ページビューの合計

2014年5月28日水曜日

最初の開港場 伊豆下田 〜ペリー提督が歩いた街〜

(ペリー提督上陸地。Perry Point。黒船祭のメモリアルセレモニーが開催。下田市の姉妹都市で、ペリー提督の故郷ロードアイランド州ニューポート市長がスピーチ)

 今回は第75回黒船祭開催中である伊豆下田に出没。5月16〜18日にかけてペリー艦隊一行の下田上陸、日米和親条約下田条約締結を記念して日米友好のパレードなど、いつもは静かな下田の街が国際色豊かなお祭りで賑わう。ペリー上陸地点(Perry Point)では、下田の姉妹都市でペリー提督の出身地である米国ロードアイランド州ニューポートからは市長が出席。メモリアルセレモニーでスピーチした。また、米国陸軍座間キャンプから在日米陸軍軍楽隊、横須賀基地からは米第七艦隊軍楽隊、海上自衛隊横須賀基地軍楽隊、地元中学生、幕末の仮装行列などがにぎやかに市中パレードを行った。小さな町の狭い通りでのパレードなので観客もパレード参加者も一体となった和気あいあいとした雰囲気が醸し出されていた。米陸軍軍楽隊の「星条旗よ永遠なれ」と、海上自衛隊軍楽隊の「軍艦マーチ」が共存していて時の流れを感じさせる。沿道のおじいちゃんおばあちゃんは「軍艦マーチ」と旭日旗(軍艦旗)のパレードに手拍子。やっぱそうなんだ。たしかに血湧き肉踊るなあ。でも、パレードに参加しているアメリカ人の子供の「Konnichiwa, Minasan, Konnichiwa」の連呼に沿道からやんやの拍手。このパレード一番のかわいい人気者であった。

 了仙寺では、ペリー一行と幕府代表との下田条約調印セレモニー再現劇が観客を喜ばせていた。街中では踊りや演奏会や、ストリートパフォーマンスが繰り広げられる。通りは歩行者天国になっていて町内ごとにいろいろイベントが企画され、アメリカの水兵も焼きそば食べたり、ゲームに参加したりで、和やかな雰囲気だ。やがてパレードも終わり、静かな下田公園の展望台に登る。そこから眺めた、眼に鮮やかな新緑に包まれた下田港は美しかった。夜になると湾で花火が打ち上げられた。

 ところで、なぜ開港場第一号が下田だったのだろう。

 ペリーは1853年の第一次来航では江戸湾内の久里浜に上陸し、浦賀奉行所が接遇した。しかし、幕府の交渉一年猶予の要望を受け退去する。翌年1854年に約束より半年早く(ロシアの日本への接近を警戒したと言われている)再び江戸湾に現れ、この第二次来航では幕府が指定した横浜に上陸した。そこでひと月ほど、幕府側全権であった林大学守と交渉したのち、日米和親条約の主たる条文(12か条)の締結が行われた。これが神奈川条約だ。さらに、ペリー艦隊は早速開港地となった下田に場所を移し、実況検分をかねて滞在する。そこで残りの条文(13か条)の締結した。これが下田条約だ。

 下田は伊豆半島の南端に近い港町で、江戸からはかなり離れている。江戸時代には江戸と諸国を結ぶ回船の風待ち港として栄えた。ここには幕府の御舟番所、下田奉行がおかれ、最盛期には年に3000隻の廻船が入港したという。実際は今の下田港ではなくて、少し南の大浦に舟番所が置かれていたという。今は下田東急ホテルが見下ろす静かな浅瀬の内海だ。やがて、江戸湾内の船舶往来が盛んになると1720年に奉行所は相模浦賀に移され、下田は寂れてしまった。天保年間に入り、外国船の来航にそなえるため、再び下田奉行がおかれ、浦賀・下田体制で警備にあたるようになる。しかし、とても江戸や大阪といった主要都市との通商、幕府との交渉に便利な位置ではない。なぜ下田が選ばれ、なぜペリーはそれを承諾したのか?

 もともとペリー来航の目的は日本との交易もさることながら、太平洋を隔てて中国との航路を確保することであった。当時の米国は欧州列強に伍して中国進出をめざしていて、大西洋、喜望峰、インド。マラッカ海峡経由アジアという南回り航路に代わる、太平洋ルートの開拓に国運をかけていた。その航路上にある日本は米国船への食料・薪炭補給、乗員の休息、漂流民の救助保護拠点の確保という点で重要であった。当時の外航船は外輪蒸気船で、すでに西太平洋には多くの米国船が出没していたが、航続距離の点で途中補給拠点が不可欠であった。

 またその多くは捕鯨船で、当時、鯨油をとるための捕鯨は米国の一大産業であり、世界中の海に乗り出してクジラを捕りまくっていた。そんなときに大事な西太平洋で鎖国や外国船打払なんかしておられては困る、というのが彼らの論理だ。ペリーは日本との通商をまず狙うのではなく、まず太平洋航路確保のために、日本を開国させることに力点を置いたのだろう。捕鯨船や商船の太平洋航路における避難港、食料、薪炭補給基地としては、外洋に面している下田、箱館がむしろ適していた。ペリーも、実際に下田と箱館に実地検分に出かけてそれを評価した。

 ちなみに、アメリカ東海岸のボストンやニューポートには今でも往時を偲ぶ捕鯨博物館がある。この頃からクジラの乱獲が進み、世界の海から鯨資源が枯渇し始めたのだ。当時の日本では土佐や紀州あたりで漁民はせいぜい、小舟に乗って近海で細々と鯨をとっていた程度であった。こう振り返ってみると、かつて資源を枯渇するまで大量に捕りまくったアメリカや西欧諸国に、今更日本の捕鯨活動を非難されるいわれなど無い、とつい感情的になってしまう。ちなみに土佐の漂流民、ジョン万次郎はアメリカの捕鯨船に沖ノ鳥島で救助され、船長のホイットフィールドに伴われてアメリカで生活し、教育を受けた。その後、幕末の鎖国日本に命がけで帰国し、幕末から明治初期に活躍したた話は有名だ。という訳で、小笠原諸島まで自分の庭先のようにアメリカ東海岸を基地としたの捕鯨船が往来していた。


  ペリーはポーハタン号を旗艦とした6隻の黒船で下田に入港し、湾内に停泊した(写真は下田ロープウェーのパンフレットから)。そこから上陸し(現在Perry Pointとして記念碑が建っている場所)、幕府との交渉場に指定された了仙寺まで、軍楽隊を先頭に行進した。この間わずかに800メートルくらいの距離である。現在は川沿いに古い街並の残る下田の名所になっている。ペリーロードと名付けられている。当時のイラストレイテッドロンドンニュース、ペリー日本遠征記等の記事や挿絵に了仙寺や川や橋が描かれており、今もあまり風景が変わっていないことに気づく。

