8月15日は終戦記念日。ヒロシマ、ナガサキの原爆の日に続いて.....鎮魂。
真夏の太陽がジリジリと照りつけ、この世に生きるものは死者の業火の苦しみに想いを馳せる。先の大戦で亡くなった多くの人々の御霊を弔う。何と、この戦争で日本人だけでも310万人が亡くなった......
64年前のあの時、日本人は今では想像もできないような毎日を送っていた。数々の時空を超えた旅行の中でももっとも生々しく重い時空トラベル、これが64年前へのタイムスリップ。
西欧列強のアジアにおける帝国主義的植民地支配を排除するとして、一時はアジアの開放者にも見えかけた日本。結局は西欧列強に対抗する後発者としてアジア植民地支配の道に走ってしまった日本。その結果アジアの同胞に取り返しのつかない災いをもたらした歴史の事実は今さら語る必要もないが、この戦争は日本の国民にも未曾有の災いをもたらした事も忘れてはならない。本来「国民」を守るべき「国家」が「国民」を苦しめる。その事を感じずにはいられない。
ヒロシマの、ナガサキの原爆で、東京大空襲で何十万という市民がわずかな時間の間に殺戮された。沖縄では市民を巻き込んだ戦闘が。南方の島々での血みどろの戦闘で、無謀な作戦遂行の中で、大陸での行軍の中で、飢餓で、病気で、極寒の大地からの逃避行のなかで、抑留された収容所で、絶望的な特攻攻撃にかり出されて、頭上に炸裂した爆弾や焼夷弾で..... 普通に暮らしていた「国民」が、戦地にかり出され、国策で植民地へ移住させられ、内地に居て空襲にみまわれ、死なねばない事態に追いやられた悲劇。家族や友人を失う悲しみを味わわされた。
日本という国家の誕生以来、この民族がかつて経験した事もない悲劇にみまわれた。二度とこのような過ちが繰り返されない為の反省とケジメは出来たのか? 戦勝国が戦敗国に対して行った「裁判」では何の問題解決になっていない。国民あるいは市民の立場からの戦争の加害、被害についてなにも裁かれていない。「人道に対する罪」というなら戦勝国側の指導者にも負ってもらわなければならない。戦争を引き起こした「国家」は「国民」に対してどのように責任を負うのか? また「国家」が戦争へと突き進む事態を止められなかった「国民」は、その無力さをどのように反省し、民主主義と平和と自由を守っているか?
8月は旧盆でもあり、彼岸に旅立った者とこの世に生かされている者が相見える季節である。
今年はまた集中豪雨や台風で多くの方々が亡くなった。
あの日航機が群馬県の御巣鷹山に墜落したのもこの月。
ため息をつきたくなるほど多くの死者の霊がこの季節、何を我々に語りかけてくるのか。
毎年8月にやってくる戦没者慰霊祭や原爆慰霊祭、各地で行われる精霊流しを季節の風物詩として眺めることはできない。暑い暑い夏を今年も過ごす。
ページビューの合計
2009年8月16日日曜日
2009年8月8日土曜日
筑紫君磐井 ヤマト体制組入れに抗戦 その時東アジア情勢は.....
東西10数キロに及ぶ八女丘陵は、12基の前方後円墳を含む約300基の古墳からなる八女古墳群を背負う。
中でも岩戸山古墳は九州でも最大級の前方後円墳で、東西約135m、後円部直径約60m、高さ約18mで、周濠、周堤を含むと全長約170mにも及ぶ。この古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記述にあるように、筑紫君磐井の墳墓である。このように古墳造営者と年代が分かっている古墳は全国的にも珍しい。
岩戸山古墳には一辺43mの方形の別区が存在しており、ここに珍しい石造りの人形、動物、器具等(石人、石馬、犬、鶏、盾、刀など)が並んでいた。いまはそのレプリカが置かれており、オリジナルは近くにある岩戸山歴史資料館に保存展示されている。こうした石像はこの辺りで見られる阿蘇凝灰岩で造られたもので、同時に円筒形埴輪も出土していることから、粘土製の埴輪の代わりに石製のものを、しかも等身大を基本に並べた、と理解されている。
要するに6世紀初頭に、ここ筑紫の地にはこれほどの墳墓を構築出来る(ヤマトの大王クラスの)権力者が存在していたことを大和朝廷成立後8世紀になってに編纂された官製の史書である日本書紀も認めているわけだ。考古学的にも八女丘陵に集約された300からなる古墳群の存在も、ここにヤマトに匹敵する倭国の権力基盤が存在していたであろう事を物語っている。
