ページビューの合計

2016年9月5日月曜日

並河靖之七宝記念館探訪 〜靖之と植治 二人の巨人ここに集う〜



並河靖之七宝記念館
並河の自宅兼工房であった。
隣家(手前)は稀代の作庭家小川治兵衛の自宅であった。


 以前から訪ねてみたいと思っていた並河靖之七宝記念館。ついに今回訪問することができた。ここの見所は、何と言っても国内でまとまってみる機会が少ない七宝の超絶技巧作品だが、実はこの建物と庭園がまた素晴らしい。ここの庭園は稀代の作庭家、植治こと第7代目小川治兵衛の作だ。七宝家の並河靖之と、作庭家の第七代目小川治兵衛という二人の巨匠。明治日本を代表する二人の天才がここで出会った。時代の美意識を体現する絶妙の空間となっている点が感動的である。

 ここは並河靖之が、1893年(明治26年)に、今の人間国宝に相当する帝室技芸員に選ばれ、海外に「世界のナミカワ」として名声を博していた時代に建てた自宅兼工房である。欧米での万国博覧会などで高い評価を受け、事業としても最も成功した時期であったという。あたりは少し歩を進めると岡崎南禅寺界隈、政財界の大物が競って建てた壮大な別荘群がある地域だが、この並河邸は比較的こじんまりとした敷地に建つ。表屋は虫籠窓に駒止という典型的な京商家の佇まいを有する屋敷。しかし一歩中に入ると、超絶技巧の七宝の世界と日本庭園という、明治期の二人の美の巨人がコラボレートする独特の宇宙が凝縮されている。明治にしては珍しくガラス窓を多用した和風建築の母屋と、創作に打ち込むための工房、焼成を行う窯場、そして真ん中には植治作庭の庭が配されている。母屋には外国からの賓客を迎えるために、客の好みに応じて洋風と和風の応接間が用意されている。洋間は鴨居の高さが高く、ガラスの入った障子窓も高い位置に、そして和室は低い位置に配されており、この名庭園がどちらからも座ったまま見渡せるように意匠が凝らされている。建物も庭も当時のままで、あまり大きな改修の手も加えられないまま残されている。国指定の有形登録文化財である。


 住所は東山区三条通北裏白川筋東入ル。いかにも京都らしいアドレスだが、文字通り三条通の一歩北側、白川に沿った裏白川筋との角から東に入って所にある。京都の住所表示は道案内そのものでわかりやすい。

 実は右隣が第七代小川治兵衛(植治)の自宅であった。現在も「小川」の表札がかかっているが、住んではいないそうだ。こうした隣同士の縁もあり、並河家に作庭を依頼された小川治兵衛。元々は植木職人であったそうだが、これをきっかけに作庭、造園の道に踏み出したと言われる、南禅寺界隈別荘群の名園を数多く手がけた植治にとっても記念すべき庭園第一号というわけだ。

 この庭の特色は琵琶湖疏水から水を庭園に引き込み、池と流れを生かした点。京都に多い禅寺の枯れ山水とは異なる趣を醸し出している。水の流れによる植栽のみずみずしさや涼しさ、流水の視覚的、聴覚的効果が京都の庭園に新しい風情を与えている。そもそも琵琶湖疏水は明治維新後の東京奠都で、元気が失われつつあった京都の産業・工業振興のための一大土木プロジェクトであった。琵琶湖から延々水を引き、この蹴上の山筋を開削して、南禅寺境内にローマの水路橋よろしく水路を作り、水力発電所を起こしたもの。したがって別荘や個人の邸宅の庭に水を引くなど想定外であったようだが、並河家は七宝工房用に、として水を引いたという。その後、この琵琶湖疏水が南禅寺界隈別荘群に水を配り、多くの名園を生み出すこととなった。これらこそ植治のなせる技である。同じく植治が作庭した山県有朋の別邸無鄰菴もこの近くである(2015年1月のブログ:「無鄰菴」庭園散策 〜南禅寺界隈別荘群を巡る〜)

 この辺りには明治期には20数軒の七宝焼きの事業者があり、それぞれにしのぎを削っていたそうだが、中でもその質と量で並河靖之が群を抜いていた。もともと七宝は大勢の職人を抱えて営むものではなく、どれも事業者としては小規模であったようだ。明治日本の殖産興業政策により、外貨の獲得に七宝は重要な輸出品としてもてはやされた時期であった。こうして並河靖之の超絶技巧が世界に名を轟かせることになった。

 しかし、時代は移り、並河家は1923年に七宝製作を廃業。七宝家としては断絶している。現在建物と庭園、そして収蔵品は財団に移管されて保管展示されており、京都、日本の文化の活動発信地の一つとして重要な位置を占めている。現在のご子孫は医者であるそうだ。この記念館の真向かいに住んでおられる。一方、小川家は、治平の子8代目の小川白葉は石の庭の天才とよばれ、さらに連綿と現在も「植治」として造園業を引き継いでおられ、京都を中心に盛業中だ。現在の社長は12代目である。


和室側からは庭の全景を展望できる

洋風応接間
鴨居が高く設計されている

植治作庭の庭園
水は琵琶湖疏水から引き込んでいる。

礎石に見立てた踏み分け石から和室を眺める

二階部分
明治期の和風建築としては珍しい大きなガラス窓


右は洋風応接、左が和風応接
障子のガラス窓の高さが左右で違っているのがわかる。

母屋玄関

台所
通り庭という形


(撮影機材:Leica T+Vario-Elmar-T 18-56mm f.3.5-5.6 ASPH)



