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2019年12月4日水曜日

「伊豆の踊子」の幻影を追う 〜旧天城トンネルから河津七滝へ〜


幻影から抜け出して来てくれた伊豆の踊子!

旧天城トンネル

旧天城トンネル南口



 川端康成の「伊豆の踊子」は、誰でも一度は読んだことのある名作だろう。心に懊悩を抱え伊豆を旅する主人公の一高生(川端自身)と、旅芸人一座の踊り子(カオル)の出会いと別れ。若い二人に芽生えた淡い恋心は結ばれることなく下田港での別れで終わる。港を出てゆく船を見送り、岸壁で白いハンカチを振る踊り子の姿。思わず涙が溢れる。どうもこうした港での別れのシーンにはめっぽう弱い。現役時代に海外出張の機内で都はるみの「涙の連絡船」をイヤホンで聞きながら、気付くと涙が出ていたのを覚えている。「港」「別れ」「汽笛」「かもめ」... この「国際派」のオレが完璧な演歌のモチーフに反応するなんて。この「伊豆の踊子」もそうだ。青春時代に心に響いた作品は、今この歳になって読み返しても胸を締め付ける。日本人は何てナイーブな人たちなのか。日本人の誰もが感じるセンチメントとはこう言ったものなのだ。いや、川端がノーベル文学賞をとったことで、日本人だけでなく世界にそのセンチメントと文学の美しさが認められたのだ。

 この小説のもう一つの舞台が天城越えだ。この天城峠は三島から下田へ向かう下田街道の途中にある。かつては天城越えは難所であった。伊豆は半島であるのだが、中央部には1000m級の山塊、天城連山(最高峰の天城山は1406m)がどっしりと聳え南伊豆と北伊豆は分断されていた。下田、河津の人々は、北の「本土」の文明社会にはアクセスがなかなか困難であったという。開国とともに下田に赴任した初代アメリカ領事タウンゼント・ハリスも江戸参府のときはこの難所越えに難渋したと記録にある。のちには下田港から東京への航路が開かれた。こうした地理的な環境は、背後に四国山脈を控え、浦戸湾から船で外界へ出るしかない土佐の高知を思い出させる。伊豆はこうした辺境性のゆえに長く流刑地であったのだと理解できる。しかし、1905年(明治38年)に天城トンネルが開通しようやくこの南北格差が解消された。地元の古老の伝承話を伺うと、下田の人々のこの時の喜ぶ様が伝わって来る。「伊豆の踊子」の主人公「私」と旅芸人一座と踊り子が越えた天城峠の道はこのトンネルだった。

 以前からこの天城トンネルを訪ねてみたいと思いつつも、今まで実現しなかった。今回、紅葉の季節を迎え、お天気も良くなったので河津駅からバスで向かった。一時間に一本程度出ている修善寺行きのバスで40分くらいで最寄りの「天城峠」バス停、あるいは「水生地下」バス停に到着する。週末の紅葉シーズンだというのにバスは混んではいない。乗客は観光客もいるがほぼ地元のお年寄り。買い物や病院通いの足として利用されているのだろう。おばあちゃんたちの賑やかな談笑が聞こえて来る。現在は河津のループ橋と新天城トンネルができ、修善寺までの道路が整備されたので容易に峠を越えることができるようになった。天城峠バス停留所で降り、トンネルに向かう登り坂を20分ほど登る(結構な急坂!)と、旧トンネル北口(修善寺側)に到着する。メインのルートとして使われなくなった旧天城トンネルは鬱蒼たる森に埋れて静かに佇んでいる。1905年(明治38年)に開通した、日本最古かつ最長の石造道路トンネルだそうだ。地元産の切石を積み上げてアーチ状に内壁を張ってゆく工法で、当時の最先端技術で築造された。今は新天城トンネルが開通し、旧トンネルは1998年(平成10年)有形登録文化財に指定され、2001年(平成13年)には国の重要文化財に格上げされた。現在はこの天城峠、下田街道の旧道はトンネルを含めて「踊り子歩道」になり、一時期舗装されていたところはわざわざ剥がして自然歩道に戻した。トンネルから河津側が全面車両通行禁止になっているが、時々車やバイクで入って来る輩がいる。全長445.5m、幅3.5mほどの真っ暗で狭いトンネル。入り口から眺めてみると少し勾配になっている。もともと車両通行用に作られてないので、トンネル内で離合することはできない。こういうところは歩いて散策する方が良い。トンネル内は心霊スポットとしても知られているようで、それを目当てに来る人もいるそうだが、私は何も感じなかった。とにかく水生地の駐車場か、二階滝駐車場に止めて歩こう。

