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2019年5月14日火曜日

ボート遊びだけではない洗足池の物語

洗足池



 子どもの頃の思い出には色々あるが、ボート遊びは父親との思い出につながることが多い。私の場合も、父親にボート乗りに連れて行ってもらった思い出が遠い記憶に刻まれている。福岡の博多湾岸の今川橋育ちなので、夏の百道(ももち)の海水浴場のボートを思い出す。樋井川の川向こうに海水浴場があったので父がまずボートを借りてきて、川のこっちで待っている私をギッチラコッと漕いで迎えにきてくれたものだ。小学一年生なので堤防から乗るときにちょっと揺れて怖かったのを覚えている。生まれも育ちも東京山手の連れ合いは、洗足池のボートが思い出だという。やはり父親に連れて行ってもらったのだという。今みたいに足こぎのスワンなどなくて全て手漕ぎボートなので父親の腕の見せ所だった。我々の子供の頃は、週末の家族での娯楽といえば遊園地や水辺でのボート乗りであった。思春期になると大濠公園での甘酸っぱいボートデートの思い出になる。今の連れ合いに出会う、ずっとずっと古の昔の出来事である。もちろん今の連れ合いとも井の頭公園でのボートデートの思い出があるのだが...  まあそんな話が今回のテーマではない。

 話は洗足池のことだ。東京の城南に暮らす人々にとっては「洗足池」というと「ボート遊び」を連想するという。あと桜の名所であるがそれ以外なにかあるのか洗足池。地元の人にとってもイメージがわかないようだ。現在の住居表示は大田区千束。あたりは高低差のある地形で東急池上線沿線の閑静な住宅街である。私にはあまり馴染みのない土地柄だったのだが、連れ合いが幼少期から女子高生時代まで過ごした土地である。で、洗足池に妙に親しみを抱いたというわけだ。そんな洗足池、実は意外なストーリを持つ池なのだ。

 「千束(せんぞく)」という地名の初見は平安時代の文書だという。稲束千束の免税特権があった寺社領地があったのでこの名がついたという。鎌倉時代になるとここは日蓮聖人所縁の地となる。日蓮が身延山久遠寺から常磐國に向かう途中、千束池端の草庵「御松庵」に立ち寄ったという。ここはのちに江戸時代には「妙福寺」という日蓮宗の寺となり現在まで続いている。今は境内に日蓮聖人「袈裟懸けの松」がある。また日蓮聖人が足を洗ったので洗足池と呼ばれるようになったとも伝承されている。ありがちな地名由来であるが。このように日蓮聖人にゆかりのある場所なのだ。日蓮聖人といえば池上本門寺。その創建を担った池上氏はこの辺りを治めた有力な豪族であった。平安時代、平将門の乱を収めるために京都から派遣された鎮守副将軍藤原忠良がここの千束八幡を氏神として定住し、その末裔が池上氏となったという。池上氏は日蓮聖人を保護し、その入滅の地に池上本門寺が創建される。

 洗足池は湧水池である。4箇所の水源から地下水が流れ込んで出来ていると言われる。江戸時代には大池とか千束池と呼ばれていたようだ(広重の絵にも千束池とある)。この辺りは当時、江戸近郊の農村地域で、農産物を湧水池で洗って出荷していた。こうした遊水池がこの池上台地上のあちこちにあった。台地が海に落ちるあたりにある大井町の「大井」もこうした湧水池に由来する地名だ。湧水池や水神様の名残は高低差ファンには嬉しいランドマークだ。歌川広重の名所江戸百景にも「千束池と袈裟かけ松」として取り上げられ庶民の行楽の地であった。

 時代を下る幕末から明治。実は洗足池は勝海舟と西郷隆盛という時代を作った英雄にまつわるエピソードが残る地である。江戸城総攻撃のために進軍してきた新政府軍の本陣が池上本門寺にあった。ここに進駐してきた参謀の西郷隆盛に勝海舟は旧幕府代表として会いにきた。歴史に名高い「江戸城無血開城」の会談だ。会談は何度か行われた。歴史ドラマのように江戸高輪の薩摩藩邸で、勝海舟の談判に西郷がいきなり「わかり申した」となったわけではない。駿府における山岡鉄舟の会談に始まり幾たびかの交渉があった。ここ池上本門寺での勝海舟と西郷隆盛の会談で大方の段取りが決められたようだ。勝海舟は西郷隆盛との交渉に向かう途中、中原街道沿にあった洗足池傍らの緑濃い高台の茶屋で一息入れてから本門寺へ向かったという。ここで大きく深呼吸したに違いない。