 Another Story: もう一つの「美の巨人たち」「二人のナミカワ」

 七宝界に名を残す巨人にはもう一人のナミカワがいる。濤川惣助である。奇しくもふたりのナミカワは共にほぼ同世代の七宝家。並河 靖之は1845年京都生まれ、一方の濤川 惣助は1847年千葉県生まれ。後にふたりは京都の並河、東京の濤川 と呼ばれライバル関係を築く。そして並河靖之:有線七宝。濤川惣助:無線七宝という伝統と革新のそれぞれの旗手である。

 並河靖之は元々は武家の出で、青蓮院付きの寺侍並河家の養子。明治に失職し七宝製作の道へ。一方の濤川惣助は江戸の商家で奉公ののちある有名商家の養子となり、その後陶器の輸出業に取り組み成功を収める。のちに家業を後継に譲り自らは七宝の革新に没頭する。

 並河 靖之は長い歴史と伝統の技法を持つ七宝界の頂点を極め、濤川 惣助は従来の基本形であった有線七宝(色を入れるときに線で境界を築き、色が混じらないようにすることではっきりした模様となる)から、無線七宝(色を入れると早いタイミングで境界の線を取り除き水彩画のような柔らかい模様となる)という独自の技法をあみ出しその頂点を極めた。技法は違えど同じ七宝界の頂点に君臨する両巨頭である。現在の人間国宝にあたる帝室技芸員も七宝界ではこのふたりだけ。時代は同じ時期にふたりの天才を世に送り出したといえる。しかしこの二人の天才は生涯相見えることはなかったという。

 現在、これだけの巨頭、両ナミカワの作品を日本で見ようとすると結構苦労する。明治日本の輸出品として外貨を稼ぐ重要産品であったことから、作品の90%以上が海外市場で流通し、残りが皇室などの賓客向けの贈答品、下賜品として買い上げられた。こうして「世界のナミカワ」として海外でもてはやされたが、日本にはあまり作品が残っていない。これまで京都の産寧坂美術館や東京日本橋の三井記念美術館などで作品の展示会があったが、なかなかまとまって見ることができない。今回訪れた並河靖之七宝記念館収蔵作品でも全数で140点ほどだそうだ。これでも国内では圧倒的な数である。実際の記念館での展示は思いの外少ないことに気づく(撮影が許されていないのでお見せできないが)。独特の黒生地の小ぶりな作品が多く展示されているが、海外のコレクター所有の作品に匹敵する規模の花瓶などのものは少ないように思う。濤川惣助の作品はさらに少なく、まとまった作品を収蔵するところはないと言って良いくらいだ。一時期この両巨頭の存在も忘れ去られかねない有様であった。以前にも古伊万里や、幕末・明治期になって確立した有田などの超絶技巧作品が海外に流出し、いまや取り戻すことができない話を書いたが、ここでも海外へ渡った明治期の超絶技巧七宝は、その生誕の地である日本へ帰ってくることは稀である。世界に日本の美が評価されるのは嬉しいことだが、それを日本で見ることができないのは悲しい。



並河靖之作品
宮内庁蔵
濤川惣助作品
ウォルター美術館(マサチューセッツ)蔵






並河靖之
濤川惣助






記念館の詳細はここを参照:
並河靖之七宝記念館ホームページ



2016年8月27日土曜日

「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」〜Leica Noctiluxという名馬〜

Noctilux-M 1:1/50 + Voigtlaender VM-E Closed Focus Adapter + SONYα7RII



ライカにはその歴史上数々の名レンズ/迷レンズがラインアップされてきた。だいたいにおいて万人向けの使いやすいレンズといったシリーズは少ない。が、使い手を選ぶ気難しいレンズはいっぱいある。Elmar 50mmやSummicron 50mm,35mmなどは比較的扱いやすい方だが、フレアーやハレーション華々しいSummar 50mm, Summitar 50mm,旧Summarit 50mmなど50mm標準レンズクラスでもクセ玉がずらりとラインアップされる。35mm広角レンズでは名玉・迷玉で有名な初代Summilux 1.4などは素人には出来損ないレンズに見えてしまう厄介な代物だ。そしてこの高速レンズNoctilux 50mm f.1。第4世代のレンズだ。最新のものはその開放F値が0.95という最高速レンズで非球面化(ASPH)されたので多少扱いやすくはなったものの、それでもNoctiluxは代々扱いが難しいレンズの代表格だ。これらはレンズの個性・味としてライカ使いのマエストロにもてはやされてきた。レンズ設計が手計算で、レンズ研磨も手磨きの時代。コーティング技術もまだ十分に確立されていないので、収差などにバラツキが出たり、逆光フレアーが盛大に出たり、手仕事による個体差が現れる。それを「道具の目利き」よろしくマエストロたちが自分にあった個体を選び出し、一生モノとして愛でる。そういう世界だった。そういう意味で現代のライカレンズは個性がなくなってしまった、とオールドファンは手厳しい。職人芸のマイスターが創り出す「お道具」から合理的な生産ラインで生み出される「モノ」になってきたということだ。

