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2025年10月27日月曜日

Leica M EV1登場 〜M型ライカから光学レンジファインダーを取ったら何が残るのか?〜

 

Leica M EV1  (Leica Camera AGウェッブサイトより)


Leica M11 Silver(比較用)

フィルム時代のLeica MD






10月3日、以前から噂されていた電子ビューファインダー搭載のLeica M EV1ついにが発表になった。Mシリーズの新製品登場!しかしどうしてあまり興奮しないのだろう。なぜか物欲が全く刺激されない。したがって「速攻予約」とはならなかった。

M EV1は、M11から光学式距離計ファインダー(レンジファインダー)を取り除き、Leica Q3の電子ビューファインダー(EVF)に置き換えたもの。言ってみれば「ミラーレスM」である。もともとMにミラーはないので、ニコンのような一眼レフからペンタプリズムとミラーを取り除いたカメラとは異なり、「レンジファインダーレスM」ということになる。それ以外の基本スペックはM11と全く同じ。EVFによりバッテリー使用時間がM11より3分の1程となる。貼皮がQ3と同じダイアモンドパターンに変わり、ISOダイアルが廃止された。レンジファインダーがなくなった分重さが494gと若干軽くなり、価格もM11よりは若干低く設定されている。

私は保守的なMユーザではないし、レンジファインダーに拘ってもいないので、電子ビューファインダは歓迎だし、Q3でそのメリットを大いに享受している。しかし、このM EV1にはどうも惹かれない。まず外見がセクシーじゃない。Mから正面のファインダー窓がなくなり、それに伴う段差もなくなり、さらにISOダイアルも無くなった。怪談に出てくる「のっぺらぼう」みたいでショックを受けた。にもかかわらず、レンジファインダー用の測距窓だけは残している。セルフタイマーの点滅ライトだという!?一眼レフカメラと異なり「ミラーレス化」すると、ファインダー窓のある特徴的な外見は大きく変容を強いられる。デザイン的な工夫がないと、ただ「レンジファインダー」を取っただけの姿になりむしろ痛々しい。フィルムライカの時代にファインダーのない「のっぺらぼう」モデルもあったが、医学用などの特殊用途向けであった。伝統的なデザインとスタイル。それに最新技術を組み合わせる。デジタル化の過程でライカMはその試行錯誤の歴史を歩んできたが、今回もその一里塚なのだろう。

それにしてももう少しなんとかならなかったのか。フジフィルムのようなハイブリッドファインダーは考えなかったのか?Mからファインダー窓を取ったらMじゃない。むしろQシリーズ(元々レンジファインダーを前提としてないところからスタートしたデザイン)でレンズ交換できるモデルを追加して欲しいとさえ思う。幸いM11は継続発売されるし、レンジファインダー機は無くならないので、モノクロ専用モデルや液晶省略モデルと同様の、いわばMの派生モデルの位置付けなのだろう。またM EV1とあるので近い将来に改良版の2が出るのだろう。どんな答えを出すのか期待したいが、MはMのままでよい。当面、Mレンズ資産を「ミラーレス」で使いたけらばはSL3ボディーがあるので問題ない。

このカメラでどのような撮影体験ができるのだろう。カメラは写真撮影にとってとても大事な「お道具」なのだから、まずその「良い仕事しているお道具」に惹かれなければワクワクする撮影体験もできない。技術的な合理性だけでは感性は刺激を受けない。感性を刺激してくれる「お道具」。それがライカの魅力のはずなのだ。次を楽しみに待とう。

ちなみにLeica MのMは、Messsucher、すなわち「距離計」を意味する。


正面のファインダー窓と段差がなくなった
背面

軍艦部 ISOダイアルがなくなり寂しくなった


電子ビューファインダ まるでQ3のファインダーだ




(写真はLeica 社HPから引用)

2025年10月20日月曜日

古書を巡る旅(71)The Life of Sir Isaac Newton :『ニュートン伝』 〜近代科学の祖にして最後の魔術師?〜


The Life of Isaac Newton 『ニュートン伝』


ニュートン肖像(1698年)Wikipediaより


アイザック・ニュートンとは何者か?