 明治になり、懐かしさもあったのであろう勝海舟はこの地を愛し、ここに土地を購入し別邸「洗足軒」を建て終の住処とした。西郷も度々ここを訪れては勝と歓談したという。そのすぐ近くの池畔には西郷隆盛の留魂詩碑がある。西南戦争で自刃した西郷隆盛を偲んで勝海舟が自費で建てたものだ。あの歴史的偉業を成し遂げた二人の英雄が合間見え共有した時間。それを思い起こさせる史跡である。勝は西郷を、西郷は勝を深く敬愛し、西郷の死後はその遺児の育英に力を尽くすなどその遺徳を偲ぶ活動を続けた。すぐ隣には勝海舟夫妻の墓がある。海舟は死後、富士の見えるこの地への埋葬を望み、青山墓地に埋葬されていた妻の遺骨もその隣に並んで埋葬された。勝海舟と西郷隆盛。時代の画期を駆け抜けた二人の好敵手が、双方の信頼感と時代認識の共有により偉業を成し遂げた。そうした友情の証がここにある。盟友が寄り添い永遠の安らぎを得た地が洗足池だ。勝海舟夫妻の墓碑には「南無妙法蓮華経」と刻まれている。

 現在、「洗足軒」跡は区立中学校になっているが、その隣に勝海舟記念館が建設中だ。旧「清明文庫」の古い建物を保存改修してして令和元年9月にリニューアルオープン予定だ。勝海舟没後、財団法人「清明会」が、海舟関連の資料/図書の収集、閲覧、講演会などの目的で昭和8年に「清明文庫」を開館した。戦後、この建物は学習研究社の所有となっていたが、平成12年に国登録有形文化財指定を受け、平成24年に大田区が土地建物の寄贈を受けた。ネオゴシック調の外観を持つ美しい近代建築遺産を生かした記念館の開館が待ち遠しい。


歌川広重 名所江戸百景
「千束池の袈裟掛けの松」

日蓮聖人「袈裟掛けの松」
妙福寺
日蓮聖人

境内の竹林の緑が爽やか

黄菖蒲の季節








名馬「池月」
源頼朝がこの地で、美しくも猛々しい名馬を見つけこれを吉兆として喜んだという伝承がある。
「宇治川の先陣争い」で佐々木高綱の騎乗馬となった「池月」だ。
ちなみに梶原景季の騎乗馬は「磨墨」。



西郷隆盛の留魂詩碑

西郷が読んだ漢詩
が刻まれている
徳富蘇峰が供えた碑文



勝海舟夫妻の墓碑

旧清明文庫
勝海舟記念館としてリニューアルオープン予定




2019年5月3日金曜日

奉祝令和元年! 〜で、「昭和な街並」を歩く〜

「キンデとオヂラ」
今や「トマソン」建築として残しておきたい

一本隣の「光学通り」はツツジが美しく咲き誇る

 祝天皇即位!祝令和元年!。世の中お祭りムードで10連休中。人混みを嫌うこの偏屈「時空トラベラー」は遠出せず、ご近所散策。お天気も良くなったので大井町まで歩くことにした。あえて西大井駅前から三間通り商店街を大井町駅まで30分ほど散策。期待通り人だかりなど全くない。「静けさ」だけが通りに淀んでいる。タイムスリップしたような昭和な建物が並ぶ商店街。基本的にはコンビニなどのチェーン店はなくて、地元の個人商店ばかりの商店街だ。ここには戦前からニコンの大井工場があって、日本を代表する先端技術の町、モノつくりの町として繁栄した時代があった。そのニコンは2016年に大井工場を閉鎖。あの名器ニコンFシリーズを次々に生み出した歴史的工場建物は解体され、今は広大な空き地が虚しく広がっている。令和の新しい時代の到来を寿ぐ中で、ここにはかつての繁栄の時代の痕跡が残るのみだ。ゴールデンウイークのまっただ中、新天皇即位祝賀ムードも、令和の連呼も、憲法記念日の論争も、端午の節句の子供達の歓声も、どれにも関係ない時間がまったりと揺蕩う空間。時折通る自転車と車の走行音以外はシーンとしている。去年まで開いていた店が今年はもう閉まっている。あの豆腐屋さんも廃業したのだろうか。後継者がおそらく居なかったのだろう。おばあちゃんが店番してた小さな洋装店も、オトーサンの履物屋さんもいつの間にか看板がなくなっている。居酒屋も不動産屋さんも店仕舞い。みんなどこへ行ってしまったのか。さらにシャッター通り化が進行中だ。昭和な看板建築が立ち並ぶ(かつての)商店街。平成の前の時代の街並みがとても懐かしくて愛おしく感じる令和元年の1日である。あの頃の街はもう還らない。「嗚呼!昭和は遠くなりにけり」。