Noctiluxの話に戻るが、まず開放で撮るには正確無比なピント合わせが必要だ。これがなかなか至難の技。合焦部分のピントの幅が極めて薄く、かつその周辺部分はうっすらとボケる。いやフレアーが沸き起こり、ハレーション起こしてるんじゃないかと思わせるようなふんわり感。どこにピントがあっているのか慣れないと目視では分かり難い。ライカのレンズはどれも合焦部分とボケのコントラストが絶妙なのだが、これは素人には絶妙を通り越している。目の慣れた達人だけが「名人芸のごとく」そのピントを嗅ぎ分けられる。

しかも、LeicaMカメラのボディーで撮影するとなると、ライカ秘伝のレンジファインダーで正確にピントあわせするテクニックと熟練の技が必要だ。この辺がライカは使い手を選ぶと言われる所以だろう。デジタル化されたType240のライブビューでの撮影にはさらに別種の慣れが必要だ。フォーカスピーキングや拡大機能が搭載されて便利になったはずだが、なおピンボケの山を築いてしまうのは何故なのだろう。液晶画面は意外にMFによる細部の確認に不向きなのかもしれない。

さらにMボディーだと最短撮影距離が1mという老眼なのももどかしく感じる。高速レンズのボケ(Bokeh)を生かしたクローズアップ撮影を狙っても無理。そもそもレンジファインダーカメラは近接撮影を想定してない。従ってレンズ設計も寄れない構造を是とすることとなる。せっかくのf.1, f.0.95が勿体無いと思う。もともと夜間でもavailable lightで撮影出来る高性能レンズという触れ込みで開発されたのだが、近接撮影でもこのF値を生かしたBokehを楽しみたいと思うのが人情だろう。

こうして私のような、ライカMボディーという厳しい親方に、いつも駄目出しされる撮り手は、ついSONYα7RIIなどという最新テクノロジーで武装した優しい親方の方に行ってしまう。ライカ道修行が足りないのだ。さらにこのSONYα7用にコシナからライカMレンズ用クローズドフォーカスアダプターがリリースされている。これを使えば、上記のフラストレーションが解消される。まず、最短撮影距離が30cmまで寄れる。そしてSONYα7ボディーに搭載されている手振れ補正機能、フォーカスピーキング、ピント拡大機能が、有効に働いてくれる。こうしてNoctiluxというモンスターレンズで「手軽に」近接撮影によるボケを楽しむことができる。なんと便利な世の中だこと。まさに「私にも写せます」だ。

  しかし、そうは言ったものの、なおNoctiluxの開放撮影でのピント合わせは厳しい。これだけSONYボディーの最新フォーカスアシスト機能があっても思ったところにきちっとピントを決めるのには修練がいる。なかなかピチッと決まってくれない。厳しい親方はMボディーだけかと思っていたが、このNoctiluxという親方はもっと厳しい。このモンスター名器を使いこなすにはまだまだ修行が足りない。もっともっとピンボケの山を築かないと腕は上がらないのだろう。「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」だ。名馬を名馬として見出し使いこなすには名伯楽がいなくてはならない。そしてその名馬は名伯楽を育てるのだ。



掲載の作例は、このSONYα7RII+Voigtlaender VM-E Close Focus Adapter+Noctilux 50mm f.1という組み合わせで撮ったもの。


室内で開放で30cmほどの近接撮影。ピントの幅が極めて薄いことがわかる。
しかしボディー内手振れ補正が機能してくれるのが嬉しい。
おかげで狙ったところにピントがきちっと合った。

屋外で距離1mを超えると写しやすくなる。後ろのボケ方も自然だ。

撮影距離1m以内に寄っても上から俯瞰するように撮れば周辺がなだらかに減光/アウトフォーカスしてくれる。

ピント部とボケのコントラストがライカレンズ独特の立体感を生み出してくれる。
曇天の薄暗い光のなかで威力を発揮するレンズだ。

失敗作。
手前のエッジ部分にピントを置いたつもりが、後ピンになってしまった。手持ち撮影だと体がちょっと動いただけでピントは簡単にズレる。

Crazy Comparison!:

 Noctilux 50mm f.1と双璧をなす名レンズSummilux ASPH 50mm f.1.4による開放での撮影結果を比較してみた。Summiluxの方は非球面化(ASPH)された最新設計のレンズ。開放F値が一段暗い分、ピントあわせが楽であるほか、被写体周辺部のフレアーも少なくてさすがに解像度も高い。こうしてみるとSummiluxは使いやすいレンズということになるが、これはこれで結構なじゃじゃ馬レンズである。なにしろ、出自がXenon 50mm f.1.5を先祖とし、前述のクセ玉Summarit 50mm f.1.5の後継機種なのだから。収差はよく補正され、最短撮影距離も70cmとなり、最新のASPHレンズの性能は素人にも扱いやすいレベルになったが、もともとライカのレンズは開放F値が小さいほど使い手の技が求められる。したがって最も明るいNoctiluxはさらに熟練度を向上させなくてはならないというわけだ。どちらがよいレンズかという問題ではなく、自分の思った表現手段としてどう腕を磨き使いこなすかという問題だ。いずれにせよ使い手の力量、熟練度、そしてセンスを試される厳しさを持ったレンズ達だ。名器とはそうしたものだ。


Summilux ASPH 開放f.1.4
フレアーも少なくすっきりした画になっている
Noctilux 開放f.1
ロゴ部分はしっかり合焦しているが
全体に薄くフレアーがかかっている。





