ページビューの合計

2013年2月13日水曜日

筑紫古代史の謎宮を歩く ー 香椎宮探訪 ー

 香椎宮は社伝では仲哀天皇9年(200年)、熊襲征伐の途中橿日宮(かしひのみや)で仲哀天皇が急逝したため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。さらに後に養老7年(723年)、神功皇后自身の神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724年)に竣工したと伝える。この2つの廟をもって香椎廟とする。万葉集には神亀5年(728年)、大伴旅人らが香椎廟を拝んだ後に詠んだ歌が収録されており、少なくとも香椎廟はそれ以前から存在していたとみられる。香椎廟は、天皇の「廟」であり、他の神社とは異なる扱いを受けていた。延喜式神名帳には記載がない。ただし、『続日本紀』などの文献には香椎廟・香椎宮・樫日宮・樫日廟などと見える。古くから朝廷の崇敬厚く、伊勢神宮、宇佐神宮に次ぐ扱いを受けている。

記紀によれば、仲哀天皇は神功皇后とともに九州熊襲征伐に出向き、橿日宮に行宮を置いた。そのとき神功皇后が神懸かりとなり「西の海の向こうに宝の国(新羅)があるので、そちらへ行け」との神のご宣託を伝えた。しかし仲哀天皇は、それをいぶかしがり「西にそのような国は見えない」として疑ったため、神の怒りに触れ急死したとされている。神功皇后はその亡骸を棺に入れ、椎の木にかけ葬った。するとその椎の木から香しい香りが四方に漂ったので「香椎」と呼ばれる事となった。それが現在古宮として残る香椎廟であるとされている。

その後、神功皇后は夫の仲哀天皇にかわり、男装して、お腹の子供(後の応神天皇)の出産を遅らせるべく、石を腹に巻き、軍勢を率いた朝鮮半島へ出陣したとされている。これが神功皇后の「三韓征伐」の伝承である。無事、戦わずして新羅を服属させ、百済,高句麗も朝貢を約束させ、九州に帰還した。その際、三宝を地中に埋めて国家の安泰を祈り、そこに杉の小枝を置いたのが、今の香椎宮のご神木、綾杉の大木であると。ちなみに神功皇后が(のちの応神天皇を)出産した地が宇美八幡宮であるとされ、また赤子のオシメを換えた地が志免であるとされている。さらには、香椎にほど近い名島海岸には、神功皇后が「三韓征伐」から帰還した時の軍船の帆柱が化石になって残る「帆柱石」がある。戦前はこれが結構人気の博多名所の一つであった。もちろんこれは古生代の自然の珪化木の化石だ。これはこれで地質学的には珍しい標本だが...

筑紫にはこのような神功皇后ゆかりの地があちこちにある。むしろ畿内よりも筑紫の方が多いような感さえする。地元には親しまれる古代史の英雄ではあるが、しかし、この伝承には様々な歴史上の謎が含まれている。

まず、仲哀天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)は、欠史八代の天皇同様、実在性が疑われている天皇の一人とされている。そもそも実在性が疑問視されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子だとされている事。しかも誕生年は西暦換算では、日本武尊が能褒野で死に、白鳥として天に昇って行ってから36年後の生まれである事などから、後世に創作されたのではないかと言われている。また、日本の正史である日本書紀で、天皇が神罰で急死したというエピソードにはどのような意味が含まれているのだろう。

また神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)はただ一人皇后として記紀にその事績が記され、歴代天皇と同等に扱われた女性であるが、やはり其の実在が確認しにくい。在位は西暦に換算すると201ー269年とされ、ちょうど魏志倭人伝に記述のある倭国邪馬台国の時代を相当するため、卑弥呼ではないか、いや、その後の台与である、とか諸説があるが、いずれも根拠に乏しい。むしろ記紀編纂時(8世紀前半)に、後世の斉明天皇の九州行幸と筑紫朝倉宮での崩御、息子の天智天皇の白村江の戦いや、持統天皇をモデルに、時代をさかのぼって朝鮮半島への出兵エピソードを創出したものだ、という見解もある。また、そもそも畿内ヤマトからやって来たのではなく、ヤマトに対抗する筑紫倭国の大王であったのだ、という説も。邪馬台国九州説に繋がる論考だ。

