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2013年10月31日木曜日

奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜

以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?

早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。

現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。

一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。

なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。

いくつかのエピソードを並べると、
⑴ 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
⑵ また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。
⑶ 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。
⑷ 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。


(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)



(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)


(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)



(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)



(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)






2016年9月10日土曜日

飛鳥稲淵は豊穣の時を迎えた 〜棚田散策〜

稲淵の棚田風景
飛鳥から吉野へ向ける道すがら

 石舞台古墳のあるあたりは嶋庄と呼ばれ、蘇我氏の奥津城であった地域。蘇我氏は嶋の大臣(しまのおおおみ)と呼ばれていた。そもそも飛鳥は蘇我氏が勢力を有する地域。その地が舞台であった飛鳥時代は蘇我氏の時代だったとも言える。初期ヤマト王権が3世紀中盤以降奈良盆地に起こったのだが、その場所は盆地の東、三輪山山麓(ヤマト:山の麓)であった。居館跡や運河などの跡が見つかった巻纒遺跡や、最古の前方後円墳である箸墓をはじめとする大型前方後円墳文化を作った「三輪王朝」はここからスタートした。

 6世紀にはヤマトの大王の宮都は三輪山麓を離れ、盆地の南の飛鳥の地を転々とすることになる。飛鳥の地は奈良盆地の中では大和川から難波、瀬戸内海、筑紫を通じて大陸とつながる地の利を有する土地であった。もともとは東漢氏などの渡来人一族が住んでいたところであったが、蘇我氏はこの飛鳥の地を重視し、渡来系一族との交流を通じて外来文化、ことに仏教を積極的に取り入れた。他の有力氏族、大伴氏や物部氏を凌駕して大王家の外戚となり政権運営に影響力を有することとなる。今日、明日香村は稲穂がたわわに実りまさに豊穣の時を迎えている。嶋庄、祝戸からさらに吉野に通じる峠に向かって進むあたりが稲淵。ここは棚田が有名だ。もう一つは、石舞台から多武峰に向かう冬野川沿いの登り坂あたりにも棚田が広がっている。まさに「豊葦原瑞穂の国」の姿を彷彿とさせる景観だ。

 しかし、いつの頃から飛鳥にこのような棚田の風景が形成されたのだろう。こうした景観はおそらく弥生の姿ではなかっただろう。初期ヤマト王権も後の飛鳥王朝も稲作農耕に経済基盤を置く王権であった。しかし3世紀以前の北部九州のチクシ王権と異なり、弥生的な農村集落たる環濠集落や高地性集落を政治拠点とする王権ではなかった。耕作地/農村集落と王都(宮)は截然と分かれていた。奈良盆地における初期の環濠集落である唐古鍵遺跡も「王都」としての性格はなく純然たる農耕集落(ムラ)であった。初期ヤマト王権の「王都」たる纒向遺跡は完全位離れた場所に形成されている。6世紀の飛鳥も「王都」の地であった。飛鳥は転々と移り変わる宮殿や外来宗教である仏教寺院などの異国風建築物がひしめく「近代的な」人工的都市であった。その周辺部には大王家や有力氏族の古墳が散在していた。これまでの弥生倭国的な地域とは異なっていた。今感じる「国のまほろば」「豊葦原瑞穂の国」といった田園景観は、むしろ奈良盆地の中央部から北に広がっていたのだろう。すなわち古代奈良湖が干上がった跡に稲作耕作地が拡げられた。舒明天皇が天香山に登り、そこから北に広がる豊かに実る奈良盆地を展望して「うまし国ぞ秋津洲大和国は」と読んだ風景だ。

 稲淵、栢野森は飛鳥の中でも南の果てである。吉野へと抜ける峠道(芋峠)へと続く山がちな地域、すなわち飛鳥世界の絶界である。大海人皇子が吉野へ逃れ、壬申の乱で飛鳥に凱旋して天武天皇として即位。その皇后、のちの持統天皇が度々吉野行幸を行った道だ。また都に疱瘡が伝染せぬように峠に疱瘡除けの猿石を置いたりもした。今の稲淵や飛鳥のこの田園風景は、必ずしも飛鳥時代を代表する風景ではなかったにちがいない。当時は水利に恵まれた平地以外は稲作には向かない土地柄だったであろう。棚田という耕作形態はずっと後世になってからのものだろう。

 ここ稲淵にも一時期宮都が営まれた。飛鳥稲淵宮だ。発掘調査の結果、祝戸地区にその遺構らしき物が見つかった。どの時代の宮都なのか?確定できていないが、645年の乙巳の変後、皇極上皇、中大兄皇子は一時都を難波に移したが、やがて孝徳天皇を難波宮に置き去りにして再び飛鳥に戻った。その時に造営された行宮(仮宮)ではないかと言われている。だとするとなぜこのような辺鄙なところに行宮を置いたのだろう。

 また最近話題になった都塚古墳。今年の発掘で石積みの階段状ミラミッド構造の方墳であることがわかった。誰の墓であるか決定的な証拠は出ていないが、かなり手の込んだ方墳であることや、蘇我氏の奥津城で蘇我馬子の石舞台古墳に近いことから、蘇我稲目の墓ではないかと言われている。

 飛鳥から吉野へ向かうここ稲淵から栢野森辺りはなかなか謎の多い場所だ。今は長閑で豊かな棚田風景が広がる田園地帯だが、おそらく飛鳥人はこうした風景をここに見ることはなかっただろう。稲作農耕を行う土地というより、聖なる地、異界へつながる土地という理解であっただろう。今でもこの地区では毎年1月には綱掛け神事(男綱)が執り行われ、「子孫繁栄」「五穀豊穣」「家内安全」「無病息災」を祈念する習わしだ。この時飛鳥川をまたいで結界が張られていることを見ても、ここは彼の地、此の地を隔てる場所だった。飛鳥なる世界の鄙の地は奥が深い。

稲淵の棚田

嶋庄あたり

都塚古墳
最近の調査で階段ピラミッド状の方墳であることがわかった
蘇我稲目の墓ではないかと言われている

石棺がそのまま残る珍しい古墳

石舞台付近の棚田

石舞台地区の背後には多武峰が
中大兄皇子と中臣鎌足がクーデタの謀議を行った談合(語らい)山からは飛鳥の全体が見渡せる

毎年1月に行われる綱掛け神事
(男綱を掛けて、子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全、
無病息災を祈る)
対をなす女綱は下流に掛けられる。
聖なる世界、異界との結界だ。
(写真はmahonoHPより)
飛鳥稲淵宮跡
(明日香村世界遺産HPより)





2015年5月14日木曜日

チクシ王権からヤマト王権への変遷はどのようにして起こったのか?