![]() |
| 岩戸山古墳 別区の石人、石馬像 |
しかし、結局は磐井はヤマトの大王、継体天皇から派遣されてきた物部荒甲(あらかひ)の軍と2年に渡る闘いの後敗れて殺され、その子が糟屋の屯倉をヤマト政権に差し出し筑紫はヤマト体制に組み入れられる事になる。磐井の一族は息子を含め滅ぼされる事はなく、ヤマト体制に移行して後の筑紫の安定を果たす役割を期待されている。遠征軍による支配は困難である事と、その地方の有力者が体制に帰順してくればそれに勝る支配はない事。洋の東西を問わぬ人類の歴史的経験だろう。
一方、この紛争は倭国と当時の中国、朝鮮半島を含む東アジア情勢の変化の中での出来事である。歴史的にも1世紀の「漢委奴国王」時代以来、6世紀の初頭まで、倭国の政権は中国への柵封外交政策を取り続け、政権のレジティマシーを維持しようとしていたのだから。倭国の支配権をより上位の権威によって正当化する作業を脈々とし続けてきた。晋書に倭の五王の記述があり、さらに宋に遣使した倭王武(雄略天皇)の上奏に、自ら甲冑をつけ、「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」と。大王自ら中国皇帝の藩塀として東辺の蛮族を征討して地域の安寧を保つ努力をしているのでその権威を保証してくれ、と頼んでいる。大陸により近い筑紫の権力者は歴史的にヤマトの権力者よりも、より緊密に朝鮮半島や中国との外交関係をコントロールする能力に長けていても不思議ではない。多くの渡来人も筑紫にはいたであろう。官製の史書には出てこないが磐井にはヤマト/百済同盟への対抗軸としての新羅との太いパイプがあったはずだ。
6世紀には朝鮮半島では新羅と百済の争いが激化し、倭国の朝鮮半島での拠点が置かれたという任那、伽耶は562年に新羅に滅ぼされる。さらに時代が下って100年の後、唐/新羅による百済の征討が660年。さらに白村江の戦いで日本が半島から撤退を余儀なくされたのが663年。新羅と結んだ磐井の戦いの後の100年は東アジアの勢力図が大きく変わった時代でもある。倭国、日本がその激変の一方の当事者であった事を思い浮かべれば、倭国内の争い(いわゆる「筑紫国造磐井の反乱」)が単なる国内政権内での「反乱」ではなく、このもう少しマクロ的な視点での争いと無縁ではなかった事は明白だ。
岩戸山古墳は未盗掘墓だそうだ。また、墳墓の中の調査は行われていないとも。岩戸山資料館の女性館員の方が詳しく説明をしてくれた。大方の八女古墳群の墓は盗掘されているが、岩戸山だけが未盗掘。いろいろな副葬品や当時をうかがえる考古学的資料が手つかずのまま眠っている?と、不思議に思っていたら、彼女いわく「結局磐井はここには埋葬されなくて、ここはカラの墓なんですよ」。
確かに磐井が築造したらしい事は、江戸時代の久留米藩の歴史学者矢野一貞による地道な調査により明らかになっている(もっとも彼の研究成果が日の目を見るのはご維新後の明治になってから)。確かに磐井が埋葬されているはずはない。なぜなら彼はヤマト政権の筑紫方面派遣軍司令官の物部あらかひに殺されているのだから。征服者が非征服者の亡骸をこのような巨大な墳墓に埋葬する事はないはずだ。資料館に展示されている石人像なども剣でたたき割られたものが多い。ヤマトからの遠征軍を苦しめた磐井に対する反感、兵士の憎しみがうかがえる(写真の石馬も首が切り落とされている)。
こうした考古学的な成果物からは、日本書紀の記述だけでは分からないいろんな事が見えてくる。筑後平野の南に位置する今はお茶と果物で有名な平和な農村地帯、八女地方が、かつて、我が国の歴史の表舞台で脚光をあびた時代があった。玄界灘の彼方の朝鮮半島を視野に入れた戦略を持った大王がいた。九州人の反「中央」意識はこの頃から伝承され続けてきたのだろう。九州人が「中央」に出て行って権力中枢で活躍するようになるのは明治維新以降だ。
(岩戸山古墳から眺める八女地方の風景はなんと大和の三輪山山麓の風景に似ていることか.....)
