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2024年11月1日金曜日

Leica Q3 43登場 〜28mmと43mm どっちが良い? " It's up to you."〜

Leica Q3 43(Map Camera)


 今年の9月に新製品Leica Q3 43が発売になった。,今日、予約していたものがようやく入ってきた。人気のライカだが今回は予約から1ヶ月待ちでゲットなのでまあまあか。

先行モデルQ3(28mm Summilux付き)は2023年6月に発表されたので、およそ1年3ヶ月ぶりの派生モデル誕生だ。これまでのQシリーズは2015年の初代以来、レンズは28mm Summilux f1.7であったが、43mm Apo Summicron f.2という新しい画角のアポを冠する高性能レンズが登場した。すなわちQ3に28mmか43mmかの選択肢が出来たというわけだ。どちらのレンズを評価するかだが、「それはあなた次第:It`s up to you.」ということだろう。ライカ社が新設計したという43mmという変わった画角のレンズが搭載されているのだが(往年のライツミノルタの45mmを思いだす)、どうやらパナソニックが開発、製造したようだ。28mmから43mmになったので、Q3につきもののデジタルズームなるクロップの画角は60mm(3000万画素), 75mm(2000万画素), 90mm(1370万画素), 120mm(770万画素), 150mm(500万画素)と望遠寄りに設定されている。センサーサイズが6000万画素もあるのだから90mmくらいまでは十分な画質。最短撮影距離は60cm(Q3は30cm)と思ったより寄れない。マクロ切り替えで27cm(Q3は17cm)まで寄れるが、最新のMズミルクス50mmでも最短は45cmなのでちょっとガッカリ。

外観はボディーの張革がグレーになった。オシャレというのもあるがQ3(ブラック)と区別しやすくしたのだろう。重さは51g増加(794g)。これはレンズの重さの差であろう。それ以外は画像エンジン、画像センサーなどの中身、外観ともにほぼQ3と同じ。価格は10万円ほど高くなった。ただ、問題が一つ。Q3で使えたフィルター(口径49ミリ)が使えない。付属のレンズフードにフレアーカッターが装着されたため、フィルター枠が干渉して装着できないのだ。薄型フィルターなら良いのか?それでもマクロモードに設定するとやはり干渉する。レンズ鏡胴が長くなった分をサイズをQ3と同じにするためにフードの深さを浅くした。そのためフレアーカッターを内蔵したことでフィルターが装着できなくなったという。デザイン優先の設計?この設計思想に合理性はあるのだろうか?ちょっと残念だ。

新設計レンズ、アポ・ズミクロン 43mmは、最高の高光性能を誇るだけあって試写してみるとなるほど解像度、ダイナミックレンジ、コントラスト、どれをとっても素晴らしく、アポクロマート補正により収差がよく抑えられている。絞り開放から安定した画像が得られるので、被写界深度以外で、画質向上のために絞り込む必要はない。4枚の非球面レンズを採用した豪勢なレンズで、かつ、その一部のレンズを前後に動かすインナーフォーカス方式をとっている。それでいてコンパクトな鏡胴に収まっている。このガラスの塊のせいで重量51g増、レンズ長5mm増になったと考えると納得できる。高画素機には高解像レンズが必須だし、DNGで撮って、ポスプロで画作りする人間にとって、弄っても画質が劣化しない高解像度で破綻のないレンズは重要なインフラだ。それにボケ味も重要な要素だ。作例のようにマクロでもクロップしても画質が大きく劣化しないし、フォーカス部のピントとアウトフォーカス部のボケのコントラストも良好。高画素機+高解像レンズではもうクロップは禁じ手ではない。もちろん120mm,150mmにデジタルズームしても、元が43mmなので望遠レンズの圧縮効果は得られない。そういう性質を理解して使うべきだろう。あとはいつもの悩み、価格だ。M用のアポ・ズミクロン50mm、35mmがいずれもレンズだけで100万円を軽く超える価格なので、それに比べるとQ3 43は安い!?と、相変わらずライカ中毒患者にしか通じないコスパ感覚が心の中に湧き起こってくる。やはり病気だ。免疫力をつけるためには買い続けるしかない恐ろしい病気だ。それに金銭感覚麻痺という副作用がついて回る。ライカ中毒から抜け出して「社会復帰」する道は険しい。

