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2011年6月16日木曜日

室生の郷 滝谷菖蒲園





梅雨時の大和路の花と言えば紫陽花と菖蒲。紫陽花は矢田寺や久米寺が有名だが、梅雨時はどこへ行っても紫陽花はきれいでいい。ここ室生の郷にある「花の郷」滝谷菖蒲園は様々な花が季節毎に眼を楽しませてくれる,まさに桃源郷のような静かな花園だ。今回は残念ながら,紫陽花にはチと時期が早くて、あまり咲いてない。そのかわり菖蒲と睡蓮が盛りだ。クレマチスも珍しい種類の花がまだ咲いている。

滝谷菖蒲園は近鉄大阪線三本松駅からバスで8分程、歩いても20分程の室生の郷の谷あいに位置している。ここはかつては女人高野室生寺への参詣道の途中であり、伊勢街道、榛原宿から室生寺へ向う人々が通った道だ。今はハイキングコースとしても人気がある所のようで、いたるところに道標が整備されている。

しかし,山と谷が織り為し,人気のない所である。集落も見当たらず、道の駅の新しい建物が妙に辺りの風景にそぐわない感じであることを除くと、誠に鄙びた地域である。やたらに菖蒲園の看板が道路沿いに立ち並んでいるが、このような所に商業的な意味で成功する施設を創ることは難しいに違いない。よくこんな美しく花に満ちあふれた花園を創ったものだ。作り手の花への愛着と、この地への強い思い入れを感じずにはおれない。

この時期、近鉄三本松駅から菖蒲園行きの臨時バスが一時間に2本出ていて、車でない人には便利。行きも帰りも乗客は私を含めて2人というのんびりムード。あいにくの雨だが、山肌がぬれ、新緑がしっとりと美しい。山頂は室生路独特の煙霧に覆われて,龍穴神社の龍神様が里山に雨をもたらしてくれている。狭い谷あいの道をガタゴトと進むこと8分で菖蒲園に到着する。

ここでは非常に多くの種類の菖蒲を楽しむことが出来る。同時に販売もしており、販売コーナーに植わっている菖蒲をそのまま分けてくれる。売り手もアルバイトの女の子のようなドシロウトではなく、オジさんオバさんが、菖蒲の育て方、楽しみ方を丁寧に教えてくれる。商売でやっている,というよりも、好きでやっている,という感じがして、それがいい。しゃべり出すとチと話が長過ぎるが、ホントに好きなんだなあ...

スライドショーをご覧あれ。














































2011年6月7日火曜日

Voigtlander Nokton 25mm f0.95という画期 ー不思議が写るレンズー

 往年の名玉フォクトレンダーのノクトン。コシナからマイクロフォーサースフォーマット用に新たなノクトン25mm(35mm換算で50mm)が限定生産で市場に出された。

 なんと開放F値が0.95。ライカのノクチルクスf1よりもわずかに明るい。フィルム感度が上げられない昔は、カメラメーカ各社は明るい開放F値のレンズ(いわゆる高速レンズ)の開発にしのぎを削った。オリジナルのフォクトレンダーのノクトンは1.5だった。アベーラブルライトでの撮影を標榜するライカがノクチルクス0.95を出して世の中をビックリさせた。キャノンやズノーもf1や0.95を出して日本の意地を示した。そこまでではなくてもf2なら普通、f1.8でまあまあ。f1.4は高級レンズ、ニコンのf1.2は高嶺の花、と標準レンズのグレードに関係する数字でもあったのは事実だ。

 いまやデジタル時代で撮像センサー感度も上がり、しかも800,1600以上の高感度でもノイズの少ない画質を保証出来るようになった現在、あまり高速レンズのニーズは少なくなり、しかもズームレンズ全盛でせいぜい2や2.8なら明るい方になってしまっている。

