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2022年3月21日月曜日

戦争の只中に「敗軍の将、兵を語る」書と遭遇するの巻〜「神田古本まつり」「国際稀覯本フェアー」を徘徊する〜

神田古本まつり
コロナ禍のため3年ぶりに開催だ




プーチンのウクライナ侵略戦争は、案の定泥沼の様相を呈し始めている。緒戦で短期間にキエフを占領して民主的なゼレンスキー政権を殲滅し、ロシア寄りの傀儡政権樹立で講和に持ち込む、というプーチン版「一撃講和」作戦は、ウクライナ側の愛国的で頑強な国土防衛戦の前に機能せず、都市における無差別爆撃、市民や避難民を標的にした脅迫戦という、人道上全く容認できない無差別殺戮へと発展しつつある。世界に冠たる(と信じている)ロシア軍が苦戦すると、追い詰められたプーチンは、ジェノサイドや生物化学兵器の使用、果ては核の使用に言及するなど「禁じ手」に発展する危険を孕みつつある。それでもこれは防衛戦だ、ロシア人に向けたテロを殲滅する作戦だ、反ナチの戦いだ、アメリカの生物化学兵器に対抗するものだ云々の偽プロパガンダを用いる。ロシアが伝統的に他国を侵略するときに用いる常套手段だ。そして自国民であるロシア人自身の消耗戦をも厭わないし、膨大な戦死者が出ている戦況劣勢の事実は国民には知らせない。まさに人の命など屁でもない独裁者の時代錯誤に基づく誇大妄想戦争と化しつつある。

ロシア人は過去のナポレオンによる侵略、ナチスによる侵略をとりあげ、ロシアはいつも他国に侵略されてきたきた歴史を持つと主張する。もっともこの2度の侵略に立ち向かい、勇敢に戦ったのはウクライナのコサックであった。しかしそれ以上に、伝統的な南下政策に代表される周辺諸国への領土的野心をあらわにした侵略の歴史を忘れるべきではない。またバルト三国やウクライナ、ジョージア、モルドバ、中央アジア諸国など、戦後我々はその歴史も知らないまま、全部「ソ連」だと教えられてきた地域は、実はそれぞれ独立した別の国であったことを、独立を奪われてロシアに支配された国々であったことを「ソ連崩壊」で知った。ロシアがかつて歴史に汚点を残した数々の戦争。それは、条約を破って同盟国に侵攻する。終戦のどさくさに紛れて火事場泥棒のように他国領土を占領し、そこの住民を拉致してシベリア強制収容所に送る。戦争のためには自国民がいくら死んでも構わない。降伏した友軍を処刑する。そんなことを繰り返してきたことは、いまさら説明を受けなくても、我々がつい最近、身近に経験した悲劇を思い起こせば十分だろう。いまだに北方の島々が不法に占拠されたままである。57万人のシベリア抑留者と、地獄の逃避行。わかっているだけで5万人を超える同胞の死という記憶は日本人の心から消え去ることはない。日本人はこれらは自分達が起こした戦争の結果だから仕方ない、と口をつぐむが、歴史は勝者によって語られるのみで、敗者はその悲劇を語ることを許されないのだろうか。戦争を自己正当化するのではなく、その間に起きた「戦勝国」による数々の非道と理不尽はやはり語り継がれるべきであろう。戦争そのものが非人道的なものなのである。

21世紀になって、今ウクライナで再び侵略戦争が起きている。いやな時代になったものだ。そんなさなか、東京の神田神保町では3年ぶりに古本市が開催された。コロナ渦で中止になっていたが、久しぶりの開催である。コロナ禍や戦争で鬱々とした気分を転換すべく出かけた。前日の雨も上がり、通りには露天のワゴンも立ち並び、大勢の読書家、古書ファンが街を埋め尽くした。久方ぶりに見る街の賑わいである。ウクライナで悲惨な戦争が繰り広げられて市民が苦しんでいるなか、日本では平和な日々を過ごすことができている僥倖に感謝する。しかし、ウクライナは対岸の火事ではない。「今日のウクライナは明日の日本である」:What Ukraine is today is what Japan will be tomorrow.この平和がいつまでも続くよう祈ると共に、過去に学ぶ努力を怠らないようにしたいと強く思う。


そんなご時世の古書街の徘徊、古書ハンティングで出会ったのは、結局、戦争に関する2冊の本だ。どちらもテーマは「敗軍の将、兵を語る」である。


今回の収穫!


1)Stories from Froissart 1832, Barry St. Leger(1733~1793)

1776年のアメリカ独立戦争でイギリス軍の将校としてサラトガの戦いに参戦して敗北したバリー・St.レジャーの著作である。彼はサラトガ戦の敗者として歴史に名が刻まれているが、著作家としても名を残した人物。中世の年代記の作家であるジャン・フロアサール:Jean Froissart (1337~1405)の物語を紹介した本書は示唆に富む本であると思う。かれはイギリスにおける統治者、政治家の意思決定の歴史について振り返り分析している。なかでも戦争はどうやって始まり、どのように終わったかをフロアサールの物語を紹介しながら語っている。特に戦争は始めることよりも終結させることのほうが難しい、ということを歴史的に証明して見せた点が非常に興味深い。フロアサールは14世紀フランスの著述家で100年戦争初め当時の多くの戦争についてイギリス王室の視点から年代記を著した。また、騎士道についても賞賛する著作を多く残し、むしろ王室の戦争を賛美するトーンが目立つ作家である。しかし、St.レジャーは、フロアサールの戦争年代記を勇ましい戦記として取り上げるのではなく、先述のような国家が戦争するということはどういう意味を持ち、どのような影響を及ぼすのかという、為政者、政治リーダーの意思決定のプロセスという視点で歴史を振り返っている。その多くは一部の政治指導者の意地や面子やツマラナイ妄想から始まり、終わりはやはり彼らの面子の張り合いでなかなか終わらないと分析している。そうして戦争が生み出すものは何もない。特に庶民にとっては何の意義もないどころか厄災だけがもたらされるものだと。彼は「戦争」を語るとき、王や貴族や支配者階級の戦争に言及し、庶民の反乱や抵抗運動や、革命については言及していない。まさに今、戦争が専制的な政治指導者の妄想によって何の大義もなく始められ、その為政者の面子のために終わりの見えない泥沼に庶民がズルズルと引きずり込まれてゆく、という歴史が再び繰り返されている。そういう時期に紐解くべき格好の歴史書であろう。




