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2018年3月25日日曜日

「撮り鉄」桜華散策(2) 〜大森駅界隈〜

 ご近所桜散策第二弾、大森編。桜満開宣言から二日目の日曜日。大森貝塚公園、大森水神公園、JR東海道線/京浜東北線沿線の遊歩道あたりをブラパチ。JR大森駅から大井町駅方面にかけては線路沿いの桜並木が見事!いつもは通勤、買い物客が忙しく通り過ぎるこの駅に続く遊歩道は、このさくらの季節には様相が一変する。特に今日は日曜日とあって花見客でいっぱい。露店こそ出ないが、ブルーシートに覆われた遊歩道は完全にお花見宴会モード。かといって上野公園のような喧騒とゴミの山ではなく、住宅街の公園らしく家族中心のグループが多い。元気な子供たちが走り回って賑やかだ。なんとも平和な光景だ。春が来た!

 大森貝塚公園の高台からは東海道線、京浜東北線を走る通勤電車のほか、スーパービュー踊り子などの優等列車の走行を眺めることができる。「撮り鉄」絶景スポットの一つである。ここは複々線で、おそらく日本でも一二を争う列車本数。頻繁に列車が行き来するので、シャッターチャンスが多すぎて忙しい。桜の季節には桜並木を背景に、普段見慣れた通勤電車たちが特別の装いに見える場所でもある。かつては、この公園から、九州へ向かうブルートレーン、「さくら」「あさかぜ」「みずほ」「ふじ」が眺められたものだ。夕焼けに染まる東京の空の下、汽笛を響かせながら夕日に向かって疾走する勇姿を眺める、あのノスタルジックな光景はもうここにはない。

 今回の撮影機材もLeica SL/CL。(ドイツ送りで3ヶ月間の)故障修理から帰ってきたばかりのVerio Elmarit-Tを持ち出した。しばらくは快調に撮影できていたのだが、しかし、またしても愕然とする事態が発生。カメラボディーとレンズの電子接点不具合なのか、カメラがレンズを認識しない。一旦スイッチオフにすると繋がるのだが、「Lens Comunication Error]というメッセージが出る。なんだ結局直ってないじゃないか!これを修理するために3ヶ月もスタメン落ちしたんじゃないのか!と。全くあきれて怒る気すらなくなっている自分がいる。おそらく、接点の物理的障害ではなく、内在するカメラ側のレンズ制御プログラムか、情報伝達プログラムの問題ではないか。電池入れなおしてオールリセットすると一旦は直るが、またどうかした拍子に再発する。いわゆる「時々断」だ。一番撮影現場で困る故障だ。やはりデジタルライカは、その信頼性に大きな疑問符をつけざるを得ない。もう修理ではなく処分するしかなさそうだ。花見気分にすっかり水を差されてしまった。


「スーパービュー踊り子」通過中

大森貝塚公園


京浜東北線


東海道線

































2018年3月24日土曜日

「撮り鉄」桜華散策(1) 〜大井町駅界隈〜

 今年は、桜の開花、満開が例年より早く、3月23日には東京で満開宣言が出た。例年より10日早いそうだ。満開といっても、ソメイヨシノなどはまだ5分咲きくらいで、これからが盛りだ。この春は異常な寒さが続き、春分の日に都心でも雪が降るなど、桜の便りはまだまだと思っていたが。

 このところ、公私ともに忙しくなり大好きな大和路散策や京都桜紀行ができなくてフラストレーションが溜まっている。この季節、長谷寺や当麻寺、又兵衛桜、京都醍醐寺、八幡の背割桜、大阪大川端の天満桜など綺麗だろうな、と思うといてもたってもおれないのだが。去年は、ちょうど今頃、3月の最終週に仲間と大和路撮影旅行に出かけたのだが、桜はまだまだでガックリした。今年はそれに比べるとやはり早い。ということで、せめてごく近場、というかご近所巡りで満開宣言下の桜をブラパチしてきた。東京大井町界隈。JR東海道線、京浜東北線の線路沿いの桜並木と菜の花が見頃となっていた。というわけで「撮り鉄」というほどではないが、電車と桜と菜の花のコラボレーションにチャレンジしてみた。本当は電車から見る土手の桜並木が壮観なのだが、今回は昭和レトロな小路が入り組むディープ大井町からフェンス越しにシャッターを切った。

 撮影機材はLeica SL + Vario Elmarit SL 24-90を持ち出した。このところすっかりNikonD850とNikon Dfにハマっていて、SLの出番が激減していたが、久しぶりにこの重量級機材を桜ハンティングに連れ出したわけだ。なにか新鮮な気分がした。SLの液晶ファインダーは極めて見やすい。一眼レフ光学ファインダーに遜色なくなっている。しかし、それにしてもレンガブロックのようなボディーとバズーカ砲のようなレンズの組み合わせは重い。それに比べるとNikonが軽快な取り回しのシステムカメラに思えてしまう。時々はSLつれだしてダンベル筋トレすることにしよう。