2016年8月16日火曜日

Leica SLとSony α7RII  〜これからの高性能/高品質ブランドとは?〜


初瀬の長谷寺にて

大森貝塚公園にて

 掲載の作品2点はいずれもNational Geographic Your ShotのDairy Dozenに選ばれたもの。 
Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm ASPHで撮影。




 どうも以前から気になっていたのだが、最近のLeicaのミラーレスカメラはSonyのそれとラインアップやテイストがよく似ている気がしてならない。そう言うと両社は必死で否定するのだろう。だが、フルサイズのLeica SLはSony α7シリーズを、APS-CサイズのLeicaTはSony α6000シリーズを、LeicaQはSony RX1を、そしてパナソニックのOEMであるLeica D-LuxはSony X100を意識しているとしか思えない。偶然ではないだろう。そこには両社が置かれているカメラメーカーとしての課題認識と立ち位置、これからの成長戦略に共通するチャレンジマークのようなものがあるように思う。

 Leicaはかつてレンジファインダーカメラの頂点に立ち、その歴史的な勝利を手にした。押しも押されもせぬ大御所としての地位を誇り、そして一転して一眼レフに市場を奪われるという苦い敗北の時代を経験した。そのトラウマからNikonやCanonのような一眼レフカメラ(ミラーあり)に大きな対抗心とコンプレックスを抱いていた違いない。ちょうどNikonが、LeicaM3という不動の名機の登場にほぼ絶望感を抱いたように。渾身の技術力でNikon SPを出したが、市場での評価はM3に及ばず、やがて敗北感を胸に一眼レフNikon F開発へと方向転換した。これが逆転の成功劇の始まりであったことは有名である。そして今、デジタル時代になって、出遅れていたLeicaは一生懸命アナログ銀塩Mボディーにフィルムの代わりにCCDやCMOSセンサー詰め込んで、これがライカのデジタルカメラでございます!とやってみたが、「何じゃこりゃ」反応に戸惑ったに違いない。全くこれまでのカメラ作りとは異なるテクノロジーの変化にとても日本勢には追いついてはいなかった。第二の敗北かと思われるなか、あっという間に10年が経ってしまった。しかし、新たにミラーレスというカテゴリーを自己再定義し、そこにリスタートの機会があると気づく。ヤッタ〜!ここでリベンジしないともうリベンジする時は来ない、とばかりに矢継ぎ早にミラーレスカメラを打ち出してきた。Mデジタル化での試行錯誤とパナソニックとの協業、モンスター一眼レフカメラSの開発で追いついてきたLeica型のデジタルカメラ。ようやくミラーレスで、LとMの成功とライカ判の創始者という名門のジレンマ、保守的なユーザ層、オスカー・バルナックの亡霊から解放された感がある。

 このミラーレス戦略は実はSonyも同じだ。Sonyはそもそもカメラメーカーではなかった。世界に冠たるSonyブランドも陰りを見せているなか、デジタルカメラ市場に参入した。Sonyのカメラの前身は買収したMinoltaのカメラ部門であるから、本来はPentaxと同様に日の丸一眼レフの巨頭の一角を占めていたはずだ。現に旧Minolta αシリーズを引き継いだデジタル一眼レフをSony αとしてラインアップしているところがLeicaとは異なる。しかしデジタル一眼レフの市場ではやはり二巨頭Nikon, Canonの背中は遠かった。一方でSonyは画像センサーやチップなどの電子的デバイスの自社製造という優位点を持っているので、光学プリズムファインダーを排したミラーレスカメラは競争優位を打ち出すにはうってつけの製品だと考えた。しかも軽小短薄路線はSonyの社是みたいなものだ。一時代を築いたトップランナーの成功と挫折、こうした背景を共有していることが、両社のラインアップ戦略とブランド戦略を似たものにしているのかもしれないと勝手に推測している。ちなみにLeicaの新社長が元Sonyの役員出身だということも関係あるのかな? かつてMinoltaとLeicaが提携してLeica CLという小型のレンジファインダーカメラやLeicaflexという一眼レフを共同開発した歴史があるが、これは関係ないだろう。

 こうしたミラーレス重点開発というモチベーションは同じでも、出来上がってくる製品には違いが現れる。この辺は両社のカメラ造りのDNAの違いだろう。

1)コンセプト

Leica SL:ミラーレスは軽量小型カメラ、という常識を見事にぶち破った(!?)カメラ。重厚長大カメラ(バズーカ砲を常時携帯!)になってしまった。日本製のフラッグシップデジイチに比べても重量級である。別に軽量化しようなんて考えてもいないだろうが。

Sony α7:フルサイズにしては軽小短薄ボディー。APS-CサイズのEマウントα6000シリーズのボディーとレンズの異様なアンバランスという軽小短薄路線からスタートしたわけだから。しかし(その意に反して?)結構本格的なレンズ群GやG-Masterを開発するにつれ重量級システムになってきた。

2)レンズへのこだわり

Leica SL:渾身の重厚長大ズームレンズ(ズームでも画質の妥協はない。鏡胴は全金属製でこちらも妥協がない)。現時点では標準ズームの24−90mmと望遠ズームの90−280mmがラインアップされている。一見、長さはNikon, Canonのそれと同レベルに見えるが、その質量は超弩級。焦点距離とf値は同じでも描写性能を重視するとこういうアウトルックになる、という例だろう。