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2009年8月5日水曜日
オリンパス・ペン E-P1でレンズグルメ
E-P1のアドバンテージの一つに、レンズアダプターを介して様々なレンズで撮影を楽しむことが出来ることがあげられる。フォーサーズでは焦点距離は35mm版の2倍、すなわち50mm標準レンズは100mm中望遠レンズとなるので、広角撮影にはやや不利だ。しかし望遠、マクロでは結構迫力のある撮影を楽しめる。
E-P1購入と同時に、所有するフィルム時代レンズ資産活用という観点から、旧オリンパスOMシリーズレンズ用アダプター(オリンパスから純正として販売)と、ライカMシリーズレンズ用アダプター(パナソニックから純正として販売)をゲットした。
まず、フィルム時代の一眼レフのOMレンズ群の中では比較的新しい90mm f.2マクロレンズを試してみた。焦点距離は180mmとなりかなりの望遠効果がある。小さなボディーに重いレンズという組み合わせで、手ぶれが心配だが、E-P1は絞り優先モードにセットすると露出補正も手ぶれ補正(さすがボディー内補正システム。マニュアルで焦点距離は入力すればok)も使える。装着した姿はやはりレンズがでかくてバランスが悪いが、結構戦闘的なカメラに見える。液晶モニターでのピント合わせも思ったよりきちんと出来る(ついファインダーをのぞこうと眼をカメラに寄せてしまう癖が抜けないのが笑えるが)。また撮影結果をクローズアップでピント確認出来る。下の写真(ズミクロンのクローズアップ)は手持ちで撮影したが、暗い光源下でも手ぶれせず、ピントもきちんと来ている。なかなかやるね。
続いて、ライカのズミクロン35mm F.2(ドイツ製8枚玉)という伝説のレンズ。ワクワクする。E-P1に装着したその姿はなかなか決まっている。かなりライカチックなスナップカメラに仕上がり、心をくすぐる。レンジファインダーカメラ用のライカレンズがデジカメの液晶モニターを通して画像を結ぶ姿は感動だ。伝統的なライカファンから見れば噴飯ものだろうが、8枚玉ズミクロンの画像がライブで見れるようになるという事は、ライカにとっても時代の転換を意識せざるを得ない事実だ。
それにしてもこのズミクロン、約50年ほど前の古い設計のレンズだが、実に解像力、ピントのキレ、ボケの美しさ、どれをとっても秀逸で、あらためてうれしくなる。金属鏡胴に指掛けと無限大ストッパーのついた凝った造りの距離リングも、経済合理性よりも、手間ヒマかけても最高の品質、高品格なものを造ろうと意気込む職人思想がにじみ出ている。趣味人にとって至福のときだ。このあたりのモノ造りに対するこだわりが日本製カメラとの思想の違いだ。
最短撮影距離は70cmだが、焦点距離が70mmとなる(画角が狭くなる)ので、結構クローズアップ効果を得る事が出来る。フォーサーズの威力か。本家のライカM8だと焦点距離は1.3倍となるのでもう少し広角で撮影出来るが、それよりもE-P1のボディー内手ぶれ補正や、ISO高感度ノイズ補正、ライブビューの機能の便利さは、やはりうれしい。そして、画造りの基本である画像処理エンジンもM8より優れていると思う。何度撮ってもM8のホワイトバランスやISO感度ノイズは気になる。
まだまだ遊び足りない。E-P1はこうした様々なレガシーな単焦点レンズをつけてじっくり撮る「写真機」でもある。「蔵」からオールドレンズを出して、カビ掃除してセッセと遊ぼう。ちなみにオールドライカマウントレンズ(スクリューマウント)もL/Mアダプターを介して装着、撮影可能である事は言うまでもない。
(下の写真、上段2枚がOMズイコー90mmマクロで撮影したライカズミクロンのクローズアップ写真。下段2枚は、そのズミクロンで撮影したもの。いずれも手持ち、アベーラブルライト撮影、かなり暗い状況での撮影にも関わらず、手ぶれもなく、特にオールドズミクロンの解像力、ピントのキレ、ボケに注目!)



E-P1購入と同時に、所有するフィルム時代レンズ資産活用という観点から、旧オリンパスOMシリーズレンズ用アダプター(オリンパスから純正として販売)と、ライカMシリーズレンズ用アダプター(パナソニックから純正として販売)をゲットした。
まず、フィルム時代の一眼レフのOMレンズ群の中では比較的新しい90mm f.2マクロレンズを試してみた。焦点距離は180mmとなりかなりの望遠効果がある。小さなボディーに重いレンズという組み合わせで、手ぶれが心配だが、E-P1は絞り優先モードにセットすると露出補正も手ぶれ補正(さすがボディー内補正システム。マニュアルで焦点距離は入力すればok)も使える。装着した姿はやはりレンズがでかくてバランスが悪いが、結構戦闘的なカメラに見える。液晶モニターでのピント合わせも思ったよりきちんと出来る(ついファインダーをのぞこうと眼をカメラに寄せてしまう癖が抜けないのが笑えるが)。また撮影結果をクローズアップでピント確認出来る。下の写真(ズミクロンのクローズアップ)は手持ちで撮影したが、暗い光源下でも手ぶれせず、ピントもきちんと来ている。なかなかやるね。