 ペリー一行は日本の実情、下田港の有用性を検分するために街のあちこちを見て回っている。「ペリー日本遠征記」には、寺での水兵の葬儀の模様や、街の物売りの様子など、仔細に記述されていて、物珍しげに見て回った様子が窺える。なかでも公衆浴場が男女混浴である様を見ておおいに驚いている(ペリー日本遠征記に挿絵がある。よほどビックリしたのだろう)。街を歩き回る際、役人につきまとわれて迷惑した話や、地元民は好奇心旺盛で、友好的に乗組員たちと言葉を交わした様子が描かれている。役人が地元民に戸を閉めて家に閉じこもっているように指示したことにペリーが抗議したことも記述されている。また食事の供応で、食前酒として出された保命酒が評判が良かったようである。今でも市内の創業100年の酒店土藤商店で売られている。元々は備後鞆の浦の名産で、老中阿部正弘が福山藩主であったことから江戸幕府にも献上されていたそうだ。下田でも奉行所が取り寄せたものだとか。

 1856年、タウンゼント・ハリスが初めての駐日米国領事として下田に着任し、玉泉寺に日本初の米国領事館が開設された。するとハリスはすぐに「領事裁判権」を幕府に認めさせて、いわゆる不平等条約の走りとなる第二次下田条約を締結した。1858年、彼が全権として交渉を始めた日米通商修好条約で、ようやく通商のための港として、長崎、兵庫(神戸)、神奈川(横浜)、新潟、函館が指定開港場となる。この条約が、日本側にとって「関税自主権」「治外法権」という課題を将来に残す不平等条約と言われるものだ。いずれにせよ、ようやく日本が米国にとって、単に港を開くだけでなく、通商相手国として登場することになった。

 当時のアメリカの対アジア戦略は、イギリス、フランス、ロシアといった列強諸国のアジア植民地進出に対抗して、中国・日本との自由貿易を推進することが戦略であった。遅れてきた資本主義国としては選択肢があまり無かったのだろう。ハリスはその交渉の全権をまかされていた。幕府は同時にイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商修好条約を締結した。「関税自主権」が日本側に無いことで、日本からの輸出品の関税は高く、相手国からの輸入品の関税は安く設定され、構造的には輸入超過で通商条約による貿易上のメリット(貿易収支黒字)が望めなかった。一方、欧米諸国からの機械や武器などの輸入品を安く手に入れることが出来たので、結果的に産業の近代化に役立ったとの見方もある。日清戦争終結後の1899年、新たな日米通商航海条約が締結され、ようやく懸案の不平等条約は解消される。

 話を下田に戻すが、下田の街には、当時外国船向けに必要な物資を提供する「欠乏所」が設けられた。薪炭・食料などの必需品だけでなく日本の特産物などの土産品も扱われていたようだ。正式の条約発効前に、入港する外国船との「事実上の交易」を許すものであった。今、その跡地は平野屋というナマコ壁のしゃれたレストランになっている(ここのハンバーグはうまい)。また、初めての外国船に開かれた港として、坂本龍馬など、維新の志士が若き日に下田を訪ねている。吉田松陰はここからアメリカ密航を企て、黒船に夜陰に乗じて乗船する。ペリーもその志を是とするも幕府役人に引き渡されている。

 しかし、下田は横浜開港の6ヶ月後に閉鎖される。わずか5年の開港場であった。もとより通商拠点としては考えられていなかったためか、外国人居留地や貿易商の進出も無かった。また、1858年の日米修好通商条約が締結されたことに伴い、ハリスは初代公使となり、下田玉泉寺の領事館を引き払って、江戸麻布の善福寺に公使館を設け、遷った。こうして開国騒ぎで歴史の表舞台に躍り出た下田はもとの静かな港町に戻った。江戸時代には、先述のように横浜村より下田のほうが活気ある港町であった。横浜は、東海道の神奈川宿ハズレの名も無き小さな寒村であった。横浜村は幕末から明治にかけて開港場として急速に開発され、欧米式の港湾設備が建設され、外国人居留地が設けられ、西欧文明の玄関口としての役割を果たした。我が国初の鉄道も新橋・横浜間に開通。いまや日本第二の人口を有する大都市に発展した。

 下田は、戦後になるまで鉄道が無く、伊東から下田までの伊豆急行線が開通したのは昭和36年(1961年)のことである。それまで天城山越えの下田街道以外、唯一の交通手段は船であった。川端康成の小説「伊豆の踊り子」の有名なラストシーン、東京へ帰る学生と、踊り子の別れのシーンはこの下田港の岸壁が舞台である。皮肉にも初めての外国への開港場となった下田も、明治の近代化、昭和の敗戦(海軍基地があり空襲は受けた)、戦後のバブル、という歴史の荒波に翻弄されることなく、ある意味取り残された感がある。かつてペリーが歩いた下田はいまは、温泉や海水浴場と文学作品(「伊豆の踊り子」「唐人お吉」)、そしてアメリカとの交流の痕跡をとどめる観光の街になっている。アメリカ人であふれかえる黒船祭のにぎわいが、一瞬、栄光の歴史のフラッシュバックのように過ぎ去って行った。



パレードがペリー上陸地点から出発





(ペリー艦隊一行の下田上陸、行進を思い起こさせる。日米軍楽隊を先頭に華やかなパレードが繰り広げられる)





「HeyYou!そこで何やってんだ、パレードにも参加せずもう飲んでるのか?」



(下田条約を締結した了仙寺で、その日米交渉の再現劇が催される)








(亜米利加東印度艦隊の水兵も、今の第七艦隊の水兵のように下田上陸を楽しんだのだろう)






(昔ながらの家並が続くペリーロード界隈。ペリー上陸地点から了仙寺へ向かう通り沿いだ)



(下田公園展望台からの下田港)




(同じポイントからの古写真。大正初期の写真だとか)



(ペリー日本遠征記の挿絵。下田条約が調印された了仙寺門前あたり風景。今もあまり変わっていない。)










紫陽花


このブログ、テスト再開します。
紫陽花の季節になりました。歴史の現場を巡り、その風土と景観を楽しみながら、時空を旅します。折り折りの花や緑がそれに彩りを添える事でしょう。写真をたくさんアップしますのでお楽しみに。


2014年5月16日金曜日

倭国の「神」と「仏」 〜「倭国」から「日本」へ〜

1)八百万神という多神の世界

 「倭」の神は弥生以来の水稲耕作社会を基盤とした農耕神である。その自分たちが生きる土地に豊穣をもたらす穀霊神、土地と一族を守る産土神である。それはまた一木一草に神宿る自然崇拝であり、一族の祖先を祭る祖霊崇拝でもある。すなわち多神教世界である。八百万の神々がいた。稲作は北部九州に大陸から伝わった生産技術、生活様式であり,在来の縄文的な狩猟採集生活を営んでいた原住民との間に徐々に融合が進んで行ったと言われている。以前からの自然崇拝信仰(土偶に見られるような)もあったのだが、定住農耕生活の開始とともに新たな農耕神が古神道の中心になっていったのだろう。しかし、そうした自然崇拝、祖霊崇拝の古神道の姿はいつから皇祖神アマテラスを中心とした神社神道に替わって行ったのだろう?