 チクシ倭国の時代:

 紀元前2世紀から紀元2世紀頃までの倭国は、北部九州の奴国や伊都国などのチクシの国々が中国王朝(この頃は前漢、後漢)との外交を主導し、中国の華夷思想にもとずく朝貢・冊封体制のもとで東夷の倭国という地域を統治するの権威を得てきた。この頃の東アジア的世界観では、圧倒的な文化力と経済力を持つ中国王朝の皇帝から冊封を受けることが、その地域での王権の維持に不可欠であった。北部九州チクシは列島の中で大陸に最も近く、人の往来も古来より盛んで、ことに弥生文化を代表する水稲稲作農耕が倭国で一番最初(紀元前10世紀頃)に入ってきた地域であり、最も先進的な地域であった。したがって、奴国や伊都国のような国がこれら倭国連合諸国において経済的優位性と外交的優位性を享受できたとしても不思議ではないだろう。

 このことは、紀元前1世紀の漢書(前漢)の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見す、と云フ」という記述、後漢書東夷伝の記述(57年の奴国王の朝貢「漢委奴国王印」、107年の倭王帥升の遣使)にあるのみならず、考古学的にも検証されている。紀元前1世紀の奴国の王都であるスク・岡本遺跡からは30枚もの前漢鏡やガラス装飾品、武具などの王の権威を示す中国皇帝からの下賜品が出土している。また、同時期の伊都国王墓と言われる三雲・南小路遺跡や井原・槍溝遺跡、さらには平原王墓遺跡からも、奴国王墓を上回るほどの前漢鏡、装飾品が出土している。また、福岡市早良の吉武・高木遺跡からは、紀元前2世紀頃の最初期の王墓らしき遺構が見つかっており、ここからも鏡・剣・勾玉という3種の神器に相当する遺物や、多数の大陸由来の遺物・威信財が出土している。中国の史書にはこのクニ(早良国ではないかと言われているが)に関する記述はないが、この時期にチクシには中国に朝貢するクニ・王がいた証左として注目されている。このように紀元前2世紀から紀元2世紀初頭までは、北部九州チクシ倭国の国々が中国王朝から冊封を受け、統治権威を有する、倭人社会、倭国連合の中心であったことを示している。この時代に、こうした威信財は近畿を始め、出雲・吉備などの地域では出土が見られない。

「漢委奴国王」の金印が出土した福岡市の志賀島
1世紀の「後漢書東夷伝」の記述を証明する発見であった。



紀元前1世紀の奴国王墓
金印を受けた奴国王の数代前の王の墓であろう
(春日市のスク・岡本遺跡)
紀元前1世紀の伊都国王墓
(糸島市の三雲・南小路遺跡)
2世紀前半の伊都国王墓
真東に神奈備の高祖山を望む東西軸の配置
被葬者は女性である可能性
圧倒的な威信財の数々が副葬されていた
(糸島市の平原王墓遺跡)







紀元前2世紀の吉野ケ里遺跡の復元神殿

巫女が神がかりとなって御宣託を聞く












その御宣託に基づいて王と一族の長が集まり意思決定する。






















ヤマト倭国の時代へ:

  ところが、2世紀後半から3世紀になると、こうしたチクシ中心の倭国の姿は徐々に変わって行き、ヤマト中心の倭国へと変遷してゆくようになる。史書の記述でいう「倭国大乱」を境にこの変異が起こっているようにみえる。例えば、考古学的にはこの頃になるとチクシにもヤマトから伝来した土器などが出現するようになるが、その逆は見られない。ある時期から倭国連合の中心がチクシからヤマトへと移ったらしいことをうかがわせる。3世紀後半の古墳時代になると、明らかにヤマトに大型の前方後円墳が出現し、初期のヤマトの古墳(ホケノ山、メスリ、黒塚古墳)からは多数の三角縁神獣鏡などの後漢鏡・魏鏡などの中国からの威信財が出土する。やがてこの前方後円墳という墓制はヤマト王権の倭国支配の権威の象徴として各地域の首長へ伝搬されてゆく。チクシで主流であった土坑墓や甕棺墓などの墓制はヤマトでは見られず、やがてはヤマトで出現した前方後円墳がチクシへも伝搬してゆく。

 魏志倭人伝の記述にあるように、「倭国大乱」の後、3世紀半ば(249年)に邪馬台国女王卑弥呼が、魏の明帝に使者を送り冊封された(親魏倭王)。その時に銅鏡100枚を下賜された。また、伊都国には王もいたが女王卑弥呼の代官、一大率が駐在して、大陸との通交、九州(チクシ倭国)の統括を行っているとされている。奴国を見ると、この頃には57年に後漢に朝貢した奴国王の末裔に当たる王の存在は記述されておらず、地方官僚の存在のみ記されている。すなわち伊都国も奴国も邪馬台国の支配下にあったことを物語っている。

 では、その邪馬台国はどこにあったのか?九州のどこかなのか、それとも近畿なのか。有名な邪馬台国論争だ。前者だとすると「倭国大乱」は北部九州を中心としたチクシ倭国内の争いである。後者なら「倭国大乱」は西日本の広範な地域を巻き込む争いであったろう。また、女王卑弥呼が支配したという30余国の範囲も大きく変わってくる。また卑弥呼の死後は「大いに塚をつくり」埋葬していることから、ヤマトの箸墓古墳がそれではないか。これは邪馬台国、卑弥呼が、チクシのクニ、女王ではなく、ヤマトに起こった(あるいは移動してきた)クニであることを推測させるものではないか、というのが邪馬台国近畿説である。後世、倭国の中心が北部九州を離れ、近畿に移ったことは明らかなのだが、問題は「何時」「どのように」ということだ。