 17世紀後半、イギリスで活躍したアイザック・ニュートン(1642〜1727)。ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに学び、のちに教授となる。哲学者、自然科学者、天文学者、物理学者、数学者、光学者、神学者、政治家、造幣局長官。数々の経歴を持つ彼は、総じて言えば自然哲学(Natural Philosophy)、すなわち後の自然科学(Natural Science)の祖であり、科学革命を起こした人物として歴史に名を刻んでいる。哲学と諸科学が未分化であった時代に自然科学を打ち立てたと言っても良い。中でも教科書で学んだように「万有引力の法則」「光のスペクトル分析」「微分積分」ほニュートンの三大発見と言われている。また天体観測用の反射望遠鏡を開発したことでも知られる。しかし、彼の歴史における事績とその評価は、このような教科書に書かれているような事柄だけなのか。もっと違う横顔があるのではないか。少し異なる角度からニュートンの実像に迫ってみたい。


『プリンキピア』と「万有引力の法則」

1687年に著された主著『プリンキピア:Principia』。すなわち『自然哲学の数学的諸原理』のなかで彼は、「われ仮説をつくらず」。「あくまで観測できる物事の因果関係のみを示す」として、当時主流と考えられていたデカルトの自然哲学の仮説の理論的矛盾を指摘した。つまり「引力はなぜ発生するのか」「何のために存在するのか」といった問いには答えず、「引力の法則」がいかに機能するかの説明に徹した。形而上学的問題を避け、予測、計算、検証可能な普遍原理を追求した。これまでの自然哲学はギリシアのアリストテレス以来のスコラ哲学に基づく形而上学的な宇宙、自然理論が主流であった。そこにデカルトの演繹論に基づく合理主義的自然理論が勃興してきて、物事の運動、重力には必ず何か究極的な原因があるはずで、それを「エーテル」の圧力や渦動に求めた。しかしニュートンは、実験や観測で実証され得ないものを原因とすることを批判した。すなわち思弁的、観念的な仮説に過ぎずないもので証明しようとする矛盾を指摘した。自然を観察、観測、実験に基づく実証的な方法で解明し理論化し、それを数式化することで一般法則を見つける。近代的な自然科学(Natural Science)が始まった瞬間である。

ニュートンといえば「万有引力の法則」:Law of Universal Gravitationの発見であろう。それは世の中にどのようなインパクトを与えたのか、それまで長く自然を支配する運動法則は天上界のそれと地上界のそれは別であると考えられていた。これはガリレオの地動説が認められてからも依然として有力な考え方であった。しかしニュートンは『プリンキピア』の中で質量、運動、慣性、力の定義を行い、三つの基本法則(慣性の法則、運動方程式、作用反作用の法則)を打ち立てた。いわゆる「ニュートン力学」と言われるものである。地上でリンゴが落ちる引力(重力)も天体を動かす引力(重力)も同じであるということ(万有引力:Universal Gravitation)を理論化してみせた。デカルト主義の哲学者、科学者は、重力や運動には何か究極的な原因があるはずで、演繹的思索の果てに、それを宇宙に充満するエーテルの力だと結論付けた。いっぽうでケプラーは磁場の力をその原因であると主張した。しかしそれらを証明する証拠は何も見つかっていないとニュートンは「プリンキピア」において指摘した。こうしてニュートンはこれまでのガリレオ、ケプラーなどの先人が発展させてきた物理学を「ニュートン力学」として体系付け、これにより古典物理学は完成を見たと考えられている。20世紀における新たな物理学的発見、すなわち「相対性理論」や「量子力学」により「ニュートン物理学」で説明がつかなかった領域があることが明らかになったが、それでも我々の日常の事象を説明する理論としての価値は不動のものである。今年は「量子物理学」発見から100年の節目である。


「プリンピキア」初版の表紙


ペストが産んだ世紀の大発見

この「万有引力」理論発見のきっかけてなったとされる「りんごの木」の話は、今でも伝説的に語り継がれる逸話である。かれは1665年から1666年にかけて、ペストの二回目の大流行でケンブリッジ大学が休校となりやむを得ず田舎に避難していた。この時期に大学を離れ、自然豊かな環境(おそらくリンゴの木もあったのだろう)でゆっくりと思索に耽った。そのなかから生まれたのが「万有引力の法則」である。「リンゴの落下」はその象徴として伝説になった。「光学スペクトラム」「微積分」もこの時の思索からアイデアが生み出されたとされる。後世にニュートンの「創造的休暇」と呼ばれたもので、ペストというパンデミックが思いがけない時間を与え、それが思いがけない歴史的な成果を生んだ。現代のコロナパンデミックは、後世に何か創造的成果を生み出す機会になったのであろうか?これからの世界に何らかのインパクトを与えるニュートンのような人物が現れ、画期的発見、考察、理論が姿を表すのだろうか。それを楽しみにしたいものだ。