「キンデとオヂラ」
どちらも昭和の商店街には欠かせない商売だった
「カメラ屋」とともに消えた商売だ。
果物屋さんは頑張って商売中

去年まで開いていたのに...
それにしてもファサードが美しく懐かしい
多くの改造を受けたのだろう

人気の無さは連休だからというわけではなさそうだ

ついにシャッター降ろしてしまった
両脇の店も完全廃業

昭和な「看板建築」の名残もいつまで

町の守り神
権現様

そしてお稲荷さん


せめて五月晴れの一日の彩りを最後に。








2019年5月1日水曜日

令和元年に思う 〜30年前の「平成元年」はどんな年だったのか〜


静かに令和元年を迎える


 本日5月1日から令和元年がスタートした。Happy New Era !  NHKなどのマスメディアは昨日までは「平成最後の...」とか「平成30年を振り返る」「行く時代くる時代」などの番組満載であった。ちょうど年末の「紅白歌合戦」「ゆく年くる年」状態だった。世の中、退位と新天皇の即位と改元で大騒ぎだ。「時空トラベラー」としては、少し静かに新しい令和の時代を迎えたいと思い、自分の隠れ家に籠って今からちょうど30年前の平成元年(1989年)にはいったいどんなことが起きたのか振り返って見た。するとこの年はある意味で時代の大きな転換点であったことに気がついた。一言で言うと世界は「戦後の冷戦構造の終焉」、日本は「バブル経済最後の年」という時代の画期であった。まだまだ日本のGDPはアメリカについで世界第2位。アメリカの名門企業を次々買収するなど世界を騒がすバブリーな経済大国の最後の輝き(?)を見せていた。そしてソ連が崩壊に向かい、社会主義体制の東欧の国々が自由化、民主化されることとなり、日本を含む自由主義、資本主義体制の勝利が見えてきた年であった。一方で中国の民主化、自由化の動きは「人民解放軍による人民弾圧」という「天安門事件」により危機的状況を迎える。一つの時代が終わり、一つの時代が始まった。しかし平成元年以降の30年は、日本は「失われた10年...」の時代へ、相次ぐ未曾有の災害に見舞われる時代、超少子高齢社会、デジタルトランスフォーメションの時代に突き進んでいく。日本は戦争こそなかったが、世界はアメリカ一極から中国の台頭、新興国の経済発展、テロの時代、反グローバリズムの時代へと、その日本を取り巻くグローバルな環境も大きく塗り替わっていく。この年齢になると30年前といってもついこの間の事のようで、それほど昔のことではないような感覚であるが、この変化のスピードが早い時代における30年という年月は結構な時間の経過である。平成元年と令和元年では隔世の感ありだと改めて気づかされる。今日5月1日から始まった令和元年は、のちにどのような時代の転換点として、あるいは時代の始まりとして人々に記憶されるのか。本日即位された新天皇の時代、令和は文字通りBeautiful Harmonyの時代の始まりになってほしいものだと思う。