3世紀古墳時代初期の箸墓古墳
卑弥呼の墓ではないかといわれる

箸墓古墳の背後にそびえる三輪山
同じく3世紀のメスリ山古墳
最古の古墳形式を確認できる貴重な遺跡

崇神天皇陵(行灯山古墳)
巨大な古墳が並ぶ大倭古墳群

 ちなみに、鏡は、統治権威を伝える威信財として重要な役割を持っていた。中国皇帝から下賜された複数(数十枚〜100枚)の銅鏡は、下賜された王が、さらに「中国皇帝から倭国王として冊封された証」として、さらに連合王国の地域の王や首長に「権威の象徴として」下賜する。という構造になっている。このような「威信財」を配ることで地域支配の権威を与える、という統治の仕掛けは、5世紀に入ってヤマト王権が次第に倭国全般のし支配圏を確立してゆく「倭の五王」の時代にも引き継がれる。埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出た「獲加多支鹵」(ワカタケル:倭王武、ないしは雄略大王)の文字が入った鉄剣などが、ヤマト王権が地方首長の地域支配を冊封した証拠だといわれる。


倭国大乱:

 話を戻すと、このようなチクシとヤマトの倭国支配の勢力逆転はいつ頃、どのように起こったのか?2世紀まではチクシが、3世紀以降になるとヤマトが倭国の盟主となっていった。魏志倭人伝によれば、男王の治世が7〜80年続いた後、2世紀後半(146〜189年頃)に「倭国大乱」で王がいない時期が続く。その「倭国大乱」とはどのような争いであったのか。なぜ騒乱になったのか(何を巡って争ったのか?)。邪馬台国の卑弥呼擁立により騒乱は収まったとされるが、前述のようにそれはチクシ倭国での話なのか、もっと広範囲に近畿ヤマトを含めてで起こったのか?。

 おそらく「倭国大乱」は当時の東アジア情勢の流動化が原因であろう。後漢王朝も末期に入り、184年の黄巾の乱、それをきっかけとした後漢王朝の滅亡は、朝貢していた周辺諸国に、地域支配権の攻防、それに伴う戦乱や、亡命、難民の発生など大きな影響を与えた。倭人社会においても、漢王朝の冊封を受けていたチクシ倭王(奴国王・伊都国王)が、その統治権威を失い、争いになっただろう。また、稲作農耕や武器として必須の戦略資源である「鉄」は当時朝鮮半島南部でしか入手できなかったが、その入手ルートや資源権益を掌握していた北部九州のチクシ倭王がなんらかの理由で争いに破れ、倭国内陸のヤマト倭王に権益を奪われてゆく。また、大量の亡命者や難民が列島に押し寄せて混乱した可能性もある。そういった倭国の国際環境の変化に伴う王権の揺らぎが倭国連合盟主争いの実態ではないかと考える。やがて邪馬台国の「鬼道をよくする」シャーマン卑弥呼を倭国連合の霊的権威として担ぎだしてようやく乱が収まった。すなわち、中国との外交権、地域の武力支配権の争いを、祭祀権をもって収めた。武力で治らないと、その上の権威を持ち出して妥協させるというのはいつの時代にも取られる和平手段だ。

 邪馬台国が近畿ならば、57年のチクシ奴国王の後漢への朝貢、107年の倭王帥升(伊都国王であろうと言われている)の朝貢から100年足らずの間に近畿地方に北部九州チクシを凌駕する近畿ヤマトが生まれたことになる。漢に代わる新しい中華王朝魏の冊封を受け、なんらかの形で半島の製鉄利権を獲得し、ヤマト・邪馬台国は、大陸に最も近い先進地域である北部九州チクシの奴国や伊都国に代わって、大陸から遠く離れた奈良盆地に外交力、武力を持ったクニを出現させた。ということなのか?そしてそれがヤマト王権に繋がっていったのだろうか。

 一方、倭国支配の中心はチクシからいきなりヤマトへ飛んだわけではなく、出雲や吉備、あるいは越にも有力な国が生まれる。ヤマトに発生した古墳時代の先駆けとしての墳墓形態(四隅突出型という大型墳丘墓)や祭祀形態(特殊器台という土器)を生み出したこれらの国々が、ある時期、倭国の中心的な位置を占めた可能性もある。やがてはヤマトに協力、服属することで倭国の統一の第一歩となった可能性がある。このころ考古学的には、青銅器祭祀から墳墓祭祀へと移行する過程で、いわば「弥生時代」から「古墳時代」へと移行する時期である。これらの国々がその移行プロセスを象徴する国々であったのだろう。ちなみに倭国統一の過程で、チクシは比較的最後までヤマトに服属しなかったように見える(6世紀のチクシ磐井の乱が最後の抵抗だった)。あるいは神功皇后の三韓征伐エピソードは、熊襲掃討の過程で出てきたことになっている。この時も熊襲征伐の後にチクシをようやく平定し、さらに三韓征伐に向かったと考えられる(もっともいつの時代の事績なのかは不明であるが、そういったチクシ平定に手こずった記憶に基づく記述である可能性がある)。


ヤマトの起源は?:

 そもそも山々に囲まれた内陸の盆地であるヤマトでは、弥生世界でどのようにクニが形成されていったのだろうか?もともとヤマト盆地に発生した弥生の農耕集落・ムラが成長していってクニになったのか?あるいは、西から移動してきた勢力によってある時期に形成されたクニなのか?意外にわかっていない。

 奈良盆地の中心部に位置する(古代奈良湖のほとりの湿地帯に形成された)唐古・鍵遺跡は弥生初期(吉野ケ里遺跡などのチクシの大規模環濠集落跡と同時期、紀元前3世紀頃)の大環濠集落跡であるが、これがのちの邪馬台国ないしはヤマト王権に発展していった形跡はないといわれている。環濠集落は古墳時代までには消滅し、その跡地には古墳が築造され、中世になると武士団が砦を築き、農村集落が形成されている。一方、3世紀頃、三輪山の山麓に形成された纒向遺跡は東西軸に配置された宮殿・神殿を中心に水路が巡らされ人工的に建設された「都市」のようで、全国各地の土器が出土するなど、人が倭国各地から集まってきた様が見える。「共立された女王卑弥呼の都」らしい雰囲気が溢れている。卑弥呼の神殿と思しき遺構からは、祭祀に用いられたと思われる桃の種が大量にみつかるなど、中国の神仙思想の影響を受けた有様が見て取れる。もちろん3世紀後半から始まったと考えられている箸墓古墳(卑弥呼の墓ではないか、と言われる)のような巨大古墳群の築造がヤマトの独特の景観を形作るようになる。