革装の豪華な装丁


表紙



Barry St. Leger



2)The Russian Army and The Japanese War 1909, Алексей Николаевич Куропаткин:Aleksei Nikolaevich Kuropatkin,(1848~1925)

本書は、ロシア軍の総司令官から見た日露戦争の記録である。1909年にロンドンのJohn Murrey社から出版された英語版である。

アレクセイ・クロパトキンは日本人にも馴染みのある帝政ロシアの将軍である。日露戦争時の敵将である。ロシアでは露土戦争で勝利した英雄として人気があり、陸軍大臣まで務めた。1904〜5年の日露戦争ではロシア軍満州軍総司令官として日本軍と戦い、大山巌、児玉源太郎、乃木希典などが率いる陸軍に連敗し、敗北を期した「敗軍の将」である。彼は戦前に日本から招待を受けて賓客として訪問しており、多くの要人と会い、軍事施設も視察している。その経験から、日本の軍事力を高く評価していて日本との全面対決を避けるよう皇帝に進言していた。しかし、皮肉にも日露両国の戦端が開かれると、クロパトキンは満州軍総司令官に任ぜられて日本軍との戦いに臨むこととなる。しかし、結果は連戦連敗で、日露戦争の「関ヶ原」と言われた奉天会戦では優勢であったにも関わらず撤退し、ロシア軍は完敗する。これにより前線から更迭され、総司令官を解任される。彼が、戦後に戦いを振り返り敗戦の要因分析を行ったものである。このように責任者である将軍が自らの戦いを分析し著作にまとめ、後世に引き継ぐという、まさに「敗軍の将、兵を語る」である。史記の「敗軍の将、兵を語らず」の東洋的な思想とは異なるこの「負けいくさを総括して語る」姿勢は重要である。彼はロシア陸軍の「敵を引きつけて殲滅する」という伝統的な戦術(撤退戦も兵力を温存しながら敵を引きつけて撃滅する伝統戦法の一つであった)の誤りと、鉄道を利用した兵站の重要性を説いている。また強大な陸軍を有するロシア帝国の力への過信と楽観主義、偏狭な大ロシア主義的世界観を批判している。ロシア帝国の高級軍人にして陸軍大臣をも歴任した指導的な人物ですら、日本との戦争遂行という国家の意思決定を止めることができなかったし、挙句に実戦で祖国を救うことはできなかった。彼はこの失敗の教訓を後世に引き継ぎ、歴史家にその評価を委ねた。この出版の8年後の1917年にはロシア革命が起き、帝政ロシアは崩壊した。ちなみにクロパトキンは革命による処刑や投獄を免れて、晩年は小学校教師として穏やかな余生を送った。この頃のロシアは軍人としての矜持を持ったこのような人物がいたし、こうした出版ができる国であった。いつ頃からこの国は大義のない殺戮と破壊という戦争をウソのプロパガンダで平然と遂行し、批判も反省も許さない国になってしまったのか。ロシア革命は本当に「徒手空拳のプロレタリアート」を「鉄の鎖」から解放する革命だったのか。この書を読んでふとこのような疑問が脳裏をよぎった、


ロンドン刊 英語訳

Kuropatkin元帥

乃木希典将軍
大山巌元帥

表紙

日露戦争当時の東アジア

この2冊の本とはまさに時宜を得た出会いであったと感じる。St.レジャーについては、これまでなんの知識もなかったが、この時期に人類普遍のテーマである「戦争」について考えさせられる格好の書である。良書に巡り合ったと思う。実はこの著作は書店の店員の勧めで手に取った。彼女はハーバード大学で比較文化人類学を研究する院生でもある。日本の古書店をテーマにフィールドワークのためにインターンとして滞在しているのだという。その彼女の書評とも言える言葉が心に刺さった。よく問題の本質を掴んでいる人の言葉は簡潔で要を得ている。この2冊の熟読玩味はこれからであるが、通読しただけでも人間は本当に歴史に学ばないということがよくわかる。こうした「敗軍の将、兵を語る」は歴史書としては評価されないのであろうか。東洋の思想では「敗軍の将は兵を語らず」で、負けたのにクダクダいうな、とか言い訳するなとか、潔い態度が高潔な人物の証であるかのように崇められるが、全く敗戦に関する反省と責任が論ぜられない点が不可思議である。これに対して西洋の思想ではそのような「潔さ」は評価されない。失敗を繰り返さないための次の一手を考えるためにも歴史の教訓を残すことが重視される。クロパトキンも彼の著作の序文で「これは自分の失敗の言い訳や、行動の正当化のために書いたものではない。この失敗に後世の人々が学び、同じ誤りを犯さないようにするために書いたものである」と。しかし、それでも、その敗戦の歴史に人は本当に学んでいるのだろうか。まさに歴史は勝者のものである。であるから、なかなか人は負けた歴史に学ばない。そう見てくるとまさに人間は古今東西を問わず、いつの時代にもヒトラーや、スターリン、プーチンのような独裁者を生み出し続け、その戦争を止められないという過ちの歴史を繰り返してきた。思い起こされるべきはまさにアメリカ植民地軍に敗れた大英帝国の姿であり、極東の新興国日本に敗れたロシア帝国の姿である。さらにはのちのソ連の崩壊である。そして日露戦争に勝利して有頂天になり「一撃講和」の味を占めた大日本帝国のその後の運命である。でないと専制主義者による「根拠のない楽観主義」が重大な国家の意思決定を支配することになる。その結果大勢の無辜の民が塗炭の苦しみを味わうことになる。そのロシアは再び「過ちの歴史」を繰り返している。