 30年前の「平成元年」という時代の変わり目の一年を日付順に追って振り返ってみよう。

出来事

1月7日:昭和天皇崩御、平成改元 新天皇即位の礼(翌1990年11月12日)
大喪の礼(2月24日)冷たい雨の一日。世の中全てにわたって自粛ムード。

リクルート事件で江副前会長、真藤NTT前会長逮捕(その前年に退任)(2月3月)
手塚治虫逝去(2月9日)
吉野ヶ里遺跡発見(2月23日)
消費税スタート(3%)(4月1日)
任天堂ゲームボーイ発売(4月21日)
松下幸之助氏逝去(4月27日94歳)
ベトナム難民(ボートピープル)相次いで漂着2300名(5月)
NHK衛星放送開始(6月1日)
竹下内閣から宇野内閣へ(6月3日)
中国北京天安門事件(6月4日)
シャープ液晶テレビ発売、ソニーハンディカム発売(6月5日、21日)
美空ひばり逝去(6月24日52歳)
宇野内閣退陣(在任わずか69日)、海部内閣発足(7月8月)
ヘルベルト・フォン.カラヤン逝去(7月16日)
礼宮殿下婚約(9月12日)
ソニー、米国コロンビアピクチャー買収(9月27日)
三菱地所、米国ロックフェラーセンター買収(10月31日)
ベルリンの壁崩壊(11月9日)
東欧諸国民主化、激動(ルーマニアチャウシェスク処刑、政権崩壊など)(12月22日)ちなみに翌年、ソ連一党独裁放棄、東西ドイツ統一。
総評解散、連合発足(11月21、22日)
ブッシュ/ゴルバチョフのマルタ島会談(冷戦集結12月3日)
東証大納会、史上最高の38,957円44銭。バブル経済最後の花火!年明けバブル崩壊へ!


世相

人口:1億2300万人
1ドル:151円〜123円
盛田昭夫/石原慎太郎「Noと言える日本」
宮﨑駿「魔女の宅急便」
スティーブン・スピルバーグ「インディージョーンズ最後の聖戦」
千代の富士国民栄誉賞
美空ひばり没後「川の流れのように」大ヒット45万枚
レコードがCDに変わり、ポップス、ロックブーム到来
レコード大賞はWink「淋しい熱帯魚」、有線大賞はプリンセス・プリンセスの「Diamonds」(どちらも知らない!)
流行語大賞:「セクハラ」、「オバタリアン」が受賞。そのほかに「ホタル族」「5時から男」「ぬれ落ち葉」などが印象に残る。「ペレストロイカ」「グラスノスチ」も。


IT関連

ゲーム機、ファミコン全盛時代
1985年の「スーパーマリオ」に続くファミコンゲームソフト次々と
ワープロ全盛(富士通OASYSシリーズ)
パソコン登場(Apple Macintosh、富士通FMTownシリーズ)
アナログ電話回線モデム経由の「パソコン通信」始まる。ISDN前夜
「ケータイ」「スマホ」の時代はまだまだ。NTT移動体事業部の自動車電話、ショルダーフォンの時代(加入者24万)
インターネット時代、SNS時代、デジタル時代は未だ遠し。


我が会社人生

 我が家はこの年、NTT America 勤務で米国コネチカット州グリニッチ在住。CNNで、昭和天皇崩御、大喪の礼、新天皇即位、ベルリンの壁崩壊、ソニーのコロンビアピクチャー買収、三菱地所のロックフェラーセンター買収のニュースを見た。NTTの海外事業開拓萌芽期であった。とはいえ当時のNTTは、基本的には国内通信事業専業で、肝心の国際通信事業は禁じられており、海外市場でやれることは限られていた。しかし、産業のボーダレス化が急速に進み、海外進出著しい多国籍企業向け法人営業を中心にいわばソリューションサービスを手がけ始めた時期であった。この後7年ほどで規制緩和と法改正がなされて国際通信事業に参入することになる。こうして本格的なグローバル事業展開が始まり、今日のグローバルソリューションカンパニーNTTへと発展してゆく。後から思えばこの平成元年はその下準備元年であった。この間の詳細は拙著「グローバルビジネスその終わりのない進化の道のり」を参照いただきたい。

 平成の終わり、令和の始まりに際して私個人の思い出としては、昨日退位された天皇陛下(本日より上皇陛下)には、かつて昭和56年(1981年)12月、英国留学からの帰国報告に東宮御所に伺った時に初めて拝謁の栄誉に預かった。当時は皇太子であられた。昭和58年(1983年)浩宮徳仁親王殿下の英国留学の歓送会が英国大使館で催された時には、美智子妃殿下、徳仁親王殿下にお会いすることができた。また平成7年(1995年)11月には父が皇居宮殿で天皇陛下から叙勲を受けた。こうして奇しくも親しく接していただく機会を得たことは我が家にとって大変な名誉であるとともに、そのお人柄に触れてますます敬愛と尊崇の念を強くした。「象徴天皇」としての役割を果たすべく真摯に努力されるそのお姿が心に焼きついている。天皇の憲法上の役割を認識し、年齢から今後その責任を全うするためには譲位しかないとご自身で退位をご決断になり、昨日退位された。これまでの上皇上皇后両陛下の国民に寄り添ったご公務の姿勢に、心からの感謝の言葉と誠にお疲れ様でしたと申し上げたい。そしてこれからはお元気でゆったりした時間をお二人でお過ごしくださるよう祈念してやまない。


昭和56年(1981年)12月東宮御所にて



2019年4月27日土曜日

今年の日比谷公園はネモフィラが主役!




