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2009年9月7日月曜日

柳本古墳群 古代ヤマトを歩く (その2)




JR桜井線の柳本駅からまず黒塚古墳を目指す。暑い!真っ青な夏空の下、太陽が容赦なく照りつける。遮るモノもなし。買ったばかりの帽子が役に立つ。そもそも帽子姿の自分がとっても嫌いなのだが、そんな事言ってられない。
カメラが熱くなっている。

柳本はこの辺りでは比較的大きい集落だ。古代の官道「上つ道」が集落を南北に貫く。この「上つ道」を横切り、駅から5分ほど東へ歩くと右手に黒板塀の堂々とした屋敷が見え、その左手に掘割と前方後円墳が見える。ここが景初3年の年号入りの三角縁神獣鏡が33枚と画文帯神獣鏡1枚が出土した黒塚古墳だ。このときは、これこそ魏志倭人伝に記述がある卑弥呼に贈られた魏鏡100枚の一部で、邪馬台国がここ大和地方にあった事を証明するものだ、と騒がれたものだ。

その後、三角縁神獣鏡は九州を含め全国の古墳から続々と500枚余り出土し、どれがオリジナルの魏鏡でどれが国内で製造されたコピーなのか解明出来ないこと、そもそも中国では一枚も出土していないことなどで、本当にこれらが魏鏡なのかが確認出来ていない。結局、邪馬台国論争における黒塚古墳熱は冷めてしまったかに見える。

古墳そのものは円墳部の頂上に埋葬する竪穴式で、古墳時代初期、すなわち3世紀後半から4世紀前半の築造であろうと言われている。被葬者は特定出来ていない。石室部分は古墳の規模に比してかなり大きく、また盗掘を受けていないため副葬品もよい状態で出土している。その出土状況は隣接する資料館に復元されている。現地は埋め戻されており、石室を示す表示が設置されている。

円墳部頂上は眺望が開けており、遠くに箸墓古墳、さらには三輪山、大和三山が見渡せる。一体は発掘後美しい公園として整備され、周囲は掘割を隔てて重厚な屋敷群に囲まれており、古墳というよりは城跡のような雰囲気をただよわせている。

ちなみに、この古墳部は「黒塚」と呼ばれ、中世から戦国時代にかけて砦として利用されたようで、その遺構も見つかっている。また江戸時代には柳本織田家の拠点として活用され、黒塚の東には広大な織田家屋敷が(いまは小学校になっている)、また堀割り周辺には武家屋敷が(先ほどの堂々たる黒板塀のお屋敷もそうか)広がっていた。だからなんだ。柳本の集落がやや城下町的な雰囲気を保っているのは。大和におけるその後の織田家と言えば、大宇陀の松山も織田信雄の末裔が住んだ城下町だった。

黒塚古墳から東へ向かうと、国道を隔てて行燈山古墳(宮内庁管理の崇神天皇陵)が威容を誇っている。ここからはいわゆる「山辺の道」が南北に山麓を縫うように様々な史跡をつないでいる。「山辺の道」をやや南に下るとやはり大型の渋谷向山古墳(宮内庁管理の景行天皇陵)が。いずれも濠に取り巻かれた大王の陵墓にふさわしい堂々たる造りだ。

柳本古墳群にはこの二つの大型古墳を中心に、廻りには中小の古墳が集積している。先ほどの黒塚古墳も行燈山古墳が立地する丘の稜線上に位置している。すぐ後ろ(東側)には竜王山がそびえ、その山麓に繋がる傾斜地の高台から見渡す大和盆地の景観は素晴らしい。ヤマト王権の地にふさわしい位置だ。逆に、これらの威容を誇る巨大建造物は、下から見上げる民にとっては大王や豪族達の権威のシンボルに見えたことだろう。

多くの中小古墳群は天皇陵の培塚だと言われているが、そもそもこの二つの大型古墳が天皇陵であるかどうかはまだ調査、確定されていないので、培塚と言い切れるか結論付けは出来ない。また濠も後の世に農業用として構築されたものもあり、天皇陵だから周濠があるという訳でもなさそうだ。