 弥生時代から「倭」の時代、稲作農耕社会にとって、生産手段たる土地の所有、水源の確保、天変地異、天候の予測、土木技術、農具とりわけ鉄器生産確保、労働力としての人民の確保と統率、生産管理、収穫物(富)の流通、保管、分配、蓄積。やがては奪い合い、戦いなどをマネージできる支配者が現れる。生産集団はムラになりクニになる。その集団を守る神が創造される。神の意思をを伝え、祭りを執り行う司祭や巫女がムラやクニの意思決定に重要な役割を果たす。こうしてムラ、クニの数だけ、氏族、豪族の数だけ神がいるという多神の世界が出現した。いわば「私地私民制」の時代の倭国はそうした多元的なムラやクニの集合体であった。

 やがてそのなかから、クニグニの争いによる資源の消耗を避けるために、複数の氏族・豪族や王により共立された大王が生まれる。倭国連合の盟主邪馬台国の女王卑弥呼もそうした大王の一人だったのだろう。しかし、その大王は,全ての土地,人民という生産手段を支配し、富を囲い込む権力を手中に収めるには至っていなかった。認められていたのは、神と通じる事により地上の政(まつりごと)を決めるための宣託を行う祭祀者としての「権威」であった。

 古神道の世界では、神は天にいて,時々地上に降り立つ。神は姿も無く言葉も発しない。教えも説かない。神の降り立つ岩、石、樹、森、山など、神籬、磐座、よりしろに、人々が祭礼を行うために集まったのが古神道の原型である。それは稲作という生産活動を行い、生活を営むムラの近くにあった。後にそこに遥拝所として社が建てられ神社になってゆく。ご神体山やご神木、鎮守の森は神社の建物を守るものではなく、その山、木、杜そのものが神のよりしろであったのだ。今でも田舎の小さな村の鎮守の杜には、そうした弥生の,倭国の神のよりしろの佇まいを良く残している所がある。神社の建物に凝り出すのはずっと後のことなのだ。また、神社には仏教寺院の仏像のような偶像崇拝の対象は存在しない。


2)唯一最高神アマテラスの出現

 しかし、4世紀にはいってヤマトの大王(ヤマト王権)が徐々にその倭国の支配権を拡大する中で、他の豪族や氏族と異なる支配の正統性と権威を獲得しようとする。最初は、東アジア世界の中心であった中華王朝への朝貢、柵封による倭の支配権の認証を得る事であった。1世紀の漢倭奴国王や3世紀の親魏倭王卑弥呼の時代から続くこうした中華帝国皇帝による統治権威の認証は、華夷思想に基づく東アジア世界秩序のスタンダードな形式であった。なにも倭国に限った話ではない。5世紀の倭の五王の時代には倭国王の柵封認証は朝鮮半島南部の支配権にまで及ぶ事となる。

 倭国を実質的に支配する中央集権的な力を備えるには、さらに300年以上の時間が必要であった。頭角を現した有力豪族蘇我氏を倒し、朝鮮半島白村江の闘いに敗北し、倭国存亡の危機に直面し、さらには国内最大の内乱、壬申の乱を経て王位に就いた大海人大王(天武天皇)の時代を待たねばならない。大王/天皇を中心とした国家体制の整備のためには、まず多くの氏族、豪族が支配する土地と人民、すなわち「私地私民」制を廃して、天皇の「公地公民」制確立、という経済政治体制の大変革が必要であった。そしてそのためには、私地私民体制のイデオロギーである八百万の多神の世界から、それらの神々の上に立つ神、すなわち他の氏族豪族の神々の上に位置する唯一最高神の創造が必要であった。しかもこの天から降臨して来た唯一最高神の子孫が大王/天皇であるという、新たな統治の正当性イデオロギーが不可欠であった。

 こうして皇祖神天照大神という八百万の神の上に存在する唯一最高神が創造され、その天上界から最高神の命を受けて降臨してきた神の子孫が地上の支配者たる天皇であるというストーリが組立てられた。従来からの在地の神々や氏族豪族の神々は、その最高神やその子孫の様々な営みから生まれ出てきたものとする、いわば八百万の神々の「再定義」「体系化」が進められる。それを明文化したのが日本書紀や古事記に表された神話の章である。しかし、本当は前述のように、弥生以来の歴史的経緯からみると、まず八百万神々(多くのムラ、クニ、氏族、豪族)がいて、後に皇祖神天照大御神(大王、天皇)が生まれた。

 このように皇祖神アマテラスの創造、天孫降臨神話は7世紀後半の天武/持統天皇時代に、天皇中心の新しい国家統治体制の確立を目指して「開発された」ストーリーである。このストーリーを描いたのは、天皇親政をとり、側近をあまり持たなかった天武天皇の唯一の忠臣(右大臣も左大臣もおかなかった)中臣大嶋であると言われている。巳支の変で功績のあった中臣鎌足の子,藤原不比人はまだ幼く、権勢を振るうまでにはまだ時間があった。大嶋は鎌足の直系ではなく、傍系であったが、中臣氏は天照大御神に仕える天児屋根命の子孫であるとする。これが後の藤原一族の天皇側近としての長きに渡る栄華を保証する「立ち位置」を示す重要な根拠であった。

 皇祖神天照大神は、天皇の宮のある大和ではなくて、大和を遠くはなれた東国の伊勢に鎮座する。なぜ伊勢に鎮まったのか。天皇は自らの祖霊神を身近な宮廷の地に祀らなかった。一説に壬申の乱と関係があると言う。吉野を脱出した孤立無援の大海人皇子を救ったのは、大和の東にいた伊勢大神であった。代々伊勢神宮の神官を務める渡会氏の祖先である伊勢の豪族勢力が、大海人皇子を助け,近江京を攻め、大和に凱旋。飛鳥に王位継承を可能ならしめたと言われている。この伊勢大神が天照大神に同体化された。皇祖神アマテラスの登場は、大海人皇子、天武天皇の即位のプロセスに深い関係を持っているようだ。ちなみに神武天皇の東征伝説も、この時の大海人皇子の戦い、大和凱旋のルートをモデルにして創作されたともいわれている。

