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2017年11月9日木曜日

Nikon Fマウントレンズ勢ぞろい!〜その宇宙に吸い込まれてみる〜

 ニコン創業100周年記念展示企画のトリを飾る企画展「Fマウント・Nikkorの世界」を見てきた。品川のニコンミュージアムで開催中。Nikon F以来のニコンファンなら垂涎のコレクション。437本のFマウントレンズが勢ぞろい!圧巻!壮観!至福感!見よこのF Nikkorの悠久の歴史を!最新鋭のデジタル一眼レフD850にも全てのレンズが装着できるという永遠不滅のFマウントである。ユーザのレンズ資産を無駄にしないという考え方はライカMマウントと同様である。

 ユニークなのは、広大な展示ケースの上部ガラスカバーを外し、全てのレンズが直接見えるように展示されている。触ろうと思えば触れる陳列だが、もちろん「お手を触れないよう」との注意書き。しかし、太っ腹だ。上面ガラスがないことで上からの照明がカバーに反射して、美しいレンズが見え難くならないように配慮されている。しかも、その照明にちょっとした工夫が。アクリルカバーで上手にデフューズされていてギラギラしない。そして、よく見ると星型とハート形の照明のコーナーもある。レンズの枚数と多層コーティングにその🌟と❤️の照明が映えてまるで色とりどりの宝石のようだ。昔のアンバーがかったコーティングのものから、最新のマルチコーティングまで、レンズよって彩りが異なることも新しい発見だ。最新のレンズはさらにレンガラスの透過性が高く、外からは内部のレンズが見えにくい。まるでブラックホールに吸い込まれるような感覚だ。しかしこうして光をあてると各層のレンズに施されているコーティングにより、多色の模様が多層的に浮き上がって見える。まるで宇宙を3D映像で見ているようだ。なんだか不思議な浮遊感を味わうことができる。なんと心憎い演出。レンズは撮影するための道具であるのだが、ここまで美しいとそれが鑑賞の対象になりうる。ニコンレンズの宇宙に吸い込まれる一日であった。

 ちなみに撮影は、ニコンへのレスペクトとエールを込めてLeica M10+Apo Summicron 75/2で。あえてNikon D850+最新のAF Nikkorではなく永遠のライバル、ライカを持ち出すところに歴史的因縁のストーリーを思い起こさせる妙味がある。レンジファインダーで0.7mまでしか寄れないというライカレンズの近接撮影の限界(?)を超えて、一眼レフへのパラダイムシフトを果たしたF Nikkorという歴史的好敵手の極みを映し出すには、やはりこれしかないと考えた。ライカが美しいのかニコンが美しいのか。なんという贅沢な「至極の美」対決であることか。遊びの極致であるが。

















































(一部写真は寄り切れないため、クロップしています。)


2017年11月4日土曜日

仏教伝来とキリスト教伝来 〜グローバル化の受容と拒絶〜

(未定稿)

「仏教伝来」:538年/552年、(百済聖明王より仏像、仏典が倭欽明大王に。仏教公伝)
「キリスト教伝来」:1549年(イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸。布教開始)

1000年の時を隔てて日本に伝来した二つの世界宗教。その時代の世界文明の波をどのように受け止めたのか。異文化の受け入れには紆余曲折があろうことは容易に想像できるものの、結果的には異なる道を歩むこととなる。仏教は受け入れられ、古来からの原始神道(自然崇拝/祖霊崇拝)との融合が進み、以降日本文化の基盤をなすこととなる。一方のキリスト教は受け入れられず、伝来半世紀にして禁教令、バテレン追放、キリシタン弾圧、そして200年の鎖国時代を迎えることとなる。西欧流の近代文明が日本文化へ大きな影響を与えるのは開国後に持ち越されることとなる。いわば日本は歴史上二つの大きなグローバル化の波を受けたが、その対応は大きく分かれた。

何がこのような異なる結果を生んだのか。幾つかの切り口で考察開始!

1)国内時代背景

仏教:6世紀半ばの倭国、有力豪族による争い。ヤマト王権による列島平定に向けての戦い、国家創世の時代。倭から日本(ひのもと)誕生の約150年前。

キリスト教:16世紀後半の日本、有力戦国大名による争い、中世から近世への転換期、戦国時代の終焉から天下統一の時代。

2)国際情勢

仏教:古代東アジア的世界秩序形成期。秦、漢統一王朝が崩壊し、三国時代、南北朝時代へ。中国に大乗仏教が伝わり北魏では雲崗、龍門に石窟寺院が創建され、南朝梁でも仏教が支持された。朝鮮半島にも中国から仏教が伝来。朝鮮三国で仏教ブーム。百済と新羅と高句麗の対立。百済による倭国との同盟の一環で、最先端の思想、学問である仏教が伝えられた。