 しかし、ここヤマト倭国には弥生社会に典型的な高地性集落も環濠集落も(唐古・鍵遺跡の他に)見つかっていない。北部九州チクシ倭国の国々はほとんが環濠集落を特色としていた。瀬戸内沿岸に展開するムラ/クニは高地性集落を特色とする。すなわち稲作農耕社会であり、その土地、水と民、富の集約と支配を巡っての争いを想定したムラ/クニを形成していた。それが(魏志倭人伝が描く)弥生時代を象徴する倭国の姿であった。ヤマトにはそれがない。すなわち弥生のクニの香りがしない。纒向や箸墓はもっと新しい時代の遺跡ではないのか(ヤマト王権成立時期以降)、と邪馬台国九州説の学者は唱える。箸墓古墳も纒向遺跡も3世紀ではなく、4世紀以降の遺跡であるとする。すなわちヤマト王権初期の遺跡だという。

 それにしても、このような列島内部の盆地に位置しながら大陸との交流は誰が取り仕切ったのか?後世、チクシの安曇族(住吉族)や宗像氏がヤマト王権の大陸との通交を取り仕切るが、ヤマト初期(チクシと覇権を争っていた時期)には誰がそれを行ったのか。それがなければチクシに代わって倭国連合の盟主にはなれなかったはずだし、帯方郡を通じての魏への朝貢もできなかったはずだ。

唐古・鍵遺跡
紀元前3世紀ころのヤマト盆地最古の稲作農耕環濠集落跡


竜王山から望む奈良盆地
古代にはここが左の図のように湖だった
正面に二上山
古代奈良湖推定図
唐古・鍵遺跡や纒向遺跡の位置に注目



三輪山に日が昇り
二上山に日が沈む
東西軸の宇宙観であった
纒向遺跡の発掘
卑弥呼の神殿ではないかと言われる遺構。
しかし、本当に卑弥呼の時代の遺構なのか。弥生の匂いがしない。
背後には三輪山がそびえる

 我々はヤマト、すなわち山々に囲まれた奈良盆地の長閑で箱庭のような舞台が日本の誕生の地、日本文化発祥の地だと考えている。もちろんそれは事実だ。ある時期以降、ヤマト王権が列島支配権を確立してゆく過程で、奈良盆地が倭国・日本という国家の揺籃の地になっていったことは間違いない。しかし、これまで見てきたように、実はヤマトが、何故、いつ頃、倭国・日本の中心となっていったのかはまだ十分に解明されていない。謎に包まれている。そもそも列島の文化の発展は、少なくとも弥生時代には入ってからは水稲農耕文化がたどったように、大陸に近い北部九州を起点に西から東へと伝搬していった。大陸の文化圏や交易圏と切り離して倭国の成長は考えられない。そうした文化的な権威や資源、経済権益をいかに獲得・独占するかが倭国の支配者の争いの核心であった。あるいは、若狭湾や越前といった日本海側に大陸から人がやって来て、琵琶湖を経由して奈良盆地に大陸文化が入ってきたことも考えられる(後世の渤海使のように)が、やはりチクシ、瀬戸内海、摂津、河内、奈良盆地ルートほどの太いパイプの通交ルートではなかっただろう。このいわばゴールデンルートがそのまま倭国における列島支配拠点移動のルートでもあったのではないかと思う。北部九州チクシから近畿ヤマトが中心となっていった訳だが、そのプロセスはまだ解明されていない。日本の古代史は、大事な点でまだまだ多くの謎に満ちている。

 倭国の各地には。チクシとヤマトだけではなく、様々なムラやクニが発展し国が存在していたであろう。こうした国々は日本列島(主に西寄りに)に広範に存在し、その連合(倭国連合)の中心は、大陸に近い(文明に近い)地域(北部九州)から、次第に内陸へ、東へと移動していった。ある時期になると国内の経済活動が活発になり、むしろ倭国内の生産や物流の結節点のような国が中心になっていったのかもしれない。それが近畿ヤマトであった。事実、その後の倭国・日本は、19世紀のみやこの関東への奠都まで、近畿を中心とする歴史を持つことになる。歴史がそのロケーションの合理性を証明して見せた訳だ。

 今回は、あえて8世紀初頭に編纂された日本側の歴史書である日本書紀や古事記の記述には触れなかった。もちろん必ずしも中国の史書に記述されている記事全てが正確で信頼に足るとは考えないし、ある時期の限られた情報による「倭国」像である。しかし8世紀以前に記述された文献資料としては中国の史書しかないこと。また、編年体で記述されているので、これら史書の記述と考古学的発掘成果の突合による時代考証が比較的可能であることから、古代史を研究する手法においては貴重であると考える次第である。

古代伊都国は今...



2014年7月14日月曜日

飛鳥古京・平城京・平安京、そしてTokyo 〜「みやこ」は国際都市?〜


 「みやこ」すなわち首都はその国家を統治する中心となる都市である。国家統治の権力と権威が存在する都市である。それと同時に、国内外の情報、文化と富が集まる交流の拠点である。グローバルな時代になればなるほど、その都市が如何に世界の交流拠点としての魅力があるかを競うことになる。今はもちろんその都市は必ずしも首都である必要は無いのだが、政治と経済と文化が一人の権力者の下に集中していた、いにしえの時代には、権力者、すなわち皇帝や国王のいる場所に、国中、世界中から富と情報が集まる。また国中,世界中に経済的富と政治的権力に基づく文化を発信する。それこそが大君の「みやこ」の権威なのだ。

 日本の「みやこ」の場合はどうであろう。私はこれまで、日本の古都である飛鳥、奈良、京都と歩き回り、ふと次のような考えが頭をよぎるようになった。確かに飛鳥・奈良はシルクロードの東の終着点で世界文明とつながる国際都市だった。しかし京都はどうであったのか?この千年の都には素晴らしい日本文化のレガシーがあるが、意外に国際都市としての「みやこ」というイメージがわいてこない。なぜなのか? 成り立ちを振り返ると少し何かが見えてくるような気がする。


飛鳥古京:

 飛鳥は、日本という国ができる以前、まだ倭と呼ばれていた国の「みやこ」が置かれた場所であった。すなわち倭京である。正確に言うと,大王(おおきみ)の宮殿があった地域で、かつては大王が死去し代が替わるたびに宮殿を立て替える「遷都」が、この狭い飛鳥、奈良盆地南部中心に行われていた。何時しかその伝統は破られて、板蓋宮跡地に浄御原宮が造営され、飛鳥古京と呼ばれるようになる。

 この時期は未だヤマト王権確立途上であり、天皇制は未成立であった。有力豪族が押す大王が統治の「権威」を主張した時代である。また中華帝国皇帝への朝貢、柵封により倭国の支配権の「権威」を得た大王(漢倭奴国王、親魏倭王、倭の五王の時代より)であった。いや倭は未だ国ではなかった。いわば倭連合王国 (The United Kingdom of Wa)であり、その王は、魏志倭人伝に描かれた3世紀の倭国、邪馬台国の卑弥呼と基本的には変わらない共立された王であった。そもそも国とは国王が統治する体制である。全土の土地と人民は国王の統治・支配の対象である。倭は当時、各地の豪族や氏族が各自の土地と人民を領有・支配(私地私民制)しており、この段階では倭に統一政権は存在しなかった。

 やがて、大陸からの渡来人による外来文化の導入、とりわけ6世紀に仏教という国際文化を取り入れ、倭京飛鳥は仏教を通じて倭が国際社会に進出し交流する「みやこ」となってゆく。大陸との人の往来も盛んになり、飛鳥は異文化の集積地となった。法興寺(飛鳥寺)の建立はそれを可視化させるのに充分なシンボルとなった。遣隋使の派遣による積極外交も行われた。外来文化の受容の是非、その支配を巡る有力豪族間の権力闘争、宮廷クーデター(乙巳の変)も起こった。唐・新羅連合との白村江の戦いの敗北による、倭存続の危機にも遭遇する。そして、滅ぼされた百済の遺臣達も大勢倭にやってくる。やがて古代最大にして最後の内乱と言われる壬申の乱を経て、ようやく大王を中心とした中央集権国家という国内統一のステージにむかう。倭国は中国型の律令制国家を目指す。中国の正史にならい歴史書編纂(記紀)、豪族優位の社会経済システムの改変(私地私民制から公地公民制へ)、中国皇帝の向こうを張る天皇制(大王から天皇へ)確立。そしてついに国号改称(倭から日本へ)。これは単なる国の名称を変えたと言うことではなく、その本質としてようやく「日本」と言う「国」が出現したことを意味する。そしてこの新国家にふさわしい「みやこ」は中華帝国のそれに負けないの都城として造営が企画された。

 こうした背景には、倭国内での権力闘争や、経済体制の変化という事情だけでなく、当時の東アジア情勢の変化、とくに中華王朝の交代、それに伴う朝鮮半島における勢力図の変化、人の大移動が大きく影響している。今は、のどかできわめて日本の原風景のような飛鳥だが、そうした国際的(東アジア的)な激動のただ中に居た「みやこ」であった。いわば内憂外患の歴史の舞台であった。


平城京:

 新たなる国「日本」の都の造営は、新国家の重要政策課題であった。最初飛鳥の地に中国風の都城の創出を試みた新益京(藤原京)造営は、その立地(水はけの悪い湿地)の不備から断念。新たに盆地の北の平城山(ならやま)に造営されたのが平城京である。飛鳥古京の、仏教という国際文化を通じて国際的に進出し、交流する「みやこ」という性格は、平城京に引き継がれた。

 この時期は、いわば新国家の創建期であり、政治的支配者となった天皇にとって、積極的に海外との交流を進め、国内統治の確立、国際社会に置ける立ち位置を確保しようと必死であった時期だ。仏教は世界思想、哲学、文化であり、仏法による鎮護国家思想を国家経営の基本理念と位置づけ、遣唐使の派遣、帰国留学生、渡唐僧の登用、国家プロジェクトとしての東大寺大仏開眼、全国に国分寺創設、唐の高僧鑑真の招聘、戒壇院と授戒制度の確立等々、天皇と仏教による、いわば「近代」国家体制が整備されていった時期だ。正倉院に残された国際交流の証を見てもこの時期がいかに海外との交流が活発であったかが分かる。奈良は国際的な都に発展し、筑紫鴻臚館、太宰府を窓口とした大陸との文物の交流がさらに活発になった。


平安京:

 しかし、新国家「日本」の首都、国際都市平城京の「みやこ」としての歴史はわずか84年で幕を閉じる。再び遷都が企画される。長岡京などいくつかの試みの後、平安京が造営された。実は平安遷都の理由は謎である。旧都の仏教勢力の増大に嫌気がさした、天武天皇系の奈良に決別した、藤原氏勢力との距離をおく、さらには怨霊払いなどの理由が語られているが、ともあれ大和奈良盆地を出て、さらに北の山城国のカドノの地に遷都した。

 中国風の風水により四方を神で守られた都を造営。仏教勢力を極力排除する観点から、奈良からの仏教寺院の移転は禁じられた。平城京遷都時に飛鳥や藤原京から有力寺院が移転してきた事情とは大きく異なる。やがて唐王朝が衰退期に向かうと、遣唐使が廃止(菅原道真の進言)され、一種の南都仏教禁教令、鎖国に近い時代に進んで行く。その結果として国風文化の隆盛、日本史上、対外的な軋轢の少ない平和が続く時代となる。仏教は、鎮護国家思想から変質して、世の末法思想の広まりとあいまって、現世利益を求める貴族や民の宗教(阿弥陀信仰)になって行った。平安京は文字通り平安な国の内向きの都になっていった。

 この頃から日本の社会はドメスティックになっていった。博多津では,相変わらず商人達が唐、新羅との交易に従事していたが、政治権力者が国際交流に再び目覚めるには平清盛の時代を待たねばならない。瀬戸内、太宰府、博多を押さえた唐物、南宋貿易で大きな財を成した平家一族は、「みやこ」を制する権力者一門となる。清盛は京に近い福原に遷都、大和田の泊にて国際貿易を企図する。一方、平氏滅亡後、東国に拠点を置く源氏、北条氏は国際認識に疎く、元の使者の来訪時にも対応を誤り、元寇を招いている。再び大陸との政権レベルでの交易が本格化するのは室町幕府、足利将軍の勘合貿易の時代に入ってからだ。やがて世界地図は塗り替えられ、大航海時代に入ったヨーロッパ諸国が東アジアに出没するようになる。そうした異人の来訪を受け入れたのは、「ほうけもん」の織田信長。堺や博多の豪商がいわば権力者のエージェントとして交易に従事し、莫大な利益を上げた。しかし徳川幕府時代に入ると、権力中枢は東国の江戸に移り、キリスト教禁教と再びの鎖国へ。歴史は繰り返す。しかし,これらは「みやこ」の外での出来事であり、「みやこ」はグローバリズム、反グローバリズムの動きの蚊帳の外に置かれ始める。