被葬者と言われている崇神天皇は、日本書紀に「ハツクニシラススメラミコト」と記されており、事実上の最初のヤマト王権の大王であったと言われる。神武天皇と、その後の八代の天皇は「欠史八代」として実在せず、8世紀の日本書紀編纂期に創出された天皇であろうとされている。崇神天皇の四道将軍伝承や景行天皇の皇子、日本武尊が東征、西征して倭国を平定した事など、史実であったかどうか確認できない点もあるが、どうやら崇神天皇が実在の大王であった事は学会の定説になっているようだ。また崇神、垂仁、景行と続く3代の大王全て実在したかどうかは議論があるが、初期ヤマト王権あるいは第一次ヤマト王権(三輪王権)がこの地に打ち立てられたのはこの頃だとされている。。

そうだとすると3世紀半に現れたという崇神天皇は、魏志倭人伝に記述がある3世紀初頭に亡くなった邪馬台国の女王、卑弥呼、その跡を継いだとされる女王、薹与(トヨ)とどのような関係なのか興味深い。魏志倭人伝以降、薹与が遣使したという記述の後、中国の史書に倭国の名が現れるのは5世紀に入ってからで、倭王武が時の南朝に上奏し、安東将軍の称号を得たという記述まで「倭国情報」は途絶えている。いわゆる空白の4世紀である。この間の倭国の政権交代の状況が分からない。ちなみに崇神天皇が実在の人物だとしても、その事と行燈山古墳が崇神天皇の墓である、という証明とは別の事である。

大和古墳群のなかでも、ここ柳本古墳群は大型古墳とそれを取り巻く数々の古墳に彩られたいわば「王家の谷」ならぬ「王家の丘」とも言うべき景観を作り出している。ただ問題は、これだけの墓がありながら、後の時代に破壊されたり、宮内庁管理で出入りを禁じられたりで、充分な考古学的調査が出来ておらず、正確な被葬者を特定出来ないのがもどかしい。ヤマトの歴史、古代の日本の歴史の解明にはまだまだ時間が必要なのか。

帰りは、渋谷向山古墳から田んぼの中のだらだら坂を真っ直ぐ西へ向かい、「上つ道」で左折して古い町並みを見ながら桜井線巻向駅から帰途についた。暑い一日だった。









































































2009年8月18日火曜日

纒向遺跡と箸墓古墳 古代ヤマトを歩く





最近、あらためていろいろ古代史に関する本を読みあさっていると、主に考古学分野での研究成果の蓄積により、永年の「邪馬台国位置論争」にも一定の答えが見えてきたような気がする。 もちろん位置を特定する決定的な証拠(例えば当時の地図、親魏倭王の金印、卑弥呼を特定出来る遺物など)が出てこない限り、断定的に証明されないのだが、そんなモノが発見される可能性は極めて低いから、あくまでも状況証拠で判断するしかない。 

で、どうも邪馬台国はやはり大和、特に桜井市の三輪山の麓一帯にあったのではないか、という感がしてきた。学問の世界では明確な科学的根拠がない限り軽々に結論付けることは慎まねばならないから、研究者は誰も断定したがらないが、時空の旅人はとりあえずそう結論付けて旅を楽しむのもまた一興だと思う。

個人的には、邪馬台国九州説を信じたい。1世紀の「漢委奴国王」のクニ以来、3世紀半ばの「親魏倭王」卑弥呼の死まで当時の倭国の経済的、文化的先進地域であった九州(特に北部九州)に奴国や伊都国といった有力なクニグニとともに邪馬台国があった、中国の後漢や魏の王朝の権威を利用して筑紫連合、さらには「倭国大乱」へて倭国連合を形成していった、と考える方が自然であるような気がする。しかし、あくまでもそれを証明する証拠(状況証拠であれ)は見つかっていない。また考古学的検証からはヤマト王権の基になるクニが九州にあって、それが東遷して近畿へ移った事を立証することもできていない。文献的には魏志倭人伝の記述が奴国、伊都国の南の九州島内にあるかのような表現になっている事から、邪馬台国九州説が出てきたのだが、その記述が誤りで、東方向への行程と読み替えると、むしろ近畿の方がしっくり来る。

私の邪馬台国九州説支持の立場は、文献や考古学的考察によるものというよりは、もともとは個人的な願望や、「そうだと面白いのにな」という空想的ロマンによるものである。残念ながら..... また筑紫のクニグニを育む地理的景観が大和の景観にきわめて似ており、古代のクニの発生、都市、王都建設の位置選定に共通のものを感じることも一因であった。福岡で育ち、周囲に数多くの遺跡や金印などの出土品や、それらしい地名が多かった事から夢が膨むのもやむを得ないだろう。

