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2022年5月12日木曜日

新緑の佐倉武家屋敷通りと竹林の古径を歩く 〜下総佐倉藩十一万石の城下町は格別の趣だった!の巻〜

 

武家屋敷通り(鏑木小路)
土塁、生垣、屋敷林、茅葺き屋根が連なる美しい通りだ



私のような西国育ちの歴史好きにとって関東で城下町巡りすることになるとは少し意外であった。小田原城を別にすれば、関八州の城は、江戸城防備のための徳川の「支城」的な役割、徳川親藩、譜代の比較的小ぶりな城(あるいは館、陣屋、あるいは代官所)というイメージであった。したがって、姫路城や熊本城、大阪城、名古屋城、金沢城とは言わないまでも、西国の外様大名達が徳川幕府の目を気にしながらも権威を誇示するような天守閣だったり、一国一城の主として藩府には見事な城下町を形成するのを見てきた西国城下町ファンは、「関東に城なし城下町なし」などという偏見を持っていたことを告白しなければならない。ところが品川からなんと乗り換えなしで1時間10分。こんなにアクセスの良い千葉の佐倉に壮大な城と城下町があったとは。私にとっては新しい発見であったとともに、なんとも不勉強を恥じ入るばかりである。と同時に俄に猛烈な興味と知的欲望が湧き起こってきた。これからは関東の城巡りだ!ここは下総国佐倉藩十一万石の城下町だ。佐倉城は徳川譜代の土井利勝により、江戸の東方の守りために鹿島山(と言っても標高30メートルの台地)に1616年(元和2年)に築城された。しかしこの城は江戸時代に入ってから築城された城としてはユニークな作りで、戦国時代の山城さながらの土塁を巡らした城である。そう近世城郭の象徴とも言える石垣がないのである。そのユニークさからか日本百名城の一つに選定されている。外堀の内外の台地上に曲輪と出丸と武家町、町屋を配した縄張りとなっており、現在も当時の町割りがよく残っていることにも驚いた。本丸や二の丸跡は現在は佐倉城址公園となっている。また上級藩士屋敷があった地区には、現在は全国有数の文献史学、考古学、民俗学研究機関である国立歴史民族博物館がある。こっちの方も圧巻で、全部は見切れないのでまた別途ゆっくりと探訪して見たい。一方、大手門のあった外堀の外側には宮小路町、鏑木小路といった武家屋敷地区がある。関東八州の諸藩は親藩、譜代大名で固められていて大きな石高の藩は少ないが、その中で佐倉藩は十一万石の大藩。幕末の藩主は老中首座を務め、米国公使のタウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を締結した堀田正睦である。明治になって建てられた堀田家の別邸が市内にある。佐倉城内には堀田正睦とタウンゼント・ハリスの銅像が並んで建っている。また堀田家は蘭学を重んじた家系で、蘭方医学の伝習を目的とした順天堂がある。これも佐倉オリジンだったのか。ちなみに長嶋茂雄はここ佐倉高校の出身だ。

今回は佐倉城をゆっくりと見学する時間がなかったことと、堀田邸、順天堂には足を伸ばすことができなかった。それは次回のお楽しみにするとして、まずは歴史的景観地区ともいうべき武家屋敷街をじっくり探訪した。


1)武家屋敷通り 

鏑木小路の武家屋敷通りには現在、旧河原家住宅、旧但馬家住宅、旧武居家住宅、そして元武家屋敷跡を散策地として開放した「さむらいの杜」がある。他の武家町には見られない、土塁を設けた門、生垣、屋敷林、茅葺き屋根が特徴的である。鏑木小路沿の外構は両側に土塁を設け、その上に生垣を張り巡らせる連続的な景観が独特で美しい。それが現在もよく手入れされて残されていることに感動だ。ただこの通りは歴史的景観地区にもかかわらず無電柱化されておらず、それが独特の佇まいを損ねているのが残念だ。旧但馬家住宅以外は移築されたものであるという。小路の両端には薬師坂、ひよどり坂が、そして真ん中にはくらやみ坂がある。このことからここが台地の上であることがわかる。こうした武家地が台地上に連なる城下町の区割りと佇まいは、かつて訪れた豊後杵築の城下町を彷彿とさせる。杵築も徳川譜代の能見松平家の城下町だ。ただ杵築の城下町は海に面しており開放的な感じであるが、佐倉の武家屋敷街は海からは遠く高台にあるとは言ってもは鬱蒼たる竹林や森に覆われているので眺望は効かない。土井利勝が城下町を開いた頃は、上級藩士は城内、中・下級藩士は城外、と居住地区が分かれていたようである。しかし佐倉は代々譜代大名の城下町で、時代と共に藩主が度々入れ替わる(転勤する)。そのたびに家臣団の出入り、増減が激しく、堀田家が藩主であった時代には大手門外にも家老などの上級武士の居宅が設けられた。この宮小路、鏑木小路にも上級、中級藩士が住んだ。現在の佇まいはその頃の名残だ。


