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2016年6月17日金曜日

梅雨の太宰府はアジサイの里だった


 
観世音寺の紫陽花


 遠の朝廷、太宰府の梅雨の季節はアジサイが真っ盛り。太宰府といえば梅を思い起こす。あるいは都府楼の桜。あまりアジサイのイメージがなかった。しかしこんなに古都の季節を彩っていたとは、元・地元住民の私も気づかなかった。きっと最近の事なのだろう。世界各国からの観光客で賑わう太宰府天満宮のざわめきを離れ、本来の太宰府都城の中心部であった観世音寺から戒壇院、太宰府政庁跡(都府楼跡)あたりの散策はいつ来ても楽しい。古刹に官衙の遺構、万葉歌碑、いわくありげな杜や塚、都城を守る山城。古代史を物語るセッティングが用意されている。このあたりの佇まいは、かつての栄華を思い起こさせるのに十分だし、静けさが時間を巻き戻してくれる。どの季節に来ても良いものだが、雨のそぼ降る梅雨の太宰府もまた風情があって良い。煙霧にけぶる四王寺山(大野城)を背景に瑞々しい緑をまとった太宰府政庁跡の広大な敷地、観世音寺の杜、戒壇院の土塀、学校院跡の田んぼ。山上憶良、小野老や大伴旅人などの筑紫歌壇のトップスターたちの歌碑。それにアジサイが彩りを添える。なかなかの風情ではないか。太宰府のもう一つの季節の味わいを知った。歩き慣れたところだが訪れるたびに新たな発見がある。



戒壇院

戒壇院山門

戒壇院の紫陽花

観世音寺講堂
講堂横の紫陽花



観世音寺宝蔵の菖蒲

観世音寺の裏手は太宰府散策のゴールデンルートだ

僧坊跡の紫陽花が見事!


里では田植えが始まっていた
戒壇院

学校院あたりも田植えが

太宰府政庁跡(都府楼跡)

都府楼から四王寺山(大野城)を望む





歩き疲れたら
光明禅寺門前の茶屋で「梅が枝餅」を

水城小学校・学業院中学前の案内




2016年6月4日土曜日

浜離宮恩賜庭園 梅雨入り間近の大名庭園散策


 都内大名庭園めぐり。今日は浜離宮恩賜庭園。徳川将軍家の浜御殿から皇室の浜離宮へ。そして都民の公園へ。

 元は甲府宰相の江戸屋敷であったが、将軍家に移された。四方を掘りに囲まれ石垣があり、徳川将軍家の唯一の別邸である。しかしその構造から見て、江戸城の出城として造営されたことがわかる。江戸時代には鷹狩りが行われた。ほかに2箇所の鴨場があり、今でも皇室行事の鴨狩が行われる。

 庭園の中心にある池は、都内に残る唯一の潮入池、すなわち海水を引き込んだ池だ。ボラがジャンプするのが見える。どうりで、日本庭園なら典型的な池畔の菖蒲などの淡水生植物が見えない訳だ。菖蒲は池から離れたところの密集して植えられている。橋に繋がれた中島の御茶屋は公開されていて、この日も外人観光客の人気をさらっていた。このほかにも、当時の茶屋が次々に復元されている。2010年(平成22年)松の御茶屋、2015年(平成27年)燕の御茶屋が再建された。明治になって迎賓館として利用されのちに取り壊された延遼館も、2020年に再建され、再び迎賓館として使用される予定。

と、ガイドブック的な説明はできるが、なぜか「時空トラベラー」としてウンチクを語るエピソードがない。あまり歴史的な出来事の舞台となった形跡がない庭園だ。将軍家の御殿でいわば禁断の園だったからかもしれない。延遼館は元は新政府の海軍練習所として建てられた石造りの建物で、これを改修し迎賓館として利用した。英国皇太子や米国グラント大統領などが滞在したそうだ。いまは荒れ果てた空き地が虚しく広がっているだけだ。浜離宮庭園はいまや汐留の再開発に伴い、高層ビル群に囲まれた大名庭園という独特の都市庭園の景観と成っている。その現代と江戸時代のコントラストが人気となっていて、皇居周辺と並んで外国人観光客が多い。ちなみに再開発された汐留操車場跡は新橋停車場のあったところ。当時の駅舎が復元されている。

 西日本は梅雨に入ったようだ。関東も明日からいよいよ梅雨入り。その直前の晴れ間に菖蒲が咲き誇る。紫陽花はもう少し先だろうか。帰りに歩いた銀座の電通通りの歩道沿いの花壇に紫陽花が咲き誇っていた。気がつかなかったが、ここは意外な紫陽花の散歩道だったんだ。




現代と江戸時代の景観コントラスト

富士見山から眺める潮入りの池

松の新緑が目にしみる

菖蒲が盛りに



紫陽花はもう少し先




平成22年に復元された「松の御茶屋」
平成27年に復元された「燕の御茶屋」前のツツジ

「中島の御茶屋」

以下はおまけの写真。Finally but not least. 銀座の紫陽花が綺麗だった。意外な紫陽花ストリートに感激!





