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2016年7月1日金曜日

さらば九州帝國大學 〜西南学派へのオマージュ〜

 九州大学は現在、伊都キャンパスへの全面移転を進めている。医薬歯系の堅粕キャンパスを除き、平成18年に移転開始、平成30年までに移転完了予定だ。すでに六本松キャンパスは校舎が取り壊されて再開発が進められている。メインキャンパスの箱崎も工学部系は移転済みで、理学部、農学部が順次これに続いている。貝塚の法文系も間もなく全面移転する。この移転計画に伴い、東京、京都に次ぐわが国で三番目の帝國大學として福岡の地に開学した九州帝國大學、その後進の九州大学は、その発祥の地、箱崎キャンパスを去ることになった。旧帝國大学でメインキャンパスを捨てて全面的に移転するケースは珍しい。43haという全国でも屈指の広さを誇り、古来からの箱崎松原に包まれた箱崎キャンパスは今や荒れ果てて、学生の姿もなく、100年という長い歴史の中で数々の研究成果を生み出した研究棟建物も次々に取り壊されている。往時の活気を偲ぶよすがさえなくなりつつある荒涼たるキャンパスに佇み、我が青春の時を回想する。

 私が学生生活を過ごしたその時代とは、1970年代初頭、高度経済成長期、団塊世代最後尾、大学入試は史上最高の狭き門、そして大学紛争真っ只中という時代であった。

70年反安保闘争、ベトナム反戦闘争、学園紛争(反日共系全学連、全共闘運動が全国に広がる)そして中国では文化大革命の嵐。紅衛兵、毛沢東語録、造反有理...
1968年:米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港反対闘争(九大は全国の闘争拠点に)
1968年:米軍ファントム戦闘機九大箱崎キャンパス墜落(反米、ベトナム反戦闘争のシンボル化)九州大学学園闘争激化。
1969年:東大安田講堂攻防戦。
その結果同年の東大入学試験は中止。前代未聞の事態に。
やむなく願書を出し直して九大受験、入学。
しかし、これは波乱の始まりに過ぎなかった
九大入学試験粉砕(受験二日目、六本松の試験会場封鎖。急遽、近くの予備校に用意された試験会場に移動)
入学式粉砕(記念講堂での式典中、全共闘乱入)
全学バリケード封鎖(入学後1ヶ月で講義無し)
機動隊導入、半年後封鎖解除。しかし...
荒廃した学内、疑心暗鬼の連鎖、社会科学系研究体制への失望感...
卒業式無し(卒業証書は事務部でもらった)
なんという大学生活。

 そんな九大になぜか5年在学。きっと何かを探して彷徨していたんだろう。なにか砂を噛むようなザラザラとした思い出ばかりが残る。ノンポリではないが全共闘運動に没入するわけでも、ノンセクトラジカルを標榜するわけでもない。学生集会に参加したり、小田実のベ平連の活動に共鳴して清水谷公園から新橋までのデモ行進に参加するくらい。この時代を生きる人間として何かしなくてはという思いがあったが、それ以上でもそれ以下でもない。やがて全共闘運動は、孤立し先鋭化した連中の連合赤軍「事件」(1970年のよど号ハイジャック事件、1972年の浅間山荘事件、ダッカ空港、テルアビブロッド空港など海外での赤軍派テロ事件等)へと変質して行き終焉を迎える。その後、私は最初目指していた学究の道を諦める。ともあれこんなところで呻吟していても「一点突破全面展開」は起こらないと気づいた。世の中を知らない若輩者は社会に飛び出るべきだと。社会を知らずして何の社会科学だ!そして営利主義に走らない公益事業を選んだつもりが、期せずして民営化とグローバル化の波に巻き込まれてゆく。気がつくとボーダレス資本主義のロジック丸出し、バブル時代のモウレツ「企業戦士」へ。考えてみると時代の必然だった。学生時代を振り返るいとまさえなかった。まるであの時代を語るのが憚られる空気を纏いながら。まさに「いちご白書をもう一度」みたいな世代...  

