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2012年9月2日日曜日

えひめ内子町散策

 
内子座


芳我家住宅



 愛媛県の内子町は松山市からJR予讃線特急で約30分ほどの山の中にある。伝統的建造物群保存地域に指定されている八日市・護国地区は、その昔大洲と松山を結ぶ街道沿いに発展した街だ。江戸時代後半から明治にかけて、ハゼの実から取れる木蝋生産の中心地として栄え、品質の高い内子産のWaxは世界中に輸出された。江戸藩政時代は伊予大洲藩6万石の領地となり、一帯は典型的な中山間農村地帯であるが、伝統的に木材、木炭、コウゾ、ミツマタ、ハゼなどの林産物の集散地であった。また大洲藩は和紙を専売品とし、紙漉業者を中心とした家内手工業の街でもあった。

街並は、塗り籠めの白漆喰と黄土の大壁、なまこ壁、ベンガラ格子の重厚な建物が、約600mの街道沿いに、約120軒立ち並んでいる。このうち91軒が伝統的建造物として指定されている。

なかでも、明治以降に木蝋生産で財を成した上芳我邸住宅、その本家に当たる本芳我邸住宅などの豪邸が並び、この町がいかに経済的に繁栄したかを物語っている。さらに、大正5年に創建された木造の劇場、内子座は、その経済的繁栄が、人々に芸能、芸術、娯楽を愛する余裕を生みださせ、このような田舎に(失礼)、このような豪壮な劇場を残した。この他にも、伝統工芸の和蠟燭や、鋳物のろうそく立て等の工芸品を造る工房、和紙の店、塗り壁/鏝絵職人の工房、大正時代の薬舗を再現した店舗などが並び、美しい景観とたくみの里の雰囲気を保っている。

それにしても、このような街の景観や、内子座のような建築物を今に守り続ける地元の人々の努力は並や大抵ではないだろう。もともと昭和51年に街の住民の方からの発案で、まだ「景観」という言葉が定着していない時期に,早くも町の景観の調査、保存の動きが出てきたと言う。その後のいわゆるグリーンツーリズムの草分け的な町である。ドイツのローテンブルクと町並み保存に関して市民ぐるみの交流があるとか。ローテンブルクは以前行った事があるが、ロマンチック街道の美しい町である。日本が高度経済成長真っただ中の時代であった。なぜ日本にはこんな美しい町がないのだろう。古い物はドンドン破壊されて、若者は皆こぞって都会へ出て行く時代であった。思えば,私の町並み景観を巡る旅はこの頃始まった。そして、今、奇しくも伊予内子に至ったという感動を噛み締めている。

また内子座も、一時は老朽化で取り壊しが決まっていたようだが、これも住民の活動で,保存、再建がなされた。しかも、動態保存である。今でも、毎年8月に文楽公演、2年に一回歌舞伎公演が行われるとか。その他にも、様々な芸能や,地域のイベントに利用され、讃岐の金毘羅座にも引けを取らない有力劇場に発展しているところが驚きだ。

東京首都圏や大阪関西圏にも決して近くない,このような山間部の町に、これだけの文化的な遺産が、ただ静態保存されるのではなく,生活の場として動態活用されている様は驚き以外の何ものでもない。「観光地」としての経済効果を狙うなら、都会から人が押し掛けてくれなくてはならない。しかし、それでは、静かで落ち着いた佇まい、という資産が破壊されてしまう。経済的自立化と静溢な環境。この矛盾を解決する「町の活性化」はなかなか難しい。

内子を廻って感じたのは、やはりそこに住む人々がその日常の生活をこつこつと維持している事。そして皆で町の景観を大事にして、誇りの持てるコミュニティーを作り上げようとしている事。それが町を「動態保存」する最良の方法だということだ。行き交う人々の顔が皆明るくて、柔らかな事が印象的だった。中学生や小学生は,すれ違う旅人に「こんにちわ」と挨拶してくれる。学校や家でそのように教育しているのだろう。そしてそれをキチンと守っている子供達。

今回は時間もなくて,周辺の農村部を廻ることが出来なかったが、そこでも米作中心の農業から、新たな物流システムを活かした近郊農業へ転換し、田畑が荒廃するのを避けている。その美しい農村風景を維持しているほか、屋根付き橋や石畳の道などの、農村の生活資産を活かした,新たなエコツーリズムへ展開していると言う。

補助金や,観光客の落とすカネだけでは、美しい景観,安らかな佇まいは長続きしない。住む人の内なるパワーこそがこうした,日本の原風景を維持する(いや再生する)ことができるのだろう。そこにこれからの日本が、あたらたな価値を見出し、創造し、再生産する道があるのを観たような気がする。ITや交通の発達が、じつは上手に使えば,こうした価値再生産の手助けになるであろう事も感じた。




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(交通:JR予讃線(内子線)特急宇和海で松山から約30分。各駅停車だと約一時間。特急は一時間ごとに出ているので便利。岡山方面から来る特急に、松山で接続している)

























































































映画館





































奈落への道


周り舞台












(撮影機材:Nikon D800E, AF Zoom Nikkor 24-120mm)

2012年8月29日水曜日

今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた





残暑厳しいこの季節、大和路花散策の楽しみは元薬師寺のホテイアオイ。毎年この時期に地元の小学生が休耕田にホテイアオイを植える。ホテイアオイは日本の原生種ではないが、この飛鳥時代の大寺、薬師寺の廃墟跡を埋め尽くす様は、不思議に藤原京の栄華を彷彿とさせる光景となっている。

今は、金堂の大きな礎石が民家の庭先に並び、左右に西塔,東塔の土段と芯礎が残るのみの、寂寞感漂う元薬師寺跡であるが、その廃墟感と、それを埋め尽くす薄紫の涼やかな花の色、さらに、それを取り囲む一面の稲田の緑、青い夏空を背景にした大和三山の広がりという舞台設定。やはり「大和は国のまほろば」だ。

この薬師寺は、天武/持統天皇が,藤原京(新益京:あらましのみやこ)造営に伴い創建したもの。やがて、694年の遷都からわずか16年ほどで新都は廃され、平城京へとさらに遷都される。これに合わせて薬師寺も、平城京西ノ京の現在の位置へと移転する。しかし、平城京への移転後も平安時代頃まで、本薬師寺としてこの地に存続したようだ。

乙巳の変(645年)、白村江での敗戦(663年)、壬申の乱(674年)、と日本の歴史を変える動乱を経て、ようやく新しい国家体制が確立しつつあった時代。倭国の飛鳥から日本国の新益京へと脱皮した時代だ。日本の新たな転換点に創建された元薬師寺の跡を今はホテイアオイが埋め尽くす。


(元薬師寺金堂跡からホテイアオイの群生を楽しむことが出来る)




(元薬師寺の伽藍配置。金堂跡、東塔跡、西塔跡が現存している)






(藤原京配置図。天香具山、耳成山、畝傍山の大和三山に囲まれている。薬師寺の位置も確認出来る)