続いて、ライカのズミクロン35mm F.2(ドイツ製8枚玉)という伝説のレンズ。ワクワクする。E-P1に装着したその姿はなかなか決まっている。かなりライカチックなスナップカメラに仕上がり、心をくすぐる。レンジファインダーカメラ用のライカレンズがデジカメの液晶モニターを通して画像を結ぶ姿は感動だ。伝統的なライカファンから見れば噴飯ものだろうが、8枚玉ズミクロンの画像がライブで見れるようになるという事は、ライカにとっても時代の転換を意識せざるを得ない事実だ。
それにしてもこのズミクロン、約50年ほど前の古い設計のレンズだが、実に解像力、ピントのキレ、ボケの美しさ、どれをとっても秀逸で、あらためてうれしくなる。金属鏡胴に指掛けと無限大ストッパーのついた凝った造りの距離リングも、経済合理性よりも、手間ヒマかけても最高の品質、高品格なものを造ろうと意気込む職人思想がにじみ出ている。趣味人にとって至福のときだ。このあたりのモノ造りに対するこだわりが日本製カメラとの思想の違いだ。
最短撮影距離は70cmだが、焦点距離が70mmとなる(画角が狭くなる)ので、結構クローズアップ効果を得る事が出来る。フォーサーズの威力か。本家のライカM8だと焦点距離は1.3倍となるのでもう少し広角で撮影出来るが、それよりもE-P1のボディー内手ぶれ補正や、ISO高感度ノイズ補正、ライブビューの機能の便利さは、やはりうれしい。そして、画造りの基本である画像処理エンジンもM8より優れていると思う。何度撮ってもM8のホワイトバランスやISO感度ノイズは気になる。
まだまだ遊び足りない。E-P1はこうした様々なレガシーな単焦点レンズをつけてじっくり撮る「写真機」でもある。「蔵」からオールドレンズを出して、カビ掃除してセッセと遊ぼう。ちなみにオールドライカマウントレンズ(スクリューマウント)もL/Mアダプターを介して装着、撮影可能である事は言うまでもない。
(下の写真、上段2枚がOMズイコー90mmマクロで撮影したライカズミクロンのクローズアップ写真。下段2枚は、そのズミクロンで撮影したもの。いずれも手持ち、アベーラブルライト撮影、かなり暗い状況での撮影にも関わらず、手ぶれもなく、特にオールドズミクロンの解像力、ピントのキレ、ボケに注目!)
2009年7月30日木曜日
筑後八女福島の町並み
筑紫の国には古い町並みがいたるところに残されている。筑後吉井、筑前秋月、筑前山家、などなど。
ここ八女福島は、天正5年(1587年)に筑紫広門の福島城の城下町として開かれ、その後慶長6年(1601年)柳川に入城した田中吉政の支城として城は改修整備され城下町も整備された。そのときの町割りが今もそのまま残されている。
その後、徳川幕府の一国一城令により城は破却されたが町人町は残り、街道沿いの在方町(農村地域の商工業中心地)として発展した。
八女と言えば全国的にお茶が有名。その他にも、仏壇や提灯、和紙、酒などが今でもこの地域の特産として造り続けられ、往時の繁栄を今に伝えている。
福岡からは西鉄天神大牟田線の電車で西鉄久留米まで行き、そこからは八女行きのバスで40分くらい。筑後平野の南に位置し、あたりはお茶や果物の産地としても有名。
かなり広範囲に古い町家が広がり、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている面積は20ヘクタールに及ぶ。大和の今井町や河内の富田林のような密集度はないが、これから修理、再生される建物が増えれば、町の規模としてはかなりの大きさを誇り、景観的にも堂々たる町が復元されるものと期待される。城下町からスタートして商業地として発展した歴史は、大和の大宇陀にも似ている。
それにしても八女福島の町や、その盆地の有様は、なんと大和盆地に似ている事に驚く。盆地の北に広がる10数キロに及ぶ八女丘陵には石人山古墳や岩戸山古墳に代表される古墳群が東西に150-300存在していると考えられている。 筑紫の国造磐井の墓とされている岩戸山古墳から展望する八女盆地は南に脈々たる山々をひかえ、まさに大和盆地が三輪山を始め東山中の山々を背景にまほろばを形作っているのと非常に似ている。驚いてしまった。
ちなみに邪馬台国九州説論者の邪馬台国比定地の一つがここ八女だ。
町に戻ろう。町家の建物は最初は草葺き屋根だったが、江戸時代後期からはその経済力を背景に妻入りの「居蔵造り」の町家が増えてゆく。防火上の理由から瓦屋根、土蔵造りを進めたもので、他の町にも見られる建物「進化」プロセスがここでも見られる。
