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2020年10月26日月曜日

近江商人の故郷 五個荘金堂町を探訪 〜「三方よし」はここで生まれた!〜







ついに実現!五個荘金堂町へ足を踏み入れた。ここは現在の住所表示では滋賀県東近江市である。と言われても最近の町村合併でできた地名なので何かピンと来ないが、かつての近江国神崎郡金堂村だ。大阪勤務時代、関西地区の「重要建造物群保存地区」巡りをしていて、数カ所廻り、ブログにも書いたが、この五個荘にぜひ行ってみたいと狙っていた。が、実現しないまま東京転勤になってしまった。そしてなんと今、GoToトラベルで実現するとは!近江路ブログは実に2009年6月の近江八幡探訪以来だ。新幹線で新大阪、京都方面に向かう途中、伊吹山、関ヶ原を過ぎ、米原を通過すると車窓に湖東平野の豊かな田園風景が広がる。ふと進行方向の左を見るとそこに「てんびんぼうの里 五個荘」という看板が目に飛び込んでくる。ここがその五個荘金堂集落である。田園地帯の中にこんもりした森と寺院と豪壮な民家の甍が見える。近江商人の故郷である。窓からふと横を見ると2両編成のローカル線の電車が新幹線に並行して走っている。これが近江鉄道。新幹線のスピードとはまるで比べものにならないのでたちまち追い越してしまうが、全く我関せず。そんな慌ただしい乗り物とは無縁とばかりにトコトコと長閑な田園風景の中を走っている。こうして新幹線で通過するたびに、いつの日にかここを探訪したいものだと夢想してきた。やっと実現したというわけだ。新幹線とクロスするあたりが近江鉄道五個荘駅だ。五個荘金堂地区巡りの最寄駅だ。しかし実際にはここからだと30分以上も歩かなくてはならない。JR東海道線の能登川駅からバスで行く方が便利が良い。どちらのルートも東京からだと米原下車で乗り換えだ。この長閑なローカル線の旅も悪くないのだが、今回はスケジュールの都合もあり能登川駅から行くことにした。

五個荘は近江八幡や長浜のように、あまり観光地化されていないので、大勢の人が押しかけるわけでもなくざわついた感じがなくて良い。この日も能登川駅で近江鉄道バスを待っていたが、金堂地区へ向かう人は誰もおらず、金堂で降りる人もいない。「ぷらざ三方よし」なる観光案内所も係の女性は一人。ちょうど昼食時で「こんにちは」と声をかけると、モグモグする口を押さえながら「はあい!」。ここで地図をもらい金堂地区を歩く。ほとんど徒歩圏内なのでブラパチ散策にはうってつけ。見学に来ている人もチラホラいるが、ほぼ人影はない。全くゆったりしている。幸運にもその日は秋晴れの真っ青な空。なんと空が広いことか!気持ち良い。もちろん「三密」は望んでもあり得ない。ただし、問題は昼食。古民家カフェがあるはずなのだが、見当たらない。人に聞くと「ああ、あそこは閉店しました」と。ガックリ。そりゃそうだろう、こう人がいなければ商売成り立たない。「三方よし」とは行かない。また邸宅など五カ所ある公開施設が二箇所閉館している。観光客が集まらねば維持していくのは難しいのだろう。ましてコロナで人が来ないのだから。かといって観光客が押しかけて静謐な環境を壊して欲しくもない。難しいところだ。あと、気がついたのは伝建地区に指定されているのだが、意外にも町内の無電柱化がなされておらず、中空に電線や架空ケーブルが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。写真を撮ると必ずと言っていいほど写り込んでしまう。これはなんとかせにゃならん。歴史的な景観を台無しにしているのは残念だ。


五個荘金堂地区は二つの景観遺産登録がされている。

重要伝統的建造物群保存地区(平成10年12月25日指定)

「金堂の町並みは、古代条里制地割を基礎に大和郡山藩の陣屋と寺社を中心に形成された湖東平野を代表する農村集落で、加えて近江商人が築いた意匠の優れた和風建築群の歴史的景観として価値が高い」と指定理由が記されている。

そして平成28年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」にも指定されている。


歴史:

あたりの田園地帯の地割は古代の荘園、条里制が基礎になっている。五個荘金堂町もその街区に条里制の名残がある。地名の「金堂」は聖徳太子が金堂を建立したという伝承に由来する。地域には金堂廃寺跡(8世紀創建との伝承)、太子開基と伝わる浄栄寺がある。近世は近江守護六角氏の領地。織田信長が足利義昭を将軍に奉じて上洛するときに六角氏を破った箕作城、観音寺城の戦いでは金堂地区も戦場になった。