イギリス経験論哲学の継承者

彼がケンブリッジで学生、教授として活躍した時代は清教徒革命から1660年の王政復古。さらに1688年の名誉革命の時代である。政治的には激動の時代であったが、イギリス啓蒙主義が起こり、経験論的な哲学思想、科学的な合理主義が主流となっていった時代でもある。やがて産業革命の時代、大英帝国躍進の時代へと変化してゆくその前夜と言って良い。一方でニュートンの理論(『プリンキピア』で論じられた)は大陸の自然哲学者からは認められなかった。むしろ怪しげな実験や観測手法を用いるオカルトの一種とみなされたこともあった。先述の通り、ニュートンの思考方法とアプローチはデカルト合理主義(演繹論的)とは異なり、フランシス・ベーコン、ジョン・ロックの経験論哲学(帰納法的)を起源とする。フランシス・ベーコンは以前にも紹介したように、デカルトとは対極にある。ベーコンが「知は力なり」、実験や観察を重視する実証的な手法による合理性を唱えた最初の哲学者であるのに対し、デカルトは「我思うゆえに我あり:Cogito ergo sum」、すなわち人間の理性を第一原理とし全ての出発点と考えた。ベーコンの経験論哲学はジョン・ロックによって体系化され、ニュートンはそのロックとは交友関係にあり大きな影響を受けた。二人の間に多くの書簡が残されている。ニュートンはまさにこのイギリス経験論哲学の継承者の一人でありその実践者である。そしてその果実が『プリンキピア』なのである。

2024年8月10日「古書を巡る旅(54)」ベーコン書簡集(1)


人間の感性とロマンの破壊者?

このようにニュートンは近代合理主義、科学の時代を生み出した輝かしい人物として評されている。ここまでは教科書に記述された我々が学んだ定番のニュートン像である。しかし、彼は科学革命を起こした近代科学の祖であり、理性の価値を高めたとされる一方で、人間の感性のもたらす価値を相対的に後退させた元凶とみなされることもある。産業革命後の科学万能、合理主義万能に対する反発は、文学や芸術の分野の文化人から起こり、ロマン主義の復活とともに沸き起こって行った。スウィフトの『ガリバー旅行記』に出てくる架空の国「ラピュタ」も科学万能主義への痛烈な皮肉である。19世紀ヴィクトリア朝時代末期には・ジョン・ラスキの「自然に帰れ」という思想や、アール・ヌーヴォーのウィリアム・モリスなどその影響を受けたロゼッティ兄弟の、いわゆる「ラファエル前派」のグループが、ニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言して、科学万能主義や合理主義への反動運動を起こした。ウィリアム・ブレイクの詩集『ミルトン』にはニュートンをイメージした挿画があしらわれ、人間のロマンと感性を破壊した象徴として描いている。ただ、このムーヴメントは20世紀に入ると衰微して、世紀末的芸術思想とみなされるようになるが、近代合理主義、科学万能への批判が出るたびに、その「元祖」ニュートンが象徴的に槍玉に上がる。人間の理性(頭)と感性(心)、合理主義とロマン主義。この二項対立は、圧倒的な技術革新(イノベーション)、科学万能、技術優位の動きが加速した20世紀、21世紀にこそ先鋭化しがちなテーマである。しかしこの二つは相剋しつつもブレンドし合う「糾える縄の如し」である。この論争はこれからの世界でも繰り返し起こるに違いない。「産業革命」の次の「情報革命/デジタル革命」の時代を生きる我々の現代的な課題、例えば「AIと人間の感性」、といった二項対立に持ち込みがちな問題も、歴史的に俯瞰してみる視座と思考回路が求められる。これもニュートンが扉を開いた新たな自然哲学(自然科学)、科学革命が引き起こした哲学上の課題であろう。21世紀の現代に世界中で起きている科学の進歩、民主主義、資本主義にまつわる諸問題の理解、分析、解決を試みる際に、イギリス経験主義哲学の系譜の上に花開いたジョン・ロック(民主主義)、アダム・スミス(資本主義)とともにアイザック・ニュートン(科学)もその哲学思想の原点に帰って理解し、その現代的意義を再評価してみることは有益な試みである。

2024年2月10日古書を巡る旅(45)「ジョン・ロック全集」、 

2023年1月5日古書を巡る旅(29)「アダム・スミス全集」


ウィリアム・ブレイクの描くアイザック・ニュートン
産業革命後の科学万能時代を批判する意図で描かれた


ニュートンの実像: 近代科学の祖?最後の魔術師?

しかし、ニュートンのこうした歴史上の偉人、レジェンドとしての姿は、後世に人々によって形作られたものである。ただその人生は観察や実験、数理的定式化、自然科学的な合理性では説明がつかないものであった。大学でのロバート・フックとの「万有引力」発見の先取り争いなど、学究生活のゴタゴタで疲弊し、長く勤めたケンブリッジの教授のポジションを捨てて下院議員として政界入りしたり、王立造幣局長官のポジションに移ったり。これはまた彼の実績が経済的に評価されない(報酬という面で)ことへの不満の現れでもあったと言われる。哲学者、科学者ニュートンの姿はどこへ行ってしまったのか。政治家としては活躍しなかったようだが、そこには行政官としての力量を発揮し、贋金作り撲滅に没頭するニュートンがいた。晩年には王立協会の会長に推挙され、死後は国葬を持ってウェストミンスタ寺院に埋葬されるという栄誉によくするが、人間ニュートンは世俗の煩悩から解放された孤高の存在ではなく、むしろその中で呻吟し一時は精神を病む生身の人間であった。また「南海泡沫事件」(17世紀イギリスのバブル崩壊事件)で有名な投機目的の南海会社に巨額の投資をして失敗し財産を失っている。「わたしは天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算することはできない」という名言を残したことでも知られる。