地政学的視点:

 奈良盆地は西に水運ルートが開けている。シルクロードは、那の津、瀬戸内海、ナニワ津、河内湖、大和川を通じて終着点、飛鳥、平城京へとつながっていた。もともと北部九州にあった倭の中心部が、次第に、版図を東に広げ、あるいはある時期、大陸からの脅威に備えるために、東遷していった結果選ばれた地が、奈良盆地なのだから。いわば稲作農耕文明の東遷トレンドにあったうごきだ。しかし、奈良盆地は東に山塊が行く手を阻み、倭、日本が、さらに東国へと支配を拡張してゆく過程に入ると不便なロケーションとなる。

 一方、京都盆地は、日本の中心に位置し、東西に走る街道、琵琶湖の水運により、国内統治には適したロケーションである。結果として、遷都後1000年もの間日本の首都であり続けた。しかし、平安京はナニワ津からは淀川、木津川、鴨川を通じて世界につながる位置にはあったが、飛鳥や平城京のように、シルクロードに直結する文明の終着点のイメージは無い。那の津、博多、太宰府、後にナニワすなわち大坂(さらには堺)が「みやこ」の外港の役割を果たし世界との窓口になるが、グローバルの波を「みやこ」には入れなかった。


「みやこ」は日本文化の聖地・象徴へ:

 平安京は国際的文化交流の「みやこ」というよりは、独特の日本文化の揺籃の地になってゆく。さらには日本の統治「権力」の中心と言うよりは天皇という統治の「権威」のおわします「みやこ」となっていった。武家政権が日本を支配する時代に入ってからは、ますます「みやこ」は、政治支配者が自らの政権の正当性のお墨付き(錦の御旗)をいただくところとなる。かつて倭国の時代に,その権威を中華皇帝に求めたように。

 鎌倉時代、室町時代、戦国・安土桃山時代を通じて、日本の海外交流はとぎれとぎれになりながらも細々と続くが、その波は「みやこ」には至らなかった。博多であり堺にとどまっていたのであった。江戸時代鎖国の時代に入ると、「みやこ」は天皇のおわします聖域、禁裏となる。すなわち外国人を入れてはならないForbidden Cityとなって行く。幕府により天皇や公家は、ますます有職故実や古来からの文化・芸能を継承してゆく役割に押し込められてゆく。その政策が京都と言う街の性格を形成することになる。


サマリー:

 このように振り返ってみると、飛鳥は、前述のように「倭」の「みやこ」すなわち倭京であった。その倭王は中華帝国皇帝からの信認関係で成り立つ王であった。こうした「倭国」はすなわち中華帝国との朝貢、柵封、を軸とした外交使節の往来、すなわち「国際交流」が不可欠の国であったから、必然的にその「みやこ」は大陸との使節の往来が盛んになり、異国の文物や人が多く入り、その外来文化や財を一手に支配する事で、統治の「権威」と「権力」を蓄えることが出来た。のちに、対外的な緊張関係(白村江の戦いの敗北など)に遭遇するなどの時期を経て、国家意識、倭人としてのアイデンティティーが徐々に形成されて行く。やがて中華帝国の柵封体制から決別し、中華皇帝を中心とした宇宙から独立したもう一つの小宇宙の天帝、すなわち天皇を生み出す。そしてその東アジア世界に立ち位置を示した国家創世のシンボルたる「みやこ」が藤原京であり、平城京であることを知った。

 しかし、そういう新しい「日本」国家創世のプロセスがもう一段進むと、もう世界から学ぶことは無い、などとして「一種の鎖国」状態に進んでゆく。先述のように平安時代はその結果、国風文化が進み、「日本」文明が醸成されてゆく。江戸期の鎖国は、いわば第二の国風文化の時代を生み出したことになる。こうなると天皇のおわします「みやこ」は、国際交流の拠点ではなく、その性格を「日本」文明の聖地、権威の象徴、さらには禁断の地として外の世界から隔絶する「みやこ」へと変容してゆく。このように国際交流が「みやこ」の外に追いやられてきた歴史を観た。

 明治維新後の、かつての江戸への「遷都」は、新しい「みやこ」東京がそうした京都の1000年の呪縛から逃れ、新しい近代国家の国際交流の「みやこ」になった事を意味しているのである。飛鳥の時代の倭国を取り巻く中華圏グローバリズムとはまた別のグローバリズムが進む今日であるが、「みやこ」としての東京が、フラット化した世界の様々な面での交流拠点として発展することが求められる時代になった。「みやこ」Tokyoはこれからどこへ行く。

 一方、その結果、いにしえの風貌が文化遺産として残された、かつてのForbidden City京都は、国際的な観光都市として「日本文化」「和風」を求める外国人が押し掛ける町となった。歴史の皮肉であろう。そしてその昔、いわば血気盛んな若い国際人であった飛鳥/奈良は、まるで人生のあらゆる波乱を過去に脱ぎ捨ててきた、枯れた老人のような穏やかな佇まいになっている。「国のまほろば」の風景の中、山河、一木一草が語る歴史、老人がその背中で語る生涯がたまらなくいとおしい。


飛鳥板蓋宮跡。外交使節謁見の場で起こった権力者の暗殺。その現場からその一族の居館、甘樫丘が見える。

藤原京(新益京)跡。新生「日本」の「みやこ」を目指して計画されたが挫折。背後は耳成山



夏の藤原京跡は睡蓮の花畑となる。背後は畝傍山


闇に浮かぶ平城宮大極殿。国際都市に偉容を誇った。
京都御所。平安京大極殿はさらに西の現在の千本丸太町辺りにあった。
高い塀に囲まれ他を寄せ付けないまさに「禁裏」。

