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2016年1月17日日曜日

なぜ大和の三輪山には出雲の神が鎮座しているのか? 〜アマテラスとスサノヲの対立、国譲りのストーリーの意味は?〜



三輪山


 奈良の三輪山は不思議な伝承を今に伝える山だ。その山容は端正な神奈備型であり、悠然と大和国原を見守る聖山だ。三輪山山麓一体は箸墓古墳など巨大古墳が集中していおり、ヤマト王権発祥の地とされている。だがそこには「出雲」の大国主命の別神、和魂、大物主神が鎮座ましましている。なぜ出雲の神が大和に鎮座しているのか。それは何を意味するのだろうか。

 古事記・日本書紀の伝承によれば大国主命が弟の少彦命が常世に旅立ったのち、この国(葦原中つ国)をどうやって治めようかと悩んでいた時、大物主神が現れ、大和の三輪山に自分を祀れば安泰であると告げたという。以来三輪山の神は葦原中津国を見守る守護神・祖霊神となる。しかし、その後大国主命(国つ神)は天照大神(天つ神)に国譲りを迫られ葦原中つ国の政権交代を許す。かわって「筑紫の日向の高千穂」に三種の神器とともに降臨してきたアマテラスの孫のニニギの子孫がこの葦原中つ国を治めることになる。その子孫が筑紫から東征して大和の橿原に即位する。すなわち神武天皇に始まるとされる天皇家がこの国の支配者となるわけである。これが古事記や日本書記に描かれた日本の始まりのストーリー(出雲神話、日向神話)だ。しかし、天皇家は祖霊神天照大神を大和の三輪山に祀らず、遠く離れた東国の伊勢に鎮座させた。

 三輪山山麓に発生したヤマト王権(三輪王朝)とはどのような出自の王権だったのだろう?その大王とは誰なのか?祖霊神を大国主命・大物主神とする出雲から来た一族ということを暗示しているのだろうか? そしてのちに筑紫から入ってきた天孫一族に政権を奪われたということを暗示しているのだろうか。その政権交代の正当性を示すために、古事記は「国つ神」より上位の神「天つ神」天照大神を祖霊神とするストーリーを創出したのだろうか。

 古事記に描かれた神話のなかの神観念を整理してみよう。

 大和的神観念
天つ神:天照大神。高天原に存在する神(天神)
大王の祖霊神は三輪山の神、大物主神であった。しかしやがてより格の高い太陽神、天照大神を祖神とする。
天皇を中心とした支配体制を正当化するため地域の神/各氏族の神々の上位に太陽神、天上界の神を創出した。それが大王/すなわち天皇家の祖神だというストーリーを創出。神の体系化・序列化を行った(8世紀前半)
弥生的神概念:精霊信仰+祖霊神信仰が加わる

 出雲的神観念
国つ神:大国主命・大物主命。葦原中津国に発生した神(地祇)
大国主命は、天つ神アマテラスの弟で高天原から葦原中津国に降臨したスサノヲの子孫である。しかし大国主は国つ神とされる。
もともとは多数の地域ごとの豪族/氏族支配の神の観念。神々は平等。序列はない。八百万(八十万)の神々が存在。大王家の初期の祖霊神は三輪山の神、すなわち大物主神(出雲的神)であった。これは大勢の神々のワンオブゼムであった。
縄文的神概念:自然神・精霊信仰(アニミズム)


 古事記の神話に出てくる数多くの神々は、もともとはそれぞれの地域に存在していた自然神、氏族の神々(精霊・祖霊)であった。まさに八百万の神々であった。大王・天皇の優位性を示す最高神『皇祖神」を創出しようとする過程で、それらの神々が体系化、序列化されてゆく。すなわち、その神々はなんらかの形で最高神(天神、天つ神、天照大神)の下位に序列化されていることを記述している。一方、天皇家に従う氏族や豪族は最高神/天皇家となんらかの関係を有する神/氏族の子孫であることを記述してもらい、そうすることで新統治秩序の中での権威を保とうとした、さらには朝廷の中でより優位な地位・官職を得ようとした。すなわち地上界の八百万の神々が先にあって、そのなかから最高神が生まれたのではなくて、天上界に最高神がいてその系列下に八百万の神々が序列化されている、という整理がなされた。これが古事記神話が創出したメッセージなのだ。