キリスト教:中世から抜け出て近世ヨーロッパが世界進出する大航海時代。「新大陸発見」、アメリカ、アフリカ、アジアの植民地獲得競争、帝国主義の始まり。カトリック国(スペイン、ポルトガル)と新興のプロテスタント国(イギリス、オランダ)の対立。植民地競争にカトリック/プロテスタント対立が投影される時代へ。

3)宗教の持つ性格の違い

仏教:在来宗教/思想/習俗との親和性。古来からの古神道(自然崇拝、のちに豪族氏族ごとの祖霊崇拝)の持つ多神教的世界観にはまる。神仏習合、本地垂迹という形、理解で融合してゆく寛容性があった(大乗仏教だからか)。当初は、蛮神として排斥する氏族と、これを積極的に受け入れる氏族が争ったが、後者が勝利した。信仰よりも、大王が天皇としての支配権を確立してゆく上での国家指導理念(鎮護国家の法)、さらには緊迫する国際情勢の中、世界文明を受け入れた「近代国家」であるとの対外アピールとしての宗教、思想、哲学として権力中枢に受容(国家管理)されていった(神道における最高神、皇祖神アマテラスの創設と合わせて進められたところに特色)。個人の救済、現世利益、来世願望の信仰としての仏教の受容は、奈良時代後期の宮廷、平安時代の貴族、平安末期の武士、そして民衆へと言うプロセスを経ながら移行してゆく。

キリスト教:一神教的排他性。進出先の既存宗教との融合というよりは対立、征服という歴史。野蛮な異教徒を教化して文明化するという目線。中世以前からヨーロッパでは強大なイスラム教勢力との戦いの歴史(ユーラシア大陸的俯瞰で見ると、イスラム教が世界的な広がりと文明の中心としてのポジションを占めていて、キリスト教はローマ帝国から西の大陸西端に圧迫されていた、いわばローカル宗教であった)。やがて聖地エルサレムを巡ってイスラム教徒の戦いの歴史に(十字軍遠征)。イスラム世界の外側(東側)にキリスト教徒がいる(プレスタージョンの伝説)という伝承から、東方世界への進出意欲。しかし、陸路はイスラム世界だったので、海洋ルートでの東方世界への進出を企図。さらにはカトリックとプロテスタントの対立。大航海時代のポルトガル、スペインの海外進出。「新大陸発見」南北アメリカ大陸への進出、マヤ、アステカ、インカなどの地域文明の征服、植民地化、キリスト教化。さらに希望峰経由でのアジア進出。やがてはイギリス・オランダの覇権に、という時代背景。日本における布教は、最初は南蛮文化の受容、渡来品獲得という権力者の意向に沿って始まった。しかし、信仰と言う意味では戦国時代という背景に民衆の苦しみ救済、来世の約束から入っていった。カトリックの戦闘的布教集団イエズス会の役割が大。民衆を取り込み、地元の君主を君主と思わぬ反権力志向。植民地化、帝国主義的海外進出の尖兵。一向宗的。

4)国内権力闘争の構造(内憂外患への対応)

仏教:ヤマト王権の全国統一事業の途中。有力豪族の勢力争い。蘇我氏、物部氏・大伴氏、中臣氏の対立。渡来系勢力の文化、先端技術を取り込んで権力基盤とした蘇我氏(崇仏派)。その中の仏教という「世界文明」の受容して権力基盤の確立を図った。一方、古来からの価値観、思想を基盤とした物部氏/中臣氏を打倒。しかし、やがて「乙巳の変」によりその蘇我氏が排除され藤原氏(中臣氏)が権力中枢に。やがて倭国は唐新羅連合軍に白村江の戦いで敗れ、大陸からの侵攻という対外的な危機を迎える。侵攻はなかったものの国家意識が芽生え「近代国家」体制の整備を急ぐ。そこで東アジアの「先進国」が導入している「世界文明」である仏教を鎮護国家思想として位置づける。律令制などの政治システム整備、大王から天皇へと支配強化、「日本」という国号と合わせ、いわば「大宝維新」「国家近代化」のイデオロギーとして取り入れられて行く。対外的に「文明開化した国」であることをアピール。

キリスト教:戦国時代を終わらせる天下統一事業の最終章。織田氏はキリスト教を仏教勢力(比叡山、一向宗など)を屈服させるための新たな思想として、新しい国家指導理念に取り入れようとした形跡。それ以上に鉄砲などの「近代兵器」入手、南蛮貿易利権志向。しかし道半ばで頓挫。続く豊臣、徳川政権も貿易利権に魅力。九州を中心とした大友氏のような大名もこうした観点から熱心に布教を支援。しかし豊臣vs徳川の対立構図のなかで、大坂城/秀頼+キリシタンが徳川政権から危険視され排除。背景にオランダが。
また対外的にキリスト教を国家宗教として導入し、統治支配の権威付けを行ったり、対外危機を乗り切るため「近代国家」を標榜する動機も意図もなかった。そういう国際情勢でもなかった。むしろ、南蛮/切支丹勢力の伸張こそが対外危機とみなした。仏教受容の背景との違い。

