ページビューの合計

2014年1月16日木曜日

旧前田侯爵邸 〜東京の近代建築を巡る〜

 旧前田公爵家邸宅跡を訪ねた。現在はその広大な屋敷跡は駒場公園となっており、都心では貴重な緑濃い閑静な公園である。英国チューダー様式の洋館(昭和4年竣工)と書院造りの和館(昭和5年竣工)が並立している。和洋並立は明治期以来の大名華族家の邸宅の特色の一つである。洋館の方は関東大震災の後の建築なので鉄筋コンクリート造り。翌年完成した和館は純和風木造建築である。当時は東洋一の豪邸と称されたそうだ。

既知の通り加賀前田家の江戸本邸は本郷にあった。現在の東京大学本郷キャンパス、通称「赤門」のあるところである。その後明治に入り、前田家はこの本郷本邸の土地を東京帝国大学に提供、駒場農学校の土地の一部と交換し、邸宅を構えたのが現在の駒場公園となっている場所である。ちなみに駒場には現在、東京大学の教養学部と先端科学技術研究センター(いわゆる先端研)がある。これらはもともと農学校であったが、後に東京帝国大学農学部となる。さらに本郷キャンパス北の旧水戸邸あとに設立されていた旧制第一高等中学校と交換し、農学部は本郷に、旧制一高が駒場に移った。これが現在の教養学部である。

この建物や加賀前田家については、様々な書籍や案内で説明されているので、ここでの説明の繰り返しは避けるが、興味深いのは、この建物の隣に前田育徳会の建物と書庫がある。特に、ここの尊経閣文庫は日本の古文書、古美術など、国宝、重要文化財の宝庫である。歴史研究でたびたび登場する日本書紀の最古の写本はここに保存されている(残念ながら研究者以外には非公開だが)。前田の殿様は文化芸術の保護、育成、振興に歴代尽くしてきたことは、既知の通りだし、加賀百万石の城下町金沢を訪ねればその馥郁たる文化の香りが街にみちみちていることがすぐに理解出来るが、ここ東京においてもその片鱗を窺い知ることが出来る。関東大震災や戦時中の空襲にも関わらず、また明治維新時の混乱、戦後の混乱の中でもこれらの「文化財」が残ったことは、人類にとっての幸運であろう。これも前田家当主利為侯爵が早くからこれらの文化財を保護するために公益法人を設立して財団に移管し、私有物として散逸を防ぐ努力をしてきたことによる。名家には名家としての文化財保護に役割を果たして来た歴史と、それに伴うなみなみならぬ努力があったことの証だと思う。敬意を表したい。

なお、駒場公園内には日本近代文学館がある。また一角には柳宗悦の民芸運動の拠点、日本民芸館と柳の自宅であった北館がある。散策に楽しみの多いところだ。

目黒区の駒場公園のサイトに建物の詳しい説明がありますのでご覧ください。
http://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/koen/komaba.html



(チューダー様式の洋館)



(書院造りの和館)



(二階の書斎)



(テラスから庭園を望む)



(階段室のステンドグラス。)


























































スライドショーはこちらから→

(撮影機材:Leica M240, Elmarit 28mm, Summilux 50mm, Tri-Elmar 16-18-21mm)

周辺地図:

大きな地図で見る








2014年1月10日金曜日

新春放談 〜外来文化による日本史のパラダイムシフト〜

2014年が始まった。今年は日本にとって、世界にとって、そして我が家にとって時代を画する年となるのだろうか。我が家の方は小市民的な(しかし私にとっては大切な)イベントが幾つかありそうだが、「歴史の画期」などという大げさな出来事は無い。もっとも、自分自身を振り返るとサラリーマンとしてはいろいろな波乱の人生ではあった。特に国内市場に閉じ込められていた会社、事業モデルを、法律制度の枠を壊してを海外市場に進出させた10年プロジェクトは「画期的」と、今でも自負しているが、それでも基本的には、歴史の必然的なレールの上での出来事にすぎない。我が社にとっては画期的であったし、サラリーマン一個人としてはチャレンジングで納得のいく仕事をさせてもらった満足感はあるが、世界史的視点から見て、未開の荒野に新たにレールを引くような事業とまでは言えないだろう。そもそも歴史に関わるような仕事はしてこなかったのだし。