コロナ禍が少し落ち着いて、神保町の久しぶりの活気に身を置いて感じるのは、平和のありがたさと、その平和の脆弱さへの危惧である。平和は努力して守らねばすぐに修羅場に代わってしまうことを、今のウクライナを見ていると嫌でも知らされる。この神保町が市街戦で破壊される姿を妄想することは耐えられない。ウクライナに一刻も早い平和が訪れんことを切に願う。そして子供たちが再び好きな本を手にとって親しむことができるように祈りたい。祈ることしかできないもどかしさ。しかし心から「ウクライナの人々の独立精神に連帯を!」



同時期に開催された「国際稀覯本フェアー2022」
有楽町東京交通会館にて

有楽町駅前の東京交通会館




2022年2月22日火曜日

Nikon Z9試し撮り 〜Made in Thailandのモンスターマシーン!〜



ペンタ部が少し大人になった



フラッグシップ機の証、丸型アイピース復活
メニュー表示はZ7IIとほぼ同じ


軍艦部はそっけない

これはメカシャッターではない。センサー保護用の鎧戸だ

液晶表示
再生ボタンが右下に移動

フラッグシップの証 丸いビューファインダー


液晶画面は4方向チルト

ブラックアウトフリーの電子ファインダーは気持ち良い


遅まきながらニコンZ9が回ってきた。去年の発表以来、人気沸騰で予約が殺到。供給が間に合わず、12月24日の発売日当日に入手できた人はごくわずかという有様だったようだ。しかも世界的な半導体不足がボトルネックとなり生産が滞っているとのことで、次の供給時期は10月と言われていた。期待が大きかっただけに多くの人がガッカリするやら、そんな先ならと半ば断念するやら。ところが突然、2月15日になって世界中でZ9が供給され始めた。もっとも数が限られているようだ。諦めていたところにいきなり「補欠合格通知」。「入学金」をすぐ納めろ!と来た。資金調達が間に合わない。下取りの時間はないので後から機材の売却でキャッシュアウトを補填することにする。取り置き期間が過ぎると次へ回す、と言われるとつい慌てて無理繰り算段するすることになる。バブル期のマンション抽選、購入のドタバタを彷彿とさせる。それにしてもニコンはハイエンド機までとうとうMade in Thailandになってしまった。ライカがMade in PortugalやMade in Canadaをやめて、また内部がMade in Japanであることをひた隠しにしてまで「Made in Germany」に固執しているのに対し、ニコンはあっけらかんとMade in Japanを放棄してしまった。なんともおおらかなことだ。経済合理性優先のコモディティー商材ならいざ知らず、ハイエンドの高品質商材のブランドバリューとは如何なるものか。

それはともかく、このZ9はすごいモンスターマシーンだ。ニコンの渾身の「お道具」登場だ。しかも、これでこの価格は確かにバーゲンプライスだ。スペックや機能、操作性のことはいろいろなレポーターや事情通が既にSNSやYouTubeで語っているし、今更、素人が知ったかぶりを披露するのもなんなのでそちらを読んでほしい。ただやはり、4571万画素という高画素機なのに高速連写、高感度ノイズ低減。ブラックアウトフリーな電子ファインダー、メカニカルシャッターを廃した電子シャッター、被写体に応じたAFの食いつきの良さ、等々。文句の言いようがない。全部ありのモンスターだ。ニコン伝統の縦位置グリップ付きのミラーレスのフラッグシップ機を出してきたということだ。4K、8Kの動画機能までしっかり装備。もっとも私はこれで動画は撮らないが。しかし...

正直言って第一印象は、私のようなアマチュアブラパチ写真家にはハイエンドすぎてオーバースペックだということ。それにミラーレスにしては大きくて重すぎる。ライカSL2が重いなどと言ってる「年寄り」にはムリだ。多分これに大三元レンズつけてご近所散歩なんて、まるでベンツSクラス運転してコンビニに買い物に行くような所業だ。「わきまえよ」と言われそうだ。報道やスポーツ写真や、動物写真や野鳥観察、自動車、鉄道、飛行機などの動きものには最高のマシーンだが、私のジャンルである風景写真にはどうか?高速連写性能やインテリAFが役立つ場面はあるか。いや、まあ風景は高解像な描写性能が大いに役立ちそうで良いだろうが、日常のブラパチには... 人物写真にはどうだろう。もちろんこれ一台でなんでもいけるオールラウンダーには違いないし、なんと言っても所有欲を満たす「お道具」に仕上がっていることは間違いない。ただアマチュアには縦位置グリップのない「Z8」のような機種が出て来ればありがたい。それを待つべきだったか(ちょっと後悔...)。ちょうどD5、D6じゃなくてD850のようなカメラがいいのになあ。それとZシリーズ全体のデザインと風貌は、D6やD850のような成熟した大人のそれではなく、Z7IIに感じたまだ成長過程の青二才ぶりがZ9にも感じられる。Z7IIが18歳とすればZ9はようやく25歳くらいに成長したか。かつてのF3やF5、さらにはDfのような風格と貫禄を身に付けるのはまだまだ先のことなのだろう。