 したがって出雲にいた地域の守護神、オオクニヌシもそうした体系化・序列化のなかで矛盾なく語られる必要があった。先述のように彼はスサノヲの子孫だと定義された。すなわち、天地が混沌としたカオスの状態だった時の神々、造化三神。その子孫の子孫がイザナギ/イザナミで、日本を生み出した(国生み神話)。そしてそのイザナギの禊から生まれた三貴子、太陽神(女神):アマテラス、月の神(女神):ツキヨミ、嵐の神(男神):スサノヲが生まれたとされる。このように昼と夜をそれぞれ司る二女神だけでなく、荒ぶる男神を設けたのには理由がある。すなわち出雲という強大な国の長である「オオクニヌシ」の位置付けを定義する必要があった。そこで次のようなストーリーを創出した。アマテラスはその弟であるスサノヲと対立する(天の岩戸伝承など)。スサノヲは高天原から追放され地上界(葦原中津国)へ(出雲ヤマタノオロチ伝承など)。やがてその子孫であるオオクニヌシが地上の国の支配者(国つ神)となる(因幡の素兎伝承など)が、その「国つ神」は高天原の「天つ神」へ「国譲り」をして従うこととなった。やがてアマテラスの孫のニニギが高天原から筑紫に降臨して、その子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が葦原中つ国を支配する。すなわち出雲が大和に従うプロセスを神話的に解説したのがオオクニヌシの治世と国譲り、天孫降臨のストーリーなのだ。

 この「天つ神」と「国つ神」という観念は、ちょうど5世紀に大陸から渡来した原始的儒教思想の「天神・地祇」「礼」にもとずく神々の序列化の思想によるものとされる。古事記や日本書記の編纂時にこの考えが建国神話の記述整理に役立った。律令制下の重要官職である神祇官の名称もここから来ている。しかし、古事記にはこうしたいわば弥生的祖霊神の観念と、それ以前からある縄文的精霊・アニミズムの観念とが神話に並存しているのが特色だ。

 記紀神話の記述は、これまで述べたように、7世紀後半から8世紀初頭に創出された天皇の支配権のルーツを説明するストーリーであるが、特に「出雲神話」の部分は日本(このころはまだ倭国であったが)の支配権が出雲から大和へと移っていったことを暗示していると考える。あるいは出雲勢力が初期の大和を支配していたが(これが邪馬台国だ、とする研究者もいる)、やがて筑紫(天孫降臨神話)からやってきた勢力が大和に入り出雲勢力に変わって支配していったのかもしれない。出雲勢力の祖神たる三輪山(国つ神)はその後もヤマト王権、朝廷の重要な祭祀の場として存在し続ける。天照大神(伊勢大神)が皇祖神(天つ神)となり、東国伊勢に鎮座した後も、三輪山は「元伊勢」として皇室の崇敬を集める。現在でも、そのヤマトの地に聳える神奈備型の山容に畏敬の念を自ずと感じる三輪山が、縄文的アニミズム、弥生的祖霊信仰を問わず、時を超えて人々の心に響く存在であることは間違いない。



 ところで、ここからはいつもの私の疑問、すなわち、我が国の発祥に関わる倭国の中心の移動、すなわち筑紫から大和への変遷の問題に立ち返ってみよう。

 考古学的研究成果によれば出雲は強く筑紫の影響を受けていることから、倭国の中心が筑紫→出雲→大和と変遷していった歴史がうっすらと見えてくる。弥生的な稲作農耕社会であった倭国においては農耕器具にしろ武器にしろ鉄器生産能力の確保は不可欠だが、当時その鉄資源は朝鮮半島南部からしか入手できなかった。したがって倭国は半島南部の伽耶や百済との通交を重視したし、あるいは半島における鉄資源権益確保のために進出を果たそうともしただろう。また奴国には鉄製品を製造するいわばハイテクコンビナートがあった。その遺跡が集中して見つかっており(福岡市の比恵遺跡など)、北部九州は大陸の鉄資源権益を通じて倭国の中心であった。しかし後年、出雲で鉄生産の新しい技術が盛んになり(たたら製鉄は今も盛んであるし多くの遺跡が見つかっている)、鉄資源の獲得が直接大陸から出雲へと行われるようになると、国内の勢力図が変わっていった可能性がある。筑紫から出雲へ鉄をめぐる勢力の変遷が起こった。歴史の一時期ではあったかもしれないが、出雲が倭国の中心になった可能性がある。やがては大和に遷移してゆくのだが。