3)仏教の受容

 一方、仏教は6世紀半ばに百済の聖王によって倭国にもたらされたが、当然ながら時の欽明大王は異国の神の受け入れには慎重であった。いかに時代がグローバル化し世界思想たる仏教が東アジア世界の潮流であったとしても、弥生的な鷹揚さを持った多神世界であった当時の倭国であっても、容易に新しい外来思想を受け入れる事は出来なかった。しかし渡来人コミュニティーを背景に持つ蘇我氏は積極的に導入を推進、飛鳥に法興寺を建立する。廃仏派の物部氏らと対立したのは既知の通りだ。やがては用明大王の時代、蘇我氏が物部氏を打倒し、聖徳太子、推古大王の時代に至りようやく大王家が仏教を取り入れることになった。特に蘇我一族につながる聖徳太子は篤く仏教を信奉し、斑鳩宮に法隆寺を建立した。蘇我氏は倭国に革命的な思想を持ち込んだ。弥生的な多神教世界に一神教を持ち込んだのだから。やがて蘇我一族の内紛としての聖徳太子一族(山背大兄王子一族の抹殺による)の血脈の断絶、巳支の変による蘇我宗家の滅亡へと歴史は大きく転換するが、仏教の法灯は生き続ける。

 本格的に仏教を受容した最初の大王は欽明大王であった。それ以降、仏教寺院は私寺(蘇我氏の法興寺、聖徳太子の法隆寺のような)としてではなく、官寺として造営されるようになる。天武/持統時代には大官大寺や薬師寺が建立される。すでに仏教伝来からおよそ一世紀以上の時間を要している。国家統治の理念として、鎮護国家思想が取り入れられるのはさらには聖武天皇時代の東大寺大仏建立を待たねばならなかった。

 このように仏教が天皇により国家統治の理念として受容されてゆく道のりは険しいものがあった。しかし、仏教は神道の神と違い、姿形、言葉を持って人々と接する神であり、現世利益という点では共通するものの、教えを説く神である。しかも、限られた地域や一族だけの神では無く、多神教でもない。その教えは無為無辺であり、私地私民制的な分立体制を打ち破る公地公民制、統一国家の思想としては最適でもあった。またビジュアルとしても異国風の堂々たる寺院建築と美しい威厳に満ちた仏像が人々を引きつけ、権力者の権威を可視化させる効果があった。こうした中央集権的な「公地公民制」移行を目指す勢力に取って、仏教ははまたとないシンボルでありイデオロギーとなっていった。

4)「倭国」から「日本」へ

 このように氏族豪族が群有割拠する倭国の分断化された「私地私民」の体制を打破し、大王(やがては天皇)を中心とする律令制、公地公民制による中央集権的な国家体制の確立に必要な思想、理念が求められた。これが皇祖神天照大神を最高神とする八百万の神々の体系化(それを正史として明文化させた日本書紀)と、外来の神(思想)である仏教による鎮護国家思想である。国家統治ディシプリンとして、経済改革、政治改革の中心理念として確立されていった。分権から集権へ。これが「日本」という国家の始まりの姿であった。「倭国」から「日本」へのパラダイムシフトである。

 やがては大王は自らを天皇と名乗り,倭国は日本と国号を変える。これは,中華帝国の皇帝が支配する宇宙以外に東アジア世界にもう一つの天帝が支配する宇宙がある事を宣言したものだ。自ら名乗った訳でもない「倭」という国号を捨て、太陽神の子孫が統治する日の出る国「日本」を名乗る。これは中華帝国の柵封体制からの離反を意味する。日本はこの時中国皇帝の柵封国家から独立国家となることを宣言した。

 我が国に現存する唯一の正史である「日本書紀」や「古事記」は、7世紀後半から8世紀初頭の、こうした時代背景のもとに編纂された「国史」なのである。天武/持統帝の明確な天皇中心の新しい国家理念に基づく歴史観の発露であった。歴史書は必ずしも史実を客観的に記述したものではない。そこに採択された神話は素朴な民間伝承説話と異なり、一定の明確な意図を持って取捨選択されあるいは創作されるものである。国家の正史と称されるものの編纂にはそれなりの意思/意図の表明が込められている。したがってその編纂には権威と権力が必要である。そういう意味において正史は政治的な文書である。そうした時の権力者が、自らの権威と支配の正統性を明文化するために表した文書が「正史」である。さらに中華大宇宙に対抗する日本小宇宙を宣言するには「正しい国史」を整え,対外的に示す事も必要であった。文献歴史学とは、そうした史料の背景を理解し、批判的に読み込んで行くものである事は、いまさら言うまでもないであろう。「歴史認識」とはそうした為政者の意図を知る事である。

 参考文献:「飛鳥時代 倭から日本へ」田村圓澄著。明解な記述で一読をお勧めする。



(吉野ヶ里の祭礼殿では巫女が神のご宣託を伺い、隣室の王にそれを伝える。政(ヒコ)祭(ヒメ)制の原初的な姿だ)



  (大宇陀阿騎野の里の神社。田圃の中に鎮守の森が残る典型的な倭国の神の姿だ)



(大和當麻の里の神社。大きなご神木が弥生の時代からここに神のよりしろとして存在し続けている)



(明治の近代化により、東海道線に境内を分断されてしまった近江長嶋神社。しかし鎮守の森の姿を今に良く残している)



(元薬師寺跡に近い田圃の中に古来からの姿を残す「鎮守の森」。春日神社)



(神聖なる磐座、神籠、神のよりしろとしてしめ縄により結界された場所。これが原始神道の祭祀の姿であった)


時空トラベラー記事「鎮守の森」を合わせてご覧下さい。
URL: http://tatsuo-k.blogspot.jp/2010/06/blog-post_22.html

2014年5月9日金曜日

ライカはライカ故に尊し? 〜デジタルカメラのライカ的進化〜

 ライカよ、お前もか!
ついにライカも激戦のミラーレスデジタルカメラ市場に参入した。先日発表されたAPS-Cサイズセンサー搭載、レンズ交換式のライカTだ。5月26日発売開始だそうだ。フジフィルムやソニー、パナソニック、オリンパス、そして老舗のニコンやキャノンまでがこぞって参入し、いよいよ差違化戦略が難しく、またしても価格破壊を起こしつつあるミラーレス市場に、今、打って出る真意はなにか?他とは比べ物にならない魅力的なカメラに仕上がっているのか?

 いつものことながら、価格合理性の考え方の少し違う富裕層を狙い、価格に敏感な「消費者」はターゲットにしてない図式が見えている。ライカが狙う市場は他とは違う。それならいっそうのこと奮発してフルサイズCMOSセンサーを搭載すれば良かったのに、と思う。この誰もが思いつく疑問に対するライカ社の答えの中に、Tシリーズが狙う顧客層の姿が見える。すなわち「我々がターゲットにしている顧客はフルサイズだかAPS-Cサイズだかにはこだわらない。美しい写真を美しいカメラで撮る喜びを感じることが出来るか。持つ喜びを感じることが出来るか。これはそういうカメラに仕上がっていると信じている」と。ようはフラッグシップM,Sのようなプロ向けではないが、日本製のようなコスパをいう消費者向けでもない、ということだ。フラッグシップMには少しハードルが高すぎる(価格も、使いこなしも)という層を狙ったライカワールドエントリーモデル、と位置づけているそうだ。Mよりは少しハードルを下げたシリーズ、という設定のようだ。エントリーといっても、そもそものバーは高い。

