ページビューの合計

2016年9月10日土曜日

飛鳥稲淵は豊穣の時を迎えた 〜棚田散策〜

稲淵の棚田風景
飛鳥から吉野へ向ける道すがら

 石舞台古墳のあるあたりは嶋庄と呼ばれ、蘇我氏の奥津城であった地域。蘇我氏は嶋の大臣(しまのおおおみ)と呼ばれていた。そもそも飛鳥は蘇我氏が勢力を有する地域。その地が舞台であった飛鳥時代は蘇我氏の時代だったとも言える。初期ヤマト王権が3世紀中盤以降奈良盆地に起こったのだが、その場所は盆地の東、三輪山山麓(ヤマト:山の麓)であった。居館跡や運河などの跡が見つかった巻纒遺跡や、最古の前方後円墳である箸墓をはじめとする大型前方後円墳文化を作った「三輪王朝」はここからスタートした。

 6世紀にはヤマトの大王の宮都は三輪山麓を離れ、盆地の南の飛鳥の地を転々とすることになる。飛鳥の地は奈良盆地の中では大和川から難波、瀬戸内海、筑紫を通じて大陸とつながる地の利を有する土地であった。もともとは東漢氏などの渡来人一族が住んでいたところであったが、蘇我氏はこの飛鳥の地を重視し、渡来系一族との交流を通じて外来文化、ことに仏教を積極的に取り入れた。他の有力氏族、大伴氏や物部氏を凌駕して大王家の外戚となり政権運営に影響力を有することとなる。今日、明日香村は稲穂がたわわに実りまさに豊穣の時を迎えている。嶋庄、祝戸からさらに吉野に通じる峠に向かって進むあたりが稲淵。ここは棚田が有名だ。もう一つは、石舞台から多武峰に向かう冬野川沿いの登り坂あたりにも棚田が広がっている。まさに「豊葦原瑞穂の国」の姿を彷彿とさせる景観だ。

 しかし、いつの頃から飛鳥にこのような棚田の風景が形成されたのだろう。こうした景観はおそらく弥生の姿ではなかっただろう。初期ヤマト王権も後の飛鳥王朝も稲作農耕に経済基盤を置く王権であった。しかし3世紀以前の北部九州のチクシ王権と異なり、弥生的な農村集落たる環濠集落や高地性集落を政治拠点とする王権ではなかった。耕作地/農村集落と王都(宮)は截然と分かれていた。奈良盆地における初期の環濠集落である唐古鍵遺跡も「王都」としての性格はなく純然たる農耕集落(ムラ)であった。初期ヤマト王権の「王都」たる纒向遺跡は完全位離れた場所に形成されている。6世紀の飛鳥も「王都」の地であった。飛鳥は転々と移り変わる宮殿や外来宗教である仏教寺院などの異国風建築物がひしめく「近代的な」人工的都市であった。その周辺部には大王家や有力氏族の古墳が散在していた。これまでの弥生倭国的な地域とは異なっていた。今感じる「国のまほろば」「豊葦原瑞穂の国」といった田園景観は、むしろ奈良盆地の中央部から北に広がっていたのだろう。すなわち古代奈良湖が干上がった跡に稲作耕作地が拡げられた。舒明天皇が天香山に登り、そこから北に広がる豊かに実る奈良盆地を展望して「うまし国ぞ秋津洲大和国は」と読んだ風景だ。

 稲淵、栢野森は飛鳥の中でも南の果てである。吉野へと抜ける峠道(芋峠)へと続く山がちな地域、すなわち飛鳥世界の絶界である。大海人皇子が吉野へ逃れ、壬申の乱で飛鳥に凱旋して天武天皇として即位。その皇后、のちの持統天皇が度々吉野行幸を行った道だ。また都に疱瘡が伝染せぬように峠に疱瘡除けの猿石を置いたりもした。今の稲淵や飛鳥のこの田園風景は、必ずしも飛鳥時代を代表する風景ではなかったにちがいない。当時は水利に恵まれた平地以外は稲作には向かない土地柄だったであろう。棚田という耕作形態はずっと後世になってからのものだろう。

 ここ稲淵にも一時期宮都が営まれた。飛鳥稲淵宮だ。発掘調査の結果、祝戸地区にその遺構らしき物が見つかった。どの時代の宮都なのか?確定できていないが、645年の乙巳の変後、皇極上皇、中大兄皇子は一時都を難波に移したが、やがて孝徳天皇を難波宮に置き去りにして再び飛鳥に戻った。その時に造営された行宮(仮宮)ではないかと言われている。だとするとなぜこのような辺鄙なところに行宮を置いたのだろう。