 修善寺側の北から歩いてトンネルに入り河津側の南へ抜けた。ひんやりしたトンネル内は、点々と照明はあるものの、やはり真っ暗。目を凝らしてみると見事な切石造りのアーチが続き、その造形美に見惚れる。ずっと先に見える出口のアーチのシルエットと色付いた森がどんどん近づいて来るのが印象的だ。トンネルを抜けても山の中で展望は開けないがここから二階滝経由で、河津七滝までは8キロ強の踊り子歩道を歩く。宗太郎杉の美林を抜ける気持ちの良い林道、それが旧下田街道である。踊り子一行も主人公もこの道を歩いて下田に向かった。紅葉は赤くはないが、街道を覆う黄葉した木々が青空に生えて美しく輝きあたりは秋色。かつての難所とは思えぬ長閑な秋の天城越えだ。足元は舗装がないので良くないが、下り一本だし標識は整備されていて迷うことはない。そんな森林ルートに突然現れる二階滝は感動だ。この辺りの水の流れは急で、それこそ滝がいく段にも重なっている。しかも、岩肌は柱状節理の連続。滝もこの柱状節理を削って流れる豪快なものだ。伊豆高原の海岸べりに多くの柱状節理が見られるが、こんな天城山中でも見られる。伊豆ジオパーク、伊豆半島の成り立ちを示す証拠ともいえる景観だ。河津七滝までくると観光客がどっと増える。ここの駐車場に車を止めて滝巡りができるよう遊歩道が整備されている。有名な踊り子と学生の銅像が滝の前にあり、大勢の人が記念写真を撮っている。ここでも外国人観光客の増加が目立つ。

 こうして天城越えに伊豆踊り子の幻影を求めて徘徊し、河津七滝にたどり着いた。まさにその旅路の終わりにその「踊り子」に出会った。笑顔が可愛らしい素敵な踊り子に! 黄八丈の着物に、幼さの残る額を出して地毛を丸髷に結い上げ、大きな櫛と簪を刺した初々しい姿。河津町観光協会の演出なのだろうが、まるで幻影の中から現れたリアルの踊り子であった。早くに宿を出立した旅芸人一行と踊り子に、やっと追いついた主人公の「私」の心境である。以前、河津桜を見に行った時にも可愛い「踊り子」がガイド役でいたが、この時の娘もとっても可憐で笑顔が愛らしかった。きっと、河津町が地元の高校生の中からとびっきり可愛い子を観光キャンペーンのためにモデル募集したのだろう。そうだとすると伊豆は美人揃いだ。こうしたイベントの「美人」は、えてして地元のエライ人の意向と、外の人間にはわからない人間関係が作用して、「ううん...」ということが多いのだが... 。「伊豆は美人が多い」。これはあながち根拠がないことではない気がしてきた。確かに下田や河津には、鄙には稀な美しく気品のある女性を多く見かける。以前、奈良本の隠れ家の女将さんに伺ったのだが(この女将さんも気品に溢れている)、この辺はみやこ言葉の人が多いと言っていた。奥様のことを「お方さま」と言うそうだ。山間の集落ごとに血縁、ルーツが違っていて、嫁入りする時には家同士の確執があって大変だとも言っていた。それも伊豆は古代からの流刑地で、みやこの政争に敗れ流されてきたやんごとなき人々が代々住みついて、山あい、谷筋ごとに血統を守ってきたからという。険しい山塊に阻まれた辺境な土地ではあるが、平和で温暖で優しい土地柄である。さもありなんという気がする。

 念願の天城トンネルを抜けて秋色を楽しみ、清々しい空気をいっぱい吸い、「伊豆の踊り子」の世界に浸り、最後に幻影ではなく可愛い「踊り子」に会えてとても良い旅であった。


ススキを見ながら天城越え
河津ループ橋

新天城トンネル

ここから急坂を登って旧天城トンネルに向かう。

道無き道になって来たが、秋の佇まいが美しい

旧天城トンネル北口
修善寺側の入り口


切石造の道路トンネルとしては最古、最長。
国の重要文化財

古代石造遺跡然とした佇まいだ。







南口方向へ

内部のデザインが素敵だ!

旧天城トンネル
南口
河津側入り口




道路は車両通行止め
踊り子歩道になっている
河津七滝方面へ











鬱蒼として森に覆われるトンネル


車道が歩道に変わり落ち葉が美しい
宗太郎杉

七曲の峠道
下田旧街道の痕跡
二階滝




ツタの紅葉




ワサビ田

旧下田街道
「踊り子歩道」
宗太郎杉林道

鎌滝
柱状節理
地上火山の痕跡

ゴロゴロした岩は海底火山時代の痕跡
河津七滝散策コース



柱状節理

柱状節理を削って流れる

蛇滝

初景滝







伊豆踊り子



(撮影機材:Leica SL2 + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8-4ASPH, Lumix S Pro70-200/4)