 たしかにM240のようにボディーだけで80万円を超える価格設定に比べれば、かなりのバーゲンプライスかもしれないが、日本製のコストパフォ−マンス抜群のミラーレス機の約2倍の価格設定はいかがであろうか?別売りの交換レンズも結構なお値段だ。そろえるとなると結構なラグジュアリープライス。余程なにか無いと手が出まい。それが「ライカ」ブランドだ、ということなのか?その価格合理性を説明できる価値を訴えられているのだろうか?まだ実機に触ってないので、使用感などは分からないが、各国で行われた発表会/デモでのレポーター、カリスマブロガーたちのコメントは、例によってなかなか高評価のようだ。

 アルミブロックから削りだし、手作業で磨きだしたモノコックボディー(ユニボディーと称している。この制作行程を40分に渡り見せる「退屈な」ビデオクリップCMも公開中)とフラッシュサーフィス、iPhoneのようなタッチパネル式の操作性。ストラップやプロテクターケースのようなユニークなアクセサリー群。モノとして魅力的な仕上げになっているようだ。要するにお金持ちの物欲、所有欲をくすぐる魅力は満載のようだ。オレのは人のとは違うんだ、という。これを「ドイツ製」のデジタルカメラだ、と。私の持つ「ドイツ製」の質実剛健な一生モノのイメージとは違う気がするが。かなり日本製のギミック満載に近づいた気がする。しかしデザインでシンプルさを主張しているところはユニークなのかもしれない。アウディデザインチームとのコラボだそうだから、車でいえばカブトムシフォルクスワーゲン、カメラでいえばライカM3といったプロトタイプ型ドイツ製品とは異なった世界を打ち出そうとしているのだろう。あるブロガーは「Appleがデジカメを造るなら多分こういうカメラになっただろう」と。ライカのアップル化?タッチパネルによるカメラの操作性は、撮影現場ではどうなんだろう。

 肝心の写りはどうだろう。APS-CサイズCMOSセンサーと画像処理エンジンはX Varioと同じと言うから、特段の進化は無いが、悪くはなさそうだ。発売前のβ機でのサンプル画像を見る限りX Varioの高画質を維持しているように感じる。レンズ固定のXシリーズでは飽き足らない層向けに、レンズ交換式Tシリーズを設定した訳だが、成功するか?このX Vario、きわめて評価のわかれる機材で、ライカラインアップの中でトップセールとはいえないが、そのズームレンズの写りは出色だと思う。ズームレンズに対する私の偏見を見事に打ち砕いてくれた。それゆえにX Varioに対する偏見も打ち砕いてくれた。そのDNAを引き継いであるなら、かなり期待出来るか?それに操作性の向上が図られているならこれはBuyだろう。

 同時発売となる別売りの交換標準ズーム、バリオ・エルマーはX Varioでは固定の27−70mm(3.5-6.4)であったが、27-85mm(3.5-5.6)相当とやや使い勝手が向上(?)したようだ。それでもスペックだけ見るとどう見ても「セットレンズ」のそれだ。交換レンズ式となることで、歪曲収差やボケや周辺解像はどうだろう?多分ボディー側で補正するんだろうな。まあ期待したい。今回新しくTマウントを開発して、今後Tレンズラインアップを増やすそうだ。Wetzlarの新工場に新たなラインを新設したというから、小さなカメラカロッツエリアとしてはかなりの設備投資、経営の意気込みを感じる。しかしレンズはドイツライカの設計(設計者Dr. Kalbeだという)、製造は日本(メーカーは不明。パナソニックではない、とのコメントもあるが)である。早速、ネット上では「残念ながら日本製」とか、「This is not made in Germany at all.」とか、ライカ原理主義信者らしい反応が散見されるのが微笑ましい。ドイツの設計、日本の製造、なんて世界最強のレンズじゃないか...てな、合理的な説明では納得しないマニアが顧客なのだから、ライカも大変だ。

 ちゃんとMレンズ資産をこのTボディーで活用できる術も用意されている。ライカ社純正のM/Tアダプターがオプションで発売予定だ。APS-Cセンサーなのでやや望遠系になるが、50mmズミクロンが最短撮影距離0.7cmの75mm中望遠になる。ちなみに、私の嫌いな外付けEVFファインダーも売り出される(プラスチック製でGPS機能付きで8万円だって!)。アルミ削りだしの高品位ボディーにマッチするのか? まして、Fujifilm X-Proの内蔵ハイブリッドファインダー(これはスゴイ発明だと思う)に到底太刀打ち出来るとは思えない。

 フラッグシップシリーズとは別の系統を設けること自体、一眼レフというフラッグシップを持つニコンやキャノンでもやっているラインアップ戦略で目新しいことではない。ライカもレンジファインダー機Mシリーズでは、従来からのコンサバな顧客の意向を尊重して、あまり大胆なモデルチェンジをせず(せいぜいM240程度)、新たに設けたミラーレスでズームレンズや望遠レンズ、AFなどの可能性を広げ、新たな顧客層を取り込もうとしている。しかし、前述のようにミラーレス市場は飽和状態。そこに今あえて参入する場合の立ち位置。差異化戦略。付加価値訴求。どのように実現するのだろう。

 時あたかもライカ100周年。これまではライカはその伝統的なブランド価値を前面に出してきたが、このTシリーズではあらたに、商品の革新性を打ち出してきた。タッチパネル式ユーザインターフェースという... デジタルカメラという技術的には枯れてきてコモディティー化の域に達しようとしている商材で勝負するには余程の「確信・革新」が無いと勝てない。これまでみたいに「ライカはライカであるが故に尊し」とはいかない。デジタルカメラとしての機能に追いつき、追い越せたのか?ライカの提案するイノベーションとは? 新た次の100年のスタートを切れるのか。でもやはり、ニッチ市場を狙っているんだろうな。ライカだから買う。ドイツ製だから買う、という客層を。カメラ市場のパイの拡大に繋がると良いのだが。





(アルミ削り出しのユニボディー。ボタン,スイッチ、十字キーなどがなくてフラッシュサーフィスで美しいデザインだ。一瞬ソニーNEX-7に見えたのは錯覚か?)





(ブラック仕上げ。この方が黒鏡胴レンズとの相性が良いように思うが,手にした質感を早く味わってみたいものだ)





(背面の液晶タッチパネルで操作設定する。iPhoneなどのスマホ利用者には違和感がない操作感だろう。実際の撮影現場での操作性はどうなのだろう?)