 しかし、いや、こんなときだからこそ、単焦点レンズでF値が明るいレンズで撮ってみたい、という衝動に駆られる。ここの所にニコンも矢継ぎ早にデジタル一眼レフ用のニッコール50mmf1.4、f1.8を出して来ている。やはり単焦点レンズの歪曲収差の少なさ、ボケ味の美しさが再びマニアにもてはやされている訳だ。

 一方、CCDやCMOSセンサーのサイズが通常の35mmフルサイズセンサーに比べると小さい、ASP-Cやマイクロフォーサーズ、さらにはコンデジの1/2、1/1.7サイズでは、美しいボケ(英語でもBokehという!)があまり期待出来ない。そこでこのノクトン25mmf0.95みたいな、マイクロフォーサーズでも美しいボケが楽しめるレンズの登場が歓迎されることとなる。

 このレンズは25mmだから35mm換算で50mmの標準レンズだが、最短撮影距離はなんと0.17(17cm)。ここまで寄れる標準レンズは稀だ。ノクチルクスなど1mという遠視(老眼?!)だ。したがってかなりの近接マクロ撮影が可能となる。しかも、この開放F値0.95と近接撮影距離0.17の組み合わせで、今まででは考えられない思いがけない画像表現が可能となっている(とにかく下の写真を見て下さい)。

 道具としてのレンズ鏡胴の造りもソリッドで秀逸。ずっしりした真鍮素材に黒鏡胴。ローレットの刻みもエッジが立っていて心地よい。回転トルクが適度にあって,しかも滑らか。絞りリングのクリック感も素晴らしい。絞りバネは10枚で正円に近い。これがボケの美しさを生み出している。なんと言っても外見での一番の魅力は大きな瞳。この瞳に見つめられるとイチコロ。これに付属の金属製の大型フードが付いてくる。

 なんともマニアックなレンズだこと。遊べる。




(夜間室内照明下、開放で撮影。アウトフォーカス部分のとろけるようなボケ...)




(昼間室内照明下、開放で撮影。なぞなぞ1:これはなんでしょう?金塊ではありません。)




(昼間室内照明下、開放で撮影。なぞなぞ2:これはなに? これはわかるね。)




(昼間晴天時屋外、絞り2.8で撮影。昼間は開放にするとシャッター速度がついて行かない...)

なぞなぞの答え:1はクチャクチャにしたチョコレートの包み紙。2は机の上のボールペンとポストイット。 以上、わかりましたかな?

2011年6月5日日曜日

大阪中之島公園バラ園

 堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島公園。明治24年(1891年)に大阪市に初めて建設された公園である。中之島自体は西はロイヤルホテルや大阪大学医学部趾があるビジネス街。淀屋橋界隈は大阪市役所、大阪府立図書館、中之島公会堂、東洋陶磁器美術館。そして、難波橋から天満橋方面には中之島バラ園が広がっている。天神橋が渡る辺りは公園の先端に噴水もあり、パリのシテ島にも比肩しうる風景となっている。

ここは水の都大阪の都心のオアシスだ。難波橋から階段を下るとそこはバラ園。天神橋から天満橋を望む中洲の先端部まで都心にしては広々としたバラ園と芝生広場が広がっている。バラは珍しい種類のものも数多く咲いている。

今日は梅雨の合間の晴れ。大勢の人がこのお天気とバラに誘われて集まって来ている。皆一様の携帯カメラで写真撮っている。私は携帯カメラはカメラと認めてないが、こうして皆が「カメラ」を日常的に持ち歩いて、ふとした風景や、心に留まったアイテムをカシャリと撮る。撮りたいと思った時に何時もカメラを持っているということが大事だが、結構傑作が沢山撮れていることだろう。携帯カメラ普及も悪いことではない。

ともあれ咲き乱れる美しいバラの花々をご覧あれ。




























2011年6月3日金曜日

大阪城京橋口 〜つわものどもの夢のあと〜

 大阪城公園の東北にそびえ立つOBP (Osaka Business Park)のビル群、大阪の新しいビジネス拠点として住友、パナソニックなどの地元企業が中心となって再開発した新都心は、かつては幾多の戦いの場であった。

