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2019年12月18日水曜日

修禅寺をめぐる伝承と実在 〜空海と源頼家の物語〜

修禅寺
桂川にかかる虎渓橋
修禅寺山門



温泉地として名高い修寺の地名は、彼の地にある古刹、修寺から来ている。この修禅寺にまつわる歴史上の人物の物語をご紹介したい。一人は弘法大師空海。もう一人は鎌倉幕府第二代将軍源頼家。「奇跡」を起こした伝説の聖人と、「奇跡」を起こせなかった悲劇の将軍の物語。


1)空海の姿は何処?

その古刹、修禅寺は807年(大同2年)弘法大師空海による開基と伝わる。空海は18歳の時にここ伊豆の山中で修行したと伝わっており修禅寺の奥の院がその地だと伝承されている。また伊豆最古の温泉と言われる「独鈷の湯」は空海が河床を独鈷で突いて湧き出た温泉だと言い伝えられている。これが現在の修善寺温泉の始まりである。ここは空海にまつわる言い伝えが多く残された土地である。修禅寺は真言宗の寺として470年続いたのち、鎌倉時代に蘭渓道隆により臨済宗の寺として再建され二百数十年続く。室町時代1489年になるとこの地を治める北条早雲により曹洞宗の寺として再建され、以降現在まで518年曹洞宗として続いている。

しかし待てよ、歴史に詳しい人なら何か違和感を感じるのではないか。年代の辻褄が合わない? 空海は唐に留学し、806年(大同元年)に朝廷から定められた20年の留学期間を自ら短縮して2年で帰国。日本に真言密教を伝えた。しかし、勝手に留学期間を切り上げたその罪を問われて、筑紫の太宰府に留め置かれた。彼が朝廷に許されて入京したのは帰国後3年目の809年のことである。その後、816年(弘仁7年)高野山に真言密教の根本道場、金剛峯寺を開き、さらには嵯峨天皇の許を得て823年(弘仁14年)京都の東寺を真言密教の寺として引き受けている。ここ伊豆の修禅寺開山が807年だとすれば、空海が唐から帰国した翌年で、太宰府に滞在中の時期ということになる。また、高野山よりも東寺よりも古い創建の真言密教寺院が東国の伊豆にあるという事になる。ちなみに空海が創建した最も古い密教寺院は博多の東長寺だとされている。806年の唐からの帰国直後、太宰府滞在中に当時大宰府の外港であり、大陸との交流の窓口であった博多津に我が国最初の真言密教道場を創建した。こちらも寺伝によるものだが、時期といい、創建の動機といい、場所といい、説得力がある。修禅寺の場合はどうなのだろうか。さらに実は空海が東国へ行った記録はほとんど見つかっていない。これはどういうことか?空海の修禅寺開基は史実なのか?

空海/弘法大師と同様に、全国に様々な事績が伝承されている高僧に行基がいる。こちらは空海から85年ほど前の奈良時代の僧。史実としても東大寺創建に貢献した。また全国に行基の開山と伝わる仏跡が多くある。草津や山代、山中などの温泉開湯伝説や、全国各地の水利、土木事業などの社会事業、あるいは病気治癒伝説が伝わる点では空海と双璧をなす。行基も空海も日本史、仏教世界にとどまらず、民間信仰/民間伝承におけるレジェンドなのである。修禅寺温泉の開湯にまつわる空海の伝説も、そのような「伝説の聖人」の起こした「奇跡」の一つである。全国に伝わる真言密教の寺の創建についても、空海の開いた高野山金剛峯寺で修行し、後に全国へ散開して布教を広めていった「高野聖」の活動が大きく、実際には空海自身の創建ではなくとも空海ゆかりの寺として、空海開基と後世に伝わっていったのだろう。こうした時間と空間を超えた活動の積み重ねが空海伝説を世に広めたに違いない。例え、史実としては空海自身がその地に足を運んだことはないにしても、そのことでその尊崇の念が些かもかける事は無い。その「奇跡」と徳と偉業が現地に伝承される。空海は確かにその地の人々の心に姿を留め、記憶されている。信仰とはそうしたものだ。



2)源頼家の怨念

そのような空海ゆかりの修禅寺は鎌倉幕府二代将軍源頼家の幽閉、終焉の地となる。岡本綺堂「修禅寺物語」で描かれた頼家とかつらの物語の舞台となったところである。頼朝と北条政子の長男、頼家は謀略により将軍職を解かれ修禅寺に幽閉され、ここで暗殺された。それも母方の北条氏によってである。この背景には頼家を担ぐ比企氏(比企能員)と、弟の実朝を担ぐ北条氏(北条義政)の争いがあり頼家謀殺、実朝将軍就任となった。これにより北条氏が幕府の主導権を握ることとなった。修善寺は鎌倉時代の源氏一族、北条氏、比企氏などの御家人の凄惨な権力闘争の舞台となった。平家を打倒して鎌倉に武家政権、幕府を開いた源氏は初代征夷大将軍源頼朝の後は、その長男の頼家が暗殺され、その次男の実朝も頼家の次男であった公暁に暗殺され、たった三代で滅びる。鎌倉幕府とは?源氏とは?将軍とは?一体何だったのか。ここ修善寺には北条政子が息子の頼家の冥福を祈って建てた経堂「指月殿」(鎌倉時代)が残されている。そこには頼家の墓所と、頼家殺害後に敵討ちと復権を目指して決起し、全員が殺されたという頼家の家臣十三士の墓が立つ。自分の実家、北条一族のために、夫である頼朝との間に出来た待望の源氏直系の跡取り息子をしに至らしめておいて、罪の意識か、怨霊封じか、釈迦如来を彫らせて供養をする北条政子。現代の感覚では理解を超える所業だ。