 古事記の神話部分には、この後の出雲から大和への遷移部分だけが描かれている。そこでは「国つ神」から「天つ神」への支配権の移譲というメッセージこそが重要であって、出雲以前の話は、天皇中心の国家体制確立プロセスには関係ない伝承である、いや日本のルーツは筑紫(北部九州)ではない、との歴史観表明に違いない。すなわち「筑紫の神」「筑紫神話」は意図的に創出されなかった。これは天武・持統天皇時代の天皇支配、律令体制国家を宣言した8世紀の時代、自ら名乗ったわけでもない倭国という国号を捨て、日本(ひのもと)を新国号とした時代背景と大きな関係を持っている。すなわち日本は中華皇帝に朝貢し冊封された倭国王たち(中国の史書の出てくる奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫中心の冊封国家の長たち)をルーツに頂く国ではなく、天から降臨した天神の末裔が(独自に)建国した国である。決して大陸から渡来した子孫やその末裔が建国し、大陸由来の文化から派生した国ではない。「日本」はその原初から「日本」であり、「天皇」はその初めから「日本」の建国者であり連綿と支配者である、という歴史観・国家観の創出・表明である。まさに「日本紀」である。「倭国記」ではない。

 古事記においては、我が国発祥の地、すなわち天孫降臨の地が「筑紫」(当時は九州全域を指した)であることは否定しないが、大陸に近い北部九州ではない「何処か」を暗示するに止めている。すなわち「筑紫の日向(ひむか)の高千穂」だとする。神武天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の東征伝承も、その出発地点は日向美々津だとしている。この筑紫の「何処か」から東征した勢力が大和で出雲勢力を凌駕してヤマト王権を確立していった(これが「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「橿原即位」伝承の実態?)というのが古事記における建国ストーリーだ。

 その「何処か」は「日向国」である、としたのは江戸時代の「古事記伝」を著した本居宣長である。しかし、記紀編纂時(7世紀後期・8世紀前期)はまだ律令制が未完成の時期で、「日向国」は存在していない。それが記録に見えるのは奈良時代後期の8世紀後半。現に「日向(ひむか)」という地名は全国いたるところにあり、要するに太陽に向かう土地、という意味で、「高千穂(たかちほ)」は神々しくて高い峰だから、ますます特定はできない(ゆえに西日本全域に天孫降臨伝承や高天原伝承がある)。まして記紀編纂時期の南九州「日向地方」は隼人がまだヤマト王権・天皇に服属していない「夷狄」の地であった。むしろ弥生的神観念よりも縄文的神観念がまだ支配していた地域であった。こうしたことから我が国発祥の地が九州南部であることにはならない。この「筑紫」はやはり奴国や伊都国、さらには卑弥呼の邪馬台国が倭国の中心をなした弥生先進地域、北部九州にちがいない。しかし、上記の理由から、それを言いたくないのであえて「筑紫の日向の高千穂」という特定できない架空の地にした、というのが古事記の編者の(それを指示した為政者の)真意であったろう。しかし、編者は高天原から降臨してきたニニギに「この地は朝日の直刺す地、韓国を望む地、夕日の火照る地...」と言わせている。直接的表現ではないが、この地が南九州の山の中でないことは明らかだろう。はるか海の向こうに大陸を望む我がルーツの地を暗示して見せたように思える。

 さらなる疑問について考えてみよう。

 本来ならば既にオオクニヌシから「国譲り」を受けているのだから、ニニギは「葦原中津国」の中心、大和に直接降臨できたはずなのに、なぜ遠く離れた筑紫に降臨し、苦労してその子孫が東征をしなければいけなかったのか?しかも、大和に入ろうとすると、そこには既に別の降臨族ニギハヤヒ(物部氏の祖霊神だという)がいて、筑紫から遠征してきたニニギの子孫であるカムヤマトイワレヒコと争う。ニギハヤヒの部下のナガスネヒコとの戦いに苦戦し、結局兄の五瀬尊は戦死し生駒山越えを諦める。「太陽神の方向である東に向かって進軍したのがよくなかった」としてはるか熊野に迂回して吉野、宇陀を越えて大和に入る道を選ばざるを得なかった。熊野の神や八咫の鴉に導かれてのようやくの凱旋であった。国つ神から天つ神に譲られたはずの豊葦原中つ国には、それほどの抵抗勢力が居続けたと、言いたかったのだろうか。ならばあの「国譲り」とは一体何だったのか?古事記の建国神話のストーリーは複雑怪奇で色々なストーリーの矛盾が潜んでいる。なかなか一筋縄で理解できない。おそらく、アマテラスを最高神とする神々の序列化、すなわち天皇中心支配体制確立のプロセスはそれほど平坦ではなかっただろう。色々な地域豪族や大和の在地氏族の神々との整合性を「うまく」記述しなければならないという、編者にとってまことに厄介な政治的課題が複雑に絡み合っていたのであろう。古事記や日本書紀の編纂事業は大変な国家的事業であり、多くの政治的な妥協の産物でもあったのだろう。