2016年5月26日木曜日

Leica Vario Elmarit SL Zoom 24-90mm f.2.8-4 ASPHという怪物 まさかの「故障者リスト」入り!



 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : Leica Vario Elmarit SL Zoom 24-90mm f.2.8-4 ASPHとい...: レンズを着けるとボディーが小さく見える  ライカSLがリリースされてから3ヶ月が経過した。予約入荷待ち状態が解消されようやく市場にブツが流通し始めたようだ。もちろん話題の中心はこのコンクリートブロックのようなミラーレスのSLボディーなのだが、私にとってはレンズが注目だ...

と、大いなる期待を担って我が撮影機材戦列に加わったのだが、このライカ入魂のズーム、Vario ElmaritSL24-90 ASPH、購入からわずか半年でまさかの「故障者リスト」入り。高い投資となった。鳴り物入りで大リーグに移籍したBoston Red SoxのM坂みたいなもんだ。

 それは伊豆下田の黒船祭のパレード撮影中に起こった。突然ズームリングが35mmと50mmの間でロックされ、動かなくなってしまった。時々動き90mmまで回るが、なにかゴリゴリとした違和感を感じ、また動かなくなってしまう。やむなく撮影中止。持ってきたサブカメラ(ちなみにライカではない)でなんとか仕事をこなした。信じられない!これまでメインとして使い続けていたNikonSLRでは全く経験なし。他社のどんなエントリーレベルのズームでも、これまで経験のない故障だ。

 東京へ戻り、銀座のライカジャパンに持ち込む。サービス担当者もびっくりしていた。しかし、このSLの場合、日本での修理はできないのでドイツ送りだと。しかも3ヶ月はかかるとのこと!信じられない事態!仮にドイツに送るにしてもなんで3ヶ月もかかるのか。日独間はオーバーナイトパックで一晩で届くはずだ。これじゃ仕事にならん。代替機の用意もない。Nikonならここで、ちょっとお待ちください、と言って点検。簡単な修理ならその場でやってくれる。その場で直らないとしても一週間ほどで完了連絡が来る。

 毎度のことで、文句を書き出したらキリがなくて、そんなこと書き連ねていることで自己嫌悪感に苛まれる。だったらライカ止めたらどうだ、といつも思う。これまでもLeica M8, 9, Type240のソフトウェアーバグ(SDカードが読めない、画像番号が勝手にリセットされ、SDカードのフォーマットをやり直さねばならない!再生画像がモザイクになる等々)や、電源回路の不具合(スイッチオフにならない等)には悩まされてきたし、或る日突然M9のCCDセンサーが壊れてしまったこともある。これもドイツ送り。Type240も初期ロット製品にアイレットが抜ける恐れありとして、リコールがかかりこれもドイツ送り。大抵のことでは驚かなくなった。しかし、ようやく完成度の高いSLに出会い喜んでいたら、ズームレンズのリングが回らない、という機械的な故障。しかもその修理が日本国内で出来ないなんて。ドイツ製品の堅牢さ、信頼感が、こんな形で崩れ去るとは... とにかくライカ製品は「故障者リスト」入りしている時間が長すぎて仕事していない。これじゃあ高い契約金でリクルートしてきたのにコストパフォーマンスの悪さは言うまでもないだろう。

 やはり写真を生業とするプロはdependable and durable Nikonをメインにすべきだと反省する。こうしていつも比較するのは気の毒かもしれないが、Nikon はかなり過酷な使用にも耐える堅牢さを備えている。以前、山でレンズを岩にぶつけてズームリングが外れてしまった時(この時はお粗末な作りだと嘆いたものだが)も、ズームそのものはきちんと動いて仕事してくれた。事後に銀座のNikonサービスで点検してもらったが、光軸のズレやピントは全く問題なしだった。撮影の現場でカメラが機能しなくなって、撮影を中止せざるを得なくなったことは一度もない。どんな状況でもキチンとプロの要求に応える。これが仕事カメラだ。ライカもNやCのプロラインアップ、サービスサポートに対抗するなら是非頑張って欲しい。