また、いつものことであるが、機能メニューが多すぎる。使い方がわからない機能まで、実に多様なメニューがてんこ盛り。必要な設定を探し出すのに検索エンジンを搭載してくれと言いたいほどだ。選択肢が多いのは良いこと...なのか?設定に手間取るのはどうなのか。マニュアル読まなきゃわからないのは困るが、こんなてんこ盛りなのに最近の流行りでマニュアルが端折られているのはもっと困る。シンプルこそキモだ。結局、道具は使い手が使いこなすもので、道具に使われるものではない。これはライカSLの時にも述べた感想だ。いや、やはりプロ用機材を素人が手にすることが間違いなのだろうと反省する。しかし、Z9を手にしてみるとライカSL2はなんとシンプルで使いやすいカメラであることか!またレンガブロックのような重さもZ9に比べると可愛いものだ。モンスターはオーバースペックになりがちだが、シンプルなモンスターがあることを気付かされた。かつて使い手に阿(おもね)ない「プロダクトアウト型」のチャンピオン、ライカも、ユーザーフレンドリーに成長したものだ。皮肉なものだ。

ニコンの渾身のZ9だが、これがニコンの救世主になるのか?半導体の調達がうまくゆかないという点でもなかなか厳しいものがありそうだ。グローバルなサプライチェーンが混乱するこのご時世にフラッグシップ機の生産を全面的にタイに移してしまう決断も大胆だ。こんな状況で大丈夫なのか。どんなに優れた製品開発しようともキャッシュフローが滞ると経営に影響が出る。資金的に耐えられるのか?人気爆発のZ9が、市場に到達するまでニコンは持ち堪えることができるのか?さらにミラーレスユーザーの裾野を広げるであろう「Z8」の開発に辿り着けるのか?ニコンファンはつい余計な心配をしてしまう。創業の地大井への本社移転(Nikon Park, Oi?)を心待ちにしているのだから頑張って欲しい。事業の持続可能性、ブランド戦略も大事にして欲しい。日本の、いや世界のチャンピオンカメラ、ニコンよ永遠なれ!


取り敢えずの試し撮り:


高画素機なのに高感度ノイズが低く抑えられている
ISO20000で撮影

逆光ではフレアーがよく抑えられている
Zレンズのコーティングが貢献している

順光
高解像で階調が豊か

動体補足能力を存分に発揮する高速連写とトラッキング
ブラックアウトフリー電子ファインダーは素晴らしい!


輝度差が大きくても明部も暗部も階調が潰れない

クロップにも十分対応できる余裕の画素数

ローリングシャッター現象は見られない







2022年2月7日月曜日

古書を巡る旅(20)Treatise of Foods and Drinks:「食料/飲料総覧」 〜貝原益軒「養生訓」との奇妙なリンク?そして古書の謎解き?〜





今回取り上げる古書は、1702年にフランスの王室医師であり、ロイヤルアカデミー会員であったルイ・レメリー:M. Louis Lemery(1677〜1743年)が著した「食料/飲料総覧」を英訳したものである。タイトルは、A Treatise of All Sort of Foods, Both Animal and Vegetable: Also of Drinkables:というもの。人間の食糧となり得る動物や植物、そしてあらゆる飲み物について、その種類や特色、効能を詳細に記述し、健康に良いもの悪いものを明らかにして、どのように選ぶべきかを解説している。176項目を網羅しており、それぞれの食物について過去、現在における著名な医者や栄養学者の分析、評価などを紹介している。当時のいわば健康ブームを引き起こしたベストセラーであったとも言われている。また一種の栄養学全書でもあった。1702年、パリで初版が、そしてその英訳版初版が1704年にロンドンで出された。本書は1745年の英訳版の第二版である。パリ大学自然科学学部、ロイヤルアカデミー、ロンドン医科大学の出版許可:imprimatureに基づく書籍で、現在では入手が難しい稀覯書の部類に属する。著者のルイ・レメリー:M. Louis Lemeryの父は、この時代のフランスの著名な化学者、ニコラス・レメリー:Nicholas Lemery(1645〜1715年)である。

今回は、これまで紹介した文学作品や詩集、評論集、歴史的な人物の評伝、記録とは異なる趣向の古書である。


歴史の同期なのか?

フランスやイギリスでこの本が出版された時代、日本は江戸時代初期。奇しくも貝原益軒(1630〜1714年。筑前福岡藩士で儒学者)が、中国の植物生薬学の体系である本草綱目を和訳、解説した「大和本草」1709年(宝永6年)や、現在にも読み継がれる名著「養生訓」1712年(正徳2年)を著した時期と重なる。薬草、医学、健康と食生活について詳細に記述し紹介し、ベストセラーとなり、一種の健康ブームが起きた時期と一致する。なにかこのレメリーと貝原益軒戸を結ぶ糸があるのだろうか?色々と妄想が膨らませてみた。

