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2017年9月3日日曜日

臼杵を散策する 〜大友宗麟の夢の王都=

臼杵城下二王座の街並み



 大分県の臼杵といえば国宝の臼杵石仏がすぐに思い浮かぶが、実は、その城下町のユニークな歴史的景観がもう一つの特筆に値する魅力であると思う。昨年は時空トラベラーの「日本の美しい街並み」探訪で、同じ豊後国杵築の城下町を散策した。こちらも行ってみたい城下町のトップファイブにはいる街であったが、もうすこし足をのばした所にある豊後臼杵も、以前から行ってみたい城下町の一つであった。博多から日帰りで杵築と臼杵を両方巡るのは少々タイトスケジュール過ぎるので、前回は杵築のみの訪問にとどめておいた。これは正しい判断であった。どちらも1日かけてゆっくり探訪するにふさわしい魅力をたたえた町であったからだ。臼杵は、杵築から別府、大分を挟んで日豊線特急で30分ほど離れている。またこの辺りには宇佐神宮や国東半島の六郷満山仏教史跡があり、「時空旅行人」が避けて通ることを許さない。さらに足を伸ばせば「荒城の月」で有名な豊後竹田の城下町もある。「豊の国」はじっくり泊付きで歩き回るのが本当は良い。


 臼杵城は、九州六ヶ国の守護大名で九州探題の大友宗麟の居城、丹生島城がその始まり。1562年に豊後府中大友館(大分市)から統治拠点を臼杵に移し、臼杵湾内の丹生島に城を築いた。これは当時としては珍しい陸から離れた海城であった。現在は街中の小山に築かれた平山城のようにみえるが、江戸時代末期、さらに明治以降、城の周辺の埋め立てが進んだためこうなったわけだ。 しかし臼杵の城下町は宗麟の1562年の築城以来、450年にわたり当時のままの町割りと道幅を残している稀有な街だ。基本的には城の西の大井戸がある「辻」を要とし、西に八丁大路の中心街、北、南に主な通りが扇のように広がる構造となっている。もっとも整然としているというよりは城下町らしく、大きな道を一歩入ると狭い路地が複雑に入り組む構造になっている。ちなみに先の大戦でも空襲を受けていない。

 臼杵市は現在人口4万。農業、漁業のほか、造船や酒、醤油、味噌醸造が主産業の地方都市となっている。しかし16世紀後半、大友宗麟の時代には臼杵は九州六ヶ国を治める中心都市であった。さらにここでは明やポルトガルとの交易が盛んに行われた。臼杵の港には南蛮船が入港。明の商人を始め多くの外国人が住んだという唐人町という地名が今も残る。また宗麟は晩年キリスト教の洗礼を受け、キリシタン大名として城下での布教を広く進め、教会や修練所(ノビシャド)を設けた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルとも引見した。ルイス・フロイスの記録によると宗麟を「豊後の王」と呼んでいる(以下引用)
ルイス・フロイスが臼杵(うすき-大分県)からポルトガルのイエズス会に送った書簡。
豊後の王は今四八、九歳なるが、日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり。始め一、二箇国(豊後・豊前)※を有するに過ぎざりしが、今五、六箇国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向)※を領し、その保有に心を尽し、ほとんど戦うことなくしてこれを領有し、また統治せり。彼は、日本において我等に好意を示したる最初の王にして、当地方のコンパニヤ(イエズス会会員)の父のごとし。しかしてパードレ(伴天連、神父)およびイルマン(伊留満、修道士)等がその領内に居ること二十七年なるが、たえず領内において我等を庇護せるのみならず、不幸に遭遇せる際我等を保護し、パードレ等の求に応じて免許状を交付し、またパードレ等がデウスの教を弘布せんと欲する都、その他異教徒の諸国の王侯大身等に書翰を贈り、教化の事業を援助せんことを請い、また好意を得んため進物を贈れり(村上直次郎訳注『耶蘇会士日本通信豊後編』雄松堂出版刊 1982年)