 大和川,寝屋川、猫間川などの合流する中洲地帯であったこの一帯は、弁天島とよばれ、古くは石山本願寺攻略戦や大坂の陣の古戦場であった。淀どのの遺体を埋葬した祠があるとされている。江戸期には大坂城代の京橋屋敷がおかれ、さらに時代が下り、明治維新後は,ここには大阪造兵工廠が設けらる。1945年8月15日のアメリカ軍の猛爆撃で壊滅するまで東洋一の兵器工場として有名であった。

 私が子供の頃(小学校低学年ころ)、祖父母のうちに遊びにくるときは、大阪駅から鶴橋まで環状線で移動し、そこから近鉄で奈良のあやめ池まで行くのだが、京橋駅周辺、森ノ宮駅周辺には広大な工場の残骸が広がっていたのを記憶している。戦後の再開発はなかなか進まなかったようで、終戦から15年経った1960年時点でも、大阪の街の中に広大な廃墟が横たわっているような状況だった。

 戦前の大阪は日本一の商業都市であり大大阪の繁栄を享受していたが、同時に「東洋のマンチェスター」と称せられる程の工業都市でもあった。街中にも様々な工場があって、当時の絵はがきや名所地図を見ると煙突マークがいたるところに見受けられる。江戸時代にさかのぼると住友家の銅の製錬所が島之内にあったくらいだ。

 そして、この大阪造兵工廠がその最たるものであった。しかし、考えてみると当時は大阪の街のど真ん中にこのような巨大な兵器工場が存在していたなど驚きだ。大阪城そのものがもともと要塞として構築されたことは知っているが、明治以降は城内に大阪鎮台、のちに帝国陸軍第四師団司令部が設けられ(今でも中世欧州の城風の建物が残っている)、その周辺にこのような砲兵工廠や化学工廠、被服工廠などの軍関係の工場が取り巻き、まるで軍事要塞の様相を呈していた。大阪は軍都でもあったのだ。

 ようやくこのような廃墟が整理され再開発が進んだのは1970年代に入ってからのこと。現在は高層のオフィスビルの他、いずみホール、ホテルオークラ、大阪城ホールが建ち並び、公園も整備されて市民の憩いの場にもなっている。環状線にも「大阪城公園」駅が新設された。森ノ宮駅にはJRの電車区が設けられている。

 ちなみに大坂城京橋口には太閤秀吉の時代には、壮麗な漆塗り屋根付きの京橋御門が架けられていたらしい。これは、当時太閤秀吉が大坂城の北東、すなわち京への玄関口に、天皇の行幸を迎える為の橋を架けさせたものだという。そのような壮麗な橋は現存していないが、確かにこの辺りは大川、淀川の通じて京への玄関口であった。

 さらに幕末の時代、戊辰戦争に敗北した幕府軍の総帥徳川慶喜が密かに大坂城を脱出したのもこの京橋門だと言われている。大川に出て八軒家浜から船にのり江戸へ逃げ帰った。

 このように多くの戦にまつわる土地だが、いま、OBPの高層ビルの最上階から展望すると、大阪の街は美しい。深い緑に包まれた大阪城を眼下に見て、大川にかけられた天満橋、天神橋、難波橋を望むことができる。大阪が「水の都」と称せられる訳がよくわかる。特に夜景が美しく、天神橋のライトアップされた二重橋はまるでパリのシテ島に架かる橋のようだし、洲の先端から30分ごとに吹き出す噴水すら見える。西側には堂島、中之島辺りのオフィス街の夜景が広がっている。かつての様な大大阪の繁栄は無くなってしまったが、平和で近代的な街に生まれ変わった。




(新緑美しい大阪城公園。その南側から天守閣とOBP(Osaka Business Park)を望む)