製品写真はライカ社のHPからの引用。




2014年4月22日火曜日

お台場散策

 東京臨海副都心のお台場は、週末ともなれば多くの家族連れ、若者達で賑わう人気エリアだ。外国からの観光客も多く、観光地としての魅力も増している。かつて世界都市博覧会を当て込んでこの一体は埋め立てられ、広大な土地が造成開発されたが、バブル崩壊直後の1996年、青島知事時代に博覧会は取りやめ。会場予定地はぺんぺん草が生える空き地のままだったが、しかし、あれから18年、今や東京都心にしてはスペーシャスな、いわばアーバンリゾートとして復活した。さらに2020年にはいよいよ第二次東京オリンピックが開催されることになり、晴海、豊洲地区と並んで更なる発展が期待されるエリアとなっている。怪我の功名、あの時の開発が24年後に生きようとは。ロングスパンで見ると何が起こるか分からない。

 そもそも、「お台場」という地名は、江戸末期1853年のペリー来航(黒船来航)に驚愕した幕府が、一年後の第二次来航に備えて、江戸防備のために急遽突貫工事で設けた八つの砲台(台場)から来ている。実際に肥前佐賀藩が鋳造した西洋式大砲が据えられた。地図のように、品川御殿山沖の海中に一列に並んだ砲台であった。現在は第三台場と第六台場が当時の形を保って残されている。他は撤去されたり、埋め立てにより内陸に取り込まれたりしている。、元々陸続きに設けられた御殿山下台場は、その痕跡を地図上に残すのみである。品川区立台場小学校の敷地がそれである。


しかし、この砲台は砲火を交えること無く、幕府は開国した。ただ、この海上防衛線のおかげで、ペリー提督率いる第二次アメリカ東印度艦隊は江戸湾深く侵入することは無く、神奈川(横浜)に上陸することとなる。かろうじて首都防衛抑止力が功を奏したのだろう。明治以降は帝都防衛のラインとして、東京湾入り口富津沖に新たな海堡が建設され、品川台場の役割は終わった。昭和2年には、東京市に払い下げられていた第三台場が、台場公園として整備される。

 今や近未来的な都市景観の中に点在する台場跡。日本の近代化に向けた「苦悩の第一歩」は、辺りの近代的構造物群の中に、時の動きが止まったように佇んでいる。160年の時間のギャップが、その不思議なコントラストを演出している。グラスアンドスチールの街並、東京タワーと東京スカイツリー、巨大な吊り橋レインボーブリッジ、いずれも草生した台場とは異空間の光景である。「お台場よ、あなたが守ろうとした江戸は、こんなになりました」と。

 台場建設にあたっては、当時、品川の御殿山、八つ山を切り崩して、その土砂を採り埋め立てた。御殿山は江戸時代初期には徳川家康の別邸、品川御殿があったところ。のちに将軍家のお鷹狩り休息所となり、吉宗の時代には、多くの桜が植えられ、江戸の桜の名所の一つ(飛鳥山、墨田堤などと並び庶民の遊興が許された桜名所)であった。広重、北斎などの浮世絵にも描かれた景勝地であった。隣の八つ山も武家屋敷が建ち並び、明治以降も城南五山(島津山、池田山、花房山、御殿山、八つ山)と呼ばれた高級住宅地であった。今もここには、島津家別邸(清泉女子大本館)や、岩崎家別邸(三菱開東閣)などの洋館が建ち並び、閑静な住宅街である。

 こうして江戸屈指の景勝地は、黒船来航ショックのなかで消滅した。桜を愛でる名所どころではなかったのだろう。今では、さらに御殿山を南北に分断する形でJR新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線、横須賀線が通っている。わずかな跡地にはホテル、マンション、教会が建っており、きれいに整備された庭園があるが、往時の桜の名所の面影は無い。八つ山は、その名を京浜急行の踏切と第一京浜の「八つ山橋」に残している。ここから南が東海道品川宿。ちなみに東京湾に現れたゴジラが上陸したのはこの八つ山橋である。ゴジラも黒船も外からやって来た破壊的イノベーションだった。

 激動の幕末から明治にかけて、この街はその都市景観を「江戸」から「東京」へと激変させてきた。その時代の要請で取り組まれた国家プロジェクトの遺構は、都市の栄枯盛衰のなかで歴史の痕跡として海中に取り残されることとなった。しかし近代国家の首都のウオーターフロントは、新たな国家プロジェクトの舞台として三たび注目されることとなる。我が国の近代化のドアをこじ開けた「黒船来航」、それへの抵抗というファーストリアクションを象徴する台場。これからも次々と新たな「蒸気船」、すなわち時代のイノベーションが押し寄せてくることになるだろう。つわものどもが夢の跡... ウオーターフロントは常に新しい時代の波に洗われ続ける。第二、第三の「開国」という。



(第三台場。石垣と黒松が美しい。昭和2年に公園として整備されている)



(高い土手に囲まれた内側には、陣屋跡、弾薬庫跡、砲台跡などが保存されている。今年最後の八重桜が咲き誇っていた)




(旧防波堤、鳥の生息地になっているので、通称鳥の島と呼ばれている。)



(彼方側と此方側の景観コントラスト。時空の隙間が見える感じだ)




(レインボーブリッジ。左が第六台場、右が第三台場)




(第三台場の黒松の間からの光景。まるでタイムカプセルの内側から未来を覗くように)

2014年4月10日木曜日

あおによし寧楽の京師は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 春爛漫、奈良散策に良い季節がやって来た。奈良公園散策コースには幾つかあるが、私のおすすめお散歩コースは次のとおり。一日で定番スポットを見て回れて、しかも緑豊かな公園都市を満喫できる。

 近鉄奈良駅からスタートすると、登大路通りを歩いて県庁屋上(意外に知られてないが、一般開放されていて景色が良い)へ。東大寺南大門へは登大路を通らず、吉城園、依水園経由で、戒壇院を左手に見ながら、東大寺南大門、参道へ。大仏殿からは、裏の大仏池散策へ(ここは紅葉の季節は穴場スポット)。そこからは大和路写真の巨匠、入江泰吉氏おすすめの二月堂へ石畳の上り道。二月堂から、修復なった三月堂、手向山八幡、若草山へと歩を進める。さらに春日大社への小道を進む。春日大社からは若宮、春日の杜の禰宜の道(この辺までくると観光客はパタリといなくなる)を通って高畑町へ抜ける。新薬師寺、白毫寺、入江泰吉写真美術館(ここのカフェで一休み)。斎藤茂吉旧宅、高畑町を散策しながら、奈良町方面へ。今西家住宅、福智院、元興寺、奈良町を散策。なら工芸館に立ち寄り、西御門通り、餅飯殿商店街、猿沢池、興福寺、と回って、東向商店街を抜けて、近鉄奈良駅へ戻る。

 奈良観光の定番コースではあるが、一万歩を軽く超える徒歩散策である。一部観光客でごった返すところもあるが、概して静かな杜の小径、花を巡る散策コースであることがうれしい。昔の興福寺境内、春日大社の神域が、明治以降そのまま奈良公園として保存されている。このコースを4月の桜の頃歩くと、桜はもとより、色とりどりの花々と新芽の出始めた新緑の樹木が美しく輝いている。「奈良七重七堂伽藍八重桜」という芭蕉の句が浮かんでくる。