権力者の思惑、権力の確立に利用できるか否かという視点は共通。仏教は利用可。キリスト教は利用不可、あるいは利用の必要性ないと。民衆の信仰による救済という視点はいずれものちになってからのもの。

5)「近代化」への貢献:

仏教:古代における中国、朝鮮半島諸国と遜色ない「近代国家」の創造。律令制や唐風都城建設などと一体化されて受容されていった。異国風の寺院建築や美しい仏像などに魅了され憧れられ、それらを生み出す技術を積極的に受け入れてゆく。

キリスト教:戦国乱世を終わらせ天下統一の仕上げ。鉄砲伝来により戦いの形態が激変。外来文化、技術をいち早く取り入れた方が優位に。さらに南蛮交易による利権獲得のために切支丹に改宗する大名。最後は、禁教令、鎖国政策/出島管理貿易による貿易と宗教の分離。

6)文化への貢献

仏教:飛鳥、白鳳、天平文化に代表される日本の文化基盤を形成。

キリスト教:南蛮文化。安土桃山文化に影響。しかし日本文化の基層とはなり得なかった。

7)民衆の姿

仏教:初期には国家的宗教/思想/哲学。民衆の信仰とは無縁。わかりにくい教義。奈良時代後期から平安時代初期に入ると空海、最澄により教義解説、日本における新しい宗派誕生。貴族層、さらには武家層に受け入れられてゆく。民衆に受け入れられる現世利益、来世信仰は平安時代末期以降。

キリスト教:戦国時代にあって民衆の救いから一挙に30万人の信者を獲得。苦しい現世よりも来世の約束。反権力、殉教礼賛。皮肉にも支配層からは危険視されることに。禁教、弾圧、隠れの時代へ。


日本史における仏教とキリスト教を巡る動き。

仏教:

対峙した在来宗教はアニミズム/自然崇拝/祖霊崇拝(のちに神道へ)
インド/中国/朝鮮半島に置ける世界宗教/世界文化の受容による倭国の「近代化」
寺院建築、仏像、仏典などの「近代文明」の可視化。
崇仏派と廃仏派の対立
蘇我氏という渡来人をバックに有する権力集団による受容。
大王/天皇家による受容。やがて外来の統治システムである律令制、冠位十二階、班田収授法などとともに、仏教を鎮護国家の法として位置づける。国家統治理念にしてゆく。東アジアにおける中華的「近代国家としての成り立ち」に必要な思想としての仏教。
古来からの自然崇拝/祖霊崇拝の祭祀である原始神道との融合。神仏習合。本地垂迹。
外来文化、技術、科学の受け入れと権力との結びつき。渡来人集団の役割。
遣唐使による学問僧のの留学。空海、最澄による仏教教義導入、世界観の日本化。
鑑真招請による唐招提寺建立。授戒による僧の育成、普及
民衆に受け入れられる現世利益、来世信仰の宗教となるのは平安時代以降のこと。
空海による密教解釈、最澄による民衆宗派の始祖、親鸞や道元や日蓮や法然の育成。
明治維新後の一時期、国家神道隆盛の中で廃仏毀釈の蛮行により、多くの仏教寺院、仏像が破壊された。この時期に多くの文化財が海外に流出した。

キリスト教:

対峙した在来宗教は仏教各派、神道(神仏習合)
大航海時代、近世ヨーロッパ文明/文化の受容。
キリスト教の内部抗争。ローマカトリックとプロテスタントの対立。ポルトガル/スペインとオランダ/イギリスの対立。ローマカトリック教会の信徒獲得のためのアジア進出。その尖兵であるイエズス会の活躍。
権力者による南蛮文化受容の変遷(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)だんだん警戒。
当初は南蛮貿易による利益を重視。鉄砲、大砲などの近代兵器獲得。
キリシタン大名もほとんどが貿易利権志向。
戦国時代の権力者の対立構造。関ヶ原以降、西国大名/豊臣秀頼(大坂城にキリシタン結集)と関東の徳川家康政権の対立。
初期の仏教のような国家統治の思想/法としてではなく、戦乱に明け暮れる時代に、来世の救いを求める民衆に瞬く間に広がった30万人の信徒。やがてこれが権力者にとって脅威となる。一向宗のような反権力抵抗集団になる恐れ。それに乗じたスペインによる侵略警戒、脅威論など。特にプロテスタント国オランダ、イギリスによる反カトリックプロパガンダが徳川政権の意思決定に影響。鎖国へ。植民地化されて行くアジア諸国という現状認識に基づく。
イエズス会の役割、マカオにいたフランシスコ・ザビエルが日本人に会い、日本での布教に大いに関心を抱く。鹿児島に上陸し、豊後府内、博多、山口、京都と回る。信長の布教許可を得る。セミナリオ/コレジオなどの神学校を各地に創設。日本での布教に大きな役割を果たした。先行してやってきたイエズス会と異なり、その後やってきたドミニコ会、フランシスコ会の布教方針は教条主義的。原理主義的。在来宗教である仏教、神道との対立。寺社、仏像の破壊、仏教徒の排斥。これが秀吉の禁教令の発端に。(例:大友宗麟はキリスト教による神の王国を豊後に作ろうとした。領民にキリスト教を強制。仏教徒を弾圧)
一方、バテレン司祭は南蛮人。しかし日本人司祭がなかなか生まれない。日本人信徒の不満。キリスト教の日本化に一定の限度も。
天正遣欧使節派遣。イエズス会のプロパガンダ。ローマ法王/カトリック教会の苦悩。プロテスタントとの争いでイギリス、ドイツなどで信徒を失う。イエズス会が遠い東方の国に異教徒のキリスト教改宗者発見!東方の三博士の聖書説話再来。4人の少年のその後の運命。中浦ジュリアンの殉教。
仙台伊達藩からメキシコ(ノバエスパニア)派遣された支倉常長。さらにスペインに向かい皇帝に謁見するがなんの成果もなく帰国。
1614年徳川幕府による禁教令に伴いバテレン司祭がマカオに退去(一部は日本に残り潜伏)。日本人信者が取り残される(許しの秘儀、来世救済ができなくなった)、一方で、日本人信者もマカオへ追放。日本人の帰国を許さず。

既存宗教、仏教、神道との関係、一神教的な排他性。野蛮な異教徒を改宗させることが正義。一向宗の結束に例えられるキリシタン。一方で仏教僧侶の腐敗堕落もあり。
弾圧=殉教者を聖人として礼賛。権力者には脅威。
最終的には島原の乱を機にキリシタンは徹底弾圧され、地下に潜伏(隠れ切支丹)し、日本の歴史の表舞台から姿を消す。

禁教令から200年後、近代欧米流の「信教の自由」という新しい文明、思想の受容(不平等条約改正という動機があった)により明治政府により禁教令が廃止されキリスト教は受け入れられた。「長崎にキリシタン発見!」の報。しかし、その後の近代日本におけるキリスト教徒の数はそれほど増えず、人口の1%程度。


共通点と相違点の総括:

ユーラシア大陸の東端の海中にあった日本は、押し寄せる古代の中華文明、近世の西欧文明といったグローバリズムの波に対応してゆかねばならないという地政学的なポジションにある。仏教もキリスト教も、異民族/異教徒による征服による強制改宗ではなく、外から押し寄せる文明の波を受けて、受容するか否かを自ら決定するというプロセスを経ることが特色。常に既存の価値観からパラダイムシフトするリスクへの覚悟と相克を経験する。古来からの価値観、習俗との融合、受容と変容。あるいは対立/相克、あるいは受け入れられないものの排除。二律背反のせめぎ合いのなかでの一神教同志のイスラム教とキリスト教の戦い歴史を経験していない世界であった。二者択一ではなく、融合、咀嚼、変容のプロセス。あるいは「同化」できるか否か。そのなかで一神教的、排他的な宗教観は受け入れられない?多神教的(アニミズム/祖霊崇拝)、縄文以来の自然との共生という原始神道のDNAに適合する宗教観に拠って立つ志向が出来ていたか。そういう点ではアニミズムを基盤とするケルト族の原始キリスト教の受容の関係に類似するかもしれない(ただし多神教としての神仏習合のようなことが起こったのかはわからない)。ただ大航海時代に「新大陸」に繁栄したインカ、アステカ、マヤなどの太陽神信仰/アニミズムはスペインからの侵略者に滅ぼされ、征服され彼らが持ち込んだキリスト教への改宗を迫られた。

時の為政者、権力者の外来宗教、文化の受容をめぐる逡巡。「自らの権力基盤の構築、強化に役立つか否か」その一点。結果、仏教はYes。キリスト教(カトリック)はNoであったということ。特にキリスト教(カトリック)は帝国主義的な海外進出の尖兵として出てきたとの認識で警戒され拒否された(プロテスタント側のプロパガンダに乗ったにせよ)。ただし宗教と切り離して海外との交易利権の独占(幕府の出島における管理貿易、薩摩藩の琉球貿易、松前藩のロシア貿易)を図ろうとした。

どちらも、時代の相違はあれ国家の「近代化」を果たそうとした時代の画期であったという点は共通。

一方、民衆がこうした外来文明や文化に直接接する機会はなかった。特に仏教は支配層に伝わり庶民には無関係の代物だった。民衆の信仰になるのにはさらに500年ほどの時間が必要であった。一方のキリスト教の布教の形態は、貿易利権の魅力にはまった支配者に布教の許可を得て、民衆の現世における苦悩を来世で救うという教義を民衆に直接訴えかけ成功した。それがやがて権力者には懸念材料となった。



参考:
大航海時代の日本美術 桃山展
Japanese Art in the Age of Discoveries


展示作品:

「大洪水屏風」(メキシコ、ソウマヤ美術館蔵)のなぞ
17世紀末〜18世紀初期マカオで描かれたらしい。日本風の屏風(Bionbo)。しかし内容は旧約聖書の「ノアの箱舟」
誰が描いたのか?禁教令で1614年にマカオに追放された長崎の日本人キリシタン、教会絵師の子孫ではないか?


1)仏教伝来地紀行:

仏教伝来の地
奈良県桜井市の初瀬川(大和川)のほとり三輪にあったと言われる海柘榴市。
難波津から船で大和川を遡上しここに上陸したと伝わる。


三輪山の麓の仏教伝来の地記念公園


本邦最初の仏教寺院
法興寺(飛鳥寺)
蘇我氏により建立された

本邦初の仏像
飛鳥大仏
鞍作止利による


2)キリスト教伝来地/殉教地紀行

鹿児島のフランシスコ・ザビエル上陸記念碑


長崎の「二十六聖人殉教碑」





島原の乱の舞台
原城跡

原城跡から展望する雲仙岳
雲仙の地獄では凄惨なキリシタン弾圧が行われた。

天草四郎像

海に向かって祈るパードレ像


城内皆殺し、跡形もなく破壊尽くされた原城跡
わずかに残る石垣

籠城のキリシタンが救援に来てくれると信じたポルトガ船は現れず
オランダ船が幕府の要請で現れて原城を攻撃した。
原城趾から望む千々石湾(橘湾)



2017年10月28日土曜日

那の津/博多港で考えるコト 〜Think Globally, Act Locally〜

本日のクルーズ船はCosta Atlantica
博多港から志賀島、玄界島を望む

対馬航路のフェリーが博多湾を出て行く

空から見る博多港全景




大型旅客船埠頭/ターミナルが足りなくて
手前の貨物埠頭にも停泊中のクルーズ船


 マリンメッセ福岡で「ものづくりフェアー2017」というトレードショーがあった。九州最大級の産業見本市である。そのイベントの一つとして「産学共創で地域創生」と題したパネルディスカッションが開催された。パネラーは九州大学久保総長、西日本シティー銀行谷川頭取、そして九大在学中に起業した日本風洞製作所ローン・ジョシュア社長、という錚々たるメンバーだ。私は力不足ながらそのモデレーターをやらせていただいた。

 アジアへのゲートウェーシティー福岡、九州シリコンアイランドの地域創成と人材育成がテーマであった。特に九州大学は創立100周年、伊都キャンパス移転を期に、新たな「知の殿堂」「イノベーション発信」の世紀を創造すべく再スタートを切ることとなる。これまでの九州唯一の帝国大学という伝統を重んじつつも、新たなパラダイムへ脱皮することを宣言した訳である。九州/福岡の地から世界に向けてイノベーションを発信してゆくというまさにThink Globally, Act Locally!だ。また九州大学と西日本シティー銀行が共同で創設したベンチャーファンド第1号出資の学生ベンチャーが先ほどのローン氏の日本風洞製作所だ。こうした九州発、世界に向けた新しい事業創生が始まっている。栄枯盛衰はあれユーラシア大陸に門戸を開いてきた海外貿易港としての博多の2000年の歴史を考えると、まさに時と場を得た感があるが、その地でこういうテーマで議論することに運命を感じる。The best way to predict future is to invent it.不確実な未来を予測する最も良い方法はその未来を自ら創造することだ。博多/福岡が、九州が世界に向けてそういう創造の場になる時が来た。

 紀元前、列島に稲作農耕文明が入ってきた最先端の地域であった北部九州。縄文時代から弥生時代へのパラダイムシフトはここから始まった。朝鮮半島や中国中原の王朝と密接な交流を持ち、奴国や伊都国、邪馬台国などの「倭国」の先進的「クニ、国」が生まれた地域であった。そしてここから列島を東に文明の波が広がっていった。しかし時代を経て、いつのまにか九州は、中央からはるかに離れた地方「天下がる鄙」の地、みやこの出先である「遠の朝廷」太宰府が治める地となる。しかし、那の津には大和王権の外交/交易施設「鴻臚館」が置かれ、大陸との外交交易の拠点となり、遣唐使の出港地となる。さらに中世に入ると那の津/博多はアジアに向けた国際貿易港として江戸時代初期まで「博多黄金の日々」を謳歌する。やがて鎖国が博多の地位を衰退させ、長崎にその繁栄を譲る。いわば「博多冬の時代」の到来である。開国後、明治の産業近代化の時代には、海外交流といえば欧米諸国との交流をメインに太平洋側の港、函館、横浜、神戸が新しい開港上となり、日本海側、九州はまるで文化果つる地域となってしまった。こうして博多が近代日本の開港場になることはなかった。鎖国以前は太平洋こそ、文化の果つる海。熊野灘の先は補陀落浄土、常世につながる死の海であったのだが。戦後は博多/福岡は東京を本店とする企業の支店が集まる街、「支店文化の街」という位置付けに甘んじてきた。しかし、時代はめぐる。21世紀はアジアの時代に突入。博多港国際ターミナルには連日、中国やアジア諸国からの観光客を満載した大型クルーズ船が入港。韓国プサンへの高速船が頻繁に出入りする。いまや博多港は国際旅客船による外国人入国者数では日本一の規模を誇る国際港となった。再び「黄金の日々」を取り戻しつつある博多。

 会場となったマリンメッセ福岡は、国際港として発展する博多港に隣接する国際展示場。周辺には福岡国際会館(大相撲九州場所会場)、サンパレス、福岡国際会議場があり福岡の一大国際交易コンファレンス・イベントスペースとなっている。さしずめ「現代の筑紫鴻臚館」と言っても良い。ここからは博多湾が一望に見渡すことができる。今日も大型クルーズ船が国際埠頭に停泊している。プサン行きの高速船が港を出てゆく。湾に造成されたアイランドシティーのコンテナヤードはアジアの物流の重要なハブとしてのポジションを築きつつある。そして空を見上げると、博多湾上空には福岡空港に離発着する航空機が忙しく旋回している。まさにここは古代那の津/博多津の栄光を思い起こさせ、アジアの時代に向けて発展する新しい博多を予見させるロケーションだ。

 マリンメッセのすぐ横に「那の津往還」「引揚船入港地記念碑」が建っている。博多港は舞鶴港とともに戦後、満州や朝鮮半島から引き揚げてくる日本人同胞の帰港地であった。「岸壁の母」「大地の子」「帰り船」の世界である。私の叔母も幼少のころ満州から命からがらまさにここ博多港に引揚げてきた。この場所に小さな弟と母に手を引かれて上陸し安堵するとともに、現地でソ連にシベリア抑留された父の帰りを待つ日々の始まりだった。結局、焦燥感に苛まれながら待ちわびる家族の元に届いたのは一片の死亡通知書だけであった。我が国開闢以来、未曾有の敗戦を経験し、日本人だけでも320万人が戦争で命を失い、同胞が悲劇の難民となった時代である。しかし、一方、ここは戦争終結とともに列島から朝鮮半島、中国へ引揚げる人々の出港地でもあったことを忘れてはならない。あの北朝鮮の「祖国帰還事業」の出港地でもある。為政者の掲げる「王道楽土」のスローガンはいつものちに悲劇の枕詞となったことを思い起こすべきである。歴史の光と影を背負う博多港。これからの進歩を確かなものにするには常に歴史に学ぶことが不可欠である。


 博多を語るキーワード:

安曇海人族、漢委奴国王、那の津、筑紫館、鴻臚館、遣唐使、平清盛の袖の港、元寇、大唐房街(謝国明など宋の海商)、「博多黄金の日々」(神屋宗湛、島井宗室、大賀宗及、末次平蔵、伊藤小四郎など日本の海商)鎖国「博多冬の時代」、博多港、戦後引揚船、クルーズシップ。アジアのゲートウェー。


韓国プサン行き高速船が出港

プサン行きJR九州のVenus

外航船の国際埠頭

博多国際ターミナル

「博多往還」「引揚船入港記念碑」


鴻臚館跡

 7世紀後半から11世紀前半の約400年間(飛鳥時代〜平安時代)、対外交渉/交易の重要な拠点としての役割を果たした。唐や新羅からの外交使節の接受、官製の交易を担ったほか、のちには民間貿易の商人たちの拠点ともなった。また日本側からの外交使節である遣唐使や遣新羅使の送迎にも使われた。同様の施設は平安京や難波津にも設けられた記録があるが、実際の遺構が発掘されたのはここ筑紫鴻臚館だけ。

 その位置については江戸時代までは下呉服町にあったと想定されていたが、九州帝国大学医学部教授の中山平次郎が、万葉集の古歌などを根拠に福岡城内説を唱え、実際に昭和62年の平和台球場の改修工事で鴻臚館遺構が発見され中山説が裏付けられた。

 鴻臚館遺跡からは、大量の中国、新羅、高句麗の陶磁器や、イスラム系陶磁器、ペルシャ系ガラス器が出土している。北館、南館などの居館の配置や構造についても解明されてきており、日本における国際港湾都市としての原点がここにあったことが証明されている。


福岡城内の「鴻臚館跡」と「展示館」

青磁の椀
打ち捨てられた陶磁器も大量に見つかっている

鴻臚館南館遺構

鴻臚館北館の正面玄関跡

1987年(昭和62年)
西鉄ライオンズのフランチャイズ平和台球場の改修工事時に見つかった
「鴻臚館跡」
(福岡市観光パンフレットより)

黒田如水/長政築城の福岡城

福岡城外堀のハス
















参考:2014年11月13日のブログ
 日本最古の都市 博多 〜博多遺跡発掘が語り始めた二千年都市の諸相〜



2017年10月10日火曜日

人生の分かれ道

Russel Sq.のUniversity of London HQ


  英国の小説家Kazuo Ishiguro:カズオ・イシグロが本年度のノーベル文学賞に選ばれた。巷の下馬評では毎年、村上春樹が候補者筆頭にノミネートされるのだが、今年は後輩のKazuo Ishiguroが選ばれた。私にとっては、その昔The Remain of the Day(1989年のブッカー賞受賞作品)を単なる英国のライフスタイルへのノスタルジーで手にとって読んだのが最初だった。Kazuo Ishiguroという日本人名の英国作家というのにも興味を持った。しかし、あの時はそれ以上でもそれ以下でもなかった。私がロンドンに赴任していた1995年には彼は大英帝国勲章を授与され、そんなニュースがロンドン在住の日本人の間で話題になっていた記憶はある。

 Kazuo Ishiguroいや石黒一雄は1954年長崎生まれ。1960年、6歳の時に海洋学者であった父の英国赴任で家族と一緒に英国に渡る。Surrey州Gildfordに住んでいた。最初はいずれ日本へ帰る海外赴任であったはずが、結果的には1983年に英国に帰化することになる。Kent大学とEast Anglia大学に学び、ミュージシャンを志し、やがて小説家に。とまあ、日本人として生まれ英国人になった。William Adams、三浦按針の逆人生を歩んだ。その間、日本には一度も帰らず日本の記憶はどんどん彼方に薄れていったと言っている。家族同士は日本語で話していたそうだが、大人になるにつれ日本語もしゃべれなくなり、思考様式もどんどん英国人になっていったという。名前と外見は日本人だが、中身は英国人。日本という要素は薄れる記憶の中にある5歳の頃の長崎のイメージだけであったという。かれはもはや紛れもない英国の小説家なのだ。しかしそんなことは彼の小説家としての名声にとっては重要な要素ではない。彼が語っているように、あまり日本人だ、英国人だ、と意識して小説を書いてはいない。一人の人間として独特の世界を紡ぎ出している。英国でも日本でもない、いやどちらにも通じる普遍性。そう文学作品としてのメッセージの普遍性は政治的な産物である国境/国籍を超越する。小説家はフィクションで真実を描き出す。ウソとフィクションは違う。人を混乱させ、当惑させるのがウソ。そこに真実はない。虚構により真実を語るのがフィクション。比喩、暗喩により普遍性を描いてみせる。あのバトラーの人生は多くの人間の人生そのものだ。

 こうしてKazuo Ishiguroは今年のノーベル賞受賞作家として脚光を浴びるのだが、私には彼の作品や表現の持つ普遍性についてよりも、むしろその生い立ちに強い関心を抱いた。彼は海洋学者であった父の仕事の関係で英国に渡り、日本人から英国人になった。それを知ってふと、自分の人生とどこか一瞬重なる記憶、ある既視感のような不思議な感覚に囚われた。生まれた年代も50年代。実は私も研究者であった父の仕事の関係で米国に渡り、ひょっとするとそのまま米国人になっていたかもしれなかったからだ。しかし、私は日本に残った。一瞬そのお互いの人生はクロスして、すれ違い全く違う方向へ別れていった。

 私の父は生薬学の研究者であった。私は東京で生まれたが、その後父の赴任にともなって福岡に移った。そこから父は1956年にフルブライト研究員として米国ワシントンDC郊外ベセスダのNIH(National Institute of Health:国立衛生研究所)に2年の任期で赴任した。米国赴任に際し、父は大きな決断を迫られた。6歳の私を米国へ連れて行くか。当時は今のように日本人学校があったり、帰国後も帰国子女として日本の教育システムに復帰できたりする仕組みはなかった。当時の海外赴任には子供の教育が大きな課題であった。連れて行くということは米国での教育を受けさせるということになる。日本に帰れば、留年し落ちこぼれになる。今のように米国で教育を受けさせるいいチャンスという認識よりも、日本のシステムからドロップアウトするリスクを感じたにちがいない。日本があらゆる面でグローバルに飛躍するのはまだまだ後のことで、日々の貧しい生活の中で落ちこぼれないように必死で生きていた時代だ。悩んだ末、私を祖父母に預け父は母と二人で赴任した。

 父は2年の任期を終え日本に戻る。しかし、実は米国で当初の2年の赴任期間が終了した時点でNIHに残るよう上司のM博士に強く要請されていた。より良いポジションが用意され、さらなる研究成果が期待されていた。子供を残しているので帰国したいという父の申し出に、M博士は米国での子供の教育は私が面倒見るから呼び寄せるようにと。戦後の混乱からようやく抜け出しつつあった1950年代当時の敗戦国日本と戦勝国米国の国力の差は歴然としていた。父が望む研究環境は米国の方が圧倒的な優位性があったことはいうまでもない。結局父はそれを断り帰国したわけだ。子供をとるか研究をとるか。研究者としては断腸の思いであっただろう。父の懊悩を、私はこの歳になって察することができるようになった。この時、父も米国での研究継続を選んでいたら、また違った人生を歩んでいたかもしれない。私もあの時父に連れられ米国に行っていたら、あるいは途中で呼び寄せられ、さらにM博士のもとで米国の大学へ進学していたら、今とは大きく違った人生を歩んでいただろう。きっとKazuo Ishiguroのような人生を送っていたかもしれない。もちろんノーベル賞作家になっていたかもしれない、という意味ではない。しかし、米国に定住し日系米国人になっていた可能性はある。

 あの時の父の決断がTatsuo Kawasakiと川崎達男の分かれ道だった。私は、日本人としてその後日本の大学を卒業し、日本の企業に職を得て、英国に留学する。日本は世界第2位の経済大国となり、市場のグローバル化が進んだ時代に突入してゆく。そんな時代に海外業務にその職業人生を大半を使い、英国Londonと米国New Yorkの双方に複数回赴任し通算で11年を過ごした。子供たちは日本と英国と米国で初等教育を受けることになる。そして娘は米国籍の伴侶を見つけて米国で家庭を築いた。海外生活が長く、家族も多国籍だが、私自身は全くの日本人として生きている。日本語を喋り、思考も日本語、夢も日本語で見る。定年後は、ますます日本文化に目覚め、幸いにも破壊されずに残る日本の美しい田舎にはまり、海外旅行よりも国内旅行を楽しむ。娘のところに行く以外は海外へ出かけることも少なくなった。父のおかげで日本人として充実した幸せな人生を送らせてもらっている。

 Kazuo Ishiguroをノーベル賞作家としてではなく、期せずして英国人としての人生を送ることになった一人の同世代、同郷の男として見ると、不思議な縁(えにし)を感じてしまう。ともに九州で幼少期を過ごし、ともに研究者である父親の海外赴任に伴い同じような人生の岐路に立ち、片方は父の決断で英国へ渡り、その後英国人としての人生を歩むことになり、片方は、同様に父の決断で日本に残り日本人としての人生を歩む。そんな道を分けた二人が、ある時期、英国での時間と空間をほんの一瞬共有していた。Surrey州Gildfordは英国留学中住んだKent州West Wickhamとは近い。鉄道でロンドンへの通勤圏内にあり、かつ南部イングランドの美しい田園風景が広がる「英国の庭園」(Garden of England)と呼ばれる地域だ。1979年〜81年、私がLondon大学LSEに在籍していた頃、彼は1978年Kent大学英文科を卒業し、1980年にEast Anglia大学修士課程に進学している。私も同年の夏、NorwichのEast Anglia大学でBritish Councilのサマースクールに参加していた。どこかで若き日のヒッピーな長髪の彼とすれ違っていたかもしれない。それが、いまやノーベル賞作家とサラリーマン定年オヤジに分かれるのだが。人生とは面白いモノだ。


Kent州Hever城にて
LSE留学時代
1980年

LSE: London School of Economics and Political Science正面玄関

Norwich
East Anglia大学にて
1980年

Edinburgh大学Martin Fransman教授と
ロンドン勤務時代
1995年

2017年10月1日日曜日

芙蓉の花 その志は今何処?



芙蓉の雪の精をとり   芳野の花の華を奪ひ
清き心の益良雄が    劔と筆とをとり持ちて
一たび起たば何事か   人生の偉業成らざらん


(旧制一高寮歌:矢野勘治作詞)



芙蓉峰とは富士山の美称。芳野の花は桜。富士と桜花。日本人の心情を表す二つの象徴。散り際の桜花だけでなく富士の名に冠せられた芙蓉の気高さも忘れてはならない。かつての若き日本のエリートたちは、芙蓉と桜花を胸に、私を捨て人のために尽くす。それが人生の偉業だと。エリートとはそういう社会的義務感を背負うものだと。

これはかつての日本の武士道や維新後のエリートだけの美徳ではない。欧州でもこの伝統は生きている。noblesse oblige. 例えば戦争があれば上流階級の人間が真っ先に戦場へ出て戦う。オックスフォード大学やケンブリッジ大学の戦没学生のplaqueには数え切れないほどの若者の名前が刻まれている。自己犠牲を人に強いるのではなく、自らに課して人に尽くすのがエリートだ。

そんな志は何処へ?そんなエリートは日本にはいなくなったのか。

9月28日国会開催日冒頭解散。野党勢力が混乱している状況に乗じて解散する。政局をみた戦術としては狡猾で正しいのだろう。しかし大義なき「me first」の時代の幕開け... 国のエリートたちの「XX first」がぶつかり合って争いになると「滅私奉公」と言い換えて人々を戦争に駆り立てたあの時代が脳裏をよぎる。大義を忘れたエリートについて行くほど主権者は愚かではない。




酔芙蓉












品川区民公園にて

(撮影機材:Nikon D850 + Nikkor24-70/2.8)