また明治以降、昭和初期に至ると、道路拡幅に伴い、軒切りが行われ建物正面一階の意匠が大きく変わる。また、洋風建物が出現し始め、木造の「和風」洋風建築は今となっては町の景観の多様性とその長い歴史を知らせるランドマークになっている。しかし、当時は大きく町の景観を損ねた事だろう。「景観」という概念があったかどうかは知らないが。
今の八女福島は、観光客の訪れもなく、町は静かに日常の生活を営む人々の姿に満ちていた。仏壇製造、提灯屋さん、清酒蔵元の堂々たる建物。小さな商店。八百屋さんも立派な古い建物で商売している。
あまり極端な建物の改築がない事がこの町が昔の景観のままに保たれている理由の一つだろう。その一方、荒れるに任せた居蔵造りの建物や、シャッターおろしたままの町家が哀れを誘う。いずれ保存修復されるのだろうか。いずれにせよ、皮肉にも近代化やバブルの波に取り残されたればこそ生き残った景観なのだ。これからこの町の生きる道がこうした景観修復と保存活用のなかに見いだされるかもしれない。ただテーマパークのようなスケルトンタウンにならず、また、観光目的で改造される町家風飲食店やおみやげ屋にも変質せず、地元の人々の生活とともに保存される為にはどうしたら良いのだろう。
(写真はゲットしたばかりのオリンパス・ペンE-P1での撮影)

ここ八女福島は、天正5年(1587年)に筑紫広門の福島城の城下町として開かれ、その後慶長6年(1601年)柳川に入城した田中吉政の支城として城は改修整備され城下町も整備された。そのときの町割りが今もそのまま残されている。
その後、徳川幕府の一国一城令により城は破却されたが町人町は残り、街道沿いの在方町(農村地域の商工業中心地)として発展した。
八女と言えば全国的にお茶が有名。その他にも、仏壇や提灯、和紙、酒などが今でもこの地域の特産として造り続けられ、往時の繁栄を今に伝えている。
福岡からは西鉄天神大牟田線の電車で西鉄久留米まで行き、そこからは八女行きのバスで40分くらい。筑後平野の南に位置し、あたりはお茶や果物の産地としても有名。
かなり広範囲に古い町家が広がり、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている面積は20ヘクタールに及ぶ。大和の今井町や河内の富田林のような密集度はないが、これから修理、再生される建物が増えれば、町の規模としてはかなりの大きさを誇り、景観的にも堂々たる町が復元されるものと期待される。城下町からスタートして商業地として発展した歴史は、大和の大宇陀にも似ている。
それにしても八女福島の町や、その盆地の有様は、なんと大和盆地に似ている事に驚く。盆地の北に広がる10数キロに及ぶ八女丘陵には石人山古墳や岩戸山古墳に代表される古墳群が東西に150-300存在していると考えられている。 筑紫の国造磐井の墓とされている岩戸山古墳から展望する八女盆地は南に脈々たる山々をひかえ、まさに大和盆地が三輪山を始め東山中の山々を背景にまほろばを形作っているのと非常に似ている。驚いてしまった。
ちなみに邪馬台国九州説論者の邪馬台国比定地の一つがここ八女だ。
町に戻ろう。町家の建物は最初は草葺き屋根だったが、江戸時代後期からはその経済力を背景に妻入りの「居蔵造り」の町家が増えてゆく。防火上の理由から瓦屋根、土蔵造りを進めたもので、他の町にも見られる建物「進化」プロセスがここでも見られる。
また明治以降、昭和初期に至ると、道路拡幅に伴い、軒切りが行われ建物正面一階の意匠が大きく変わる。また、洋風建物が出現し始め、木造の「和風」洋風建築は今となっては町の景観の多様性とその長い歴史を知らせるランドマークになっている。しかし、当時は大きく町の景観を損ねた事だろう。「景観」という概念があったかどうかは知らないが。
今の八女福島は、観光客の訪れもなく、町は静かに日常の生活を営む人々の姿に満ちていた。仏壇製造、提灯屋さん、清酒蔵元の堂々たる建物。小さな商店。八百屋さんも立派な古い建物で商売している。
あまり極端な建物の改築がない事がこの町が昔の景観のままに保たれている理由の一つだろう。その一方、荒れるに任せた居蔵造りの建物や、シャッターおろしたままの町家が哀れを誘う。いずれ保存修復されるのだろうか。いずれにせよ、皮肉にも近代化やバブルの波に取り残されたればこそ生き残った景観なのだ。これからこの町の生きる道がこうした景観修復と保存活用のなかに見いだされるかもしれない。ただテーマパークのようなスケルトンタウンにならず、また、観光目的で改造される町家風飲食店やおみやげ屋にも変質せず、地元の人々の生活とともに保存される為にはどうしたら良いのだろう。
(写真はゲットしたばかりのオリンパス・ペンE-P1での撮影)

2009年7月26日日曜日
オリンパス・ペン E-P1がやってきた!