江戸時代になると領主がたびたび変わるが、元禄6年(1693年)大和郡山藩の領地となり代官(陣屋)が置かれた。以来、明治5年(1872年)まで存在していた。郡山藩は陣屋を中心に三方に寺院を配し、その周辺に民家を配するという集落整備を行った。江戸時代の金堂村は七つの組みに分かれ、稲作中心の600人ほどの農村集落であった。しかし農業だけでは苦しく、江戸中期頃から、副業として行商に出る商人が現れ始めた。これが五個荘近江商人の始まりだった。それでも当初は行商に出る家はそれほど多くはなかったが、天保年間になると布地、綿、絹、織物、傘を扱う商人が増加し、天保14年(1843年)の記録では金堂村から大坂、京都、播磨、紀伊、さらには東国の上野、武蔵、陸奥など諸国に商取引を拡大していったことが記載されている。こうして江戸末期から明治、大正、昭和になると大坂(大阪)、京都、江戸(東京)に出店する豪商が現れる。しかも日本国内だけでなく朝鮮、満州へと出店する豪商(中江家の三中井百貨店)が現れる。しかし、彼らは金堂村を離れることはなく、成功後も本宅を維持し、ここを本拠地として活躍した。また寺社仏閣に寄進するなど故郷の発展に重要な役割を果たした。金堂村はそうした近江商人の本宅地区となり、現在の独特の景観を形成する基となったわけだ。


景観の特色:

古代荘園の条坊制を基礎に、近世には陣屋を中心に寺院が配され、その周辺には農家が。そして東西南北の小路に水路が整備され、江戸末期から明治期に建てられた広大な敷地を持つ屋敷が並ぶという、時間が重層的に積み上がった歴史景観を形成している。基本的には湖東平野の農村集落からスタートしているが、豪商の邸宅や豪農の屋敷、蔵が連なっており、他の在郷町や門前町、宿場町などとは全く異なる独特の景観を保持している。大和郡山藩陣屋跡は現在稲荷神社となっているが、ここを中心に弘誓寺(真宗大谷派)、浄栄寺(浄土宗)、勝徳寺(真宗大谷派)、安福寺(浄土宗)が取り囲んでいる。かといって近畿地方に多い大和今井町や富田林のような宗教都市、防御都市的な寺内町(環濠集落)でもない。その周囲には豪壮な民家が立ち並ぶ。まずそういった街の全体構造を知ると歩きやすい。民家の建物は商家、町家スタイルではなく、黒い舟板壁と白壁に囲まれた邸宅屋敷スタイル。広大な敷地には切妻、入母屋作りの二階建ての主屋、数寄屋風の離れ、白壁漆喰土蔵が並ぶ。どの邸宅も見事な庭園を持っている。また同じ地域に藁葺きの大和棟風豪農建築も混在していて不思議な空間となっている。鈴鹿山系から引かれた水を取り込んだ水路が整備され、そこに鯉が放たれ、水路に面して川戸(かわと)と呼ばれる洗い場が設けられている。一見、環濠集落のようにも見えるが、先述のようにそうではない。しかしこうした水辺の景観が「日本遺産」に認定された理由であるようだ。近江商人の発祥の地としては近江八幡や、日野、高島、愛知川などがあるが、五個荘は純農村から発展し、商人の町として発展してきた。とはいうもののここには店はなく本宅だけが置かれたのが特色である。


近江商人とは:

近世初頭から国内に商圏を広げた近江八幡、日野、愛知川、高島、湖東出身の商人。江州商人、江商(ごうしょう)とも言われる。かつては朱印船貿易にも携わる豪商も出た。江戸時代の鎖国以降は、国内の商いに徹して全国に商圏を広げていった。ここ湖東の五個荘出身商人は江戸末期から、明治、大正、昭和初期に活躍した。先述のように農村集落の農閑期の行商に始まり、成功したのちも本宅を五個荘に置き、出先に出店をもうけた。現存する本宅は明治、大正期の建物が多い。彼らはここを拠点に、全国に行商に出かけ(天秤棒を担いで)、京都、大坂(大阪)、江戸(東京)、さらに明治以降は朝鮮。満洲まで進出し商売した。商売の形態としては地域の特産物を全国に行商する越中富山の薬売りなどのスタイルと違って、行き帰りで扱う商品が違う「産物廻し」、すなわち都市部で仕入れた産物を地方で売り、その足で仕入れた地方産物を都市部で売る商法(「ノコギリ商法」と言うようだ)であった。いわば現在の商社的な取引形態を特色とする。そういえば、商社マンであった家内の父は「行きは会社が出張旅費を出すが、帰りは取引先から旅費を稼いで帰ってこい、と教育されたものだ」と言っていたのを思い出した。思えば江州発祥の総合商社であった。また近江商人といえば有名な「三方よし」の堅実な商売で知られる。「売り手よし、買い手よし、世間よし」。自分さえ儲かれば良いということではなく、買い手も満足し、地域社会の発展、福利の増進にも貢献しなくてはならない。この商売理念は伊藤忠の創設者、伊藤忠兵衛(初代)が広めたと言われている。世の中、ますます格差が広がる社会となり、資本主義が抱える問題点が問われるこの頃、この「三方よし」の理念を思い起こす時が来た。