一方、邪馬台国近畿説論者にとっては有利な、それなりに説得力のある証拠が出てきている。

まず第一に三輪山麓に広がる纒向(まきむく)遺跡。弥生後期から古墳時代初期の纒向遺跡は全体のまだほんの3%ほどしか発掘されていないが、他の地域の稲作を中心として形成された環濠集落、クニ、とは異なり、指導者の意図と一定の計画に基づき造営された「都市」である様子が明らかになりつつある。しかもそこには当時の倭国各地から人々が集まったであろう事を推定させる各地の特色を示す土器が大量に出土している。もっとも宮殿や大掛かりな祭祀を行ったと見られる建物などの遺構はまだ見つかっていない。ひょっとすると、周辺に広がる大規模古墳の築造に駆り集められた各地の人々の「飯場」の跡かもしれないが。今後の発掘成果が期待される。

第二に箸墓(はしはか)古墳。卑弥呼の墓ではないかと言われてきたが、最近の年代測定法によれば、箸墓古墳は3世紀中葉に造営された可能性が高く、従来の古墳時代の始まり年代よりもさらに弥生時代後期にくい込む年代に造営されたらしい、と。卑弥呼の死、その後に「大いに塚を造る」という魏志倭人伝の記述にも年代的に符合する。この3世紀最大の前方後円墳はなぜこの纒向/箸中の傾斜地に造営されたのか。

最近の研究成果の詳細をここで記述して論ずるつもりはないが、こうした考古学的調査に基づく証拠だけでは何とも満足出来ないのが「時空トラベラー」の性質であり、まず現地へ行ってあたりの「空気」を嗅いでみねば,という事になる。

いつもの「邪馬台国ツアー」出発駅、近鉄大阪上本町を出発、近鉄桜井駅へ。そこからJR桜井線に乗り換えて一駅目。三輪駅で降りる。三輪神社へ向かう参道にでるが、今回は大鳥居近くの桜井市埋蔵文化財保存センターへ。そこで発掘調査の成果を概観してから、南北に走る古代官道の一つである、上つ道を北上する。 両側に大和路の風情を感じさせる古い民家を見ながらの家並を抜けると、道は左手に箸墓古墳の円形部分をカスって箸中集落に入る。いよいよ古代ヤマトのど真ん中。JR桜井線の無人駅である巻向駅近くに纒向遺跡の発掘跡がある。大溝の遺構が見つかったところだ。再び巻向駅を左に見ながら線路を渡り、山辺の道に向かって緩い上り坂を歩む。青空に積乱雲がまぶしい真夏のヤマト。暑い。

纒向のゆるい傾斜地の中程に立ってあたりの風景を見回すと、古代人が好む甘南備型の山容(低くてなだらかな三角形の山)の三輪山と纒向山、初瀬山の三山が背後に控え、大和青垣山系が纒向扇状地の東に壁のようにたたずむ。古代都市、クニの舞台設定としては理想的な地理的環境に見える。 ふと見上げると真っ青な空を背景に青垣と三輪山の上に夏雲がせり上がっている。あたりは「とよあしはらみずほのくに」にふさわしい田園地帯が広がり、箸墓古墳は緑の海原に浮かぶ島のようだ。さらに彼方に二上山を背景に美しい大和国中の風景が一望の下に見渡せる。

しかし当時はこのような扇状傾斜地では水耕栽培での稲作は無理だった。集落の周囲を取り巻く掘り割りを形成する事も困難であった。現にここでは縄文時代の集落遺跡は発見されているが、弥生時代の環濠を伴う耕作集落遺跡は発見されていない。そのような事からも、ここ纒向遺跡はこれまでの弥生系の農耕を目的に形成された集落、クニとは異なり、「都市」あるいは初期ヤマト王権の「王都」として建設されたのかもしれない。さらに後世までここが「都市」ないしは「王都」として存続した形跡も実はない。4世紀中頃に突然消滅しているのだ。やっぱり土木工事の「飯場」跡かな。