考えられるのは蘭学の発展である。日本ではこのころから蘭学が盛んになり始め、長崎経由で入ってきたオランダの医学書を中心に、桂川甫筑がその和訳に取り組んだ時期である。桂川甫筑はのちの桂川甫周を生み出す蘭学者、蘭方医の家系、桂川家の始祖である。また日本における蘭学に大きな影響を与えたケンペル来日の時期(1690〜92年)から10年ほどが経過した時代で、彼の周りで影響を受けた出島出入りの和蘭通詞や若い学生が、蘭学者として育ち始めた時期でもある。しかし、まだまだ日本における蘭学/蘭方医学は黎明期で、日本では圧倒的に漢方医学、本草学が主流であった。貝原益軒の「養生訓」はこうした漢方医学、本草学の知識に基づく著作であることにに加えて、彼自身、朱子学の儒学者であり、儒教的な視点よる健康観、人生観、それに基づく心構えを表したものである。レメリーのようなルネッサンス的な「自然科学」としての医学という観点で分析、評価された食物、健康概念とは異なっている。貝原益軒がこうしたヨーロッパ由来の書籍を入手したり参照した形跡はなく、ましてフランスの医師の著作を目にする機会はなかったであろう(またその逆もなかっただろう)。むしろ貝原益軒の本領は、その儒教的な人生観である。そして人生の晩年の82歳になってから、自らの実践を「養生訓」に著し、その2年後の84歳で亡くなっている。当時としては極めて長寿に属する人生であった。そういう意味においては実証的な記述に徹しているのだが、それはヨーロッパにおける近世前期に起こった自然科学的実証主義ではなく、より東洋的な道徳価値観の実践による実証であった。それが、現代の世の中にも受け入れられ、読み継がれているところが、時空を超えた普遍性を有する所以であるが、それは近代合理主義につながる西欧流の実証主義とは別物であろう。残念ながらレメリーと貝原益軒をつなぐ「糸」があったとは考えられない。

しかし、そうした「糸」は妄想だとしても、全く同じ時期に、全く同じ食物と健康についての書籍が発表され、それぞれの国でベストセラーになったとたことは、単なる偶然とも思えないような気がしてならない。以前のブログで、イギリスと日本での国の形成と文化の発展が、あたかも同期して起きてきたことを見てきた(2020年7月12日「世界史」と「日本史」の遭遇)。ヨーロッパではフランス・ブルボン朝の絶頂期が訪れ、これに対抗したイギリスではエリザベス朝の絶対王政がようやく確立した時期であり、日本では、長く続いた戦国乱世が終わり徳川幕府の成立を見た時期である。そして安定した政治体制に伴い、新しい文化が花開いたことも共通である。そのように、ユーラシア大陸の東の果ての島国と、西の果ての島国で、同じような文化受容と変容と発展あったことは偶然ではない気がする。世の中が多少とも安定しそれなりの平和が訪れると、人は健康や人の生き方に関する関心が高まる。食物が単なる生命維持のための「餌」でないという理解、食べ物が健康や幸福感に直結しているという認識は、やがては食そのものを「文化」の重要な要素に仕立て上げてゆく。文明の発展段階に応じてこうしたことは世界で同期して起きるのだろう。このレメリーの本を古書店で見出したときに、ふと貝原益軒を思い出したのも宜なるかなである。残念ながら歴史的な事実としての「糸」の存在は妄想であろうが、歴史の「水平同期」事象の一つであるのではないかとの「ヒラメキ」は妄想ではないと信じる。


工芸品としての古書

そうした時代の妄想はともかくとして、一方の古書コレクター視点で見ると、この書籍自体が何とも美しい工芸品のような逸品である。産業革命以前の家内手工業時代の手仕事の産物である。この本を手に取った理由は、実はその中身よりは、1700年代という古書としても古い時代のものであることと、その美しい総革の装丁に惹かれたからであった。18世紀前半といえば、日本では、江戸時代徳川吉宗(1716〜1745年)治世、蘭学の発生、先述の貝原益軒のほか、関孝和、西洋紀聞(新井白石)、桂川甫筑、青木昆陽、近松門左衛門などが活躍した時代である。そんな時代のユーラシア大陸の向こうっ側のイギリスで出版されて270年も経過した「骨董」である。書誌学的観点からも、本の装丁の歴史という観点からも興味深い書籍だ。なめらかな仔牛革:Half-Calfの背表紙と表紙/裏表紙に金の文字入れと縁取りという総革の外装。背表紙:Spineと、綴じ:Bindingに独特の処理を施した製法とその結果としてのデザイン。「簀(す)の目」、「すかし」の入った手漉き紙に古い活版印字。全体的に職人が手間をかけて丁寧に仕上げた手作り感満載の工芸品となっている。特に用いられている紙は大量生産が始まる前の家内手工業製品であった時代のもので、リネン、亜麻、木綿などの使い古されたボロ布を溶かして漉いた紙である。むしろ工業製品化され薬品処理された木材パルプ紙に比べ、酸化が少なく丈夫であったと言われている。「簀の目」とは、日本の手漉き和紙と同様、漉きの工程で用いられる簀と糸の模様が紙に写し出されたもの。また「すかし」は、当時の紙漉き職人の印章、または落款のような役目を持っている。この「簀の目入り」「すかし入り」という紙は重要な書誌学的なメルクマールになる。すなわちこれは1750年以前の出版物に使われているもので、出版年代が記載されていなかったり、隠滅している書籍でも、その出版時期を特定する上での重要な判断ポイントとなるほか、後世のコピー本、復刻版、改装本とオリジナル版を見分ける手がかりの一つとなる。それ以前は、書籍には仔牛皮紙:Vellumや羊皮紙:Parchmentが用いられていたが、高価で、書写が中心の時代には修道院や大学で重用されたが、印刷/出版革命をもたらしたグーテンベルクの活版印刷には向かないことから、こうした手漉き紙に置き換わっていった。こうした本の制作過程に用いられる紙素材や、バインディングの形式、活字体、インクなどが、その内容とともにこの書籍が成立した時代を物語る重要な要素になっている。