しかも、この記紀の「三韓征伐」伝承によれば、それまで九州の西の海中に朝鮮半島が存在している事を当時の倭国の支配者である大王(天皇)が知らなかったことになる。神のご宣託により初めて知った国だと。しかもその存在を疑ったと。2世紀から3世紀初頭といえば、中国の歴史書(魏志倭人伝、後漢書東夷伝)と照らし合わせると、「倭国大乱」、邪馬台国女王卑弥呼、其の後継の台与の時代に相当することになる。西暦239年には卑弥呼が帯方郡を通じて魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号を受けている。さらに遡れば西暦57年には筑紫の奴国王(あるいは委奴国王)が漢の武帝から「漢委奴国王」の印綬を受けており、以前から倭国が朝鮮半島や中国と朝貢関係、交流を持っていた事実が示されている。さらに、この時代にはまだ三韓(新羅、百済、高句麗)は成立していない。このように記紀のこのくだりは後世の創作だとしても、当時の倭国の東アジア情勢認識とも一致しない。どのような意図のもとに記述された伝承なのか謎だ。

当時の倭国(日本)と中国、朝鮮半島との交流については、中国の前述の歴史史料で確認するしか方法が無い。日本で記紀が編纂される8世紀以前に、残念ながら日本には文字で表された記録は残っていないからだ。

中国の史書による倭国に関する記述を要約すると、

1世紀半ば:後漢書東夷伝によれば、倭の奴国王が光武帝に使者を送り「漢委奴国王」称号を受ける。
2世紀初から半ば:倭国王師升後漢に遣使。また倭国大乱ののち、卑弥呼擁立して倭国安定。
3世紀半ば:魏志倭人伝によれば、卑弥呼が魏に使者を送り「親魏倭王」称号を受ける。卑弥呼の死後、また乱れたが卑弥呼の養女台与を立て再び安定。魏のあとの晋に遣使。
4世紀:倭国に関する記述がふっつりと消え、空白の4世紀に。ただ、朝鮮半島で見つかった好太王碑文によれば、倭国軍が百済、新羅と戦って勝利した,と言う記述が。
5世紀:宋書によれば、倭の五王が遣使。倭王武(記紀にいう雄略天皇ではないかと言われる)の「ソデイ甲冑を貫き山河を跋渉して寧所にいとまあらず...」。朝鮮半島における倭国の権益を認めるよう要望し安東将軍や鎮東大将軍の称号を得た。

1〜3世紀の混乱した情勢の中で生まれた、祭政一致(ヒメ/ヒコ)制による邪馬台国を盟主とするクニの連合国家「倭」が、4世紀には朝鮮半島に進出し、5世紀には歴代男王による倭国の武力統一、さらに倭国外の朝鮮半島における権益を中国王朝に認めさせようとする武断的な国家「倭」に変貌する。この間一体どのような変化が倭国に起こったのだろうか。政祭一致の邪馬台国のよる倭国連合は、いつしかヤマト王権による統一倭国へと変遷して行ったのであろうか。チクシ倭国がヤマト倭国と統合された,と推論する説もある。

中国の史書は、当時の倭国の動向を知るよすがになるが、なかなか日本側の記録との一致が見られない。すなわち日本書紀や古事記の記述との事績、時間双方の乖離がある。そもそも記紀には邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。一方、中国の史書には神功皇后による「三韓征伐」エピソードに相当する記述が見当たらない。前述の史書のどの事象を示唆しているのか不明である。例えば、神功皇后が3世紀の在位とすると卑弥呼が朝鮮出兵したことになるのだろうか。あるいは、神功皇后が魏に朝貢し「親魏倭王」の称号を貰ったことになるのだろうか。どちらも考えにくいだろう。倭国が朝鮮半島伽耶国に権益を持ったり、百済と同盟関係を結んだり、唐/新羅連合軍との白村江での戦いに敗れたりするのは5〜7世紀の事だ。神功皇后は実在したのだろうか。

