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2019年12月10日火曜日

お別荘「起雲閣」探訪 〜熱海の三大別荘の一つ〜




 熱海は昔から温泉地として栄えただけでなく、実業界の重鎮や文豪などの別荘が多く集まる地区でもあった。しかし、明治大正期には東海道線は国府津から現在の御殿場線を通って沼津に抜けるルートを取っていたため、熱海はアクセスに不便なところであった。1895年、小田原からは人力鉄道(豆相人車鉄道)が熱海まで開通し、のちに1907年に蒸気機関車による軽便鉄道が開始した。その後、1925年(大正14年)国府津から熱海まで熱海線が開通したが、難工事の丹那トンネルが開通して東海道線が熱海経由になったのはようやく1934年(昭和9年)のことだ。

 こうして明治大正期においては必ずしもアクセスの良い温泉地、別荘地ではなかった熱海だが、ようやく鉄道が開通してから人気の温泉地、別荘地となった。もっとも公共輸送機関頼みの庶民はともかく、富裕層にとっては鉄道がなくてもそれほど問題はなかったのだろう。東京からは船で来ていたようだ。いやむしろエクスクルーシヴで風光明美な土地の方が好ましかったのかもしれない。明治22年に熱海御用邸(現存しない)が開設されてからは、江戸時代からの温泉が湧く別天地であった熱海で、こぞってて邸宅や別荘が建てられはじめたと言う。我々の世代は、熱海と言うと戦後一時期は新婚旅行のメッカ。高度成長期、「日本株式会社」全盛期には、職場や農協などの団体の慰安旅行先。と、バブルに浮かれて賑わう温泉歓楽街のイメージがあるが、かつてはそうではなかったのかもしれない。今の熱海は、そうしたバブリーな時代を終えて、リゾートマンションと高齢者マンションの街になりつつある。

 熱海の代表的な別荘と言えば、住友別荘、岩崎別荘とともに根津嘉一郎の別荘であった。これを「熱海の三大別荘」というそうだ。住友家別荘はすでに無く、岩崎家別荘は非公開。この起雲閣だけが、その後、旅館として存続し、さらに熱海市の所有文化財として保存されて公開されている。この他にもブルーノ・タウト建築の日向別邸や坪内逍遥の双柿舎、佐佐木信綱の凌寒荘、中山晋平邸などがある。あるいは幾つかは熱海の代表的な老舗旅館として引き継がれている。が、多くは、後継問題や相続問題などから売却され取り壊されてリゾートマンションなどに建て替えられている。東京の閑静な住宅街でも起きている「マンション」と言う建築遺産破壊、景観破壊がここでも起きている。

 起雲閣は、政財界で活躍し、海運王と言われた内田信也によって1919年(大正8年)に建てられた純和風の別荘(現在の本館「麒麟」「大鳳」)が起源である。その後、1925年(大正14年)鉄道王と言われ、近代数寄者の一人、根津嘉一郎(青山の根津美術館で知られる)によって買い取られて、敷地を買い増し池泉回遊式の庭園がしつらえられた。根津嘉一郎といえば風雅な茶室を想像するが、不思議なことに茶室が見当たらない。オリジナルの純和風の本館に加え昭和4年から7年にかけて、擬洋風の応接間「金剛」とその付属のローマ風浴室や、アール・デコ調の洋館「玉姫」、英国チューダー様式の「玉渓」を増築して行った。こうした「洋館」は神社仏閣建築の要素を取り入れた日本風、欧州風、中国風、インド風を随所にブレンドしたユニークな意匠で設えられており不思議な空間を生み出してる。特に洋館に付属するサンルームは圧巻だ。ステンドグラスとモザイクタイルをふんだんに取り入れ、開放的で明るいサンルームを演出している。ここから眺める和風庭園が不思議にこのスペースと調和しているのが面白い。天井を見上げると、ここにも意匠を凝らしたステンドグラスが全面に張り詰められ、屋根から明かりを採り入れる(もちろん屋根もガラス張り)構造としている。近代数寄者のこだわりが半端ではない。大正後期から昭和初期はこんな自由でアーティスチックな時代だった。これが大正浪漫のレガシーなのかと改めて感心する。

 戦後の1947年(昭和22年)には、能登出身の実業家桜井兵五郎に買取られて、旅館「起雲閣」に生まれ変わる。山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、船橋聖一、武田泰淳などの多くの文豪が投宿し、熱海を代表する名旅館として愛された(ちなみに上述の「」内の名称は旅館時代に付けられた名称であるらしい)。この時代に現在見られるような庭園を一周するように立ち並ぶ客室棟が設けられた。旅館廃業ののち、2000年(平成12年)に熱海市によって敷地建物全体が買い取られ、文化財施設となった。旅館時代の客室は現在、文豪資料館や文化活動スペースとして公開されている。熱海の多くの邸宅や別荘が、次々と取り壊されてリゾートマンションに建て替わる中、この起雲閣は市によって保存/修景された。しかも、その文化財として、あるいは市民の文化施設としての運営は、連綿として市民ボランティアの手で行われているとのことだ。こうした手法が文化財を救うモデルケースとして全国に広まることを期待したい。

 起雲閣は、このように時の流れとともにオーナーの変遷に伴う改変を受けてきた。しかし代々文化人オーナーに所有され、それぞれの時代にそれぞれの個性の発揮しつつも、ベースに数寄者としての系譜が持続されたことが幸いして、むしろ時空を超えた多様な文化の記憶を保持し続けてきた。そう考えると稀有な存在なのかもしれない。


起雲閣の玄関
薬医門

根津嘉一郎による池泉回遊式庭園
本館二階から望む

本館広間 加賀群青の床の間
旅館時代の装飾

大正ガラスの縁側








洋館「玉姫」
「玉姫」の折り上げ格天井

「玉渓」
チューダー朝風のしつらえ
「玉渓」応接と暖炉
サンスクリット風レリーフに床柱

圧巻のサンルーム
和風庭園との調和が素晴らしい
モザイクタイル

大きな明かり採り天井
屋根もガラス張りである
随所にステンドグラスが

ステンドグラスとモザイクタイルをふんだんに取り入れた明るいサンルームだ

サンルームの奥には暖炉のある応接室
重厚な調度



文豪に愛された旅館の一室
現在は展示室になっている





洋館「金剛」
迎賓用応接施設







床面のタイル

ステンドグラス
ローマ様式の風呂
洗い場

和室玄関




庭園から見た建築物群:


左に和風本館、正面に洋館
純和風本館

洋館「玉姫」「玉渓」と和風客室を望む

洋館「玉姫」「玉溪」

和風旅館客室


旅館客室


土蔵


薬医門を後にする


(撮影機材:Leica SL2 + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8/4 ASPH, Tri Elmar-M 16,18,21/4 ASPH)