洋古書の外装は、よく後世に改装されていることがある、外装や綴じは痛みやすいので、その経年劣化を補修したり、蔵書家が貴重な書籍を後世に引き継ぐために換装したり、あるいは書棚を飾る見栄えの良い装丁に作り替えたりしたりした。むしろオリジナルの初版本は簡素な装丁の書籍であることも多いようだ。無論、貴重な古書を修復、復元することも大事な文化財保存活動の一環として行われる。こうした書籍装丁の専門業者がヨーロッパにはあったし、今でもその伝統の技を引き継いで、古書の修復、装丁直しを手がける専門家がいる。イギリスのCraft Bookbinderと呼ばれる業者がそうだ。彼らが換装した古書が、オリジナルよりも高価な本に生まれ変わることすらある。こうなるとまさに「本」という伝統工芸作品工房、アート・アンド・クラフト活動と言って良いだろう。ちょっとジャンルが違うかもしれないが、日本の伝統工芸の一つである「金継ぎ」の(リユース)発想と相通じるものがあるのかもしれない。本書の場合、おそらく外装はオリジナルではなく、後世に換装されたものであろう。しかし、先ほどのもろもろの要素を勘案すると、外装の仔牛皮素材やバインディングの形式、また裏表紙に用いられているやや新しい紙素材(これも「簀の目」「すかし」入り)から見ると、比較的古い時代(18世紀中)に換装されたと考えられるのではないだろうか、ないしは、所有者がオリジナリティーを尊重して、わざわざ古紙となっている「簀の目」「すかし」入り紙を注文し、バインディングも当時も様式を指定したのかもしれない。数寄者はいろいろこだわるものだ。しかしそうして歴史的な価値のある書籍を後世に残し、文化価値の繋いでゆくことも数寄者の役割と言って良い。その古書の成り立ち、推移を辿りながら色々と推理し、妄想するのもまた古書の楽しみの一つだろう。


表紙
19世紀以降の書誌事項:Colophon表記デザインと大きく異なる




総革張りに金文字


バインディング(綴じ部分)とトップエンドの処理は18世紀書籍の特色の一つ


黒と赤のインクで印刷している珍しい物


「簀の目入り」「すかし入り」手漉き紙を用いている
すかしの方は紙の職人が自分の製品であることを示す印章、花押のようなもの

2022年1月22日土曜日

古書を巡る旅(19)「Verbeck of Japan:フルベッキ伝」W.グリフィス著 〜『フルベッキ』とはオレのことかとVerbeck云い〜




「Verbeck of Japan」1900年 New York
William E.Griffis




フルベッキ肖像




表紙

フルベッキ夫妻

幕府の長崎英語伝習所「済美館」門弟との集合写真


大学南校(帝国大学の前身)学生の集合写真


「ギョエテとはオレのことかとGoethe:ゲーテ云い」。戦前の旧制高等学校の学生が西欧人の名前の表記を皮肉った川柳。そのまま今日取り上げるフルベッキにも使える。「フルベッキとはオレのことかとVerbeck:フェルベック云い」。外国人の名前の日本語での読み、発音はなかなか難しい。特に幕末から明治の頃の日本人にとっては聞きなれない名前に大いに戸惑ったことだろう。その時代の人が耳で聞いた「音」なのか、文字を自分流に読んだ結果なのか、思えば奇妙な表記である。本人も「それってオレのこと?」と、びっくりしていることだろう。他にもコンドル先生はConder:コンダー、モース先生はMorse:モールス(モールス信号と同じ)、ヘボン先生はHepburn:ヘップバーン。ともあれ、ここでは歴史教科書で呼び習わしている「フルベッキ」で統一しておこう。

さて、いつものようにインスタ「映える写真」をチラチラと眺めていたら、お馴染みの神田神保町の北澤書店のサイトに、この「Verbeck in Japan」の書影が掲載されているのを見つけた。先述のようにVerbeckといっても誰のことかわからないが、フルベッキといえば幕末明治に活躍したお雇い外国人だと聞いたことくらいはある人も多いだろう。フルベッキ関連の書籍は貴重本だ。あまりネット検索してもお目にかかることはない。後述のように、フルベッキ自身は自叙伝を書いていないし、彼の評伝もその存在があまり知られていない。旧約聖書の和訳という大きな業績はあるが、彼自身については日本語版は研究者向けの専門書が刊行されているだけである。先日紹介した英国公使ハリー・パークス:Harry Parkesの評伝と同様、自分自身の記録を残していない明治の外国人は思ったより多い。早速、書店に出掛けてみた。若店主に「古書店がインスタ使うなんてなかなか撒き餌が上手いなあ。すぐに獲物が食らいついてきたね」と冷やかすと、「一発狙いで見事に釣れました!」と一言。まんまと術中にハマったのだが、釣られる獲物が喜ぶ撒き餌というわけだ。今回、ウィリアム・グリフィスの著作が3冊入ったとのことで、その一冊が「フルベッキ伝」であった。さすが面白い本を見つけてくるものだ。本書は1900年ニューヨークで刊行された初版本である。表紙にはフルベッキが明治天皇から叙勲を受けた旭日章が配されている。


(1)フルベッキの略歴

で、フルベッキとは一体何者? 聞いたことはあるが、実はどのような人物か知らないという人が大方ではないだろうか。まずは略歴を紹介。

 Guido Herman Fridolin Verbeck (Verbeek)(1830〜1898年)

名前の表記は、オランダ式にはフェルベックまたはフェアビーク、英語式にはヴァーベックであるが、日本では「フルベッキ」と表記されている。オランダ人でアメリカに移住。そこで神学教育を受け、宣教師として幕末に来日。そして日本で波乱の生涯を終えた。彼は日本滞在が長く、オランダ、アメリカともに国籍を失い、無国籍となる。この本のタイトルも「Verbeck of Japan A Citizen of No Country:国籍を持たない市民 フルベッキ」となっている。

1830年オランダユトレヒト生まれ。プロテスタント・モラビア派教会で洗礼

1852年 親戚を頼って渡米。ニューヨークへ

1855年 ニューヨークの長老派オーバン神学校入学

1859年 卒業とともにオランダ改革派教会宣教師に叙任され、同年結婚とともに日本へ

1859年(安政6年)11月上海経由で長崎に

日本は五カ国との通商条約は締結されてはいたものの、いまだキリシタン禁教が解かれておらず布教はできなかったため、長崎にて私塾を開きで英語を教えた。この時に大隈重信、副島種臣が教えを受けた。