 ただ、この時に得た学友達との交友関係は今日まで続いている。企業戦士になったものもいる。学究の道を歩んだもの、法曹界で活躍するもの、役人に成ったものもいる。あの某大手都市銀行や某航空会社に職を得た友は、まさかの早期退職で故郷に帰った。なかにはあれ以来音信がなくなってしまった学友もいる。何も考えず馬鹿話できるポン友というより、考え方も、進んだ道もそれぞれ違う友人たち。かなり硬派な連中だ。それはあの時代の空気を共有し、カオスの時代の生き方に対する共感があったればこそだと思う。決してアパシーではないが、かといって時代にコミットする確信など持てないという、そういう熱いが彷徨える時代を生きた仲間のいわば連帯感みたいなものだ。「孤立を恐れず連帯を求めて」というスローガンが今でも心に刺さる世代だ。

 
 ところで簡単に九大創設の歴史を振り返ってみる。もともとは1867年(慶応3年)の福岡藩の医学所「賛生館」を母体とし、1903年(明治36年)京都帝国大学福岡医科大学創設。1911年(明治44年)古河財閥の寄付により九州帝國大学工科大學校が、そして1924年(大正13年)法文学部が創設された。こうして東京帝國大学、京都帝國大学に次ぐ3番目の総合大学としての九州帝國大学が生まれた。一方、その陰には地元福岡の財界人渡辺與八郎の献身的な誘致活動があった。かれは福岡に市内電車を開業したほか、循環道路を創設したり、福岡の発展に貢献した事業家であった。帝國大學創設に当たって、医科大学付近にあった遊郭を現在の清川/柳町に移転させるなど私財を投げ打って帝國大学キャンパスを確保した。さらに苦学生には奨学金を用意するなど九州帝國大学創設の恩人である。博多商人の心意気だ。その業績を市民は忘れていない。今でも福岡の繁華街「渡辺通」にその名を残している。

 明治維新に乗り遅れた福岡藩。明治新政府の九州統治の中心は熊本であった。帝國大学は福岡市が明治維新後、誘致に成功した唯一の官立組織(第五高等学校のあった熊本や、第七高等学校のあった鹿児島、医専、高等商業のあった長崎を差し置いて)である。福岡が今日あるのも帝國大学誘致に成功したからというと言い過ぎかもしれないが、福岡のポジションを一気に引き上げる快挙であったことは間違いない。初代総長はあの会津藩出身で東京帝國大學総長となった山川健次郎である。法文学部長は同じく東京帝國大學法学部の美濃部達吉という錚々たる創始者たち。こうしたトップリーダー始め、わが国における西南学派の学風を打ち立てんと、勇躍青雲の志を抱いて九州福岡に向かった若き研究者、教育者たち。我が父も戦後、九大薬学部創設メンバーとして、そうしたたぎる志を胸に東京から九州にやってきた若手研究者の一人だ。その父を誇りに感じる。

 こうした九州大学の歴史と伝統は新しい伊都キャンパスに引き継がれてゆくものと期待するのだが、一方、歴史的建造物・景観保存の視点で考えると、ただでさえ近代建築遺産の少ない大都市福岡で、100年の歴史を誇る箱崎キャンパスが廃止となり、貴重な文化財級建築物や施設、松原に包まれた美しい環境が壊されてゆくのはなんとも勿体無い。幸い工学部本館や大学本部など幾つかの建物は保存されることが決まったが、旧法文系本館など歴史ある建物が取り壊しの危機に瀕しているという。新しい酒には新しい皮袋が必要だと言うが、一方で芳醇な酒は古い樽、古い酒蔵で醸され熟成される。大学という器にはアカデミズムの歴史と伝統という酵母(アスペルギルス・オリゼ)が住み着いていなければならない。これは一朝一夕には住み着いてくれない。長い歴史の中で育てられるものなのだ。すなわち器の保存はただの懐古趣味でないことを強調しておきたい。いつまでも「帝國大学」という亡霊に固執していてはいけないが、イノベーションは過去から持続的に営まれる人間の自由な思索とたゆまぬ研究の蓄積と伝統の中から生まれる。