 古事記・日本書紀が創出された時代は、上述のように7〜8世紀の天皇支配確立に向けた激動の時代(天武・持統天皇以降)であり、対外的には倭国大王から治天下大王、日本天皇という、中華世界(華夷思想)とは一線を画した独自世界(日本版華夷思想)を宣言したいわば「ナショナリズム」が横溢していた時代である。一方、国内的には有力氏族や地域豪族を支配下において行くプロセスは想像以上に困難なものであっただろう。記紀の記述、特に建国神話部分のストーリー理解には、それらが編纂された時代背景、意図を理解する必要がある。日本の古代史に関しては文献資料が乏しく、比較的新しい時代である8世紀に編纂された古事記・日本書紀が数少ない資料である。こうした資料は時の権力者が選定した「公式定本」、すなわち極めて政治的な意図を持って創出され、記述された文書である。しかも多くの勢力との政治的妥協の産物でもある。それを記述通り正しいものとして受け入れた江戸後期の国学や、その影響を強く受けた尊王攘夷思想、そして戦前の皇国史観。逆に戦後はその反動として、記紀の歴史を語る文献資料としての意義の全否定。そのような、時の政治情勢による主観的で意図的な取り上げ方、解釈・理解ではなく、考古学成果と合わせて客観的かつ批判的に読みこんでゆくという取り組みが必要であることを改めて痛感する。




2015年12月28日月曜日

修猷館と西新町商店街、そして高取焼 〜我が青春の町は今〜

我々が通っていた頃の本館。六光星の校章が掲げられた塔がシンボルだった。
今は建て替えられて跡形もない...


現在の本館。当時の面影を残すため塔は復元されたようだ。正門は当時のまま。
随分立派な校舎と施設で恵まれた教育環境に見える。
きっとオンボロ、バンカラのイメージは薄らいだのだろう。

 修猷館は筑前黒田藩の藩校(東学問所)であった。その名は中国の古い歴史書「尚書」から引用され、「その猷(王者の道)を修める」という意味があるそうだ。古色蒼然たる名前は、子供の頃にはなにか硬派で恐ろしげな響きすらあった。しかし近所の修猷館のお兄さんは賢そうなのでそのギャップが不思議だった。藩校修猷館、バンカラ、弊衣破帽、げた履、六光星の校章。スポーツは剣道、柔道、ラグビーが強かった。ヨットも全国制覇したことがある。全国でも有数の進学校だ。要するに文武両道ということ。かといって受験勉強など特別な指導はなかった。本人が勝手に勉強するんだろといった気風であった。もちろん校則などというものもなく、自由闊達、自主性が何よりも重視された。県立であったので学区制があったのに越境入学が多かった。私が入学した時の同級生は福岡はもとより全国から来ていた。また、いわゆる修学旅行がなかった。かつてはあったが「ある事情」で廃止されたという。在学中、生徒会で修学旅行を復活してくれと決議したが、先生方から「お前らを修学旅行に連れて行くぐらいなら辞表を出す」とキッパリ断られた。てんでに勝手な行動をする奴らを引率するような牧童役は真っ平ごめん、というわけだ。最近は復活したとみえ、私がニューヨークにいた時に、「先輩の仕事を見学/意見交換させて欲しい」と学校から頼んできた。やってきたのは真っ黒に日焼けした精悍な面構えの男女10名。応対に出た米人秘書が一瞬ドン引きしていた。聞けば、手分けして世界各国で活躍する先輩方を訪ねているんだと!さすがだなあ。ちなみに先生の引率はなかった。やっぱり...