1864年(元治元年)幕府の長崎英語伝習所(のちに済美館)が開設。その英語教師に就任。済美舘では何礼之、大山巌などが学んだ。何礼之は私塾を開きフルベッキの指導を仰ぎながら多くの人材育成に努めた。この頃、勝海舟、小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎、横井小楠などとも長崎で出会っている。

1867年(慶応3年)佐賀藩主鍋島直正が、長崎に藩校「蕃学稽古所」「致遠館」)を設立。そこへ招聘されて英語、政治、経済について講義。大隈重信、副島種臣も受講する。佐賀藩の江藤新平、大木喬任、さらには伊藤博文、大久保利通、加藤弘之なども学んだ。1868年には岩倉具視の子、具定、具経が門弟となる。この藩校の集合写真が、後述の「フルベッキ群像写真」(上野彦馬撮影)として話題になる。

1869年(明治2年)明治政府より招聘されて大学設立に参加。開成所の教頭、大学南校の教頭を務めた。1872年にグリフィスを福井から呼び寄せて化学の講義をさせた。

1871年の岩倉欧米使節団派遣を建議、支援。同年明治天皇より学術への功績に対し勅語を賜る

1873年(明治6年) 政府左院翻訳委員、さらに1878年には元老院に

1874年(明治7年)米国ラトガース大学より神学博士号授与。

1877年(明治8年)叙勲 勲三等旭日章

1878年(明治11年)アメリカへ一時帰国

1879年(明治13年)再来日。官職を退き、宣教師としての活動に専念。

1886年(明治19年)明治学院開学。理事、神学部教授に。

1888年 明治学院理事長就任

1898年(明治31年)東京赤坂の自宅で死去(享年68歳) 青山墓地に埋葬


(2)幕末/明治初期の教育、人材育成に貢献

略歴に述べたように、フルベッキは宣教師として1859年(安政6年)に来日した。開国後の安政五カ国条約が締結された後ではあったが、いまだキリスト教禁教令が解かれておらず、布教活動ができなかった。よって長崎では私塾を開設して英語を教えた。江戸時代を通じて西洋の外国語といえばオランダ語であったが、幕末の世界情勢は、もはやオランダ語が通用する時代ではなかった。幕府にとっては英語の習得が喫緊の課題であった。こうした情勢下ではフルベッキのようなオランダ語と英語の双方を解する外国人は貴重であったことだろう。このように幕末の長崎で、済美館、致遠館で英語や政治、経済、理学などを教え、その教え子が、のちに維新や新政府で活躍する。維新後は、明治新政府の要請で東京へ移り、開成所/大学南校の教師、教頭として教鞭をとった。のちに新政府が海外から雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」とは異なり、維新直後には幕末に来日していた宣教師を大学教師に招聘するケースが多かった。明治新政府になってから「お雇い外国人」として欧米からやってきたチェンバレンやコンドル、モースなどは、これからは宣教師ではなく、専門的な知識と実績を有する人材を大学教師として招聘すべきである、として、学界や実業界からの人材を推奨した。しかし、大学創設黎明期にあっては、幕末を知るフルベッキのような宣教師たちの功績は大きく、英語だけではなく、これまでの蘭学の世界を超えた新しい西欧文化の講義は、維新を進めたリーダーたちに大きな影響を与えた。また多くの若手を欧米に留学させた。発展段階に応じた教育人材登用としては適切であったろう。大隈重信はのちにフルベッキを早稲田大学の建学の祖として「彼が来日していなければ今日の早稲田大学はありえなかった」と賛美している。またジェームス・ヘボン:James C. Hepburnとともに明治学院の創設に関わり、神学部教授、理事、のちに理事長となっている。日本におけるミッションスクール創設の先駆けとなった。


(3)大隈重信と岩倉使節団とフルベッキ

フルベッキは長崎「致遠館」以来の大隈重信との信頼関係が強かった。のちに彼は「私の友人の中には大日本帝国の首相とした活躍した大隈重信がいた」と手紙に書いている。フルベッキが大隈重信に対して条約改定建白書を提出していたのを岩倉具視が知ることとなり、これを契機に欧米との条約改定再交渉を目指す使節団派遣が前へ進んだと言われている。しかし、フルベッキの門下生が多かった佐賀藩出身の大隈、江藤などの使節団への参加はなく、大久保、木戸などの薩長出身者で固められた。留守政府を預かった大隈、江藤、西郷などが、岩倉の言い置きを守らずに、留守中に朝鮮開国交渉やさまざまな改革断行を進めたことが政変のトリガーを引き、留守政府要人の多くが下野し、やがては江藤新平の佐賀の乱、西郷隆盛の西南戦争に繋がってゆく。このことはフルベッキを驚愕させた。また、この使節団には多くの留学生が同行した。彼らは欧米の政治思想、啓蒙主義や、哲学を学んで帰ったものも多く、中江兆民のように自由民権思想を学んで「東洋のルソー」と称された思想家も生まれた。これもフルベッキの考えた新しい日本の姿の一つであったはずだが、薩長藩閥政府にとっては歓迎されないものであった。明治14年の帝国憲法制定の草案論争では、伊藤博文主導のプロイセン型憲法草案が主流となり、イギリス流立憲君主制やアメリカ型の自由主義的な色彩が盛り込まれることはなかった。結局、大隈も副島も下野してしまい、フルベッキも二度と政府の官職にはつかなかった。彼はこののち布教活動とミッションスクールの創設に傾倒してゆく。