今日も頑張る働きバチ
 


 あわただしく桜の季節が過ぎ去ると、都心のオアシス、日比谷公園にはチューリップが植えられ、ハナミズキと木々の早緑を背景に咲き誇るというのが例年の景色なのだが、今年は、チューリップに代わってネモフィラが一面に植えられて可憐な青の絨毯を演出してくれている。

 ネモフィラが、こんなに人々の間で愛でられる様になったのは比較的最近のことではないだろうか。昔はあまり聞かなかったし、目にする機会も少なかった様な気がする。もともとはアメリカ西海岸原産の一年草で、その爽やかな青の花弁からBaby Blue Eyesと呼ばれている様だ。なるほど青い目の小さな子供を彷彿とさせる可憐な花だ。日本でネモフィラといえば、国営ひたち海浜公園や、国営昭和記念公園、国営海の中道海浜公園などの広大な丘のアンジュレーションを利用した一面のネモフィラ景観が有名だ。思いがけず、我が日常的な仕事場テリトリーである都心の日比谷公園でこのようなネモフィラの青を楽しむことができるなんて嬉しいことだ。青い空をバックにした丘陵とは異なるが、都会の一隅に広がる新緑の木立の中の青い絨毯もまた美しい。かつて過ごしたロンドンの郊外、ケントの自宅の裏の森に、この時期になると一面に咲き誇っていたブルーベルの群生を思い出す。ブルーベルの森の散策は、まるでこの世の天国を彷徨っている様な気分にさせてくれたものだ。
BlueBells in Kent, England


 この日比谷公園の真正面に、我が仕事人生を過ごした日比谷本社ビルがある。しかし、ついに昨年暮れにこの建物は閉鎖され、間も無く解体再開発される予定である。日比谷公園を望むビルで仕事した思い出はいつまでも消えない。かつて自分が過ごした思い出の建物が次々に取り壊されてゆくのは時の流れとはいえ寂しいものだ。建学以来100余年の伝統を誇る我が母校の旧本館もキャンパス移転に伴い、その重厚な近代建築遺産が惜しげもなく解体されて更地にされてしまった。文化とアカデミズムの殿堂のはずの大学であるにも関わらずなんという文化リテラシーの低さ、という識者の嘆きを尻目に。歴史と伝統を未来に承継していくということは難しいのであろうか。相変わらず新しいビルを建てたり、広大なキャンパスを新たに造成したりバブル時代の発想の経済エコシステムを信奉している。これからの超少子化高齢化社会、縮小均衡経済に向けて、もっと今あるものを大事に活用することを考えた方がいいのではないだろうか。経済合理性、技術合理性優先のプレハブ構造物は、いずれまた解体されて消えゆくことになる。日本も文化大国になるにはまだまだ修行と覚悟が足りない。「文化財守れる人が文化人」。またしても奈良の今井町に掲げられていた標語が心に浮かんでくる。







松本楼
噴水広場
秋の紅葉も良いが青モミジも美しい
ハナミズキとネモフィラ

旧日比谷本社ビル
間も無く解体再開発される






2019年4月13日土曜日

万葉集とは? 〜歴史書なのか文学書なのか〜

 

大伴旅人の万葉歌碑
坂本八幡宮境内
背後には太宰府政庁跡が広がる

坂本八幡宮
大伴旅人の居館跡
ここで万葉集巻の五の「初春の梅の宴」が催された。


  山本周五郎の講演集に印象深いものがあった。いわゆる時代小説について語ったものだ。曰く、今我々が知る関ヶ原の戦いも大坂の陣も、権力者、為政者の視点で語られた歴史的資料に基づく知識である。こうした歴史書は出来事を淡々と(客観的にではないが)記述して記録してゆく。一方で、こうした豊臣一族の運命を揺るがすような出来事が起きている大坂城の外では、道修町の商家に奉公する丁稚はその大坂城を見上げながら、田舎の父母を思い、日々の暮らしの中の喜びや悲しみに日々を過ごしている。そうした時代背景における日常の私的な出来事と私人の心情を描くのが小説であり文学である。歴史書には庶民の生活や私的な出来事は一切語られない。これが歴史書と文学書の違いだ、と。

