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2022年4月16日土曜日

新緑の太宰府路(2)〜太宰府天満宮はクスの巨樹の大海に揺蕩う〜

続・新緑の太宰府路 太宰府天満宮編

大宰府政庁や観世音寺、戒壇院、学業院などの古代大宰府都城の中枢部から離れ、条坊の東北の郭外に位置する太宰府天満宮に移動する。観光客は太宰府というとこちらの天満宮を想起するであろう。西鉄の太宰府駅もこの参道の入り口に位置している。しかし、ここは本来の太宰府の外れであることを知っておいていただきたい。菅原道真公はこの地に没し、現在の天満宮のある場所に埋葬された。その天満宮の門前町として発展したのが後世の太宰府である。一方で菅公没年の250年以前から存続した「遠の朝廷(とうのみかど)」の中心部は、ここから西にあったがその後徐々に廃れていった。みやこの中心が時代と共に「東」へ遷るのは、平城京(奈良)や平安京(京都)においても同様である。これは単なる偶然なのであろうか。


太宰府天満宮

ご祭神は菅原道真公。非業の死を遂げた道真公はこの場所に埋葬されており、そこに菩提を弔う安楽寺が創建、そして神仏習合で安楽寺天満宮となった。しかし、明治になると今度は神仏分離で現在の太宰府天満宮となる。学問の神様として全国の受験生に絶大なる人気を誇る。福岡の観光名所としても絶対一位の人気スポット。天満宮は「飛梅」など梅が有名だが、この季節は巨大なクスの樹の新緑が美しい。まさに境内は「巨樹の大海」に揺蕩う神域となっている。 


太宰府天満宮楼門と大クス

天満宮参道
コロナ以前はインバウンド観光客で賑わう観光地のメインストリートであったが、
最近は落ち着いている

参道に出現したスタバ
隈研吾設計

延寿王院
天満宮宮司西高辻家(菅原道真公の直系末裔)邸
幕末には「七卿落ち」の滞在先となった

赤い太鼓橋

太鼓橋を二つ渡ると楼門だ

楼門


本殿
小早川隆景創建
この本殿の下に道真公が眠る

この日も修学旅行生で賑わっていた

神域全体は樹齢数百年を超える大クスの杜である

巨木の杜と太鼓橋



夫婦楠
本殿の背後に聳り立つ

天満宮といえば牛

多くの文豪に愛された「お石茶屋」

光明禅寺へと続く道

名物「梅ヶ枝餅」

太宰府へは西鉄電車「旅人」で



(参考)

大宰府条坊制と天満宮、博多津、鴻臚館、水城の位置関係

(太宰府市教育委員会文化財課資料より)





(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

2022年4月15日金曜日

新緑の太宰府路(1)〜都府楼、観世音寺、戒壇院界隈散策〜

 久しぶりに仕事と墓参を兼ねて福岡に行った。雨が心配されたが、日頃の行いが良いせいかその懸念も払拭され、天気は薄曇りから晴天へ。しかも気温が25度を超える真夏日のような毎日で久しぶりに汗をかいた。なにしろコロナ禍による旅行自粛で3年ぶりの墓参り。その後足を伸ばして、筑紫路太宰府の新緑の季節を堪能した。その故郷の風景は、「コロナ巣篭もり」でのストレスフルな生活や、都会の喧騒、職業病としての資本主義的合理性に疲れた心に、忘れていた遠い昔の潤いを思い出させてくれた。特にこの季節、桜狂想曲も終焉を迎えた風景に鮮やかに輝く新緑が目に沁みる。さすが九州、早緑色のクスの巨樹は特に印象的である。大野城の山肌を彩る新緑のグラデュエーション、筑紫の古都に華やぎを与えてくれる青紅葉、山藤と菜の花、レンゲの彩。ツツジも咲き始めている。今回は歴史散歩ではなくて新緑探訪。歴史のウンチクは手短にして写真中心に現地の春をお届けしたい。ただし今回は「令和の里」坂本神社(大伴旅人居館跡)と水城には足を伸ばさなかったので悪しからず。なお「太宰府天満宮編」を、次回に続編としてアップする予定。


都府楼跡(太宰府政庁跡)

遠の朝廷(とおのみかど)大宰府政庁跡。創設時期は実は不明だが、記録に残るものとしては664年、白村江の戦いののち、博多湾岸にあった糟屋の官家を内陸の現在地に移し、水城、大野城、基肄城を築いて防御の要としたとある。しかし、それ以前から大陸との交易、防衛、西国統治の拠点としてなんらかの出先が設置されていたようで、幾度かの建て替えがあり、平安時代末期までこのような広大な官衙があった。その長官は大宰の帥。皇子や摂関家のから任命される高位高官。実際には現地に赴任しない遥任官であった。現地へ赴任したのは太宰権帥(次官)で、吉備真備、大伴旅人、菅原道真が有名。平清盛は大宰大弐(ナンバースリー)で、博多での対外交易を独占した。最後の大宰の帥は幕末の有栖川宮熾仁親王。今は広大な敷地と建物の配置がわかる礎石群が残されているのみだ。