土塁、生垣、屋敷林、茅葺き屋根
他の城下町の武家屋敷に多い「黒板塀」「築地塀」でないところが独特だ

巨樹がこの町の歴史を物語っている




こんな歴史的景観地区なのに無電柱化がなされていないことに驚く

ひよどり坂

薬師坂

くらやみ坂


2)現存する武家屋敷 

この武家屋敷群の大部分は藩が資材や造作を用意して建てたいわば規格住宅であった。さしずめ現在でいえば官舎、社宅に近いと考えても良いかもしれない。江戸時代には武家屋敷の規模や様式は、居住する藩士の家格や役職によって異なる、いわばステータスを象徴するものであった。佐倉藩の場合も、1833年(天保4年)に「天保の御制」という居住の制を定め、それに則って城下の武家屋敷を建設、整備したと言われる。この制度による類型で言えば、旧河原家住宅は大屋敷、旧但馬家住宅は中屋敷、旧武居家住宅は小屋敷にあたると言われる。建物の大小はあれど、先述のように各屋敷は一軒一軒、外構は土塁、生垣、屋根は見事な茅葺で統一されている。建物は簡素で、敷地も豪壮とは言えないが、巨大な屋敷林に囲まれて威風堂々とした佇まいがあり、街並みに統一感がある。気がつかなかったが、なんと旧河原家住宅の向かいに児玉源太郎宅跡があった。生垣に目立たない看板表示があるだけ。若き日の児玉源太郎中佐が佐倉第二連隊長であった時に住んでいた官舎だったそうだ。陸軍の佐倉演習で児玉の連隊が乃木の連隊を破った話は後世の語種だとか。のちに満州軍総参謀長として日露戦争勝利に貢献した功労者ゆかりの場所のはずだが、もう少し案内に工夫があって然るべきと思うが、どうなのだろう。ちなみにこの辺りは陸軍佐倉連隊の幹部が多く住んでいたようだ。


    旧河原家住宅(県指定有形文化財)、

1835年(天保6年)に同じ鏑木小路内で現在地に移築されたと記録がある。建築年代は1845年(弘化2年)で、ここでは最も古い屋敷だとされている。格式からは「大屋敷」に分類されるもののようだ。オリジナルの建物は玄関間と次の間が取り壊されていたそうだが、移築に際して復元されている。



玄関(移築時に復元された)



おくどさん


茅葺き屋根の曲線が美しい





    旧但馬家住宅(市指定有形文化財)、

建築年代は特定されていないが、1821年(文政4年)から1837年(天保8年)の間に建てられたものだとと推定されている。格式では「中屋敷」に分類されるという。明治期にこの屋敷を購入した但馬家の人々が、比較的近年まで居住していたそうで屋敷、庭園ともによく整備されている。1992年(平成4年)に一般公開された。




見事な茅葺き屋根
玄関

玄関の一輪挿し

中庭

居間

居間から門、前庭を望む



裏庭には菜園が


    旧武居家住宅(国登録有形文化財)、

建築年代は不明であるが、構造から見て江戸時代末期(19世紀前半)のものと見られている。「天保の御制」に基づく建築様式に忠実で、現存する小規模な武家屋敷の典型的な例として貴重なものだそうで国登録有形文化財に指定されている。ここもオリジナルは茅葺き屋根であったが今は銅板葺に改変されている。ただ屋敷内から茅葺き屋根の構造がよく観察できる。「小屋敷」とはいえ外構は他家と変わらず土塁/生垣で風格に遜色はない。



銅ぶき屋根

小ぶりな居間
幕末期の佐倉藩士の古写真が

台所も小ぶり

茅葺屋根の内側が再現されている

居間からは生垣を隔てて隣家が見える

隣家から見ると緑濃い木立に佇む風情のある建物だ


    「侍の杜」元武家屋敷跡

元武家屋敷が二軒あったところを屋敷林と植物園散策コース「侍の杜」として整備し、一般に開放した。屋敷は公開されていない。幕末。明治の文化人、西村茂樹の「修静居」跡の碑がある。戦前は城跡にあった陸軍佐倉連隊の将校などが借家として住んでいたそうだ。先述の児玉源太郎宅跡もこの並びにあり、陸軍の幹部がこの通りには多く住んでいたようだ。