2016年12月24日土曜日

上町台地を俯瞰する 〜大阪の歴史を育んだ台地〜

あべのハルカス60階展望室より「上町台地」真北方向を望む。
南北に走る真ん中の道は谷町筋。左手前は天王寺公園、住友慶沢園、茶臼山古墳。
その上方に見える緑地帯は夕陽ヶ丘の寺町地区。ここが昔の上町台地の西の端で断崖が海に落ち込んでいた。
左上方の高層ビル群あたりが梅田、御堂筋、堺筋のビジネス街。弥生後期、古墳時代は海の中だった。
谷町筋の右に見えるのは四天王寺。上方に小さく大阪城が見える。難波宮跡も大阪城の手前に位置する。
今やビル群に覆い隠されてどこが台地なのか分かりにくくなってしまったが、仔細に見るとその痕跡があちこちに見てとれる。


四天王寺
飛鳥時代574年に聖徳太子によりこの台地上に創建された

四天王寺の北。上町筋の延長線上に難波宮/大阪城(石山本願寺跡)が見える
いずれも台地の頂上部に建てられたことがわかる。


大阪城(石山本願寺跡)
ここが上町台地の北端であった
東方向、大和と河内を分ける二上山。
手前が河内(かつては湖/海だった)、山向こうが大和国(奈良盆地)。

西方向、大阪市街地を隔てて大阪湾、さらには明石海峡大橋、淡路島が遠く見える


谷町筋の果てにはキタ、梅田のビル街が展望できる。

四天王寺西門前
仏教寺院に鳥居という神仏習合の原初の姿だ


四天王寺境内
その四天王寺西門を出ると、大きな坂が急勾配で西へと下る。
ここが上町台地の頂上であることがわかる場所だ。
「大坂」という地名の由来の場所と言われている
(天王寺区逢坂。四天王寺夕陽ヶ丘界隈)



弥生時代後期〜古墳時代頃の大阪。
上町台地は海に突き出た半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。
台地西側の現在の大阪市中心部はまだ海の中。東側の現在の河内平野は、淀川と大和川の流入による土砂によって海から切り離されて、河内湖に。後にはやがては土砂の堆積が進み干潟、平地へと変化してゆく。

江戸時代中期18世紀の大坂古地図
右側(東側)が上町台地部分(「御城」と「四天王寺」)
左側(西側)東横堀と西横堀に挟まれた船場。その西が西船場。さらに西が天保山。
大川の北は天満。南が長堀と道頓堀に挟まれた島之内


 あべのハルカス。JR天王寺駅前、近鉄阿部野橋駅上という立地。横浜ランドマークタワーを抜いて日本一の高層ビルとなったことと、周辺に遮る建物もないため大阪の街が360度展望できることで、新しい大阪の観光スポットとして大人気だ。とうとうあの通天閣が足元に見える仕儀となった。大型施設、新し物好きの大阪人が喜びそうな建物だ。しかしその構造は高さ300mにするためにビルの屋上に展望用に鉄骨を三段組み上げ「屋上屋を重ねた」ような作りだ。実際エレベータを降り60階の展望フロアーに降り立つとなんかユラユラ揺れているような気もする。外から見るとまだ工事中のように見える。どこか風格と威厳を感じるビルに見えないのはそのせいか?

 それはそれとして、私「時空トラベラー」にとっては、古代からの歴史の舞台「上町台地」全景を俯瞰できる場所が出来たということが画期的なのだ。今までは空から飛行機で見るしかなかったのだが、1500円(65歳以上はシニア割引で1000円!)払えば誰でも登って数々の歴史の現場を俯瞰できるようになった。もっとも、現在の上町台地は市街地の建物群に覆われてしまい、どこがそれなのか、にわかには判然としない状態になっている。しかし見る人が見ればいたるところに「台地」「半島」という地形とかつての海との高低差を、そしてそこで繰り広がられた人間のドラマの痕跡を確認することができる。茫漠たる市街地ビル群の風景の中にその地形的痕跡と歴史の証を見つける楽しみは何にも代えがたい。歴史は時々「マクロ的に俯瞰する」ことが大事だ。そうすることで一つの事象/事件が長い時間の中でどのような意味を持つのか見えてくることがある。また時代が異なっても共通の理(ことわり)が潜んでいることも理解する。ここ上町台地のように古代から歴史の舞台となった土地をこうして高いところから睥睨し俯瞰していると、時間を巻き戻しながら、脳内で眼前のビル群を引っ剥がして過去にタイムスリップする3D映像が妄想される。まるで時間の流れを俯瞰しているような感覚にとらわれるから不思議だ。

 実際、揺れのない高速エレベータを降り展望フロアーに立って目に飛び込んでくる大阪の大パノラマは感動ものだ。周辺にこのビルに匹敵する高さの建造物がないのでぐるりと見える。上町台地だけでなく、東は二上山から生駒山。西は大阪湾から遠く明石海峡大橋、淡路島まで見える。南に目を転ずると、足元の阪堺電車の先に住吉大社、堺をへて、紀伊半島の山々が眼に飛び込んでくる。飛鳥時代574年に創建された四天王寺から、7世紀大化の改新後の孝徳天皇の難波宮、16世紀後半戦国時代の一向宗石山本願寺、そして太閤さんの大坂城。大坂の陣で徳川方、大坂方(真田信繁)共に砦を築いた茶臼山古墳も真下に見える。日本の歴史の表舞台に登場したゆかりの場所がここ上町台地に集中している。各時代の権力者は高台を好む。文化は高台に生まれる。

 それもそのはずである。ここは弥生後期から古墳時代は海に突き出した半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。現在の大阪のキタ/ミナミをつなぐ繁華街はまだ海の中。半島の西側の海岸べりに古代難波の津があった。また東側の現在の東大阪あたりの河内平野は、縄文時代には瀬戸内海とつながった海であった。それが弥生時代後期頃から淀川や大和川から流入する土砂が堆積しで海から遮断され、汽水湖(河内湖)になった。記紀にも神武天皇の東征軍は瀬戸内海から河内の海へ奥深く入り、生駒山麓の草香江の津から上陸して大和に攻め込もうとしたとある。河内は海/湖だったのだ。16世紀末、太閤さんが上町台地の北端に(もと一向宗の石山本願寺があった場所に)大坂城を築いた。やがて上町台地西側に船場、島之内、西船場という掘割に囲まれた東西南北の町割(太閤割)を開いた。こうして巨大な商業都市が生まれ、人/物/金が集まる難波/大阪は「天下の台所」として、さらには明治以降は「日本一の経済都市大大阪」として繁栄することになる。しかし、それは16世紀以降というのちの時代の話。それまではこの台地の上に全ての歴史の現場が集中していた。