大クスの新緑と背後の大野城(四王寺山)の山肌のグラデュエーションが美しい




大宰府政庁の礎石群

都府楼の山藤


新緑と山藤のアレンジメント



山椿の落花

太宰府歴史の散策路

学業院跡

学業院跡に建つ山上憶良「貧窮問答歌」歌碑


クスの新緑を見ながら散策する

散策路にはお大師様の祠も

観世音寺の北を守る日吉神社
豊臣秀吉ゆかりの神社





観世音寺

奈良時代、中大兄皇子により、母である斉明天皇の菩提を弔うために建立された筑紫最古、最高位の官寺。聖武天皇によりに日本三戒壇(大和東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺)が制度化され、鑑真により公式に授戒を行う戒壇院が設けられた。菅原道真の漢詩にも歌われた梵鐘は日本最古のもの。妙心寺の梵鐘と兄弟鐘。現在は創建時の伽藍は残っておらず、礎石により、その広大な寺域と隆盛を偲ぶのみである。現在の講堂、金堂は江戸時代に再建されたもの。ご本尊は聖観音。巨大な立像三体(馬頭観音、不空羂索観音、十一面観音)を含む仏像群は戦後に新設された宝蔵に収められている。


観世音寺講堂

参道は新緑のトンネル

講堂と青紅葉


鐘楼
日本最古の梵鐘は九州国立博物館に収蔵されている

観世音寺僧坊跡

観世音寺収蔵庫





青紅葉


観世音寺石仏群




戒壇院

先述の通りかつては観世音寺に設けられた戒壇院。観世音寺の西隣に位置している。この配置は東大寺と戒壇院の配置と同じ。聖武天皇により開かれた日本三戒壇(僧侶に正式の受戒を行う)の一つ。現在は博多の栄西創建の臨済宗聖福寺の末寺となっている。現存する建物は江戸時代の再建によるものだが、寺域はほぼ当時のままで、観世音寺よりは明確な形で現在まで引き継がれている。



境内のクスの巨樹

山門

築地塀





観世音寺側の門

正面の山門


(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor 24-120/4)

2022年4月4日月曜日

ロシアとウクライナは兄弟国? 〜無知と偏見が世の中の正しい理解を妨げるの巻〜

 

兄弟国?

ウクライナ軍よって奪還、解放されたブチャの街
残されたのは大量のロシア軍の戦車の残骸だけではない。
虐殺された大勢の市民の遺体が見つかった。明白な戦争犯罪だ。
(BBC Newsより)


ニューヨークに赴任中、ミッドタウンにある高層アパートに住んでいた。オフィスにも近くイーストリバーを望む快適な住環境であった。国連本部に近いこともあり住人は多国籍で、アパート内のコミュニティーとしての繋がりも大事にされていた。さながらグローバルヴィレッジといった感じであった。アパート自体はサービスが充実していて、ドアボーイ、コンシェルジュ、フロアマネジャーなど、皆フレンドリーで気持ちの良い人たちであった。水回りや電気系統、エアコン不調など生活の困りごとや修理などをやってくれるハンディーマン。それを束ねるスーパーインテンダントは、フロントやコンシェルジュとは少し雰囲気が違い、どこか屈強なシュワルツネッカーのような男であった。彼にある仕事を頼んだ時に言葉を交わした。彼は「日本人か?」と聞く。「東京から来てマンハッタンで仕事している」と自己紹介した。すると彼は「あなたはロシアを好きか?」と唐突に聞いた。ちょっとびっくりしたが、外交辞令的配慮が咄嗟に働き「かつてのソ連の体制には賛同できないし、日本とは過去に因縁があるのでその政治体制には違和感があった。しかし、今のロシアは変わった」と言った。すると彼は「ロシアは悪いことをいっぱいした。何も変わっていない。日本人なら知ってるだろ」とボソッと言った。話しをするうちにうちに彼はロシアの支配と理不尽な仕打ちから逃れてアメリカに来たウクライナ人であることを知った。彼は元ウクライナ空軍のパイロットだった。なるほど武ばった感じなのはそのせいか。しかしそんなエリート軍人だった彼がなぜニューヨークでアパートで裏方の仕事をすることになったのか。その事情を詳しくは語らなかった。移民の国なので色々な国から来た人がいても不思議ではない。それにしても「ウクライナはソ連でしょ」、「ウクライナ=ロシア」的な理解しかなかったわたしにはショッキングな会話であった。旧ソ連圏内の国出身の人のこんなに直接的な反ロシア感情に接したのは初めてであったからだ。似たようなことはヨーロッパにいた時も経験した。フィンランドのヘルシンキはロシア文化の影響を色濃く残す美しい街であるが、ロシアへの複雑な感情をあらわにする場面に幾度か出くわした。その多くは「あなたのような日本人には言える」というようなロシアをからかうジョークだった。ロシアバルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎は今でもフィンランドでは英雄である。TOGOというブランドのビールがある。またポーランド出身の仕事仲間は、しきりにソ連圏時代のポーランドを暗い記憶として語っていた。彼らは何かしらロシア文化にノスタルジーを感じているのかと思ったがそうではなかった。旧ソ連圏の国の人々を「鉄のカーテンの向こう側の人たち」として一括りにし「一般化」:Genaralizeすることの過ちを悟った。一方でロシア人のイメージが変わる経験もした。顧客のIT部門のマネジャーはロシア出身であった。彼はアメリカの大学で学んだ技術者であったせいか、屈託のないフレンドリーな若者であった。若いのでソ連時代を記憶していない。むしろ完全に今時のニューヨーカーであった。あの満州に侵攻してきたソ連兵のイメージ、我が一族の歴史に悲しい記憶として消すことのできない「シベリア抑留そして遺骨も帰らない一片の死亡通知」という残忍で野蛮なソ連のイメージしかなかったのだが。ソ連とかロシアとか十把一絡げにしての偏見と理解は正しくない。スターリンやプーチンのような独裁者のイメージが強いが、少なくとも「国家」と「市民」をキチンと分けて理解しなければならないと思った。