明六社の創設メンバーの一人であった佐倉藩士西村茂樹の「修静居」跡

外構は他の屋敷と同様の作り




3)さむらいの古径(こみち)「ひよどり坂」

武家屋敷通り、鏑木小路の三坂、「薬師坂」「くらやみ坂」「ひよどり坂」の中でも、この「ひよどり坂」が最も美しく幽玄ですらある。竹林に覆われた坂道が武家屋敷通りに誘う。京都嵯峨野の竹林より坂道がある分より趣がある。まして坂のある城下町はどこか風情がある。このような竹林を抜けて向かう台上の邸宅。そこにはどのような人生があるのか。藤沢周平の時代小説を思い起こさせる。地元では「さむらいの古径(こみち)」と呼ばれている。ここを散策するだけでも訪問する価値がある。





結構な坂道が続く






4)城内を少しだけ紹介


安政六年の佐倉城地図。鏑木小路は右下大手門外に見える。
NPO法人「まちづくり支援ネットワーク佐倉」より
国立歴史民俗博物館

佐倉城本丸跡

姥ヶ池







城内にも大きな高低差が

空堀跡

藩主 堀田正睦公像

米国公使タウンゼント・ハリス像

宮小路にある佐倉藩藩校「成徳書院」跡

JR佐倉駅から
正面の台地上が武家屋敷、佐倉城址公園



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4 この一択で全写真を撮影)

2022年5月7日土曜日

東京都庭園美術館「アール・デコの貴重書」展探訪 〜薫風、新緑、稀覯書〜






今回は年一度の建物公開に合わせて、アール・デコの貴重書に着目した展示があるというので東京都庭園美術館にやってきた。前回の訪問はなんと7年前の2015年。近いのでいつでも行けると思ってこんなに時間が経ってしまった。久しぶりの庭園は新緑が目に眩しい。やはり都会には貴重な癒し空間だ。もちろん建物は近代建築として一見の価値があるほか、内部のインテリアは紹介しきれないほどの見どころいっぱいである。なるべく総花的にならないように写真をセレクトしようとしたが、それでも選びきれない。しかし、今回のお目当ては建物やインテリアではない。そこを我慢しながら今回は展示のテーマである古書中心に探訪してみた。もちろんこの建物やインテリアと無関係な書籍たちではないので、多少は触れざるを得ないのだが。5月の連休の只中とはいえ、予約制なのであまり混雑もなく、薫風、新緑、アール・デコの館、そして貴重書コレクションをゆっくりと楽しむ。贅沢な時間を過ごすことができた。

旧朝香宮邸は居住用の邸宅として1933年に竣工。その後の戦争と敗戦という歴史に翻弄されて現在は東京都庭園美術館となっている。朝香宮夫妻は1920年代にパリに滞在。まさに全盛期であったアール・デコ様式の美に魅せられて帰国。自邸の建設にあたりアール・デコ様式にこだわった。アンリ・ラパンがインテリアをデザインし、ルネラリックがガラス工芸を担当するなど、フランスの一流の工芸家、デザイナーの作品を内装や家具に用いた。これらはフランスから直輸入された。当時としてはかなり贅沢なこだわりで、皇族とはいえ日本に完璧なアール・デコ様式の邸宅を出現させたことには驚きを隠せない。建物はデザインをフランス側に依頼、日本側の宮内省内匠寮で設計/施工。日本の匠の技が随所に生かされている。日欧のコラボレーションの賜物である。

アール・デコ(Art Deco)とは、1920〜1930年に欧米でブームとなった美術、装飾デザインの様式。1925年のパリ万国装飾美術博覧会(通称「アール・デコ博覧会」)からきている。今回の展示でもこのアール・デコ博覧会関連の書籍、資料が豊富に展示されているほか、当時のフランスの装飾美術に関する書籍や雑誌、子供向けの絵本に至るまで多種多彩な文献資料が紹介されている。この美術館のアール・デコムーヴメントの文化的な遺産が歴史的建造物や工芸作品だけではない事を示している。この1925年のパリ博覧会には日本も出展しており、ヨーロッパに大きな影響を与えたと同時に、アール・デコの波は日本にも押し寄せこの朝香宮邸のような建築物を日本に生み出した。文化や芸術はこうして相互交流しながら発展してゆくものだ。