 古代倭国、日本に思いを馳せ、時空を超えて旅する我が身を振り返ると、その時代を知るよすがとなるものは、主に歴史書や文書(もんじょ)史料、または考古学資料であることに思いが至る。それらの歴史書に記されている出来事と、大和路や筑紫路を旅して見る風景を重ね合わせ、当時の人々の心象風景を求めようとする。しかし、そこには山本周五郎が言う様に、庶民の暮らしや思いを見出すことはできない。歴史書に名を残す高位の身分の人々であってもその私人としての心情に触れる機会は少ないことに気づく。そのような事どもを文字で記された「文書資料」はないものか?7世紀〜8世紀の古事記や日本書紀といった「歴史書」は、「天皇」(この称号もこの時期生み出された)による「日の本」(倭国改め)統治の正当性を内外に訴えるために編纂された。すなわち権力者、為政者による彼らのための正史である。これまでの中華王朝への朝貢、冊封体制に入ることで倭国の統治の権威を保証してもらうという、東アジア的世界秩序(大中華宇宙)から脱して、(唐の文化と律令システム、統治機構、都城経営とを必死にコピーしながらも)唐からは独立した「日の本」(小中華宇宙)を作ろうとした。内外に、我が国は中華世界において朝貢/冊封で成り立つ国ではなく、天神の子孫に依り建国された(中華帝国とは別の起源を持つ)国である、ということを宣言した「政治的な文書」である。

 では同じ時期に編纂されたという万葉集はどういう文書(もんじょ)なのか。歴史書なのか、文学書なのか。その成立には謎が多い。舒明天皇の時代7世紀初頭から、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱という歴史的事件の時代を経て、平城遷都、律令制の整備、奈良時代中葉までの約130年の間に詠まれた歌、約4500首20巻を撰録している。とりわけ巻一、二は天皇の御代に沿って時代順に編纂されている。天皇の治世や大和国の讃歌が多い。しかし国家の統治理念や為政者の天下国家に関する意思や理念の表明の書という体裁ではない。全体としては天皇から名もなき庶民まで多様な読み手の歌が採録されている(「詠み人知らず」が約2000首ある)。歌は「雑歌」が多く「相聞歌」「挽歌」となり、天皇讃歌だけではなく恋の歌や死者を悼む歌など私的な心情を歌ったものが多い。しかもそれほど体系的に編集されていない。後になるほど、別の選者が編集し、しかも前の編集を改変せず、いわば後から建て増ししたような構造になっている。万葉集は誰のイニシアチブで、どういう意図のもとに撰録され、編纂されたのか不明な点が多い。誰が「万葉集」と命名したのか不明であるし、「万葉」の意味するところも、悠久の時間の流れを言っている、とか。多くの言の葉を意味しているとか、後世色々な解釈がなされている。そもそも、のちの古今和歌集のように、編者の意図や年代が述べられた「序文」がない。少なくとも古事記/日本書紀のような「歴史書」が、当時の時代背景の下で意図を持って編纂されたのとは異なる成立経緯を持っていそうだ。