 今更キャンパス移転の当否を、OBのノスタルジアで語るつもりもないが、首都圏や関西圏の伝統ある大学の郊外移転は、そのブームが去り、再び都心回帰が盛んであることを指摘しておきたいと思う。少子化の時代、広大なキャンパスは必要がなくなり、むしろ優秀な学生や研究者が世界中から集まりやすい魅力的なロケーションが好まれている。すなわち俗世に近い都心が好まれている。逆にそうでないと、ただでさえ少なくなっている学生が集まらない、他校との奪い合いになる(学生側のホンネで語ると、いいバイト先が近くにないとそもそも経済的に大学に行けない)。まして世界の大学と競争するには、広大なキャンパスや、近未来的な建物などではなく、世界とつながっている、優秀な研究者や教育者や学生が世界から集まっている、実社会とつながっている、そういうロケーションが求められる。特に社会科学系の研究にとっては重要なポイントだ。英国留学で過ごした社会科学研究の殿堂LSE(London School of Economics and Political Science)は、まさにロンドンのど真ん中に位置している。ここから移転しようという試みは全くない。OxfordやCambridgeのような俗世からアイソレートした大学都市が世界のイノベーションやアカデミズムの中心となるには100年単位のスケールで考えなければならない。中世の修道院をルーツとする欧州やアメリカの古典的な大学都市は数百年から千年くらいの時間軸でアカデミズムの歴史を積み上げてきた。日本で言えば高野山や比叡山だ。

 さはさりながら創立100年の九州大学の伊都新キャンパス移転構想は、その次の100年を見据えての事だろう。その100年単位の壮大なビジョンに向けて歩む道は、新たなアカデミズムの歴史を開く道のりで、それは決して平坦ではないだろう。あの時の砂を噛むような5年間という過ぎし日日を振り返る私は、ただこの一歩が新たなパラダイムに向けてのチャレンジとなり、いつの日か後世の人々が先人の英断とコミットメントを賞賛する時が来ることを祈りたい。それはかつての明治日本のアカデミズム「帝國大學」と、その伝統を継承する戦後日本の国立九州大学という過去に訣別して脱皮することを意味するのだろう。

 「さらば九州帝國大學。新たな西南学派パラダイムへの旅立ちに栄光あれ!そして西南学派の伝統へのオマージュ、近代建築群を守れ!」




九州大学正門(明治44年)
まだちらほらと学生の姿が見える
文科系、農学部はまだ移転していない

旧法文学部本館
なんと取り壊し検討中とか
特に保存運動も起きていない模様
悲しいことだ

旧中央図書館
これも取り壊し対象だ


旧文学部心理学教室
取り壊し対象


美濃部達吉博士創設のわが国3番目の帝国大学法文学部
日本における西南学派の立ち上げを心に誓って創設されたとある
旧法文本館玄関
法文系はこの建物を捨て貝塚キャンパスに移転した
移転後は応用力学研究所・生産研として改造された
今や閉鎖され立ち入り禁止に。

正門前の庭園跡
背後は旧法文系本館
当時としては巨大な建物であった

旧工学部本館
九大のシンボル的近代建築

堂々たる旧工学部本館
現在は九大研究博物館として保存されている

旧大学本部本館
保存が決まったようだ


工学部系は伊都キャンパスに移転したため
研究棟の取り壊しは急ピッチで進む
50周年記念講堂
あの入学式が粉砕された場所だ
学食もあり、賑わっていたが...


工学部応用化学研究棟
保存検討中


工学部航空工学研究棟
戦時中の迷彩がまだ残る貴重な建物
保存検討中


正門前の守衛室(大正3年)
保存が決まった
後ろは工学部本館


旧中央図書館
九州大学独特の景観だ

正門前にあった喫茶店プランタン。九大生の溜まり場であった。
ガロの「学生街の喫茶店」が心の中を流れる
今は傾いた文字が哀れだ...


九大全共闘運動時代の痕跡が残る掲示板

旧大型計算機センター
米軍ファントム機はこの建設中のこの建物のこの壁面に突っ込んだ
あの九大闘争のシンボル的建物もいまや荒れ放題

相変わらず福岡空港発着の航空機騒音に悩まされるキャンパス
これも移転の理由の一つか

文科系の貝塚キャンパス
正門前の旧法文本館の重厚な建物に比べ、なんとも...
手前の道路にはかつての西鉄貝塚線が走っていた「九大中門」電停はここにあった

現在の法文系本館。
バラバラで統一感のないつぎはぎ建物が九大法文系のステータスを表しているように感じる
壁面をツタで覆い歴史の古さを演出しようとしたが覆いきれないうちに取り壊しになる
まだ伊都キャンパスに移っていないが
理工系と違って山奥に引っ込んで優秀な学生や研究者が集まるのだろうか