珍しくデジカメで予約までして購入したカメラは、このオリンパス・ペンE-P1が初めて。
たいていは画像エンジンの初期ロットのバグが取れて、価格もこなれて、初物食いの人たちの意見を良く聞いて(ネットで見て)からで十分なのだが、オリンパス・ペンへの思い入れが激しい分だけ、発売前に飛びついてしまった。
予定通り発売日の7月3日には配送されてきた。
ワクワクしながらの使用感を一言でいうと、期待通りの道具に仕上がっている。しかし、その期待感は決してニコンやキャノンの中級以上のデジ一に対するそれではない。往年の、ニコンFシリーズとは異なるペンFシリーズに対する期待感と同じものである事を断っておくが。
1)思ったより、小型。しかし重量感がある。これは外装の金属度が影響しているのだろう。もともと軽量なカメラはなにか品格に欠ける気がして、その偏見をこのペンは見事に打ち砕いてくれている。ホールドもよい。
2)ファインダーがない点。ちょっと違和感を感じた。ライブビューだけというのは、何かコンデジ的で.....17mmレンズ用のビューファインダーが予約購入客にはオマケでついてきた。こちらはプラスチック製でなんか軽い。近々リコーGX200のような電子ビューファインダーが用意される予定もないようだ。ホットシューにもそれらしい接点は用意されていない。しかし、これはこれで新しい撮影スタイルでいくしかないだろう。
3)幸い手ぶれ補正はオリンパス独自にボディー内センサー振動式で、有効に働いている。
4)レンズは標準ズームと、17mmパンケーキの2種類が合わせて出されたが、描写は秀逸。非球面レンズ使用でその割には価格もこなれていて好ましい。個人的にはプラスチック鏡胴が気に入らないが。
5)マイクロフォーサーズの良いところは、ボディーフランジバックが小さい事。よってマウントアダプターで様々なレンズが使用出来る。純正でオリンパスOMシリーズレンズ用とフォーサーズレンズ用が用意されているが、その他にもパナソニックからはライカMレンズ用も用意されている。
早速ライカM50mmズミクロンをパナソニックアダプターで装着してみた。ボディーとのバランスもよい。レンジファインダーM8と異なり、ライブビューでズミクロンの画が見える事には正直感動!手ぶれ補正も焦点距離設定する事で機能するのはうれしい。オリンパスOMアダプターもゲット。
早速持ち出して、九州出張の週末に福岡県八女福島の伝統的建造物保存地区と岩戸山古墳の撮影に出かけた。Rawでもさくさくと軽やかに撮れる。コンデジ感覚で撮れるが、シャッター音が心地よい。画を切り取る、という感覚だ。
しかし、初物には注意が必要である事をすぐ知る事となった。
帰ってから、撮影結果をMacに落とし込んで眺めて愕然!快晴の岩戸山古墳の写真が、なぜかISO感度1600で撮れている。全てがザラザラのノイズ。せっかくの紺青の空と古墳の鮮やかな緑が台無しだ。
これは撮影中にボディー背面のISO感度設定ボタンに知らないうちに指があたり、オートがずれて1600に設定されてしまったためだ。ガックリ。こんなにコンパクトにしたらやはり操作系には注意しないと、こんなことが起こってしまう。
Raw撮影すると付属のソフトでしか現像出来ない。MacのApertureやiPhotoはまだサポートしていないようだ。ファイルが読み出せない。
先ほどの失敗やそれやで八女福島/岩戸山古墳旅行レポートがまだアップ出来ていない。
まだまだこれからだが、ファーストインプレッションは最高だ。久しぶりに興奮する写真機に出会えた。
たいていは画像エンジンの初期ロットのバグが取れて、価格もこなれて、初物食いの人たちの意見を良く聞いて(ネットで見て)からで十分なのだが、オリンパス・ペンへの思い入れが激しい分だけ、発売前に飛びついてしまった。
予定通り発売日の7月3日には配送されてきた。
ワクワクしながらの使用感を一言でいうと、期待通りの道具に仕上がっている。しかし、その期待感は決してニコンやキャノンの中級以上のデジ一に対するそれではない。往年の、ニコンFシリーズとは異なるペンFシリーズに対する期待感と同じものである事を断っておくが。
1)思ったより、小型。しかし重量感がある。これは外装の金属度が影響しているのだろう。もともと軽量なカメラはなにか品格に欠ける気がして、その偏見をこのペンは見事に打ち砕いてくれている。ホールドもよい。
2)ファインダーがない点。ちょっと違和感を感じた。ライブビューだけというのは、何かコンデジ的で.....17mmレンズ用のビューファインダーが予約購入客にはオマケでついてきた。こちらはプラスチック製でなんか軽い。近々リコーGX200のような電子ビューファインダーが用意される予定もないようだ。ホットシューにもそれらしい接点は用意されていない。しかし、これはこれで新しい撮影スタイルでいくしかないだろう。
3)幸い手ぶれ補正はオリンパス独自にボディー内センサー振動式で、有効に働いている。
4)レンズは標準ズームと、17mmパンケーキの2種類が合わせて出されたが、描写は秀逸。非球面レンズ使用でその割には価格もこなれていて好ましい。個人的にはプラスチック鏡胴が気に入らないが。
