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2016年4月4日月曜日

大和路桜紀行(1)氷室神社・東大寺・若草山・春日大社

氷室神社のしだれ桜
奈良で一番に満開となる


 3月下旬から4月初め、毎年この季節になると、慌ただしくて心が落ち着かなくなる。木の芽時で精神状態が不安定になるからではない。年度末と新年度開始という会社人間にとって節目の時期であるという理由でもない。そう、今年は桜がいつ開花するのか?いつ満開になるのか?雨は降るのか?人出は如何に? ニュースと天気予報に食い入る毎日だ。桜を堪能できる時間は短い。その限られた時間で最大限桜を楽しもうという忙しさ。まさに桜狂想曲の始まりだ。連日SNSは桜の話題が満載だ。

 今年は3月20日頃に開花したものの、寒の戻り、冷たい雨などで、結局満開は4月に入ってから。2、3日の週末に一気に気温も上がり満開となった。しかし例年よりも遅い満開である。しかも、冷たい雨が金曜日に降った。花見宴会組には厳しい状況であった。

 私の今年の「日本の原風景、桜を求める旅」は奈良大和路と決定。いつも「桜紀行は京都へ」を考えないわけではない。今年も当然考えたがこの季節に京都の桜の名所は凄まじいことになることは想像に難くない。関西在住時には醍醐寺や嵐山、三尾の桜を楽しんだものだが、桜を見に行ったのか、人を見に行ったのかわからない混雑ぶりに突入するなら、何も京都くんだりまで足を伸ばさなくても東京の桜の名所で十分だ。基本的に、人出を避けて静かに桜花を愛でる、というこの時期相矛盾した条件を満たそうとするからいつも苦労する。大勢の人が出てワイワイやってる花見を楽しむのも一興だが、理想は人知れず咲き誇る山里の桜観賞なのだ。

 新大阪行きの新幹線車内、そして到着した京都駅構内、その外国人観光客の怒涛のような有り様を見れば、この時期に限って京都が私にとっては「心の旅」を求めて出かけるところではないことが理解できる。今話題の爆買い中国人御一行様ほか、韓流カップル韓国人御一行様、そしてナイコンを首から下げたバックパック欧米人御一行様も、今年は半端でなく発生している。新幹線のグリーン車はほぼ「欧米か」に占拠されていた。ちなみにめでたく「ジパング倶楽部会員」となった私は、3割引料金で「ひかり」のグリーンに乗れる特権を享受しているわけだが、考えることは皆同じ。シニア世代の団体、カップルが大勢グリーン車の客となっている。しかも訪日外国人はジャパンレイルウェーパス(昔ヨーロッパ旅行に必須の一等車に乗れるユーレイルパスと同じ)を持っているので、これまた団体、個人を問わず大挙して「ひかり」グリーン車に押しかけてくるというわけだ。

 この一団が申し合わせたように、ドット京都で下車する。「京都の桜も捨てがたい」という未練がましい迷いを振り払うことにする。ということで混雑「想定内」の京都を避け、やはり奈良大和路へ。京都駅から近鉄に乗り換えた。しかし、チと「奈良は意外に穴場」想定が甘かったことにすぐ気づかされることになる。今年の奈良はいつもと違った。奈良公園、大仏殿、春日大社などの定番スポットは、これまた外国人観光客に占拠されている。東大寺の駐車場には大型観光バスが列をなしている。道という道は大渋滞。いつもなら幅を利かせている関西弁も、ナンチャッテ「東京弁」も影を潜める。聞こえてくるのは北京語、広東語、台湾訛りの中国語、韓国語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、それに不可思議なヨーロッパ諸国語ばかり。とうとう訪日外国人が年間2000万人を突破したというから、奈良ももはや「意外な穴場」ではない。観光客がみんな京都に吸い取られる時代は終わったようだ。いや京都から溢れ出始めたのかもしれない。経済効果としては嬉しいことだし、日本ファンが増えることも嬉しい。

 しかし、私の密やかなる楽しみ、心の大和路紀行が「観光客」に踏み荒らされるのはいやだ。外国人かどうかに関わらず、そもそも「観光客」というもの自体が、けたたましくも品がない。旅は人を開放的にするし、それはそれで良いのだが、ともすれば「旅の恥は掻き捨て」。受け入れる側もそんなこと分かっていて、「おもてなし」「Welcome!」「歓迎光臨!」といいながら、「金落とせ!」「Spend more money!」と、これまた品がない。日常を離れて非日常の世界を楽しむためにやってきたこの私、品格が服着てカメラ持っているような(!?)この私としては物欲煩悩の世界をここでも見せ付けられるのは楽しくない。旅という非日常の中、その土地の日常をひっそりと楽しみたいのだが。桜の季節は限られているだけにこうしたジレンマに苛まれることになる。どこかから「勝手な観光客はお前だろ!」という声が聞こえたような気がした。

 ともあれ、奈良で一番に開花、満開となる氷室神社のしだれ桜を観賞し、東大寺大仏殿脇の、いつもの二月堂への道を歩く。そこからは勝手知ったるルートで若草山、春日大社、春日若宮、禰宜の道をぬけて新薬師寺、高畑町界隈を散策。入江泰吉記念館は本日休館日。残念。ということで足早に奈良市内を後にして、翌日は当麻寺、明日香へ向かうつもりだ。さすがにここまでくると外国人観光客はいないだろう。もっとも近鉄桜井駅で、欧米観光客の一団がガイドに伴われて移動するところに遭遇してしまった。すごいな!何見に来たんだろう。まさか邪馬台国ツアーじゃないよな?! こうしてやがては穴場は穴場として有名になり、もはや穴場で無くなって行く。