箱崎キャンパスマップ
参考サイト: 箱崎九大跡地ファン倶楽部のサイトです。



2016年6月18日土曜日

杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜



城下町杵築は坂の町


 杵築は国東半島の南の付け根に位置する小さな城下町だ。高山川と八坂川に挟まれて守江湾に面した要害の地。江戸時代は豊後杵築藩3万2千石。徳川譜代の能見松平家の城下町で明治維新まで続いた。国東半島の南半分が領国。戦国時代には大友氏の家臣であった木付氏の所領地であったが、豊臣政権下で主君大友何某の失態で主家が滅び、それに伴って木付家も滅びた。江戸時代以降は幾つかの領主の変遷ののち1657年徳川の譜代大名能見松平家の所領となった。その地名も「木付」から「杵築」に変わった。そもそも大分県はその名の通り、大友宗麟以降、豊後一国を領有する領主がなく、岡藩の7万石が最大で、2〜3万石ほどの小藩が分国割拠していた。隣には豊前小笠原藩、筑前黒田藩、肥後細川藩、薩摩島津藩などの外様の大藩が控える土地だ。譜代で固めて九州を監視する役目であったのだろう。

 杵築は「日本の美しい街並み」ファンの私には憧れの町であった。なかなか訪れる機会に恵まれなかったその憧れの杵築に、今回ついにたどり着くことができた。博多からJR九州の特急ソニックで2時間弱。小倉で進行方向が変わってバックする(したがって座席を方向転換しなくちゃいけない)ものの直通で行ける。宇佐神宮最寄駅の宇佐(USA)の次だ。意外に便利。もっとも杵築駅は市街地からは離れたところにあるので、駅前からバス(平日一時間に二本)に乗り、杵築バスセンター(と言っても小さな待合室があるだけの鄙びたバス停)まで約15分。それでも途中乗り降りする客はオバアチャン一人だけ、というチョーローカル路線バス。不便?いやいや別に急ぐ必要はないしこのゆったりした時間の流れがとても癒しになる。この時間尺度の中で生活すれば良いのだ。

 この城下町の特色は、何と言ってもその地形にある。城は海に面した高台に設けられ、天守閣破却後も藩主御殿がその高台にあった。城下町はその西の台地に展開している。その台地は、北台と南台に谷筋を隔てて別れており、北台には家老屋敷や藩主の休息屋敷、藩校学習館がある。反対の南台はかなり広い面積を有していて、上級武士の屋敷が連なっている。台地の南西には寺社町と中・下級武士の屋敷を配して城下の防御としている。北台と南台を分けるのが谷筋の町人町。元々は小さな川があって川沿いに町家が並んでいたが、今は暗渠化して道路も拡幅され、昔日の面影はなくなったそうだ。それでも伝統的な商売を今に伝える老舗が並んでいる。この谷あいの町人町から、台地の武家屋敷街までの坂が、有名な酢屋の坂、志保屋の坂、勘定場の坂、飴屋の坂、番屋の坂などとなっている。こうした町割りは今でも、かなり明確に残っており、これが杵築の城下町を独特の景観の町にしている。特に武家屋敷街の土塀はよく保存手入れされていて、歩いてみるとまるで江戸時代の城下町にタイムスリップしたような感じがある。しかもかなり広範囲にわたって延々と続いているのは圧巻だ。確かに、塀の中の邸宅は、今風に改造されたり、建て替えられたものが多いように見受ける。しかし落ち着いた邸宅街の佇まいをよく残している。きっとこの土塀が町の景観を守っているのだろう。静かな町であまり人と出会うことがないが、生垣を手入れしているご婦人や道端の掃き掃除をしているお年寄りなどとすれ違うと「こんにちわ」と丁寧な挨拶をしてくれる。美しい街には美しい人が棲む。

 坂はこの町の重要なアクセントだ。しかもどの坂も美しく石畳で覆われていて、町を重厚で、かつしっとり落ち着いた雰囲気に仕上げている。鬱蒼とした木立に覆われた番所の坂を上り、門をくぐると、目の前に広々とした北台の武家屋敷街と青空が広がる。感動的な景観だ。その武家屋敷街の先の勘定場の坂は藩の重臣が住む北台からお城、藩主邸宅へ続く坂。ここからは天守閣(模擬天守閣だが)が展望できる。一番人気は酢屋の坂、志保屋の坂。杵築を代表する景色だ。北台と南台をつなぐ下り上りのアップダウンがこの城下町の景観を優雅で伸びやかなものにしている。その昔、坂の下の角に酢を扱う商家があったことから「酢屋の坂」。その向かいに塩を商う商家があったので「志保屋の坂」と名付けられているそうだ。今は老舗の味噌屋が暖簾を掲げている。あの「酢屋」の末裔だそうだ。飴屋の坂は曲線の美しい石畳の坂。かつては飴屋があったのだろう。まさに山の手と下町が出会うクロスポイントだった。