 また最近話題になった都塚古墳。今年の発掘で石積みの階段状ミラミッド構造の方墳であることがわかった。誰の墓であるか決定的な証拠は出ていないが、かなり手の込んだ方墳であることや、蘇我氏の奥津城で蘇我馬子の石舞台古墳に近いことから、蘇我稲目の墓ではないかと言われている。

 飛鳥から吉野へ向かうここ稲淵から栢野森辺りはなかなか謎の多い場所だ。今は長閑で豊かな棚田風景が広がる田園地帯だが、おそらく飛鳥人はこうした風景をここに見ることはなかっただろう。稲作農耕を行う土地というより、聖なる地、異界へつながる土地という理解であっただろう。今でもこの地区では毎年1月には綱掛け神事(男綱)が執り行われ、「子孫繁栄」「五穀豊穣」「家内安全」「無病息災」を祈念する習わしだ。この時飛鳥川をまたいで結界が張られていることを見ても、ここは彼の地、此の地を隔てる場所だった。飛鳥なる世界の鄙の地は奥が深い。

稲淵の棚田

嶋庄あたり

都塚古墳
最近の調査で階段ピラミッド状の方墳であることがわかった
蘇我稲目の墓ではないかと言われている

石棺がそのまま残る珍しい古墳

石舞台付近の棚田

石舞台地区の背後には多武峰が
中大兄皇子と中臣鎌足がクーデタの謀議を行った談合(語らい)山からは飛鳥の全体が見渡せる

毎年1月に行われる綱掛け神事
(男綱を掛けて、子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全、
無病息災を祈る)
対をなす女綱は下流に掛けられる。
聖なる世界、異界との結界だ。
(写真はmahonoHPより)
飛鳥稲淵宮跡
(明日香村世界遺産HPより)





2016年9月6日火曜日

東山石塀小路散策 〜もう一つの伝統的建造物群保存地区〜

石塀小路
高台寺通り側の入り口


 八坂神社(祇園社)、円山公園から南、高台寺界隈は、いわゆる「ねねの道」として観光客に人気の地区になっている。高台寺通りと下河原町通りの間には狭い路地がいくつか通っている。どれも狭くて鍵の手になっているので行き止まりのように見えるが、実は通り抜けができる。そうした閑静な一角、ここが「石塀小路」である。

 この辺りは、豊臣秀吉の北政所、ねね縁の地である。太閤の没後、剃髪して高台院と名乗ってから暮らしたと言われる現在の園徳院、高台寺を中心とした一帯は「祇園廻り」と呼ばれていた。江戸時代には、この辺りに芸妓街、お茶屋街ができた。明治初期までは遊郭もあったが廃絶になり、その後はお茶屋の貸家街になった。石塀小路と呼ばれるようになったのは意外に新しく、明治後期から大正初期に入ってからだと言われている。当時は妾宅が多かったらしく「お妾さん街」などとも呼ばれたそうだ。閑静で落ち着いた街並みで、街の格を上げるために高い石塀を築き、石畳を敷き詰めた。最近の石畳は京都市電廃止の時に出た路面の切り石を敷き詰めたものだ。今はこじんまりした趣のある旅館や料亭、貸席などが連なっている。

 最近は観光客にこの隠れ家的スポットの存在が気付かれて、ワイワイと押し寄せてくるようになったらしい。小路のいたるところに「静」という札が掲げられている。その札も板に墨で流れるように書かれていて町の雰囲気を壊さない配慮がある。しかし、貸衣装の浴衣姿に慣れない下駄履きでやってくる女性の集団は、自撮り棒片手に、中国語で声高にキャーピーキャーピーワメキあっている。それを欧米系の観光客が「 Look at  them! Chinese Geisha Girls!」と笑いながら写真を撮る。確かにあまりここの静謐な雰囲気を壊してほしくないものだ。地元の人にとっては迷惑なことだろうが、Visit Japan!, OMOTENSHI!と言ってる以上我慢するしかないのだろう。まったく観光客というものは...... 通りすがりの時空旅写真家である私も、この路地の閑静な雰囲気のカットをモノするのに苦労した。なかなか人がいなくなる瞬間が来ない。待ち続ける忍耐力が求められる。

 産寧坂地区一帯は重要伝統的建造物群指定地区に指定されているが、1996年にこの石塀小路地区が追加された。

高台寺通り
最近は「ねねの道」というらしい

石塀小路


京都市電廃止のときに出た敷石を利用した石畳道
京都の路地には珍しく石塀を高く築いている

お宿「玉半」

観光客が少ないように見えるが、人通りがなくなるのを待って撮影

円徳院

円徳院庭園

円徳院から石塀小路へ抜ける小径

ここは赤レンガ塀にガス灯


石塀小路
下河原町通り側出口の一つ

多少の高低差があるところが奥ゆかしい


(撮影機材:Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm f.2.8-4 ASPH)