20世紀に入り、1936年にニュートンの遺稿が大量に見つかりオークションにかけられ、その半分を経済学者のケインズが落札した。驚くことにその大半は錬金術やオカルトに関する論文だった。また彼は神学においても著作を残しており「ヨハネの黙示録」など独自の終末論を展開した。自然哲学と同じくらい神学にも力を注いだ。彼はニュートン物理学を確立したが、それがキリスト教の教義と矛盾するとは全く考えていなかった。ケインズはその著書『人間ニュートン』のなかで、数学と天文学は彼の仕事のほんの一部に過ぎず、彼が最も興味を抱いたテーマではなかった。「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく最後の魔術師である」「古代/中世に片足を置き、もう片足で近代科学への道を踏んでいる」と評している。17世紀は確かに近代科学が始まった時代で、まさにニュートンがその扉を押し開いたのであるが、まだ中世の残滓を多く引きずった時代でもある。半世紀前のフランシス・ベーコンが苦闘した「魔術から科学へ」の時代からそれほど進化していない時代と言っても良いだろう。左はさりながら、このことでニュートンの哲学者、科学者としての業績が過小評価されるものではない。


デヴィッド・ブルースターの『ニュートン伝』

本書は19世紀のスコットランド人で、セント・アンドリュース大学総長、エジンバラ大学総長などを勤めたデービッド・ブルースター:Sir David Brewster (1781〜1868)による『ニュートン伝』である。彼はブルースター角(偏光角)と屈折率の関係の発見(ブルースターの法則)、色の三原色定義や万華鏡を生み出した著名な光学研究者、物理学者である。このブルースター版『ニュートン伝』は、ニュートン研究にとって重要な著作の一つであり、彼が後世に残した業績の一つである。彼自身が光学研究者であることからか、この評伝もニュートンの光学者としての功績からスタートしているが、万有引力、微積分の研究など、自然哲学(自然科学)の祖としての評価、偉大なる科学界の先達を顕彰する評伝となっていることは不思議ではない。もちろん20世紀における新たな物理学の発見、すなわち「相対性理論」「量子力学」の成果以前の著作であるので、あくまで古典物理学の世界での話ではある。また先述のケインズの「ニュートン最後の魔術師」説について、その一面を示すエピソードについては言及がない。ただ神学者としてのニュートンについては一章を設けており、神学と近代科学が両立しうるものであることをニュートンは疑っていなかったとしている。またベーコンの経験論の影響を受けたと言われるが、ニュートンが実践したのは「実験」と「観察」だけでありその経験論哲学はベーコンとは異なる独自のものだとも評している。ニュートンに関しては数多くの伝記作家や科学史家の評伝があるが、光学研究の泰斗が著したという点でユニークである。しかし、ニュートンの多面的な人物像を描き出していることも指摘しておきたい。

この書は1831年の初版、1855年の改訂版を元に1868年のブルースター死去後に、王立グリニッチ天文台のW. T. Lynnによって改訂、編集されたものである。出版社はCall & Inglis (London, Edinburgh)で、出版年は記されていないが1870年代以降であろう(蔵書者による1881年というメモ書きがある。恐らく入手した年ではないか)。イギリスのこうした書籍にしては珍しく索引:Indexがついておらず、少なくともこの版に関しては学術的な研究書として刊行されたものではないのではないか。装丁も豪華で、ブルークロス装に金文字、四方金のアール・ヌーヴォー調の外装を纏った美しい書籍である。科学者による「近代科学の祖」の伝記としてはやや不釣り合いにも見える、先述のよう反合理主義、科学万能主義への反発が文芸、芸術界で沸き起こった時期の刊行である。まさにアール・ヌーヴォーの全盛期に入ろうという時代、そのアール・ヌーヴォーを纏った『ニュートン伝』。これは科学界から文芸/芸術界への何らかのメッセージなのであろうか。あるいはただ読書家向けの愛蔵版を企図した出版社のコマーシャリズムに過ぎないのか。ある意味で時代を映し出す不思議な書籍を残したものだ。考え落ちなのだろうか。

参考: CiNiiによれば日本では東北大学図書館、山梨大学図書館に収蔵されている。


ニュートン肖像と表紙(彼の生家だとある)


ニュートン式反射望遠鏡




アール・ヌーヴォー調の豪華なデザインの装丁

Sir David  Brewster(1781〜1868)