既知の通り、日本書紀は8世紀に編纂された日本の正史であり、天武天皇、持統天皇が壬申の乱後の倭国,日本における天皇支配の正統性を記したもの。主に当時の超大国である唐と対等の外交交渉を行うために整備した国史である。したがって、当時の国の正史とはそのようなものであるが、時の支配権力、統治権威の正統性を示す事が主たる目的であり、客観的な史実を公正に記述するものではない。その点では中国の史書も同様であるが。

中国の史書で仲哀天皇や神功皇后についての記述が見えるのは時代をずっと下って10世紀(日本の平安時代)の唐時代の新唐書になってからだ。これはおそらく日本側の正史である日本書紀を参照したのであろう。いずれにしても神功皇后、仲哀天皇とはいかなる人物だったのか。実在性は如何。 だとすると、香椎宮古宮に祀られているのは誰なのか? 河内王権の始祖ともいわれる応神天皇はどのような血統から生み出されたのか... 新たな謎がわいてくる。もっとも神功皇后は神の子を宿した聖母(しょうも)であるとも伝えられており、応神、仁徳天皇の聖君子を演出するストーリなのかもしれない。

素晴らしい香椎造の本殿、古宮、ご神木の綾杉を参拝して、帰途につく。来る時はJR香椎駅から香椎線で宇美行き(宇美八幡のある)に乗り換え、一駅目の香椎宮前で下車。帰りは並木の美しい表参道を通り、JR香椎駅、西鉄香椎駅方向へ歩いた。この両駅間の道は、そう、松本清張のミステリー小説の傑作「点と線」の舞台となったところだ。人気の無い真っ暗闇の道を香椎海岸へ歩く男女二人。「寂しい道ね」という女の声を聞いた通りがかりの人の証言が謎解きのヒントになる,あの場面だ。今はJRも西鉄も高架駅となり、あたりはにぎやかな商店街となっていて、「点と線」の面影はない。今ここに朴訥な九州男児、福岡東署の鳥飼重太郎刑事が居れば、ポツリと神功皇后の「点と線」の謎も解いてくれたかもしれない。




(香椎宮の綾杉。神功皇后が「三韓征伐」からもどり、国家安泰を祈って三宝を埋め、その上に杉の小枝を置いたものが綾杉になったと伝承されている)




(香椎造の本殿。香椎宮だけの独自の建築様式。江戸時代に筑前藩主黒田氏によって再建された建物)



(仲哀天皇が祀られている古宮には棺掛けの椎木がご神木として鎮座ましましている。この椎木が香しい香りを発した事から「香椎」の名が出たと言われる)




(香椎宮の表参道。鬱蒼とした並木に覆われた参道は、昔は香椎浜に続いていた。今は浜は埋め立てられ面影が無い)




(松本清張ミステリーの傑作「点と線」の重要な舞台となった国鉄香椎駅と西鉄香椎駅をむすぶ道。当時は人気の無い真っ暗な道であったが、今は両駅とも高架となり賑やかな商店街になっている)

スライドショーはこちらから ⇒



































(撮影機材:Fujifilm X- E1, Fujinon Zoom 18-50mm)

アクセス:JR鹿児島本線香椎駅、西鉄貝塚線香椎駅ないしは香椎宮前駅から徒歩10〜15分。JR香椎線香椎宮前駅から徒歩5分。


大きな地図で見る




2013年2月5日火曜日

播州龍野 ー露の風の城下町ー

 龍野は播磨の国、揖保川沿いの静かな城下町。姫路からJR姫新線乗り換えで約15分。山陽本線沿いではない所がポイントだ。最寄りの本竜野駅は龍野の旧市街からは徒歩で20分ほどの川向こうにある。明治の頃、日本各地で鉄道が開通し始めた時の地元の人々の反応は様々だった。大抵は近代化の恩恵を複雑な気分で恐る恐る手にとって見たのだろう。鉄道の駅は必ずと言ってよいほど町外れに出来た。その町が古い城下町であればあるほど... 龍野も例外ではないという事を、まず駅をおりて実感する。町まで遠い...