 先述のように、舒明天皇から、天武/持統帝の時代の初期の巻にはそこには統治者、すなわち天皇やその宮廷への賛美の歌は多いが、後の時代になるに従って、恋や別れ、人生の喜びや悲しみなど詠み人の私的心情を歌ったものが断然多くなる。万葉歌人として登場する代表的な詠み人たちは、初期には額田王のような宮廷歌人である。さらに天武朝時代の柿本人麻呂、平城京遷都の後の山部赤人などもそれほど身分の高い貴族や高位高官ではなく、天皇行幸に付き従った下級官僚や地方官僚である。しかし彼らは、いわば歌のプロフェッショナル「宮廷歌人」として天皇や朝廷、その治世を寿ぐ歌を多く歌った。中期になると大納言太宰帥の大伴旅人、筑前国守の山上憶良(遣唐使帰りの知識人であった)、さらに後期になると旅人の息子の大伴家持などの高級官僚(しかし藤原仲麻呂との争いに巻き込まれ越中や地方に左遷された)が中心となったが、「詠み人知らず」の歌も多く採られている。彼らは主に下級官僚や、名もなき庶民であろう。特に東国の東歌や、東国から徴発された「防人」の歌が家持によって撰録された。こうした撰録、編集に大伴家持の果たした役割は大きく(家持は軍事部門の高級官僚であった)、万葉集を最終的にまとめたのは家持ではないかとも言われている。「ひらがな」「カタカナ」もない時代、漢文、漢籍の素養がなければ言葉や歌を文字に表すこともできない時代にまとめられた万葉集である。漢字の訓読みで和語を表現する、漢文とも和語ともつかない、用法もバラバラな「万葉仮名」の和歌集である。5−7を基本とし、長歌では、これを繰り返し、最後を5−7−7で締めるという和歌の形式を生み出しているのだが、何とも雑然としていて洗練された感じではない。むしろ素朴さが残る歌も多い。のちの「ひらがな」「カタカナ」が発明された平安時代前期に撰録された古今和歌集のように、勅撰で整然と編纂され、洗練された流麗な文体の和歌とは異なる。

 万葉集の後期(家持の時代)になると「万葉集」に求められる役割、その編集方針に大きな変化が現れるようになったと言われる。宮廷において万葉仮名による和歌が徐々に衰退し、漢文のよる漢詩が主流になっていった。このため、先述のように後半になるにつれ万葉集には宮廷讃歌のような歌よりも、私人の目線での心情を歌う個性的な歌、防人や庶民の歌が増えてきた。このころの撰録には家持の果たした役割が大きい。しかし、晩年の家持の歌は一首も残っていない。平城京での政争(藤原仲麻呂との)に巻き込まれた家持の政治的な抹殺のせいだとも言われているが、謎の一つである。最期は赴任先の多賀城でひっそりとこの世を去っている。そして「万葉集」は、はやくも平安時代になると「万葉仮名」を解読できる歌人すらいなくなっていたため、勅命で「万葉集の解読」作業が進められたほどである。和歌が再び宮廷で読まれるようになるのは平安時代の古今和歌集の時代になってからだという。このように万葉集は「歌による歴史書」という側面と、最初期の「歌の歴史書」という面を併せ持つ歴史文書(もんじょ)とも言えよう。一方で私人の心情を歌った日本初の詩歌集、和歌集であることから「文学書」とも言える。初期においてこうした詩集の編纂に何かしらの意図があるとすれば、中国には古来より五言絶句のような漢詩があり、日本の当時の教養人も漢詩を読んだ。しかし一方で日の本にもこれに相当する独自の詩、歌があるべきだと考えたのかもしれない。これまでの歌は定型詩ではなく、古事記などに見える素朴な不定形の口承による歌謡であった。そこで新たな5−7調の定型詩を生み出し、漢字を和語の音に当て字として文字で表現する。これを広めて撰録し、歌集としようと考えたのだろう。そこに「近代的文化国家」日の本を宣言しようという意思があったのかもしれない。しかし、見てきたように時代を経るに従って、そうした国家の意図を離れた「文学作品」へと変遷していったように思える。

 新元号、令和はこの万葉集巻の五、太宰府大伴旅人の館で催された新年の「梅の宴」の歌三十二首の序文から採られた。

 「天平二年正月十三日に、帥老の宅に萃まりて、宴会を申べたり。時に、初春の月にして、気淑く風らぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は颯後の香を薫らす。(続く...)」