ライカ社はフラッグシップ機であるLeica Mが今でも売り上げのメインであるが、Qの売れ行き好調のようだ。伝統的なMの使い手、保守的なライカユーザー層だけにこだわっていては商売に広がりが出てこない。これまでXシリーズやCLなどでデジカメの試行錯誤を重ねてきた技術と経験知をQに収斂させてきた。今後ますますQシリーズを強化するのだろう。その技術、経験知がやがてはMにフィードバックされるのだろう。SLの方はパナソニックとの技術協力、Lマウントアライアンスでシグマやパナソニックの優秀なレンズ群、特にズームレンズをラインアップに加え、実用性も拡大している。かといってMシリーズを止めたり、光学レンジファインダーを取り除いたりすることもしないのだろう。これからはM、Q、SLシリーズと3本建でひたすら高級ブランドカメラ路線を突っ走るのだろう。カメラ市場は安くて高性能な「コスパ優先」じゃあ儲からない市場になってきたのだろう。

Leica Q3登場時のブログは、こちらで→ 2023年9月8日「Leica Q3登場」


Q3とQ3 43とを使い比べての感想(11月12日追記)

やはり個人的にはQ3の28mmの方が使いやすい。日常のストリートスナップやブラパチ風景撮影において広角な方が狭い場所でも窮屈さがなく使い勝手が良い。構図調整でも特に6000万画素センサーからポスプロでクロップを多用する場合はなおさらだ。また近接撮影がマクロで17cmまで寄れるのも威力だ。これに慣れるとQ3 43の27cmは引き気味になってしまう。要するに画質の問題というよりはカバレッジの広さが気に入っている。もちろん個人的な撮影スタイル、好みによるので、まさにIt`s up to youであるが。



Leica Q3 43外観(ライカ社HPより)

正面 張革がグレーに

背面は全く同じ

チルトスクリーンも同じ



 Q3(28mmレンズ)の鏡胴


Q3 43(43mmレンズ) 鏡胴がQ3より5mmほど長くなった
鏡胴が長くなった分フードを短くして全体をQ3と同サイズとした



Apo Summicron 43/2レンズ構成図(Leica Rumoreより)
4枚の非球面レンズというゴージャスな仕様!


左がQ3 43、,右がQ3
Q3 43はフード内側にフレアーカッターが設けられたため、フィルターが装着できない。



(オプションのブラス(真鍮)製のフードとサムレストを装着してみた)

ブラス(真鍮)無垢のフードとサムレストなので、ずっしりとした質量を感じる。これでレンズにようやく49mmの保護フィルターを装着できるようになる。フードの重みでカメラがお辞儀する。剛性感、ホールド感は十分。しかし黒地にグレーの張革、金色のフード、サムレストという派手な出立ちのカメラに変身となるので見せびらかしには良いがステルス性は失われる。









(作例)

通常撮影(最短撮影60cm)

通常撮影(周辺光量落ちもない)

通常撮影(歪曲収差、色収差も感じない)

ISO1000 開放絞り(歪みは全く感じない)

マクロモード(27cm)で撮影

マクロモード(27cm)で撮影
マクロモード(27cm)からクロップ(150mm相当)

マクロモード(27cm)
柔らかいトーン

通常撮影

クロップ(120mm相当)
やはり望遠圧縮効果は薄い

通常撮影

クロップ(60mm)

通常撮影
暗部の情報も豊富

通常撮影

通常撮影
ガラス越しでもクリアーに撮影

マクロでクロップ(150mm相当)
解像度はこのサイズなら十分







2024年10月27日日曜日

古書をめぐる旅(56)『The War in The Far East 1904-1905』 〜英国タイムス紙従軍記者が見た日露戦争〜

 