 また、当時国際貿易港として繁栄を極めた博多の貿易利権を周防の大内氏と争っていた。博多の豪商、神谷宗湛、島井宗室などとの交流があり、博多沖浜には「大友館」があった。博多の繁栄を支えたのも宗麟であった。

 いっぽうで、九州の覇権を巡って繰り広げられた薩摩島津氏との戦いの中でも、1578年の「耳川の戦い」は激戦であった。ここで宗麟は島津義久の薩摩勢を撃退したものの、多くの重臣を失うなど大友氏は大打撃を受けた。以降、島津との九州覇権争いで豊臣秀吉の支援を受けることとなり、特に秀吉の九州征討軍の軍師、黒田官兵衛の島津攻めで大友氏は窮地を救われる。宗麟の死後、その子義統は秀吉への臣従を誓い、領国を減らされたものの豊後一国を統治する大名として命脈を保つ。しかし、文禄慶長の役で義統は敵前逃亡の罪で改易。領地を失い流浪の身となる。太閤秀吉が死に、やがて関ヶ原の戦いで徳川の東軍が勝利すると、その機に乗じて、義統は旧領を実力奪回しようと杵築城に攻め入るが、黒田如水に阻まれやがて大友家は滅ぶ。かつての九州の大戦国大名大友氏は、一度は黒田如水に救われ家名を残したものの、結局黒田に命脈を断たれるという皮肉な結果となった。

 江戸幕府開府により、1600年、美濃国郡上八幡より稲葉家が臼杵に入府する。臼杵藩5万石となった。稲葉家はあの春日局のおふく時代の嫁ぎ先であった一族。稲葉家の領国統治は明治まで続く。キリシタン関連の施設はすっかり一掃され、南蛮貿易の栄華の面影も、今それとわかる痕跡は何も残っていない。教会跡と想定される場所にわずかに標識が立っているだけだ。先述のように、臼杵の城下町の町割りと道幅は宗麟時代のものであるが、今残る城跡も家並みもこの稲葉家統治時代に整備されたもの。堅実な臼杵人気質も江戸時代に形成されたものと言われている。美濃国郡上八幡から稲葉氏とともに移ってきた商人が創業した店が八町大路の大店として軒を連ねている。

 江戸時代、杵築藩もそうであったが、大友氏改易の後、豊後国、大分には一国を治める大名は置かれず、5万石ほどの小藩が分立した。どこも徳川譜代大名で、黒田や細川、加藤、島津といった外様の大大名を監視しする役目を持っていた。臼杵城下町も、こうして九州六ヶ国の守護大名、九州探題にして、キリスト教の理想の国を作ろうとした大友宗麟の「王都」の面影は払拭され、徳川幕藩体制下の稲葉色を色濃く残す城下町になっていった。

 ちなみに1600年4月19日、臼杵湾佐志生沖に浮かぶ黒島にオランダ船リーフデ号が漂着。のちに徳川家康に仕えるイギリス人ウィリアム・アダムス、オランダ人ヤン・ヨーステンが上陸した。当時の臼杵藩主太田氏の保護で、江戸の徳川家康に謁見することになるわけだが、日本という異国の地でのその数奇な人生の第一歩となった地である。ルイス・フロイスやフランシスコ/ザビエルの残した記録をもとに、当時の南蛮人、紅毛人は大友氏の豊後府内(当時の地図にはBungo Funaiと記されている。)をめざして航海してきたのだろう。


(参考)去年6月に豊後のもう一つの城下町「杵築」を訪ねた時のブログ。

杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜




写真集:


1)二王座の街並み。

 武家屋敷と寺院の混成地域。「二王座歴史の街」としてこの地域一帯が修景保存がなされていて臼杵城下町独特の景観を形成している。城下町の南の高台に位置しており、阿蘇溶岩流で出来た起伏のある地形を開削し、切り通しを作って寺院と上級武士の屋敷を配置した。武家屋敷も長屋門や石垣に囲まれた立派なものがよく残っているが、寺院の方も、堂々たる白壁の大伽藍が軒を連ねている。起伏のある地形に石畳の路地が迷路のように走っており、地理が分かりにくい一角となっている。やはり防衛上の理由だろうか。高台に上級武士屋敷、下町を商家街に、という構造は、先に訪問した杵築城下町と共通しているが、杵築城下町が南北の高台に整然と上級武士の邸宅や藩校が並んでいるのに対し、臼杵は寺町と武家屋敷を混在させ、かつ複雑な地形と迷路のような町割りにしている点が特色だ。


ここは二王座

二王座
旧稲葉家長屋門

二王座の寺院街
善正寺


珍しく洋館がポツンと
映画のロケ地になったことがあるとか


二王座の武家屋敷街




旧真光寺の二階から二王座の家並みを展望することができる


旧真光寺本堂


本堂の梁



二王座に残る堅固な石垣でできた武家屋敷
現在も人が住んでいる
石垣と石畳の景観


寺町の景観

堂々とした伽藍が並ぶ
善法寺

稲葉家土蔵

旧稲葉家長屋門

長屋門の一部がカフェになっている


サーラ・デ・うすき
宗麟が建てたキリスト教修練所「ノビシャド」をイメージして建てられた文化施設
キリスト教の王都臼杵の面影が一掃された城下町にあって異彩を放っている



2)八町大路の街並み。

 古い商家がずらりと軒を連ねる八丁大路の景観は圧倒的なものがある。この通りは宗麟の時代に城下町の中心通りとして設けられた。現在でも「中央通り商店街」として臼杵市一番のメインストリートとなっている。1600年創業の可児醤油は美濃から稲葉氏に従って臼杵に移り開業した老舗。黒漆喰の建物は築350年というから驚きだ。通りに沿って生活に必要なものを商う店がずらりと並んでいるが、いずれも歴史を感じさせる昔ながらの商家の建物ばかり。新しくできたスーパーも周りの景観に配慮した町家風の落ち着いた建物である。このほかにも酒、醤油、味噌などの醸造業が盛んで、老舗の小手川酒造、小手川商店の分銅金(フンドーキン)醤油工場が臼杵川の中州にある。また久家酒造の蔵も歴史的建造物として保存されている。作家の野上弥生子は小手川家の出。実家の小手川酒造の建物の隣に記念館がある。どれも現役の商家、商店、工場として今も商売、製造を行なっているところが凄い。

八町大路に店を構える可児家
創業慶長五年、築350年の老舗だ


辻からみた八町大路
手前は可児家商店









川筋方面から見た八町大路(現在の中央通り商店街)の家並み


分銅金醤油工場
臼杵川の中州にある


醸造業の老舗が立ち並ぶ掛町/浜町/横町あたり

小手川酒造

フンドーキン醤油


野上弥生子文学記念館
実家の小手川酒造の建物に連なっている

久家の蔵
江戸時代末期の久家本店の蔵
現在は南蛮文化交流施設として利用
壁面にはポルトガルの伝統タイル「アズレージョ」で飾られている。




3)旧藩主稲葉家臼杵下屋敷。

 明治維新以降、東京に移った旧藩主稲葉家の臼杵下屋敷として建築。隣接して平野家武家屋敷もある。旧藩主が明治の版籍奉還ののち華族となって東京に移り住むこととなったが、やはり地元に住みたいと、旧藩主邸に戻ったり、新たに邸宅を構えた殿様が多かったようだ。各地の城下町にはこのような明治以降の旧藩主屋敷(しばしば洋館もある。伊予松山久松家や筑後柳川立花家のような)が見られる。臼杵の場合、地元の有志でこの屋敷を建てて殿様をお迎えしたという。殿様と地元との絆が今に生きる様が見て取れる。