2016年9月5日月曜日

並河靖之七宝記念館探訪 〜靖之と植治 二人の巨人ここに集う〜



並河靖之七宝記念館
並河の自宅兼工房であった。
隣家(手前)は稀代の作庭家小川治兵衛の自宅であった。


 以前から訪ねてみたいと思っていた並河靖之七宝記念館。ついに今回訪問することができた。ここの見所は、何と言っても国内でまとまってみる機会が少ない七宝の超絶技巧作品だが、実はこの建物と庭園がまた素晴らしい。ここの庭園は稀代の作庭家、植治こと第7代目小川治兵衛の作だ。七宝家の並河靖之と、作庭家の第七代目小川治兵衛という二人の巨匠。明治日本を代表する二人の天才がここで出会った。時代の美意識を体現する絶妙の空間となっている点が感動的である。

 ここは並河靖之が、1893年(明治26年)に、今の人間国宝に相当する帝室技芸員に選ばれ、海外に「世界のナミカワ」として名声を博していた時代に建てた自宅兼工房である。欧米での万国博覧会などで高い評価を受け、事業としても最も成功した時期であったという。あたりは少し歩を進めると岡崎南禅寺界隈、政財界の大物が競って建てた壮大な別荘群がある地域だが、この並河邸は比較的こじんまりとした敷地に建つ。表屋は虫籠窓に駒止という典型的な京商家の佇まいを有する屋敷。しかし一歩中に入ると、超絶技巧の七宝の世界と日本庭園という、明治期の二人の美の巨人がコラボレートする独特の宇宙が凝縮されている。明治にしては珍しくガラス窓を多用した和風建築の母屋と、創作に打ち込むための工房、焼成を行う窯場、そして真ん中には植治作庭の庭が配されている。母屋には外国からの賓客を迎えるために、客の好みに応じて洋風と和風の応接間が用意されている。洋間は鴨居の高さが高く、ガラスの入った障子窓も高い位置に、そして和室は低い位置に配されており、この名庭園がどちらからも座ったまま見渡せるように意匠が凝らされている。建物も庭も当時のままで、あまり大きな改修の手も加えられないまま残されている。国指定の有形登録文化財である。


 住所は東山区三条通北裏白川筋東入ル。いかにも京都らしいアドレスだが、文字通り三条通の一歩北側、白川に沿った裏白川筋との角から東に入って所にある。京都の住所表示は道案内そのものでわかりやすい。

 実は右隣が第七代小川治兵衛(植治)の自宅であった。現在も「小川」の表札がかかっているが、住んではいないそうだ。こうした隣同士の縁もあり、並河家に作庭を依頼された小川治兵衛。元々は植木職人であったそうだが、これをきっかけに作庭、造園の道に踏み出したと言われる、南禅寺界隈別荘群の名園を数多く手がけた植治にとっても記念すべき庭園第一号というわけだ。

 この庭の特色は琵琶湖疏水から水を庭園に引き込み、池と流れを生かした点。京都に多い禅寺の枯れ山水とは異なる趣を醸し出している。水の流れによる植栽のみずみずしさや涼しさ、流水の視覚的、聴覚的効果が京都の庭園に新しい風情を与えている。そもそも琵琶湖疏水は明治維新後の東京奠都で、元気が失われつつあった京都の産業・工業振興のための一大土木プロジェクトであった。琵琶湖から延々水を引き、この蹴上の山筋を開削して、南禅寺境内にローマの水路橋よろしく水路を作り、水力発電所を起こしたもの。したがって別荘や個人の邸宅の庭に水を引くなど想定外であったようだが、並河家は七宝工房用に、として水を引いたという。その後、この琵琶湖疏水が南禅寺界隈別荘群に水を配り、多くの名園を生み出すこととなった。これらこそ植治のなせる技である。同じく植治が作庭した山県有朋の別邸無鄰菴もこの近くである(2015年1月のブログ:「無鄰菴」庭園散策 〜南禅寺界隈別荘群を巡る〜)

 この辺りには明治期には20数軒の七宝焼きの事業者があり、それぞれにしのぎを削っていたそうだが、中でもその質と量で並河靖之が群を抜いていた。もともと七宝は大勢の職人を抱えて営むものではなく、どれも事業者としては小規模であったようだ。明治日本の殖産興業政策により、外貨の獲得に七宝は重要な輸出品としてもてはやされた時期であった。こうして並河靖之の超絶技巧が世界に名を轟かせることになった。