2025年10月10日金曜日

古書を巡る旅(70)The Voyages And Adventures of Ferdinand Mendez Pinto  〜「種子島に鉄砲を伝えた」と自称するポルトガル人メンデス・ピントの『遍歴記』英訳版〜

1897年「The Adventure Series」の一冊として復刻されたもの。装丁は「冒険小説」をイメージさせるものとなっている。
 London, T.Fisher Unwin刊行である。

フェルナン・メンデス・ピント (1509~1583)(Wikipedia)

これまで「古書を巡る旅」でも、18世紀のイギリスで刊行されたデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』(古書を巡る旅(62)『ロビンソン・クルーソ』)やスウィフトの『ガリバー旅行記』(古書を巡る旅(68)『ガリバー旅行記』)などの冒険小説を取り上げた。この二つの作品は、ノンフィクションの体裁をとったフィクションであったり、奇想天外な架空の国々に仮託した風刺小説:Satierであったりする文学作品である。今回紹介する17世紀のポルトガル人の「冒険物語」は、16世紀後半の大航海時代に実際の冒険者が体験した、未知の国々での出来事、実在の偉人の事績を語るノンフィクションである。作者は自分の数奇な冒険旅行体験を一人称で語り(自伝)、あるいは自分の目で見たり伝え聞いた珍しい話を語る(見聞録)。と言いながらも事実の中にロマンを盛り込み、空想も真実の延長だだと言わんばかりの、いわば「虚実ないまぜの物語」でもある。「大航海時代」という時代空気を反映した、未知の世界に船出した冒険者たちの真実と空想のハイブリッドストーリー。そしてこれを書き残すことで「オレは歴史を作った」という自己主張のナラティヴである。間違いなくこの16世紀のポルトガル人冒険家の記録は、18世紀のイギリス人作家が「ロビンソン」や「ガリバー」を着想する原点となったであろう。


ピント『遍歴記』とそのインパクト

その「冒険物語」とは、16世紀のポルトガル人の冒険家、商人、著述家、フェルナン・メンデス・ピント:Fernao Mendes Pinto(1509〜1583)『Peregrinacam:遍歴記』である。彼がどんな人物であったのか詳細な経歴は不明であるが、インドから東洋を股にかけ、20年余にわたって旅した冒険商人であった。これはその自伝であり東洋見聞録である。ピントは旅から帰国すると、その記録を1569年頃から書き始め、1578年に全文を書き終えたとされる。この時ピントはほとんど無一文の貧困状態であったと言われている。その写本が出回り人気博したようだが、なぜかピントの生前には刊行されず、彼の死後31年経った1614年にポルトガルで初版が刊行された。その後『遍歴記』はヨーロッパ各国語に翻訳され、イギリスでは1663年にHenry Coganによって英訳刊行された。今回紹介する『メンデス・ピントの航海と冒険:The Voyages and Adventures of Ferdinand Mendez Pinto』である。彼自身の実体験をもとに書かれたという点では先述のデフォーやスウィフトの架空の冒険小説とは異なる。ただ、かなり粉飾された誇張や創作が含まれるフィクションだとの評価がある一方で、東洋の現地に出向いた実体験をもとに書かれた記録で、必ずしもホラ話や想像による記述とも言えない説得力を持っているという評価もある。常にフィクションなのかノンフィクションなのか論争がつきまとう厄介な作品である。

この英訳版が出された時期は、ヨーロッパ各国で16世紀の「大航海時代第一ステージ」の、スぺインやポルトガルによる航海、海外での植民地獲得や商業活動や、キリスト教布教活動の記録が多くの言語に翻訳され刊行された時期である。もちろん国家や教団としての公式記録は門外不出で、少なくとも当時は情報規制があったが、商人や冒険者個人の記録は比較的出回ったようだ。東洋への関心が高いものの情報量が限られており、ポルトガルの商人でマカオ拠点に活躍したトメ・ピレスの『東方諸国記』(1515年)が初めてのアジアに関する体系的な記録で、1595年のオランダ人リンスホーテンの『東方案内記』が出るまで長く唯一の東洋関連情報源であった。ピントもこの『東方諸国記』を読んだのであろう。そしてこのピントの『遍歴記』もそうした「東洋情報ハングリー」な「大航海時代第二ステージ」の新興国イギリス、オランダ、フランスにとって注目の情報源となった。英訳版が刊行された1663年は、ちょうどイギリスは「王政復古」の時代であり、大航海時代のポルトガルやスペインの記録、文献の研究翻訳が進められた時代である。イギリスはオランダとの海洋覇権争いに勝ち、撤退を余儀なくさせられていた東インド、日本への再進出を試みた時期である。ジェームス2世は1673年に日本に東インド会社のサイモン・デルポーを使節として送り、1623年に撤退した平戸(あのウィリアム・アダムスの仲介で開いた)にかわり長崎での交易再開交渉を行った。結局はこの交渉は失敗するが、改めてアジアへの挑戦が始まり、その研究が進められた時期と重なる。ジョン・ドライデンの英訳『ザビエル伝』は1688年の刊行。その元ネタとなったドミニク・ブーフのフランス語訳は1682年の刊行である。オランダ人地理学者にして著述家のアルノルドス・モンタヌスがイエズス会報やポルトガル/スペイン人の著作や手紙、オランダ商館長の江戸参府報告などをもとに『東インド会社遣日使節報告』を著したのが1669年。その翌年1670年には早くも英訳が刊行された。ちなみにモンタヌスは日本にも東洋にも行っていない。イギリスやオランダなどの後発「海外進出国」がスペイン/ポルトガルの「大航海」「大発見」時代の足跡を辿ることで、海外情報キャッチアップしようと翻訳本が盛んに出版された。イギリスやオランダの海洋帝国への道は、先行するスペイン、ポルトガルによって地ならしされたと言っても過言ではない。2021年11月17日古書を巡る旅(17)聖フランシスコ・ザビエル伝:ドライデン英訳021年12月12日東西文明ファーストコンタクト第一章「バテレンの世紀」ポルトガル人、スペイン人の日本見聞録


