとを取り除いたシロモノだとすると、なにかカメラから大事なものが無くなったような喪失感を感じてしまう。しかし、電子撮像センサー導入で、光学ファインダー(かなりコストのかかる仕掛けなので)省略が可能となり、大幅なコストダウンを実現したのも事実だ。

 一方、ライカMシリーズのような光学レンジファインダーカメラは、その完成度の故に(今でもライカM9は20世紀の技術をそのまま搭載している)、日本のカメラメーカーがとうとう追いこせなかった。したがって一斉に一眼レフに転換した歴史が示すように、ライカの独壇場だ。しかし、その見え方は職人芸並の美しいものではあるが、いかんせんデジタル時代には古くなってしまった技術だ。パララックス(視差、すなわちレンズ位置とファインダー位置のズレ)は欠点だし、レンズ交換毎に光学式のフレームをファインダー内に浮き立たせる仕掛けは、20世紀中葉当時は素晴らしい発明であったが、厳密なフレーミングは一眼レフのそれにはかなわない。

 そこで登場したのが、この富士フィルムのハイブリッドファインダーだ。光学式ファインダーの、美しく写欲を刺激する見え方と、正確なフレーミングで多様な撮影情報を表示出来る電子式ファインダーの両方を、一つの窓に切り替え表示する事により、20世紀的感性と21世紀的革新性を両立させる事に成功したのだ。これはすごい発明だ。日本の技術の素晴らしさを再認識させる画期的な発明だと思う。

 このX−Pro1は、ライカM9のような、伝統の光学技術を駆使したレンジファインダーと,デジタル撮像センサーを組み合わせた、いわばデジ/アナ混合カメラの将来形を指し示すカメラとなっているような気がする。次のライカM10は、光学ファインダーを捨てるのか。あるいはハイブリッドにして、ライブビューまで取り入れたカメラとして出てくるのだろうか。楽しみだが、そんな近未来型は、既に富士フィルムやリコーやソニーが世に出しているので,ライカはやはり最先端よりも伝統にこだわった製品を出すのだろう。ライカの命であるレンズやファインダーなどの光学系技術を最大限全面に押し出すのだろう。光学レンジファインダーは永遠なのかな? あとは価格に見合う価値をユーザーが感じるかだ。

 光学ファインダーと電子ファインダーを切り替えて使うのはX100から承継された技術だが、これにASPサイズのCCDと交換式のフジノンレンズ群を組み合わせる訳だから、かなり本格的な撮影機材に発展したと言える。電子ファインダーの見え方も格段に向上している。光学ファインダー切り替え時にも撮影情報は表示されるし、交換レンズによってフィンダーの画角と視野率も自動変化するなど、インテリジェントで素晴らしい出来だ。アイセンサーも付き、撮影スタイルとしてはレンジファインダー機的にも、背面の液晶でのライブビュー撮影を使ってコンデジ的にも、両方で行けるのが良い。

 同時発売されたフジノンレンズは18mm(27mm相当), 35mm(52mm相当), 60mmマクロ(90mm相当)の単焦点レンズ3本。写りについてはこれから見てみたいが、なぜ定番の35mm相当が無いのか?これはX100を買え、という暗示か?同時にX100ブラック限定モデルを発売し、X-Pro 1との一体性をアピールしていなくもない。もっとも今後、ズームを含むレンズラインアップは増やして行くそうだ。また、ライカMレンズアダプターも発売される。楽しみだ。

 デジタルカメラも、次々とその道具性に磨きをかけた秀逸な製品が増えてきており、銀塩カメラの金属質な手触りにしびれて、なかなかデジカメに移行出来なかった好き者も、そのフィルム感染症の度合いが徐々に薄れつつある。「一生モノ」とまではいかないまでも、かなり愛着の湧く、長く使える道具に進化しつつあるデジカメの世界に期待が膨らむ。

 このカメラからは、「カメラは家電製品ではないぞ」という写真機材メーカー、富士フィルムの強いメッセージが伝わって来る。銀塩フィルムというコア技術で生きてきた会社が、デジタル化に伴う技術イノベーションにより、そのコア技術を捨ててざるを得なくなり,新たなデジタル技術をコアとし、事業モデルを大きく変換させつつある。この辺が、連邦破産法Chapter 11適用、写真部門を閉鎖した、かつてのフィルム写真の巨人、Kodakとの違いだろう。

 5年ほど前、アメリカにいた時、大手光学機器メーカーの技術陣の方にこういう話を聞いた事がある。かつてはカメラメーカーには、カラーマネジメントという技術、ノウハウは無かった。メーカーの優劣は、そのレンズ性能(明るさ、解像度、収差、フレアー等)、シャッター精度(安定走行、高速化)、フィルム走行メカの信頼度、ファインダーの良し悪し、によって決まった。しかし、デジタルカメラ時代に入り、きれいな色味を高精細に出現させるのはフィルムではなく、カメラそれ自体(撮像センサーと画像エンジン)でなければならなくなった。デジタルカメラは、いわばフィルム付きカメラみたいなものなので、かつてのフィルムメーカーの有する基盤技術の中で、もっとも重要な技術の一つであるカラーマネジメント、すなわち「画造り」のノウハウを取得しなくてはならなくなった。そういう意味では、富士フィルムが長年にわたって蓄積してきた、カラーマネジメントノウハウを基盤にデジタルカメラ造れば、おそらく我々にとって脅威になるだろう、と。

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(開封の儀。ファインダーが正面右端に位置しているのはライカと同じ。しかし、光学式ファインダーを使わない限りパララックスの問題は無い。ファインダー左の目玉はAF補助ライトが。暗い所ではかなり明るく照射するので隠し撮りは無理。正面左のレバーは、光学ファインダー、電子ファインダーの切り替え用。)

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(操作ボタン類の配置はX100, X10をほぼ踏襲しているが、新しいボタン設定も増えた。親指位置のホールド感は良くなったが、Qボタンに不用意に触れてしまうことがある。ファインダーの視度補正ダイアルが無くなったのは何故?))

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(グリップとレンズを付けると結構なボリュームのカメラになる。レンズフードは角形。プラスチック製(と思ったら金属製だそうです)。18mmも同じ角形フード。)

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(軍艦部はアナログ的なダイアル配置で感覚的に扱いやすい。プログラムモードでは、シャッタースピードダイアルのA位置とレンズ絞りのA位置をセットする。シャッター速度優先では絞りをAに、絞り優先ではシャッターダイアルをAにセットする。おまかせモードやEXRモードはない。シャッターダイアルには真ん中にボタンがあり,これを押さない限り勝手に動く事は無い。露出補正ダイアルのクリック感はX10の方がある感じ。)