参考:近江商人の系譜を継ぐ企業

伊藤忠、丸紅、双日(旧日商岩井、ニチメン)、トーメン、兼松江商

西武鉄道/セゾングループ、高島屋、白木屋、三中井百貨店

日清紡、東洋紡、東レ、ワコール、西川

トヨタ、ヤンマー、ニチレイ、日本生命、武田薬品、

等々


鈴鹿山系から引いた水を取り込んだ水路が巡らされた街だ

錦鯉が放たれている


弘誓寺


浄栄寺

勝徳寺
陣屋の長屋門が移設されている

大和郡山藩陣屋跡に建つ「稲荷社」


五個荘近江商人屋敷めぐり:

1)中江準五郎邸(戦前、日本全国のみならず朝鮮、満州にまで進出した百貨店チェーン、三中井百貨店の中江家の本家住宅)

中江準五郎邸
蔵の街



中江家玄関

広間

二階から庭園を望む

玄関周り


茅葺の農家も見える

中庭

いくつもの蔵が連なる景色は壮観


この地の民芸品「小幡人形」コレクション


船板塀
釘がそのまま残されている




2)外村宇兵衛邸/外村繁邸(呉服を商い、江戸/東京、横浜、京都に出店した外村家の本家住宅。その跡取りで作家でもあった外村繁家住宅)


外村宇兵衛邸(外村本家)
広大な敷地を誇る豪邸
残念ながら閉館中

外村本家外観

赤いポストと煙出し


外村一族出身の小説家「外村繁」の邸宅

川戸(かわと)
屋敷内に設けられた水路を利用する洗い場
防火用水としても利用された

上がり框から大広間

ラヂオ

手回し電話機

居間から庭を

庭から見た母屋


先がよく見えるように
お守りたぬき


おくどさん


台所

書斎

天秤棒で行商
近江商人の定番スタイル

商売ノウハウ集

自らを律せよとの「家訓」

中庭

見事な松



一幅の画のような風景

分厚い土蔵の扉
防犯のため母屋に入り口がある


土蔵の二階


3)中江富十郎邸(中江兄弟の三男富十郎家住宅。現在は「金堂町まちなみ交流館」として公開)

現在は公開施設「金堂町まちなみ交流館」
ただし閉館中


五個荘金堂町点景:


秋晴れの五個荘金堂を散策

黒い舟板塀の屋敷が多い

公開されていない私邸
立派な門


舟板塀に真鍮製の「郵便新聞受」
美しい字体にレリーフが施された外枠。
この造形と質感に惹かれてしまう

コバタ?

子供の飛び出し注意!
角角にある

街角のお堂


白壁の土蔵にも秋の風が





五個荘金堂町の空中写真
(Wikipedia国土交通省地図から引用)



アクセス:

JR東海道線、能登川駅から近江鉄道バス「八日市駅行き」で10分。「ぷらざ三方よし前」ないしは「金堂前」下車すぐ。バスは一時間に二本程度。能登川駅は新快速停車駅なので京都、大阪方面からもアクセス至便。東京方面からだと新幹線米原駅下車。東海道線乗り換え新快速で13分ほど。または近江鉄道だと五個荘駅下車。ただし徒歩30分。こちらも米原駅で乗り換えで30分。ちなみに、近江鉄道は西武グループの会社。東京の西武線で走っていた懐かしい車両がリニューアルされて使われている。


JR能登川駅
新快速も止まるので便利


「ぷらざ三方よし」
観光案内所がある

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix 20-60。このセットは、ブラパチ散策、建物撮影、建物内部撮影に最高な組み合わせだ。他の交換レンズを持っていったが結局これ一本で済んだ)


2020年10月23日金曜日

久しぶりの嵐山/嵯峨野散策 〜GoToトラベルで東京都民、京都に参上!.〜

 

大堰川と渡月橋

例年の紅葉シーズンの渡月橋(2010年)