奈良散策と言っても、ここは平城京の東に張り出した「外京」であったところである。かつての平城京をすべて巡る訳ではない。平城京は遥かに広い。しかし、なぜこのような張り出し部分が平城京に設けられたのであろうか? ここには権勢を誇った藤原一族の氏寺である興福寺、産土神である春日大社。飛鳥古京から移設した蘇我氏ゆかりの元興寺(なぜ藤原鎌足が滅ぼした蘇我氏の寺を平城京に移すことを許したかはもう一つの歴史の謎であるが)、そして藤原不比等の孫娘、光明子の夫である聖武帝発願の東大寺などの壮麗な建築物が並んでいた。いわば藤原氏の権勢を偲ばせるエリアである。そのためにわざわざ外京を設けた、といっても過言ではないだろう。

 この外京部分が現在の奈良公園、奈良市の中心になっている。かつての平城京の中心、平城宮大極殿は現在の西大寺駅と大宮駅の間に広がっている平城宮跡にあり、平安遷都後は農地になってしまっていた。薬師寺、唐招提寺は西ノ京駅付近。ここものどかな田園地帯になっている。大官大寺(大安寺)はJR奈良駅の南に位置する。都の南の門、羅城門は大和郡山市との境界辺りだ。かつての奈良の都、平城京の中心的な施設は、現在では町外れになってしまっている。平安遷都後の奈良は、こうして外京が町の中心となり発展する。これには、興福寺や春日大社の存在が大きかった。平安時代から鎌倉時代の初めには「南都北嶺」すなわち、南都奈良の興福寺、北嶺比叡山の延暦寺が力を持ち、興福寺の僧兵は春日大社の神輿を押し立てて朝廷や幕府に強訴するようになる。戦国乱世にもこうした僧兵勢力の力は織田信長の叡山焼き討ちに象徴されるように、時の権力者を脅かした。江戸時代に入ると徳川幕府は奈良を直轄地とし、奈良奉行所を置いた(現在の奈良女子大学)。明治維新後の廃仏毀釈で興福寺が廃れたが、その結果、広大な興福寺の寺域が残り、公園として整備されることになる。江戸・東京で、上野寛永寺跡や芝増上寺が公園整備されたのと同じような経過だ。しかし、そのおかげで、このような緑豊かな公園都市が生まれた。世界遺産にも登録されている。

 「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 」(『万葉集』3-328)


太宰府政庁跡に建つ小野老の歌碑
小野老(おののおゆ)が太宰府で詠んだ歌である。時は聖武天皇の御代、天平文化華やかなりし時代である。平城京はその最盛期を迎えていた。小野老はそのころ筑紫の太宰府に赴任。当時、太宰府には太宰大弐大伴旅人や筑前守山上憶良、観世音寺別当沙弥満誓らが居り、都から赴任してきた官人を中心に筑紫歌壇が全盛を誇っていた。着任したばかりの小野老もその仲間として、天さかる鄙に赴任した気持ちを和歌に託してを詠んだであろう。その一首がこの歌である。太宰府政庁跡(都府楼跡)と平城宮跡の双方に歌碑がある。やがて「長屋王の変」が起こり、皇族である長屋王が藤原不比等一族によって抹殺され、藤原4兄弟中心の権力基盤が確立すると、それにつながる宮廷官僚が昇進する。藤原氏に近い小野老も順調に昇進し、太宰大弐に叙任されるする。ちなみに小野老は太宰少弐小野毛野の子、先の遣隋使小野妹子の孫である。

 上の写真は、太宰府政庁跡に建つ小野老の歌碑である。大野城を背後に壮麗な太宰府政庁の建物が建ち並んでいたのも古のこと。今は巨大な礎石に往時を偲ぶのみである。太宰府は当時は「遠の朝廷」と呼ばれ、中央から高官が赴任し、先ほどの「筑紫歌壇」のような華やかな文化サロンが繰り広げられていたのだが、やはり、遠い都の今を盛りのさんざめきが懐かしかったのであろう。ため息が聞こえるようだ。太宰府、九州と言うと、後世平安時代の菅原道真を待つまでもなく、左遷の地というイメージがつきまとう。なんとも「中央目線」だ。都から転勤して来た官人には、ことさらに「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)」が心の中で美しく輝いていたことであろう。

 こうして今、あらためて奈良を散策すると、確かに美しい。小野老や芭蕉ならずとも、この美しさを何らかの方法で表現したくなる。私の場合、写真で巧く表現出来れば良いのだが。京都よりも古い古都は、滅びの美と栄華の残影が、よけいに時間と空間の中で熟成され、えも言われぬ歴史の香りを醸し出す町となっている。美しく咲き誇る季節ごとの花々が、その古色の風景に彩りを与えてくれる。という訳で、スライドショーには選びきれないほどの大量の写真がアップされている。なかなか、ベストショットを選ぶ眼力と感性と決断力が培われてないのが悲しい。



(若草山から東大寺大仏殿を望む)





(大仏殿の裏手から二月堂へと続くの石畳の道。奈良写真の巨匠入江泰吉氏お勧めのエリアだ)



(新薬師寺への道。季節ごとの花々が美しい高畑町界隈)


スライドショーはこちらから→



(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm)

2014年4月7日月曜日

大宇陀に又兵衛桜を愛でに行く 〜阿騎野の里散策〜

 桜の季節だ。都会の桜は一斉に咲き誇り、華やかにボリュームを競う。そうして大勢の人を呼び、喧噪の中に散り始めた。見事な咲きっぷりだが、この時期は何となく気ぜわしい。開花は何時なのか?天気はどうだ?どこが見頃か?混雑ぶりは? そういってるうちに、早くも散り始める。開花から一週間という短い間に見所を回らねば、という強迫観念がそうさせるのだろう。そうした慌ただしさが「お花見」なのかもしれないが、もう少しゆったりと桜を愛でることは出来ないものか。

久しぶりにこの季節、大和路を散策することが出来た。しかも、大阪にいたときに訪れることの出来なかった、奈良大宇陀の「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)を、ついに訪ねることが出来た。大宇陀は美しい佇まいの街並の織田氏の城下町。何度か散策に訪れたことがある町だ。城下町といっても、織田松山藩3万石という小藩の町で、壮大な縄張りの城下町とはかけはなれた静けさだ。むしろ商家が軒を連ねる在郷町の雰囲気の方が強いように感じる。

又兵衛桜は、この大宇陀の古い街並の西、1kmほど離れた阿騎野の里にある。大宇陀川沿いの山の斜面に樹齢300年超の古木が、孤高の古武士のように屹立している。車でないとなかなか行きにくいところだが、最近は有名になって観光バスで団体さんが押し掛けるようになった。また、前を流れる本郷川の河川敷の整備が進み、観光客用の広場や見物スペースも用意され、山間にひっそりと佇む老木のイメージが薄れてしまった。周辺があまりにもきれいに整備されると、まるで場違いなステージに立たされた老優のようでもある。それでもその風格と時空を超えた存在の重さを十分に感じさせる。

この日はあいにく天気が不安定で、晴れていたかと思うと急に雨が降り始めるという、花見にはあまりよろしくない一日であった。近鉄榛原駅からバスに乗って大宇陀高校で下車。日頃の行いが悪いせいか、よりによってバスを降りると、いきなり雷様のお出迎え。激しい雷雨にしばし万葉公園の体育館の軒先で雨宿り。小降りになってから雨の中を1キロほど歩くと、雨にけぶる山肌に又兵衛桜が見えてきた。なんとドラマチックな出会いではないか。そして雨上がる...