5)マイクロフォーサーズの良いところは、ボディーフランジバックが小さい事。よってマウントアダプターで様々なレンズが使用出来る。純正でオリンパスOMシリーズレンズ用とフォーサーズレンズ用が用意されているが、その他にもパナソニックからはライカMレンズ用も用意されている。
早速ライカM50mmズミクロンをパナソニックアダプターで装着してみた。ボディーとのバランスもよい。レンジファインダーM8と異なり、ライブビューでズミクロンの画が見える事には正直感動!手ぶれ補正も焦点距離設定する事で機能するのはうれしい。オリンパスOMアダプターもゲット。
早速持ち出して、九州出張の週末に福岡県八女福島の伝統的建造物保存地区と岩戸山古墳の撮影に出かけた。Rawでもさくさくと軽やかに撮れる。コンデジ感覚で撮れるが、シャッター音が心地よい。画を切り取る、という感覚だ。
しかし、初物には注意が必要である事をすぐ知る事となった。
帰ってから、撮影結果をMacに落とし込んで眺めて愕然!快晴の岩戸山古墳の写真が、なぜかISO感度1600で撮れている。全てがザラザラのノイズ。せっかくの紺青の空と古墳の鮮やかな緑が台無しだ。
これは撮影中にボディー背面のISO感度設定ボタンに知らないうちに指があたり、オートがずれて1600に設定されてしまったためだ。ガックリ。こんなにコンパクトにしたらやはり操作系には注意しないと、こんなことが起こってしまう。
Raw撮影すると付属のソフトでしか現像出来ない。MacのApertureやiPhotoはまだサポートしていないようだ。ファイルが読み出せない。
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2009年7月23日木曜日
天照大神と皆既日食
昨日は、今世紀最長の皆既日蝕で、インドからブータン、上海、トカラ列島悪石島、小笠原諸島硫黄島で大勢の人々が、様々な想いで宇宙の奇跡を眺めた。
その時、東京に居た私は、某社の会議室に居て世紀の天体ショーを楽しむ事は出来なかった。もっとも東京の天気は曇り。負け惜しみじゃないが、どうせ見れなかったんだ。
この宇宙の不思議は、今でこそ、そのメカニズムが解明されていて、何時どこで見れるかを事前に知る事すら出来る訳だけど、時空トラベラーとしては、古代に戻って、あるいは神代の昔に戻って、その時人々に何が起こったのかを見てみたい。それもまたエキサイティングな体験だろう。
天照大神が天岩戸にお隠れになって闇が訪れ、そして再びこの世に姿を現されて昼が戻った、というのは本当だったんだなあ、と。
その時、東京に居た私は、某社の会議室に居て世紀の天体ショーを楽しむ事は出来なかった。もっとも東京の天気は曇り。負け惜しみじゃないが、どうせ見れなかったんだ。
この宇宙の不思議は、今でこそ、そのメカニズムが解明されていて、何時どこで見れるかを事前に知る事すら出来る訳だけど、時空トラベラーとしては、古代に戻って、あるいは神代の昔に戻って、その時人々に何が起こったのかを見てみたい。それもまたエキサイティングな体験だろう。
天照大神が天岩戸にお隠れになって闇が訪れ、そして再びこの世に姿を現されて昼が戻った、というのは本当だったんだなあ、と。
2009年7月7日火曜日
日帰り邪馬台国ツアー
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| 奈良県立橿原考古学研究所ミュージアム 背後は畝傍山 |
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| 中庭 |
時空トラベラーにとって、日本における行ってみたい場所ナンバーワンは、なんと言っても邪馬台国だ。そもそもどこにあるのか未だに不明で、始めからミステリーツアーになる事がはっきりしている。
その時空のワンダーランド行きの列車が出るプラットフォームは、残念ながらロンドン/キングスクロス駅プラットフォーム9と3/4番線ではなく、近鉄大阪上本町駅プラットフォーム7番線だ。または(九州に邪馬台国があると考える場合には)西鉄福岡天神駅のプラットフォーム2番線だ。今回は上本町から出発する事としよう。しかし直通の列車はなく、大和八木経由で畝傍御陵前で下車。そこからは、とある著名な考古学研究所で、時空列車に乗り換える事になる。畝傍山の麓にある写真の建物がそれだ。
この研究所には幾多の考古学的発掘の成果が展示されており、ヤマトの歴史旅に必要な「どこでもドア」がいたるところに用意されている。まずホールには大和盆地のジオラマがあり、その案内板のボタンを押すと邪馬台国方面への路線図が現れる。薄暗い展示ホールへと移動すると、三輪山の山麓に広がる纏向遺跡と箸墓古墳のコーナーがあり、そこが邪馬台国に通じる始発駅だ。ここから先は時刻表もない旅となる。ここでツアーの大体のアウトラインを掴んでから現場へ繰り出すのが良いだろう。
ミュージアムを出たら、三輪山の麓を目指して、まずは箸墓古墳に向かうとしよう。卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳だ。ここは宮内庁の参考陵墓に指定されている為、多くの発掘調査は期待出来ない。しかし国立民俗学博物館が進めている放射性炭素年代測定法により、その古墳周辺部から出土した土器の炭素測定を行った結果、箸墓古墳が西暦240年から260年、すなわち邪馬台国の女王卑弥呼の時代に築造された古墳である事が証明された、という報告が考古学界に衝撃を与えている。7月4日の日本経済新聞の文化欄にその内容が解説されているが、中国の魏志倭人伝によれば卑弥呼がなくなったのは247年であるから、これらを突き合わせると、やはり箸墓古墳は卑弥呼の墓であった可能性が高い、と。これが事実であれば長く論争されてきた邪馬台国位置論争は決着を見、三輪山山麓に広がる大和古墳群や纏向遺跡は邪馬台国の遺構である事がほぼ確定する事になる。