 しかし、時代は移り、並河家は1923年に七宝製作を廃業。七宝家としては断絶している。現在建物と庭園、そして収蔵品は財団に移管されて保管展示されており、京都、日本の文化の活動発信地の一つとして重要な位置を占めている。現在のご子孫は医者であるそうだ。この記念館の真向かいに住んでおられる。一方、小川家は、治平の子8代目の小川白葉は石の庭の天才とよばれ、さらに連綿と現在も「植治」として造園業を引き継いでおられ、京都を中心に盛業中だ。現在の社長は12代目である。


和室側からは庭の全景を展望できる

洋風応接間
鴨居が高く設計されている

植治作庭の庭園
水は琵琶湖疏水から引き込んでいる。

礎石に見立てた踏み分け石から和室を眺める

二階部分
明治期の和風建築としては珍しい大きなガラス窓


右は洋風応接、左が和風応接
障子のガラス窓の高さが左右で違っているのがわかる。

母屋玄関

台所
通り庭という形


(撮影機材:Leica T+Vario-Elmar-T 18-56mm f.3.5-5.6 ASPH)



 Another Story: もう一つの「美の巨人たち」「二人のナミカワ」

 七宝界に名を残す巨人にはもう一人のナミカワがいる。濤川惣助である。奇しくもふたりのナミカワは共にほぼ同世代の七宝家。並河 靖之は1845年京都生まれ、一方の濤川 惣助は1847年千葉県生まれ。後にふたりは京都の並河、東京の濤川 と呼ばれライバル関係を築く。そして並河靖之:有線七宝。濤川惣助:無線七宝という伝統と革新のそれぞれの旗手である。

 並河靖之は元々は武家の出で、青蓮院付きの寺侍並河家の養子。明治に失職し七宝製作の道へ。一方の濤川惣助は江戸の商家で奉公ののちある有名商家の養子となり、その後陶器の輸出業に取り組み成功を収める。のちに家業を後継に譲り自らは七宝の革新に没頭する。

 並河 靖之は長い歴史と伝統の技法を持つ七宝界の頂点を極め、濤川 惣助は従来の基本形であった有線七宝(色を入れるときに線で境界を築き、色が混じらないようにすることではっきりした模様となる)から、無線七宝(色を入れると早いタイミングで境界の線を取り除き水彩画のような柔らかい模様となる)という独自の技法をあみ出しその頂点を極めた。技法は違えど同じ七宝界の頂点に君臨する両巨頭である。現在の人間国宝にあたる帝室技芸員も七宝界ではこのふたりだけ。時代は同じ時期にふたりの天才を世に送り出したといえる。しかしこの二人の天才は生涯相見えることはなかったという。

 現在、これだけの巨頭、両ナミカワの作品を日本で見ようとすると結構苦労する。明治日本の輸出品として外貨を稼ぐ重要産品であったことから、作品の90%以上が海外市場で流通し、残りが皇室などの賓客向けの贈答品、下賜品として買い上げられた。こうして「世界のナミカワ」として海外でもてはやされたが、日本にはあまり作品が残っていない。これまで京都の産寧坂美術館や東京日本橋の三井記念美術館などで作品の展示会があったが、なかなかまとまって見ることができない。今回訪れた並河靖之七宝記念館収蔵作品でも全数で140点ほどだそうだ。これでも国内では圧倒的な数である。実際の記念館での展示は思いの外少ないことに気づく(撮影が許されていないのでお見せできないが)。独特の黒生地の小ぶりな作品が多く展示されているが、海外のコレクター所有の作品に匹敵する規模の花瓶などのものは少ないように思う。濤川惣助の作品はさらに少なく、まとまった作品を収蔵するところはないと言って良いくらいだ。一時期この両巨頭の存在も忘れ去られかねない有様であった。以前にも古伊万里や、幕末・明治期になって確立した有田などの超絶技巧作品が海外に流出し、いまや取り戻すことができない話を書いたが、ここでも海外へ渡った明治期の超絶技巧七宝は、その生誕の地である日本へ帰ってくることは稀である。世界に日本の美が評価されるのは嬉しいことだが、それを日本で見ることができないのは悲しい。