紅葉の時期にはまだ早いが、京都の嵐山、嵯峨野散策に赴いた。「そうだ、京都行こう」じゃないが、前日に思い立って突然出かけることにした。鬱々とした「巣篭もり」の反動で突然弾ける。天気予報は幸いこれから二日は秋晴れだという。雨続きでうんざりもしていたこともある。GoToトラベルが東京都民にも適用されることになりこれが後押しした。宿泊料30%割引。地域共通クーポン6000円分付き。悪くない!「割引」キャンペーンは、金は無いが時間はたっぷりあるリタイア世代に、こんな果断な決断と行動をさせるものだ。

新幹線はジパング倶楽部でこれも30%割引。「のぞみ」には乗れないが、時間はたっぷりあるので「ひかり」で十分だ。新幹線はそこそこの乗車率。サラリーマン出張組が多い。「ガンバレ、サラリーマン諸君!」。「スマンがわれわれは遊びに行く!」。一車両の後列は団体用にGoToで旅行代理店が押さえているらしい。もっとも結局ほとんど埋まらなかったが。往時に比べりゃ席は空いている。

京都駅では、どこかの県みたいに「東京都民は京都には来ないでください!」とバリケードが張られ、防護服にマスク姿の府庁職員が立っているのではないか(?)と、恐る恐る降り立ったが、「入国検査」も「検疫」もなかった。思ったより観光客もいて、なんと修学旅行の一団まで!黒い制服の生徒たちが駅前広場のかたすみに腰を下ろして先生の指示を聞いている。街は賑わいを取り戻しつつあるものの、人出はイマイチかな。ホテルに到着すると、思いもかけず列を作ってチェックイン待ち。GoToが始まったので客が戻ってきたとのこと。ホテル業界にとっては良い兆候なのだろう。ここは以前から京都での定宿なのでチェックイン自体は簡単。体温検査はあったが「東京からですね?』などと余計な念押しもなし。街へ出て寺町新京極あたりを徘徊すると、地元の人(観光客らしくない人)で賑わっている。錦小路や先斗町へ足を伸ばすと、閉店してしまった店が多いのに驚く!やはりコロナは観光業中心の地元経済に大きな影響を与えているようだ。なんと言っても中国、韓国の観光客がいないのだから、ビフォーコロナのあの雑多な賑わいを求めるのは無理。「爆買い」などもはや過去の言葉になってしまった。しかし、この日本人だけでそれなりに賑わっている京都の街も悪くない。かつてのバブル時代の日本、すなわち物価高と円高で、海外からの旅行者には敬遠されていた時代に戻ったようだ。街中では日本語しか聞こえてこないし、慣れない着物着て自撮り棒振り回す「チャイニーズ・ゲイシャ」の一団もいない。なつかしさがこみ上げてくる。昔の京都はこんなんだったなあ!と。

京福電鉄嵐山線、いや「嵐電」で嵐山へ向かう。新入社員時代(初任地は姫路)、デート時代、新婚時代、大阪時代と頻繁に出かけた。嵐山、嵯峨野のブログもいっぱい書いた。地下鉄太秦天神川で乗り換えてコンプレッサーの音も懐かしいチンチン電車に乗車。車内はそれなりに席が埋まっているが、雰囲気的には地元の乗客が多いようだ。嵐電嵐山駅につくと駅前の人出は閑散としている。もちろん紅葉にはまだ早いし、ウィークデーであることもあるが、かつてのように駅前の通りが観光客で溢れている感はない。ここでも閉まっている店が多いのに驚く。なかには看板下ろした店も。もちろんインバウンドも姿を消した。コロナの影響は大きい。なんかあの渡月橋が落下するんじゃないかと思うほど人が溢れていた時代の嵐山じゃないような気がする。

嵯峨野にいたっては、かつての嵯峨野散策コース入口、竹林地区が人の波で大渋滞して先へ進めなかった時代が嘘のよう!そこそこ観光客はいるが閑散としている。都会の人人人の生活に疲れてやってきた嵯峨野で、観光客の喧騒の渦に巻き込まれるなんてイヤじゃあ〜りませんか。静かに散策する本来の環境が戻ってきたようで少し嬉しくなった。ゆったりと秋風を感じながら竹林を抜け、野の宮神社、山陰線の踏み切りを渡り、落柿舎、常寂光寺へと散策する。ここから先は二尊院、祇王寺、化野念仏寺、そして鳥居本へと続く。こんなに静かな小径だったかと驚く。かつても念仏寺を過ぎると歩く人も急に少なくなってゆっくり散策できたものだが、今は落柿舎あたりも人が少なくやけに秋空が広い。ここは一人旅の女性の姿が良く似合う。一眼レフ下げて歩く「カメラ女子」にも出会った。嵯峨野は今も昔も「女子」に人気だ。「女ひとり」とういうデュークエーセスの歌が流行ったっけ。