一方、日本を取り巻く情勢に鑑みれば、これからは東アジアが台風の目になるだろう。しかし今年が歴史の大転換の年になるだろうか?「歴史の画期」とはなにか?今だからこそ少し巨視的な目で日本史を振り返ってみるのも悪くないだろう。そもそも「今の日本」はどのように「今の日本」になったのか。東京に生活拠点を移した今年は、去年以前のように頻繁に歴史の現場へ「時空トラベル」にも出れなさそうだし、せめて机上で「日本史の画期」を振り返ってみよう。

「時空トラベラー」なりに日本の歴史を振り返ると、パラダイムシフトと呼べるような大きな画期は、分かっているだけで大きく5つあったと思う。

第一の画期(紀元前5世紀):稲作農耕・鉄器の伝来
•在地の狩猟・採集を中心とした縄文文化から大陸渡来の稲作農耕を中心とした弥生文化へ。
•ムラ。クニの出現。支配者、首長の出現。
•首長、豪族の中から農耕神の司祭者としての大王、のちに天皇の出現。
•自然崇拝アニミズムから人格神へ(タカムスビ、アマテラス、ニニギノなど)。
●中華王朝への朝貢、冊封という外交。

第二の画期(6世紀):仏教伝来
•文化的グローバリズムの始まり。
•寺院建設。仏像建立に伴う技術の伝播。異文化の可視化。
•多神教(八百万の神々)に対する一神教。しかし既存の神々と融合(神仏習合)化して取り入れる。
•鎮護国家思想による天皇中心の国家統治の強化。倭国から日本へ。
•中華王朝への遣使(朝貢/冊封ではない)のよる文化の接受(仏教思想・学問、律令制、都城建設、税制、文字、史書編纂)
•やがては遣唐使廃止(菅原道真により894年に)で国風文化(平安時代)。250年の太平の時代。

第三の画期(16世紀):キリスト教伝来と鎖国
•大航海時代の西欧文明との出合い(イエズス会宣教師、南蛮貿易、鉄砲伝来による戦争形態の激変)
•しかし、主に新しい文物と貿易利権に関心のあった権力者からは、最初は受け入れられるも、旧教と新教対立の余波もあり、排他的な一神教ととらえられ、最終的に排除される(禁教令、鎖国)
•その結果、皮肉にも鎖国→第二の国風文化(江戸時代)が花開くきっかけとなる。250年の太平の時代へ

第四の画期(19世紀):黒船来航、明治維新
・欧米文明の再来航(気がつくとポルトガル人やイスパニア人は居なくなって、イギリス人、オランダ人、ロシア人、アメリカ人が周りに)。
・欧米列強によるアジア植民地化の恐怖。東南アジア、中国(清朝)という反面教師。
・尊王攘夷による排外運動、倒幕、王政復古(天皇中心の政治体制復活という保守的な革命)から、積極的に西欧文明の摂取へ転換。
・明治維新。アジア初の近代国家へ脱皮(立憲君主制、富国強兵、殖産興業、不平等条約解消)

第五の画期(20世紀):太平洋戦争敗戦、「大東亜共栄圏」の破綻
•アジア植民地の解放、東アジアの盟主を目指した戦争。しかし、西欧列強と対抗した植民地争奪戦に。
•日本史上未曾有の大敗北(日本人同胞350万人死亡、人類史上初の核攻撃や沖縄戦、東京大空襲など都市爆撃による無差別殺戮、国土の焦土化。無条件降伏。国土が外国軍隊に占領され主権喪失)
•民主主義、自由主義、平和主義の憲法による再スタート。天皇制は象徴として残った。
•冷戦構造下、アメリカを中心とした西側アライアンス、資本主義経済体制に組み込まれた。
•アメリカの庇護のもと未曾有の戦後復興、経済成長。皮肉にも日本史上もっとも繁栄した時代となる。
•かつて、白村江の戦いの敗戦でも侵略されなかった。二度の元寇でも本土侵略食い止めた。大航海時代の西欧植民地化にも抵抗排除した。幕末/明治期の欧米帝国主義にも対抗していち早く近代化を果たし独立を守った。にもかかわらずこの結果...