並河靖之作品
宮内庁蔵
濤川惣助作品
ウォルター美術館(マサチューセッツ)蔵






並河靖之
濤川惣助






記念館の詳細はここを参照:
並河靖之七宝記念館ホームページ



2016年8月27日土曜日

「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」〜Leica Noctiluxという名馬〜

Noctilux-M 1:1/50 + Voigtlaender VM-E Closed Focus Adapter + SONYα7RII



ライカにはその歴史上数々の名レンズ/迷レンズがラインアップされてきた。だいたいにおいて万人向けの使いやすいレンズといったシリーズは少ない。が、使い手を選ぶ気難しいレンズはいっぱいある。Elmar 50mmやSummicron 50mm,35mmなどは比較的扱いやすい方だが、フレアーやハレーション華々しいSummar 50mm, Summitar 50mm,旧Summarit 50mmなど50mm標準レンズクラスでもクセ玉がずらりとラインアップされる。35mm広角レンズでは名玉・迷玉で有名な初代Summilux 1.4などは素人には出来損ないレンズに見えてしまう厄介な代物だ。そしてこの高速レンズNoctilux 50mm f.1。第4世代のレンズだ。最新のものはその開放F値が0.95という最高速レンズで非球面化(ASPH)されたので多少扱いやすくはなったものの、それでもNoctiluxは代々扱いが難しいレンズの代表格だ。これらはレンズの個性・味としてライカ使いのマエストロにもてはやされてきた。レンズ設計が手計算で、レンズ研磨も手磨きの時代。コーティング技術もまだ十分に確立されていないので、収差などにバラツキが出たり、逆光フレアーが盛大に出たり、手仕事による個体差が現れる。それを「道具の目利き」よろしくマエストロたちが自分にあった個体を選び出し、一生モノとして愛でる。そういう世界だった。そういう意味で現代のライカレンズは個性がなくなってしまった、とオールドファンは手厳しい。職人芸のマイスターが創り出す「お道具」から合理的な生産ラインで生み出される「モノ」になってきたということだ。

Noctiluxの話に戻るが、まず開放で撮るには正確無比なピント合わせが必要だ。これがなかなか至難の技。合焦部分のピントの幅が極めて薄く、かつその周辺部分はうっすらとボケる。いやフレアーが沸き起こり、ハレーション起こしてるんじゃないかと思わせるようなふんわり感。どこにピントがあっているのか慣れないと目視では分かり難い。ライカのレンズはどれも合焦部分とボケのコントラストが絶妙なのだが、これは素人には絶妙を通り越している。目の慣れた達人だけが「名人芸のごとく」そのピントを嗅ぎ分けられる。

しかも、LeicaMカメラのボディーで撮影するとなると、ライカ秘伝のレンジファインダーで正確にピントあわせするテクニックと熟練の技が必要だ。この辺がライカは使い手を選ぶと言われる所以だろう。デジタル化されたType240のライブビューでの撮影にはさらに別種の慣れが必要だ。フォーカスピーキングや拡大機能が搭載されて便利になったはずだが、なおピンボケの山を築いてしまうのは何故なのだろう。液晶画面は意外にMFによる細部の確認に不向きなのかもしれない。

さらにMボディーだと最短撮影距離が1mという老眼なのももどかしく感じる。高速レンズのボケ(Bokeh)を生かしたクローズアップ撮影を狙っても無理。そもそもレンジファインダーカメラは近接撮影を想定してない。従ってレンズ設計も寄れない構造を是とすることとなる。せっかくのf.1, f.0.95が勿体無いと思う。もともと夜間でもavailable lightで撮影出来る高性能レンズという触れ込みで開発されたのだが、近接撮影でもこのF値を生かしたBokehを楽しみたいと思うのが人情だろう。

こうして私のような、ライカMボディーという厳しい親方に、いつも駄目出しされる撮り手は、ついSONYα7RIIなどという最新テクノロジーで武装した優しい親方の方に行ってしまう。ライカ道修行が足りないのだ。さらにこのSONYα7用にコシナからライカMレンズ用クローズドフォーカスアダプターがリリースされている。これを使えば、上記のフラストレーションが解消される。まず、最短撮影距離が30cmまで寄れる。そしてSONYα7ボディーに搭載されている手振れ補正機能、フォーカスピーキング、ピント拡大機能が、有効に働いてくれる。こうしてNoctiluxというモンスターレンズで「手軽に」近接撮影によるボケを楽しむことができる。なんと便利な世の中だこと。まさに「私にも写せます」だ。

  しかし、そうは言ったものの、なおNoctiluxの開放撮影でのピント合わせは厳しい。これだけSONYボディーの最新フォーカスアシスト機能があっても思ったところにきちっとピントを決めるのには修練がいる。なかなかピチッと決まってくれない。厳しい親方はMボディーだけかと思っていたが、このNoctiluxという親方はもっと厳しい。このモンスター名器を使いこなすにはまだまだ修行が足りない。もっともっとピンボケの山を築かないと腕は上がらないのだろう。「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」だ。名馬を名馬として見出し使いこなすには名伯楽がいなくてはならない。そしてその名馬は名伯楽を育てるのだ。



