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2022年4月17日日曜日

福岡城址公園に新緑を堪能する


ここは黒田五十二万石、筑前福岡本藩の居城、福岡城(別名舞鶴城)跡。しかし、ここを訪れてまず感じるのは、これほどの外様の大藩の居城にしてはその栄華を偲ぶ遺構が少ないことに驚かされるだろう。最近流行りの「お城巡りツアー」でも取り上げられることが少ない。お隣の肥後の熊本城の人気に比べても寂しい限りだ。天守閣はおろか、大手門も主なる櫓や御殿も庭園も残っていない。加藤清正も尊敬した築城の名手、黒田如水、長政親子の築いた名城の片鱗を感じさせるのはその縄張り。すなわち北に博多湾、南に大休山、西にはの草香江の津(大濠)、東に博多の町。城そのものよりも地形と地の理を生かした城下町作りとなっている点だ。しかも黒田父子は合理主義者。戦のない時代に天守閣も、壮麗な堀割も、高石垣もいらない。朝鮮戦役の時に攻めあぐねた晋州城をモデルとした平城としての縄張りを徹底的に追求した合理的な作りになっている。だからなのか無駄な装飾や権威や権力を誇示する建造物もない質素で無骨な作りである。

幕末動乱期には、尊王攘夷運動の中心の一つであった筑前福岡本藩は最後の最後になって尊攘派を粛清して佐幕派に転換する。その結果、維新の動きに乗り遅れ、鳥羽・伏見の戦いではかろうじて官軍に寄せ集めの兵を出したが、明治新政府では完璧に干された。しかも、藩ぐるみの贋札事件がバレて徳川幕藩体制下では一度も改易されなかったのに、明治になってから藩知事更迭という不名誉を被る。こうして藩主は、廃藩置県を目前にして福岡を退去し、福岡城も明け渡されて破却されてしまう。こうして如水/長政父子の傑作名城は(その後の子孫の不始末で?)失われてしまった。ある意味では悲劇の名城と言っても良いだろう。

破却されて更地にされてしまった城内には、明治以降、県庁や陸軍練兵場や福岡師団の兵舎が設置され、戦後は高等裁判所、国立病院、戦後復興住宅、小学校が設けられ、あの西鉄ライオンズ全盛期の平和台球場や福岡国際マラソンで有名な陸上競技場が設けられた。こうして石垣と一部の堀を除けば完全に城郭としての面影が失われてしまった。最近、全国的に改めて城郭が観光資源として見直されるにつれ、福岡も負けじと城址公園としての復興整備が始まり、国立病院や高等裁判所が城外へ移転していった。ちなみに平和台球場の地下からは、奈良時代の太宰府鴻臚館跡が見つかり現在でも発掘調査が進められている。その結果、平和台球場は破却されてプロ野球は福岡ドームに移っていった。「鴻臚館から福岡城へ」その1000年の時空を超える新たな歴史公園として脚光を浴び始めている。

今、福岡城址は、隣接する大濠公園とともに桜とクスに埋め尽くされる花と緑の市民公園となっている。発展著しい福岡市。ミニ東京化が進み、どこにでもあるガラスと鉄骨で出来たビル群が幅を効かす福岡市。それに伴って歴史遺産と緑の空間がどんどん失われてゆく福岡市。街の文化的景観が希薄になった「大都会」福岡で、目先のお城ブームによる観光資源整備じゃなくて、市民にとって貴重な歴史と緑のスペースとして維持発展していって欲しいものだ。



天守台跡からの展望

天守台跡から大濠公園を望む

大濠公園
福岡城の外堀であった

大濠公園


本丸跡
桜満開の季節が終わると新緑の森に



枝垂れ桜と石垣

クスノキと八重桜

名島門



藤は藩主黒田家の家紋だ

桜と藤のコラボ
それに自転車...

クスの新緑

お堀端の八重桜

大手門

二の丸公園

平和台球場跡
正面は鴻臚館遺跡展示館




(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)