こうして振り返ると、日本は常に外からの「文明の波」によってパラダイムシフトを起こして来たことが分かる。第二の画期までは、ユーラシア大陸の東の果ての海中に浮かぶ島国(シルクロードの終着駅)として、主に中華文明の波による画期であった。第三から第五までは急速に世界進出してきた西欧文明の波の受容、ないしは反発による画期であった。

日本は、中華的華夷思想によれば辺境の蛮夷の国、西欧的世界観によれば東の極み、Far east。いずれにせよ地の果つるところ、文明の果つるところであった。しかし、それは流入する文明を咀嚼し、既存の価値観と同化させ、消化(昇華)して独自文明を育む「文明のるつぼ」だった。古代東アジア世界とういうパラダイムでは「文明の発信地」にはなり得なかった日本。しかし、世界が変わり、新しい西欧文明が新文明として世界を席巻し、イスラム文明やインド文明、中華文明などが、旧文明と片付けられるパラダイムに転換すると、逆に、アジアにおいて、いち早く近代化を果たした日本は、東洋の文明と西洋の文明を適度に融合させた新たなる「日本文明」の発信地になって行く。文明は逆流する。

気をつけねばならぬのは、時として偏狭なナショナリズムや愛国心は、為政者が自分の失政や国内に内包する矛盾から国民の目をそらさせ、外部に生け贄の敵(スケープゴート)を作るために用いる常套手段となりうる事である。歴史や文化や文明は、そういう時に、都合の良い点だけ利用されがちである。そうではなくて、国家権力とは関係ない我々市民一人一人が、世界市民として生きる中でのアイデンティティーと品格と価値観を育み、真に尊敬される「人たち」として影響を与えることが出来る「文明」があるということ、むしろ「文明」とは決して国家(権力)が作り出すものばかりではないということを認識しておくことが大事だと思う。そして相互に排他的ではなく、多様で、共存しあう寛容なものであるべき事も。

それにしても、21世紀になってもいまだ国家間の闘争が終了していないこの時代、これからはアメリカ、中国という二大勢力の狭間で、日本はどのような立ち位置を築くのか考えざるを得ない。この地政学的な位置はこれからも変わらないのだから。その中でどのような「文明」を築いてゆけるか。「文明の衝突」ではなく、「文明の融合」という化学変化の場を提供できるのか。それこそ日本の過去の歴史から学べる「日本文明」の特色であるはずなのだから。和食文化、富士山信仰が新たな無形世界遺産に加わったことはうれしい。しかし日本固有のものを押し出すばかりではなく、「文明とは衝突し闘うものではなく、融合し昇華してゆくものだ」ということを示せないか。2020年の東京オリンピックを、どのようなO-MO-TE-NA-SHIを具現化できる機会にするのか。大きなチャレンジだが、同時にワクワクする。うまく行けば、第六の画期は日本発の「文明」によるものとなるかもしれない。





(奴国からみた伊都国の夕景。第一の画期、稲作農耕文化、弥生の文化は、大陸からここ博多湾にやってきた。今の福岡市から春日市にかけての存在したと言われる奴国の跡からは、日本最古の稲作環濠集落跡である板付遺跡、奴国の都邑である比恵遺跡、奴国王墓のあった須玖岡本遺跡など、稲作農耕遺跡、金属器製造工房遺跡、住居跡などが広範に見つかっている)

2013年12月26日木曜日

アマテラスは宮崎出身?それとも福岡出身?