 全国には、米沢興譲館、福山誠至館、柳川伝習館、久留米明善校、熊本済済黌、鹿児島造士館、萩明倫館等々、藩校を起源とし、今もその名を校名にしている学校は多い。しかし、修猷館ほど卒業生の量質ともに多士済々な藩校も珍しいだろう。幕末の福岡藩は維新に乗り遅れ、多くの有為な人材を新政府に送り込めなかった。その無念の思いがそうさせたのか、明治以降、黒田奨学会とともに修猷館は、世界に羽ばたく福岡の若人の人材育成機関として、福岡県立に移管されたにもかかわらず黒田家や卒業生/同窓会の支援で隆盛を極める稀有な学校となった。黒田藩が城下町福岡に残した文化的な遺産のひとつだろう。

 戦前は男子校だった。戦後昭和24年に共学校になった。私の在学当時も女子(女史)は全体の10%くらいしかいなかった。クラスは男女共学組と男オンリー組に分かれる。ちなみに私は一年病気留年し4年も通ったのに一回も男女クラスにならなかった。別に羨ましくもなかったが...(負け惜しみ)。圧倒的少数の女子のほうが断然に男子を睥睨していたような気がする。いま社会で活躍する女性のなかで修猷館出身者が多いことを見てもわかる。最近は女子生徒の数が大幅に増えたと聞く。これからは女子力パワーの名門校になることは間違いなかろう。

 一方、西新にはもう一つ学校がある。西南学院。米国南部バプティスト連盟の宣教師により設立されたミッションスクール。中学高校は男子校。大学は共学校で、輝くような女子大生もいた。しかしバンカラ修猷生は目もくれなかった。いや正確に言うと相手にされなかった。汗臭い九州男児君ばかりだもんねー 近くに女子校もなく(城南線の電車で「練塀町」や「古小烏」「薬院」あたりの山の手まで遠征しないと女子校はなかった)、いやでもバンカラを標榜せざるを得なかったのかもしれない。

 修猷館/西南学院、両校はかなり対照的な隣人だ。教室の窓からすぐ隣に西南学院が見える。冬になると蔦のからまるレンガ造りの瀟洒な校舎の煙突からは煙が立ち上る。窓は全部閉まっている。全館暖房中だ。こっちは、戦前の歴史的建造物。鉄筋とはいえ古い校舎は隙間風がスースーよく通る。教室にはストーブもなし。海からの風が吹きつけ寒い、とにかく寒い。なのに窓は開けっ放し。閉めてても寒いのでせめて明るく!

 しかし、最近行ってみたらあの歴史的な校舎が完全に無くなって建て替えられている。立派で堂々とはしているが平凡な今風の校舎に。惜しいことだ。なんか福岡人って、歴史的建築遺産にあんまり頓着しない傾向にあるようだ。街中には意外に近代建築遺産が少ない。都市景観にどこか重みがないのはそのせいか。中心部にあった古い堂々とした銀行の建築物や旧博多駅舎、ネオゴシックの県庁舎や市庁舎だって全部取り壊されてしまった。思いっきりがいいのか。価値がわかってないのか。九州大学も伊都キャンパス移転に伴って箱崎の校舎の取り壊しが盛んだ。明治後半に我が国第三番目の帝国大学として創立され、堂々たる名建築が立ち並んだ箱崎。これだけの歴史地区が廃墟になる様は哀れとしか言いようがない。修猷館よお前もか... 学校ってのは校舎が新しけりゃいいってもんじゃないだろう。伝統校ほど歴史を感じる建築物をシンボルにしているのに。


当時は市内電車貫線が正門前のこの道を走っていた。今では「サザエさん通り」なんてのが出来た!

正面の塔屋に六光星
この旗の配列は同じだ。

旧制中学修猷館時代の正門
石柱の文字にわずかに伝統の痕跡が残っている。
今の東門付近に保存されている

 その我が母校、修猷館があるのが西新町:江戸時代に福岡城下、樋井川の西の松原に新たに形成された町だ。それまでは樋井川にかかる今川橋が城下町の西の果てだった。幕府の一国一城令により廃城になった黒田家の支藩、直方の東蓮寺藩の家臣たちを福岡本藩の城下に住まわせるために新たに開発した新市街だそうだ。やがて唐津街道沿いに町が広がっていった。いまでも古い商家が残り、姪浜宿あたりまでは古い町並みがかろうじて残っている。

 また鎌倉時代にはモンゴル・高麗の大群が博多湾に来襲してきた。いわゆる元寇である。二度目の来襲ではこの辺りに上陸してきたが、先の来襲以降、防塁が築かれ鎌倉御家人たちは九州の武士団の助けでなんとか防衛を果たした。一部、陸上戦の激戦地となった祖原山や日本側の前線基地となった紅葉八幡などの元寇ゆかりの遺跡がある。西南学院のキャンパス内には防塁跡が保存されている。電車が走ってたころは「西新町」の次に「防塁前」という電停があった。

 明治になるとお城の大手門にあった藩校東学問所修猷館が西新町に移転、福岡県立中学修猷館となる。さらに西南学院が同じく西新町に移転してきた。こうして新興武家屋敷だった街が学生の町となった。