掲載の作例は、このSONYα7RII+Voigtlaender VM-E Close Focus Adapter+Noctilux 50mm f.1という組み合わせで撮ったもの。


室内で開放で30cmほどの近接撮影。ピントの幅が極めて薄いことがわかる。
しかしボディー内手振れ補正が機能してくれるのが嬉しい。
おかげで狙ったところにピントがきちっと合った。

屋外で距離1mを超えると写しやすくなる。後ろのボケ方も自然だ。

撮影距離1m以内に寄っても上から俯瞰するように撮れば周辺がなだらかに減光/アウトフォーカスしてくれる。

ピント部とボケのコントラストがライカレンズ独特の立体感を生み出してくれる。
曇天の薄暗い光のなかで威力を発揮するレンズだ。

失敗作。
手前のエッジ部分にピントを置いたつもりが、後ピンになってしまった。手持ち撮影だと体がちょっと動いただけでピントは簡単にズレる。

Crazy Comparison!:

 Noctilux 50mm f.1と双璧をなす名レンズSummilux ASPH 50mm f.1.4による開放での撮影結果を比較してみた。Summiluxの方は非球面化(ASPH)された最新設計のレンズ。開放F値が一段暗い分、ピントあわせが楽であるほか、被写体周辺部のフレアーも少なくてさすがに解像度も高い。こうしてみるとSummiluxは使いやすいレンズということになるが、これはこれで結構なじゃじゃ馬レンズである。なにしろ、出自がXenon 50mm f.1.5を先祖とし、前述のクセ玉Summarit 50mm f.1.5の後継機種なのだから。収差はよく補正され、最短撮影距離も70cmとなり、最新のASPHレンズの性能は素人にも扱いやすいレベルになったが、もともとライカのレンズは開放F値が小さいほど使い手の技が求められる。したがって最も明るいNoctiluxはさらに熟練度を向上させなくてはならないというわけだ。どちらがよいレンズかという問題ではなく、自分の思った表現手段としてどう腕を磨き使いこなすかという問題だ。いずれにせよ使い手の力量、熟練度、そしてセンスを試される厳しさを持ったレンズ達だ。名器とはそうしたものだ。


Summilux ASPH 開放f.1.4
フレアーも少なくすっきりした画になっている
Noctilux 開放f.1
ロゴ部分はしっかり合焦しているが
全体に薄くフレアーがかかっている。





2016年8月16日火曜日

Leica SLとSony α7RII  〜これからの高性能/高品質ブランドとは?〜


初瀬の長谷寺にて

大森貝塚公園にて

 掲載の作品2点はいずれもNational Geographic Your ShotのDairy Dozenに選ばれたもの。 
Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm ASPHで撮影。




 どうも以前から気になっていたのだが、最近のLeicaのミラーレスカメラはSonyのそれとラインアップやテイストがよく似ている気がしてならない。そう言うと両社は必死で否定するのだろう。だが、フルサイズのLeica SLはSony α7シリーズを、APS-CサイズのLeicaTはSony α6000シリーズを、LeicaQはSony RX1を、そしてパナソニックのOEMであるLeica D-LuxはSony X100を意識しているとしか思えない。偶然ではないだろう。そこには両社が置かれているカメラメーカーとしての課題認識と立ち位置、これからの成長戦略に共通するチャレンジマークのようなものがあるように思う。

 Leicaはかつてレンジファインダーカメラの頂点に立ち、その歴史的な勝利を手にした。押しも押されもせぬ大御所としての地位を誇り、そして一転して一眼レフに市場を奪われるという苦い敗北の時代を経験した。そのトラウマからNikonやCanonのような一眼レフカメラ(ミラーあり)に大きな対抗心とコンプレックスを抱いていた違いない。ちょうどNikonが、LeicaM3という不動の名機の登場にほぼ絶望感を抱いたように。渾身の技術力でNikon SPを出したが、市場での評価はM3に及ばず、やがて敗北感を胸に一眼レフNikon F開発へと方向転換した。これが逆転の成功劇の始まりであったことは有名である。そして今、デジタル時代になって、出遅れていたLeicaは一生懸命アナログ銀塩Mボディーにフィルムの代わりにCCDやCMOSセンサー詰め込んで、これがライカのデジタルカメラでございます!とやってみたが、「何じゃこりゃ」反応に戸惑ったに違いない。全くこれまでのカメラ作りとは異なるテクノロジーの変化にとても日本勢には追いついてはいなかった。第二の敗北かと思われるなか、あっという間に10年が経ってしまった。しかし、新たにミラーレスというカテゴリーを自己再定義し、そこにリスタートの機会があると気づく。ヤッタ〜!ここでリベンジしないともうリベンジする時は来ない、とばかりに矢継ぎ早にミラーレスカメラを打ち出してきた。Mデジタル化での試行錯誤とパナソニックとの協業、モンスター一眼レフカメラSの開発で追いついてきたLeica型のデジタルカメラ。ようやくミラーレスで、LとMの成功とライカ判の創始者という名門のジレンマ、保守的なユーザ層、オスカー・バルナックの亡霊から解放された感がある。