紅葉の名所、常寂光寺を目指した。ここは1561年(永禄4年)開山の日蓮宗の寺だ。この緑濃い寺は、信仰と修行の場というよりは、俗世を離れて静かに隠棲して仏道に精進する場なのであろう。この辺りはかつて藤原定家の山荘があった場所だ。小倉山の中腹にありここから京の都を展望することができる。今はまだ錦繍の紅葉シーズンには早いが青紅葉が美しい。陽の光にモミジと苔の緑がキラキラ輝いている。しかしこの寺の苔がこのように見事であることに今まで気づかなかった。これも慌ただしい観光客の群れに巻き込まれず、ゆったりと時を過ごすことができるお陰だろう。何か忘れていたものを取り戻した感じがした。内外の観光客に人気なのも良いが、オーバーツーリズムはやはりなんとかせにゃいかん。観光業を生業にしている方々には申し訳ないが、こうした静かな佇まい、ゆったりとした時間を取り戻すのも悪くない。そういう時間と空間に価値を見出す生活。コロナを機会にもう少し豊かさをは何かを考えてみたいものだ。


京福電鉄嵐山線
またの名を「嵐電」
渡月橋のたもと、金木犀が芳香を放っている

渡月橋

大堰川堰堤

秋晴れの天気

むらさき芋スイーツ
嵯峨野の竹林




野々宮神社
コロナ退散を祈願

落柿舎
秋の空が大きく広がる

常寂光寺山門

仁王門

本堂

多宝塔

紅葉と苔のコラボレーション


仁王門


苔むす庭

境内から東山方面を展望

藤原定家の小倉山荘跡



嵐電嵐山駅前の人出の比較写真をご覧いただきたい。それにしても例年の紅葉シーズンの嵐山は凄まじいほどの人出で、紅葉狩りどころではなかった。今回は紅葉シーズン直前の平日であったことを割引いても、閑散とした佇まいだ。店仕舞いしたところもありかつての賑わいは感じられない。どちらが良いのか...

(現在)

嵐電嵐山駅前の通り
人力車も余裕で走れる

閑散とした駅前通り
店仕舞いしてしまったところもある


(10年前)

例年の紅葉シーズンならこの賑わい!
嵐電駅前の通り(2010年)

2010年頃の天龍寺曹源池庭園まえ

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6 ただし以前の写真三枚を除く)







2020年10月12日月曜日

クラシックカメラ遍歴(8)Leica Copy Cameras 〜本家を超えた偉大なるライカコピーたち〜

Leica IIIa
高速シャッター1/1000を装備
本家本元のライカカメラ

レンズはSummarit 50mm f.1.5
当時としては驚異的な高速レンズ

Leica Pistol
底に速写用ワインダー、ライカピストルを装着できる

まずは本家本元のLeica IIIaをとくとご覧あれ。1935~1950年、すなわち戦前にドイツのエルンスト・ライツ社:Ernst Leitz GMBHで製造された戦後まで続いた板金成形のバルナック型ライカだ。III型に始まり、高速シャッタ1/1000を追加したIIIa、ファインダーを改良したIIIbへと進化した。他社の追随を許さないと言われた最高峰カメラである。唯一の競争相手は、同じドイツの老舗光学機器メーカー、カール・ツアイス社:Carl ZeissのContax Iだけだと言われた。そのLeica III型をモデルにした(コピーした)各国のライカ型カメラの代表作を三点ご紹介しよう。

戦時中、交戦相手であったドイツからLeica IIIが入らなくなり、困ったイギリス、アメリカ、日本が製造したのが「ライカコピー」と言われるカメラだ。カメラは個人の趣味の道具ではなく、特にライカのような小型、高性能なカメラは重要な軍用機材であった。英米は開戦初期はライツ社製の高性能カメラを確保するために、中立国や第三国から輸入したり、国内の研究機関や市民などのライカ所有者からの供出に頼ろうとしたが、それでは間に合わず、やがてライカを分解して研究し自国でコピー製品を製造しようとした。これがコピーライカの始まりだ。やがて戦争が終わり、イギリスは占領中のドイツ、エルンスト・ライツ社のウェツラー本社から設計図を接収したり、海外のライツ社の特許の無償公開を利用して製造を進めた。またアメリカでは米国子会社のニューヨークライツ社による全面的な支援があり、英米両国で「ライカ」の国産化を進めた。一方、ドイツからカメラの製造設備を接収したソ連(ロシア)が大量のライカコピーやコンタックスコピーを製造した(ハッキリ言ってどれも粗悪品ばかり。コレクターアイテムにはなっているが)。日本は持ち前の器用さで数多くのライカコピーやレンズシャッタカメラを作り、戦後の外貨稼ぎの柱となった。そうしたいわば草の根のカメラブームが日本のカメラ業界の発展の基礎となった。

