ライカファンの昔からの論争の一つに、アノ、カメラ正面についている赤いライカのロゴマークは好きか?というのがある。このロゴマークをカメラボディーに取り付けるというのは主にM6から採用されたもの。本来ライカのようなスナップショットやキャンデットフォトを得意とするカメラは目立ってはいけない。なのによりによって赤いロゴを正面にくっつけるとは何事...というのが反対派の論拠。一方、ライカというブランドカメラを誇示したい向きには,むしろカッコイイロゴがついた,という事に。
伝説のライカ使い,アンリ・カルチェ・ブレッソンは、わざわざ、シルバークロームボディーのライカM3に黒のマスキングテープを貼って「決定的瞬間」をとり続けたという。その為、ライツ社も黒い塗装のライカM3を発売したくらいだ。その後、カメラと言えばライカもニコンも黒,というのが定番となる原点となる逸話だ。とにかく目立ってはいけないのだ。
そもそも保守的なライカファンにとって、M6のように、電池式内蔵露出計のような電子的な装置を組み込んだカメラが許せるか否か,という論争がはじめにあった。当時の批判者の喩えで「弁当に生ものを入れるようなものだ」という批判があった。すなわち、機械式であれば壊れない、あるいは壊れても修理が利くのでほぼ一生使えるのに、電池で動く脆弱な電子デバイスと組み込む事で、壊れるとカメラ自体が使えなくなる、というたとえ。弁当が腐らない日の丸弁当の時代の日本的な喩えである所が楽しいが。
昨今のライフサイクルの短いデジタルデバイス見てると、「一生もの」の価値の重みを想起させるエピソードでもある。
ロゴマークの問題は、そうしたM6の「電子化」、「量産化」に伴う道具としての価値(商業的な価値に限らないが)の下落に対する危惧という象徴的な意味もあった。 それが「そもそもあの正面のロゴマークは何だ。目立ち過ぎだろう」という「坊主憎けりゃ...」の類いの批判に繋がったのかもしれない。
やれやれ、ライカユーザは頑固で古いスタイルに固執する。
しかしライカ社はそうした論争をしたたかに汲み取り巧妙な市場戦略に出た。その後のライカMシリーズではM7のように赤ロゴにしたり、お得意の限定モデルで黒ロゴにしてそれを売りにしたり、MPのようにロゴを取り除いたり、まあなかなか両方の陣営の心理をくすぐる商売をしている。デジタル化したM8は赤だったが、そのマイナーアップグレード版のM8.2では黒にした。その次のM9は再び赤に... そしてM9チタン限定モデルでは、ご丁寧にアクリル磨き出し、墨入れて作業の凝った赤ロゴマークが堂々と正面中心を飾る。目立つように...
興味のない人にとってはこれほど世の中の趨勢に何ら影響を持たない論争はないが、マーケティング上は、なかなか面白いケースを提供してくれていると思う。ニッチな市場ではこうした趣味人の論争が真剣に製品ラインアップ形成に影響を与えている。朝令暮改に見える一連のロゴマークの変更だが,そこには明らかな意図が読み取れる。
ちなみに私は赤ロゴは好きだ。
(M9デジタルの赤ロゴマークは黒い生地に映えて美しい)
(M9チタンのアクリル磨き出し、墨入れ手仕事の高級ロゴは実用よりもステータスと目立ちを強調する)