アール・デコと比較されるのがその前の時代、19世紀末のベルエポックの時代にもてはやされたアール・ヌーボー(Art Nouveau)である。これはウィリアム・モリスのアート・アンド・クラフト運動に発する自然や動植物の模様を取り入れた曲線や非対称的なデザイン様式、装飾デザインである。個人的にはエミール・ガレやドーム兄弟のガラス作品に魅了されるし、エクトール・ギマールのパリの地下鉄の出入口のデザインをイメージしてしまう。しかし20世紀に入ると第一次世界大戦を境に、戦後の産業や技術の発展に伴い、より直線的、幾何学的デザインを用い機能的で実用的なフォルムや、産業とアートを融合するムーヴメント、すなわちアール・デコがブームとなっていった。建築の分野でアール・デコの代表的な建物としては、ニューヨークのクライスラービル、エンパイアステートビル、ウォルドルフアストリアホテルがある。また日本でもその影響を受けた建築物として、学士会館、大丸心斎橋、山の上ホテル、などがある。フランクロイドライトやヴォーリスの建物もその影響下にあるといわれている。そしてこの旧朝香宮邸が最もよくそのオリジナルの様式を今に残す建築物の代表であることは否定できない。




ダイニングルーム:

開放的な窓からの緑広がる展望が最大のご馳走であるが、その内装やしつらえも代表的な作家によるアール・デコの真髄に溢れている。なんと贅沢な空間であることか。


内装設計:アンリ・ラパン
照明器具:ルネ・ラリック

壁面レリーフデザイン:イヴァン・ブランショ



テーブルセッティングは古書をイメージしている




書斎と書庫:

英国のマナーハウスのような重厚感よりも、シンプルでモダンなしつらえの書斎。映画のイメージで言えば、ダウントンアービーやコナン・ドイルのシャロック・ホームズの世界ではなく、アガサ・クリスティーのエルキュール・ポワロの世界だ。



内部設計:アンリ・ラパン

一枚板のガラストップデスク


隣接する書庫





展示古書:

やはり美術書、芸術関係書が多い。特にアール・デコ様式の参考書が圧倒的。パリの1925年開催の「アール・デコ博覧会」の記録集や資料も豊富だ。何と言っても当時の雑誌や書籍のデザインそのものがアール・デコ調。さすがのコレクションだ。


1925年「パリ万国装飾芸術博覧会」(アール・デコ博覧会)報告書

「アール・デ・デコラシオン」誌 1925年ルイ・ヴィトンの広告

「アール・デ・デコラシオン」1919〜1930年
老舗の美術雑誌のバックナンバー集

「ガゼット・デ・ボントン」誌 1924年


子供向けの音楽書「おもちゃ箱」
アンドレ・エレ画、ドビュッシー作曲


「近代装飾芸術年鑑」1924年


「室内芸術とラグジュアリー産業レビュー」誌 1933年
表紙デザインはマックス・アングラン


「新しいショーウィンドウと店内陳列」
ガブリエル・マリオン編集

「芸術と産業」誌 1923年1〜12月号
マックス・アングラン表紙デザイン



インテリアを構成する工芸品の数々:

ルネラリックのガラス工芸など細部のパーツに至るまでアール・デコ様式の装飾や家具の宝庫。全てをここで紹介することはできない。特にランプのコレクションは圧巻。これはまた別に写真集ができるほどだ。


ルネ・ラリック作


こちらもラリック作のシャンデリア

暖炉


アンリ・ラパン作の香水塔

ダイニングルームの壁面のレリーフ




暖房用のラジエータグリル





建物エクステリアと庭園:

門から玄関までの緑濃いアプローチは、これから始まる未知のストーリーへの期待感を掻き立ててくれる。そして開放感あふれる洋風庭園に隣接して池泉回遊式の日本庭園と茶室がある。この新緑輝く鬱蒼たる森の存在が和洋のコラボレーションの極致であるような感覚になる。ちなみに隣は目黒の自然教育園の森だ。



門から玄関までのアプローチ

正面から見た本館

庭園から見た本館

玄関前の新緑と狛犬

森に囲まれた様式庭園


池泉回遊式の日本庭園

茶室

美術館新館

新館のカフェテラス

本館


参考:過去のブログ



今回の建物公開、展示イベントでは、館内及び展示物の写真撮影、SNS等への掲載は、プライバシーに配意し、商業目的でない限り許されている。また館内での三脚、ストロボ、レフ板、望遠レンズなど重装備のカメラの使用は禁じられている。

(撮影機材:Leica SL2 + Sigma 24-75/2.8 DG DN 今回のような撮影にはコンパクトで取り回しも良く、他の来館者の迷惑にもならないので最適であった)