この戦後間もない時期のライカコピーは、戦前の板金加工ボディーのLeica III, IIIa, IIIbをベースに行われた。したがってその形状はIII型とウリ二つ。ところが、コピー製品の方はダイキャスト成形の高剛性ボディーで、かつ仔細にみると様々な改良が施され、本家のライカを上回る出来ばえの高性能カメラに仕上がっている。戦後のこの頃には本国ドイツでは(戦争中、戦後の荒廃の中であるにもかかわらず)次世代モデルであるダイキャスト成形のIIIcが開発済みであったが、ライカコピーは全て戦前型(板金加工型)のIIIa型のデザインを踏襲していたのである。こののちライツ社はドイツの戦後復興と共にIIIc, IIId、そして究極のバルナック型ライカ(スクリューマウント)となるIIIfを市場に投入してくる。ライカコピー製品の命脈は、その成立の事情から考えてもは徐々に絶たれてゆく。

ここでは代表的なライカコピーカメラ、英国のリード、米国のカードン、そして日本のニッカを紹介しよう。


1) 英国製 Reid + Taylor-Hobson 50/2

Reid & Sigrist Ltd. Leicester England

イギリス軍の要請により、レスターにあった航空機関連の精密機器を製造するリード・シグリスト社に白羽の矢が当たりライカコピーを製造開始。ということでReidはLeica IIIb(高速シャッタ1/1000搭載、ファインダー改良)をモデルとし、軍用として製造された。やがて民生用としても売り出された。民生品としては1947年に発表され、実際の市場には1951年に登場して、1964年まで発売された。すなわち、戦時中の軍の要請に始まるのだが、戦後に比較的長く販売された。ライカに倣ってスタンダードなI型と高性能なIII型の二種類があった。I型は主に軍用に納品されたようだ。

今回取り上げたReid IIIは3機種の内、仕上げが一番洗練されている。ボディー角やノブ類の面取りなど、掌に馴染む仕上げとなっている。エルゴノミクスはLeica IIIbよりも優れている。シャッター軸にはボールベアリングが使われ、滑らかな駆動。貼り皮も滑りにくい材質。ダイキャスト成形も薄型で、のちのLeica IIIcのそれよりも出来が良いかもしれない。シャッター巻き上げやレンズ距離計のスムースな動きも秀逸だ。ボディー正面にストロボ用の接点が用意され利便性もオリジナルを上回っている。いかにも「英国製ライカ」という佇まいだ。

沈胴、直進ヘリコイドの50mm(2 inch) f.2の標準レンズがついてくる。このレンズはテーラー・ホブソン社製で、シャープで秀逸な名レンズである。その姿形も工芸品と言って良い上質なものである。付いてくるレンズキャップのエレガントさはまさにMade in Englandだ。イギリスには、この他にもロスやダルメイヤーなどの優秀なレンズメーカーがある。ライカLマウントレンズの他、英国製カメラ用(アドボケイト、エンサインなど)にずいぶん作った。



フィルム巻き上げノブ、巻き戻しノブは角が面取してあり、またボディーも全ての角がアールが取ってあって手触りが良い。
ダイキャスト成形のボディーも薄く仕上がっていて、しかも剛性感がある。
ストロボ、フラッシュ用接点が正面に設けられている

メッキ、貼り皮の質が高く美しいシルエットだ

軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
「Reid」のロゴが誇らしく彫られている

レンズはTaylor-Hobson Anastigmat 2 inch f.2
鏡胴の作りも高品位

レンズキャップのロゴが美しい


2) 米国製 Military Kardon + Kodak Ektor 47/2

Premier Instrument Corp. USA

カードンは、戦時中、交戦国ドイツからライカが入って来なくなったので、アメリカ陸軍によりニューヨークのプレミア・インストルメント社に製造が委託された。アメリカでは戦前からコダックなど、大手のカメラメーカーがあり、軍用のシグネットや、スピードグラフィックスなどのカメラが製造された。それに加えてライカ型の小型高性能カメラへの軍需ニーズが高かったことから製造に着手した。こちらはLeica IIIaをモデルとした。戦後は、ニューヨークのライツニューヨーク社の全面協力もあり製造が進み、カードンは軍用から転用して民生用として売り出された。もっともカードンの製造台数は限られており、軍用、民生用合わせて2500台ほど。日本のように大量にライカコピーが製造されたわけではない。またイギリスのリードのように戦後長く販売されたわけでもない。戦後はドイツからも本家のライカが入るようになり、さらには戦後復興が急速に進んだ日本からは、安価なライカコピーが輸入されるようになった。一方でドイツコダック(戦争中も存続した)のレチナなどがアメリカで大量に販売されたこともあり、カードンは民生用としては普及しなかった。したがって現在中古で出回っている数にも限りがありレアものとなっている。軍用と民生用で(後述のように)形状が異なっており、これは軍用のカードンである。

軍用は堅牢でヘビーデューティーな作り。メッキは光沢が無く、マットな感じでエッジがたった無骨さがある。使用感はややゴリゴリ感があり、洗練された工芸品というよりは、ロバストな実用品としての工作精度を感じる。当然、軍用であるので、戦場での使用に配慮した様々な工夫が施されている。なんといっても手袋をはめたままでも操作しやすいように多くの改造が施されている。大型のフィルム巻き上げノブ、背の高いシャッターボタン、低速シャッターダイアルのレバー、レンズの距離計ダイアルにはギアーが付いており、フィルム入れ替えの底蓋のロックレバーは、開けやすいようにスプリングで半分浮き上がらせている(アメリカとは思えない細やかな配慮!)。全体としてはメカニカルな「武器」のような風合いのカメラだ。陸軍信号部隊用である旨のシリアルナンバーと機種名プレートが背面に付いている。

レンズはコダック社製のエクターだから写りが悪いはずがない。アメリカ製のエクトラやハッセルブラッドなどのハイエンドカメラに採用されている名レンズ。黒いリングがレンズ先端に取り付けてあり、Made in USA by Eastman Kodak Co. Rochester, N.Y.とある、鏡胴側の絞りリングにはPremier Instrument Corpと刻印されている。ライカの形をしているが、これはアメリカ製であると、アメリカの製造業の基礎体力の充実ぶりを主張しているようだ。



大型フィルム巻き上げダイアル、シャッターボタンはトール型、レンズには距離計ギア、低速シャッターダイアルには突起が付いていて手袋のまま操作しやすくしてある。
無骨で堅牢な作りだ

フィルム交換のための底蓋開閉ノブは半分浮かせてあり、
手袋のままでも操作できるようになっている
ここにまでUSAの刻印が

米陸軍信号部隊用であることを示すプレート
シリアルナンバーが打刻されている
製造メーカーはPremier Instrument Corp.


軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
メッキの質はマット調で工芸品的な美しさはないが、堅牢でロバストな仕上がり
「Kardon USA」のロゴもシンプル。シリアルナンバーなどは打刻されていない

レンズはKodak Ektar 47mm f.2
アメリカが誇る名レンズがついている



3) 日本製 Nicca + Nikkor-Q 50/3.5

Nicca Camera Co.Ltd Tokyo, Japan

1940年、キャノンの前身である精機光学でハンザキャノン製造に携わっていた技術者が立ち上げた光学精機がニッカの前身。戦時中は1942年に軍用に「ニッポン」というライカコピーを作った。これは軍の命令で特許無視で製造したものだ。戦後、1947年に社名をニッカと改称し、民生用に転換して、Leica III(1/500シャッター版)のコピー、Niccaを製造した。以降、改良を加えながらシリーズ5まで製造され、最後はヤシカに吸収されて消滅した。

戦後はニッカの他にも、レオタックス、チヨタックス、タナック、ミノルタ、キャノンなどのカメラメーカーがライカ型のカメラを製造した。1950年代に入るとさらに数多くのライカコピー機(中小のメーカーが多かった)が登場した。日本くらい多品種なライカコピーが作られた国はない。もっともライカコピーとは言っても、外見だけがライカ風で中身はレンズシャッターの廉価版カメラや、なんちゃってライカのトイカメラを含め、ほぼ無数と言って良いほどの機種が生み出された。しかしそれを基礎とし、その中から改良型の高付加価値型のカメラが出回るようになり、やがてMade in Japanカメラとして戦後の輸出花形商品となっていった。その中でもニッカはそれなりの精度と高品位な仕上がりを持つ「本格的なライカコピー」として人気があった。海外でも本家のライカよりははるかに安くて(当時のライカは家一軒買える価格と言われた)、その割には高性能な「日本製ライカ」が売れた。レオタックスと共にライカ型カメラの一時代を形成した。原型モデルのコピー、その改良版、量産化(高品質で安い)という日本のモノ作りの原点がここにある。そうした歴史的な「産業遺産」としても興味深い製品である。しかし、この頃はすでにドイツの本家ライツ社はダイキャスト成形の軽量かつ高剛性ボディーに、高性能な光学ファインダーを搭載したLeica IIIfを市場投入しており、これに比較すると戦前のIII型をモデルにした板金ボディーのニッカはさすがに見劣りするようになっていった。しかも、ライツ社は1956年にはが距離計連動ファインダー付きの、全く新しいライカM3を出し、とうとう日本のカメラメーカーは追いつくどころか突き放されてしまった。ニッカはこの時にはヤシカに吸収され、ヤシカブランドのカメラがやがては世界を席巻することになる。ところで、この究極の距離計連動レンジファインダーを搭載したライカM3のインパクトは強烈で、なんとかライカについてゆこうとしたニコンはこれに追いつけないと観念し、一転、一眼レフカメラに転換して、ついに世界のニコンFになった話は有名。