Sony α7:Zeissブランドでスタートしたが、ミノルタロッコールレンズの伝統を引くGシリーズ、さらにはG-Masterシリーズを新たに投入してきた。イメージセンサーの高画素化に対応したレンズ群、すなわち高解像度に加えて滑らかなボケ味を追求した高性能レンズをこれから続々と投入してくる予定だ。こちらも画質に妥協はないが鏡胴の質感はLeicaに比べるとさすがにそこそこだ。適度にエンジニアリングプラスチック素材を使い軽量化を試みる、というの日本的な合理化、コスパ追求、ユーザ利便性追求の結果だが。

3)価格

Leica SL:びっくり仰天価格!SLボディーだけで95万円。標準ズーム24−90が65万円。望遠ズーム90−280が75万円!Nikonのプロ用フラッグシップD5でも60万円だからかなり強気なプライスタグ。しかし、Mシリーズに比べればこれでもリーズナブルと言いたげなプライシングだ。名機は安売りしないというわけだ。

Sony α7:ライカの半分以下の価格。その比類のない性能に比して大きなディスカウントプライスだ。それでもα7R・SIIは頑張って40万円越えの値付け。Gマスターレンズシリーズは20万円越えを設定。ライカが「あんな」値付けをしてくれるので、安心して「こんな」高値がつけられる。


4)コストパフォーマンス

それを言っちゃあお仕舞いよ!なんだろうな。それを求めてはいないのだ。少なくともLeica社は。しかし、Sony α7の描写性能、操作性はLeica SLのそれに劣らないどころか上回っているくらいだ。最新の技術と機能のフルスペックを余すところなく小さなボディーに詰め込んでいるその姿はさすがSony! ボディーやレンズ鏡胴素材を軽量化している分、お道具としての「いい仕事してますね〜感」でLeicaが高得点しているぐらいの感じだ。コスパを語るならSony α7は魅力だろう。こういうLeicaに分の悪い比較コメントは、必ず(高い金払ってしまった)ライカファンからのブーイングがあるのでこれくらいにしておこう。「いちいち他と比べるなよ、そんなカメラじゃないんだから、コッチは」と。

5)写り

デジタルカメラもここまで来たかというこの両システム。特にSony α7RIIの4240万画素CMOSセンサーが叩き出す画は何か一線を超えた感がある。Leica SLのほうはやはりそのレンズの性能へのこだわりが強烈だ。重くなっても、大きくなっても構わない。ズームでも画質優先思想に妥協はしないという頑固さが際立っている。これもズームレンズによる異次元の描写性能の世界を拓いた感じがする。ライカがズームレンズを作るとこうなる、と言いたげ。もっともこのシステムを撮影現場に持ち出すには、しっかりしたストラップと、カメラと交換レンズ群に見合った頑丈なカメラバッグと、三脚と、そして筋トレが必要だが。ちなみにSonyが軽小短薄路線にもかかわらず、レンズが高解像度を目指すに連れ重厚長大化しているのは皮肉。まだまだ軽小短薄高性能レンズへの挑戦は道半ば、という訳か。35ミリフルサイズカメラも高画素化に伴い解像度では中判カメラを凌駕した。ハッセルブラッドが最近中判デジタルカメラを発表したが、結構厳しい戦いになるのだろう。


 これからの「高品質」とブランド価値

 安くて高性能/高品質。それが誰でも手に入れられる。大量生産、大量消費。これを目指してきたモノ造り哲学の結果がすなわちコモディティー化の道であったことに気づいて久しい。革新的と言われる技術の陳腐化のスピードが速くなっている。昨日の差異化要因はすぐに目新しいモノではなくなってしまう。誰でも作れる。ならば製造コストが安い方が(特に海外の途上国)競争優位に立てる。こうして安くていいモノが大量に出回る。製品単価は下がり続け、したがって利益は薄い.... 薄利多売=コモディティー、というモノ造りビジネスモデルのジレンマに陥ってゆく。「高付加価値」は別の形で実現されるべきだ。SonyもLeicaも感性に訴える高品質ブランドの代表であるが、これからの「高度成熟期」のブランド戦略は「高度成長期」のそれとは異なる。コモディティーよりちょっと高級、ちょっと感性をくすぐってカッコイイくらいの差異化要因では存在価値はない。それはすぐに後発競争相手に追いつかれるからだ。これまでのブランドとは違うイメージを再構築せねばならない。例えば、誰もが共有できるみんなと同じ価値ではなく、自分しか持てないストーリー、私だけの喜び。得難い希少性。すなわちexclusivityのような。「モノより経験」といった、モノから出てそのモノを超えた世界を提示してみせるような。その点ではLeicaの挑戦が興味深い。「遅れてきた名門ブランド」が新たな勝ち組の世界を築いてゆくのか...