 このミラーレス戦略は実はSonyも同じだ。Sonyはそもそもカメラメーカーではなかった。世界に冠たるSonyブランドも陰りを見せているなか、デジタルカメラ市場に参入した。Sonyのカメラの前身は買収したMinoltaのカメラ部門であるから、本来はPentaxと同様に日の丸一眼レフの巨頭の一角を占めていたはずだ。現に旧Minolta αシリーズを引き継いだデジタル一眼レフをSony αとしてラインアップしているところがLeicaとは異なる。しかしデジタル一眼レフの市場ではやはり二巨頭Nikon, Canonの背中は遠かった。一方でSonyは画像センサーやチップなどの電子的デバイスの自社製造という優位点を持っているので、光学プリズムファインダーを排したミラーレスカメラは競争優位を打ち出すにはうってつけの製品だと考えた。しかも軽小短薄路線はSonyの社是みたいなものだ。一時代を築いたトップランナーの成功と挫折、こうした背景を共有していることが、両社のラインアップ戦略とブランド戦略を似たものにしているのかもしれないと勝手に推測している。ちなみにLeicaの新社長が元Sonyの役員出身だということも関係あるのかな? かつてMinoltaとLeicaが提携してLeica CLという小型のレンジファインダーカメラやLeicaflexという一眼レフを共同開発した歴史があるが、これは関係ないだろう。

 こうしたミラーレス重点開発というモチベーションは同じでも、出来上がってくる製品には違いが現れる。この辺は両社のカメラ造りのDNAの違いだろう。

1)コンセプト

Leica SL:ミラーレスは軽量小型カメラ、という常識を見事にぶち破った(!?)カメラ。重厚長大カメラ(バズーカ砲を常時携帯!)になってしまった。日本製のフラッグシップデジイチに比べても重量級である。別に軽量化しようなんて考えてもいないだろうが。

Sony α7:フルサイズにしては軽小短薄ボディー。APS-CサイズのEマウントα6000シリーズのボディーとレンズの異様なアンバランスという軽小短薄路線からスタートしたわけだから。しかし(その意に反して?)結構本格的なレンズ群GやG-Masterを開発するにつれ重量級システムになってきた。

2)レンズへのこだわり

Leica SL:渾身の重厚長大ズームレンズ(ズームでも画質の妥協はない。鏡胴は全金属製でこちらも妥協がない)。現時点では標準ズームの24−90mmと望遠ズームの90−280mmがラインアップされている。一見、長さはNikon, Canonのそれと同レベルに見えるが、その質量は超弩級。焦点距離とf値は同じでも描写性能を重視するとこういうアウトルックになる、という例だろう。

Sony α7:Zeissブランドでスタートしたが、ミノルタロッコールレンズの伝統を引くGシリーズ、さらにはG-Masterシリーズを新たに投入してきた。イメージセンサーの高画素化に対応したレンズ群、すなわち高解像度に加えて滑らかなボケ味を追求した高性能レンズをこれから続々と投入してくる予定だ。こちらも画質に妥協はないが鏡胴の質感はLeicaに比べるとさすがにそこそこだ。適度にエンジニアリングプラスチック素材を使い軽量化を試みる、というの日本的な合理化、コスパ追求、ユーザ利便性追求の結果だが。

3)価格

Leica SL:びっくり仰天価格!SLボディーだけで95万円。標準ズーム24−90が65万円。望遠ズーム90−280が75万円!Nikonのプロ用フラッグシップD5でも60万円だからかなり強気なプライスタグ。しかし、Mシリーズに比べればこれでもリーズナブルと言いたげなプライシングだ。名機は安売りしないというわけだ。

Sony α7:ライカの半分以下の価格。その比類のない性能に比して大きなディスカウントプライスだ。それでもα7R・SIIは頑張って40万円越えの値付け。Gマスターレンズシリーズは20万円越えを設定。ライカが「あんな」値付けをしてくれるので、安心して「こんな」高値がつけられる。


4)コストパフォーマンス

それを言っちゃあお仕舞いよ!なんだろうな。それを求めてはいないのだ。少なくともLeica社は。しかし、Sony α7の描写性能、操作性はLeica SLのそれに劣らないどころか上回っているくらいだ。最新の技術と機能のフルスペックを余すところなく小さなボディーに詰め込んでいるその姿はさすがSony! ボディーやレンズ鏡胴素材を軽量化している分、お道具としての「いい仕事してますね〜感」でLeicaが高得点しているぐらいの感じだ。コスパを語るならSony α7は魅力だろう。こういうLeicaに分の悪い比較コメントは、必ず(高い金払ってしまった)ライカファンからのブーイングがあるのでこれくらいにしておこう。「いちいち他と比べるなよ、そんなカメラじゃないんだから、コッチは」と。

5)写り

デジタルカメラもここまで来たかというこの両システム。特にSony α7RIIの4240万画素CMOSセンサーが叩き出す画は何か一線を超えた感がある。Leica SLのほうはやはりそのレンズの性能へのこだわりが強烈だ。重くなっても、大きくなっても構わない。ズームでも画質優先思想に妥協はしないという頑固さが際立っている。これもズームレンズによる異次元の描写性能の世界を拓いた感じがする。ライカがズームレンズを作るとこうなる、と言いたげ。もっともこのシステムを撮影現場に持ち出すには、しっかりしたストラップと、カメラと交換レンズ群に見合った頑丈なカメラバッグと、三脚と、そして筋トレが必要だが。ちなみにSonyが軽小短薄路線にもかかわらず、レンズが高解像度を目指すに連れ重厚長大化しているのは皮肉。まだまだ軽小短薄高性能レンズへの挑戦は道半ば、という訳か。35ミリフルサイズカメラも高画素化に伴い解像度では中判カメラを凌駕した。ハッセルブラッドが最近中判デジタルカメラを発表したが、結構厳しい戦いになるのだろう。


 これからの「高品質」とブランド価値

 安くて高性能/高品質。それが誰でも手に入れられる。大量生産、大量消費。これを目指してきたモノ造り哲学の結果がすなわちコモディティー化の道であったことに気づいて久しい。革新的と言われる技術の陳腐化のスピードが速くなっている。昨日の差異化要因はすぐに目新しいモノではなくなってしまう。誰でも作れる。ならば製造コストが安い方が(特に海外の途上国)競争優位に立てる。こうして安くていいモノが大量に出回る。製品単価は下がり続け、したがって利益は薄い.... 薄利多売=コモディティー、というモノ造りビジネスモデルのジレンマに陥ってゆく。「高付加価値」は別の形で実現されるべきだ。SonyもLeicaも感性に訴える高品質ブランドの代表であるが、これからの「高度成熟期」のブランド戦略は「高度成長期」のそれとは異なる。コモディティーよりちょっと高級、ちょっと感性をくすぐってカッコイイくらいの差異化要因では存在価値はない。それはすぐに後発競争相手に追いつかれるからだ。これまでのブランドとは違うイメージを再構築せねばならない。例えば、誰もが共有できるみんなと同じ価値ではなく、自分しか持てないストーリー、私だけの喜び。得難い希少性。すなわちexclusivityのような。「モノより経験」といった、モノから出てそのモノを超えた世界を提示してみせるような。その点ではLeicaの挑戦が興味深い。「遅れてきた名門ブランド」が新たな勝ち組の世界を築いてゆくのか...

 「デジタル化」という究極の標準化・合理化テクノロジーのなかに、どのように人とは違う自分だけの「味」とか「感覚」「感性」といった非標準的、非合理的な「曖昧さ」を伴う価値を醸し出すか。それを所有し使うことによって、人とは異なる世界を表現できるか、体験できるか。新たなパラダイムシフトの時代に入った。そうでなければどんどんコモディティー化という負のスパイラルに巻き込まれてゆく。ビジネスをする側もブランド価値を高めて行かないと事業継続の意欲を失って行くだろうし、買い手もワクワクしない。スマホのカメラで十分だ。いやスマホの方がワクワクする。あらたなブランド・エクイティーを築くのは誰なのだろう。こんなビジネスの世界も、線形物理学的な合理性ではなく、1+1=2にならない非線形系と、連続性が保証されない離散系といった複雑系の「合理性」の時代へと突入してゆく。イノベーションとはそうした中で起こるべきものだろう。



左から、Sony α7, Leica SL, Nikon D800
Nikonは一眼レフ(ミラーあり)だ

Leica SLと Sony α7サイズ比較
Sonyも最新のレンズを装着するとかなりの重量級となるが