The War in The Far East 1904-1905




明治天皇

明治天皇への献辞


海軍戦力比較

表紙

ロシア皇帝ニコライ2世

大山巌元帥

クロパトキン将軍

東郷平八郎提督

リニエヴィッチ将軍、乃木希典将軍、


今回取り上げる古書は1905年出版の、"The War in The Far East 1904~1905" by The Military Correspondent of The Times,:「極東における戦争 1904−1905」。英国タイムス紙の日露戦争従軍特派員報告/論評である。出版社はロンドンのジョン・マレー社:John Murray。ポーツマス講和条約締結の年1905年に出版された。

 イギリスを代表する高級紙タイムス:The Timesの日露戦争従軍記者の記事を中心に、他誌からの記事、東京特派員、北京特派員による記事や作戦情報、外交戦略報告を加えた総合的な日露戦争レヴュー(論評)となっている。また開戦(宣戦布告)から終戦(ポーツマス条約)までの出来事が日付ごとにリスト化されている。明治天皇、ニコライ皇帝ほか大山巌、クロパトキン、乃木希典、ロジェストヴィンスキー、東郷平八郎など日露双方の将軍の写真、旅順攻略戦や日本海海戦などの作戦地図をふんだんに用いて、1904年2月5日から1905年8月29日までの各地での作戦、戦闘の詳細が全50章で解説されている。特に後世にも名を残す「旅順攻防戦」「瀋陽会戦」「奉天会戦」「対馬海戦(日本海海戦)」については、あらたな情報を加え全面的に書き直したとある。日刊紙の記事としても十分に詳細報道であるが、それを時系列的に並べただけでは、十分な戦況分析、論評ができないので、他の情報源からの入手資料を加えて本書のために編集している。日本が宣戦布告するに至る東アジア情勢、満州、朝鮮をめぐる緊張状態については冒頭に一章設けて解説。さらに当時の日本の国力、軍事力、政治情勢、並びにロシアの国力、軍事力、政治情勢を解説している。ただ、なぜか現地からの写真は一枚も掲載されていない。それにしても終戦の年1905年には「戦記」としてまとめられて刊行されるという速さである。巻頭言で筆者は、過去に多くの歴史家、戦史研究者が優れた「戦史」を残しているが、本書は、読者にこの戦争の現状を報告する「戦記」として編集した」と書いている。1905年刊行という生々しいタイミングから見ても、これは歴史というよりは時事報道であり、無闇に歴史家ぶらないジャーナリストとしての妥当な自評であろう。この戦争を歴史として論評するにはもう少し時間が必要だ。

本書は、交戦国の日本側の視点でも、ロシア側の視点でもない、「第三者イギリスのジャーナリスト」の視点で記録、論評されたものである。といっても、ロシアを共通の仮想敵として締結された日英同盟による「同盟国イギリス」の視点は拭いがたく、また日本軍に従軍して観戦しているので、戦勝国となった日本対する好意的な論評が中心となっている。旅順港閉塞作戦を米西戦争におけるキューバ・サンチャゴ湾閉塞作戦(秋山真之が観戦士官として詳細を報告しており、旅順港作戦に生かされたとされる)、奉天会戦をウォータールーの戦いと比較するなど、戦史に残る戦いであったと評価している。またバルト海から出航したロシア・バルチック艦隊が北海通過の際にイギリスが寄港や補給を拒否したこと、東洋への遠征ルート上でその動きを日本側に提供したことなど、日英同盟に基づく連携が日本海海戦勝利の一因と記述している。コサック騎兵を誇るロシア陸軍の騎兵戦が日本の塹壕戦、機関銃に脆弱であることを示す戦いでもあり、戦史に画期をなすものであったこと。鉄道が兵站にとって重要なインフラであることなども報告されている。そして同じ島国である日本の戦いがイギリス国民にとっては示唆的で興味深いものである点も語っている。このほかにも各地の戦況や作戦の妥当性などの論評が詳しく述べられているが、ここでは詳細には立ち入らない。