 





















東海道線上り、下り、京浜東北線上り、それに東海道新幹線の四列車そろい踏み
(大井町〜品川間の桜並木)

「スーパービュー踊り子」通過中







2018年3月9日金曜日

私のニコン遍歴そしてNikon Df 〜カリスマ後藤フェローの世界〜

 
Nikon Df + Nikkor 45mm f.2.8 P


 先日、友人の紹介でニコンのカメラ開発をリードしてきたカリスマエンジニア後藤フェローにお会いする機会を得た。品川のニコン・ミュージアムを丁寧にご案内いただき、様々な貴重なお話を伺うことができた。ニコンファンとしてはこの上なく光栄なことである。後藤フェローは、熱意と冷静さ、いわゆるWarm Heart & Cool Head、気さくで偉ぶらないカリスマ技術者という印象の紳士であった。こういう方が世界に冠たる日本のカメラを生み出したのか、と思うと欣喜雀躍たる気分であった。日本の「オスカー・バルナック」と言っても良い。この世界では超有名人であられるし、ご自身の書かれた記事や講演も多数世に出ているので今更このブログで多くを語る必要はないだろう。ニコンの歴史を飾るフラッグシップシリーズ、F3からデジタルDシリーズ、そしてレジェンダリーDfの開発に携わって来られた後藤フェローのお話を振り返りながら、恥ずかしながら私のニコン遍歴を語ってみたい。

 私は長年のニコンファンであるが、ニコンの最新鋭機D850を手に入れてからはますますニコンファン度が高まっている。もっとも、学生の頃、社会人になりたての頃は、ニコンは高嶺の花、雲の上の存在であった。フラッグシップFシリーズなど、そもそも店頭に並んでおらず、手にする機会もなかった。アマチュアは注文すらできなかったように記憶する。学生時代は触れることすらなかった伝説のカメラだった。したがってファンといっても、最初は憧れるだけのニコンファン。やがて所有するニコンファン。そして使い込むニコンファンに向けて修行中というわけだ。そう考えると今は恵まれている。お気に入りのニコンに囲まれて悦に入っているのだから。

 私の一眼レフ第一号は高校時代に父に買ってもらったミノルタSRであった。50ミリ標準ロッコールレンズと135ミリの望遠ロッコールレンズ二本で撮影した。それでも贅沢な思いをしたものだ。社会人になって、新入社員として姫路に現場実習配属になった。その時、近畿地区に配属された同期の仲間でよく集まり、カメラをぶら下げて奈良、京都を歩き回った。仲間の一人がニコマートを持っていて羨ましかったことを覚えている。堅牢で無骨な出で立ちであったが、他を寄せ付けないオーラがあった。私は当時の給料(5万円ほどだった)ではニコンには手が出ず、父にもらったミノルタSRをぶら下げていた。ようやくニコンを手に入れたのは、1981年に恵比寿のカメラ屋でNikon FMを買ったのが最初であった。嬉しくて磨いてばかりいた。日本は高度経済成長真っただ中、結婚して生活も軌道に乗り、留学先のロンドンから帰って子供が二人になり写真を撮る機会が大いに増した時期であった。F3が出た頃はアマチュアでもFシリーズが手に入りやすい状況になったものの、なかなか新品のプライスタグには手が出ず、銀座の三共カメラでようやく中古を手にれることができた。この時も嬉しかった。これは二度目のロンドン赴任に持って行った。ロンドンの街や英国田園風景を撮った。その後しばらく忙しさにかまけて一眼レフを持ち出す機会が減り、もっぱらコンパクトカメラでスナップばかりの一眼レフ空白の時代が続いた。

 2003年、二度目の米国勤務でニューヨークに赴任した時に、最初のデジタルニコン一眼レフD70を入手した。発売とともに予約してマンハッタンのB&Hで買った。実用的なデジタル一眼レフ第一号の登場であった。ニューヨークマンハッタンの写真の数々はこのD70で撮った。東京に帰り、D300に買い替えた。これは人気のカメラであった。D200が登場した時迷ったが、我慢して次のD300登場を待って購入した。やがてフルサイズFXフォーマットのD700が登場したがまたこれをパスし、次のD800Eが2012年に登場し、D300とDXフォーマットレンズ群を下取りにしフルサイズへシステム移行を決行した。大阪勤務となり、関西の歴史ブラパチ散歩を大いに楽しんだ時期である。このD800Eカメラシステムが私の大和路紀行の写真作品、このブログ「時空トラベラー」フォトエッセイを生み出してくれたといっても過言ではない。これに先立つ2007年にニコン初めてのフルサイズフォーマットデジタル一眼レフD3が登場。これ以降D800などのFXフォーマットラインアップが揃った。高画素モデルのD800EのパートナーとしてフラッグシップのD3sを手に入れた。これは夜景など高感度撮影に威力を発揮し、なら若草山の山焼きや東大寺二月堂のお水取りの写真を撮った。