この纒向、箸中の微高地上には数多くの古墳が点在している。大和(おおやまと)古墳群だ。特に箸墓古墳は3世紀後半、古墳時代初期最大(278m)の前方後円墳で、その近くにも南北約8キロの地域(いわゆる「山辺の道」沿い)に渋谷向山古墳(景行天皇陵)や行灯山古墳(崇神天皇陵)などの古墳時代前期の巨大前方後円墳が並んでいる。また卑弥呼の鏡とされる、三角縁神獣鏡が33枚も発見された事で騒がれた黒塚古墳や、埋葬形式が確認出来るホケノ古墳などなど。

古墳造営にはこれを築造出来るだけの技術と人をかき集める事の出来る権力、財力が必須であるから、弥生時代末期の3世紀以降にこれだけの古墳の主がいたことになる。この中の誰かが初期ヤマト王権を造った大王であったとしても不思議ではない。それが倭国連合の統合の象徴として各クニグニの王によって擁立された邪馬台国の卑弥呼だったのかもしれない。箸墓古墳は宮内庁の参考陵墓で、発掘はおろか立ち入りも許されていないので謎は解明されないままだが、記紀によれば倭トトト日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であるとされている。

こうしてこの地にたたずんでいると神聖なる三輪山の麓の大和古墳群や纒向遺跡のあたりが、やはり邪馬台国だったのだ、という「気配」を感じる。少なくとも初期ヤマト王権発祥の地で、ここから大王の時代を経て、天皇(すめらみこと)を中心とした大和朝廷の体制へと変遷していったのだろう、と。

しかし、そうだとしたら、それはそれで新たな疑問がわいてくる。大陸文化との交流の窓口であり、当時の倭国の最先進地域であった北部九州ではなく、大陸からはなれ、外海から隔絶された瀬戸内海に接する近畿にどのようにして強大なクニ、政権が生まれたのか。やがては先進地域であった北部九州の筑紫王権を併合してゆくほどの政権に成長していくわけだが。

また、壬申の乱後の7世紀、天武朝から編纂された日本書紀や古事記に記されている、天孫降臨神話や神武天皇の九州日向からの東征神話が史実に基づくものではないにしても、日本の文明が大陸に近い西から東へ発展していった事を示唆しているのではないか?という疑問にどのように答えうるのだろうか。

当時は中国や朝鮮半島の動乱の時代。こうした東アジア情勢とは無関係な立場に倭国が置かれていたとは思えない。倭の王達に権威を与える中華帝国の皇帝にも、文化や技術を伝える朝鮮半島の王にも大きな変遷があった時代だ。大陸から多くの亡命者や難民も押し寄せたであろう。こうした動きが倭国連合の形成、やがてはヤマト王権確立にどのような影響を与えたのか。

邪馬台国位置論争は、すなわちヤマト王権の成立過程、倭国におけるヤマト体制の確立過程の解明論議の一側面に他ならない。古代史の謎はまだまだ解明されてない事が多い。いろいろ想像しながら大和や筑紫を巡る「時空旅」はまだまだ続く。












































2009年8月16日日曜日

終戦の日

8月15日は終戦記念日。ヒロシマ、ナガサキの原爆の日に続いて.....鎮魂。
真夏の太陽がジリジリと照りつけ、この世に生きるものは死者の業火の苦しみに想いを馳せる。先の大戦で亡くなった多くの人々の御霊を弔う。何と、この戦争で日本人だけでも310万人が亡くなった......
64年前のあの時、日本人は今では想像もできないような毎日を送っていた。数々の時空を超えた旅行の中でももっとも生々しく重い時空トラベル、これが64年前へのタイムスリップ。

西欧列強のアジアにおける帝国主義的植民地支配を排除するとして、一時はアジアの開放者にも見えかけた日本。結局は西欧列強に対抗する後発者としてアジア植民地支配の道に走ってしまった日本。その結果アジアの同胞に取り返しのつかない災いをもたらした歴史の事実は今さら語る必要もないが、この戦争は日本の国民にも未曾有の災いをもたらした事も忘れてはならない。本来「国民」を守るべき「国家」が「国民」を苦しめる。その事を感じずにはいられない。