(OBPツインタワービルの最上階から大阪城公園を見下ろすことが出来る。京橋門が見える)




(夕闇迫る大阪城天守閣。城の南側にはNTT西日本本社やNHK大阪放送局、大阪歴史博物館が見える。さらに向うに通天閣がライトアップされているのが見える)



(西に眼を転ずると堂島、中之島辺りの大阪のビジネスの中心街を見渡すことが出来る。平和で美しい都会の夜景だ)




(こうして見るとこの辺りが、かつてはいくつもの川に囲まれた水運の重要拠点であったことがわかる)






(水の都大阪。ライトアップされた天満橋、天神橋が美しい。特に天神橋と中洲の光景はパリのシテ島の風景を彷彿とさせる)

2011年5月20日金曜日

Finepix X100の使用感

最近X100にハマってる。コンパクトでセンサーサイズもデジイチ並みの大型(ASP-C)で画質が良い。コンデジの小さなセンサーでは1000万画素などかなり無理して押し込んでる訳だが、やはりこれくらいのサイズだとゆとりが出る。さらに35mm固定焦点レンズは風景からスナップまでオールラウンドにこなせる画角で変な歪曲収差などが少ない。

 こうした固定焦点レンズでレンジファインダーカメラだと,最短撮影距離が物足りないものだが、ここはハイブリッドファインダーの強みで、EVFかモニターダイレクトではパララックスもなく、10cmまで寄れる「マクロ」モードがついている。花の撮影などに強みを発揮する。これは撮影の範囲を広げてくれる大きなメリットだ。

 固定焦点レンズは、また開放時のボケがいい。このフジノンレンズは特にボケが美しい。ただ,少し開放でマクロ撮影するとフレアーがかかったような感じになる。これはこれでソフトフォーカス的に使えて,上手に活用すればいいと思う。

 お蔭でライカM9の出番が少なくなった。あるいはM9は50mmを常用レンズにして、広角35mmとマクロはX100、と組み合わせでいくと良い。水平出しの機能もあり、役に立つ。M9で撮ると後で傾きが気になるようになる。M9は撮影者のウデを問われるカメラだが、X100はそれを補ってくれる。

 バッテリーの持ちが悪いような気がする。もしかしたら電源スイッチが割に簡単に動くので、鞄などに入れた時に不用意にスイッチが入ってしまうせいかもしれない。また、ハイブリッドファインダーでEVFを多用すると電力消費が進むのかもしれない。いずれにせよ予備バッテリーを携行する方が安心だ。

 また,細かい点だが、露出補正ダイアルは好ましいが、補正0クリックをメリハリつけるか、赤いメモリにするなどしてくれるとより使い良くなる。

 総じて、なかなかいいカメラが出て来たな,と思う。久々に納得出来る道具だ。やはり写真専業富士フィルムならではだ。フィルムモードでプロビア、ベルビア、アステアが選べるなんて,フィルム派の痛いとこ突いている。

 出たばかりでなんだが、後継機種が楽しみだ。あまりギミックをこてこてに盛り込まず、撮影道具としてブラッシュアップされて行くことを楽しみにしている。




(背景のボケ味が好きだ。花を浮き立たせてくれる)




(パンフォーカス気味に写る35mm独特のパース。色味はベルビアを選んでいる)




(開放マクロでの撮影はこのようにフレアーがかかってソフトフォーカスっぽくなる。)

2011年5月17日火曜日

春日大社と興福寺 藤原氏という系譜

 奈良の春日大社と興福寺は考えてみると不思議な取り合わせだ。いわば同じ敷地に併存しているShinto ShrineとBuddism Temple。どちらも藤原氏の創建になる神社と仏教寺院である。少し過去の歴史を振り返ってみよう。後の時代の神仏混合の考えによる神宮寺や寺の守護をする鳥居のような併存とは違って、新興の外来思想、宗教である仏教が我が国に伝来してわずかに150年程の時代に新興国日本の新都平城京に、私人として創建したものだ。この頃の仏教は平安時代以降のそれと違って、庶民の苦悩を救ったり,現世利益を唱えたりする考えではなく、天皇中心政治の基本にある、いわば鎮護国家の考え基づいた国家統治の為の思想、知識の体系であった。そしてその中心は東大寺という官寺である。