「又兵衛桜」の名前の由来は、江戸時代初期の剣豪、後藤又兵衛にちなんでいるそうだ。後藤又兵衛は、今年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場しているが、黒田官兵衛に育てられ、官兵衛の子で筑前52万石の当主となる黒田長政の家臣となる。勇猛ぶりで名を馳せた黒田24騎の一人として活躍する武将である。後に諍いがあり黒田家を出奔する。最後は大坂夏の陣で、豊臣方の武将として大坂城に入り、道明寺の戦いで壮絶な戦死を遂げたといわれている。講談などで登場する剣豪として人気の有名人だ。ある意味、黒田官兵衛や長政よりも人気があったかもしれない。その又兵衛、実は大坂城を抜け出して生き長らえ、ここ大和の宇陀の地に隠遁、静かな余生を送ったのだと。その屋敷跡に桜の古木が残った、と地元では伝えられている。この他にも、「その後の又兵衛」の伝承が残っている地域がある。大分県の豊前中津にも彼が晩年を過ごした地というのがあって、耶馬渓には墓まである。源義経伝説のように、人々に愛された英雄の生存伝説はあちこちに語り伝えられている。

この辺りは古くから阿騎野(あきの)と呼ばれ、飛鳥、奈良時代には宮廷の狩り場であったところだ。推古天皇の時代、「薬狩り」が催されたことが『日本書紀』に記されている。「薬狩り」は宮中行事でもあったとされ、男性は猟を、女性は薬草を摘んだ。天武・持統天皇の時代にも阿騎野で行われたと文献に残る。万葉歌人・柿本人麻呂も草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行し、この地に秀歌を残した。大宇陀の町と阿騎野の里を見渡すことの出来る「かぎろいの丘」に登ると柿本人麻呂の万葉歌碑が建っている。

「東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ 」(万葉集 巻1-48)

まさに春爛漫、本当に美しい風景だ。桜、桃、梅、椿、レンギョウ、ユキヤナギ、ハナスオウ、モクレン、コブシが一斉に咲きほこり、青紅葉や、樹々の新芽が浅葱色に芽吹く。田んぼにはレンゲやスミレが咲き誇る。先ほどまでの雨で山肌には煙霧がかかっている。ああ美しい。なんと心癒される時間と空間であることか。いつまでもここに佇んでいたいものだ。

山懐に抱かれた里の曲がりくねった田舎道を歩いていると、本郷川に沿って杜に囲まれた古社に出会った。いかにも古神道の原風景を見るような鎮守の森だ。阿紀神社である。現在の社殿は安土桃山時代に現在地に建立されられたのもだという。伊勢神宮と同じ神明造の社殿で、りっぱな能舞台を備える。創建の歴史は不明である。、現在の杜のすぐ隣の丘に「高天原」の標識があり、元々はここに鎮座ましましていたのだと言う。ご祭神(主神)は天照大御神。この神社も幾つかある「元伊勢」の一つだ。しかし、その佇まいは、天武・持統治世の皇祖神創出に先立つ、田の神、山の神、といった自然神、地元の産土神のそれである。この地元の神も、後に天照大御神を頂点とする皇祖神システムに組み入れられていったのだろう。

また、記紀には、神武天皇が熊野から大和国中を目指して進軍するとき、阿騎野から菟田野(うたの)を八咫の鴉(やたのからす)に導かれ、無事に通過することが出来たと記されている(近くに八咫鴉神社がある)。背後には、神武軍の大和侵攻の司令塔の役割は果たしたと言われる伊那佐山も、その秀麗な甘南備の山容を誇っている。ここ宇陀では地元の「荒ぶる神々」に行く手を阻まれて苦戦するが、ついにはこれらの抵抗勢力を破り、大和国中に進駐。橿原宮にて初代天皇として即位した。記紀が語る「日本建国」物語のクライマックスの場面である。また674年の壬申の乱では、吉野を出た大海人皇子がここ菟田野で狩人たちに導かれて東国伊勢へ脱出、やがて体制を立て直して近江京を落とし、大和に凱旋して天武天皇として即位する。何やら似たような展開だが、この壬申の乱の話が、記紀編纂のなかで参考にされ、「神武東征」物語の原型になったのだろうともいわれている。今は穏やかな山里、阿騎野、菟田野は、熊野、吉野、伊勢と大和国中を結ぶ回廊として、たびたび歴史に登場する重要な舞台であった。

阿紀神社をさらに先へ進むと、やや小高い丘の上に天益寺(てんやくじ)がある。この寺は真言宗の寺で鎌倉時代創建の古刹である。阿紀神社の神宮寺として建てられたという。ここの枝垂れ桜がまた絶品だ。不幸にも平成11年の不審火により堂宇は消失したが、この桜の巨木は残った。又兵衛桜からは徒歩で5分ほどの近さであるにもかかわらず、訪れる人も無くひっそりと里を見下ろしている。しかし、その伸びやかな枝振りと、輝く花弁の美しさは,又兵衛桜とは別の趣を醸し出しており、その風景を独り占めするという贅沢を楽しむことができる。

都会でのにぎやかで慌ただしい桜三昧で、やや「桜酔い」の眼に、人知れず山里に咲き誇る桜の古木の立ち姿。又兵衛桜は有名になりすぎてしまったが、それでもその孤高の品格が心に沁み入る日本の桜の風景であることは間違いない。


(「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)。あいにくの雨であったが、それはそれで風情がある)


(孤高の古武士のような風格を感じる)


(阿紀神社の杜)


(結界を示す注連縄と紙垂が美しい。紙垂は稲作の神である雷の形を表したものと言われる)


(天益寺の枝垂れ桜。ここからは阿騎野の里、大宇陀松山の街並が展望できる)


(下から見上げるとまた見事)



(甘南備の山、伊那佐山)


(大宇陀松山の街角。重要伝統的建造物群保存地域に指定されている)



(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm。ブラパチ風景ハンティングにほぼ万能のセット)


「又兵衛桜」の場所を見るには「Google マップで見る」をクリックしてください。


アクセス:近鉄大阪線「榛原」駅下車。奈良交通バス「大宇陀」行きで「大宇陀高校」下車。そこからは徒歩で15〜20分。県道に沿って歩くのが分かりやすいが、一歩脇道に入って里の景色を楽しみながら散策するのがおすすめ。案内標識はよく整備されている。