 暮れも押し迫り、なんとなくばたばたと忙しい今日このごろである。この時期になると追い立てられるように忙しくなるのはなぜだろう。それほど年内に解決しておくべき重要な案件が山積している訳でもないのに。そして気ぜわしくなればなるほど、あの疑問が脳裏に湧いてくる。強迫観念のように。 そう、「なぜ記紀は筑紫をヤマト王権のルーツとして扱わなかったのか」という疑問。気ぜわしさを紛らわせ、歴史を巡る時空撮影旅行にも出掛けられないフラストレーションを払拭すべく、梅原猛の「「天皇家の”ふるさと”日向を行く」を読んでいる。しかし、面白いが、ますます謎が深まり、気ぜわしさやフラストレーションから解放されてリラックスするどころか、古い漫才じゃないけど「それを考えると夜も眠れない」状況に陥ってしまっている。なんとも厄介だ。

この本の基本メッセージは『記紀に記述された「日向神話」は、戦前の皇国史観への反発から史実とは無縁だとされているが、必ずしも荒唐無稽な建国神話として全てが排除されるべきではない。その神話の背景にある考古学的な発掘成果、地元に伝わる伝承などを丁寧に読み解いてゆくと、そこには神話として伝承されたストーリーの背景に、ある歴史的な事実が読み取れる』というものだ。確かに戦前の「八紘一宇」や「天壌無窮」などの国家主義的なスローガンの発祥の地として利用されてきた歴史を払拭したいとして、神話の史実性の全否定という態度に理解を示すことも出来る。しかし、戦前とは逆の意味で、もう少し冷静かつ客観的に理解しようとする努力も必要であろうという。たしかに筆者が言うように記紀に描かれた物語は決して、皇国史観の聖典として神聖視されてきた、品行方正で、勇ましい武勇伝の記録ばかりではなく、むしろ本能の赴くままに行動する人間のおおらかさや、残虐さ、愚かしさが至る所に記述され、国史としてカッコ良く編纂されているとは言えないところが目立つ。そういう太古の人間臭いエピソードに見え隠れする事柄の中に事実を見つけ出していこう、そのためには現地を旅して歩け、という。この点は「時空トラベラー」たる私のモットーであり、大いに共感する。

しかし、私が引っかかっているのは、そうしたニニギノミコトの天孫降臨に伴う「日向神話」に何ほどかの歴史的な事実が隠されているかどうかというより、やはり、記紀では、なぜ南九州の日向が稲作農耕文明である弥生時代の発祥の地であり、そして農耕神であるアマテラスの誕生の地とされているのか。考古学的に検証されている我が国における稲作農耕文明(弥生時代)の発祥の地である筑紫(九州北部)が、何故そうした建国神話・歴史に登場しないのか。言い換えると、なぜアマテラスは筑紫に生まれなかったのか、なぜニニギノミコトは筑紫に降臨しなかったのか、ということだ。明らかに大陸からの渡来人(渡来の理由はさまざまであろうが)が稲作の第一歩を記したのは北部九州だ。「天孫降臨」神話が海の向こうから渡ってきた弥生文化の到来をシンボライズするものだとすると、その地は北九州であるべきであろう。決して土着ないしは、南方から黒潮に乗って渡来したであろう縄文系文化の国ではないのではないか。

この本の第5章「アマテラスは宮崎出身?」に次のような記述があるのに目が止まった。
梅原猛は記紀神話を三段階に分けて考えていた。(1)イザナギ・イザナミに時代、(2)アマテラス、スサノオ、ツクヨミノ時代、(3)ニニギ以降の時代。(1)を縄文時代、(2)を弥生時代前半、(3)弥生時代後半から古墳時代と考えていた。記紀によれば、イザナギの禊から生まれたアマテラス、スサノオ、ツクヨミの三貴子は日向のアオキ原にて生まれたことになっている。これを梅原は、ニニギノミコト降臨の地が日向の高千穂だから、単にその話に合わせて三貴子の誕生も日向にしたのだろう、と考えた。それにしてもなぜ「日向のどこか」ではなくて「日向の橘の小門の阿波岐原」と場所を特定したのか疑問に思ったという。そして現地を歩くうちに、昭和34年に発掘された弥生遺跡アオキ遺跡が、その後の調査で、日向におけるもっとも古い稲作農耕遺跡(弥生前期)であるとする研究成果に行き当たった。まさにこれが稲作農耕神たるアマテラスがここで生まれたとする神話の根拠だという。すなわち(1)から(2)の時代への転換点がこの日向の阿波岐原であったことを「発見」したという訳だ。これはバビロン捕囚、ノアの箱船の歴史性、事実性を発見したのと同じ意味を持つのでは、と興奮している。