 西新商店街はいまでも賑やかな商店街。有名なのは、糸島のおばちゃんリヤカー部隊の露店。常設だ。すぐ西隣りの旧糸島郡(今は一部が福岡市西区、一部は糸島市に。倭国の時代の伊都国、志摩国のあったところ)は福岡の台所と言われる近郊農業地帯。新鮮な野菜、果物、花、そして魚が取れる。おばちゃんたちが朝早く起きて大きな背負い籠を担いで、筑肥線に乗って、市内に行商に来たのが始まり。西新町はロケーションとしては一番便利で、こうした「市」が出来たのは全く不思議ではない。

 もう一つの名物は、修猷館生御用達「蜂楽饅頭」という回転焼き(今川焼きとも太鼓焼きともいうが我々はこいう呼んだ)屋さん、当時は小さな店だったが、今でいうイートインコーナーがあった。なにより綺麗なお姐さんがいた。いわゆる看板娘!生意気な修猷館生にも優しく接してくれた。「あれから40年?!」。いまは大きくて立派な店になり結構な繁盛店に。そう、「行列のできる店」になっている。天神の岩田屋本店のデパ地下にも出店してるそうだ。あの看板娘さん、どうしてるんだろう?

 私は子供のころ西新町の東隣りの今川橋に住んでいた。今川橋には西鉄電車の車庫があり、かつてはここが市内電車の終点であったという。それが西新町より更に西の姪浜、室見まで伸びた。西新町は、市内電車、城南線と貫線の分岐点であった。映画館や積文館書店があり、ボーリング場もあった。商店街だけでなく賑やかな街だった。やがて修猷館に通うころには私は樋井川の上流の別府に引っ越し、六本松からここまで電車通学していた。電車の分岐点であっただけでなく、昔から唐津街道の要衝として賑わう街であった。今でも福岡市の西の副都心と考えられている。一時は地元老舗デパート岩田屋の西新店がオープンしたが、やがて閉店してしまった。そんな副都心、なんて気取った町柄ではないのだ。普通ならデパート・スーパーなど大型店舗ができて商店街がシャッター通りになるのだが、ここでは逆。商店街がいまも健在。その後デパートもスーパーも建たないという、珍しい賑やかな商業地であり続けている。


西新商店街


紅葉八幡
蜂楽饅頭
修猷館生御用達

商店街から福岡タワーが見える
かつては百道の海水浴場だったところだ

???このカオスな佇まいがいいなあ!

西新商店街名物リヤカー部隊
糸島のおばちゃんが新鮮な野菜や果物、花、魚を運んでくる常設露店
この頃は糸島のおばちゃんもファッショナブル。
当時はモンペに久留米絣、頭には手ぬぐいのほっかむりが定番だった。

 西新商店街を更に西へ行くと、中西商店街、高取商店街、藤崎商店街と延々1.4Kmも商店街が続く。賑やかな下町の佇まいを今も残している場所だ。高取商店街辺りまで来るとかつての唐津街道の商家、町屋が今も残っている。やがて姪浜宿も間近だ。忘れてならないのは高取焼の窯元があることだ。ビートルズやベンチャーズに熱狂していた高校生の私に、陶磁器など興味があるはずもなく、もちろん一度も訪ねたことはなかった。しかし、この歳になると「なんだこんなところにお宝が...」と気づく。早速訪問。住宅街の真ん中に、高取焼味楽窯はある。この日はあいにく誰もおらず、陳列館もガランとしていた。登り窯を見学させてもらい早々に引き上げた。この登り窯は有田や唐津で見たものと遜色のない大層立派なものであるが、ここでも、この窯が使われることはもはやないそうだ。

 高取焼は、黒田長政が文禄・慶長の役で朝鮮から連れてきた陶工「八山」(ぱるさん)が筑前藩内に開いた窯である。筑豊の鷹取山で開いたのが最初であるが、その後、窯は藩内を転々移り、小石原の窯は現在でも八山直系の子孫が営んでいる。高取焼は筑前黒田藩の藩窯として幕府への献上品などに用いられたため、さらに福岡城下に近いところに陶工が移り住むよう命ぜられて窯を開いた。これが現在の高取焼味楽窯につながっている。地名、高取町も高取焼からきている。この高取焼味楽窯の特色は、茶入れなどの茶器にあるという。極めて薄い陶器をろくろで生み出す技は一子相伝。福岡藩も、隣の佐賀藩や唐津藩に負けずとも劣らない藩窯を持っていたことを誇るべきであろう。