 こうしたことから、わが国初の和書からの出典だと話題になっている。一方で、いやいやこれとて漢詩の「蘭亭序」の形を真似たものだ、とか、マスメディア、SNS上にいろんな解釈が出て、それぞれにいろんな政治的な意図を読み取ったり、歴史観をを言い募ったり、なかなか賑やかだ。まあ、選定にあたっては我々には計り知れぬ色々隠されたストーリーはあるのだろう。しかし、今回は、同じ和書であっても、先述のように為政者の政治的な意思の表明としての「歴史書」である古事記/日本書紀からではなく、日本最初の和歌集「万葉集」からの出典だという点は親近感が持てる。かと言って伝統の漢籍からの出典でないことへの過剰な好感や反感、いずれにも与しない。もともと日本の古代の文書は、古事記にせよ、日本書紀にせよ。万葉集にせよ。漢字を用いて書かれているのだし、背景には日本人が倭人時代から尊敬し、学び続けてきた中華文化の影響が色濃くあることは否定できない。そもそも万葉集にも多くの漢詩や漢文の序文が記述されており、この「令和」も、先述のように梅花の宴の歌三十二首「序文」から引用されたもので、これは漢文で書かれている。今更「漢籍の影響を排した」ということは当てはまらない。そもそも「元号」自体、これまでも説明してきたように中国の歴代王朝の元号制度を我が国に導入したものではないか。しかも、我が国は、今も漢字を用いる漢字文化圏の国だ。ヨーロッパ諸国がギリシャ語やラテン語文化圏の国であるという文化的なルーツを共有しているのとどこが違うのか。現在の国家観で感情的になること自体ナンセンスだ。

 しかし、それはそれとして、令和は佳き元号だと思う。英語に訳すと「令:beautiful, 和:harmony」だそう。元号は皇帝が自分の支配する国家/人民/時代に対して為政者の目から国家理念を訴えるものである、というこれまでの伝統を考えると、今回の令和にはそうした意味合いは感じられない。「和を命令する」と読めるから「上から目線」だと評している人がいたが、それは引用元の意味を十分に理解していない恣意的な解釈だろう。

 都を遠く離れた筑紫の太宰府。大宰の帥(長官)大伴旅人の館で、初春の令月(麗しき月)に山上憶良、沙弥滿誓など太宰府官僚、国司等の面々が集う。庭には中国からもたらされた外来の梅が咲き誇り、「諸君、庭に咲く梅の歌を歌いたまえ!」との旅人の促しを皮切りに、和やかに歌い交わす。そんな「梅花の宴」の歌会の場面である。そこには父親の赴任に同道したまだ少年であった旅人の息子、家持も同席していたに違いない。彼らは時として旅人の館に集まり、酒を酌み交わし、楽しく談笑し、はるけき都平城京や、生まれ故郷の飛鳥に想いを馳せる。亡くなった妻への思いをうたう。旅人と親しかった筑前国守として太宰府に赴任していた山上憶良は筑紫で見て回った庶民たちの暮らしの貧しさに心を寄せ、庶民の日常に目を向けた歌を多く読んだ。その中から子を思う心を「子等を思ふ歌」に託す。太宰府で詠まれ、万葉集に採録された歌は200首に及ぶ。万葉筑紫歌壇と言われる所以である。そこには権力中枢にいて上から目線で天下国家を論じる空気はない。中央権力を離れた地方に身を置き、「歴史書」には描かれない情感の世界が語られ、太宰府官僚ではあるが一人の歌人の姿があるだけだ。まさに「令和」はそういった文学作品としての万葉集からの引用だと言って良いと思う。もっとも元号選定にあたった現在の政権中枢の人々に、どのような古典に対する理解と造詣があったかは不明であるが。

 これから「時空の旅人」には万葉集が離せない旅の友になるだろう。詩歌は和歌であれ漢詩であれ、当時の人々にとって不可欠のコミュニケーション手段であった。特に高級官僚や貴人にとっては詩歌の素養と表現力は絶対的に求められる基本能力であった。今で言えばメール、ブログ、SNSのようなメディアを想起させるが、この短い言葉による簡潔なメッセージには単なる情報だけではなく情感や暗喩、さらには霊力まで込められているとさえ考えられていた。言霊の力が我を古代史の真実へと導き給うであろう。

 「磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ 真幸(まさき)くありこそ」 

柿本人麿


大宰大弐紀男人の万葉歌碑
梅花の歌三十二首の冒頭の歌
「正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅を招きつつ楽しき
終へめ」

筑前守山上憶良の万葉歌碑
「子等を思ふ歌」
学業院跡

大伴旅人居館があった地区は大宰府の上級官僚の居宅街であった。
今は「花屋敷」という小字名を持っている
「梅は鏡前の粉を披き...」
大伴旅人居館跡界隈

「遠の朝廷」の栄華を偲ぶ大宰府政庁正殿跡の礎石

大宰府政庁跡
政庁正殿から南面す
大宰少弐小野老の万葉歌碑
この有名な歌は大宰府赴任中の小野老が寧楽の京師を偲んで歌ったものである
大宰府政庁跡