しかし、もう一度頭を冷やして振り返ってほしい。日本でもっとも古い稲作農耕遺跡は福岡市のの板付遺跡であり、唐津市の菜畑遺跡である、弥生初期の遺跡で、最近の弥生時代の始まりを確定する学術検証によるとさらに500年ほど時代をさかのぼる可能性も出てきている。北部九州から全国への稲作伝搬の速度は比較的速かったようだが、南九州や東北では、自然環境などによる稲作定着失敗で、元の狩猟採集の縄文生活に戻った地域も多いとの研究がある。日向最古の稲作農耕遺跡の時代再検証が必要だろう。こうした神話のストーリーと宮崎県の地名、遺跡とだけをつきあわせてみても、真実はなかなかわからないだろう。農耕神アマテラスは北部九州で生まれていたほうがつじつまが合うのではないか。

それにしても記紀では北部九州をヤマト国家発祥の地であるとする認識はみじんも見られない。「筑紫神話」の存在すらもない。魏志倭人伝に見える邪馬台国に関する記述も無い。こうして見てゆくと、どうも魏志倭人伝に記述のある、北部九州に発展した弥生文化や、倭国のクニグニは、後のヤマト王権とは異なるルーツではないかと思い始めた。大陸からやってきた「弥生人」たち(大陸や半島から何らかの理由で移住してきた民、当然生活の手段としての稲作農耕技術を携え、鉄器製造技術を伴い渡ってきただろう。今で言う華僑のような人たちもいたかもしれない)が狩猟採集を生業とする縄文文化系の土着の民と融合して出来たクニグニが筑紫倭国連合であったろう。魏の皇帝に柵封、支援された国家連合だ。もちろん今のような国境や国民国家概念はないわけで、海峡を隔てて、人々は様々な形での往来があったのだろうから、華人、韓人、倭人などの厳密な区分もなかったかもしれない。

そうしたコスモポリタンな北部九州倭国と、在地の部族や南方からの異なった文化を背負って移住してきた部族で構成される地域(南九州)との間には、様々な融合もあっただろうが、軋轢もあったに違いない。倭国争乱や邪馬台国と狗奴国との対立などはそうした背景から生まれたものなのかもしれない。記紀の記述になにがしかの史実が隠されているとすると、日向高千穂への天孫降臨やその子孫の東征伝承は、稲作弥生文化を南九州に持ち込んだ一族(これも渡来系であっただろう)が地域における支配権を確立し(海彦/山彦伝承)、さらに何らかの形で北部九州倭国連合を制圧した。それが狗奴国であったのかもしれない。がその後に勢いをかって東征し、近畿大和に進駐したものかもしれない。ちなみに記紀によれば神武天皇は東征の途中、北九州の岡田宮に3年も滞在していることになっている。

だとするとヤマト王権のルーツは狗奴国と言うことになる。そしてやがて近畿大和に入った狗奴国の王、神武と、その子孫達は、「ヤマト王権」確立のための闘いの歴史を刻んで行く。であるから記紀においてはヤマト王権に繋がらない筑紫倭国連合の邪馬台国や卑弥呼の事績は記述されなかったのだ。そのヤマト統一のプロセスにおいては、皮肉にも一族の故地・ルーツである地域の熊襲や隼人の抵抗が激しくなり、それが日本武尊や神功皇后や応神天皇の九州全域平定のストーリーへとつながってゆくことになる。

しかし、なお、それは本当か?という疑問を払拭しきれない自分が居る。古事記では、「天孫降臨」の地は、すなわちニニギが三種の神器と三神を伴って降り立ったのは「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」で「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」だと記している。これが筑紫(九州)の宮崎県の日向をさすのか(今はそれが常識になっているが)、それとも筑紫の中でも福岡県の伊都国や奴国のあたりなのか。福岡県の糸島地方(伊都国)の日向峠からは東に福岡市(奴国)、西に松浦半島(末羅国)、壱岐対馬を隔てて北には朝鮮半島を望むことが出来る。南には神の降り立つ背振山がそびえる。この近くには弥生最初期の稲作農耕遺跡である、板付遺跡や菜畑遺跡が見つかっている事は先述のとおりだ。ここは弥生文化の発祥、稲作農耕の神々の「降臨」あるいは「渡来」にふさわしい土地柄であるような気がするが。稲作農耕神アマテラスはこの筑紫に生まれたのではないのか?と...


(筑紫倭国のクニグニは、稲作を基幹産業とし、関連する鉄器製造や、生産物の流通、近隣諸国との交易など、弥生の経済大国としての存在感を誇っていた。ここ吉野ケ里遺跡に観る巨大な環濠集落やそれを取り巻く広大な耕作地、倉庫群はその筑紫倭国の繁栄を今に伝える遺跡だ)



(政祭一致の統治システムをシンボライズする巨大な神殿、3階の巫女が神の声を聞き、2階の王と有力者に伝え,意思決定をする。農耕神アマテラスとその執行者としてのニニギの関係を彷彿とさせる)



(こうしたクニの王は絶対君主ではなく、有力者達により共立された合議体の長であったのだろう。このようなクニグニの統治システムのうえには、倭国連合の女王として共立された邪馬台国の卑弥呼がいた)

2013年12月10日火曜日

錦秋の東京

 東京へ帰ってきてはや半年が過ぎた。大和路や京都の秋を愛でる気持ちはいささかも衰えないし、望郷の念に近いノスタルジアさえ覚える今日この頃だが、東京という近代的で忙しい大都会で、普段仕事や生活で行き来している皇居のお堀端や東御苑、東京駅赤煉瓦駅舎や行幸通り、日比谷公園を散策してみると、東京都心の秋もまんざらではないことを再発見する。もちろん名人の域に達する庭師や樹木医の手がしっかり入った京都の庭園や、自然のなかにおおらかに佇む奈良大和路の紅葉・黄葉は本当に美しい。しかし、ヒートアイランド化した都心の数少ない緑の中に点在する「錦秋」の発見は、その意外性もあってか、大きな感動を覚える。日常の雑事に忙殺される都会生活の中で接する非日常体験である。その気になれば、いたるところに「美」を発見することが出来る。江戸の武家文化と、明治の帝都東京の名残が、現代のGlobal Village Tokyoに確実に引き継がれている。

日比谷公園の紅葉・黄葉





(撮影機材:Nikon Df+AFS Nikkor 28-300mm, SONY RX100)



2013年12月3日火曜日

Nikon Df 降臨! 〜Ai Nikkorレンズ群 撮影最前線に復活!〜

ついにやって来た!Nikon Df! 厳かな箱に入った新たな守護神の降臨だ!「開封の儀」ももどかしく開封。ちょっと肥満体型になったFM3がそこに鎮座ましましている。寒い外気に冷やされて配送されてきたフュージョンの神は、触れるとひんやりして液晶画面がたちまち曇った。一眼レフの象徴である誇らしげなペンタ部と、そこに刻印されたNIKONのロゴは、由緒正しきF3の血統を受け継ぐものだ。これぞカメラの天ツ国から降臨した、まごうこと無き「天孫族」の子孫。しかし、こうして下界に下りたからには磐座に鎮座するのではなく、「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」の活躍を期待される神だ。ちなみに、このDfを下界に勧請するにあたり、これまで守護神であったDXフォーマットのNikon D300ボディー+AF Nikkor28-300DXのセットを下取りに。天上界へお返しした。永らく我が写真道をお導きいただき感謝。


(ニコンDfカタログより)

まず手に持つと、思ったより軽い。Leica M240より軽い。そのゴツゴツとしたメカニカルな形状からは想像できない。そして、シャッター音が軽快で静か。セクシーな響きが撮影の満足感を満たす。さらに軍艦部のアナログな操作系が写真撮る意欲をかき立てる。露出補正ダイアルが左にあって、右手親指でクリック操作できない不便さも、Fシリーズからそのまま継承されている!しかし、背面液晶パネルでのデジタルの操作性も確保。その形状イメージに比べ、グリップがむしろ小さい感じ。D800の握りの感触と比べるからだが、往年のF3やFM3を考えるとホールドは良い。ファインダーは明るくて見やすい。ミラーレスのようなEVFではなく正当な光学プリズムファインダーだ。マニュアル撮影でピント合わせが楽だ。しかし、ちゃんとフォーカスアシスト機能もついている。

そして、ワクワクするのは、フィルム時代のAi Nikkorレンズ群の撮影現場への再登板だ。F3, FM,FEで活躍したレンズが生き返る。AFデジタル族に滅ぼされた銀塩マニュアルフォーカス族たちがよみがえる。もちろんD4やD800でも使えるのだが、Dfのデザインは、わざわざ旧ニッコールを装着するために生まれて来たようなものだ。お気に入りは、Ai Nikkor 50mm f1.2。早速装着して試写。開放のボケが何とも言えない。これはまだ現行レンズだ。これより古いAuto Nikkor 55mm f1.2も使える。話題をさらった35−70mmのクラシックズーム(通称ヒゲ)も使える。稀少な105mmf1.8の太い鏡胴が不思議なフィット感を醸し出す。発売当時、大人気で品薄だった28−85mmズームは、まるでDfの登場を予測していたかのごとき絶妙のバランス感だ。「ニッコール千夜一夜」に登場するニコン技術史のランドマーク的レンズ群がデジタルで復活する。

驚いたのは、フィルム時代の設計のレンズがフルサイズCMOSセンサーでとても味のある写りをしていること。コントラストでは最新のナノクリスタルコートレンズに一歩譲るにしても、決して古さを感じない。むろんノスタルジックなテイストではあるが、むしろ単焦点レンズの味、ズームにはない新鮮な写真表現を再認識させてくれる。なによりもそのレンズ鏡胴の細身で金属質な造りが懐かしい。フラッグシップカメラD4と同じセンサー、画像処理エンジンを搭載している。D4と比較したことは無いが、画質は非常に私好みのしっとりしたものにチューンされている。画素数を少なくしたフルサイズセンサーだけに、一画素あたりの光量が確保できているので、諧調、高感度特性に優れる、ってスペックを語る人も多い。その通りだが、むしろ余裕のあるCMOSセンサーを往年のMFレンズでも十分に生かしきれるところがうれしい。

よくニコンは、かたくなにFマウントを守ってくれたものだ。知らず知らずに防湿庫に蓄積されたレンズ達が、過去のものとしてジャンクにもならなず、我が家のレンズ資産として価値を維持し続けてくれることに感謝する。これはライカのL/Mレンズ群も同じだ。マウントアダプターも楽しいが、どこか邪道感に苛まれる。写真って、ロジカルなものではなくイモーショナルなものだ。ともすれば技術オリエンテッドでスキの無い合理性を追求して来た印象のあるニコンだが、そのDNAを活かしつつも、ユーザのノスタルジックな感性を呼び起こさせてくれるDf。大いに歓迎する。まさに温故知新の「時空トラベラー」カメラだ。





(早速、Ai Nikkor 50mm f1.2絞り開放で撮影。ピントは来てるがふわふわした紅葉の輪郭とボケが独特だ)



(同じシーンを,最新のAF-S Nikkor 28-300mm Gで撮影。やはりシャープでそつのない画造りだ)



(以降は最新28−300mmで撮影。皇居お堀端の光景。望遠側で撮影した鷺と鵜のシルエットもさすがにシャープ)



(日比谷通りを望遠側で撮影。グリップが少し小さいが望遠手持ちでもホールド感は悪く無い。)



(皇居東御苑の松と石垣のコントラストと、ほんのりとしたグラデュエーション。諧調豊かなデジタル「フィルム」の為せる技。)