 「デジタル化」という究極の標準化・合理化テクノロジーのなかに、どのように人とは違う自分だけの「味」とか「感覚」「感性」といった非標準的、非合理的な「曖昧さ」を伴う価値を醸し出すか。それを所有し使うことによって、人とは異なる世界を表現できるか、体験できるか。新たなパラダイムシフトの時代に入った。そうでなければどんどんコモディティー化という負のスパイラルに巻き込まれてゆく。ビジネスをする側もブランド価値を高めて行かないと事業継続の意欲を失って行くだろうし、買い手もワクワクしない。スマホのカメラで十分だ。いやスマホの方がワクワクする。あらたなブランド・エクイティーを築くのは誰なのだろう。こんなビジネスの世界も、線形物理学的な合理性ではなく、1+1=2にならない非線形系と、連続性が保証されない離散系といった複雑系の「合理性」の時代へと突入してゆく。イノベーションとはそうした中で起こるべきものだろう。



左から、Sony α7, Leica SL, Nikon D800
Nikonは一眼レフ(ミラーあり)だ

Leica SLと Sony α7サイズ比較
Sonyも最新のレンズを装着するとかなりの重量級となるが




2016年7月30日土曜日

 私の「青い山脈」 〜「青」というモチーフ〜

 大阪から高知へ飛ぶ双発プロペラ機ボンバルディア。エンジンをうならせながら高度を上げようとするが低空飛行のまま四国山地の険しい山々に差し掛かる。越えられるのかと心配になるが、健気に機体を震わせながらようやく飛び越えると、視界に突然太平洋が広がる。青い山脈、幾山河。そこを越えれば青い大海原だ。

 今月で40余年のサラリーマン生活に終止符を打った。海外生活11年、単身赴任生活10年。どちらかというと決められた定常的な仕事をこなして行く、というよりは誰もやったことがない新規ブロジェクトを企画実行する仕事ばかりだった。こういうとカッコイイが、不毛の荒野を開墾して種を植えるわけだから、常にあらゆるリスクと向き合う生活で、そんなカッコイイものではない。いちばんのフラストレーションは周りの理解をなかなか得られないということだったが、そんなことは慣れっこになった。失敗はつきもの。失敗するとバッシングがオマケについてくる。しかし成功の喜びは何にも替え難い。良き理解者やメンターにも恵まれた。幸いストレスで体を壊すこともなく、精神を病むこともなく、とうとうゴールテープを切ったわけだ。これからは肩書きと他人が決めたスケジュールから解放された自由人。資本主義のロジックと、所属する組織独特のロジックからも解き放たれる。出世欲、名誉欲、物欲といった煩悩とは無縁の閑人人生をスタートさせるのだ。ま、少しくらい欲は残るかもしれない。いや、なかなか煩悩から解脱できないだろうから、ちと覚悟しておく必要があるが...

 「青雲の志」を抱いて飛び出した故郷。あこがれの「青い山脈」から始まった私の人生は、その画期となる通過点に達した。確かに大きな節目ではあるが、新しい人生の出発点でもある。そこにはあの頃の「青い山脈」や「坂の上の青空に浮かぶ一朶の雲」はない。与えられたモデル、ゴールや目標ではなく、これまでに自分で歩んだ道のりを観照して、そのプロセスを見つけ、自ら設定する目的地に向かって歩み始める。

 「幾山河越えさりゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」(若山牧水)

 「人間到処有青山」 人間到る処 青山有り(釈月性)

 そう、旅はまだまだ続く... 今振り返ってみると、これまでのことは未達のゴールへの道標にすぎない。孫悟空のように本当の宇宙を知らずお釈迦様の掌の上で暴れていたに過ぎないのに天下取ったような気分でいただけだ。道は彼方まで続いている。日暮れて道遠し。だが、急がず慌てず、脚下照顧。自分の足元を見ながら歩を進めよ。行け「青二才」!夜明けの来ない夜はない。自分のストーリーを求めて。



2016年7月19日火曜日

静嘉堂文庫美術館探訪 〜東洋の至宝と英国調建築の調和〜

静嘉堂文庫
英国調の洋館に日本や東洋の貴重な古書籍が収められている


 人気のエリア東急二子玉川駅から、商店街を抜けて20分ほど歩いた閑静な住宅街に静嘉堂(せいかどう)文庫と付属の美術館がある。世田谷区岡本。この辺りは雑木林が未だあちこちに残っており、坂と水路が交錯する武蔵野の面影を色濃く残す街である。明治以降は政財界で活躍した人物の別邸が多くあったところだ。

 静嘉堂文庫も小高い丘陵の上にあり、鬱蒼とした緑の塊が遠くにいても目に入ってくる。入り口から続く上り坂をゆるゆると歩む。この道は木立に覆われ、今日のような梅雨の晴れ間の蒸し暑い日でも緑陰の涼しい風がそよいでいて気持ち良い。とやがて目の前に英国風の堂々たる近代建築が現れる。これが静嘉堂文庫だ。その左手には付属の美術館が。これらは岩崎彌太郎の長男で三菱財閥の二代目総帥岩崎弥之助(静嘉堂)の墓所のある敷地に建てられている。岩崎弥之助、小弥太親子が収集した古典籍、東洋美術品のコレクションが収蔵されている。


(以下、静嘉堂文庫美術館のHPから引用)

 父子二代によるコレクション

 静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。

明治期の西欧文化偏重の世相の中で、軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたるのに対して、小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が特色となっています。

 文庫創設から美術館開館まで

 図書を中心とする文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋 1827-1910)、次いで諸橋轍次(1883-1982)を文庫長に迎え、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。
大正13年(1924)、小彌太は父の17回忌に当たり、J・コンドル設計の納骨堂の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。そして、昭和15年(1940)、それらの貴重な図書を広く公開して研究者の利用に供し、わが国文化の向上に寄与するために、図書・建物・土地等の一切と基金とを寄付して財団法人静嘉堂を設立しました。
美術品は、昭和20年(1945)、小彌太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、昭和50年(1975)、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。
1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました。世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝「曜変天目(稲葉天目)」をはじめとする所蔵品を、年間4~5回の展覧会でテーマ別に公開しています。(曜変天目は常設展示ではありません。展示期間については美術館までお問い合わせください)