このニッカのレンズはそのニコンの日本光学のNikkor 50m f.3.5。標準レンズとしてキット化されている。この他にもf.2やf.1.5の高性能レンズもラインアップしていた。この時期、ニッカは日本光学(海軍)のレンズ(ニッコール)を、レオタックスは東京光学(陸軍)のレンズ(トプコール)をつけていた。このニッコールは光学性能が非常に優秀で、欧米市場でもライカレンズに匹敵する高い評価を得始めていた。しかもレンジファインダーの最短撮影距離1mという限界を超えて近接撮影ができる。実際には距離計連動しないので、近接撮影用のスタンドに取り付けて撮影する。ちなみに最近のデジカメに装着すると簡単に30cmくらいまで寄れるので便利だ。日本光学は、秀逸なニッコールシリーズを次々と市場に投入し、ライカと競い合う製品となる。のちにライフ誌のカメラマン、ダンカンによってニッコールが絶賛されて、一眼レフカメラ、Nikon Fと共に世界的にな成功を収めることとなる。このニッカにキットされた標準レンズは、その初期の記念すべきニッコールであった。


上質なメッキと貼り皮
戦後の物資不足の時代の製品とは思えない仕上がり

シャッター速度は500分の一までのIII型初期
Type-3やIIIの刻印がない

軍艦部レイアウトはLeica IIIと同じ

レンズはNikkor 50mm f.3.5
ライカのElmar 50mm f.3.5をモデルにしたが沈胴ではない
この他にもf.2, f.1.5があった

Nikkorはレンジファインダー機の最短撮影距離3.5 feetよりもさらに1.5 feetまで寄れる。
近接撮影モードが特色だが距離計ファインダーには連動しない。
(1.5 feetに設定した状態。鏡胴が伸びている)


こうして振り返ってみると面白い。その後、イギリスもアメリカもカメラ製造事業は縮小してゆき、その一方で日本は世界市場を席巻していった。そのスタートポイントが「憧れのライカ」に追いつけ追い越せで、そのコピーを作るところから始まったことは先述の通りだ。そのライカは、とうとうニコンやキャノン、ミノルタなどの日本のカメラメーカの後塵を拝することとなり、伝統のエルンスト・ライカ社はついにスイスの会社に買収され、創業の地ウェツラー本社を失う事になる。やがて時代はデジタルカメラ時代へ。レンジファインダーカメラから、一眼レフカメラへと進展していったカメラは、ミラーレスカメラへ。コンパクトカメラはスマートフォンにその座を奪われる。さしもの日本のカメラメーカーも勢いを失いはじめ、次々と事業縮小し、ブランドを他社に売却してカメラ事業から撤退するところも現れている。そしてあのライカが、臥薪嘗胆、そろそろと伝統のブランドを生かして復活してきた。Leica Wetzlar本社と赤バッチを復活させた。そうブランド資産は強い。そして今度は宿敵、ニコンやキャノンをミラーレスで追撃し始めている。一方でふと気がつくと家電メーカーであったはずのソニーやパナソニックが、半導体や電子技術やデジタル技術を駆使してデジカメ市場で台頭してきているではないか。カメラ業界の栄枯盛衰。すべてはライカコピーから始まった。その本家のライカはこれからどこへゆくのか。ニコンやキャノンはどう戦うのか。まさか第二の「ライカコピー」時代に入るのではあるまいな。奢れるものは久しからず、盛者必衰の理あり。

(参考文献:「世界のライカ型カメラ」カメラレビュー・クラシックカメラ専科45巻)

(撮影機材:Leica SL2 + Apo Summicron SL 50/2 ASPH)