ここ修善寺では源氏の悲劇の物語は頼家だけにとどまらない。修善寺の隣に日枝神社がある。見事な杉の大木と名残の紅葉が美しい社である。かつては修禅寺の鎮守社であった。ここには頼朝の異母弟、範頼が幽閉されていた信功院跡がある。範頼は頼朝に謀反の疑いをかけられて伊豆へ流された。あの義経と同様、平家打倒に大きな功績があった範頼もやはりその末路は兄頼朝の処断による非業の死であった。範頼のものと伝わる墓もここ修善寺にある。頼家、範頼と、どうしてこう源氏直系の血筋がこの修善寺に「非業の死」という歴史を刻む事になったのか。頼朝の猜疑心と北条氏の野望と源氏御曹司の怨念が渦巻く土地である。ある意味で源氏政権、鎌倉幕府の武断的な性格を象徴する場所であると言える。

鎌倉幕府とはどういう政権だったのか?相州の鎌倉の地を見ても、伊豆の修善寺の地を見ても、山に囲まれ、守るには易いが、打って出るには固い辺境な地勢である。面する海といえば、文明世界につながる海(日本海や玄界灘)ではなく、広大無辺な補陀落浄土へと続く死の海(太平洋)である。ここを拠点にして日本全国、いや世界を見渡して天下統治、政権運用が出来る土地には見えない。大陸に近いチクシや、そこへ通じる海路を有するヤマトやミヤコに比べて視界が全然違う。結局鎌倉幕府というのは、天サカル鄙の坂東武者が、ミヤコから流人として伊豆に転がり込んできた貴人源頼朝の扱いをきっかけとした、思いがけない幸運というか、不幸というか、図らずも歴史の表舞台に引きずり出されてしまった。そんな巡り合わせでできた坂東武者政権だった。関東に地縁も血縁も持っていなかった高貴な血統の源氏の御曹司は御神輿、名目だったとも言える。北条氏などそもそも平家方(桓武平氏の血筋と言われるが異説もあり)で、東伊豆の豪族伊東氏と争う伊豆田方郡の地域武士団にすぎなかった。都からの流人の監視役だったはずが、娘を頼朝に取られ、最初は伊豆の支配権をめぐって優位に立つために、頼朝の挙兵に同調し負けるが(石橋山の合戦)、時の情勢を見ながら平氏打倒に立つことになってしまった。しかしこれを奇貨として、政子の意外なほどの政治能力もあり、幕府の執権として、得宗家としての地位を築き、結局はその源氏将軍を滅ぼして鎌倉幕府を乗っ取るのだから凄い。その過程での北条、比企、和田、梶原などその御家人同士の権力奪取闘争は凄まじい。お互い殺し合うだけでなく、ついには主家であるはずの将軍を殺してしまうのだから。結局は、この北条も足利や新田などの、これも関東御家人に滅ぼされて鎌倉幕府は滅亡してしまう。その後の足利は幕府を京都(室町)へ移し朝廷/公家勢力との融合の道を選ぶ。関東にいては西国経営に支障をきたしたのだ。このようにできたばかりの武家政権というのは殺伐とした地方軍閥政権だったのだろう。幕府が再び関東に開かれるのは徳川家康の1604年の江戸幕府になってからのことだ。伊豆の修禅寺はミヤコからも江戸からも、はるけき彼方で、武家政権を起こした源氏の夢の跡となった。



3)文人墨客の足跡

なお、明治以降の修善寺温泉には、老舗の新井旅館と明治日本画壇の大家、安田靫彦、横山大観のほかの画業の足跡を巡る物語がある。ちょうど下田の上原美術館で「伊豆をめぐる名画」展をやっている。夏目漱石や芥川龍之介の愛した旅館もあり、文人墨客の一種のサロンであった。

この話は別途項をあらためて語ってみたい。



(参考観光ガイド)
ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの2つ星★★:修禅寺、指月殿、竹林の小径。
桂川、嵐山、渡月橋など京都をイメージした名前。朱塗りの欄干を配した情緒ある温泉街を意識した街づくりとなっている。頼家とかつらの恋物語としての「修禅寺物語」にちなみ、若いカップル向けのコースが用意されるなど観光地化している。

(アクセス)
新幹線三島駅から伊豆箱根鉄道駿豆線で終点の修善寺まで35分。20分間隔で運行されていて想像していたより近い、便利。あるいは東京から特急「踊り子」修善寺行き直通で二時間。

修善寺駅から天城越えの東海バスで東伊豆の伊豆急河津駅まで約一時間半。こちらは一時間に一本の運行。途中に湯ヶ島温泉、天城トンネル、浄蓮の滝、河津七滝、湯ヶ野温泉など「伊豆の踊子」ルート(旧下田街道)の見所が満載。


日枝神社

名残の紅葉が美しい


杉の大木が見事

日枝神社社殿
境内に範頼幽閉の地があった
夫婦杉



日枝神社鳥居越しの紅葉





修禅寺境内



弘法大師像



独鈷の湯
独鈷の湯公園
竹林散策







楓橋付近の紅葉 
桂川
楓橋





こうして天を仰ぐと見える光景!




指月殿
釈迦如来坐像

頼家公廟


十三士墓
指月殿付近の石畳

伊豆箱根鉄道「修善寺」駅

東海バス
天城越え、「伊豆急河津駅」行き

(撮影機材:Leica SL2  + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8-4 ASPH)