 Leica SLは最新のファームウェアーアップで使い勝手は改善した(露出補正がダイレクトにできるようになったことや、ピント確認がジョイスティック一押しでできるようななったこと等)が、今回のことで、アフターケアーを含め仕事カメラとしては信頼感に課題を残すことを証明してしまった。少なくともリスキーな機材という印象を植え付けてしまった。やはり趣味カメラなのだろう。趣味でも、撮影途中で度々中断されると、それだけで撮影意欲を大きく削がれてしまう。それでもライカに拘るのはライカ病患者だからだ。少なくとも、新製品の初期ロットにはバグや不具合が取れないまま出荷された個体があることを知っている必要がある。

 さて3ヶ月後、夏の盛りを過ぎて秋風が吹き始める頃、ドイツから戻ってくるであろう君を待つとしよう。しかし、君の先発投手ポジションがそれまで空いているかは保証の限りではないが。この世界もスピードが命、競争が厳しいのだから。

 ちなみにライカジャパンのスタッフは、性能やサービスに敏感でディマンディングな日本の顧客と、ドイツ流の合理主義(よく言えば職人気質)との間で、板挟みに合い苦労しているのだろう。妙に自信たっぷりなLica社のProduct Out姿勢が、User Orientedを求める日本の顧客(神様)に受け入れられるのか。サービススタッフもおそらくは日本の他社メーカー出身の転職組みが多いのだろうから、こんな基本的な不具合や、サービス対応プロトコルの融通のなさには、フラストレーションを感じているのだろう。顧客から面と向かって文句言われるのは彼らだから。ライカだから許せ、とはいかない。

 かつてアメリカの会社を買収し、米国で事業展開に苦労した経験に照らすと、日本流の顧客志向、サービス品質管理を徹底させるのがいかに高いハードルであるかを身にしみているつもりだ。日系企業顧客から求められるSLA(Service Level Agreement)は米国のスタンダードなSLAよりはるかに厳しい要求条件を満たさなければならない。現地スタッフはこれじゃコスト的にやってられない、と最初は嘆いていたが、それが信頼関係維持(複数年度契約へつながる)のためのコストであること、さらにその信頼感で顧客を増やすことにより一顧客あたりコストが下がることをやがてわかるようになった。ドイツ本社の経営思想、サービス方針に従うことを期待されている日本法人では立場が逆かもしれない。しかし、日本流、米国流、ドイツ流という世界に冠たる三つの経営流儀のハイブリッドを目指して、ギャップを乗り越え新しい「グローバルスタンダード」を作り出して行く時代なのだから、日本の顧客の要求をしっかりドイツ本国に伝えてほしい。ライカ本社の社長はソニーの役員出身者だと聞く。素晴らしい描写性能の(とても高価な)ズームレンズを所有していながら使えない悔しさを知って欲しいものだ。

(2016年7月16日 記述)
 本日ライカショップ銀座より修理完了、ドイツから戻ってきたとの電話連絡あり。当初8月24日の引渡し予定と説明されていたが、想定より1ヶ月ほど早かった。修理票には特に動作不良の原因の説明は記されていない。ズーム機構の修理/調整をした、との短い説明のみ。銀座店のサービススタッフに聞いてもわからないという。なんかプロフェッショナルじゃないな。「また何かありましたらいつでもご連絡ください」と丁寧なスタッフ。「二度とこんなことがありませんように」と心の中で念じつつショップを出る。早速銀座で試写してみたが、特に不具合は無くなっていた。当然だろうが... しかしあの不具合の原因がわからないとなんとなく心もとない。

2016年5月22日日曜日

伊豆下田 ペリーロードはアジサイの季節

保育園の子供達が歩くペリーロードはアジサイの季節を迎える


 伊豆下田では恒例の黒船祭が開催された。今年は第77回、例年より少し遅い20〜22日の開催となった。国際色豊かなパレード、コンサート、踊りや、祭で町中が賑わっている。公式パレードはペリー提督上陸ポイントを出発するが、この静かで情緒あふれるペリーロードを迂回して、賑わう商店街の方向へと進んで行く。したがって祭りの最中もこの辺りは比較的落ち着いた雰囲気を保っている。ペリーロードの背後にある下田公園の山はアジサイが満開になると見事だが、これはもう少し先の6月に入ってから。しかし、色付き始めたまだ若い楚々としたアジサイはこの古い街並みに似合う。もっとも下田が下田らしい季節だと思う。