稲葉家下屋敷


屋敷を取り巻く掘割には鯉が
この日は見えなかった



廊下
玄関


大書院から庭園を望む




大書院内部

大書院外観



旧平井家住宅
武家屋敷



 お居間と大書院




4)臼杵城

 先述のように、大友宗麟が大分府中から、ここ臼杵湾に浮かぶ小島、丹生島に城を築いて移り住んだのが始まり。その後稲葉家の居城となり、明治維新まで続いた。その間、城の周りは徐々に埋め立てが進み、特に明治以降、大規模な埋め立てが行われて、いまや街中の小山のそそり立つ城、といった風情になっている。維新以降、城の大半が破却され、天守も残っていない。幾つかの門、櫓や石垣の一部が復元された。現在は城跡公園となっており、そこからは西に二王座や八丁大路などの古い城下町が、北と南と東には埋め立てられてできた新しい市街地が望める。


臼杵城全景
辻からの景観


大手門

大門櫓

畳櫓
大門






畳櫓越しに八町大路を望む



二王座方面


二王座方面

畳櫓の甍

八町大路の甍の波

宗麟がポルトガルから入手したフランキ砲
レプリカ

天守櫓あと

城跡公園から望む「臼杵造船」
昭和63年の創業



5)臼杵の石仏

 駅からバスで20分ほどのところに有名な臼杵の石仏群がある。国宝である。大正期に発見されたのだが、いつ誰がどのような目的でこのような石仏群を築いたのか今だに明らかになっていない。おそらく平安末期から鎌倉時代のものだろうという。国東半島には富貴寺の阿弥陀堂や真木大堂など多くの仏教史跡、寺院、国東塔がある。いわゆる六郷満山と言われる信仰の山である。こちらは宇佐神宮の神宮寺であったり、山岳宗教との融合があったと言われている。このように豊後国には豊かな仏教世界が広がっていたようだ。宗麟が築こうとしたキリスト教の神の国は夢と消えたが、この地は人々の心の安らぎを求め続けた土地だったのだろう。臼杵石仏は今回は訪問できなかった。臼杵駅前のレプリカの写真でご勘弁。



大日如来のレプリカ

(撮影機材:SONYα7RII + 24-70/2.8)



 江戸時代の臼杵の古地図。城が海中にあったことがわかる。現在のJR日豊線臼杵駅は右下方向(南東)の海中に位置する。臼杵市役所は上方(北)の埋め立て地に、また臼杵造船所は城の右(東)の海中に位置する。

江戸時代の臼杵城下町図
城は海の中の丹生島にあった。
現在は周辺が埋め立てられ街中の丘の上にあるように見える
町割りは当時のまま
(臼杵市観光案内より)
観光案内図



2017年8月25日金曜日

宮地嶽神社の謎 〜「光の道」は誰の道 宗像族?安曇族?〜


宮地嶽神社参道
年二回夕日が参道の真正面の海中に没する光景が有名で「光の道」として人気が出ている

海中には相島が
海人族の古墳や大陸への渡海の拠点跡が見つかっている


 今年、宗像大社の沖ノ島など三宮(沖津宮、中津宮、辺津宮)と、関連遺産の新原・奴山古墳群が世界遺産に登録されることになった。4〜7世紀の宗像海人族の地域祭祀とヤマト王権下の国家祭祀への変遷をいまに残す貴重な沖ノ島遺跡、およびその関連遺産である。有名な沖ノ島は海の正倉院と呼ばれるほど、手つかずの奉納品や祭祀跡が残されており、大陸との交流を物語る出土品の数々はすべてが国宝。