 しかし、そもそも武士が山手、町人は谷筋の下町、と住む場所が燦然と区分けされたこの城下町の構造は、封建的身分制を自然の地形を利用して具現化したものだ。にもかかわらず、街全体がどこか開放的で、伸びやかな広がりを感じるのは何故なのだろう。不思議だ。城下町独特の鍵の手の道筋がなく、広い通りが一直線に連なる北台、南台の武家屋敷街。高台なので見通しが良く海も見えるし、坂の上から眺めるとなにより空が広く見える。下町にしても狭隘な谷筋に押し込められている感じではなく(もっとも最近の道路拡幅のせいかもしれないが)、随所に設けられた高台の住宅街に通ずる石畳の坂が武家屋敷街との街としての一体感を演出している。こうした高低差をうまく利用した区分けと、その上での調和がこの封建的城下町を開放的で自由な雰囲気にしているのかもしれない。

 こうした古くて美しい佇まいを残した町は大体、重要伝統的建造物群保存地区に指定されているものだ。が、なぜか杵築は重伝建地区指定を受けていないのだそうだ。きつき城下町資料館の方の話だと、町人町の道を拡幅したり曳家をしたのが原因の一つだろうと。しかし、この町は北台・南台の武家屋敷の土塀がよく残り、しかも広範囲にわたって素晴らしい城下町の景観が保存されている。しかも石畳の坂がよく残されて町に独特の景観を生み出している。なぜ指定されないのか?なにか役所独特のロジックが指定できない理由になっているのだろう。先ほどの資料館の方の説明によると、武家屋敷街の土塀の修景保存には市の補助金支援があるそうだ。それでも資金的に厳しい状況で、ボランティアや寄付を募っているという。こうした地域の人々の努力でこの素晴らしい景観が守られていることを知る。こんな珠玉のような町を壊してほしくない。静かで美しい街並み、優しくて素敵な人々。杵築を訪ねると日本は捨てたものではないと確信する。しかしそれを維持して行くのにはいろんな課題も山積しているように思う。

 杵築は期待を上回る素敵な城下町であった。久しぶりに「時空旅行人」の心の琴線に触れる街を旅することができた。興奮して写真を撮りすぎてしまったが。そして、この台地と河川と海の織りなす地形は、高低差ファン、河岸段丘研究会メンバー垂涎の城下町だ。次回「ブラタモリ」推薦候補間違いなし!

(追記)東京湾上の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に署名した外務大臣重光葵はこの杵築の出身。
番所の坂
この坂を上ると北台武家屋敷街が広がっている。
かつては番所があり武家屋敷街への出入りをチェックしていた。

北台武家屋敷街
北台から酢屋の坂、志保屋の坂を望む

北台武家屋敷街
正面はお城へ向かう勘定場の坂

勘定場の坂
木立の向こうに天守閣がチラリと見える

藩校学習館





家老大原家邸宅

大原邸
大原邸
酢屋の坂、志保屋の坂

北台武家屋敷街

「きものが似合う歴史の街並み」がキャッチフレーズ!
ちょうど通りかかったお二人を撮らせてもらった


志保屋の坂から見た酢屋の坂
右は大原邸
南台中根邸

南台中根邸
きつき城下町資料館

南台本丁武家屋敷街

南台裏丁武家屋敷街
飴屋の坂

酢屋の坂遠景
上の土塀に囲まれた屋敷が大原邸

志保屋の坂

ここは山手と下町のクロスポイントだ

酢屋の坂の麓の老舗綾部味噌
両側が北台・南台の武家屋敷街
谷筋のこの道沿いが商人町


杵築城模擬天守閣
城から見た南台武家屋敷地区
高台にお屋敷が並んでいる
南台展望台からの杵築城

杵築市観光協会の散策マップ
日本唯一の「サンドイッチ型城下町」「きものが似合う歴史の街並み」




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