 以前訪問した駒込の「東洋文庫」も岩崎家創設の私設図書館である。こちらは岩崎弥之助の弟で、三菱財閥三代目の総帥である岩崎久彌のコレクションである。なかでもモリソン書庫の圧倒的な古書空間が印象的だ。(東西文明の邂逅 〜知のラビリンス「東洋文庫」探訪〜


 上述のように静嘉堂文庫美術館には多くの国宝・重要文化財が収蔵されているが、なかでも有名なのは、中国南宋時代の「曜変天目茶碗」。現在、完全な形で残っているものは世界に三個しかない。しかもその全てが日本にあるという貴重な逸品だ。一つはここ静嘉堂文庫美術館のもの。もう一つは大阪の藤田美術館所蔵のもの。そしてもう一つは京都の大徳寺龍光院所蔵のものだ。なぜ窯元があった中国に一個も残っていないのか(破片は見つかっているが)謎である。静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目は元は徳川家の所蔵で三代将軍家光が春日局に贈ったもの。その後春日局の子孫である淀藩稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも呼ばれている。不思議な魔力を秘めた椀だ。見ての通り一椀のなかに宇宙が見える。

国宝「曜変天目茶碗」
静嘉堂文庫美術館のHPより引用

 この洋館はジョサイア・コンドルの弟子である桜井小太郎の設計。1924年(大正13年)に竣工。スクラッチタイル、鉄筋コンクリート造りの英国風の建物だ。英国の田舎を散策すると、よくこのようなマナーハウスやコテッジに出会うことがある。そうした雰囲気がこの武蔵野の林によく似合う。明治期のセレブには英国風の建物を好む傾向があったようだ。駒場の旧前田侯爵邸もそうだ。駒込の旧古河邸も。今回は撮影できなかったが、岩崎弥太郎の墓所はジョサイア・コンドルの設計だ。コンドルは岩崎家の洋風建物を多く手がけている。岩崎家高輪邸(現在三菱開東閣)、岩崎家茅町本邸(現在旧岩崎邸庭園)、岩崎家深川邸(現在清澄庭園。建物は現存せず。)などがそうである。また三菱一号館もそうだ。こうした洋館が日本や東洋の文化財を収集、保存する器として建設されたことに時代を感じる。明治以降の日本における西洋文明と東洋文明の調和を象徴するものだろう。

 中国/日本の古籍や東洋美術の海外流出を憂え保存しようという動きは、明治初期の西欧文化優先の風潮への反省から起こったものだ。岩崎家は代々こうした文化財の収集と保存、海外流出を食い止める活動を進めてきた。確かに大英博物館やメトロポリタン美術館、ボストン美術館を訪れるたびにそこに収蔵されている日本の古典や美術品の山を目の当たりにして、なぜこのようなところにこれほどの逸品が集まっているのか不思議、かつ、日本にないことを残念に思っていた。こうした古美術品や文化財級の逸品は、えてしてその時代に富を蓄積した国に集まるものだ。19世紀のこの時代は欧米列強諸国というわけだ。すなわちそれらの国の支配層、貴族や富裕層の財力で集められたものだ。残念ながら近代化を進めるに必死であった当時の日本では、一時期日本や東洋の古い文化を「遅れた文化」と捉え、こうした日本や東洋に固有の文化財を「文化財」と認識しない風潮があった。廃仏毀釈の嵐が貴重な仏像や寺院を破壊してしまった。さらに、版籍奉還、藩主の身分の剥奪により封建領主としての生活基盤を失った大名、そしてその大名に金を貸していた富裕大商家は債権の焦付きで倒産する。藩主や上級武士や富豪が生活のために大量に放出したお宝は、安値で西欧の富裕層の手に渡った。かつて江戸文化のパトロンであった家系は没落していった。一方で、なんとか日本にこうした文化的な遺産を残そうという動きが出てきた。岩崎家のような明治維新以降の新興財閥がこうした運動の中心になった。時代はめぐるわけだ。

 しかし一旦海外に流出したお宝は、日本が経済大国になっても、なかなか戻ってこない。その価値が認識されず、海外の博物館の収蔵庫の奥深くや個人の屋敷の片隅に今も眠り続ける文化財も数多あることだろう。バブル時代の日本の成金たちは、金になりそうなゴッホの絵やヨーロッパの城などを投機の対象として買って喜んでいたが、江戸末期から明治期に流出した貴重な文化財の買い戻しには金を使わなかった。もちろん、その価値に早くから気付いていた欧米のコレクターたちがそうやすやすとは手放さなかったし。文化の破壊や無関心は取り返しのつかない結果を将来に残すことを痛切に感じる。そしてもはや日本では、岩崎家のような芸術や文化のパトロンになる事業家は数少なくなってしまったようだ。










文庫正面




 静嘉堂文庫のある地域は現在、岡本静嘉堂緑地として整備され、岡本民家園が隣接する。江戸時代の豪農の屋敷で、よく保存されており市民に公開されている。静嘉堂文庫の英国調建物とはある意味対照的な純日本風の茅葺の建物だが、不思議なコラボレーションを感じる。この辺りは明治時代には東京市の郊外で、武蔵野の丘陵や林が残る田園地帯だった。このころから政財界の大物がこの豊かな田園地帯という環境を求めて別邸を建て始めた。現在その建物はほとんど残っていないが、今この辺りは東京の閑静な住宅街として人気のエリアになっている。