 とここまで来ると福岡城下の西の果て、旧早良郡、糸島郡との境だ。







筑前藩高取焼窯元
「味楽窯」

 ともあれ、「あれから40年?!」なのだからすっかり辺りも変わってしまった。浦島太郎なのだ。樋井川は臭くて汚い川だったが、いまは綺麗になった。今川橋も古い木造橋で電車が上を通るとグラグラ揺れた。やがてコンクリート橋に架け替えられたが、砂埃舞う未舗装の電車道がしばらく続いた。「サザエさん通り」なんて通りが出来た(修猷館東門の横を百道海岸へ)長谷川町子が一時期住んでいて、百道の浜で磯野一家を構想したという。そんなことがあったなんて全く知らなかった。百道の海水浴場も地行浜も埋め立てられて新しいウォータフロント新市街が出来た。湾岸を都市高速道路が走ってるではないか!気分はまるでシカゴのレイクショアードライブ、ニューヨークのヘンリーハドソンパークウェー! 住んでいた海辺の我が家のあったところも、いつの間にかすっかり内陸の殷賑な地区になってしまっている。それにしてもこのウォーターフロント、シーサイドももち、すっかり福岡の新しい顔になっていて、近未来的な都市景観を生み出している。福岡ってかっこいい町になったなあ!しかし、子供の頃凧揚げした地行浜も、毎夏大腸菌汚染度が気になっていた百道海水浴場も、父が百道海水浴場からボート借りてきて子供の私を迎えに来てくれた樋井川河口の防波堤も無くなってしまった。あの頃のあの町。でもやっぱり記憶の中の西新町と今川橋は、いまだに当時のままだ。市内電車が走り、海水浴場があって、六光星の校章つけた学帽かぶった若者が闊歩し、蜂楽饅頭で放課後を過ごしている修猷館生がいる街だ。血気と汗と涙と夢とに満ち溢れた若者の町... 枯れてしまった今の私には眩く輝くような街だ。



2015年12月21日月曜日

初冬の大和古寺巡礼(3)元興寺 〜冬紅葉を巡る旅〜

飛鳥の法興寺から移設された日本最古の瓦ぶき屋根(行基葺)

 今年もいよいよ押し詰まってきた。様々な煩悩に苛まれた一年だった。そういった、ざわついた気持ちのまま、初冬の大和古寺巡礼の旅に出た。そこには別の時間が流れる世界があった。いつものことではあるがまたまた資本主義世界とは異なる世界観に心洗われる。大阪での仕事を終え、限られた時間ではあるが、唐招提寺、長谷寺と巡り、ここならまち元興寺極楽坊の智光曼荼羅にたどり着く。

 ここはわが国初の仏教寺院、飛鳥の法興寺が元である。それが平城遷都にともないこの地に移り元興寺となった。当時は広大な敷地を有する有力な寺であったが、時代とともにその寺域は狭まってゆき、旧元興寺境内の大半はやがて人々の生活の場に変わっていった。いまならまちと呼ばれている地域がかつての元興寺境内である。わずかに往時を偲ぶ僧房の一つが今の極楽坊である。ここは、夏にはサルスベリや酔芙蓉、桔梗に彩られ、秋には萩で有名な寺であるが、この季節求めてきた冬紅葉は見当たらない。寒々とした曇天の空に彩りはない。今ここにあるのは滅びの美を象徴する行基葺の古代屋根瓦と、板碑の中心に立つ慈愛に満ちた地蔵菩薩、そして堂内の暗闇に光を放つ曼荼羅世界だ。

 元興寺の今の姿は、飛鳥時代の権力者蘇我氏の氏寺という性格や、南都七大寺としての官寺のステータスを誇っていた時代の姿ではない。中世に至り智光曼荼羅を本尊とする南都浄土信仰の中心となった。かつての仏教伝来にまつわる権力闘争や南都七大寺として朝廷の中枢を担っていた時代は歴史の彼方に去り、浄土信仰、聖徳太子信仰、弘法大師信仰、地蔵信仰など庶民に支えられた救いの場として栄え現在に至っている。時代とともに権力者は栄枯盛衰うつろい行くが、庶民の力は永遠に不滅だ。庶民が守り続けた微笑みを絶やさない地蔵菩薩と曼荼羅が放つ仏の光が乾いた心を満たしてくれる。