確かにこの戦争で日本は善戦し勝利したが、日本の圧勝と言い得る状況でなかったことがわかる。満州における作戦は、ロシア側の士気の低さや作戦ミス、兵站の脆弱性に助けられた薄氷を履むような勝利という面もあると分析している。瀋陽、奉天会戦におけるクロパトキンの撤退は、のちに結果的に日本に有利に働いたが、当初は日本の勝利とはみなされておらず、日本の補給線の限界をついたロシア側の作戦勝ちで、タイムスの分析も日本の敗北と書いている。この報道は世界の金融市場における日本の軍費調達を一時的ではあるが困難にした。しかし、このロシアの伝統的な戦術(撤退して敵を引きつけ反撃する)が、結果的に功を奏しなかったことも指摘されている。日本は多大な損失を被りながら徐々に反転攻勢をかけていった。日本人の勇敢さ士気の高さや、国際法に則った戦い方、敵将に対する敬意など武士道精神にも言及しているが、同時に、日本の外交、諜報、国際世論形成、戦費調達などの戦場の外での活動で優位に立ったと分析している。しかし日本は勝ったものの、多大な人的、物的損失を被り、1年半の戦いで継戦能力を失ってしまっていた。もし奉天から退却したロシア軍が体制を整えて反撃してくれば大敗を喫していただろう。そうなれば軍隊も壊滅し、日本は国家存亡の事態に追い込まれていただろう。もとより当時の日本は国民所得は低く、軍事費を賄うための重税にあえぐ国民の苦境を考えても国力に見合わないギリギリの戦争であった。またロシア国内情勢が不安定化しており、「血の日曜日事件」や革命の匂いがしていたことも日本に有利に働いた。イギリス、トルコとのクリミア・黒海方面での緊張関係で、ロシアが極東に追加派兵する余裕が無くなっていたことも影響した。そんな僥倖の中、日本は米国ルーズベルト大統領の調停で講和となり助かった。これを引き出した日本の官僚たち(栗田慎一郎、高橋是清、金子堅太郎、小村壽太郎など)の外交努力、調略、国際世論対策の結果である。ところが日本国内では、大国ロシアに勝った!との熱狂で有頂天になり、マスコミの報道からは戦争の実情や、国家存亡の瀬戸際に立っているという内実が見えていなかった。ロシアから賠償が取れないと暴動が起きた(日比谷焼打事件)。日清戦争後の「三国干渉」「臥薪嘗胆」を忘れていなかった愛国的心情は理解するも、もはやロシアに対して賠償要求を交渉できる力は残っていなかったのが実情であった。それを一部の政治家や軍人は理解しなかったし、もとより国民は知らされていない。こうした「一等国」になったという興奮と、「一撃講和」の味をしめ外交戦略と国際世論形成の重要性を評価しない外交観、戦争観がこの時形成されてしまった。この後、わずかな戦力でも「大和魂」で一撃を与えれば大国に勝てる、という合理的根拠のない楽観主義により、戦争に突き進む空気を醸し出していった。日露戦争がある意味で明治維新の一つの到達点だとすれば、この朝鮮、満州における戦争が、この後の果てしない泥沼の戦争、そして明治維新が産んだ大日本帝国の破綻への序章であったと言えるだろう。

本書は、イギリスのマスメディアの情報収集/発信能力を具体的な形で示したもので、大英帝国全盛期の力を感じる。英国独自の諜報能力、情報収集能力の高さは驚嘆する。満州における作戦展開、戦況について極めて詳細な情報をどのように入手し配信できたのか。特に、従軍取材とはいえ掲載されている各地での日、時間ごとの作戦行動、部隊配置図、戦況分析図は臨場感がある。これらはタイムズが独自に作成したものであるが、「取材により作成した」と短い注釈があるだけで取材源は記されていない(取材源の秘匿は当然ではあるが)。また、戦争遂行に必要な外交、諜報、世論工作、戦費調達、軍艦などの軍装物資調達など、戦場外での日本の動きについても分析している。事実、栗野慎一郎駐露公使、明石元二郎駐在武官のロシア国内工作、金子堅太郎の米国・セオドア・ルーズベルト大統領工作、高橋是清の米国金融界における戦費調達。小村寿太郎全権代表のポーツマス講和会議での交渉など(ちなみに金子、栗野、明石は福岡藩修猷館の出身)の活動が戦争勝利に大きな影響を与えたことは歴史的にも評価されている。また日本海軍の最新の戦艦や巡洋艦、魚雷艇の調達先についても、すっかり調べがついている。強かな外交、戦争慣れした大英帝国のインテリジェンス能力。それは報道機関の取材力、正確な動向把握能力と情勢分析力にも共通していて印象的だ。この頃にはイギリスは世界を駆け巡る電信網を有しており、タイムス特派員の情報は1日で世界を駆け巡った。世界中に張り巡らされたネットワークによる情報収集、情報発信。海底ケーブル、電信線ネットワークを駆使したロイター通信社の底力。そしてジョン・マレー社の出版と、当時のマスメディア先進国イギリスの役者が揃った感がある。特にタイムスとロイターの戦況報告と分析が世界の世論形成、金融市場にリアルタイムに影響力を持ったことは特筆すべきことである。そして終戦と共に、極東で起きた戦争を即時に「戦記」にまとめ刊行できた本書こそまさにその英国インテリジェンス能力の具体的な証左である。日露両国には厳しい情報統制と、検閲、出版規制が引かれていたが、その中で、イギリスの報道機関がこれだけの情報を新聞紙上に掲載できている事実にも驚かされる。「報道とはそういうものだ」を見せつけられる思いがする。大本営発表、報道発表資料をただ書き直して記事にする「広報」とはえらい違いである。ちなみに、当時、日本側の報道機関がまとめた日露戦争記録のような刊行物は見当たらない。ただ一つの例外は、このタイムス刊の本書を和訳した時事新報社の「日露戦争批評」(森晋太郎訳)である。そのことを本書の巻頭言でも述べている。人々は新聞の華々しい戦果報道によってのみ戦況を知ることができた。一方で、戦死者の家族には悲しい知らせが続々と届いた。国民はそのギャップに戸惑うばかりであったろう。まだまだマスメディアに関しては「一等国」と言える状況ではなかった。この姿は日中戦争、太平洋戦争の時にも変わっていない。日本で日露戦争に関する戦史や関連する資料は、海軍、陸軍、外務省の公文書(国立公文書館アーカイヴ)として残っているものが情報公開されている。日露戦記として個人がまとめたものはいくつかあるが、戦後の半藤一利の「日露戦争記録」が白眉であろう。あるいは司馬遼太郎の「坂の上の雲」のような歴史小説にも描かれて、NHKのテレビドラマ化もされている。しかし日本のマスメディアによる戦争を記録、論評し、歴史的に評価する「戦史」が見当たらないのはいかがなものであろうか。タイムスの日露戦争報道記録はジャーナリズムのあり方を考えさせられるとともに、今や貴重な歴史資料となっている。

本書のライター、編者については署名やクレジットの記述がどこにも見たらない。しかし、調べてゆくと、英国陸軍軍人でボーア戦争(1899-1901)などに従軍した、Charles A Court Repington (1858-1925)という人物がThe Timesの従軍特派員として日露戦争について書き、記事を編集したようだ(英語版Wikipedia)。彼は兵役の経験を有する従軍記者としてイギリスでは名声を得ていたようだ。クレジットはないが彼がおそらくライターであろう。巻頭言で、各方面での詳細な作戦や戦況に関する地図は、東京駐在(おそらくタイムス紙の)のPerry Fisherなる人物の提供によると記されている。このような情報をどのように入手したのかについては書かれていない(取材源は秘匿されるのが常識だが)。またThe National ReviewのMr. L. J. Maxse、The SphereのMr. Clement Shorterの協力に謝意を示しているが、どういう人物かは不明である。先述のように、本書の日本語訳「日露戦争批評」が東京の時事新報社の森晋太郎訳で明治39年出版されている。また、前回のブログで紹介したロシアのクロパトキン元帥の回顧録(2022年3月21日「敗軍の将、兵を語る」)もロンドンのMurrey社による1909年の出版で、本書からの引用が多数見られる。