 藤原氏は知られている通り、いわゆる「大化の改新」で中大兄皇子を助けた中臣鎌足の子孫であり、摂関家としてその後の歴史の中で血統を絶やすことなく、現代の世まで続いている。もともと中臣氏はその名の通り、大臣でも大連でもなく、飛鳥ではそれほどの権勢を得た一族ではなかった。乙巳(いっし)の変(「大化の改新」は史学的には最近ではこう呼ばれている)での勲功が認められ、天智天皇から藤原姓を賜って以降、平城京、平安京の両時代に権勢並びなき程の栄華を極めることになる。

 この中臣鎌足の出自は諸説あるようだが、河内の枚岡辺りの地方豪族で、後に飛鳥に出てきて中央政界にデビューすることとなる。明日香の小原の里に藤原神社がひっそりと建つが、この辺りを拠点に大王家に徐々に近づき、大化の改新(乙巳の変)で頭角を現したようだ。中大兄皇子との出会いでも、皇子が蹴鞠で脱げた履物を,鎌足が拾って,恭しくさし出した時に初めて「そはたれか?」と聞かれているくらいだから、位の高い人物とはいえない。

 そもそも、乙巳の変は、グローバル派で、外来の宗教である仏教を積極的に倭国に導入しようとしていた蘇我氏と、古来の神を崇拝すべきだとする、物部氏の対立に遠因がある。廃仏派の物部氏を蘇我氏が滅ぼし、飛鳥に倭国初の仏教寺院(飛鳥寺)を建立。その後に大王家でも推古大王、厩戸皇子(聖徳太子)による仏教中心の国家造りを進めるなど,いわばグローバル派が政権の中枢を握ることとなる。

 しかし、飛鳥政界はこの蘇我氏の外交政策を支持する勢力ばかりではなく、むしろ敵も多かったことだろう。革新派と守旧派の争いは時代を超えた歴史の理である。蘇我氏は宮廷クーデターで、中大兄皇子、中臣鎌足、倉山田石川麻呂らによって誅殺されることになる。これは見方によればグローバル派の一掃であり、守旧派の復権でもある。中臣氏は、物部氏や大伴氏に近いとされ、廃仏派に属すると見られている。

 この後、斉明天皇、中大兄皇子は、東アジア情勢というグローバルな認識の誤りから朝鮮半島政策に失敗。白村江で唐/新羅の連合軍に歴史的大敗を期し、朝鮮半島における権益を失う。斉明天皇がこの戦争の前線基地の筑紫の朝倉の宮で崩御し、その後を継ぎ即位して天智天皇となった宮廷クーデターの立役者中大兄皇子は、唐/新羅の侵攻をおそれ、太宰府に大野城と基城、水城を築き、飛鳥に通じる要衝に地にも砦を築かせているが、結局は大陸からの侵攻はなく、むしろ軍事的な備えよりも,中華帝国に負けない国家としての体制の整備を急ぐ必要性を痛感している。この意味に置いては蘇我氏は早くから東アジア的視点から倭国経営を展望していた開明派であった。むしろそういったグローバルな視点を嫌う守旧派がクーデターで一度は国家の舵取りを取り戻したが、結局は失敗に帰したともいえる。

 この国家体制確立事業、すなわち大王を中心とした中央集権体制は天智天皇の時代には完成せず、むしろ壬申の乱の後に天智天皇の弟である天武天皇、その皇后で皇位を承継した持統天皇の時代になって律令制度の整備、公地公民の制、仏教による鎮護国家の思想、天照大神を皇祖神とする「天皇」制の確立が実現することとなる。ここではっきりと外来の仏教が国の理念を支える中心的な思想/宗教として位置づけられることになった。この時期、天武、持統両帝は天皇親政をとり、藤原氏などの主要豪族は政治の中枢からは排除されていた。また遣唐使がこの時期廃止され「日本風」の文化の醸成時期でもあった。