お地蔵様は身近にあって庶民を守ってくださる仏様。
関西は地蔵信仰が今でも街角の地蔵堂に息づいている。
なんと優しいお顔

智光曼荼羅
(堂内撮影禁止なので堂外から撮影。罰当たりお許しください)
仏の宇宙観を表現した曼荼羅がご本尊
誰が手向けたのだろう




飛鳥法興寺から引き継がれた古代瓦(行基葺)
日本最古の瓦屋根

秋には萩の寺として知られる元興寺極楽坊


元興寺極楽坊
旧元興寺の僧房の一つ

鶴福院町からの興福寺五重塔
ここもかつては旧元興寺境内であった。
元興寺は興福寺と境を接していた。

旧元興寺境内の東
猿沢池に接するあたり

(撮影機材:LeicaSL+ Vario Elmarit 24-90mm f.2.8-4)

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「元興寺とならまち」 〜日本最古の仏教寺院はいま〜2010年



2015年12月18日金曜日

初冬の大和古寺巡礼(2)長谷寺 〜冬紅葉を巡る旅〜



 初瀬の里に長谷観音菩薩を参拝する。この身の丈10m超、一木造りの十一面観世音菩薩立像の堂々とした立ち姿と慈愛に満ちた眼差しは、やはり資本主義的合理性に疲れた心には救いである。この観音像は平安時代に二体作られ、一体はここ初瀬の長谷寺に安置された。もう一体は観音の慈愛が他の人々にも届くようにと海に流されたという。これが相模国に流れ着き、もう一つの長谷寺が造立されそこに安置された。鎌倉の長谷観音である。こういう現代的合理性では到底理解できない伝承にいたく感銘を受ける私は、かなり観音菩薩の愛に包まれているのだろうか。物事の道理とは超越的な経験や言い伝えに基づく理解であることがあるのだ。

 長谷寺は「花の御寺」と言われる美しい寺。春の桜、五月の新緑と牡丹。初夏のシャクナゲ。そして秋の紅葉。冬の雪と寒牡丹。四季折々に息を呑むような大和路初瀬の里の美しい時を演出してくれる。しかし、錦秋の煌めきが終わった晩秋から初冬にかけてのこの季節、「花の御寺」は静寂の時を迎える。いつものような華やかさはないが、この時期こそ心静かに観音様に手をあわせることができる。境内に観光客の姿は途絶え、参道の名物くさもち屋も三輪にゅうめん屋も手持ち無沙汰な季節となる。長谷寺もこの時期に大舞台の修理、仁王門の修理を急いでいるのか、覆いが被せられている。拝観受付の女性は「スンマセンなあ、せっかくお出でやしたのに」と。「いやいやいいんです。こんな静かな長谷寺を求めてきたんですから」   

 長谷に来るといつも初瀬川を隔てた向かいの山頂の愛宕神社に登る。ここからは長谷寺の全景が見渡せる。この季節はこのあたりの名残の紅葉、冬紅葉が美しい。過ぎ行く紅葉の季節。落ち葉が敷き詰められ寂寞とした林の中にきらめく季節の残光を見る。今ここから展望する堂宇は、あの桜や紅葉に埋もれた長谷寺の姿ではないが、大舞台の奥で観音菩薩が衆生を救わんと光を放っているのが見えるような気がする。

 長谷寺に向かう参道を少しそれて、與喜天満宮参道の階段を登る。二の鳥居あたりから見下ろすことのできる初瀬街道も人や車で溢れる季節と違って静かである。ここはかつて伊勢詣の伊勢本街道初瀬の宿であった。観音信仰と伊勢詣。旅する平安みやこ人憧れの地、ここから展望する谷あいの街道筋は往時を忍ばせる景観をよくとどめている。遠くに旅の僧が一人、鳥見山を遠望する白く輝く街道を西に向かって歩んでいる。長谷寺参詣を終え、これから大和の霊場に向かうのだろう。長谷寺は西国三十三所観音霊場の根本霊場なのだ。



長谷寺十一面観世音菩薩立像
(長谷寺公式HPより引用)


愛宕神社参道の冬紅葉





愛宕神社参道







この左手に長谷寺を展望できる


愛宕神社からの長谷寺全景
全山桜に埋もれる季節の光景は圧巻だが



遠くに近鉄電車が伊勢に向かって爆走する




與喜天満宮参道


長谷寺参道を見渡すことができる。


初瀬街道
鳥見山を過ぎると桜井、大和国中へと続く

長谷寺登廊





本堂大舞台

(撮影機材:Leica SL+ Vario Elmarit 24-90mm f.2.8-4)


以前書いたブログ:
「初瀬のお山は花盛り」ー桜の長谷寺を行くー2012年