しかし、この卑弥呼の墓説には、少ない試料での結論付けは疑問、などの批判も寄せられている。仮に年代が同年代だとしても、卑弥呼が葬られている証拠はまだ見つかっていない。専門家ではないので詳細に立ち入るすべもないが、少なくともここ大和地方、とりわけ、古代より神聖な地域とされてきた三輪山の麓一帯に弥生後期から古墳時代初期に、こうした大型古墳を造営することができた強力な王権が成立し、その都市(国家)が存在していた事は事実だろう。そこを「邪馬台国」と呼ぶか否かは別として、初期ヤマト王権の発祥の地であると言って良い。。
さらに歩を進めると眼前に纏向遺跡が広がる。とうとう邪馬台国に足を踏み入れる? 水路の跡や建物の跡らしい一角が見つかっているが、まだほんの一部しか発掘されていない。ここは唐古鍵遺跡のような稲作生産を旨とする環濠集落ではなく、あまり生活臭のない広大で人工的に開発されたまた都市域である。ここがただの古代集落ではない事を予感させる。三輪山という神聖な地域、その神域を避けるように散在する大和古墳群。巨大な初期前方後円墳である箸墓古墳。古代の国の有様が目の前に現れる。佐賀の吉野ヶ里遺跡のように、もともと工業団地誘致目的に開発が始まり、あたりに住宅も少なかったため、発掘により環濠集落の全容が明らかにされたのとは異なる。この地域は都市化が進み、一方では宮内庁所管の参考陵墓が散在する地域である為、一気に発掘や被葬者についての解明が進みにくい。しかし、この古代の都市跡には邪馬台国を中心とした当時の倭国の全容解明の大きな可能性が感じられる。
一世紀には今の福岡市にあった奴国が倭国を代表する国として、その国王が後漢の光武帝から金印を得ている(漢委奴国王印)。後漢書東夷伝という当時の史書にその記述があり、実際にその金印が奴国近くの志賀島で発見される。これなどは史書の記述が具体的な考古学的発掘物により証明された稀有な例だろう。当時の先進国の中華皇帝に朝貢/冊封関係を持てた倭国の中心は北部九州にあったのだろう。しかし200年ほどの間に北部九州文化圏を凌駕する文化圏が近畿に出現したようだ。倭国の中心が九州から近畿へ移ったのだろう。それは邪馬台国が九州にあって、何らかの理由で近畿に遷移したのかもしれ
ない。あるいは、そもそも近畿圏に出現した国が北部九州を優越する国に発展し、それが邪馬台国であったのかもしれない。あるいは邪馬台国と纏向の初期ヤマト王権との繋がりはないという説もある。魏志倭人伝の記述だけではなんとも言い難い。
一方、日本書紀や古事記などの8世紀初頭に編纂された我が国の官製の史書によれば、神代に日向の高千穂に天孫が降臨してきて我が国を創造した事。神武天皇が日向から東征し大和を平定した事が語られている。これらが歴史上の事実ではないにしても、日本の文明は、何らかの理由で西から東へと発展していった事実をうかがわせるものなのだろうか。一方、天孫降臨神話は記紀編纂当時、大和朝廷の権威が九州の南部熊襲の地域にまで及ぶ事となったことから、皇統の神秘性を演出する為に、わざわざ九州に起源を求めて脚色された神話であるする説。また神武天皇の東征神話も、7世紀に起こった壬申の乱で後の天武天皇、すなわち大海人皇子が近江を攻め、大和を平定したルート、史実に沿って時代を1000年以上さかのぼって脚色したものだ等、様々な解釈があり、どれを信じるべきか。とにかく謎は謎を呼ぶ。
日本の建国の歴史にはまだまだ明らかにされていない事実が山ほどある。歴史学者は文献による考証を試みるが、現存する当時の文献はほぼ中国の史書しかなく、我が国の歴史書である日本書紀や古事記は、先に述べたようにようやく8世紀になって、大和朝廷が天皇を中心に政権基盤を確立した時代の(そして、その天皇支配の正統性を裏付ける為の)史書であり、その内容にはかなりの脚色があって、全てを史実であると考えるのは難しい。それぞれのエピソードに解釈が必要である。一方、考古学的成果は、文献研究を主とした歴史研究の不足部分を補い、証明する事を試みるが、必ずしも大きな時間的空白をうめるだけの証拠は上がっていない。いまだ決定的なものは見つかっておらず、邪馬台国の位置や卑弥呼の墓についても状況証拠の積み上げで説明しようとしているにすぎない。先ほどの倭の奴国の金印に匹敵する魏の印が発掘されれば話は別だが。
私は歴史学者でもなければ考古学者でもない。ただのカメラぶら下げた時空トラベラーである。新しい事実を知る事に心は踊るが、解き明かせない謎が多い方が楽しい。幸いな事に一気に謎が氷解する事は当面なさそうだ。であればまた不思議なプラットフォームから出る列車で、未知のデスティネーションに向けて出発するロマンと興奮という楽しみを失う事はないだろう。
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