 一方、このあたりにはもう一つ宮地嶽神社という古社がある。地元福岡では宗像大社と宮地嶽神社、箱崎八幡宮、太宰府天満宮はお正月の三社参りの定番コースとなっており、昔から参詣者が多い神社である。子供の頃の私にとって宮地嶽神社は太宰府天満宮参道の名物「梅ヶ枝餅」と似た「松ケ枝餅」を食べたことしか記憶にない。しかし、こうして日本の古代史に興味を抱き研究し、その一環としての各地の神社、古神道の由来に思いを致し始めると、宮地嶽神社についてもどのような由緒のお社なのか興味が湧いてきた。しかし、そう思って調べ始めると宗像大社などと比べその由来、歴史的背景が不明であることに気づき始める。神社記載の創建由来には、日本書紀の記述に神功皇后が三韓征伐に出かける前に、宮地岳に登ってはるか大陸に向かう海を眺めながら渡海の安全と戦勝を祈願した、とあり、その故地に社を建てたのが始まりとされる。息長足比売命(神功皇后)とその時に付き従った勝村大神(藤高麿)、勝頼大神(藤助麿)がご祭神であるとされている。全国宮地嶽神社の総本宮だ。日本の神社は日本書紀や延喜式神名帳の記載を創建の由来としているところが多い。しかしそのような「公式記録」が編纂される7世紀後期以前の姿はなかなか見えてこない。天武・持統朝以降は日本の神は全て皇祖神天照大神を頂点とする神の体系化に組み入れられてきた。「神社」という拝礼のための施設が設けられるようになるのもこれ以降のことだ。もちろんその以前には様々な地元の神、氏族・豪族の祖霊神、自然神がいた。まさに八百万の神々であったはずだ。その時代の神の姿、信仰の姿は見えてこない。

 この宮地嶽神社についても同様。この地元の人々の崇敬厚い古社の成り立ちは上記の日本書紀の記述があるのみだ。そもそも勝村大神、勝頼大神とはどのような神であったのか。藤高麿、藤助麿とは何者なのか?地元の豪族の一族であったのだろうが宗像海人族との関係があるのか。津屋崎古墳群に位置するエリアであるが、どのような人たちであったのか。宗像大社との関係など、どうもあまり明快になっていない。ネットで検索しても、地元の個人の研究家のブログにユニークな解釈と推理が掲載されたものはあるが、学術的な研究資料や古文書紹介などは極めて少ない。もっとも個人ブログは読んでいて面白いのだが。

 やはり現地へ足を運んで見ることにした。何十年ぶりの参拝であろうか?それこそあの「松ケ枝餅」以来であるから。昔は貝塚から西鉄宮地岳線に乗って簡単に神社参道まで行けたが、2007年に新宮から津屋崎までが廃線となってしまい鉄道の足を失ってしまった。今回はJR福間駅からバスで向かった。参道入り口に近づくにつれ、鳥居の背後に美しい三角錐の甘南備山が聳えているのを発見した。やはりそうなのか!これこそ宮地嶽である。甘南備山をご神体として崇拝する古代の聖地そのものの佇まいである。まさに宮地嶽とはご神体山のことだったのだ。古社参拝に際してまずは納得の景観である。

 宮地嶽神社は、宗像大社、新原・奴山古墳群の南西に10数キロしか離れておらず(現在の行政区分では福津市(福間と津屋崎が合併して福津!)に属す。宗像大社は宗像市)、旧宗像郡(律令制下では「宗像神郡」として特別の扱いであった)に位置している。中世から近世に栄えた津屋崎千軒もすぐ近くだ。周辺に広がる津屋崎古墳群はおそらく海人族の有力勢力の奥津城であろう。それが宗像族なのか安曇族なのか。安曇族は綿津見神を奉斎し糟屋郡の志賀島、志賀海神社をその依り代とする海人集団であった。古代奴国の漢王朝への朝貢にも関わった可能性がある筑紫倭国の海人一大勢力。しかし、6世紀に起きた「筑紫君磐井の乱」では磐井(チクシ大王)側につき、その敗北とともに信州安曇野(「穂高神社」には一族の守護神、綿津見神が祀られている)初め、全国に離散する。さらに白村江の敗戦では族長安曇比羅夫が戦死し、一族は歴史の表舞台から消えてゆく。あるいは一部のグループは住吉神社の祭主としてヤマト王権に仕えたとも言われる。一方の宗像族(胸方族)は筑紫君磐井の乱ではヤマト王権側につき、ヤマト王権を守る宗像三女神を奉斎する地方有力豪族として「本領安堵」されて繁栄を誇る。宗像大社はその宗像海人族の依り代である。宮地嶽神社は、宗像郡内に位置しているものの、安曇族の志賀海神社(糟屋郡)と宗像族の宗像大社(宗像郡)の中間に位置している。宮地嶽神社の立ち位置が問題となるわけだ。鎌倉時代の古文書には宮地嶽神社が宗像大社の域外摂社の一つであるという記述がある。いつの間にかそういう位置づけにされてしまった可能性もある。