ヒロシマの、ナガサキの原爆で、東京大空襲で何十万という市民がわずかな時間の間に殺戮された。沖縄では市民を巻き込んだ戦闘が。南方の島々での血みどろの戦闘で、無謀な作戦遂行の中で、大陸での行軍の中で、飢餓で、病気で、極寒の大地からの逃避行のなかで、抑留された収容所で、絶望的な特攻攻撃にかり出されて、頭上に炸裂した爆弾や焼夷弾で.....  普通に暮らしていた「国民」が、戦地にかり出され、国策で植民地へ移住させられ、内地に居て空襲にみまわれ、死なねばない事態に追いやられた悲劇。家族や友人を失う悲しみを味わわされた。

日本という国家の誕生以来、この民族がかつて経験した事もない悲劇にみまわれた。二度とこのような過ちが繰り返されない為の反省とケジメは出来たのか? 戦勝国が戦敗国に対して行った「裁判」では何の問題解決になっていない。国民あるいは市民の立場からの戦争の加害、被害についてなにも裁かれていない。「人道に対する罪」というなら戦勝国側の指導者にも負ってもらわなければならない。戦争を引き起こした「国家」は「国民」に対してどのように責任を負うのか? また「国家」が戦争へと突き進む事態を止められなかった「国民」は、その無力さをどのように反省し、民主主義と平和と自由を守っているか?

8月は旧盆でもあり、彼岸に旅立った者とこの世に生かされている者が相見える季節である。
今年はまた集中豪雨や台風で多くの方々が亡くなった。
あの日航機が群馬県の御巣鷹山に墜落したのもこの月。
ため息をつきたくなるほど多くの死者の霊がこの季節、何を我々に語りかけてくるのか。 
毎年8月にやってくる戦没者慰霊祭や原爆慰霊祭、各地で行われる精霊流しを季節の風物詩として眺めることはできない。暑い暑い夏を今年も過ごす。

2009年8月8日土曜日

筑紫君磐井 ヤマト体制組入れに抗戦 その時東アジア情勢は.....


 東西10数キロに及ぶ八女丘陵は、12基の前方後円墳を含む約300基の古墳からなる八女古墳群を背負う。
中でも岩戸山古墳は九州でも最大級の前方後円墳で、東西約135m、後円部直径約60m、高さ約18mで、周濠、周堤を含むと全長約170mにも及ぶ。この古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記述にあるように、筑紫君磐井の墳墓である。このように古墳造営者と年代が分かっている古墳は全国的にも珍しい。

 岩戸山古墳には一辺43mの方形の別区が存在しており、ここに珍しい石造りの人形、動物、器具等(石人、石馬、犬、鶏、盾、刀など)が並んでいた。いまはそのレプリカが置かれており、オリジナルは近くにある岩戸山歴史資料館に保存展示されている。こうした石像はこの辺りで見られる阿蘇凝灰岩で造られたもので、同時に円筒形埴輪も出土していることから、粘土製の埴輪の代わりに石製のものを、しかも等身大を基本に並べた、と理解されている。

 要するに6世紀初頭に、ここ筑紫の地にはこれほどの墳墓を構築出来る(ヤマトの大王クラスの)権力者が存在していたことを大和朝廷成立後8世紀になってに編纂された官製の史書である日本書紀も認めているわけだ。考古学的にも八女丘陵に集約された300からなる古墳群の存在も、ここにヤマトに匹敵する倭国の権力基盤が存在していたであろう事を物語っている。

岩戸山古墳
別区の石人、石馬像

ヤマト王権/天皇支配体制の正統性を記録する為に編纂された日本書紀の記述によれば、磐井は「筑紫の国造」、すなわちヤマト王権の地方長官であり、中央の「大和朝廷」の意向に反して、ヤマト王権が軍事的に同盟を結んでいた朝鮮半島の百済に敵対する新羅から「賄賂」を受け取って「反乱」を起こした、となっている。しかし、この当時の「大和朝廷」の倭国支配権はまだ充分に確立していたとは言えない。そもそも「朝廷」など未だ成立していない時代である。とりわけ歴史的、経済的、外交/軍事的、文化的にも倭国の一大先進地域であった筑紫のヤマト体制編入には随分時間を要したはずだ。当時の磐井は筑紫を支配する大豪族で、いわば筑紫の「大王」ともいえる、ヤマト体制からは独立した存在だったのであろう。従ってヤマト体制の地方官僚職である「国造」でもなければ、その地方官僚が新羅から「賄賂」を受け取ってヤマト/百済同盟に「反乱」を起こしたのでもなく、筑紫の大王が、百済と同盟したヤマトの大王と争って、その倭国における権力基盤と経済的支配権を確立する為に新羅と同盟した。そして筑紫におけるその支配権を簒奪しようとしたヤマト政権に対抗した、というのが正しいだろう。