(4)もう一人のジャパノロジスト、ウィリアム・グリフィス

William Elliot Griffis (1843~1928)


フルベッキ自身は自叙伝や評論を出しておらず、書簡以外は著作も少ない。本書も彼の大学の後輩であるウィリアム・グリフィス:William Elliot Griffisによる評伝である。もしグリフィスがこの評伝を書かなかったらフルベッキの明治日本における功績は忘れ去られていたかもしれない。彼は本書の冒頭で「フルベッキ無くして今の日本はありえない」と言い切っている。幕末期から英語を教え、帝大創設期に教鞭を取り、欧米への視察、留学に尽力し、日本にミッションスクールを創設するなど、近代日本を担う若き日本人の育成に多大な功績を残した。こうした記録と評伝を後世に残したグリフィスの功績をも高く評価したい。

このウィリアム・グリフィス(1843〜1928年)も明治期のジャパノロジストの一人である。日本に関する多くの著作を残しており、The Mikado's Empire, Japanese Fairy World, Japan: In History, Folk-Lore, and Artなどがある。他にもペリーやハリスの評伝を表している。彼は帝国大学で教鞭を取り、多くの門弟を輩出している。アメリカ・ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系のラトガース大学卒業。そこで教鞭を取る。福井藩士で幕末に幕府留学生としてラトガース大学に留学していた日下部太郎の縁で、1871年(明治4年)日本に渡り、福井藩藩校「明新館」で1年間理科(化学と物理)を教えた。版籍奉還で福井藩が無くなると、1872年(明治5年)フルベッキの要請で大学南校へ移籍。物理と化学を教えた。帰国後は宣教師となり、日本に関する著作の執筆や講演に精力的に取り組んだ。「The Mikado's Empire;皇国」は彼の代表的な著作である。グリフィスの功績の一つは、幕末/明治期の「お雇い外国人」の記録を後世に残すべく、1858〜1900年の間に日本政府に雇われて来日した外国人の資料を収集し整備したことである。このために本人だけでなく、その子孫や親族、教え子や友人などの関係者を巡り、聞き取りや手紙、日記などの資料収集に努めた。本書、Verbeck of Japanもそうした研究をまとめた著作の一つである。この一連の資料と、グリフィスが収集した膨大な日本関係資料が、母校ラトガース大学図書館に保管されている。

この日下部太郎も、留学前に長崎の「済美館」でフルベッキに英語を学び薫陶を受けている。しかし、ラトガース大学留学中に結核で夭折。グリフィスはその才を惜しみ、名誉学位を授け、卒業生名簿にその名を残した。彼の墓はニュージャージーにあり「日本国福井藩士日下部太郎墓」と日本語で墓碑銘が刻まれている。歴史の表舞台でハイライトを浴びる英傑ばかりが近代国家建設の黎明期に活躍したわけではないこと、志半ばで異国の土となった若き「命」があったことを改めて知る。奈良時代の遣唐留学生で、唐土に短い人生を終えた井真成(いのまなり)のことをふと思い出した。ここでも彼の才を惜しんだ唐人によって墓碑に刻まれた「日本国留学生井真成墓」の文字と、彼を讃える玄宗皇帝の勅辞が見つかっている。


(5)いわゆる「フルベッキ群像写真 維新の英傑が全員集合」とは

フルベッキといえば、テレビの「歴史探偵モノ」番組や、幾つかの「トンデモ歴史本」で話題になった「フルベッキ群像写真」が知られている。ネットで「フルベッキ」で検索すると、ズラリとこの種の集合写真関連記事が出てくる。「幕末明治維新の志士揃い踏み写真発見!」とか、「フルベッキを囲む集合写真の名前が解明された。なんと!ここに写っているのは全員、誰もが知る維新英傑である」といった類のハナシ。「西郷隆盛の顔写真ついに発見!」なんてキャッチや、実はフルベッキはフリーメーソンで、これはその集合写真だという「陰謀論」めいたハナシ、果ては、若き明治天皇も参加していて写っていた!etc,etc,etc... 全員の名前を記した写真が新聞紙上を賑わしたり、お土産屋で売られたりしたこともある。詳細をここでこれ以上説明するつもりはない。写真はリアルだが、この「全員集合」バナシはフェイクである。この写真は先述の長崎の佐賀藩藩校「致遠館」の生徒の集合写真で、1867年(慶応3年)ないしは1868年(明治元年)に上野彦馬が長崎で撮影したものである。したがって、そもそも高杉晋作や坂本龍馬が写っているはずがない。人物が特定できるのは大隈重信、副島種臣、岩倉具視の子息二人だけである。もっとも最近の研究で幾人かの佐賀藩士が追加で特定されており、明治新政府に出仕して活躍した人物であることがわかっている。ちなみにこの写真は本書には掲載されていない。代わりに、同じ場所(上野彦馬の長崎のスタジオであろう)で撮影された幕府学問所「済美館」生徒の集合写真(上記写真参照)が掲載されている。もし「致遠館集合写真」が本当に「維新群像揃い踏み」写真であれば、グリフィスは必ず本書に取り上げていたはずだ。掲載しなかったということは、少なくとも彼は、この集合写真がそのような「貴重な」写真であるという認識は無かったことになる。歴史の世界には面白おかしい「トンデモ話」が創作され、それがさもホントのように出回りがちであることを知っておくべきだろう。そんなことで有名になっているフルベッキ。草葉の陰で泣いていることだろう。この際、あらためて彼の本当の姿を知ってもらいたいものだ。

    「この写真、オレの写真かと西郷云い」

以上。


佐賀藩長崎藩校「致遠館」集合写真

維新群像写真として名前を記したフェイクリスト

長崎市に残る「致遠館」跡