日本渡航関係記事

ヨーロッパ人にとって東洋進出のメインターゲットは、インド、東インド(東南アジア)、そして中国であった。そこはヨーロッパにはない香料や銀、綿、茶、絹織物や陶磁器など豊かな財物の宝庫であり、一攫千金を求める冒険商人が群がる開かれた市場であった。その中で「偶然に発見」したのが日本であった。13世紀マルコポーロが「黄金の国ジパング」として紹介し、大航海時代の幕開けのきっかけになったとさえ言われたジパングは、16世紀にはすでに「おとぎばなし」として冒険的商人に忘れられた存在となっていた。インド、マラッカ拠点に中国沿岸や琉球で交易に参画していたポルトガル人が偶然に漂着した島が種子島であり、初めてヨーロッパ人が日本に出会った。これをきっかけに日本本島にもポルトガル人、スペイン人が訪れることになる。まさにこうした「日本発見」という歴史的出来事を記述したのがピントの『遍歴記』なのである。今回入手した英文版の中から特に日本渡航関係に絞ってその要点を整理してみた。ピントは合計で4回日本に渡航したとしている。


第一回:
中国人海賊のジャンク船で種子島に漂着した3人のポルトガル人の一人として登場する。ここがあの幻の「ジパング」か!われこそ初めてそのジパングに上陸したヨーロッパ人だ。「日本発見」の瞬間だと興奮気味に記述している。種子島の王Nautaquim(種子島時堯(直時)のことか?)は好意的で歓待してくれた。漂着したポルトガル人の一人Diago Zaimotoが鉄砲と火薬を種子島の王Nautaquimに売却。王は夢中になり瞬く間に自分たちで鉄砲も火薬も製造することができるようになり、5ヶ月半の滞在中に600丁の鉄砲を製造したとある。やがて日本中に鉄砲が広まったと書いている。種子島滞在中、豊後王の使いが来て会いたいというので、ピント一人がそこから豊後に渡り王に会い歓待を受けた。王の次男のArichandono(誰のこと?)が大いに鉄砲に興味を持ち勝手に取り扱って事故に巻き込まれる。この事件でピントは罪に問われそうになるが、許されて無事豊後を離れる。この後琉球:Lequio島への航海を経てマラッカに戻る。ポルトガル人の種子島来航、鉄砲伝来は1542ないしは43年と考えられているが、ピントの記録によれば1544年とある。

第二回:
マラッカから種子島経由で日本へ第二回目の渡航。第一回の渡航(漂着)から帰って後、Liampoで「私たちが発見した日本には、大量の銀があり、中国で得た商品と交換し大儲けした」という話を広め、日本渡航を企てるポルトガル人が殺到するが、ほとんどが嵐で日本に辿り着けず琉球で捕虜になったものもいたという。その中でピントはアジア諸国を巡った後、再び種子島経由で日本渡航に成功し豊後府内に向かう。しかし豊後の王一族の騒乱(1550年の大友家の内紛「二階崩れ」のことか?))に巻き込まれて命からがら脱出。豊後での商売は失敗する。しかし鹿児島で大儲けができた。1547年1月16日に2人の逃亡日本人を連れて鹿児島、中国経由でマラッカへ。そこでイエズス会インド布教区のフランシスコ・ザヴィエルと出会う。鹿児島から連れてきた日本人「Anjiro:あんじろう」を改宗させ、ザヴィエルに引き合わせたとしている。