しかし、結局は磐井はヤマトの大王、継体天皇から派遣されてきた物部荒甲(あらかひ)の軍と2年に渡る闘いの後敗れて殺され、その子が糟屋の屯倉をヤマト政権に差し出し筑紫はヤマト体制に組み入れられる事になる。磐井の一族は息子を含め滅ぼされる事はなく、ヤマト体制に移行して後の筑紫の安定を果たす役割を期待されている。遠征軍による支配は困難である事と、その地方の有力者が体制に帰順してくればそれに勝る支配はない事。洋の東西を問わぬ人類の歴史的経験だろう。

 一方、この紛争は倭国と当時の中国、朝鮮半島を含む東アジア情勢の変化の中での出来事である。歴史的にも1世紀の「漢委奴国王」時代以来、6世紀の初頭まで、倭国の政権は中国への柵封外交政策を取り続け、政権のレジティマシーを維持しようとしていたのだから。倭国の支配権をより上位の権威によって正当化する作業を脈々とし続けてきた。晋書に倭の五王の記述があり、さらに宋に遣使した倭王武(雄略天皇)の上奏に、自ら甲冑をつけ、「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」と。大王自ら中国皇帝の藩塀として東辺の蛮族を征討して地域の安寧を保つ努力をしているのでその権威を保証してくれ、と頼んでいる。大陸により近い筑紫の権力者は歴史的にヤマトの権力者よりも、より緊密に朝鮮半島や中国との外交関係をコントロールする能力に長けていても不思議ではない。多くの渡来人も筑紫にはいたであろう。官製の史書には出てこないが磐井にはヤマト/百済同盟への対抗軸としての新羅との太いパイプがあったはずだ。

 6世紀には朝鮮半島では新羅と百済の争いが激化し、倭国の朝鮮半島での拠点が置かれたという任那、伽耶は562年に新羅に滅ぼされる。さらに時代が下って100年の後、唐/新羅による百済の征討が660年。さらに白村江の戦いで日本が半島から撤退を余儀なくされたのが663年。新羅と結んだ磐井の戦いの後の100年は東アジアの勢力図が大きく変わった時代でもある。倭国、日本がその激変の一方の当事者であった事を思い浮かべれば、倭国内の争い(いわゆる「筑紫国造磐井の反乱」)が単なる国内政権内での「反乱」ではなく、このもう少しマクロ的な視点での争いと無縁ではなかった事は明白だ。

 岩戸山古墳は未盗掘墓だそうだ。また、墳墓の中の調査は行われていないとも。岩戸山資料館の女性館員の方が詳しく説明をしてくれた。大方の八女古墳群の墓は盗掘されているが、岩戸山だけが未盗掘。いろいろな副葬品や当時をうかがえる考古学的資料が手つかずのまま眠っている?と、不思議に思っていたら、彼女いわく「結局磐井はここには埋葬されなくて、ここはカラの墓なんですよ」。

 確かに磐井が築造したらしい事は、江戸時代の久留米藩の歴史学者矢野一貞による地道な調査により明らかになっている(もっとも彼の研究成果が日の目を見るのはご維新後の明治になってから)。確かに磐井が埋葬されているはずはない。なぜなら彼はヤマト政権の筑紫方面派遣軍司令官の物部あらかひに殺されているのだから。征服者が非征服者の亡骸をこのような巨大な墳墓に埋葬する事はないはずだ。資料館に展示されている石人像なども剣でたたき割られたものが多い。ヤマトからの遠征軍を苦しめた磐井に対する反感、兵士の憎しみがうかがえる(写真の石馬も首が切り落とされている)。

 こうした考古学的な成果物からは、日本書紀の記述だけでは分からないいろんな事が見えてくる。筑後平野の南に位置する今はお茶と果物で有名な平和な農村地帯、八女地方が、かつて、我が国の歴史の表舞台で脚光をあびた時代があった。玄界灘の彼方の朝鮮半島を視野に入れた戦略を持った大王がいた。九州人の反「中央」意識はこの頃から伝承され続けてきたのだろう。九州人が「中央」に出て行って権力中枢で活躍するようになるのは明治維新以降だ。


(岩戸山古墳から眺める八女地方の風景はなんと大和の三輪山山麓の風景に似ていることか.....)