 しかしこうした流れの中で、藤原氏は徐々に勢力を蓄え、元明天皇の平城遷都、藤原不比等の時代には遂に聖武天皇の后に自分の娘の光明子(光明皇后)を入内させるまでにいたる。不比等は鎌足の次男である。長男は遣唐留学僧になるべく鎌足は出家させている。排仏派のはずの鎌足がである。日本書紀も古事記も不比等が編纂に携わった言われており、「大化の改新」における父、鎌足の活躍のエピソードも、この不比等が潤色して(あるいは創作して)入れさせた可能性もある。以降の藤原一門の朝廷における揺るぎなく連綿と続く地位も、実はこの不比等が始まりなのである。その権威の正当性を求めるためには鎌足の事績の創出が必要であった。

 この間、国家の中心的思想,宗教は仏教から神道へ、そして、再び仏教が復権、と言うように揺れ動いたが、先に述べたように、仏教を国家宗教とする鎮護国家方針、と天皇が八百万の神々のトップに立つ天照大神の子孫である、という皇祖神思想が並立して倭国の、そして国号を改めた「日本」の国家統治の基本理念となる。

 こうした天皇中心の国家形成の中核を支えたのが、かつての開明派蘇我氏を滅ぼした、守旧派であった藤原氏であった訳だ。その藤原氏は平城遷都後に、条坊制の京にわざわざはみ出した東郭を設け、そこに藤原一族の氏神である春日大社と、外来宗教である仏教寺院興福寺を創建する。

 春日大社は在地神のいた春日山をご神体とし、東国の鹿島神宮と香取神宮から、それぞれ神を招き、さらには一族のルーツの地、河内の枚岡神社よりもう一体の神を遷座させている。五月の春日大社はその美しい藤の花で彩られるが、藤は藤原氏の紋所であり、一族を象徴する花である。当時の天智天皇から「藤」の一字を姓に冠することを認められ、藤原と名乗った由緒正しき正統の証でもある。

 しかし、時代は変われど、日本という国は、常に外からの異文化の受容に関して国際派と国内派とが争う歴史のようだ。この二分法はこのころ出来たものなのか。そして、いつも国際派は滅ぼされ、冷や飯食わされて表舞台から姿を消させられるが、やがては、国際派が実現しようとした価値観が見直されて、日本の地に定着して行く。皮肉なことにその国際派がかざした理念の復活を担うのは,実は国内派の一族、末裔である。面白いものだ。文化の融合には時間が必要,と言ってしまえばそれまでだが。藤原氏の二つのシンボル、春日大社と興福寺が並んで立っているのを見てそう思う。



 (春日大社の砂ずりの藤。本来ならば2メートル程の長さで,地面の砂をするくらい長い,と言う意味で名付けられたものだが,今年は春先の寒さがたたり、長さが足らないのと,花が終わりに近づいているのとであまり名前のような勢いがなかった。)



 (燈籠の列は春日大社のシンボル。参道の石灯籠の列も趣があるが、本殿脇の回廊沿いの金色の燈籠は赤い柱と良いコントラストで美しい。)



 (珍しい八重の黒龍藤。春日大社付属の万葉植物園に咲く。本来遅咲きの藤の一種なので,今頃がちょうど見頃であった。それにしても八重の藤を初めてだ。)



 (同じく万葉植物園の白野田の藤。これも遅咲きの品種で、今が盛りであった。長い花が美しく園内のあちこちで咲き誇っていた。)




 (万葉植物園の池にかかる橋桁の藤。おそらく九尺藤だろう。丈が短いが池畔に咲く楚々とした風情も、これはこれで良い。)