 このペリーロード、もちろん昔からそう呼ばれていたわけではない。1854年ペリー提督率いる米国海軍東インド艦隊が下田條約を締結するために寄港。上陸地点の下田湾頭(現在はペリーポイントとして記念碑が建つ)から、調印式の行われた了仙寺まで隊列を組んで行進した800メートルほどの道で、ペリー提督にちなんでそのように呼ばれている訳だ。当時のIllustrated London Newsや、ペリーの「日本遠征記」に挿入されているハイネの画を見ると、いまの了仙寺やペリーロード界隈の町の佇まいがほとんど違っていないのに驚く。時空の扉に閉じ込められた地区だ。明治になってこの川沿いの街は花街として栄えた。今でも残る江戸末期から大正期に建てられた伊豆石や海鼠塀の遊郭、置屋、商家、蔵などの建物が、今はカフェやギャラリー、レストランなどになっている。川にかかる石橋、川沿いのガス灯、柳、アジサイと共に独特の情緒ある町並みを形成している。下田の観光スポットではあるが、小さな通りなのであまり観光地ズレせずに済んでいるのが不思議なくらいだ。多層な歴史を積み重ねたこうした地区を残してゆかねばと思う。

ペリー提督に同行した画家ハイネの描いた了仙寺界隈
今のペリーロードあたりの風景

以前のブログ:
最初の開港場 伊豆下田 〜ペリー提督が歩いた街





大正期に建てられた古民家はカフェになっている。
風通しのためちょうど窓を開け放った時、花瓶の花が輝いた








下田公園から市街地を下田富士を望む。
本格的アジサイの季節はこれから



2016年5月18日水曜日

六義園散策 〜江戸の大名庭園を巡る〜




六義園
ツツジの頃が美しい


 駒込の六義園は小石川後楽園とともに、東京を代表する大名庭園である。我が家が、かつて小石川植物園の近くにあった時には、両親や子供を連れて遊びに来たものだ。その小石川植物園も、現在は東京大学の付属植物園になっているが、元は徳川将軍家の白山御殿、後に小石川御薬園、養生所(赤ひげで有名な)であった。もちろんご近所の東京大学本郷キャンパスはもと加賀藩邸跡。この辺りは江戸の大名文化の名残があちこちに見て取れる。

 六義園は、元禄年間、第五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が造営した柳沢家下屋敷である。彼は綱吉の信任厚い時代の寵児であり、幕府内で絶大な権勢を振るった。あの浅野内匠頭刃傷事件・赤穂義士事件の時に、無慈悲な裁定をした悪役として名前が出てくるが、時のいわば政権トップであった。この事件の裁定は、幕府側から見れば難しい判断であったであろう。吉保は英明で、教養もあり、とくに漢詩、和歌の素養があった。「六義」の名称も漢詩、和歌からきている。1695年(元禄8年)綱吉から拝領された2.7万坪という広大なこの土地に、自ら設計し7年かけて回遊式築山泉水庭園を築いた。その後は幕末まで柳沢家が所有。江戸の大火や地震にも耐え、ほぼ原形のまま存続した。明治になって荒廃した六義園を岩崎弥太郎が購入。庭園を整備し現在のようにレンガ壁で囲んだ。以後、関東大震災にも東京大空襲にも被害を受けることなく現在に至っている。1938年(昭和13年)東京市に寄贈された。このように創生より300年余りに渡り、ほぼ原型が維持され、今、往時の姿を目の当たりにすることができる訳だ。

 この他にも岩崎家が所有し東京市・東京都に寄贈された庭園がある。清澄庭園(元禄年間は紀伊国屋文左衛門邸宅、その後下総関宿藩下屋敷)がそうだ。また上野の岩崎家邸宅も2001年に東京都へ移管された。高輪の三菱開東閣は今も非公開だ。明治の頃に荒廃した大名屋敷や庭園を買い取り、後世に残したのはこうした新興財閥であった。そのほかにも、都内には、先述の小石川後楽園(水戸徳川家)、浜離宮庭園(甲府藩下屋敷、将軍家浜御殿)、芝離宮庭園(老中大久保家、紀伊徳川家など)、などの江戸の名残を示す大名庭園が多い。江戸時代、江戸御府内の50%はこうした大名屋敷と大名庭園で占められていたという。このことが、後に明治の近代化に向けて、官庁や大学、政財界有力者の屋敷、外国人向け宿泊施設(ホテル)、企業用の敷地の確保を可能とし、首都としての基盤整備、発展を可能ならしめた。さらに一部は、上述のように公園としても整備・公開され、東京都心に貴重な緑地と文化財とリフレッシュ空間を提供することとなった。このように幕藩体制下の江戸の「大名屋敷」というリザーブされたスペースが、近代日本の首都、さらにはボーダレス化する経済活動の拠点としてのインフラとなったわけだ。明治新政府の中で、新首都候補論争があった。京都に留まる案、大阪に移す案... しかしきっと、京都や大阪では、近代化日本の首都としての発展に備えたスペースの確保は無理だっただろう。東京奠都を進言した大久保利通の先見の明に感謝すべきか。



