 祭祀の形態も宗像大社と宮地嶽神社では異なるようだ。宗像大社辺津宮周辺には甘南備山は見当たらない。大島中津宮、沖ノ島沖津宮、ともっぱら島を神の依代、ご神体として海に向かって祭祀を行う。辺津宮には古神道の原型と言われる磐座「高宮斎場」があり、ここは鬱蒼たる森の中に鎮座している。大陸への海上交通を守り、やがては出雲大社と同様「道主貴(みちぬしのむち)」としてヤマト国家の安寧を守る国家祭祀を執り行う。社格は延喜式神名帳の官幣大社であり式内社。

 一方、宮地嶽神社の背後には美しい甘南備山、標高180mの宮地嶽がそびえる。ちょうどヤマトの三輪山や春日山、早良國の飯盛山、伊都国の高祖山を彷彿とさせる景観である。おそらくこのご神体山が先に信仰の対象であったのだろう。拝殿や神殿のような参拝用の神社建築ができるのは、仏教伝来以降(仏教寺院建築の影響を受け)のことである。ここ宮地嶽神社周辺を俯瞰すると、神が降臨する磐座や神籬、依り代といった場所で祭祀を行う原始神道の形態、さらにはその山や杜や川、岩そのものが御神体となる自然崇拝アニミズムにより立つ古神道の典型のような佇まいが残っている。社格は県社で延喜式に記載のない式外社である。

 宮地嶽山上には神功皇后が戦勝祈願をしたという場所に建てられた古社跡がある。この神奈備山は本殿の北に聳えており、かつては海からその姿が真正面に拝めたことだろう。さらに宮地嶽神社境内には本宮跡がある。実はこここそ参道の真正面なのだ。ここから真西の海岸線に向かって参道が800メートル一直線に伸びる。年二回夕日がその参道の先の海中に落ちることから「光の道」として有名になっている(昔から有名だったのだろうか?あまり記憶にない。最近のTVCMで人気スポットになったようだ)。その海中には相島が見える。そこは海人族のものと考えられている積石古墳群がある。宮地嶽と相島。山神と海人。どのような繋がりがあるのだろう。いろいろと想像を掻き立ててくれる景観ではないか。現在の本殿は参道の真正面にはない。すこし左に折れたところに建っている。明治期の再建だという。通常、東西南北いづれかに面した参道の正面に本殿があるべきだが、ここはどうしてこの配置になったのか。黄金色にかがやく本殿屋根が異彩を放っているが。