第三回:
ザヴィエルの日本渡航と布教活動の話が中心となる。ザヴィエルは「あんじろう」と共に1549年8月15日鹿児島上陸。平戸、ミヤコ(公方様:Cubuncamaに謁見するため)へ布教の旅に出る。ミヤコは戦乱で荒廃していて布教活動の成果があがらなかったので平戸へもどり、山口で布教活動。3000人を改宗させた。さらに豊後に向かい1551年に豊後王(大友義鎮/宗麟)に謁見。ボンズ:Bonz(仏教僧)と宗論を展開し説き伏せた。王は政治的理由で結局この時はは改宗しなかった(1578年に改宗するが)。ここではピントはザヴィエルに同行したのではなく、豊後で出会ったように書かれている。その後、ザヴィエルは日本布教のためにはまず中国布教が重要と考え日本を離れ中国Sanchao(三州)へ渡航。ピントは別れてSanchao経由でマラッカに向かった。1552年12月2日ザヴィエルはSanchaoで病を得てそこで没す。遺体をマラッカへ移送。ピントは生きているかのようなザヴィエルの遺体を目撃したと記述。1553年12月23日ゴアへ、壮麗な葬儀が執り行われた。ピントは豊後王からインド副王への親書を手渡し、布教のための神父派遣を要請したとする。  
ザヴィエルの日本における布教活動の事績はイエズス会記録や書簡に詳細に記述されており、このピントの記録のどこまでが伝聞でどこからが実体験なのか不明な点が多い。

第四回:
ザヴィエル亡き後、イエズス会Belchior神父(メルシオール・デ・フィゲイレド(Melchior de Figueiredoのことか?の日本渡航に随伴したとする。ピントはこの時インド副王:Francisco Barretの大使という重要な役目で日本に向かった。ここは一人称単数でその模様が記述されている。ピントの第四回目の渡航である。1554年4月16日ゴア出発。1556年5月7日苦労の末に豊後府内到着 臼杵にいた豊後王が府中に戻り謁見。インド副王の親書を手渡した、神父一行は王に大いに歓待されたが、しかし王の改宗には至らず1556年11月4日に離日。ゴアに戻る。この頃ピントはイエズス会に多額の寄進をしており、そのことはイエズス会の記録にもある。この記述は実体験によるものと考えられている。

その後、ピントは1558年9月22日にポルトガルに帰国。インド副王による彼の業績を讃える証明書とともに、東洋での彼の活動業績、母国への貢献を訴える手紙を国王に上奏し、恩賞/年金を請求するが認められなかった。ちなみにポルトガル船の長崎来航は1567年、織田信長のルイス・フロイス謁見は1569年。大友宗麟の受洗が1578年。天正遣欧使節1582〜90年である。晩年のピントはこのような(彼が切り開いたとする)日欧の交流の進展をどのような思いで聞いたのであろう。1578年に「遍歴記」の筆を置き、貧困のまま1583年に没している。


『遍歴記』の史料としての評価

彼は、1543年(天文12年)に「自分は種子島に漂着した(日本を発見し上陸した)ポルトガル人の一人である」「日本に鉄砲を伝えたポルトガル人である」。さらには1549年に「アンジロウをザビエルに引き合わせ日本布教を助けたのは自分」と主張している。日本史の画期となる出来事に悉く立ち会っているというわけだ。マルコ・ポーロの「ジパング伝説」以来忘れられていた日本。ピントのその「日本再発見」という臨場感あふれる「証言」はヨーロッパにインパクトを与えたことだろう。彼自身が日本に来たのは事実で、イエズス会の布教活動を支援したのも事実であると考えられている。イエズス会記録(後述のロドリゲス『日本教会史』など)や書簡にも彼の名前が登場する。イエズス会に入会し、多くの財産を寄進したこと。またマカオでザビエルの遺骸に出会い、そのまるで生きているかのような姿に涙したこと。これらはピント自身の体験をもとにした記述であろう。しかし、ザヴィエルの日本における布教活動に関する事績などはやはりイエズス会記録などに基づく伝聞であろうし、鉄砲伝来譚などは、後述するがポルトガル側の記録や書簡があまり残っていないので、誇張や、事実と異なるエピソードも多く含まれていると思われる。ドライデン英訳『ザヴィエル伝』には「あんじろう」との出会いの記述があるが、日本から何らかの罪を問われて逃亡してきた人物とされている点は一致するが、誰が引き合わせたかという記述はない。