  2013年に登場したDfは衝撃であった。私のニコンデビュー機であるFM/FEを彷彿とさせるボディーデザイン復活にクラッと来た。あの苦労して手に入れたF3が防湿庫で眠っているのを悔しく思っていた時に、まるでデジタル化されたF3が登場したような感動であった。オーバースペックでなくバランスのとれた性能、信頼感、剛性感。シャッター音。Ai Nikkor レンズ着装を想定したデザインと撮影スタイルを大事にする配慮。昔からのファンを大切にする心、すべての点でニコンの技術と感性を体現した作品/お道具であると感じた。昔使ったオートニッコールやAiニッコールが現役でストレスなく使える。それだけでも感動である。なんとこのDfを企画開発した、その伝説の後藤フェローに今回奇しくもお会いする光栄に恵まれたという訳である。企画時点でかなり社内説得に苦労されたというお話を伺った。しかし、今でも人気機種で、中古価格もなかなか下がってくれない。シルバーボディーの方がやや人気があり、特に女性の間では圧倒的にシルバー支持。これ持っているとモテるそうだ。私もシルバーもう一台買うとするか、モテるんなら...  それはそれとして電子化されソフトウェアーデファインドカメラとなったデジタル一眼レフDfに宿る伝統的な理性と感性。まさにDurable, Dependable and Charming Nikon Dfだ。

 後藤フェローからこのDfの分解写真をお送りいただいたのでここにご披露させていただく。フィルムカメラに比べ、巻き上げ機構がない分だけ部品点数も少なくシンプルな構造だ。なのに、かつてのメカニカルフィルム機と同様の直感的操作を可能とする操作系配置になっているところが憎い。軍艦部がダイアルで賑わうその様はそれだけでもイチコロだ。一方、画像処理エンジンにフラッグシップD4と同じEXCEED IIIを採用。1625万画素CMOSセンサーを搭載、ファインダーは視野率100%、倍率0.7倍と、極めてハイエンドスペックを誇る高性能デジタル機である。分解写真をこうして見る限り、そのように見えないところがなんとも凄い。

後藤フェローからお送りいただいたDfの分解写真
部品点数が少ないのに驚かされる

 ニコンの信頼感はピカイチだ。高性能が過不足なく剛性感のあるボディーシェルにパッケージングされている。そして過去のレンズ資産が今でも現役で活躍できる。やっぱり私はニコンが好きなんだと改めて思う。こうしてファン度が高まっていってるわけだが、こうなるとニコンの歴代名機をコレクションしてみたい気になっていったのも不思議ではない。ちょうど90年代後半からの中古カメラブームもあり、銀座のカメラ屋巡りや、松屋の中古カメラ市などに足しげく通うことになる。大体、我々のような団塊世代は、若い頃ニコンやライカに憧れてもとても手に入るものではない。しかし「いつかはニコン」と夢見たものだ。それがそれなりの年になりそこそこ生活も安定、女房も強くなったが、それを説得できるだけの可処分所得も増えた。日本の社会も右肩上がりの繁栄の時代を迎えた。そしてあの頃夢見たニコンFやライカMが中古で手に入るようになった。それが中高年のクラカメブームの基層である。そこでニコンの往年の名機に出会った。その伝説の名機の堅牢な作りと金属度100%のメカニカルカメラの魅力にすっかりハマってしまった。戦後間もなく焼け跡から、ライカやツアイスに追いつけ追い越せと、苦闘し、試行錯誤した痕跡を随所に残すレンジファインダーニコンSシリーズ。それを吹っ切ってペンタプリズムニコンFにパラダイムシフトした勇気と自信。見事ゲームチェンジャーとなったニコン。日本の戦後の光学機器産業の歴史の生き証人たちが中古カメラ店のショーケースに並んでいる。壮観ではないか!まさに夢のような世界なのだ。ふとそのケースの中のクラシックニコンと目が合う。蠱惑的なレンズの深い瞳。ケースの中で私を手招きしている。これが出会いというものだ。連れて帰らねばなるまい。こうしてニコンファミリーが増えて行った。

 後藤フェローはこうしたニコンカメラの開発の歴史をたどり、後世に残す仕事もやっておられるという。ご自身は「電気屋」としてカメラの開発、製品化に取り組んできたと語っておられた。Nikon SとNikon D850とでは、同じNikonブランドの撮影道具であっても、心臓部の撮像技術は銀塩フィルムというケミカル技術と光学技術、それに歯車とバネのメカニカルな装置から、いまや全く異なる技術に入れ変わっている。F3開発時代にカメラにエレクトロニクスが入ってくることに抵抗を感じる技術者、ユーザもいたそうだ。いまはコンピュータベース、すなわちソフトウェアーで動くカメラになっているわけだからカメラを支える技術は大きく変遷した。その過程の一つ一つををトレースし全体を俯瞰してみることは、これからの社会、産業のデジタルトランスフォーメーションの時代を読む上で貴重なヒントを与えてくれると思う。


過去のブログ:

2013年11月3日:

Nikon Df 発表! 〜オールドニコンファン待望のデジタルF3?登場〜

https://tatsuo-k.blogspot.jp/2013/11/nikon-dff.html


2013年12月3日:

Nikon Df 降臨! 〜Ai Nikkorレンズ群 撮影最前線に復活!〜

https://tatsuo-k.blogspot.jp/2013/12/nikon-dfai-nikkor.html



品川のニコンミュージアムにて
Nikon Df + Nikkor 45mm f.2.8 Pで撮影


Nikon Df + Ai Nikkor 50mm f.1.2での作例:


開放絞り

開放絞り

開放絞り
開放絞り


絞りf.8
絞りf.2







2018年2月24日土曜日

池上梅園に春が来た! 〜江戸無血開城を巡る攻防の地〜

 


 池上梅園は池上本門寺の西に位置し、戦前は日本画家伊東深水の自宅兼アトリエで、「月白山荘」と呼ばれていたが、戦災で焼失。戦後は築地の料亭経営者小倉氏が買取り、別邸としていた。小倉氏没後に遺族が東京都に庭園として残すことを条件に譲渡。昭和53年に大田区に移管され梅園として拡張、市民に開放されている。白梅150本、紅梅220本、30種類の梅が楽しめる(大田区立池上梅園パンフレットより)。

 毎年2月末から3月初旬が梅の見頃となる。今年は厳冬の影響で開花が遅れているが、24日のこの日は久しぶりの好天で、寒さもやや緩み、梅が六分咲きであった。その割には人出も限られていて、都心の名所にありがちな、人でごった返し、花を見に来たのか、人を見に来たのかわからないような状態でもなく、ゆったりと「花見」を楽しむことができた。ここは先述のように紅梅が多く、梅園全体が紅白のグラデュエーションで美しく彩られる。あたりに馥郁たる梅の香が漂い春の訪れを感じる一日であった。

 池上本門寺は、長栄山本門寺と号し、身延山久遠寺と並ぶ、日蓮宗の大本山である。弘安五年(1282年)、日蓮により創建されたが、同年、この地で日蓮上人入滅。地元の池上氏の寄進により大きく拡張された本門寺が建立された。本門寺は鎌倉、室町時代を通じて関東武士団の信仰拠点として崇敬され、江戸時代に入っては加藤清正、紀伊徳川家の祈願寺として繁栄した。時代が下って明治の戊辰戦争では、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛を参謀とした新政府軍がここ本門寺に江戸進駐本営を構えた。慶応4年(1868年)3月12日、勝海舟は、東征軍の駐屯するここ本門寺まで足を運び、西郷に江戸無血開城を訴え会談した(松濤園にそに記念碑がある)。歴史の教科書では、江戸三田の薩摩藩邸で西郷、勝会談が行われ、江戸無血開城が決まったと書いてあった気がしたが、その前にここ本門寺で、いわば予備会談が行われた。そうして3月13、14日江戸薩摩藩邸での会談で無血開城が決まった。実際には、さらにその前、幕府側山岡鉄舟が、新政府軍の進軍途中の駿府に赴き西郷と交渉しているが、はかばかしくないまま、東征軍は江戸に入ったわけだ。歴史ドラマのように、決して一回の会談で「わかりもうした」となったわけではなかった。

 西郷/勝会談が本門寺松濤園で行われたのは3月12日。その時も梅の花が満開であったであろう。長い冬が終わり季節は春。美しい紅梅と白梅が、このギリギリの歴史的意思決定に色を添えたに違いない。もののふの心情を表すという桜花のような潔い散り際の美だけではなく、グラデュエーション豊かで、多様なトーンが織りなす紅梅、白梅が一斉に咲き誇る景観、一つの時代が終わりを告げ、新しい時代の到来を予感させるものであったと思う。2018年2月24日のこの日は、梅花だけではなく、なんと石段わきの山桜が咲き始めていた。その心も忘れてくれるなとばかりに。

























座論梅













本門寺石段わきには山桜が早くも開花!