参考1:本書に掲載されている各方面の作戦、戦況地図抜粋

The Battle of The YALU 1,2 : 鴨緑江渡河作戦 日本陸軍/ロシア陸軍との初戦



The Battle of The LIAO-YANG plan1~10: 遼陽会戦 日本にとって最初の本格的近代陸上戦



The Battle of The SHAHO plan1~4: 沙河会戦 ロシアの反撃作戦



The Battle of The HEIKOUTAI plan1~4 : 黒溝台会戦 ロシアの反撃作戦



Map of the MUKDEN Battlefield: 奉天会戦の俯瞰図 日本が勝利した日露陸軍最後の大会戦



PORT ARTHUR: 旅順攻防戦  二〇三高地を含む遼東半島俯瞰図


二〇三高地(wikipedia)

陥落後の旅順港(Wikipedia)


The Battle of The TSU-SHIMA: 対馬海戦(日本海海戦)日本海軍/ロシア・バルチック艦隊配置図(いわゆる丁字戦法、東郷ターン)



参考2:本書に掲載されている1904年2月5日〜1905年8月29日の主要な出来事

朝鮮・仁川上陸 宣戦布告と出兵

鴨緑江渡河作戦 日本陸軍の満州へ進軍

黄海海戦 日本海軍、ロシア旅順艦隊を旅順港に閉塞

旅順港閉塞作戦 日本海軍、旅順艦隊撃滅は失敗するが無力化に貢献

金州会戦 日本陸軍の奉天への進軍開始

旅順陥落 乃木将軍の203高地攻略 水師営におけるステッセル降伏

遼陽会戦

沙河会戦

黒溝台会戦

奉天会戦 ロシア陸軍、クロパトキンの撤兵

対馬海戦(日本海海戦)東郷元帥のバルチック艦隊の撃滅

樺太占領

ポーツマス講和会議







2024年10月21日月曜日

武蔵國荏原郡大井村 鹿嶋神社の秋祭り

 今日20日は鹿嶋神社の秋の例大祭。

「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日。ドンドンヒャララ、ドンヒャララ🎶朝から聞こえる笛太鼓」

ここ武蔵國荏原郡大井村は江戸近郊の農村だった。今の東京都品川区大井である。東海道からは少し離れていて、海岸べりの品川宿からは坂を登った高台に位置している。縄文時代の遺跡である大森貝塚(大井町にあるのだが)や弥生集落遺跡も多く検出されていて、先史時代から海にも山にも近い立地の集落として栄えていたようだ。律令時代には、一時みやこから下向した武蔵國の受領が館を構えたこともあるそうだ。鎌倉往還沿いには来迎院という平安時代開基の天台宗寺院がある。天台宗ということは平将門の乱平定と関係があるのだろうか。江戸時代には三代将軍家光の鷹狩りの休息所「お茶屋敷」に利用されたという。鹿嶋神社は来迎院の域内社として常陸国鹿嶋神宮から勧請された。現在は明治初期の神仏分離令で別れてしまったが今でも隣り合わせ。大井村はこの辺りでは結構大きな村だった。かつては海岸段丘にあり今でもあちこちに湧き水が出ていて水神様の祠や井戸がある。だから地名が「大井」なのだと土地の古老は言う。そうした水場は江戸に出荷する野菜の洗い場だったとか。明治になると伊藤博文の別邸など、政財界の大物の別邸が設けられた。それにつられるように帝都東京郊外の閑静な住宅街として官僚や軍人、会社員が住んだ。さらに鐘紡、日本光学、三共製薬などの工場も進出してきて賑わい、人口も増えて東京市の一部となっていった。関東大震災の被害が少なかったせいで、震災後は急速に住宅地化していった。昭和7年(1947年)には東京市の行政区画が15区から35区に組み替えられ、旧大井村は品川区になった。戦後は23区に再編され品川区である。品川というと品川駅が中心だとを思いがちだが、あそこは高輪(旧芝区、現在は港区)。品川区の中心は大井町で区役所も最寄駅は大井町駅である。ちなみに京急北品川駅は品川駅の南にある。五反田駅、目黒駅は品川区にある。ああ、ややこしや、ややこしや。