『遍歴記』はピントの帰国後の1569〜1578年頃に執筆されたものと考えられており、この時には既にイエズス会記録や書簡などの先行資料は入手可能で、執筆にあたって参照、引用(借用)できた事だろう。1614年の出版後はヨーロッパで『遍歴記』は冒険物語として多くの読者にもてはやされたが、本国では「法螺吹きピント」とあだ名をつけられ、「ピントのような嘘をつく」という言葉が流行ったという。1620〜1634年頃まとめられたイエズス会通辞ジョアン・ロドリゲス(ルイス・フロイスの後任として日本で20年以上にわたり布教活動に携わり『日本文典』などの著作もある)の『日本教会史』ではポルトガル商人ピントと彼の『遍歴記』に言及している。そのなかで彼が日本に来ていたことは認めているが、彼の話(種子島鉄砲伝来当事者である、豊後でのザヴィエル布教活動に関する一連の行事に関する記述)は作り話で娯楽のために後に創作したと思われると書いている。ロドリゲスは20年以上の日本(長崎)滞在経験から、ピントの記述を仔細にみると、実際の現地の地形や街の様子、人々の風習などを知らない者が書いたものとしか思えない、と実証的に「史料批判」を行っている。こうしたことから、常にこのピントの『遍歴記』にはその内容の信憑性について論争がつきまとう。たしかに史実を裏付ける一次史料としては信頼できない部分が多いが、全体としては彼のアジアでのリアルな体験、見聞に基づく記述が含まれており、東西交流史の側面史として、また歴史研究の二次的史料として無視し得ない著作であると考える。また当時のヨーロッパ人の東洋観、日本観、認知度合いが描かれている点でも貴重な著作だ。「歴史書か文学書か」という問いは置いておいて、その内容はユニークかつ極めて興味深い。


「鉄砲伝来」その時ピントは種子島にいた?

本書で最も話題となるピントの「鉄砲伝来譚」をもう少し詳しく見てみよう。ポルトガル人の種子島上陸(ヨーロッパ人による「日本発見」、日本人の「初めてのヨーロッパ人遭遇」)と鉄砲伝来に関する記録は、日本側では、南浦文之(なんぼぶんし)の『鉄砲記』1606年があり、ヨーロッパ側では、アントニオ・ガルバン『世界新旧発見史』1563年などがある。いずれも伝聞による後代の記録であり、現地におけるリアルタイムな出来事を伝える史料ではない。種子島家に伝わる『種子島家譜』には時堯が鉄砲を買ったことが記録されておりこれが唯一のリアルタイム記録である。『鉄砲記』は江戸時代初期に刊行されたもので、これによると100人ほどが乗船する異国船が種子島の海岸に漂着。ほとんどが中国人で、その一人の儒学者王直(明国の倭寇の頭目のことか)と筆談で会話したとある。数人の明らかに中国人とは異なる風体の異人がいて、かれらはポルトガルから来た商人であると王直に説明されたとある。その後ポルトガル人からの鉄砲、火薬の入手の経緯や製造方法の習得に関する詳細な記述があり、全国に瞬く間に広がって行った経緯についても書かれている。これが現在では鉄砲伝来に関するもっとも信頼される史料であると考えられている。ここでは鉄砲伝来は1543年となっている。その時ピントはそこにいたのか?しかし少なくともピントらしき人物の名前は出てこない。しかしピントの記述にある鉄砲を売ったポルトガル人の同僚Diago Zeimotoは、ガルバンの『世界新旧発見史』1563年にも登場する。ピントがその場にいた目撃者であったかの印象を与えるが、記述の年代から見てガルバンの記事の引用かもしれない。無論ピントが(彼の死後に刊行された)日本の『鉄砲記』を参照したことは考えられない。

先述のジョアン・ロドリゲスも、この話はピントの娯楽を目的とした作り話だとしているが、彼が日本にいたことは認めている。『遍歴記』そのものは、自身の東アジアでの島嶼部探検の実体験に基づくもので、東シナ海ではポルトガル人は中国人倭寇と一体となって密貿易や海賊行為に従事していたことは先述の通り。したがってピントが中国船ジャンクで琉球や日本沿岸を航行し、「鉄砲伝来その時」に種子島にいなかったとしても、その途中で種子島に上陸し、さらに日本本土に渡航したとしても不思議ではない。フランシスコ・ザビエル、イエズス会宣教師達もこうした中国ジャンク船で鹿児島に渡っている。ピントの「ホラ話」の中の誇張や、「盛った」話を丁寧に取り除いてみれば、そこに史実を読み取ることができる。考えてみれば「歴史書」や「記録」というものは、事実だけを客観的に記述したものではなく、編纂者や記録者の意図が反映され多かれ少なかれ粉飾があるものである。それは国家の正史であれ、社史であれ、個人史であれ同じである。歴史研究にあっては、常に史料批判の対象となるわけだが、事実はともあれ話としては「その時ピントは種子島にいた!」の方がワクワクする。それがまさにピントの狙いであったに違いない。


1663年ヘンリー・コーガンの英訳版表紙
ポルトガル人が用いた最新鋭のフスタ船

アジア人

インド以東のアジア図 日本は左上に位置する


以下に掲載するのは、ピントのポルトガル語オリジナル版1614年刊行の復刻書籍である。

こちらは「遍歴記:Peregrinacam」1614年リスボン刊
天理図書館善書復刻版

「遍歴記」表紙


参考過去ログ: