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2013年9月30日月曜日

博多聖福寺、京都建仁寺、鎌倉寿福寺 〜栄西の足跡をたどる旅〜

 栄西の足跡をたどる旅。今津の誓願寺、博多の聖福寺に始まり、京都の建仁寺、そしてついに鎌倉の寿福寺にたどり着いた。寿福寺は鎌倉扇ガ谷にある静かな佇まいの古刹だ。今の姿は、聖福寺や建仁寺のような往時を彷彿とさせるような壮大な伽藍や広大な寺域を誇る訳ではない。源氏山一帯は文字通り源氏ゆかりの土地であり、源義朝の居館があったと言われている。源平の戦いに勝利し、鎌倉入りした頼朝が鎌倉幕府創設を企図した土地である。その一角に境内を公開もせずにひっそりとたたずむ。

 現在扇が谷と呼ばれるこの一体には、花の寺で有名な英勝寺や海蔵寺があり、源氏山に登れば頼朝の像がある。化粧坂やその他の山間谷筋の道は鎌倉独特の狭い切り通し。武家の墓である岩壁を削った「やぐら」も至る所に見受けられる。内陸の盆地である京都や奈良とは異なる独特の佇まいを見せる。武家の拠点らしい、攻めるに難しく、守るに容易な海に面した山と谷の連続の地形が鎌倉の特色だ。

 栄西は、当時宋で盛んであった臨済禅を学び、1191年に帰国後は天台教学復興のために禅を広めようと努力する。しかし京都ではなかなか臨済禅の布教を支持してもらえず、京都での禅寺の創建を一時はあきらめる。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の支援を受け、1195年にようやく博多に聖福寺を創建する。やがては武家政権の中心である鎌倉に遷り、北条政子創建の寿福寺の初代住持となる。京都に建仁寺を創建できたのは宋からの帰国後11年を経たときのことである。これも武家の棟梁である鎌倉幕府二代将軍頼家の開基によるものだ。このように臨済禅は武家社会の支持によってようやく我が国に受け入れられた。

 当時の京都は比叡山延暦寺の力が強く、なかなか新興の禅宗は受け入れられなかったと言われている。栄西自身は比叡山に学び、宋の天台山万年寺に留学している、最澄の延暦寺は天台教学、戒律、密教、禅の四宗並立で、いわば当時の総合大学のようなものであった。そこでは栄西の他にも法然(浄土宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)などの鎌倉期から室町期の新興宗派の開祖たちが学んだ。しかし、その「卒業生」が海外留学の後に持ち込もうとした臨済禅が、お膝元でなかなか受け入れられなかったとは... 仏の御心の寛容性、オープンネスの実現は、現世の人が関わると容易なものではなさそうだ。


これまで巡った栄西ゆかりの寺を創建の順番でおさらいをすると、

(1)聖福寺
 宋から帰国後の1195年、時の将軍源の頼朝に許可を得て、博多の宋人居留区であった博多百堂に我が国初の禅寺を創建。開山となる。後鳥羽上皇のご宸筆「扶桑最初禅窟」の扁額が掲げられている。創建当時ほどではないが、秀吉の博多都市整備の中で削られた後も、比較的広大な寺域を維持している。室町時代には五山十刹の第二刹に序されていた。その後臨済宗建仁寺派の寺院となるが、江戸時代には黒田藩の指示で妙心寺派に転派した。

(2)寿福寺
 1200年、頼朝の菩提を弔うために北条政子により創建された寿福寺の住持となる。創建当時は鎌倉五山第3位。七堂伽藍15の塔頭を擁する大寺院であったが、その後の火災などで現在のようなこじんまりした静かな寺になっている。南北朝時代の再建によるものと言われている。この地は源氏ゆかりの地(源氏山亀が谷)で、義朝の館があったと言われる。現在は扇ガ谷とよばれている。

(3)建仁寺
 鎌倉幕府二代将軍頼家の開基、1202年に京都では初めての禅宗寺院を創建。開山となる。臨済宗の本山ではあるが、真言、天台、禅の三宗並立の寺であった。これは当時比叡山の力が強かった京の都に禅宗を普及させることはきわめて多くの抵抗にあったため、他宗派との協調、牽制による立ち位置の確保が必要であったことによるという。京都五山の第3位。応仁の乱などでことごとく消失し、創建当時の建物は残っていない。

 現在臨済宗は15派7000末寺あり。京都だけでも建仁寺の他にも妙心寺、南禅寺、東福寺、天竜寺、相国寺などの有名な大寺院が臨済宗各派の総本山として崇敬を集めている。また鎌倉には建長寺や円覚寺がそれぞれの臨済宗派の本山として君臨している。鎌倉時代に栄西によりもたらされ臨済禅は、鎌倉幕府崩壊後も足利将軍家の室町幕府により篤く保護された。さらに徳川将軍家の江戸時代に入ると白隠禅師により現在に至る臨済宗の禅が確立された。

 それにしても、木漏れ日の中に続く山門からの長い石畳と、中門を閉ざした寿福寺仏殿の密やかな姿が印象的である。まるで禅寺というよりは尼寺のような佇まいだ。ちなみに隣の英勝寺は鎌倉では数少ない尼寺の一つだ。この源氏山の麓の亀が谷(扇が谷)の地形がまるで隠れ里のような雰囲気を漂わせているせいだろうか。少なくとも大伽藍を展開するだけのスペースが確保出来ない地形だ。それ故に頼朝も、源氏父祖の地であるにも関わらず、幕府をここに設ける事を断念している。



(博多の聖福寺。勅使門は博多の総鎮守櫛田神社に通じている)




(聖福寺山門。後鳥羽上皇御宸筆の「扶桑最初禅窟」の扁額がかかる)




(再建なった聖福寺法堂。中国風の屋根の勾配が美しい)




(京都の建仁寺法堂、天井の双龍図が有名)




(建仁寺庭園。簡素だが力強い禅宗様式の庭園だ)




(鎌倉の寿福寺山門)




(寿福寺参道。木漏れ日の中の石畳が美しい)




(寿福寺法堂。簡素な作りだ。ここから先は入れない)


鎌倉扇ガ谷散策スラードショーはこちらから→



(撮影機材:Leica M Type240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm F.2.8. Sony RX100)

2013年9月24日火曜日

筑前の珠玉 秋月

 筑前秋月。現在の行政区域は福岡県朝倉市秋月。かつては朝倉地方一帯を治める黒田氏の城下町であった。地元の観光パンフレットにも「筑前の小京都 秋月」と記されている。しかし私はこの「小京都」という形容に出会うたびに違和感を感じる。地方に古い町並みが残っているとなんでも「小京都」という。島根県の津和野などもそうだ。「山陰の小京都 津和野」という具合だ。多分、ある時期の観光キャンペーンの時に誰かが言い出したキャッチフレーズなのであろう、歴史的には何の根拠もない形容だ。秋月は京都のコピーでもなければ、小さな京都でもない。れっきとした黒田家秋月藩5万石の城下町だ。「小京都」とか「なんとか銀座」とか、中央のモデルをそのまま地方に展開コピーするその手法と思考は、そもそも分国化されていた時代のそれぞれの国の「国府」であった町を形容するにふさわしく無いのは明白だ。秋月は、その美しい名前と、城下町としての景観、古処山と美しい田園風景、自然環境とがうまく調和した独特の魅力を持った町だ。

 1)秋月氏の時代
 秋月は、古くは箱崎八幡宮の荘園秋月荘であったが、鎌倉時代に入ると豪族秋月氏が山城を構えた。秋月氏は鎌倉時代以来の武家一族で、秋月の町の背後にそびえる古処山城を拠点に朝倉地方を支配していた。戦国乱世の世、秋月氏は豊後の大友氏の支配下にあったが、やがて大友氏に反旗を翻し、島津氏と組んで筑前、筑後、豊前11郡36万石の戦国大名に成長する。しかし、対外交易の拠点であった博多へ進出を試みるも、大友方の立花道雪や高橋紹運に阻まれて果たし得なかった。戦国時代の九州は豊後の大友氏。肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏の三つ巴の争いの渦中にあった。日向の支配権を巡って島津氏と大友氏が激突、耳川の戦いで大友氏が破れる。こうして島津氏は薩摩、大隅、日向三国の支配を確立。さらに九州全域の支配に向けて大きく前進する事となったが、その島津氏の北上を阻止したのは大友宗麟の救援要請を受け出陣した豊臣秀吉の軍師黒田官兵衛であった。黒田官兵衛は島津を南九州に追いやり、戦乱で荒廃した博多の町を復興した。こうして秀吉の九州平定は終わった。このとき島津側についていた秋月氏は豊臣軍に降伏する。やがて秀吉によって秋月氏は日向高鍋3万石に移封される。

 ところで、戦国時代の九州における覇権争いの歴史は意外なほど後世に語られていない。これも司馬遼太郎史観のなせる技だろうか。司馬が取り上げたストーリーだけが日本の歴史であるかのように。どうしても近畿/中国/東海/信越/関東を中心とした天下統一物語りがメインになるのは仕方ないとしても、平家の財力の根拠地であった博多や九州の荘園領地の跡目争いと、源平合戦以降、鎌倉から派遣されて来た西遷ご家人達の末裔である西国武士団と地元の国人武士団の動きは、天下統一物語りのもう一本の伏線であったはずだ。中国の覇者毛利氏の背後には、豊後の大友氏や、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏といった有力大名がいて、天下の形勢に影響を与えていた。特に大陸との交易上も重要な国であるはずの筑前は、太宰府以来の少弐氏や、肥前の龍造寺氏、さらには長門の大内氏、豊後の大友氏など、博多を巡る権益争いは熾烈であったが、一国を支配する大名はなかなか現れない。豊臣政権時代に名島城に入城した小早川隆景が初めての筑前国主となるが、本格的な筑前一国統治は関ヶ原後、徳川政権時代の黒田氏の入国を待たねばならない。いずれも「天下人」となった豊臣秀吉や徳川家康の九州支配のプロセスの結果なのだ。やはり島津氏の薩摩や龍造寺氏の肥前(後には鍋島氏に引き継がれるが)、そして毛利氏の長州が「天下」に影響を及ぼすのは明治維新を待たねばならなかったようだ。

 2)黒田氏の時代
 関ヶ原の戦いの後に、東軍勝利に功績のあった黒田長政は52万石の大大名となり、筑前に入国した。長政(孝高すなわち官兵衛すなわち如水の長男)はまず小早川隆景が築いた名島城に入城。手狭であったことからすぐに福崎に新たな居城を築き、一族の出身地である備前福岡の名を取って福岡城とした。このとき長政は叔父の黒田直之を筑前のもう一つの重要な拠点である秋月に配した。直之は孝高と並ぶ敬虔なクリスチャンであり、教会を建て、宣教師を集め、秋月は信者2000人を数える九州の布教拠点となった。しかし直之は秋月に遷りわずか10年で世を去った。

 その後、長政は死に臨んで、3男の長興に秋月藩5万石を分知するように遺言する。長男で二代福岡藩主忠之は、遺言通り長興を秋月5万石の藩主とした。これが黒田秋月藩の始まりだ。その後,福岡本藩藩主忠之による、秋月藩の「家臣化」、すなわち大名として認めずとする措置や、幕府の一国一城令で,黒田筑前領内のの東蓮寺藩などの支藩が廃止されたりしたが、秋月藩は幕府から大名としての朱印状を貰い、藩主は甲斐守の官位を朝廷から授けられた。こうして秋月黒田家は江戸出府が認められる大名として明治維新まで存続する。

 秋月藩は初代の長興(ながおき)や中興の祖と言われる8代長舒(ながのぶ)など、領民に慕われる名君を生んでいる。もともと秋月藩領内には豊かな田園地帯も殷賑な商業地もなく、藩はのっけから財政難に見舞われていた。長興はそれでも狭い山間部の新田開発を取り組み、山林事業を起こし、領民の年貢を低く抑え、まさに治山治水、質素倹約、質実剛健を旨とした藩政に取り組んだ。島原の乱では、財政が苦しい小藩ながらも藩主家臣一丸となって乱鎮圧に当たり、武功を上げた。またその恩賞を公平に分け、以来、藩主としての長興のリーダーシップ、君主としての名声を確立したと言われている。

 一方、この時期、福岡本藩の藩主をついだ長男忠之は、その不行跡や暴君ぶりが、遂には御家騒動に発展する事態を招いた。孝高以来の忠臣栗山大膳は、幾度も君主に諫言したが取り入れられず、ついに窮余の一策として幕府に「我が君主に謀反の疑念有り」と訴え出る。いわゆる「黒田騒動」である。幕府は結局、筑前一国を一旦黒田家から召し上げ、ついで再度黒田家に知行するという苦肉の策で事態を乗り切る。栗山大膳は奥州盛岡藩お預けとなり、そこで生涯を閉じる。栗山大膳は盛岡藩では罪人として扱われるのではなく、忠義の人として厚く遇されたという。こういう事もあって、人はよく忠之と長興を比較する。長政は長男忠之ではなく、有能で人望も厚い3男長興に福岡本藩を継がせたかったのだ、と言われている。

 秋月藩中興の祖と言われる8代藩主長舒は、米沢藩上杉鷹山の甥に当たる。この偉大なる叔父を尊敬し、その志を藩政に生かし領民に善政を施した。学問を重視し、7代藩主長堅の時に創設された藩校稽古館に福岡本藩から亀井南冥などの高名な学者を招聘し、その弟子、林古処を訓導として多くの弟子を育てた。やがて稽古館は、文人墨客の集まるいわば「秋月文化サロン」の中心となり、米沢の興譲館に勝るとも劣らない繁栄を謳歌する。

 秋月藩は福岡本藩同様、幕府から長崎勤番を仰せ付けられており、長舒の時代には長崎の警備の任に当たった。小藩としては厳しい役務であったことであろう。しかし、したたかに長崎で多くの西欧文化を吸収し、秋月に医学や土木技術を導入した。現在野鳥川に架かる眼鏡橋は、長崎から石橋の建築技法を取り入れ築造したのもである。野鳥川が氾濫するたびに橋が流されて困っていた領民の悲願達成で大いに感謝されたと言う。

 ちなみに長舒は日向高鍋藩の秋月種実の次男であった。秋月家と言えば、あの戦国武将にして秋月朝倉の領主であった秋月氏の子孫である。秀吉の九州平定で降伏し、祖先伝来の地秋月から遠く日向高鍋3万石に改易された無念の歴史を持つ家である。時代をへてその子孫が、養子とはいえ秋月黒田家8代藩主として父祖の地のに返り咲いた訳だから感慨無量であった事だろう。

 3)秋月の乱
 時代は下り、明治になっても秋月は歴史の表舞台から退場していない。明治新政府の廃藩置県、廃刀令、俸禄廃止が強行される。すなわち武士が士族としての身分は残すものの、サムライとしてのアイデンティティー、生活存立基盤を失うことになるのだ。新政府内の征韓論の路線対立もあって、下野した薩摩の西郷や肥前の江藤、長州の前原らの参議有力者を中心に西南諸藩の士族の間にしだいに新政府への反感が募り、不平士族の反乱に発展して行くことになる。江藤新平らの佐賀の乱を皮切りに、ここ秋月でも、熊本の神風連の乱に呼応して宮崎車之助等が蜂起する。秋月の乱である。豊前豊津の同志が決起に呼応するはずであったが裏切りに会い、新政府の小倉鎮台軍に制圧され失敗する。ちなみにこのときの鎮台司令官は若き日の乃木希典。その後、前原一誠の萩の乱などの不平士族の反乱が遼遠の火のごとく広がってゆくが、その最大にして最後の乱が西南戦争である事はいうまでもないであろう。秋月には決起士族が結集した田中神社がある。しかし、今はそんな血気にはやった人々がいた事が信じられない穏やかさだ。

 4)エピローグ、そしてプロローグ
 廃藩置県、秋月の乱でラストサムライ達が去った秋月は、静かな田園集落へと変貌してゆく。そして、歴史の表舞台から静かにフェードアウトして行く。今ここ秋月の地に立つと、往時の黒田家居館跡や稽古館跡、杉ノ馬場(いまは桜の名所となって桜馬場と呼ばれている)、眼鏡橋やわずかに残された武家屋敷に往時の面影を見ることが出来る。しかし驚く事に、今も残る城下町としての縄張りは初代藩主黒田長興が行った縄張り以来ほとんど変わっていない。士族が城下を去ったため、武家屋敷の多くが田畠になったが、今日まで大きな災害もなく、都市化の波にも洗われず、昔の城下町の構造をそのまま残している。奇跡のようだ。かつては文化の中心として古処山麓に栄えた秋月文化サロンも、今は自然との調和が美しい静かな田園集落となっている。秋月城趾に位置する秋月中学の生徒達の元気な「こんにちわ」の挨拶が心地よい。秋月人の礼節とその矜持と心は時代が変わっても残っているのを感じる。さてこれからの秋月はどんな歴史を歩むのだろう。この静かな美しい秋月が永遠に続くことを祈りたい。


 秋月への行き方:
 福岡から車なら高速で甘木インター経由であっという間に到着出来る。しかし、秋月を訪ねるなら,もう少し「遥けき所へ来たもんだ」感を味わうべきだろう。やはり「ローカル線と路線バスの旅」が一番だ。

 西鉄福岡天神駅からは天神大牟田線急行で小郡下車(約25分)。レイルバス甘木鉄道(旧国鉄甘木線。通称あまてつ)乗り換えで甘木駅下車(約20分)。ないしは天神大牟田線宮の陣乗り換えで西鉄甘木線経由甘木というルートもある。甘鉄駅前のバス停から甘木観光バス(路線バス)で野鳥、だんごあんへ(約25分)。

 JR博多駅からなら、鹿児島本線快速で基山下車(30分)。ここが甘木鉄道の始発駅。甘木までは25分。あまてつは一時間に2本、バスは一時間に1本しかないので、乗り換え時間がた〜ぷりある。ゆったり、のんびり、せかせかせず、辺りの田園風景を眺めながら旅すべし。ちなみに甘木/朝倉地方は邪馬台国九州説の比定地である(甘木駅前に卑弥呼の碑、日本発祥の地の石碑有り)。また、バーナード・リーチ絶賛の小石原焼の窯元も近くだ。



(左が黒田家の居館、秋月城。壕を隔てて右は杉ノ馬場、今は桜が植えられて桜の馬場と呼ばれている。春は九州でも有数の桜の名所となる)



(黒門。元は秋月城の大手門であったが、後に初代藩主長興を祀る垂裕神社への門となっている。秋の紅葉が美しい)



(古処山の麓に広がる田園風景。コスモスが秋の訪れを告げる)



(実りの秋。桜の馬場沿いの田圃に彼岸花が咲く)



(眼鏡橋。野鳥川に架かる石橋)

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(撮影機材:Leica M Type 240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm f.2.8 歴史ブラパチ散歩に最適のセット)



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2013年9月17日火曜日

野分け そして茜雲

台風18号は愛知県豊橋付近に上陸し、本州を縦断するように北東に進路を取った。東京は16日午前中から暴風域に入り、我が家の植木鉢も盛大にひっくり返っていた。久しぶりの首都圏直撃の台風である。フライトキャンセル、新幹線の運転見合わせ。鉄道各社も運休や間引き運転で交通網がマヒ。3連休の最終日で大勢の旅行客が立ち往生した。幸い帰省していた娘夫婦は前日夕刻に成田からJFKに向けて帰途に付き、間一髪で東京脱出に成功。ようやく午後3時頃には風雨も徐々に収まり、西の空に薄日が射し始めた。

テレビの映像は、京都の桂川が氾濫し、景勝地嵐山が水浸しになっている様子を映し出していた。あの普段は観光客であふれる渡月橋は濁流に洗われ、あわや崩壊か、と思われるほどであったが、さすがに見かけは古風な欄干を持つ橋も、しっかりしたコンクリート製の橋脚に支えられていて、激流にも微動だにせず立ち向かっている姿が感動的だった。しかし、近畿、東海あちこちで猛烈な豪雨に見舞われ、人的被害も甚大だ。ここのところ日本全国でゲリラ豪雨、落雷や竜巻など、「今までに経験したことのない」災害が多発していている。今年は記録的な猛暑であったし、そうした事態に対応するために新たに設けられた「特別警報」が頻繁に発せられた。

野分とは台風の古語である。野を分けるほどの大風というところから名付けられたらしい。台風と言うより野分と言った方が風雅な響きがする。源氏物語の28帖「野分(のわけ)」や、夏目漱石の「野分(のわき)」で取り上げられているのせいだろうか。しかし、昔から大きな被害をもたらす自然の猛威であることに変わりはない。過去に台風で倒壊した歴史的な建造物は枚挙に遑がないほどだ。古代人は、人知を超えた自然の猛威に神の意志を感じたことだろう。ただ「野分」という言葉の語感に神への畏れのニュアンスが感じられないのは何故なのだろう。

しかし、台風一過。ふと見上げれば、なんと美しい夕焼け空だろう。こんなに美しい東京の空を観るのは久しぶりだ。普段は霞んでいてスッキリとした青空が見える事は少ない。高村光太郎の妻千恵子がゼームス坂の病院で「東京には空がない」と言った意味がよく分かるのだが。この野分はさんざん暴れ回ったあとに、こんな穏やかで美しい茜色の雲の切れ端を置いていった。試練をくぐり抜ければあとには安らぎと感動が待っている、と言わんばかりに。ところで、野分の後の夕焼け空をあらわす風雅な言葉はないのだろうか。












(撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120 f.4, Leica M Type240+Summicron 50 f.2)




2013年9月6日金曜日

甘樫丘 〜神聖なる山の変遷〜

 奈良県高市郡明日香村にある甘樫丘は標高145メートル、比高約50メートルの小さな丘である。飛鳥展望所として飛鳥巡りには欠かせない人気のスポットとなっている。この丘がかつての飛鳥における要害の地であることは、その頂に立ち、周囲を見回すとすぐに理解することが出来る。東には飛鳥川を隔てて蘇我氏創建の飛鳥寺(法興寺)が。さらに談山神社のある多武峰、藤原一族の地小原の里。南に目を転じると飛鳥古京の中心、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、蘇我入鹿が殺害された乙巳の変の舞台飛鳥板蓋宮などの宮都跡が並ぶ。また蘇我馬子の石舞台古墳も見える。西には推古天皇の豊浦寺(豊浦宮)、小墾田宮、畝傍山、さらには二上山、葛城山。その向こうには河内、難波の地が。北には、間近に雷丘、飛鳥川、耳成山、天香具山、そして藤原京跡、さらには、斑鳩の法隆寺、生駒山が展望できる。右手には神聖なる三輪山がそびえている。このようにここからは「飛鳥世界」が一望できる。

 仏教伝来以前の倭国では、甘樫丘は照葉樹である樫の木に覆われた神聖な場所とされ、宗教上極めて重要な地であった。記紀によると、盟神探湯(くがたち)が行われた場所として知られる。これは神裁裁判、呪術的裁判の一種であり、とりわけ国家の大事や、謀反の有無などの重大事案にかかる審判が執り行われた神聖な場所であった。このような山や丘が神聖視されるのは、自然崇拝を元とする古神道の常である。延喜式に甘樫坐神社の存在がみえ、甘樫丘が神南備山として祭祀の重要な場でもあった事をうかがわせる。他にもここ飛鳥には、畝傍、耳成、香具山の大和三山はじめ、雷丘やミハ山などの小さな山・丘が点在している。三輪王朝以前から三輪山が神聖で千古斧を入れぬ聖山として崇められてきたが、飛鳥時代に入ってからもこうした聖山信仰があったのだろう。

 しかし、飛鳥世界の中心にあり、その「権威」の象徴であった山・丘は、その地の利から、同時にその世界を支配する「権力」の象徴ともなりうる。大王家は平地に宮殿を構え、祭祀を執り行なう際に山・丘に上っていたのであろうが、大陸伝来の宗教である仏教を導入、擁護し、倭国の東アジアにおける安全保障と、国内統治の中心思想に位置づけようとした蘇我氏は違っていた。既成の「ドメスティック」な価値観にはとらわれぬ「グローバル派」であったと言う訳だ。

 日本書紀の記述によれば、蘇我蛦夷とその息子入鹿は、大胆にもこの神聖なる甘樫丘に砦ともいえる居館を築いたとされている。権力基盤の確立を図るため戦略的に最も枢要な場所に一族の拠点を確保するという合理性はもっともであるが、これは、とりもなおさず神をも恐れぬ不遜な振る舞いであったことだろう。古来より神の降り立つ聖山として大王家に恐れ崇められてきた場所を占拠し、世俗的権力の拠点化したのだから。しかし、彼らは新興の外来宗教を押しすすめる革新勢力である。倭国古来の権威(さらにそれを重んずる氏族たち)と対抗し、あらたな思想、統治の理念をかざそうとした彼らに取って、甘樫丘の占拠は軍事的な拠点化であると同時に、既成の権威の否定、新秩序確立のシンボルにもなったのだろう。最近の甘樫丘東側の発掘調査で、大掛かりな居館や兵器庫などの遺構が見つかっていることから、日本書紀に記述された蘇我氏の居館の実在が確認されたものと考えられる。

 こうして、蘇我氏による現世的な開発の進行により、何時しか甘樫丘の神聖性は薄れ、乙巳の変での蘇我氏滅亡後も、その神の山としてのステータスが復活することはなかったようだ。その後、宮都も、いわゆる「大化の改新」後、難波へ、大津へ、藤原京へと遷り、飛鳥の政治拠点としての地位も徐々に低下してゆくことになる。

 それにしても蘇我入鹿は、大王家を凌ぐ権力者として、また逆賊として歴史において記述されているが、多くの渡来人勢力をバックに有する蘇我一族の長として、その世界観、時代を読み取る先見性、革新性、行動力は抜きん出たものがあったのだろう。時代を切り開く革新者にして、果てに政治的敗者となったものは、こうしていつも勝者側の歴史書においては悪役として記述されることとなる。飛鳥寺の西側に入鹿の首塚があるが、そこからは甘樫丘を見上げることができる。ここから、展望台に立ってこちらを見下ろしている人々の姿を遠望することができる。入鹿は何を思ってここに眠っているのだろうか... 歴史に「もし...」はないが、もし入鹿が生きて「大化の改新」ではない政治制度の「改新」を断行していたらどのような倭国、日本が出来ていたのだろう。



(東は飛鳥寺を含む明日香村の集落を見下ろす)




(西は畝傍山と二上山を望む。麓には豊浦寺が。)



(北は耳成山、天香具山。手前の飛鳥川近傍に雷丘。遠くに生駒山も見える。藤原宮跡もこの方角)




(甘樫丘の東麓、飛鳥寺付近で発掘調査進む飛鳥の里。)




(飛鳥寺西端にある入鹿の首塚。甘樫丘を見上げて何を思うのだろう)

スライドショーはここから→



(撮影機材:Leica M(Type 240), Voiktokaender 50mm f.1.4)




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甘樫丘への行き方:近鉄橿原神宮駅から徒歩20分。カメバスという飛鳥循環バスもあるが、一時間に一本くらいの運行なので時刻表を確認しておく必要がある。

2013年9月1日日曜日

建仁寺双龍図

京都の夏は暑い。とりわけ今年の暑さは尋常ではないのでなおさらだ。それにもめげず、渇望していた「いにしえの文化の香り」に触れる、というだけでワクワクしながら、関西出張の合間を縫って京都に降り立った。今回は、時間も限られていることもあり、ただひたすら建仁寺の双龍図、雲龍図、風神雷神図を鑑賞するためだけに脇目もふらず現地へ向った。

 建仁寺は祇園の花街、花見小路の突き当たりにある臨済宗建仁寺派総本山。よく日本初の禅寺,と紹介されているがこれは間違いだ。2010年12月24日のブログ「博多聖福寺と今津浦ー栄西の足跡をたどるー」で書いたように、博多の聖福寺こそ、その扁額のとおり「扶桑最初禅窟」である。栄西が宋留学から戻り、最初に禅寺を開いたのが博多の聖福寺だ。1199年に源頼朝のもと、博多百堂に博多の宋の華僑の協力を得て創建したもの。さらに1200年には鎌倉の寿福寺の住持となり、そして1202年に源頼家の開基、京都に建仁寺を開いた。現在手元にある建仁寺のガイド冊子にも「京都最古の禅寺」とある。当初は、禅だけでなく、天台、密教の三宗兼学道場であったそうだ。この時期、京都は天台宗比叡山の権勢が絶大であった。なかなか新興の禅宗を広めるのは抵抗があったのであろう。その後蘭渓道隆により純粋な臨済禅の道場として整備されたという。

 ここは実は文化財の宝庫だ。有名な俵屋宗達の風神雷神図もここにある。これは国宝。海北友松の雲龍図ほか竹林七賢人図などの重要文化財も。潮音庭、◯△□の庭などの禅宗独特の庭園、建仁寺垣など。なかでも御本尊釈迦如来座像のおわします法堂の天井に描かれた双龍図は圧巻である。これは2002年に、創建800年を記念して描かれた新しい作品であるが、その迫力は見るものを圧倒する。小泉諄作画伯の筆になるもの。これが今回のお目当てだ。

 ここのお寺がうれしいのは、全て写真撮影OKという点だ。特に、この法堂の天井画、双龍図は、薄暗い堂内で、露出をマイナス補正して、開放絞り、周辺光量が適度に落ちる広角レンズでの撮影の醍醐味を味わえる。ボストン美術館に収蔵されている曾我蕭白の雲竜図に劣らない阿吽の双龍。天から釈迦如来を守り、見上げる者に睨みを利かせているようだ。ビゲローによって持ち出された曾我蕭白に替わって,今京都で鑑賞出来る双龍図はこれ、という訳だ。しかし、ライカの広角レンズ群の性能を遺憾なく発揮出来る被写体だ。光源に限りがあり、暗くても諧調も豊かだし、広角レンズ特有の樽型の歪みもほとんどない。

 京都に限らず、歴史のある寺院では仏像や文化財,果ては庭園の撮影禁止,というところが多いのはがっかりだが、文化財保護、撮影側のマナーの問題も多いのも事実。しかしここ建仁寺はオープンだ。この姿勢は歓迎だ。もっともここに常設展示されている国宝の風神雷神図も雲龍図もキャノンの技術で高精細デジタル復元したレプリカ。ホンモノは京都国立博物館に展示されている。レプリカであれ、ここまでホンモノに近いものを、こうして本来置かれている場で、身近に鑑賞出来るのはうれしい。そしてなによりも写真撮影OKがうれしい。

 文化財の保存・研究のためにはやむを得ないのだが、私は博物館や美術館のショーケースに治められ、均質なライティングの下で仔細に観察するよりも、こうした木造の建物の中の、庭から射すかすかな薄明かり(available light)のなか、もともとある「場」で観るほうがいい。見えにくいところは想像力で補う... 篠山紀信氏は,あるインタビューで「美術館は美術品の墓場だ」と言っていた。氏らしい表現だが一面の真理をついているような気がする。

「大哉心乎」(大いなる哉 心や) 栄西禅師「興禅護国論の序」より



(法堂には、須弥壇に御本尊釈迦如来座像、脇侍迦葉尊者・阿難尊者、そして天井には2002年、創建800年を記念して小泉諄作画伯筆の双龍が描かれている)




(本坊中庭の潮音庭。シンプルで枯淡な四角形の禅庭だ)




(俵屋宗達の風神雷神図屏風。高精細デジタル復元されたものが展示されている)




(海北友松の雲龍図。これも高精細デジタル復元された襖絵)



(◯△□乃庭。◯(水)△(火)□(地)を表し、禅の世界で宇宙の根源的形態を示すと言う)



(双龍図も角度を変えて眺めるとまた別の迫力を感じる)

撮影機材:Leica M Type240, Tri Elmar 21-18-16mm, Elmarit 28mm

2013年8月24日土曜日

心の二上山 〜ホームとアウェイを分けるもの〜

関西を離れ、ここ東京に「戻って」はや2ヶ月。やっとホームに戻って来たのになんとも、エトランゼ感が強くて,いまだに調子が出ない。久しぶりの東京だから、関西との対比で、また新鮮な再発見や驚き、感動があるかと思ったが、意外にない。暑さと人いきれしか感じないこの夏....  感性が鈍化したのか? 特に週末の時間の過ごし方がなんとも所在ない。関西では時間の過ごし方なぞという観念はない程、大和路散策などで忙しかった。そういえば以前、東京にいた時ははどんなことして過ごしてたのか思い出せない。東京には色々刺激的なところが多いんだが、どれもいまや代わり映えしない気がする。確かに新しいもの,移ろい行くものは多いが、移ろわぬもの、不変のものはドンドン失せて行っているような気がする。

そういう意味では,変化の激しい東京には飽きたのかもしれない。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与え得るもの全てがあるから。」というサミュエル・ジョンソンの名言があるが、「東京に飽きた者は人生に飽きた者」なのか? ロンドンには不変の美、authentic valueがいたるところにあったが。

東京に戻ってくると、当たり前だが、ここには飛鳥の里の稲穂も彼岸花も、唐招提寺の甍も、伎芸天の微笑みもない。聖なる三輪山もそびえていないし、ヤマト王権の痕跡も感じない。なによりもあの二上山が見えない。もちろん、人ばっかりで「都会」の雰囲気はふんだんにあるが、ミナミを跋扈するヒョウ柄のオバちゃんや、上町や谷町のイトはんも見かけない。人目を憚らないケッタイなオッチャンもいない。歩道を爆走するママチャリもなく、日本一の私鉄、近鉄電車も走ってない。電車に乗っても、真っ黒に日焼けしたスポーツ少年達の傍若無人な「アホ話」も聞こえて来ない。なんか,東京に出て来たばっかりの若造の、早くも「もう田舎に帰りたい」感に近い感情なのかもしれない。

なによりも古代史紀行のブログネタに、(当然だが)行き詰まっている。せいぜい今やれる事は、以前モノしたブログを読み返したりして、歴史を観る視点を鈍らせないようするくらいだ。しかし、直木孝次郎先生の「古代を語る」シリーズを読み返しても、どこか遠い所の話のようで時空が縮まって来ない。写真の方は、入江泰吉マエストロの写真集を眺めてみるばかりで、せっかくのカメラも遊んでる。ガラッと雰囲気を変えて都会のブラパチまち歩き、という境地にもまだ至っていない。

振り返ってみると、あまり転勤が多いと,どこが自分のホームなのか分からなくなることがある。常に新鮮、と言えば新鮮だが、この年になると自分に合った,お気に入りの場所がだんだん決まって来るのかもしれない。東京は自分のキャリアアップ(昔風にいえば「立身出世」)、サラリーマン人生的な自己実現の舞台であるし、刺激的なホームグラウンドである。しかし自分の心のホームか?と聞かれれば、なんとなくすんなり「そうだ」とも言えない。かといって、故郷に帰っても,もはや居場所はない。自分の居場所はどこにあるのか。どこへ行ってもアウェー感がするようになってしまったのか?

いやいや、「自分が今いる場所で咲きなさい」なのだろう。「人生いたるところ青山あり、いや二上山あり」だ、と自分に言い聞かせる。



(乙巳の変後に遷都した難波宮から、はるか二上山の向こうにある飛鳥古京を偲んだ孝徳天皇。古代からこの風景は変わっていない。二上山は彼岸と此岸をわける結界なのだ)

2013年8月14日水曜日

筑前福岡から薩摩鹿児島への旅

 九州新幹線の開通で、博多から鹿児島中央までたった1時間20分で行けるようになった。鹿児島も近くなったものだ。子供の頃、鹿児島といえば、心理的には東京、大阪よりも遠い「異国」であったような気がしていたものだ。東京から夜行寝台特急ブルートレイン「はやぶさ」で博多駅に降り立つと、そこからさらに4〜5時間かけて西鹿児島まで。博多で降りる乗客のホッとした表情と対照的に、西鹿児島まで行く乗客の「まだ汽車の旅は終わっとらん」という充血した眼が印象的だった。私自身、博多から先のことはあまり考えきらんかった。熊本ですら「遠かあ」と思っていた...

 そもそも、人は「九州」とひとくくりにして語るが、九州は九州でも、福岡・博多と鹿児島では全く違う。よく「ご出身はどちらですか?」と聞かれて「福岡です」と答えると、必ずと言ってよいほど「ああ、九州ですか」と再確認するような反応が返ってきたものだ。私は「いや福岡です。つまり博多です」と改める。この返事には2つの内包するの意味があると思っていた。一つには、「九州」とひとくくりにしないでくれ。福岡と熊本と鹿児島はそれぞれ違う。二つには、福岡という町の九州における存在感の薄さ、換言すれば、福岡と言われてもピンと来ないので「九州」という大きな概念に包摂される「福岡」という捉え方に対する反発。せいぜい「つまり博多です」と言って個性を主張しようとするが、博多と福岡も実は違う町だから、なんとなくもどかしい。いまでこそ福岡は人口150万の九州一の大都会になっているが、ひと昔前までは門司や熊本、長崎、鹿児島に比べると単なる通過都市のイメージであった。

 「九州」というある種強烈なイメージは、おそらく薩摩隼人や肥後モッコスのような九州男児(反権力、しかし保守、男尊女卑、酒が強い等等)のステロタイプイメージに起因するものなのかもしれない。縄文人の子孫である熊襲・隼人のイメージだ。しかし、九州は実に歴史的文化的背景を異にするクニグニの集まりである。鎖国以降発展した長崎はもう一つの異文化圏だ。大分、宮崎は九州の中では少し影が薄いように思われているが、大分は豊後の大友氏中心に栄えたの瀬戸内文化圏。宮崎は薩摩島津氏の影響を強く受けた地域である。

 北部九州は、魏志倭人伝にでてくる「倭国」の世界だ。邪馬台国の位置が論争になっているが、いずれにせよ今の北部九州の玄界灘沿岸が大陸との接点で、稲作文化を始め、日本における先進的な弥生文化の発祥の地であり、後の邪馬台国連合の重要な国々があったところであることには変わりがない。ヤマト王権が本格的に北部九州、筑紫に支配権を及ぼすのは「筑紫の磐井の乱」以降だ。最初は九州全体を「筑紫」と呼んでいたが、のちに、律令制が確立する時期には、筑紫国(筑前、筑後)、肥の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)、薩摩国(薩摩、大隅、日向)に分けられて、「九州」の文字通り九つの国名が定められることになる。

 考古学的に見ると鹿児島や宮崎などの南九州は、朝鮮半島の影響を受けた北部九州の稲作弥生文化圏の延長というよりは、その以前の縄文文化圏の影響を後世まで引きずっているように思われる。黒潮に乗って、琉球・南西諸島経由で南方の文化が上陸した地域だ。飛鳥。奈良時代には「隼人」と呼ばれる人々が勢力を保ち、奈良時代も後半になってようやくヤマト王権・大和朝廷の支配下に入るという歴史を持っている。ちなみに記紀によれば葦原中津国である大和、日本発祥の地、天孫降臨の地は、なぜかこのまつろわぬ民「隼人」の土地、日向の高千穂であることになっている。一方、九州中央部の阿蘇山系に位置する熊本・菊池地方の土着勢力は「熊襲」と呼ばれる人々だ。3世紀半ばに中国の魏王朝から冊封を受けた北部九州の邪馬台国連合と対抗した、すなわち魏志倭人伝にいう「狗奴国」ではないかとも言われている。

 中世以降、鹿児島は、島津氏の領国支配の拠点となる。島津氏の出自には、源頼朝御落胤説、藤原摂関家筆頭である近衛家の荘園島津荘代官説、様々な説があるようだが、鎌倉幕府から、平氏の勢力が強かった西国九州をおさめるために派遣されてきた御家人であったのだろう。いわゆる西遷御家人である。また元寇のとき以降、任地である薩摩に本格的に定住し始めたと言われる。以来、曲折はありつつも薩摩、大隅、日向諸県郡と三州をおさめる君主として800年にわたってこの地に君臨した。このような例は日本史においても世界史においても希有であると言われている。

 しかも歴代名君が続き、「島津に暗君なし」と言われた。戦国大名として、一時は覇権を競った豊後の大友氏を破り、博多では大友氏、周防の山内氏の貿易利権を奪う勢いであったが、豊臣秀吉の九州平定作戦の下、黒田官兵衛の軍に破れ、薩摩に引きこもる。また1600年の関ヶ原合戦時には西軍に属し出陣したが、島津義弘は合戦に兵を出さず不動を保った。しかし西軍の負けが決まると、あの勇猛果敢さを歴史に残す敵中突破で鹿児島に帰国する。その後の徳川家康への恭順、和議工作に勝利し、本領を安堵され明治維新に至っている。この辺りが同じ敗軍の将となった毛利輝元と大きく異なる。中国地方の覇者であった毛利家は周防・長門二カ国に減封されて、長く苦渋を味わう。そしてその関ヶ原の恨みが250年後の幕末期、反徳川運動を爆発させる原動力となった訳だ。

 島津家は、江戸時代を通じて、徳川将軍家と浅からぬ姻戚関係を持ち、外様大名としては異例の二代の将軍の正室を出している。その一人が斉彬公の養女篤姫である。このような徳川幕府との関係から、幕末においては、倒幕一辺倒の長州とは異なり、幕府政権中枢に影響力を有していた。幕府に影響力を持つという辺りは同じ外様の土佐藩主山内容堂も同じスタンスであった。特に島津斉彬は先見性を持った英明君主である。彼の死後、引き継いだ異母弟久光の時代に起きた生麦事件などの行きがかり上、英国と戦った(薩英戦争)が、その実力を双方共に認めあい、薩英同盟を結んで、欧米の文化、技術を積極的に導入した。薩摩藩英国留学生を送り込んだのもこの頃だ。そして斉彬のような開明的な君主の先見的な領国経営、世界戦略と、能力に応じた人材登用が時代のパラダイムシフトの原動力となり、明治新体制を作り出した。

 これまでも薩摩藩は、鎖国政策下において琉球を通じて中国や南方諸国との貿易で大きな利益を揚げてきた。鉄砲はポルトガル人により薩摩領の種子島にもたらされ、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本への布教にあたってまず鹿児島にその一歩を記している。大航海時代、16世紀末のオランダで作成された日本の地図に都市名が記載されているのは、Miaco(みやこ、京)の他には、Cangaxuma(鹿児島)、Facata(博多)、Firando(平戸)、Sacay(堺)のみである。鎖国政策の徳川幕藩体制下においても海上貿易は活発に行われ(江戸幕府からみれば密貿易だが)、ついには琉球を薩摩藩領にしてしまう。江戸や京都といった「中央」からの目線では南九州の辺境の地である薩摩は、幕末には西欧列強の北上戦略の危機にもさらされており、外に向かって世界戦略を持たざるを得ない地政学的位置にあったといえる。

 話はかわるが、薩摩の二大英雄、西郷隆盛、大久保利通は古くからの盟友であったが、新政府内の政争で西郷は野に下り、西南戦争で悲劇的な最期を遂げる。大久保は明治新政府の中枢にあって辣腕を振るうが、やがては不平氏族に暗殺される。西郷が倒幕/維新を導き、大久保が新しい日本の仕組みを作った。しかし、地元鹿児島では、圧倒的に西郷さんの人気が高く、大久保は全く人気がない。西郷さんの子孫は今でも地元の名士であるが、大久保の子孫は地元には誰も残っていないそうだ。そういえば銅像一つない。最近になってようやく鹿児島中央駅前に「維新の群像」の一人として故郷に錦を飾ったが、このときも地元では大きな論争があったそうだ。故郷をあとにして中央で舵取りした大久保よりも、地元に帰って不平士族に担ぎだされた西郷さんの方が慕われる、という、中央政府を牛耳るようになった薩摩にあっても、なおアンチ中央意識はくすぶり続け、今に至っているのだろう。

 鹿児島の町を歩くと、他の城下町とは異なる空気を感じる。それはもちろん仙巌園などの島津氏の存在感や、西郷さんなどの維新の志士たちにまつわる旧跡、遺構が随所にみられることもあろう。まず城下町としてみると、鶴丸城は、城山を背負った平城で大きな天守閣などはない。しかも頑丈で無骨な石塀(石垣?)に囲まれている。昔の上級武家屋敷跡も石塀を連ねた堂々たる構えのものが多い。旧制第七高等学校跡や西南戦争ゆかりの私学校跡もその長大な石塀が残されており、歴史の移り変わりに関係なくその存在感を示している。白漆喰に瓦屋根といった典型的な城下町の趣ではなく、ここは石の文化の城下町だ。薩英戦争と戦災で町が破壊されているにもかかわらず、「石の町」は往時の薩摩の都の風格を今に残している。

 明治維新後の廃藩置県で、多くの大名家は、領国を離れ、華族として東京で暮らし始めたが、ここ鹿児島は、今でも島津家が様々な事業や文化活動の中心にいる。島津家の別邸であった磯御殿、仙巌園も未だに島津家が所有し、運営している。斉彬公の手がけた近代化プロジェクトの遺構である尚古集成館(機械工場)や異人館(紡績工場外人技術者寮)も島津家により保存運営されており、有名な薩摩切り子も現在の島津家が復刻させ、工房を運営している。

 以前、福岡に大名文化の痕跡はあるか、というブログを書いたことがある。福岡が黒田氏の城下町であった趣があまりにも薄れていると感じたので書いたものだ。今回福岡から鹿児島へ旅して、改めて筑前福岡藩と薩摩藩の違いを感じた。同じ外様大名、西南の雄藩と言われた藩であり、ともに徳川宗家との姻戚関係をも有する名家である。それが明治維新においては、それぞれにスタンスが微妙にずれて、薩摩は倒幕をリードした維新の功労者にして、新政府の主導的な役割を担うのに対し、かたや、福岡は最後の最後になって勤王倒幕派を大弾圧して維新に逆噴射する。維新直後には贋札事件なども起こし、版籍奉還の前に領国を没収される。そして新政府では福岡藩出身者は懲罰的冷遇を受ける。おなじ九州といってもこのギャップは大きい。

 黒田家は、江戸時代後期には世継ぎがなくて、他家からの養子が代々藩主を務めた。中でも蘭癖大名といわれた黒田長溥(ながひろ)は薩摩島津家からの養子で、島津重豪の13番目の子であった。島津斉彬の大叔父でにあたるが二歳年下で仲が良かったとされる。筑前福岡藩は、隣の肥前佐賀藩とともに、幕府から長崎勤番を仰せつかった藩で、長崎における西欧文化や技術にいち早く触れる機会に恵まれた。このように福岡、佐賀、鹿児島は蘭癖大名が育つ環境にあったと言えよう。薩摩藩は先述の通りであるが、肥前佐賀藩も鍋島直正(閑叟)は、藩内に日本で初となる反射炉を造り、高性能な大砲を製造した。また洋式の造船所を建設する等、藩の殖産興業につとめた。筑前福岡藩の長溥も開明的な君主で、父島津重豪や斉彬の影響を受けて先進技術の導入に関心を示し、中洲に反射炉をもうけたりしたが、肥前や薩摩ほどの広がりを持たず、福岡藩内の近代化遺産は、いまその痕跡すら残っていない。

 同じように西欧の文化技術に触れ、近代化に意欲的であったにもかかわらず、筑前は、先述の如く明治維新では薩摩、肥前においてかれてしまう。皮肉な対照を見せることとなった訳だ。薩摩の島津、肥前の鍋島、ともにもともと関ヶ原以前から地元に根を生やした一族である。長州の毛利もそうである。黒田のように、関ヶ原以降に他国から入国してきた大名とは異なる。いわば転勤してきたサラリーマン社長と地元のたたき上げ創業者社長の違いみたいなものを感じてしまうのは考え過ぎだろうか。




(尚古集成館。斉彬公の近代化プロジェクトの一つで集成館機械工場跡。石造りの洋風建築だ。今は薩摩藩の産業遺産の博物館になっている)




(復刻された薩摩切り子。ぼかしの技法は薩摩独自のもの。その美しさも価格も宝石並みだ。店頭在庫は限られておりすべて職人の手仕事なので、注文してから入手まで最低半年待つことになる。)


(撮影機材:Leica M+Summilux 50mm, Sony RX100)