 揖保川にかかる龍野橋から旧市街を見渡す。戦国時代の城づくり、城下町づくりに共通するエレメント、小高い山と川。辺りを睥睨する山上に石垣を巡らして堅固な山城を築き、その山麓に城下町を開く。そして、川を掘りに見立てて城を守る。ここ龍野も戦国時代の赤松氏が鶏籠山(けいろうさん)に城を築き,その山麓の揖保川沿いに城下町を開く、という典型的な城下町ロケーションだ。

 江戸時代に入り、信州飯田から移封されて来た脇坂氏の龍野藩5万3千石の城下町となる。時代は既に徳川幕府の支配が確立された時期で、城も戦国時代の要塞、砦の機能はもはや不要のものとなる。また諸大名も幕府の眼を恐れて壮麗な城造りを控えるようになった。脇坂氏は入封とともに、鶏籠山の山頂ではなく、その山麓に縄張りをする。山を背に正面を石垣で囲んだ居館といった風情の平山城となっている。脇坂氏は明治維新まで代々藩主として龍野を治め、維新後に多くの藩主が東京へ移住した後も龍野に戻っている。旧武家屋敷地区に居宅を構え昭和初期まで居住したそうだ。今も「脇坂屋敷」としてその敷地が残っている。

 脇坂氏といえば、あの浅野内匠頭の刃傷事件で,御家断絶になった浅野家の赤穂城を幕府の命令で受け取りに行った大名である。忠臣蔵の物語りの中でも、脇坂出羽守は浅野びいきであり、ふだんから吉良上野介を快く思っていなかったとされている。松の廊下での内匠頭刃傷のおりに、斬りつけられて逃げる上野介と出羽守は交錯し、その家紋が血で汚された事を怒り、上野介を「無礼者めが」と叱責したというエピソードが伝えられている。どこまでホントかはわからないが、同じ播磨の赤穂と龍野はお隣さんと言ってよいほどの距離。どちらも5万石ほどの外様大名である。親近感を持っていてもおかしくない。また赤穂城開場時の大石内蔵助はじめ,赤穂藩家臣の潔い引き際。その後の隠忍自重、艱難辛苦のすえ武士の忠義を示した討ち入りに、庶民大衆を始め、多くの武家も喝采を送る中,特に浅野/赤穂浪士シンパの大名の存在が,忠臣蔵の話に花を添える名脇役としてもてはやされたとしてもおかしくない。

 この美しくたおやかな龍野の城下町は、こうしたお隣の赤穂浪士達の義挙に花を添える脇役としての歴史を伝える訳であるが、むしろそのエピソードよりも、一般には三木露風の唱歌「赤とんぼ」で有名な町だ。戦前の哲学者で治安維持法で検挙され獄死した三木清もこの龍野の出身。旧制第一高等学校の寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」の作詞者で歌人の矢野勘治もそうだ。こうした文人を輩出した龍野とはどのような町だったのか。

 一方、龍野を代表する産業は世界のブランド、ヒガシマル醤油。房州野田のキッコーマン醤油に対峙する龍野の淡口醬油だ。関西の味の原点を生み出した町でもある。そして、そうめんの名品ブランド、揖保の糸。ここは明治以降も時代から忘れ去られた,歴史のタイムカプセルに収められた城下町としてではなく、伝統産業を世界に広める近代産業への脱皮を実現した現代の町としても発展している。

 龍野には有名な本屋さんがある。伏見屋さんだ。絶対訪ねる価値有りだ。明治34年(1901年)に建てられた白壁の商家を一歩中に入ると、ぐるりと廻廊が巡らされ、天井には採光用の天窓が並んでいる。吹き抜け2階建てのユニークな店内のしつらえが眼に飛び込んでくる。この建物は今も現役の書店として営業中である。ご主人に「写真撮らせてもらっていいですか?」と伺うと快く承諾して下さり、しかも接客の合間にこの店の説明をして下さった。二階の廻廊にも本棚が並び(昔は教科書の仕分けに使われていたそうだ),廻廊から伸びた針金のフックは一階を照明するランプが吊るされていたとか。明治にこの建物を発想した人もスゴイが、今にこの建物を引き継ぎ、家業を継続している人もスゴイ。なんだかBusiness Continuity Planningってこういうことではないか、という気がしてきた。