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2009年8月5日水曜日

オリンパス・ペン E-P1でレンズグルメ

E-P1のアドバンテージの一つに、レンズアダプターを介して様々なレンズで撮影を楽しむことが出来ることがあげられる。フォーサーズでは焦点距離は35mm版の2倍、すなわち50mm標準レンズは100mm中望遠レンズとなるので、広角撮影にはやや不利だ。しかし望遠、マクロでは結構迫力のある撮影を楽しめる。

E-P1購入と同時に、所有するフィルム時代レンズ資産活用という観点から、旧オリンパスOMシリーズレンズ用アダプター(オリンパスから純正として販売)と、ライカMシリーズレンズ用アダプター(パナソニックから純正として販売)をゲットした。

まず、フィルム時代の一眼レフのOMレンズ群の中では比較的新しい90mm f.2マクロレンズを試してみた。焦点距離は180mmとなりかなりの望遠効果がある。小さなボディーに重いレンズという組み合わせで、手ぶれが心配だが、E-P1は絞り優先モードにセットすると露出補正も手ぶれ補正(さすがボディー内補正システム。マニュアルで焦点距離は入力すればok)も使える。装着した姿はやはりレンズがでかくてバランスが悪いが、結構戦闘的なカメラに見える。液晶モニターでのピント合わせも思ったよりきちんと出来る(ついファインダーをのぞこうと眼をカメラに寄せてしまう癖が抜けないのが笑えるが)。また撮影結果をクローズアップでピント確認出来る。下の写真(ズミクロンのクローズアップ)は手持ちで撮影したが、暗い光源下でも手ぶれせず、ピントもきちんと来ている。なかなかやるね。

続いて、ライカのズミクロン35mm F.2(ドイツ製8枚玉)という伝説のレンズ。ワクワクする。E-P1に装着したその姿はなかなか決まっている。かなりライカチックなスナップカメラに仕上がり、心をくすぐる。レンジファインダーカメラ用のライカレンズがデジカメの液晶モニターを通して画像を結ぶ姿は感動だ。伝統的なライカファンから見れば噴飯ものだろうが、8枚玉ズミクロンの画像がライブで見れるようになるという事は、ライカにとっても時代の転換を意識せざるを得ない事実だ。

それにしてもこのズミクロン、約50年ほど前の古い設計のレンズだが、実に解像力、ピントのキレ、ボケの美しさ、どれをとっても秀逸で、あらためてうれしくなる。金属鏡胴に指掛けと無限大ストッパーのついた凝った造りの距離リングも、経済合理性よりも、手間ヒマかけても最高の品質、高品格なものを造ろうと意気込む職人思想がにじみ出ている。趣味人にとって至福のときだ。このあたりのモノ造りに対するこだわりが日本製カメラとの思想の違いだ。

最短撮影距離は70cmだが、焦点距離が70mmとなる(画角が狭くなる)ので、結構クローズアップ効果を得る事が出来る。フォーサーズの威力か。本家のライカM8だと焦点距離は1.3倍となるのでもう少し広角で撮影出来るが、それよりもE-P1のボディー内手ぶれ補正や、ISO高感度ノイズ補正、ライブビューの機能の便利さは、やはりうれしい。そして、画造りの基本である画像処理エンジンもM8より優れていると思う。何度撮ってもM8のホワイトバランスやISO感度ノイズは気になる。

まだまだ遊び足りない。E-P1はこうした様々なレガシーな単焦点レンズをつけてじっくり撮る「写真機」でもある。「蔵」からオールドレンズを出して、カビ掃除してセッセと遊ぼう。ちなみにオールドライカマウントレンズ(スクリューマウント)もL/Mアダプターを介して装着、撮影可能である事は言うまでもない。

(下の写真、上段2枚がOMズイコー90mmマクロで撮影したライカズミクロンのクローズアップ写真。下段2枚は、そのズミクロンで撮影したもの。いずれも手持ち、アベーラブルライト撮影、かなり暗い状況での撮影にも関わらず、手ぶれもなく、特にオールドズミクロンの解像力、ピントのキレ、ボケに注目!)

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