柳の新緑が美しい大仏殿

大仏殿参道

二月堂へ向かう道
コブシの巨木

二月堂へ向かう道
南大門、大仏殿の喧騒を離れて静かに散策できる

若草山から大仏殿

興福寺五重塔が

春日若宮
椿が盛りだ


春日大社の燈籠
新薬師寺への道
レンギョウの黄色が桜と良いコントラスト
ここまで来るともはや観光客の姿はない







2016年3月14日月曜日

私の「三都物語」 〜「青い鳥」を求め Tokyo、London、New York、そして... 〜

 夢を求めて故郷博多を離れた私は東京へ。そしてそこからロンドンへ、ニューヨークへ。まさに「昨日、今日、明日」の「三都物語」が書ける人生であった。今思えばそれは長い旅路であったような、短い一瞬の出来事であったような。グローバルな24時間ノンストップ金融市場、その三大センターを渡り歩いた訳だ。その間、金融市場としての東京の地位は大きく低下したものの、それでも世界を代表する経済センターの一つであることにかわりはない。その三都というステージで広い視野を養い、日本のICTをworld class serviceとして世界視野で展開するという、高い目線で仕事をすることができた。とりわけ、あの高度経済成長の時代が終焉を迎え、少子高齢化が急速に進むなか、日本国内市場の成長の先行きが見えた。不可避的に海外市場への進出を選ばざるを得ない事業環境。加えて基幹サービスのコモディティー化に伴い、高付加価値サービスを求めて異なるレーヤーのサービスへの進出し、ビジネスモデルイノベーションに挑戦することが求められる経営環境。その双方の要請からもグローバルな事業展開を20年前にいち早く着手したことは、先見性があったものと自負できる。そういう意味ではビジネスマンとしての幸せの「青い鳥」に出会うことができたと言って良いだろう。

 しかし、私の「三都物語」は何の予告もなく終わりを告げる。ニューヨークにいた私は、突然日本に引き戻された。一本の事務的な電話で。

 帰国後の会社人間としての人生は、これまでのような膨らむ勝利への期待と、それに付随するリスクがないまぜとなるようなワクワクするものではなかった。いわばリタイアーに備えた閑職。しかも帰国するとまもなく大阪へ異動させられた。もちろん大阪が国内事業の重要な拠点であることは間違いないが、海外事業畑の私にとって「なんでやねん」の転勤だ。周囲の人々の驚きもモノかわ、人事異動は淡々と進められてゆく。経済的には定年までのサラリーマン人生を不自由なく過ごさせてもらったので文句言う筋合いではないのだろうが、もはや新しいプロジェクトを企画し、事業を起こし、それをリードする立場にもなく、新任地はそういったロケーションにもない。海外で築きあげた人脈や経験を生かす術はもはやない。結局、「組織人」たるサラリーマンは「ビジネスロジック」だけで動かされるのではない。組織には経済合理性だけではない様々な確執が存在し、そこには別の「えも言われぬロジック」が働くものだ。従っていまさらそれを理不尽だとか、不合理だとか言って嘆くつもりもない。

 いずれにせよ、時差をモノともせず広い世界を飛び回る生活、異なるメンタリティー、多様なビジネススタイルの人たちとのつばぜり合い生活は突然終わった。これまでしゃにむに走り続けていた自分が、前のめりに転びそうになるほどの急ブレーキであった。毎日定刻に出社して定刻に帰るという、「スーダラ」サラリーマン生活の経験はこれまでない。昭和型「モーレツ」サラリーマン生活(その時はそうは思わなかったが、振り返って切るとアレが「モーレツ」だったんだと)と、多くの時間を空港と機内で過ごす「国境なき」サラリーマン生活を過ごしてきた。その落差は急激なものであった。大阪本社ビルの最上階に役員個室が用意され、毎日秘書が運んでくれる新聞を読み、お茶を飲み、法令で求められる形式的な会議に出席する。文字通り「窓際」から大阪の街を展望するのを心の癒しとする。マンハッタンのオフィスから展望する都会の景色とある意味で重なる部分もないではないが、その心象風景は大きく異なる。ぽっかり空いた心の空白。なんと平和で居心地の良い「座敷牢」生活...

 しかし、そうして心のカタルシスを強制され、煮えたぎっていた血肉、熱き心が冷めて行くにつれ、私の脳は戦時モードから徐々に平時モードへリセットさてれていった。そう、彼らの筋書き通りに事は運んだ。そこで私は、新しい世界を発見した。路傍に咲く雑草のたくましさ、名も無き花の美しさに気づいた。いや、普段見慣れたはずの風景に今まで気づかなかった新しい価値、美を再発見した。関西という土地柄はそういうリハビリには誠に適切な時間を提供してくれる。ここはなんというculture richな土地柄だろう。ここに佇み、たっぷりとした時間を過ごすと、日本という国・社会の成り立ち、世界史の中での立ち位置が見えてくる。そのはるか時空の線上にはナニワ、ヤマト、ミヤコ、そして遡ればはるかにツクシが見えてくるではないか。稲作農耕社会たる弥生倭国の姿が浮き上がってくる。美しい風景はただ美しいだけでなく、それは長い時間の経過のなかで熟成され、そこに育まれた文化と、人間の欲望に基づく闘争の歴史によって形作られた原風景なのだから。そこには短い時間の中で移ろいゆく栄枯盛衰の繰り返しではなく、変わらぬ不動の時間が確かに存在している。

 こうして日本の文化と歴史というこれまで当たり前で、振り返ってみようともしなかった世界をふと垣間見てしまった。「日本の心」などという日本観光のキャッチフレーズのようなキーワードがリアルに蘇ってきた。そうだ、これからは使用言語を英語から関西弁に切り替えて、大阪、京都、奈良という新たな三都物語を紡いで行こう。それはその先にある博多・太宰府という筑紫倭国の世界へと繋がってゆく。こっちは博多弁、ネイティヴ言語だ。ユーラシア大陸の東の果ての海中に存在する日本、倭国という小宇宙。それは私の人生にとっての「新しい冒険のパラダイム」。再び「ワクワク」の世界が広がってきた。

 幸せの「青い鳥」は遠くの見知らぬ異国にいるのではなく、この日本という身近なところにいた。故郷を出て「青い鳥」を探す旅路の果てに夢半ばで帰り着いた故国に、それを再発見した。だが、話はそこで終わらない。 メーテルリンクの「青い鳥」は、最後には自宅のカゴから逃げ出していなくなってしまう。結局は、この話はよく解説されているような「遠くの幸せを夢見るのではなく日常の生活の中で幸せを見つけよ」という単純な教訓話ではない。真理の探究心はとどまるところを知らず。やはりハングリーに新たな三都物語を目指して旅立つしかないのだ。

追記:

 これまでの自己意識は、戦闘モードに耐え抜き、結果を出して他人に認められる(認めさせる)、すなわち他人による「承認」を求める精神構造に基づいている。しかし、過ぎさって見ると「他人の承認」ではなく、「自己の承認」という自らの普遍の価値の発見に向かう自己意識があることに気づき始める。それは人との競争、共存やコミュニケーションからではなく、自らの内面の観照から生まれるものである。それは時として孤独な世界に引きこもることになりがちではあるが、人が認めるものが良いものなのではなく、自分が良いと思うものが一番良いという意識、精神構造に基づく自己意識である。これは煩悩からの解脱とも違う。唯我独尊とも違う。まして価値絶対主義でもない。普遍的価値というものも実は相対的なものである。人が認める普遍性と、自分が認めるものが異なっていることは常にある。しかし、いわば人の評価に依存せず、自分の評価に基づいて自分の普遍的価値を見出すよう物事を意識して行こうということだ。



我々日本人はどこから来てどこへ行くのだろう
過去から未来へという時の流れの「今」という一瞬を切り取ることはできるが...

縄文遺跡「大森貝塚遺跡」にて





2016年2月25日木曜日

妙心寺退蔵院再訪 〜そして太宰府観世音寺の兄弟梵鐘に再会〜

妙心寺山門


 京都花園の妙心寺は、室町時代の1342年、花園天皇が落飾して法皇となり、花園御所に開基した寺である。山号を正法山という。臨済宗妙心寺派の総本山。全国の臨済宗6500ヶ寺のうち3500ヶ寺を有する最大の宗派の総元締めだ。鎌倉時代に栄西が中国から臨済禅を持ち帰り、最初に我が国に創建した禅寺が博多の聖福寺である事は以前のブログでも述べたが、この「扶桑最初禅窟」聖福寺も、のちの江戸時代に筑前藩主黒田家の意向で、建仁寺派から妙心寺派に変わっている。

 妙心寺は七堂伽藍、40余の塔頭からなる広大な境内を有する京都でも有数の大寺院である。しかし、京都五山の一画を占める禅寺ではない。室町幕府は主要な臨済宗の禅寺を庇護・統括するために五山十刹を指定した(南禅寺を五山の上位に置き、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山といい、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の鎌倉五山とは分けて定めた。)。これらの寺は禅林と呼ばれた。一方これらとは別に林下と呼ばれる禅宗寺院があった。幕府の統制下から離れ、在野にあって厳しい修行を旨とする禅寺で、妙心寺や大徳寺はこの林下である。



堂々たる甍の伽藍群


法堂
ここに狩野探幽の雲龍図と国宝の梵鐘がある

(1)退蔵院

 妙心寺境内には40数か院の塔頭があり、広大な寺域はさながら寺内町の様相を呈している。石庭で有名な京の観光スポット、龍安寺も妙心寺の域外塔頭だと今頃知った。しかしそのなかで一般に公開されている塔頭は退蔵院、桂春院、大心院の三院のみだ。

 学生時代、わが故郷の筑紫太宰府の観世音寺にある日本最古の梵鐘と兄弟鐘が京都妙心寺にあると知り、歴史好きの私としては是非一度見ておく必要があると考えた。やはり冬の寒い時期であったと思う。博多から列車を乗り継いでの京都旅行でようやく訪問できたわけだが、肝心の梵鐘の方はあまりしっかり鑑賞した記憶が残っていない。たしか鐘撞堂に、観世音寺と同じ形の鐘を見て「ああこれか...」と思っただけだったのだろう。むしろその折に訪れた塔頭の一つ、退蔵院の枯れ山水庭園のシンプルで静かなな佇まいに心奪われてしまった。それ以来ずっと京都の侘び寂びイメージの原点として心に残り、いずれまた訪ねてみたいと思っていた。今日、ようやく45年ぶりの再訪となったわけだ。

 現在は結構有名な観光スポットになっているようで、この時も「京の冬の旅」と銘打ったツアー(シニア層ばかり)の一団で賑わっていた。となりの普段は公開していない霊雲院が限定特別公開中で、こちらはさらに賑わっていた。しかし境内に一歩入ると、建物内、庭園すべて撮影禁止。縁側や襖絵や柱にまで「撮影禁止」の張り紙がベタベタと貼られていて少々興ざめ。マナーの悪い撮影者から場の雰囲気を守ろうということなのだろうか。それとも... 何を守ろうとしているのかよくわからないが、結果的には禅寺の雰囲気が「張り紙」という雑念に邪魔されてしまった感が有る。残念だ。

 退蔵院の方は撮影OK。狩野元信作庭と伝わる枯れ山水の庭と、禅問答の公案を題材にした瓢鮎図(本物は京都国立博物館に寄託され、ここにあるのはコピー)が有名。この日は2月下旬のいかにも京都らしい冷え込み厳しい一日で、美しい花々や、桜、新緑、紅葉を楽しむ季節ではなかった。しかし禅寺に色彩を求める必要はなさそうだ。このモノトーンの観念的で抽象化された景色の中に様々な心象世界が見えてくる。ただ、東屋の脇に佇む紅白の枝垂れ梅と、黄色い花をつけたマンサクが精一杯に咲き誇り、控えめだが色を添えていた。なかなかよろしい風情だ。

 こうして禅寺という空間に佇み、冬枯れの庭園を眺めながら、学生の時からどれくらい成長した自分に出会えたのかはなはだ心もとない。だが、世界を駆け巡った忙しい社会人人生に区切りをつけて、資本主義のロジックと組織人のロジックの狭間で呻吟する世界から開放され、具体的かつ問題解決型(それを戦略的と言ってきた)の意思決定を強いられる日常からも離れ、抽象的な観念の世界の入り口に立ってみる。その先には、学生時代に見たものとは別の新しい宇宙が広がっているような気がした。まさに「小さな瓢箪で大きな鯰を捕まえるにはいかにすべきか」との問いは、これまで日々解決を求められてきた現世的煩悩にまつわる課題とは大いに異なることに気づかされた。


退蔵院


陽の庭

陰の庭

方丈

元信の作庭の枯れ山水
一般公開のエリアからは一部しか見えない

瓢鮎図:如拙筆
国宝 京都国立博物館蔵



(2)日本最古の梵鐘

 ところで妙心寺の梵鐘である。先ほども述べたように筑紫太宰府の観世音寺との兄弟梵鐘と言われている。鐘の銘文には698年文武天皇の時代に筑紫糟屋郡(現在の福岡市東区)で鋳造されたとの記述がある。鋳造年がわかる最古の鐘である。観世音寺の鐘と同じ型から鋳造されたものと考えられているが、最近の研究で、観世音寺の鐘の方が20年ほど古い鋳造であることがわかっている。両方とも国宝。現在、オリジナルは法堂に収蔵されており、鐘撞堂に吊るされているのはレプリカ。なんかお堂の片隅にひっそりと安置されていて、CDで音色を再生するのは寂しい気がする。老朽化が激しく保存のため致し方ないとはいえ。なぜかこれも「撮影禁止」。

 一方、太宰府観世音寺の梵鐘はほぼ創建時の伽藍配置にしたがった鐘楼に現在もつるされている。国宝が金網でこそ囲ってあるものの、風雨にさらされた屋外に普通の鐘然としてぶら下がっている。同じ年代なのにこちらは老朽化してないのだろうか?あるべき場所にある姿が、往時を思い起こさせて好きだが、ちょっと心配になる。この鐘は、毎年の大晦日の除夜の鐘としても親しまれている。また毎月15日の午後一時にも鳴らされる。「日本の音百選」にも選ばれている。妙心寺の兄弟鐘の現状を知るにつけ、1300年の時空を超えて今でも黄鐘調の音高を聞けるのは太宰府の里人の特権なのだということを知る。もちろん「撮影禁止」などの張り紙もないことは言うまでもない。


太宰府観世音寺の鐘楼。オリジナルの梵鐘が元の位置に置かれており、
毎月15日にはその音を聞くことができる。
妙心寺の鐘楼。中の梵鐘はレプリカ。
オリジナルは保存のため法堂に安置されている。

(3)兄弟鐘の謎

 考えてみると7世紀後期の飛鳥時代の鐘が、なぜ14世紀室町期に創建された妙心寺にあるのだろうか? 筑紫太宰府の観世音寺と京の妙心寺との間には距離的だけでなく時間的隔たりがあり、なぜ両寺が兄弟鐘を共有しているのか不思議だ。またどういった経緯で筑紫の糟屋郡で鋳造されたのか?そして筑紫生まれのこの鐘はどのように渡ってきたのだろう。空白の700年を辿ってみたい。

 鎌倉時代の吉田兼好の徒然草にこの鐘のことが触れられている。それによればこの鐘は京の淨金剛院という寺の鐘で、その音色は雅楽の黄鐘調である、と記されている。やがて時代は下り、室町時代に入ると淨金剛寺は後述のごとく廃寺となる。その鐘を地元の民が売りさばこうとして荷車で運んでいたのを、妙心寺の僧が見つけ引き取ったと言い伝えられている。

 ではその淨金剛院とはどのような寺なのか? 鎌倉時代、後嵯峨天皇が嵯峨離宮に創建した浄土宗の寺院だという。1272年の後嵯峨天皇崩御後はこの寺院に葬られた。またその子亀山天皇も崩御後はこの寺に埋葬された。そののち室町時代に入ると、寺域は足利尊氏が天竜寺を造営するために再開発され、その際に淨金剛院は廃絶された。さらに時代を下り、江戸時代になって幕府により山陵の特定作業が進められ、後嵯峨天皇陵、亀山天皇陵が現在の地に定められた。すなわちこの天皇陵があるところがかつての淨金剛院跡であるということになる。

 また鎌倉時代に著された「とわずかたり」という後深草院に使えていた女官の日記がある。ここに後深草院が淨金剛院の鐘の音を聴き、かつて平安時代に太宰府に流された菅原道眞が観世音寺の鐘の音を聴きながら読んだ漢詩「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繋/何為寸歩出門行(『不出門』)」の一節を口ずさんだとするエピソードが記されている。京の淨金剛院の鐘の音が、筑紫太宰府の観世音寺の鐘と同じ黄鐘調の音高であることを当時のみやこ人は知っていたのだ。この飛鳥時代の鐘の黄鐘調は「無常感」を表す音色であるという。後世に創建された京のみやこの他の寺の鐘の音と聞き分けられたのであろう。

 さて、この鐘の歴史を鎌倉時代までさかのぼることはできたが、淨金剛院に至るまでの500年余の旅路は依然として謎だ。そもそもどこの寺に奉納するために鋳造されたのだろう。7世紀末期に創建された筑紫太宰府の観世音寺は、天智天皇が筑紫で崩御した母である斉明天皇を菩提を弔うために創建した勅願寺であり、奈良時代には鑑真によって戒壇院が設けられるという「官寺」である。そこに奉納された梵鐘の片割れはどのように山城国葛野(かどの)の地(7世紀後期は飛鳥時代でまだ平安京も京のみやこもない)に運ばれたのであろうか。あるいは飛鳥京や近江京、藤原京、平城京あたりを転々とした挙句に平安京にたどり着いたのだろうか? 後嵯峨天皇はどこからどのような経緯でこの鐘を入手して淨金剛院に奉納したのか? 歴史の糸はここで再び途切れてしまった。ドラマのフィナーレじゃないが「この謎解きの挑戦はまだ始まったばかりだ。終わりのない旅はまだまだ続く」だ。

 2010年に太宰府にある九州国立博物館で両方の鐘を並べて鳴らし比べをする、といういイベントがあった。こんな機会はもう二度とないだろうと思うと行けなかったのが残念だ。YouTubeで聴き比べができる。デジタル化された音でどれくらいノイズ、倍音、揺らぎが再現されているのかわからないが、この兄弟鐘の黄鐘朝の音高が同じであるような気がする。ぜひ本物の聴き比べをしてみたかった。

妙心寺/観世音寺両方の鐘が一堂の展示され鳴らされるのは貴重だ
(九州国立博物館HPより)
九州国立博物館「妙心寺鐘、観世音寺鐘 鳴鐘会』


YouTube名鐘会での聴き比べ



妙心寺/退蔵院の点描写真集


紅白の枝垂れ梅
退蔵院余香苑

マンサク


白梅

境内の道
背景に衣笠山が

幼稚園児のお散歩

佐久間象山の墓所へ向かう道
特別公開中の霊雲院

西田幾多郎墓所(霊雲院)
歴史上の人物の墓所も多い。
(写真は引用写真以外はSONYα7II+FE3.5-6.3/24-240OSSで撮影)



2016年2月11日木曜日

Leica Vario Elmarit SL Zoom 24-90mm f.2.8-4 ASPHという怪物 〜なるほどライカがズーム作るとこうなるんだ!〜

レンズを着けるとボディーが小さく見える


 ライカSLがリリースされてから3ヶ月が経過した。予約入荷待ち状態が解消されようやく市場にブツが流通し始めたようだ。もちろん話題の中心はこのコンクリートブロックのようなミラーレスのSLボディーなのだが、私にとってはレンズが注目だ。何しろライカ初の35mmフルサイズAFズームレンズなのだから。

 ライカMの「ズームがない、寄れない、AFがない」の3無いを解消したレンズ。レンズ内手ぶれ補正つきAFレンズだ。しかしその代償は「でかい、重い、長い」。SLボディーに装着すると重厚長大の超弩級カメラとなる。コンクリートブロックの塊のようなボディーが小さく見える。というわけでとても軽快なスナップシューターには程遠い。しかしそれだけのことはある高性能ズームだ。一見、24-90mm f.2.8-4というスペック的にはよくあるキットレンズに見えるが、その解像度、階調、ボケ味、どれを取っても単焦点レンズに匹敵する性能を発揮する最高のズームレンズに仕上がっている。望遠端が90mmというのも良い。Mレンズ群が苦手とした近接撮影では広角側で30cm、望遠側でも45cmまで寄れるし、フローティング機構により解像度も素晴らしい。歪曲収差はデジタルカメラらしく上手く補正されている(JPGでは全域でデジタル補正。DNGでは24mm付近では樽型に曲がるがADOBE現像ソフトでは自動的に補正される)。これぞ待ち望んでいたライカズームレンズ!

 これまでのライカズームレンズは旧Rマウントシリーズ(一眼レフ)向けのものしか無かった。それも自社製ではなくて日本メーカーのOEM供給品ばかり。その性能も造りもソコソコで、価格もライカにしては安い。それにライカブランドつけて出すんかい?と言いたくなるような代物ばかり。あんまり評判が良いとは言えなかった。ライカはズームをやる気が無い、ということを感じさせたものだった。もっとも日本メーカーの名誉のために言っておくと、それらのOEM 供給各社は、自社ブランド向けには、極めて高性能なズームラインアップを市場投入している。ようは発注側の問題だろう。今回のVario Elmarit SLはドイツのレンズ設計部隊の作品で、かつドイツ製造だ。この少し前にTマウントAPS-Cサイズセンサー用の標準ズーム(28−80mm)を出しているが、こちらは設計はドイツ、製造はまだ日本メーカー(何処かは公表されていないが)。今回SLミラーレスと銘打ってやっと自社製に本気出した。なるほどライカがズーム作るとこうなるんだ!画質を損なわないことにこだわり抜いて設計製造したのだろう。ライカらしく金属鏡胴は気密性も高く防滴防塵。マウント部も少し硬めにキチッと装着できる。約3.5段分の手振れ補正機能を初めて入れた。

 その写りだが、ズームレンズとは思えない先鋭な解像度とアウトフォーカス部のとろけるようなボケ味がこのレンズの持ち味だ。ライカレンズ独特の立体感表現(木村伊兵衛の言うところのデッコマヒッコマ)をズームレンズでどこまで出せるか、という課題への挑戦が実ったということだろう。これならこの一本でズミクロンやズミルクスに肉薄する世界を写し出してくれそうだ。かつての首をひねりたくなるようなズームからは大きく変身。まさにパラダイムシフトした。ここまで来るのにこれだけの時間とコストがかかったということだろう。やはりライカのレンズの味に対するこだわりは妥協を許さないものがある。しかもコスト度返しでそれを追求する。数字上は一見平均的なスペックのレンズであるように見えるが、レンズ硝材やコーティングに贅を尽くし、総金属製の堅牢で巨大な鏡胴をまとい、フィルターサイズ82mmというフロントレンズの口径を誇る。これらはすべてライカテイストの画作りのためだった。

 しかしそれにしても重い。カメラと合わせると2kgになるとは。冗談じゃなく「腕力」をつけておかねばならない。


 (作例)


結像部分はシャープ。背景のボケはメロー。この組み合わせがライカレンズの「味」だ。

水平も歪みがない。隅々までクリアーに写る

かなり意図的なシーンだが階調も豊か

シャドウ部の点光源もシッカリ解像している


不思議な立体感
これが標準ズームの画なのか?!

コントラストを強調






2016年1月21日木曜日

女人高野室生寺に雪が降った 〜土門拳の世界に迫る?〜



雪の鎧坂


桧皮葺五重塔

 この冬は暖冬傾向だったが、ここに来て急速に冷え込んで大阪もことの外寒かった。そして奈良にもようやく雪が降った。雪の大和路は美しい。その中でも雪景色といえば女人高野室生寺。この室生寺に通い詰めた土門拳が、どういうわけか雪景色だけは撮ったことがなかったという。しかし「全山白皚々(はくがいがい)たる雪の室生寺が一番」という当時の室生寺住職の言葉に触発されて一念発起。カメラ機材一式を持ち込み冬の橋本屋旅館でじりじりしながら雪を待ってあの写真を撮った。そのエピソードがあまりにも有名になり、室生寺の雪景色を狙うカメラ小僧が続々と現れるようになった。

 その日は私は東京から大阪に向かっていた。新幹線の車窓からは、雲ひとつない冬晴れの空の下、富士山が非常にクリアーに見えた。この分なら関西も快晴か、と思いきや、関ヶ原を通過するあたりから天気が怪しくなり始める。北陸地方は大雪で鉄道ダイヤが乱れているとの車内案内があった。窓から空を見上げるとその雪雲が北国街道から関ヶ原あたりに流れ込んでくるのが見えた。審査委員を務めさせてもらっている関西の大学発ベンチャーのコンペの表彰式に出席するため大阪にやってきた。1日の仕事を無事終えて、翌日東京へ帰る予定であった。しかし、朝起きると「天気晴朗なれど冬寒し」しっかり寒い。ネットでチェックすると室生寺あたりは雪とのこと。こりゃ行かずばなるまい!あの「雪の室生寺」へ。急遽予定を変更し、近鉄上本町を9時15分発の五十鈴川行急行で室生口大野へ向かった。電車が桜井を過ぎるあたりから車窓は雪景色に。こりゃあいいぞ! 室生口大野駅前で10時20分発のバスに乗り込んだのは三脚抱えたカメラ小僧(といっても平日のこんな時間だから私のような団塊世代(現役ご卒業)のオヤジ小僧)ばかり。少々おばさん軍団も電車から降りてきたが、こちらは皆タクシーで「お先に!」みんな雪の室生寺を目指す、さすが関西人は美意識が違う。

 室生寺は何度も訪れている大好きな大和古寺のひとつ。ことに新緑の頃や、シャクナゲの季節は美しい。秋の紅葉も魅力的で外せない。春や秋の観光シーズンには、桜井の「花の御寺」長谷寺とセットで回れるシャトルバスが走っていて、この山間に位置する、決して便利とは言えないロケーションの有名な二寺を効率良く参詣できる。普段は静寂な境内も、当然かなりの人出となる。しかし、この彩りのない人気の絶えた室生寺の冬の佇まいはどうだ。特に雪がうっすらと黒い景色を縁取るこの心象風景世界。この寂寞感。なんと哲学的であることか。本来の意味は違うが「色即是空」。色がないモノトーンの世界に仏の教えが浮き彫りになっている。そこでは目にも鮮やかな景色が如何程のメッセージを伝えてくれるというのか、という思いに浸ってしまう。季節の花々は大和路の寺を魅力的に彩る重要なエレメントである。だが仏の精神世界には、考えてみると、それほど鍵となる要素ではないのかもしれない。むしろこの世の眼に映る花々の彩りがない分だけ心の内面を静かに観照できる。

 学生時代最後の冬休みに一人で室生寺を訪れたことがある。この時はそれを見越したわけではなかったが、突然小雪まじりの寒風に見舞われ、薄暗い冬空の中、室生寺へ向かった。なんだか当時の私自身の気分を反映したような侘しい光景であった。あたりは残雪と枯れ木のモノトーン。訪れる人もなく誠に静寂な世界であった。室生寺デビューとしては最悪の一日だと思ったことを覚えている。実は「雪の室生寺」が最高だということを後で知った。そのタイミングに図らずも遭遇したのだが。ただただ寒かったことしか覚えていない。鎧坂の石段を一つ一つ踏みしめながら古色蒼然たる金堂にたどり着く。釈迦如来像を始め、内陣の諸仏像を拝観。その中にあの見覚えのある仏像を発見し、これが土門拳の写真で有名な十一面観音菩薩か、と観光客的な感動を覚えた記憶だけはある。不思議に国宝である桧皮葺の五重塔はあまり印象に残っていない。なぜなのかわからない。当時の私の心には響かなかったようだ。「昔はものを思わざる」である。

 大和路風景写真のマエストロ入江泰吉も室生寺の諸仏や四季の写真を多く撮っているが、室生寺の冬景色は意外に少ない。「吹雪く室生寺山内」という作品があるが、入江調にしては雪のボリュームが多くてどこか重苦しい。どのような心象風景を狙ったのだろう。一方、土門拳の作品は雪景色といってもうっすらとした雪が黒々とした景観を縁取るような効果を生み出し、あるいは山肌をモノトーンのグラデュエーションで表わして水墨画を見るような作品だ。土門の言葉を借りれば「さあーっと一刷毛、刷いたような春の雪」であった。むしろ室生寺住職がかつて絶賛した「白皚皚たる」よりももう少し白から黒への階調がある淡く薄い景観。こちらのほうが仏教的な心象世界を感じることができる。普段は入江調の圧倒的ファンである私も、室生寺の雪景色に関しては土門拳の作品の方が好きだ。

 この室生の仏の里には、静かな冬の雪景色こそふさわしい、との思いに至るまでには、結局40年ほどの時間が必要であったということになる。以下に、今回の訪問で撮った私の写真作品を掲載してみた。入江調、土門調のはるか足元にも及ばないことは言うまでもないが、両マエストロの作品に啓示を受けて、自分なりに感じた世界を精一杯表現してみた。しかし、「雪の室生寺」の精神世界を垣間見ることができたつもりでも、実はただ馬齢を重ねたというだけで、あの学生時代の私からどれほど人間として成長したのだろう。「日暮れて道なお遠し」だ。


鎧坂の石段を登り切ると金堂が
石段に重ねられた雪



五重塔と灌頂堂

室生山の雪景色
霊気すら感じる冬の佇まいだ

雪の地蔵尊
蓑笠をかけて差し上げたい

樹齢幾星霜、杉木立ちの中の五重塔

境内には神社
室生の神が守ってくださる仏の世界
日本人の精神世界を表す


室生山
山肌の白黒の階調が好きだ

奥の院に向かう参道


モノトーンの中の朱塗りの欄干
左は土門拳の定宿「橋本屋旅館」
「十一面観音菩薩像」などの作品が欄間に並んでいる。

室生川

 (撮影機材:SONYα7II+Vario Sonnar 24-240mm)





2016年1月17日日曜日

なぜ大和の三輪山には出雲の神が鎮座しているのか? 〜アマテラスとスサノヲの対立、国譲りのストーリーの意味は?〜



三輪山


 奈良の三輪山は不思議な伝承を今に伝える山だ。その山容は端正な神奈備型であり、悠然と大和国原を見守る聖山だ。三輪山山麓一体は箸墓古墳など巨大古墳が集中していおり、ヤマト王権発祥の地とされている。だがそこには「出雲」の大国主命の別神、和魂、大物主神が鎮座ましましている。なぜ出雲の神が大和に鎮座しているのか。それは何を意味するのだろうか。

 古事記・日本書紀の伝承によれば大国主命が弟の少彦命が常世に旅立ったのち、この国(葦原中つ国)をどうやって治めようかと悩んでいた時、大物主神が現れ、大和の三輪山に自分を祀れば安泰であると告げたという。以来三輪山の神は葦原中津国を見守る守護神・祖霊神となる。しかし、その後大国主命(国つ神)は天照大神(天つ神)に国譲りを迫られ葦原中つ国の政権交代を許す。かわって「筑紫の日向の高千穂」に三種の神器とともに降臨してきたアマテラスの孫のニニギの子孫がこの葦原中つ国を治めることになる。その子孫が筑紫から東征して大和の橿原に即位する。すなわち神武天皇に始まるとされる天皇家がこの国の支配者となるわけである。これが古事記や日本書記に描かれた日本の始まりのストーリー(出雲神話、日向神話)だ。しかし、天皇家は祖霊神天照大神を大和の三輪山に祀らず、遠く離れた東国の伊勢に鎮座させた。

 三輪山山麓に発生したヤマト王権(三輪王朝)とはどのような出自の王権だったのだろう?その大王とは誰なのか?祖霊神を大国主命・大物主神とする出雲から来た一族ということを暗示しているのだろうか? そしてのちに筑紫から入ってきた天孫一族に政権を奪われたということを暗示しているのだろうか。その政権交代の正当性を示すために、古事記は「国つ神」より上位の神「天つ神」天照大神を祖霊神とするストーリーを創出したのだろうか。

 古事記に描かれた神話のなかの神観念を整理してみよう。

 大和的神観念
天つ神:天照大神。高天原に存在する神(天神)
大王の祖霊神は三輪山の神、大物主神であった。しかしやがてより格の高い太陽神、天照大神を祖神とする。
天皇を中心とした支配体制を正当化するため地域の神/各氏族の神々の上位に太陽神、天上界の神を創出した。それが大王/すなわち天皇家の祖神だというストーリーを創出。神の体系化・序列化を行った(8世紀前半)
弥生的神概念:精霊信仰+祖霊神信仰が加わる

 出雲的神観念
国つ神:大国主命・大物主命。葦原中津国に発生した神(地祇)
大国主命は、天つ神アマテラスの弟で高天原から葦原中津国に降臨したスサノヲの子孫である。しかし大国主は国つ神とされる。
もともとは多数の地域ごとの豪族/氏族支配の神の観念。神々は平等。序列はない。八百万(八十万)の神々が存在。大王家の初期の祖霊神は三輪山の神、すなわち大物主神(出雲的神)であった。これは大勢の神々のワンオブゼムであった。
縄文的神概念:自然神・精霊信仰(アニミズム)


 古事記の神話に出てくる数多くの神々は、もともとはそれぞれの地域に存在していた自然神、氏族の神々(精霊・祖霊)であった。まさに八百万の神々であった。大王・天皇の優位性を示す最高神『皇祖神」を創出しようとする過程で、それらの神々が体系化、序列化されてゆく。すなわち、その神々はなんらかの形で最高神(天神、天つ神、天照大神)の下位に序列化されていることを記述している。一方、天皇家に従う氏族や豪族は最高神/天皇家となんらかの関係を有する神/氏族の子孫であることを記述してもらい、そうすることで新統治秩序の中での権威を保とうとした、さらには朝廷の中でより優位な地位・官職を得ようとした。すなわち地上界の八百万の神々が先にあって、そのなかから最高神が生まれたのではなくて、天上界に最高神がいてその系列下に八百万の神々が序列化されている、という整理がなされた。これが古事記神話が創出したメッセージなのだ。

 したがって出雲にいた地域の守護神、オオクニヌシもそうした体系化・序列化のなかで矛盾なく語られる必要があった。先述のように彼はスサノヲの子孫だと定義された。すなわち、天地が混沌としたカオスの状態だった時の神々、造化三神。その子孫の子孫がイザナギ/イザナミで、日本を生み出した(国生み神話)。そしてそのイザナギの禊から生まれた三貴子、太陽神(女神):アマテラス、月の神(女神):ツキヨミ、嵐の神(男神):スサノヲが生まれたとされる。このように昼と夜をそれぞれ司る二女神だけでなく、荒ぶる男神を設けたのには理由がある。すなわち出雲という強大な国の長である「オオクニヌシ」の位置付けを定義する必要があった。そこで次のようなストーリーを創出した。アマテラスはその弟であるスサノヲと対立する(天の岩戸伝承など)。スサノヲは高天原から追放され地上界(葦原中津国)へ(出雲ヤマタノオロチ伝承など)。やがてその子孫であるオオクニヌシが地上の国の支配者(国つ神)となる(因幡の素兎伝承など)が、その「国つ神」は高天原の「天つ神」へ「国譲り」をして従うこととなった。やがてアマテラスの孫のニニギが高天原から筑紫に降臨して、その子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が葦原中つ国を支配する。すなわち出雲が大和に従うプロセスを神話的に解説したのがオオクニヌシの治世と国譲り、天孫降臨のストーリーなのだ。

 この「天つ神」と「国つ神」という観念は、ちょうど5世紀に大陸から渡来した原始的儒教思想の「天神・地祇」「礼」にもとずく神々の序列化の思想によるものとされる。古事記や日本書記の編纂時にこの考えが建国神話の記述整理に役立った。律令制下の重要官職である神祇官の名称もここから来ている。しかし、古事記にはこうしたいわば弥生的祖霊神の観念と、それ以前からある縄文的精霊・アニミズムの観念とが神話に並存しているのが特色だ。

 記紀神話の記述は、これまで述べたように、7世紀後半から8世紀初頭に創出された天皇の支配権のルーツを説明するストーリーであるが、特に「出雲神話」の部分は日本(このころはまだ倭国であったが)の支配権が出雲から大和へと移っていったことを暗示していると考える。あるいは出雲勢力が初期の大和を支配していたが(これが邪馬台国だ、とする研究者もいる)、やがて筑紫(天孫降臨神話)からやってきた勢力が大和に入り出雲勢力に変わって支配していったのかもしれない。出雲勢力の祖神たる三輪山(国つ神)はその後もヤマト王権、朝廷の重要な祭祀の場として存在し続ける。天照大神(伊勢大神)が皇祖神(天つ神)となり、東国伊勢に鎮座した後も、三輪山は「元伊勢」として皇室の崇敬を集める。現在でも、そのヤマトの地に聳える神奈備型の山容に畏敬の念を自ずと感じる三輪山が、縄文的アニミズム、弥生的祖霊信仰を問わず、時を超えて人々の心に響く存在であることは間違いない。



 ところで、ここからはいつもの私の疑問、すなわち、我が国の発祥に関わる倭国の中心の移動、すなわち筑紫から大和への変遷の問題に立ち返ってみよう。

 考古学的研究成果によれば出雲は強く筑紫の影響を受けていることから、倭国の中心が筑紫→出雲→大和と変遷していった歴史がうっすらと見えてくる。弥生的な稲作農耕社会であった倭国においては農耕器具にしろ武器にしろ鉄器生産能力の確保は不可欠だが、当時その鉄資源は朝鮮半島南部からしか入手できなかった。したがって倭国は半島南部の伽耶や百済との通交を重視したし、あるいは半島における鉄資源権益確保のために進出を果たそうともしただろう。また奴国には鉄製品を製造するいわばハイテクコンビナートがあった。その遺跡が集中して見つかっており(福岡市の比恵遺跡など)、北部九州は大陸の鉄資源権益を通じて倭国の中心であった。しかし後年、出雲で鉄生産の新しい技術が盛んになり(たたら製鉄は今も盛んであるし多くの遺跡が見つかっている)、鉄資源の獲得が直接大陸から出雲へと行われるようになると、国内の勢力図が変わっていった可能性がある。筑紫から出雲へ鉄をめぐる勢力の変遷が起こった。歴史の一時期ではあったかもしれないが、出雲が倭国の中心になった可能性がある。やがては大和に遷移してゆくのだが。

 古事記の神話部分には、この後の出雲から大和への遷移部分だけが描かれている。そこでは「国つ神」から「天つ神」への支配権の移譲というメッセージこそが重要であって、出雲以前の話は、天皇中心の国家体制確立プロセスには関係ない伝承である、いや日本のルーツは筑紫(北部九州)ではない、との歴史観表明に違いない。すなわち「筑紫の神」「筑紫神話」は意図的に創出されなかった。これは天武・持統天皇時代の天皇支配、律令体制国家を宣言した8世紀の時代、自ら名乗ったわけでもない倭国という国号を捨て、日本(ひのもと)を新国号とした時代背景と大きな関係を持っている。すなわち日本は中華皇帝に朝貢し冊封された倭国王たち(中国の史書の出てくる奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫中心の冊封国家の長たち)をルーツに頂く国ではなく、天から降臨した天神の末裔が(独自に)建国した国である。決して大陸から渡来した子孫やその末裔が建国し、大陸由来の文化から派生した国ではない。「日本」はその原初から「日本」であり、「天皇」はその初めから「日本」の建国者であり連綿と支配者である、という歴史観・国家観の創出・表明である。まさに「日本紀」である。「倭国記」ではない。

 古事記においては、我が国発祥の地、すなわち天孫降臨の地が「筑紫」(当時は九州全域を指した)であることは否定しないが、大陸に近い北部九州ではない「何処か」を暗示するに止めている。すなわち「筑紫の日向(ひむか)の高千穂」だとする。神武天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の東征伝承も、その出発地点は日向美々津だとしている。この筑紫の「何処か」から東征した勢力が大和で出雲勢力を凌駕してヤマト王権を確立していった(これが「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「橿原即位」伝承の実態?)というのが古事記における建国ストーリーだ。

 その「何処か」は「日向国」である、としたのは江戸時代の「古事記伝」を著した本居宣長である。しかし、記紀編纂時(7世紀後期・8世紀前期)はまだ律令制が未完成の時期で、「日向国」は存在していない。それが記録に見えるのは奈良時代後期の8世紀後半。現に「日向(ひむか)」という地名は全国いたるところにあり、要するに太陽に向かう土地、という意味で、「高千穂(たかちほ)」は神々しくて高い峰だから、ますます特定はできない(ゆえに西日本全域に天孫降臨伝承や高天原伝承がある)。まして記紀編纂時期の南九州「日向地方」は隼人がまだヤマト王権・天皇に服属していない「夷狄」の地であった。むしろ弥生的神観念よりも縄文的神観念がまだ支配していた地域であった。こうしたことから我が国発祥の地が九州南部であることにはならない。この「筑紫」はやはり奴国や伊都国、さらには卑弥呼の邪馬台国が倭国の中心をなした弥生先進地域、北部九州にちがいない。しかし、上記の理由から、それを言いたくないのであえて「筑紫の日向の高千穂」という特定できない架空の地にした、というのが古事記の編者の(それを指示した為政者の)真意であったろう。しかし、編者は高天原から降臨してきたニニギに「この地は朝日の直刺す地、韓国を望む地、夕日の火照る地...」と言わせている。直接的表現ではないが、この地が南九州の山の中でないことは明らかだろう。はるか海の向こうに大陸を望む我がルーツの地を暗示して見せたように思える。

 さらなる疑問について考えてみよう。

 本来ならば既にオオクニヌシから「国譲り」を受けているのだから、ニニギは「葦原中津国」の中心、大和に直接降臨できたはずなのに、なぜ遠く離れた筑紫に降臨し、苦労してその子孫が東征をしなければいけなかったのか?しかも、大和に入ろうとすると、そこには既に別の降臨族ニギハヤヒ(物部氏の祖霊神だという)がいて、筑紫から遠征してきたニニギの子孫であるカムヤマトイワレヒコと争う。ニギハヤヒの部下のナガスネヒコとの戦いに苦戦し、結局兄の五瀬尊は戦死し生駒山越えを諦める。「太陽神の方向である東に向かって進軍したのがよくなかった」としてはるか熊野に迂回して吉野、宇陀を越えて大和に入る道を選ばざるを得なかった。熊野の神や八咫の鴉に導かれてのようやくの凱旋であった。国つ神から天つ神に譲られたはずの豊葦原中つ国には、それほどの抵抗勢力が居続けたと、言いたかったのだろうか。ならばあの「国譲り」とは一体何だったのか?古事記の建国神話のストーリーは複雑怪奇で色々なストーリーの矛盾が潜んでいる。なかなか一筋縄で理解できない。おそらく、アマテラスを最高神とする神々の序列化、すなわち天皇中心支配体制確立のプロセスはそれほど平坦ではなかっただろう。色々な地域豪族や大和の在地氏族の神々との整合性を「うまく」記述しなければならないという、編者にとってまことに厄介な政治的課題が複雑に絡み合っていたのであろう。古事記や日本書紀の編纂事業は大変な国家的事業であり、多くの政治的な妥協の産物でもあったのだろう。


 古事記・日本書紀が創出された時代は、上述のように7〜8世紀の天皇支配確立に向けた激動の時代(天武・持統天皇以降)であり、対外的には倭国大王から治天下大王、日本天皇という、中華世界(華夷思想)とは一線を画した独自世界(日本版華夷思想)を宣言したいわば「ナショナリズム」が横溢していた時代である。一方、国内的には有力氏族や地域豪族を支配下において行くプロセスは想像以上に困難なものであっただろう。記紀の記述、特に建国神話部分のストーリー理解には、それらが編纂された時代背景、意図を理解する必要がある。日本の古代史に関しては文献資料が乏しく、比較的新しい時代である8世紀に編纂された古事記・日本書紀が数少ない資料である。こうした資料は時の権力者が選定した「公式定本」、すなわち極めて政治的な意図を持って創出され、記述された文書である。しかも多くの勢力との政治的妥協の産物でもある。それを記述通り正しいものとして受け入れた江戸後期の国学や、その影響を強く受けた尊王攘夷思想、そして戦前の皇国史観。逆に戦後はその反動として、記紀の歴史を語る文献資料としての意義の全否定。そのような、時の政治情勢による主観的で意図的な取り上げ方、解釈・理解ではなく、考古学成果と合わせて客観的かつ批判的に読みこんでゆくという取り組みが必要であることを改めて痛感する。