 さらに本殿の奥へ進むと奥宮があり、奥宮八宮巡りができる。その一つは不動明王を祀る社であるが、これは7世紀初築造といわれる円墳、宮地嶽古墳である。江戸時代に石室が確認され、その後の発掘調査で横穴式の大規模な古墳であることがわかった。横穴は23mにもおよび、ヤマトの石舞台古墳や見瀬丸山古墳に匹敵する巨大石室を有する。江戸時代中期にその石室を利用して不動明王を祀っている。ここからは金銅製の太刀や馬具、装飾品など多数の貴重な副葬品が出土しており「地下の正倉院」と言われるほど。そのうち十七点が国宝である。誰の墓なのか?学会の定説では、海人族である宗像一族の長で、天武天皇の妃、古市の皇子の母となった娘の父、宗像徳善の墓であろうとしている。一方、ここは宗像族の支配エリアではなく、筑紫君磐井の子孫、葛子の支配エリアである。磐井の乱後、葛子は粕屋の屯倉をヤマト王権に差し出したのちも糟屋郡あたりに勢力を保持したと唱える人もいる。したがって宮地嶽神社は磐井一族の社(勝村大神、勝頼大神は磐井の子孫とする)であり、もう一つの海人族の大勢力安曇族の勢力範囲であったと説明する。宮地嶽神社関係者はこの説をとっており、古墳の主も胸方徳善ではなく安曇/磐井一族であるとしているようだ。このように未だ謎が多い宮地嶽神社だ。宗像大社と宮地嶽神社は、ヤマト王権に寄り添った宗像族と、筑紫君磐井に寄り添った安曇族のその後の一族の明暗を分けるせめぎあいの場であったのだろうか。

 ここでも古来からの海人族の土着の祭祀と、稲作農耕民の甘南備山信仰、6世紀以降ヤマト王権の古墳といった祭祀の形態が混ざり合っていったのだろう。7世紀末から8世紀に天武・持統朝に「日の本」という国家成立、天皇支配の正当性を宣言すべく編纂されたヤマト王権の正史、日本書紀には、筑紫倭国の王・首長/豪族たち、地元の海人族の祭祀については記述されていない。それは中央から遠征してきた神功皇后の三韓征伐戦勝祈願(宗像三女神への)と、それに付き従った地元の神・豪族の姿として記述されているだけだ。記紀では、常に筑紫は大和に支配された地域であることしか書かれていない。したがってヤマト王権に従った勢力、宗像族/宗像大社に関する記述はあるが、「反乱者」「チクシ王権」である筑紫氏の磐井や安曇族、志賀海神社、宮地嶽神社に関する記述は簡単なものか、神功皇后のようなヤマト王権側の人物の活躍と関連付けた由来が記述されるのみである。敗者の歴史は抹殺される。もっとも、伝承はともかく神功皇后自体その歴史的実在が疑われるし、三韓征伐という伝承も、史実に即したものであるか疑わしい。

 北部九州には神功皇后やその子応神天皇にまつわる伝承、神社(八幡信仰)が非常に多い。もっとも八幡神自体は記紀には登場してこない。八幡神の依代である宇佐神宮も、もとは渡来系の辛島氏の祭祀の場で、八幡神信仰は大陸の神の影響が強いとも言われている。神功皇后と応神天皇の事績の記述は、もともと渡来人とチクシ倭国の王や豪族であった人物の活躍を神格化して、チクシ平定のプロセスとしてヤマト王権の創世ストーリーに取り入れていったのかもしれない。チクシ倭国は大陸との交流が頻繁な海洋国家であり、また列島最初の稲作農耕先進地域であった。記紀には記載されない「この国の成り立ち」を物語る様々な出来事がここではあったはずだが、それらはヤマト王権の描く歴史の闇に追いやられてしまった。そこを掘り起こさねばこの国の成り立ちの真の姿は見えてこない。邪馬台国も卑弥呼も漢委奴国王も倭面土国王帥升の名も、日本の正史である日本書紀には一切出てこない。ここ宮地嶽神社には倭国の成り立ちを解くカギが隠されているかもしれない。



正面の神奈備山、宮地嶽
これこそ古神道の御神体山
山頂に古社跡がある



人気の景観となっている
しかし、古くは海岸線はすぐ手前にあったという





日本一の大注連縄

宮地嶽奥宮古墳
宗像海人族の長得善の墓だと言われているが、異説もある。
貴重な副葬品の数々が出土し「地下の正倉院」といわれる

宮地岳奥宮古墳石室内
お不動さんを祀っている

本宮跡
参道の真正面に位置していた


現在の本殿
金色の屋根

(撮影機材:SONYα7RII+24-70/2.8)