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2020年7月1日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか(第五弾)〜考古学はどのように語っているのか?〜

三輪山
この山麓に「おおやまと」という「クニ」が生まれた

2009年三輪山山麓で古代居館跡が発見された
纒向遺跡である

箸墓古墳
「おおやまと」の初代の王の墳墓だと考えられる
三輪山を背景に


これまでは中国の史書、そして日本の文献史料「古事記」と「日本書紀」を読み解き、文献史学的アプローチから「初期ヤマト王権」をプロファイリングしてきた。そして考古学的アプローチからその姿をあきらかにすることができないものかと考えていたところに、興味深い本を見つけた。坂靖氏による「ヤマト王権の古代学」(「おおやまと」の王から倭国の王へ」)2020年1月新泉社刊、だ。氏は奈良県立橿原考古学研究所で長く県内の発掘調査に携わってきた考古学研究者である


「俯瞰的」研究アプローチ

著者は橿原考古学研究所による大和盆地各地の長年の、かつ広範な考古学的発掘調査の成果をもとに、北部九州や近畿地方の発掘成果をも広く取り入れて、かつ中国の史書、日本書紀、古事記にも言及し「ヤマト王権」の出自、発展の過程を描いている。この多様なソースにアクセスしながら「俯瞰的」に見ると言う視座が重要だと思う。文献史学研究者はともすれば、自分の研究領域に関する資料にあまりにも固執して全体を見ない傾向に陥りがちであるように感じる。一方の、考古学研究者はさらにその傾向が強く、自分のテリトリーの地域や対象の成果物を中心に置き、そこから全体を判断しがちだ。こうしたアプローチの仕方、思考回路を断ち切って全体を「俯瞰」し、距離をとって客観視する。その中に専門領域の研究成果を位置付け、評価してみる。そう言う研究手法が大事だと思う。

本書は、奈良盆地という地理的範囲、考古学という研究領域を超えて「ヤマト王権」の実像に迫っている。結論から言うと、まずは邪馬台国は北部九州にあり、近畿に発生したヤマト王権とは別のものであるとする。この時代は日本列島にはいくつかの地方勢力が分立した状態であり、いまだ統一的な政治勢力や「王権」は存在しなかったと。その上で「ヤマト王権」の出自を奈良盆地の三輪山山麓の「おおやまと」地域の首長であるとしている。以前考察したような「チクシ勢力のヤマトへの移動」という仮説を支持してはいない。土着の勢力が発展したとしている。これまでも述べてきたように、邪馬台国北部九州説については異論はないので、その論考をここで改めて紹介しないが、著者も相変わらず邪馬台国近畿説が多数説であると注釈している。邪馬台国がヤマトにはなかったことをこれだけ考古学的にも証拠立てて説明し、その論旨は極めて明確であるにもかかわらず、いまだに近畿説が優勢であるといわざるを得ない事情が何かあるのだろうか。地元の(所属していた)橿原考古学研究所的立場が「近畿説を裏付けるための研究」なのではないか?つい余計な邪推をしてみたくなる。


邪馬台国時代(3世紀前半)のヤマトの姿

3世紀前半(弥生後期)に、中国王朝と通交(朝貢/冊封)をもった勢力は大和にはなかったとする。北部九州に多く出土する楽浪郡系の土器も大和盆地には検出されない。この頃奈良盆地には巨大な環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡が見つかっているが、弥生時代を代表する大きな集落であることは否定しないものの農耕生産の地域集落であり、「国」と呼べるような政治勢力ではない。また同時期に「おおやまと」地域に纏向をはじめとする大小いくつかの地域勢力としての「クニ」が認められるし、その首長である「オウ」の存在が認められる。その墳墓が大和古墳群の大型古墳であるとする。しかし、その遺構(纒向遺跡)の規模は(古墳は巨大であるが)、同時代(庄内式土器期)の北部九州チクシの奴国王都とされる須玖・岡本遺跡や比恵・那珂遺跡、伊都国王都と考えられる三雲南小路遺跡や井原遺跡、あるいは、河内の中田遺跡群や加美・久宝寺遺跡群などに比べても規模の小さいものである。また朝貢/冊封による統治権の認証の証拠たる「威信材」に至っては、北部九州にのみ検出されており、箸墓古墳や行燈山古墳、渋谷向谷古墳などの大型古墳が並ぶ「おおやまと」古墳群においても見つかっていない(宮内庁が陵墓指定している古墳の調査はできないが)。すなわち政治勢力としての「国」、その統治者である「王」の存在の証拠は大和盆地には見つかっていないことになる。むろん「邪馬台国女王卑弥呼」の存在を示す「しるし」も見つかっていない。

奈良盆地の三輪山の麓に広がる「おおやまと」地域に発生した地域勢力「クニ」が発展して国になり、その首長「オウ」が「王」になって勢力を拡大していくのだが、この時点(3世紀前半)では北部九州チクシ倭国に優越する「国」の存在はヤマトには認められない。しかし、この後その「クニ」が、3世紀後半〜4世紀には「国」となり、古墳時代を生み出し、5世紀の雄略大王(倭王武)の時代にはに列島各地に勢力を伸ばし朝鮮半島にも進出、6世紀継体大王の時代に、のちの飛鳥朝の天皇制という血縁による王統/皇統を形成していった。「ヤマト王権」の血縁系譜が始まったのは6世紀以降と言ってよい。著者は「ヤマト王権」の出自は奈良盆地の三輪山麓「おおやまと」であるとする。ではどのように「おおやまと」の地域首長「オウ」は政治的集団の「王」になっていったのか?


「オウ」と「王」は何が違うのか?

著者は、先に引用したように政治的権力を有する「王」と、その前段階の地域首長「オウ」、政治的まとまりである「国」と、その前段階の地域集団「クニ」とを区別して使っている。これは発展段階的な区分で使用しているのだろうと考えられる。しかし、「オウ」と「王」の違いは、その政治的な統治権威が誰に認証されているかの違いである。「オウ」は地域「クニ」の開発(農地の拡大、水路の確保)に実力を発揮し、地域「クニ」の民に押された「むらおさ」的な首長であるが、「王」はより上位の権威によってその「王」たる「国」の統治権威を与えられなくてはならない。その権威の象徴としての(上位権威から下賜された)印綬、鉄剣や玉や銅鏡といった威信材を保有している必要がある。こういう観点から北部九州チクシ王権の「王」たち(奴国王、伊都国王、邪馬台国女王)は、中国王朝の皇帝から統治権威を認証された(朝貢/冊封体制と言う形で)。その証左として印綬や銅鏡、鉄剣などを下賜され、それらが遺跡や墳墓からは検出されていることで彼らが「王」であったことが「証明」されている。

それに対しヤマト王権の「オウ」たちは、誰に(何によって)その統治権威を認証されて「王」になったのだろうか。少なくとも3世紀前半(弥生最晩期)、庄内式土器期、すなわち邪馬台国時代には、大和盆地からは、中国皇帝の威信材は全く出土していないことが明らかになっているわけであるから、この頃のヤマトの「オウ」たちは中国皇帝に朝貢/冊封して「王」となったわけではないということになる。するとだれがヤマトの「オウ」を「王」にしたのか?著者はこの点に関しては触れていない。考古学者としての推測を排した客観的、科学的姿勢なのでああろう。

しかしこの点は重要だ。すなわちヤマトの「オウ」は、自力で(いくつかの有力首長との同盟関係を得て)統治権威を周辺の勢力(と言ってもせいぜい最初は奈良盆地内)に認めさせていったのであろう。まずは大和盆地内、そして河内、摂津、和泉など畿内、さらにはその周辺に勢力を拡大してゆき、政治的な権威/権力を地方の首長たちに認めさせていった。しかしその場合、その権威/権力の源泉は、中国王朝からの冊封という外的権威でないとしたら、稲作の生産力や富の蓄積、鉄などの資源であったのか、それに伴う地域の祭祀を執り行う権威であったのか。そこを明らかにする必要がある。その統治権威のシンボルが3世紀後半に始まった大型古墳であったのだろう。こうした葬送儀礼にまつわる大型の建造物築造の背後にあるものはなんだったのか。考古学的な年代表現で言えば、庄内式土器期の次の時代の布留式土器期のこととなる。4世紀になると中国の文献史料に倭国との通交の記録が出てこないいわゆる「空白の4世紀」となる。これは中国王朝の混乱(五胡十六国)が主因であり中華世界の権威、朝貢/冊封体制が混乱したせいであろうが、一方で倭国側にも政治的な混乱があったことが考えられる。すなわち中国の朝貢/冊封体制下にあったチクシ倭国が(中国王朝の混乱で)衰退し、ヤマトが倭国の中心に成長した世紀であったと考えられる。このころのヤマトでは大型古墳が築造されるが、先述のように大陸との通交を示すような(あるいは威信材のような)副葬品は出ていない。おそらく中華王朝の権威とは独立した倭国支配の「統治権威」が生み出されていったのだろう。その後、5世紀の「倭の五王」が中国の南朝に朝鮮半島の軍事的支配権などを求めて朝貢しているが、必ずしも倭国内の統治権威の認証を求めたわけではない。その時の上表文で倭王武は父祖の時代から倭国内の勢力を討伐し(おそらくは同盟し)、平定していった様子を述べている。「そでい甲冑を貫き山川を跋渉し寧所にいとまあらず」である。すなわちチクシの倭王たちのように中国皇帝に倭国の統治権威認証を求めず、自力で支配権を広げていって「倭王」になったと言っている。やがてこの後は、徐々に中国皇帝に朝貢して冊封を求める統治権威認証の獲得をやめ、倭王自身が「統治権威」の源泉となり、地方の豪族や首長にその地域の統治を認める、倭王武(雄略大王)の「治天下大王」宣言と大王が官職を与える「官職制」を打ち立てていった様子が見て取れる(稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣に刻まれた銘文)。6世紀の継体大王の時期になると、血統による王統の継承、世襲制という観念が取り入れられ(それまでは血統による世襲や、皇統などといった概念は存在していなかった)、その権威を証明するための皇祖神創設、祭祀、神話の体系化、へと進み、さらに7世紀末から8世初頭ににかけて中国風の律令国家建設へと進んでいったと考えられる。その反映が、すなわち正史である「日本書紀」や天皇の記である「古事記」であり、その記述に、そもそもヤマト王権と繋がりのない朝貢/冊封国家、チクシの邪馬台国や女王卑弥呼の記述を避けることにつながっていったと考える。


「おおやまと」の「オウ」はいかにして「ヤマト王権」になったのか?

著者は「ヤマト王権」は奈良盆地の三輪山の麓の「おおやまと」地域に発生して成長し、勢力を拡大していった王権であるという。しかし、3世紀のチクシ王権の時代から、次のヤマト王権への移行過程は依然として見えてこない。なぜ、そのような奈良盆地の片隅にいた「おおやまと」地域勢力「クニ」が倭国を支配する「国」に発展していったのか。「オウ」が「王」になり、さらに「大王」になっていったのか。歴史学では「空白の4世紀」と言われる部分だが、考古学的にもこの間の事情を物語る遺物は少ない。その中で、4世紀後半に百済王から倭王に贈られたと言う「七支刀」が数少ないヤマトに残された有力な遺物である。これは倭国(おそらく初期のヤマト王権)が朝鮮半島へ進出した証であると考えられている。と同時に、この頃はすでにヤマト王権がチクシ王権に変わって倭国の有力政権であると、朝鮮三国(とりわけ百済)に認識されていた証拠でもある。あるいは、東晋、百済、ヤマトという、それぞれの地域王権が連携し、分裂した東アジア情勢を同盟で乗り切ろうとした証とも言える。しかし、チクシ倭国の邪馬台国の女王壱与の晋への遣使から100年余りの時間経過の間に何が起きたのか。この頃のヤマトに大陸との交流を物語る決定的な考古学的な発見は多くはない。しかし、ヤマト王権が大陸との通交なしに発展したとも考えにくい。黒塚古墳などの初期古墳から見つかる三角縁神獣鏡などの中国の影響を受けた鏡の出土はそれが舶載鏡ではないとしても、その(コピー)製造(量産)をヤマトのどこかで行っていた可能性が強い。また「おおやまと」地域の大型古墳の築造に大陸の影響は全くなかったのであろうか?著者は「ヤマト王権」は邪馬台国の持つ中国正史に記述された外交関係とは別の大陸(中国だけでなく朝鮮半島諸国)との外交関係や交流を持っていただろうと言う。ただ、大陸から離れた奈良盆地に発生した土着の地域勢力が、いかにして勢力を伸ばし、列島全体をを支配下に置き、さらに朝鮮半島まで歩みを伸ばすことができたのか。「おおやまと」の勢力は大陸との交流をどのように行っていたのか。意外にもこうしたことが未解明である。すなわち4世紀に朝鮮半島の3国間の紛争に百済に誘われて出兵しているが(好太王碑文)、この頃の倭国の支配権を誰が握っていたのか?ヤマトとチクシの関係はどのようなものであったのか依然として謎である。「空白の4世紀」と言われる所以である。おそらくこの間に倭国全体の支配力に関して、チクシ王権からヤマト王権への実力の移行があったのであろう。チクシ王権は中国王朝の混乱により統治権威の輝きは失われていて、伸びてきたヤマト王権の「実力」の前に、徐々に衰退し、地方勢力(依然として大陸に近いと言う地の利を生かして優位性を保ってはいただろうが)になっていったのだろう。と同時にヤマト王権は、混乱の中国王朝に変わって朝鮮半島諸国(特に百済や伽耶)との通交関係(朝貢・冊封関係とは別の)を深めてゆき、そして列島内の勢力を拡大していったのだろう。すなわち中国王朝との「朝貢」「冊封」体制からの離脱が始まり、いわば「自力」統治権威認証と権力の集中が始まったと考える事ができるのではないか。


しめくくり

筆者は最後にこう述べて締めくくっている。「ヤマト王権の時代とは何かと問われたとき、「おおやまと」の王として出発したヤマト王権の王が、倭国の王としての国家体制や秩序を徐々に形成し、6世紀にそれを完成させた時代であると結論づけることができよう。」(引用)。著者の論考は、私の持論を考古学的な観点から実証し、いくつかの点を支持するものであるので大いに読んでいて納得であった。しかし、結局はなぜ、どのように「おおやまと」の地域首長「オウ」が「王」となり、さらに「大王」として他の有力首長(豪族/氏族)を抑え(同盟し)倭國を支配下におき、朝鮮半島に進出しうる(支配したとは考えないが)統治権威と権力を得ていったのか。その力の源泉は何だったのか。著者が指摘するような生産力の拡大と強さだけでそうなったのか。それに加える力の源泉が何かあったのか(外部からのインパクトなど)。一方で、多くの考古学的な証拠が見つかっていないものの大陸との通交なしには考えられないとも指摘している。「おおやまと」土着の首長「オウ」が倭国の「大王」になってゆくその過程で、なにか大きなパラダイム変換(外来勢力のヤマト侵入など)はなかったのだろうか?土着の勢力がリニアに列島内に勢力を伸ばしていったとすることには少し無理があるように思う。例えば3世紀に始まる古墳時代に、何か大きな大陸との革命的な人的通交があったのではないか。巨大古墳を築造する技術はヤマト盆地に自生したものなのか?大陸の周辺部に位置する列島国家という地政学的な立ち位置から、倭国/日本は常に大陸との関係性の中で生きてきた。東アジアの政治的、文化的影響を免れることなく生成され発展してきた。「おおやまと」の「オウ」「王」も例外ではないであろう。大陸との通交による対外的要因でなく6世紀までに列島内に勢力を伸ばしていったのだとすれば、それは何なのだったのか?あるいは大陸と通交していたとすればどことであったのか(三国志の時代の呉か?五胡十六国時代の朝鮮半島の役割はいかなるものであったのか)。大陸に近いチクシ勢力との関係は全くなかったのか。その答えに肉薄できなかったのが残念というほかない。もっともこれは考古学的アプローチだけでは解明できないだろう。文献史学、歴史学領域研究との協業が不可欠である。


唐古・鍵遺跡
弥生後期の環濠集落跡
箸墓古墳遠景

箸墓古墳
黒塚古墳頂上部からの展望




纏向居館跡発掘現場
2009年
現在は埋め戻されて史跡公園になているようだ

龍王山山頂から展望する「おおやまと」地域
左に大和三山と箸墓古墳、中央部に行燈山古墳、右に渋谷向山古墳
纒向遺跡はほぼ中央部に

(参考書籍)
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ-坂-靖




2020年6月12日金曜日

古書を巡る旅(2) 〜ラフカディオ・ハーンを訪ねてロンドン、ニューヨーク、東京そして出雲松江へ〜





ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patric Lafcadio Hearn)。1850年ギリシャの生まれ。父はアイルランド人で英国軍医。母はギリシア人でアラブの血も流れていると言われている。当時のアイルランドはイングランドに支配されていたので英国籍。
ラフカディオはミドルネームで、彼が生まれたギリシャの島の名前に由来する。彼はキリスト教に馴染めず、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの名をとったファーストネームを名乗らなかったと言われている。
その後アメリカへ移民し、シンシナチやニューオーリンズで記者をしていた。ニューオーリンズ万博で出会った日本人の話に強く惹かれ、また女性冒険家で世界一周旅行を果たしたエリザベス・ビスランドに強い影響を受けて、日本行きを決意する。その頃イギリス人のバジル・チェンバレンによって英訳された「古事記」に出会い影響を受けたとも言われている。

日本に来てからの略歴

1890年8月30日来日。文部省の服部一三の斡旋で松江尋常中学の教師として松江に
1891年、旧松江藩士の娘、小泉セツと結婚する。
1891年11月、熊本の第五高等学校の英語教師に招聘され熊本に移る
1894年、神戸の新聞社ジャパンクロニクルに就職
1896年、東京帝国大学で英文学講師、日本に帰化、小泉八雲と名乗る
1903年、退職(後任は夏目漱石)
1904年、早稲田大学英文科講師、死去(享年54歳)雑司ヶ谷墓地に眠る

日本人は「外人」が日本をどう見ているかについて異様なほど関心を持っている国民だと感じる。私自身もかつてはそうであった。テレビ番組でも「Cool Japan!」だとか「Youは何しに日本へ?」だとか「ワタシが日本に住む理由」とか、外国人の日本観察番組が大人気だ。書籍でも「青い目の見た...」とか「台湾の若者に人気の...」というようなタイトルの本が溢れている。そしてほぼ例外なく「日本はこんなに素晴らしい!」「こんなにかっこいい!」と礼賛するものばかり。「キミたち日本人は気がついていないだろうが、ワタシたちガイジンは日本のこんなところに感動しているんダヨ」と。こういうのが日本人は大好きだ。まあ自尊心をくすぐられて悪い気はしないのだが、ほんとにそれが日本の姿、日本人なのか。なんで悪いところは言わないのか?ふと疑問に感じる。少なくともロンドンでもニューヨークでも、あまりイギリス人を、アメリカ人を「君たち日本人は我々をどう見てる?」なんて聞かれたことも話題になったこともないし、そんなTVショーを見たこともない。そもそも誰がどう思おうと関係ないという態度だ。日本人は日本を意識し過ぎなのだろうか。これはおそらく明治以降、日本が欧米列強に追いつけ追い越せ、とやっていた頃から始まって、戦後の復興期から高度成長期にそのピークに達したのでは無いかと思う。江戸時代は、鎖国ということもあってかあまり外からどう見られているかなど、少なくとも庶民は考えもしなかったであろう。古代においては中国王朝から蛮夷の国に見られないように意識していた様はよくわかるが、これも庶民レベルでは全く関係ない話だったろう。明治の文明開化、富国強兵、殖産興業というスローガンの下、日本がどれほど「東洋の非文明国」から欧米に負けない「近代文明国家」になったか、「一等国民」になったか、それを検証したくて、特の欧米人はどう見ているのかすごく気になるのであろう。

私も、明治以降、日本にやってきたお雇い外国人が書いた日本に関する著作が取り上げられ、翻訳され日本人に愛読されるのもそのせいだと考えていた。しかし彼らは別に日本人に読ませようとして書いた訳ではなく、世界に向けて未知の日本を語り、自分がいかに貴重な体験をしたかを記録したのである。その中で日本がいかに素晴らしい、欧米とは異なる神秘的な「もう一つの文明国」であるかを強調した。それを読んで日本人が感動した...「日本はこんなに素晴らしいところなのか」と。そういう視点でラフカディオ・ハーンを見てみると、彼はなぜ「怪談」とか「神話」とか「民間伝承」に拘ったのか。もう少し日本が力を入れている「近代化」を評価して欲しいものだと。確かに近代化していく日本の強みや、西欧諸国との違いや優位性についても観察し触れているが、しかし神秘的で、心穏やかで、控えめな日本人の姿から、富国強兵で、日清戦争に勝ち、傲慢さを身につけ徐々に大事なものを失いつつある日本人の姿を感じ取り始め記述している。しかし彼は基本的に霊魂や妖(あやかし)といった非現実的な世界に日本人の霊的体験と精神性を見ている。「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談話は、日本古来からの伝承であるが、我々はむしろハーンの「怪談」の日本語訳でそれを知ったようなところがある。そういう意味でこれも「外人が見た日本」のもう一面だと感じてきた。しかし、このような「日本人」と「外人」、「ウチ」と「ソト」という日本人に特有の二分法思考による視点が必ずしも物事の本質や人間の普遍性を正しく認識し説明してくれないことに気づくことななる。

私がロンドンやニューヨークで古書店を巡るとき、そうした「外人が見た日本」的なテーマで本を探したものだった。ところが、まずロンドンで感じたのは日本はイギリスから見ると「Far East」極東であり、旧大英帝国版図にあるインドや香港やオセアニア地域に比べると馴染みが薄い、ということであった。大英図書館やLSE図書館でも、「日本」は「アジアその他」ないしは「極東」のカテゴリーで取り扱われ、書籍の数も世界の他地域に比べ相対的には少なかった。であるから古書店を歩いても日本関係の古書に遭遇する確率には限りがあった。ラフカディオ・ハーン、いや小泉八雲についても日本人には有名で馴染みがあるが、イギリス人にはどうなのかと半信半疑であった。しかし、意外にもハーンの著作は比較的遭遇する頻度が高いことがわかってきた。イザベラ・バードやアンナ・ハーツホーンの著作にも出会った。古書店主に聞くと、ハーンは、いわば著名なジャパノロジストで、英国においては日本研究者だけではなく読書家にも人気のある著者である。したがって古書もよく出るとのことであった。見つけるのもそれほど困難では無いとのことである。イギリス人は大英帝国時代以来の「World Grand Tour」の伝統があり、世界旅行が好きな国民だ。これに出かける人がよく買ってゆくという。この辺がミシュランやトマスクックの旅行ガイドブックだけに頼らない、イギリス知識人の知性と教養の片鱗が見え隠れする点だ。こうしてチャーリングクロスやセシルロードの古書店街を徘徊しハーンを探した。結局シティーのど真ん中のロイヤルイクスチェンジに店を構えるAsh Rare Booksでは「怪談」と「心」を見つけて購入した。

数年後、ニューヨーク勤務になった時に、やはりハーンを探して古書店を巡った。ニューヨークはロンドンほど古書店が多くはないが、これも意外なほど簡単に見つかった。住んでたアパートの近くのマディソンアベニューのComplete Travellerは、その名の通り旅行、地理関係の古書、古地図が豊富であった。ハーンの著作は初版本ばかりではなく種類も多い。ロンドンと同じで、店主はハーンはアメリカでも人気だという。大学でも研究されているし、学校の図書館にも並んでいて、それが古書市場に出てくると言っていた。この店でJapan an InterpretationとOut of the Eastを入手した。

このように英米においては日本人の間で知られる日本贔屓の「外人」ラフカディオ・ハーン、いや「日本人」小泉八雲としてではなく、著名な作家として根強い人気がある。それに奇妙な東洋趣味や、神秘的な不思議の国日本といった関心からだけではなく、欧米文化とは異なる日本人の内なる心情や、日本文化の内面に迫る、そういう知的な関心を寄せる人たちのバイブルである。また人間に内面に潜む不可解や神秘への憧れ、といった普遍的な心情を愛する一般の読書人の読み物としても、説話短編集、あるいは評論集なので読みやすく面白いのであろう。こうして私の「外人が見た日本」というベンチマークでの本探し、換言すれば「日本人」「外人」、「ウチ」「ソト」という二分法視点がいかにロンドンやニューヨークの古書店では通用しないかを悟った。

古書の楽しみの一つに、以前の所有者の痕跡を探すことがある。この古書が辿ってきた歴史と、その背後に見え隠れする所有者たちの物語がある。蔵書票やメモ書きやメッセージ、また栞が挟まっていたり、メモ用紙が挟まっていることもある。鉛筆での下線やチェックは、その読者が何に興味を抱いたのかを知る手がかりになる。ロンドンで入手した「怪談」には個人の蔵書票があり、その横に万年筆で「To ... From...」が記載されている。誰にプレゼントしたのだろう、息子、娘なのか、恋人なのか、友人なのか... 想像が膨らむ。「怪談」をエキゾチックな極東の日本の伝承物語として興味を持ったのか、あるいは日本を理解する一助としたのか... またニューヨークで手に入れた「神国」には「愛する可愛い妻へ」と書かれている。日本に強い興味を抱いていたであろう妻にクリスマスのプレゼントとして贈ったらしい。その夫の心を思う。また神田神保町で手に入れた「骨董」には「1930年東京の英国大使館にて」とノートがある。日本が戦争の時代に突入する満州事変が起きた前年だ。この所有者はやがて、この本を残し、交戦国となった日本を退去したのだろう。どんな思いでハーンの描いた精霊の国日本を離れたのであろうか。イギリスでもアメリカでも、かつて日本と戦争した国の人々が、愛を込めて妻や子供や友人に、ハーンの日本に関する本を贈り愛読した。その痕跡がありありと残されている。戦後日本の連合国GHQによる統治を指揮したダグラス・マッカーサーと、その書記官であったボナー・フェラーズはハーンを読んで日本を研究した。とりわけボナー・フェラーズはハーンの愛読者で何冊もの著作を所有し日本滞在中も手放さなかったという。そこから得られた日本と日本人への内省的な理解が、GHQの民生統治の基層にある。かれは滞在中、ハーンの遺族を訪ね交流を深めたという。

日本人が外人からどう見られているか、という一方的な関心事や、戦前の「敵性外国語」書籍だから読まない、といった、そんな偏狭なものの見方ではなく、広く深く人間のうちなる精神を読み取ろうとする試みに、多くの人々が共感し、その感動を共有したのだ。その心は、文字通り、洋の東西を問わず、国家同士の非人道的で非生産的な戦争に左右されることもなく、深い普遍的な人間の物語として読み継がれてきたことを知る。そこには著者とその著作にまつわる物語だけでなく、その書籍を読み継いできた所有者が記したメッセージやノートやチェックなどの痕跡に、その心情、家族や友人との交流の物語を発見することができる。これこそ古書をめぐる旅の面白さだ。



古書店巡りクロニクル

1)Ash Rare Books ロンドン(1993〜96年に訪問)
 もとはCityのRoyal Exchangeにあったが、ネットで調べると現在はSouth Bankに移転し盛業中のようだ。旧店舗は歴史的建築物の中にあり、ここに居るという体験自体が「時空トラベル」で、いつまでも佇んでいたい素晴らしい空間だった。古地図も豊富で、16世期のベルギーの地図製作者ヤン・ヤンソンの日本地図をここで手に入れた。額装までやってくれた。

 Kokoro「心」: 
 1896年ロンドン初版本 神戸時代の著作
 Kwaidan「怪談」:
 1904年ボストン/ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作

2)Complete Traveller Antique Bookstore ニューヨーク(2003〜06年に訪問)
 Madison Avenueにある。現在はオンラインのみとなってしまったが、旧店舗は「古書の大海」に揺蕩う、という言葉がぴったりの智のラビリンス、時空のワンダーランドであった。店主は趣味人、教養人がメガネかけて、パイプ燻らしているという、如何にもこの場にぴったりの人物であった。「用事があれば声かけてくれ」という人と人との距離感。質問すると丁寧に調べて答えてくれる誠実さ。何時間でも過ごすことのできる心地よい空間であった。こうして店舗が街中から消えてゆくのは寂しい。

 JAPAN An Interpretation「神国」:
 1904年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作
 Out of the East「東の国から」:
 1895年ボストン/ニューヨーク初版本 神戸時代の著作 熊本での話が描かれている

3)北沢書店 東京(2019年〜)
 神保町の老舗洋古書店。「巣篭もり」中、オンラインで購入。本業はもちろん欧米古書を扱う伝統的な老舗店であるが、それだけでなく最近は店主の代替わりに伴ってDisplay Booksという、インテリア要素を入れた古書シリーズを提案している。しかもオンラインショップで受け付けている。古書のイメージをガラリと変える新しい感覚の「アンティークショップ」と言って良い、今注目の「古書店」だ。エドモンド ・マローンのシェークスピア全集やチェスウィック版シェークスピア文庫集など、美術品とも言える美しい古書をここで手に入れることができた。

 KOTTO「骨董」:
 1927年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作 
 1930年2月14日British Embassy Tokyoの個人の所有
 Japanese Miscellany「日本雑記」 :
 1901年ボストン初版本 東京帝国大学英文学講師
 1982年Yushodo Booksellersからの復刻版(300部限定)


怪談(KWAIDAN)1904年初版本

雪女の挿画

耳なし芳一


心(KOKORO)

ロンドン、ニューヨーク、東京と
それぞれの都市で出会ったハーンの著作
どれも個性的で美しい装丁だ


出雲松江散策 (2008年に訪問)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はまるで出雲に長く住まったような印象があるが、実は一年ほどしか滞在していない。また滞在中には本を出していない。しかし松江での日本生活の第一歩は彼に大きなインスピレーションを与えた。後に出版した「Glimpses of Unfamilier Japan」に書かれている、松江大橋を渡る人々のカラコロという下駄の音で目が覚める朝のシーンが印象的だ。物売りの声、臼の響きなどの生活音、彼は音に感性を刺激された。文字を用いないサウンドスケープ(音景)の世界を感じていた。これが彼が夢見た日本の現実(リアリティー)であった。夢と現実は、時として大きな乖離があるものだが、彼にとってここ松江で目にし耳にする日常的な現実は、まさに夢見た通りであった。特に妻の小泉セツの語る怪談話や民間伝承がのちの著作の基層になっている。松江では本を出さなかったが、この松江での生活と体験が、あの代表作「怪談」や「心」などの名著を生み出した。松江という街が彼の抱いていた日本のイメージとぴったり一致していたのであろう。大きな感動を与えた。

彼はなぜそのように怪談、幽霊、精霊などの日本固有の民間伝承や神話の世界に惹かれたのか。古事記に出会ったことがきっかけとも言われるが、その前に、少年期の体験、すなわちカトリック学校の教えに馴染めず、次第にアイルランドに古くから伝わるケルトの精霊信仰に興味を持っていったことがあったようだ。そのようなキリスト教伝来以前のケルト源教の心霊説話に親しんだ幼少時代の影響で、日本の、やはり仏教伝来以前の自然崇拝、精霊信仰、祖霊信仰の基礎にした神話、民間伝承に強く惹かれたのであろう。特にバジル・チャンバレンの英訳「古事記」に影響を受けたのも事実だろう。彼とは来日後も親交を深めた。このように日本人の祖霊信仰に共感を覚え、神道のような経典もなく教えも説かない宗教を邪教と考えるキリスト教的な宗教概念に違和感を感じたのも、このケルトの体験があったのかもしれない。こうして小泉セツの語る怪談、伝承、や「雨月物語」「今昔物語」の中の説話を題材とした「再話集」を次々と書いていった。

しかし、彼は松江を去り、熊本、神戸、東京と移り住むに従って、徐々に日本の美しい内面ばかりではなく、文明開化や富国強兵により近代化を果たしてゆく日本に、何か大事なものを失ってゆく姿を見るようになる。時代は1894〜95年の日清戦争の勝利を経て、1904年の日露戦争へと、日本が大陸へ、戦争へと突き進み、念願の「一等国」への道を歩き始めた時期である。彼は徐々に日本に幻滅していったとも言われている。岡倉天心が「茶の本」で「西欧諸国は日本が平和な文芸にふけっていたときには、野蛮国とみなしたものである。しかるに満州の地で大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。それならば日本は喜んで野蛮国に甘んじよう」と書いた。この心情をハーンも共有したに違いない。この辺りの評論は晩年の著作に現れている。こうした心境の変化は時代背景があってのことではあるが、彼が最初に暮らした松江の思い出はひとしおであったことだろう。1896年に日本に帰化したとき(この時は東京にいて東京帝国大学に教職を得た)、かれは日本名を妻の姓「小泉」と、出雲の美称(枕詞)である「八雲立つ出雲」の「八雲」を採り小泉八雲と称した。こうして松江は彼の原点となり小泉八雲とは切ってもきれない関係となった。


「八雲立つ出雲」の夕景
穴道湖大橋
松江大橋
ハーンが橋を渡る人々の下駄の音で目が覚めた松江最初の朝のことを書いている

松江城
松江城天守

天守から松江の街を展望す
武家屋敷街にある「小泉八雲旧居」
その並びに記念館が開設されている

武家屋敷
現在は美術館になっている
塩見縄手









2020年6月7日日曜日

旧尾崎士郎邸に紫陽花を愛でる 〜馬込文士村、ジャーマン通り散策〜



尾崎士郎旧邸
紫陽花が美しい季節になった


コロナ騒ぎでここのところ遠出を自粛している。緊急事態宣言は5月25日に解除されたが、東京都はまだじわじわと二桁の感染者が出続けているので、いつまた二次感染爆発が起きるか心配だ。まだまだ油断はできない。気分的にもまだ遠出を避けたい雰囲気である。

しかしZoom会議と「巣篭もり」ばかりしていると体が鈍るのと、気分的にも晴れない。早くカメラを担いで「山川を跋渉して寧所に暇あらず」と行きたいものだ。遠出がダメなら近場で、というわけで「三密」を避けてご近所散策を心がけている。季節は梅雨入り直前。今回は「人生劇場」の小説家、尾崎士郎の旧邸で咲き誇る紫陽花見物と洒落込んだ。この界隈は「馬込文士村」と言われた地域で、我がソーシャル・ディスタンスならぬウォーキング・ディスタンス内の散策テリトリーだ。しかし考えてみるとこれまで「時空トラベラー」ブログに取り上げたことはない。なぜか?あまりにも近すぎて「時空」を「旅行」している気がしないからか。しかし、こうして外出自粛という形で「巣篭もり」を強いられて、改めて普段の街を歩いてみると、身近なところにいろいろな発見があることに気づく。これが「巣篭もり」生活の成果かも。


1)馬込文士村
「馬込文士村」は大田区大森山王一帯で、戦前に多くの小説家や芸術家が住んだことからそう言われている。この辺りは東京の郊外で、特に関東大震災の後、都心から引っ越してきた人が多く住んだ地域であった。まず大正期に小林古径、川端龍子、伊藤深水などの画家が住み始め、その後広津和郎、川端康成、室生犀星、宇野千代、萩原朔太郎、三好達治、佐多稲子、村岡花子など多くの文士が棲み始めた。特に尾崎士郎は生涯において何度か馬込、山王あたりに暮らし、数多くの文士をこの地に誘い、ダンスや酒宴、麻雀など様々な会合を開いて一種のサロンを形成した。望翠楼がその社交の中心であった。その後八景園などの新しいホテルができ徐々に衰退していったそうで現在はその建物は取り壊されて跡地にマンションが立っている。かつての文士の邸宅跡はほとんどが痕跡もなくなっている。わずかに姿を止めるのはこの尾崎士郎邸と、日本画家の川端龍子の邸宅跡の龍子記念館、書家の熊谷恒子の邸宅跡の熊谷恒子記念館くらいである。その他はただ「かつて在りき」のプレートが示されているだけである。大森駅へ降る八景坂の側壁に「馬込文士村」のレリーフが掲げられている。これだけ著名な文士が数多く住んでいた割には、その「邸宅」がほとんど残っていないのは、駆け出し、文豪を問わず、彼らの収入がそれほど多くなく、生活にも苦労していたためだと考えられる。多くが家賃が安い借家だったらしい。あるいは原稿料は全て他のことに使われて、豪邸を構えるところに回らなかったのかもしれない。それもまた文士らしい「宵越しの金は持たない」人生なのかもしれない。

2)旧尾崎士郎邸
この「文士村」形成に大きく貢献した尾崎士郎はこの山王の邸宅を終の栖とした。邸宅と敷地は現在は大田区が所有し、一部、玄関と書斎部分が復元され「旧尾崎士郎邸宅跡」として一般に公開されている。蔵書の多くは彼の生まれ故郷、愛知県の吉良町に寄贈されているようだが、復元された書斎にその一部が展示されている。さほど大きな敷地ではなく、建物も特筆するような古建築の面影はない。しかし、門を入った正面に紫陽花が咲き誇り、右手には藤棚が、また至る所につつじの生垣が施されていて落ち着いたなかにも明るい佇まいである。庭には、相撲好きであった尾崎が「てっぽう」の練習した大木がそびえている。文士で邸宅が残っているのはこの尾崎士郎邸だけである。尾崎邸の門を出てすぐ左に曲がると徳富蘇峰の邸宅跡、現在は「山王草堂」「蘇峰公園」(これも大田区の所有)があり、これも一般に公開されている。あたりは今でも閑静な住宅街で、少し前までは瀟洒な洋館や立派な和風建築のお屋敷が軒を並べていた。しかし、ご他聞にもれず、最近はこれら「建築遺産」ともいうべき建物が惜しげもなく次々と破壊され、跡地にはマンションや狭小住宅群が立ち並ぶという景観破壊と過密化が急速に進行中である。すっかり城南のお屋敷街の面影が薄れてしまった。

さはさりながら我が家のお気に入り散策コースである。蘇峰公園、尾崎士郎邸、ジャーマン通り、山王邸宅街といくつかポイントを巡ると5000歩ほどの歩数を稼げる。コースには高低差もあるので有酸素運動にもなる。緑と四季折々の花と文化の香りが楽しめるブラパチ散歩コースである。






藤棚

尾崎士郎旧邸
復元された玄関と書斎の一部
「人生劇場」碑
その奥には当時からある井戸が
尾崎士郎邸玄関から山王を望む
この先に徳富蘇峰の旧邸
「蘇峰公園」がある


応接間
JR大森駅に続く「八景坂」
馬込文士村」のレリーフがはめ込まれてる
大森山王のお屋敷
堂々たる洋風建築だ
壊さずに残して欲しい
両隣の邸宅は最近取り壊されてマンションになった
大森山王は坂の多い街
古い木造建築が残るが、ここでも次々と取り壊されていく

3)ジャーマン通り
この大森山王の真ん中を横切るように走る通りがジャーマン通りである。池上通りから環七通りへ斜めカットするように走っている。なぜ「ジャーマン通り」なのか。かつてここにドイツ人学校(Deutsche Schule Tokyo)があり、在日ドイツ人コミュニティーがあったことからこの名がついた。この学校の歴史は古く、明治に横浜で開校したが1925年東京に移り、戦前の1933年に大森山王に校舎が建てられた。その後、1991年にはドイツ人学校は横浜に移転したため、多くの家族が引っ越したようだ。今でも少しだがドイツ人家族が住んでいるし、ドイツ系プロテスタントのルーテル教会がジャーマン通りにあり、かつての「リトルドイツ」の痕跡を残している。大森山王の住宅地や「馬込文士村」のあった地域に近く、無電柱化され、空が広々とした通りには小洒落たパティシエやベーカリー、エスニックな料理を出す店なども在り、ちょっとした街歩きを楽しめる通りになっている。最近、こじんまりしているがおしゃれな古書店もオープンした。

以前、ボンのドイツテレコム(Deutsch Telekom)を訪問した時に、対応してくれた社員が流暢な日本語を話すのでわけを聞いたら、「私は子供の頃大森のジャーマン通りに住んでました」と懐かしそうに話してくれた。彼は「ピンポンダッシュって知ってますか?」と聞く。他人の家の玄関のインターホンをピンポ〜ンと押して、家人が出てくるまでに逃げる、といういたずらだ。学校の帰りに友達とよく遊んだ「ワタシは悪ガキでした」と笑っていた。こうした「ガイジン」のいたずらに近隣住人も悩まされたことだろう。しかし、これを教えてくれたのは日本人の悪ガキだったそうだ。時空を超えたドイツのボンに、ここ大森のジャーマン通りを故郷と懐かしみ、思いをはせている人がいることに心が熱くなったことを思い出す。彼は今頃どうしているのだろう。


ジャーマン通り
無電柱化し街並みがすっきりしている
欧州仕込みのパティシエやパン屋、小洒落たレストランが並ぶ


TOKYO 2020の旗が取り外されることなくはためいている


ルーテル教会


パン屋さん
金子屋敷

蘇峰公園