2016年7月8日金曜日

水郷柳川に川下りを楽しむ 〜梅雨の晴れ間の猛暑にもめげず〜




 

 その日は梅雨の晴れ間の35℃の猛暑であった。しかも柳川駅で電車を降りるなり、突然のにわか雨に見舞われ、幸先の悪さを嘆いたものだが、やがて雨は止み青空に。今度はジリジリと太陽が照りつける猛暑。しかし不思議に雨の後の蒸し風呂のような不快さではない。水辺の街だからだろうか。意外に涼やかな風が吹きわたる。柳川はクリークが町中に張り巡らされ、城下町と町人町、沖端の漁港がセットになった独特の景観を有する街だ。旧立花家の邸宅である御花や、北原白秋の生家・資料館が観光の2大ポイントだが、なんといっても水郷の川下りとうなぎのせいろう蒸しが柳川を有名にしている。そのほかにも最近は武家屋敷の公開や、城下町の街並みが復元整備され、街並み散策ファンにも十分魅力的になった。そういえば琴奨菊も柳川出身だった。

 西鉄柳川駅(最近リニューアルされていい感じに。駅の建物がグッドデザイン賞を受賞したそうだ)近くの河岸から御花まで、約一時間の川下りの船が出ている。柳川にはこれまで何度か来たことがあるが、実はこれまで一度も川下りしたことがなかった。今回が初めての体験だ。静かな水面に船頭さんの名調子。川面の涼風と岸辺に生い茂る楠の木の緑陰に心癒される時間が流れる。真っ青な空と白い雲、赤いカンナとネムノキの花の綿毛。狭くて低い石橋の下をくぐるちょっとしたアドベンチャー。気温の割には涼しささえ感じる。これまでクリーク沿いの遊歩道を散策したことはあったが、ゆったりと水上から眺める風景にはまた別の情緒がある。もちろん遊歩道から川下りを楽しむ人々を眺めるのも悪くない。こうして立花家邸宅である御花、北原白秋生家へとむかった。

 さて、柳川に来たらうなぎのせいろう蒸しを食せばなるまい。特にこのような猛暑に見舞われた日はせいろう蒸しで元気回復!こればかりはなかなか東京や関西では味わうことができない。蒸篭(せいろう)にうなぎの蒲焼とご飯を入れてタレをかけ、じっくりと蒸し上げる。仕上げに時間がかかるのでせっかちな都会人には向かないメニューだ。アツアツをハフハフ言いながら食すわけだ。絶品だ!幸せを感じるひと時だ!

 こうして約一時間かけての川下りで水郷柳川の情緒を存分に味わうことができた。しかし、帰りに御花から柳川駅に向かうために乗ったバスの車窓から見る柳川の街は、なんの変哲もない普通の地方都市にしか見えなかったのが不思議だ。しかもわずか10分ほどの乗車というあっけなさもあって、さっきのゆったりした水辺の旅の柳川はどこへ行ってしまったのか。「アトラクションは終了です。お帰りはこちら」みたいな場面転換... 水路は昔の柳川の重要交通手段。自動車の走る道路は今の柳川の重要交通手段。この旅の最後に、所要時間も情緒も異なる対照的な移動手段の違いを知ることとなったわけだ。そのギャップに「時代の移り変わり」を感じた。急ぎの旅でなければ帰りは岸辺の遊歩道をブラブラ歩く方が良いかもしれない。

 アクセス:

 西鉄福岡(天神)駅から西鉄柳川駅まで特急で約45分。西鉄特急は30分ごと発車で特急料金はいらない。また柳川観光特急「水都」を走らせている。これも別料金なしで乗れるのが嬉しい。駅前からはバス、タクシーがあるが、クリーク沿いをのんびり歩いて御花や白秋生家にゆくのがオススメ。また駅近くからは川下りの船が出ている。約一時間のゆったりコースで御花まで連れて行ってくれる。水郷情緒を味わうにはこれがイチオシであることはいうまでもない。

 うなぎのせいろう蒸し:

 有名なのは「本吉屋」「若松屋」。どちらも柳川にしか店を出していない老舗。本家本元なので間違いはない。人気店なのでいつも混んでいるし、注文から出来るまで待たされることを覚悟する必要がある。チャッチャと食べてチャッチャと席を立つなどというせっかちな江戸っ子や浪速っ子を自認する人には向かない。御花には落ち着いた和風レストランがあり、庭園を鑑賞しながらのせいろう蒸しもゼッピンだ。うなぎの苦手な人向けには懐石料理や鯛茶漬け御膳などという憎いメニューもある。

2012年6月に柳川を散策した時のブログです。



柳川古文書館を見ながら出発

多くの橋をくぐって進む

川下り発着場

味噌屋さんの並蔵

緑陰を行く

武家屋敷あと


ネムノキがいたるところで

途中の水上マーケットで一服

船頭さんの後ろに入道雲


梅雨の晴れ間の猛暑


立花家(御花)洋館





御花正門
洋館と和館の対比が印象的





木造の洋館

御花松濤園
柳川といえばうなぎのせいろう蒸し


北原白秋の生家



北原家は酒造業であった



新装なった西鉄柳川駅