2016年5月17日火曜日

旧古河庭園にバラを愛でる



 五月の薫風、爽やかな晴天のもと、旧古河庭園にバラを愛でる。休日にもかかわらず幸い思ったほどの人出もなく、比較的ゆっくりと庭園散策を楽しむことができた。東京にはこうした庭園が多い。江戸時代から続く大名庭園だけでなく、明治以降、維新の元勲、旧大名家、財界の長老、文化人などの邸宅が都民の公園として開放されている。さすが近代日本の首都、東京だ。

 その一つ、ここ旧古河庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅があったところである。その後陸奥の息子が古河家の養子に入ってことから、古河家の邸宅になった。1917年(大正6年)に古河虎之助が洋館と庭園を築造し、現在の姿となった。武蔵野台地の傾斜を利用して、最頂部の本館から、イタリア式/フランス式の美しいバラ園を斜面に配し、底部に日本庭園を展開するという変化に富んだ景観を生み出す構造となっている。日本庭園は、山県有朋の無鄰庵や南禅寺別荘群の庭園などを手がけた京都の名作庭師、小川治兵衛(植治)の作。建物/洋式庭園はジョサイア/コンドルの最晩年の設計で、本館はレンガ造りの躯体に黒い新小松石を貼ったルネッサンス洋式の建物だ。なんと豪勢な東西の巨匠のコラボではないか。今となってはこのような文化財として残るような邸宅、庭園を作る有力者もいなくなった。終戦後はGHQの接収されたが、返還され国有財産となった。東京都に貸し出され、都民公園として整備された。

 東京には明治から戦前にかけて、立派なお屋敷街があった。立派な塀に囲まれ、鬱蒼とした樹木に覆われた閑静な邸宅が、東京という街の時代の繁栄を象徴していた。しかし、一億総中流、いや最近は中流と下流に二分化して、資産家が少なくなり、さらに資産家もお屋敷を維持できなくなった時代だ。今では東京へ出てきて出世して、大会社の社長になったと言っても、サラリーマン社長の場合は富豪と言えるほどの資産を持っているわけではなく、子々孫々に財産を残せる人はそれほどいない。仮に不動産を残しても、低成長時代、ゆとり世代の息子や娘は、それほどの所得を得ていないので相続税を払うことすらできない。我が家の周辺の住宅地も、かつてのお屋敷が、代替わりで空き家となり、やがて相続税対策で売却され、立派な洋館や日本家屋が惜しげもなく取り壊されて更地になっている。その後には、大きな敷地だとマンションが、ちょっと狭い敷地だと、一階はほぼ駐車スペースというプレハブ住宅が10軒くらいギチギチに建つ。いずれにせよチマチマしたマイホームを建てるのが精一杯という時代は、良い時代なのかどうなんだろう。100年後のこの街の景観を想像することができない。建物や住宅という「不動産」はもはや「不動産」ではなく、単なる「耐久消費財」になってしまい、建てては壊すを繰り返さないと経済が回らないようになってしまった。経済合理性と効率が優先する社会にあっては、住宅メーカーにしてみれば100年も保たれては困るのだろう。京都の南禅寺界隈の別荘群にしても、これらを文化財として維持、保存して行くにはそれなりの費用がかかる。文化財としての価値をよく理解し、このような永続的な負担に耐えうる「資産家」は海外に求めなければならなくなってきているのかもしれない。

 せっかくコンドル設計のルネッサンス様式の邸宅や、見事に手入れされたバラが咲き誇る庭園を散策してきたのに、そんなことばかり考えてしまうのはサラリーマンの性なのだろう。もとよりマンション住まいの自分自身がこのような豪邸に住めるとは思わないが、かといって豪邸を所有する人々を僻んで、それが取り壊されてチープな景観の街になっていくのを喜ぶ気にもなれない。「文化財守れる人が文化人」。守る気はあるが金がない。情けない。しかし、豊かさとは、懐の金の多寡で決まるものではなく、心の余裕で決まるものらしい。隣人愛や知性や豊かな教養があれば、自ずと人には品格が備わる。それが心の余裕につながってゆくものだ。街の豊かな風格もいかにお金をかけたかではなく、いかに品格の歴史が蓄積されたかで決まるのだと思う。そのような人々が心豊かに住まう街、それが英国の田舎で学んだライフスタイルなのだが... 往年の経済大国「英国」に、かつての経済大国「日本」が学ぶべきはこういうコトだと思う。