 上町台地は西側の勾配が急である。四天王寺から難波宮、大坂城に続く上町筋が馬の背であるとすると、谷町筋から西は急速に勾配が落ち、松屋町筋へと下る。四天王寺西門から、今宮戎方面に向かう大通りは下り坂になっている。ここは「大坂」の地名の由来となった場所だと言われている。現在の町名も「逢坂」である。四天王寺創建当時は、この西門は西方浄土信仰の聖地であり、ここから西海に沈む夕日を拝むことができたという。さらに平野町/夕陽ヶ丘の寺町地区へ行くとかなりの崖になっているのがわかる。この辺りは太閤さんが街造りをするときに、摂津平野郷から多くの住人を遷して住まわせ、寺社を集めた。今でも崖の上と下に連綿と寺町街が形成されている。ここらには「天王寺七坂」がある。夕日が綺麗ななにわの名所として江戸時代から人気の場所であった。地名の「夕陽ヶ丘」も、ありがちな昭和的なネーミングトレンドから後世につけられた地名ではなく、古来より西方浄土に向かう夕陽を拝む土地という意味で、夕陽が美しく拝める崖っぷちであることから名付けられていたもの。この辺りの坂はどの坂も急勾配で、立ち並ぶ寺院の合間を下って行くと上町台地が海面に対して大きな高低差を持っていたことがわかる。実際大坂城あたりで標高は36メートルほど、天王寺あたりで16メートルほどだそうだ。

 上町台地が高台であるということを語るエピソードにはこういうのもある。父の世代の人の話を聞くと、昭和20年の大空襲で大阪の街が焼け野原になった時、上本町から大阪湾が見渡せたそうだ。坂の上から見渡す大阪の市街地は焼けて無くなってしまい遮るものもなかったというのだ。今では台地の断崖に位置する「天王寺七坂」に立っても、高層ビルが林立していて、大阪湾はもとより市街地の眺望も利かず、ここが高台であることを感じさせない。この空襲では、大阪城周辺の砲兵工廠などは徹底的に破壊された(その跡地がOBPオフィス街や大阪城ホールになっている)。惜しいことに四天王寺も金堂や五重塔など多くの堂宇が空襲で焼けてしまった(現在の建物は戦後鉄筋コンクリートで再建されたもの)が、上町台地は空襲を免れた地域が多かった。天王寺真法院町や北山町、上本町、高津、清水谷、真田山あたりは今でもお屋敷街の佇まいが残っている。谷崎潤一郎の「細雪」の船場の御寮人さん、いとはんの世界だ。船場の資産家のお屋敷はこの辺りであった。そうしたことから緑地が少ないといわれる大阪の街の中でも、このあたりは緑濃い山手の雰囲気を今も残している。勿論、多くの寺院が軒を連ねる地区も貴重な緑地帯と成っている。こうしてあべのハルカスの展望台から俯瞰するとき、そうした緑のあるスポットを探して行くと、上町台地という地形の記憶と、1400年の歴史の痕跡を見つけ出すことができるだろう。



2010年6月8日火曜日

難波宮から望む二上山

そろそろ梅雨入りか。今年は6月に入ってもさわやかな天気が続き入梅の気配がなかったが、さすがにそろそろか。
窓から見える二上山、金剛山方面に低い雲が垂れ込めている。

ここの所、東京と大阪の行き来が激しく、時空を超えて大阪と難波、奈良と飛鳥を行き来出来ないのが寂しい。
我が時空旅の出発点、近鉄上本町も阿倍野橋も、とんとご無沙汰だ。

今日も窓から遥か河内平野の彼方に二上山が見える。気になるのはその二上山の手前に(八尾のあたりだろうか)高層マンションが建設中で、やがて二上山の美しい姿を遮る形で完成に向けて着々工事が進んでいることだ。かつて縄文時代後期にはこの上町台地に抱えられるように水をたたえた河内湖であったのが、やがて弥生時代頃から八岐大蛇のような大和川の合間の湿地帯となり、いまや大阪のベッドタウンとして、日本のモノ造りのシンボル、東大阪の中小企業の街として、殷賑を極める地域になったのだから景観の変貌も致し方ないのかもしれないが。

窓から景色を眺めながら、古代の河内の姿を想像力たくましく思い描くしかない。

生駒、葛城、金剛山系の谷間に沿って飛鳥故宮、藤原宮、平城京と河内、難波津を結ぶ古代官道、横大路、竹内街道が走っている。今も第二阪奈道路が走るその横にそびえる二上山。悲劇の皇子、大津皇子の墓がある所だ。ヤマト側から見ても大阪側から見ても、そのツインピークスの山容はまさに関西のランドマークだ。

万葉集でうたわれる二上山はヤマトの地から眺めた、日の没する西に位置する山である。二上山は、弥生の神々にとっては三輪山に日が昇り、二上山に日が没する、東西を軸とした世の終末を表し、仏教伝来後のヤマト世界では西方浄土へのあこがれを表す山だ。入江泰吉氏の「二上山残映」は、まさに夕陽に映える山容を写し取ったものだ。

しかし、こうして難波から東に向って眺望する二上山は、河内平野の向うにそびえる日が昇る山だ。大陸から渡って来た人々、あるいは遣唐使として日本に戻って来た人々にとっては、ここ難波津に降り立ち、はるかシルクロードの東の終点を間近にして、これから向う都を想い一息入れながら眺めた山なのだ。

あるいは、飛鳥の地から難波に遷都し、即位した孝徳大王。斉明大王と中大兄王はその後孝徳大王を難波に置き去りにして飛鳥へ戻ってしまう。この孝徳大王は失意のうちに難波宮から二上山をあおぎながら、遥か山の向うの飛鳥の故宮を恨めしく思ったことだろう。

歴史の風景も異なった位置から眺めてみると、また別の感慨を味わうことが出来る。


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                                   (難波から二上山を望む)

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                                   (夕暮れの難波宮跡)
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                                   (上町台地の光芒)