 ご主人が下さった一枚のプリントにこの伏見屋さんの歴史やエピソードが記載されている。明治/大正期には龍野は大阪、京都、奈良といった関西と山陰地方、出雲を結ぶ街道の途中にあり、伏見屋さんは書籍だけではなく,紙や油その他の物資の流通にも携わっていたそうだ。以前は出雲の人がわざわざ龍野まで書籍を探しに来たり、戦時中、某大学教授が疎開して研究に没頭する時は伏見屋のある龍野に居を移したり、様々なエピソードに事欠かない一種の文化流通の拠点であったようだ。さらに歴代のご主人や奥様も若い人達の教育や、文化活動の支援にも尽力されたそうだ。

 ご主人にチョット失礼な質問をしてみた。「今も現役の本屋さんとしてやって行くご苦労は?」 ご主人笑いながら「今でもこの町の方々の本の注文はウチに頂けるし、学校向けの教科書の取り寄せや配布もやらせていただいてるのでなんとかやってます」と。まさに現役なのだ。この日も、中学生の女の子が学習参考書の注文に来ていた。自転車でやって来たおかあさんが取り置きしてもらって雑誌をうれしそうに受け取って帰ったり,ご主人は結構忙しそうであった。 ご商売の邪魔をしてはいけない。早々にお礼を行ってその場を辞した。

 出版の衰退とか,活字メディアの衰退とか言われているが、やはり「本」は文化の源泉なのだ。本屋さんは本を通じて人が交流する一種のサロンなのだ。三木露風、三木清等の多くの文化人を生んだ龍野の文化的背景のかなり大きな部分を担って来たのだろうと思う。AmazonやGoogleにはマネ出来ない「実在」が確かに息づいている。

 もう一つ,龍野には和菓子屋さんが多いのも気になった。松江や金沢のように、武家や商家の間で盛んであった茶の湯文化の町には素敵な和菓子屋さんが多い。きっと龍野もそういった文化の香りを和菓子に留めているのだろう。白壁の本屋と和菓子と醤油と赤とんぼ。日本だなあ。




(脇坂氏5万3千石の居城、龍野城。城と言うより,防備を巡らした居館という造り。明治維新後破却されたが、戦後一部が再建された。これはその再建隅櫓)




(鶏籠山麓の龍野城趾から城下町を見渡す。お城はあまり高い位置ではないので威圧感が無い。ヒガシマルの醤油蔵が見える)




(伏見屋書店。明治34年(1903年)に建てられた吹き抜け2階建ての店舗。二階の回廊と天井の採光窓が明治の建築とは思えないモダンさを醸し出している。)




(和菓子屋さんが多い龍野の町。茶席にふさわしい和菓子の他にも、薄口醤油を売りにした饅頭などユニークな商品が並ぶ)




(ヒガシマル醤油の醤油蔵。延々と続く白黒の壁と,水路が龍野の街の独特の景観を生み出している。)


写真集はここから→



童謡「あかとんぼ」の記念碑

揖保川のむこうに金鶏山



龍野の街なみ


老舗の和菓子屋さん



伏見屋さん


昔はランプをぶら下げたそうだ



ヒガシマル醤油記念館












龍野城本丸御殿


武家屋敷




脇坂家屋敷



















ヒガシマル醤油工場


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm いつものブラパチ風景散歩のベストパートナー。)



大きな地図で見る

アクセス: JR新幹線、山陽線の姫路からJR姫新線本竜野下車。徒歩20分で揖保川を渡り,旧市街へ。町中散策は特に地図などなくても十分に楽しめるが、駅の案内所に散策マップがおいてある。