あれから10年。ウクライナ騒乱、いわゆる「マイダン革命」(2013〜14)で親露派のヤヌコービッチ政権が倒され、ロシアへ亡命したのちに、これに対抗してプーチンが親露派が多いとされるクリミア半島を一方的に併合し、東部ドンバスの分離独立を画策して武力介入した。このロシアのウクライナ侵略が戦乱の始まりであったといって良いだろう。混乱を避けるためにイギリスやアメリカへ避難してきたウクライナ人が大勢いた。いまウクライナ人が流暢に英語を話し、盛んに情報発信することができるのに驚く日本人も多いが、それは彼らは鉄のカーテンの向こうの英語や欧米文化とは隔絶されたロシア語文化圏の地域の人たちであるという偏見に基づくものだ。彼らにとって英語は、今や母国語ウクライナ語に次いで生きてゆくために必要な言語になっている。むしろロシア語よりもそうである。それがプーチンにとって気に入らないのであるのだが。ちなみにこの時のプーチンの一方的クリミア併合には欧米諸国が足並みを揃えた対応ができなかった。そして国連も機能しなかった。マスメディアも徐々に興味を失っていった。

このようにウクライナとロシアは歴史的にも別の国、別の民族であることを後になって知った。「旧ソ連」と一括りにした理解のいい加減さ、無知と偏見を恥じるばかりだ。中国だって、中国共産党という専制的な「支配王朝」を一皮捲れば、その中身は歴史も価値観も宗教も異なる多様な国と民族に分かれた「連邦国家」である。チベットもウイグルもモンゴルもマンチュリアもタイワンも、元はと言えば異民族。その他にもほとんど無数と言って良いほどの少数民族がいる。そうした異民族と漢民族の攻防の歴史が中国史であることを観念的には知っていても、それが現代政治に与える影響の理解には至っていない。しかし、このことから習近平の「偉大なる中華民族」などというプロパガンダがフィクションであることは明らかだ。プーチンの汎ロシア、ヒトラーの汎ゲルマンと同じプロパガンダだ。ウクライナの人々がこれほどまでにゼレンスキーの元に結束してロシアに徹底抗戦するのか、その力の源泉はこうした「汎ロシア」に対する民衆の抵抗と独立の歴史にあった。

ロシアのウクライナ侵略開始から40日になる。当初は2〜3日で首都キーウ(キエフ)を陥落させてゼレンスキー政権を打倒し、ウクライナ全土を支配下に収めると考えていたプーチンの戦略は見事に外れた。ロシア侵略軍はキーウ周辺から撤退を余儀なくされ、東部に力点を移す戦略に転換中だ。そして東部を制圧したのち今月中にはロシア国内向けには「勝利宣言」を出す、という笑止千万なプロパガンダを用意しているという。戦時中の大日本帝国大本営陸海軍部発表 ”彼の地における作戦を概ね完遂したのでガダルカナルから「転進」する” というのと同じ類の発表だ。敗退や全滅の事実を国民に知らせない情報統制国家の常套文句である。ロシア軍が撤退したキーウ州の街ブチャでは虐殺された市民の累々たる遺体が残されていた。思わず目を覆いたくなるような凄惨な光景だ。これは紛れもなくジェノサイドだ。明らかな戦争犯罪行為の証拠がテレビやSNSを通じて世界に配信された。それでもロシア側はこれをウクライナと欧米の「捏造」だと強弁する。これまで幾度もウソをついてきたロシアの言葉をもはや世界の誰もが信じることはない。かつてのナチに勝るとも劣らない犯罪行為。これがプーチンのいう「ナチからのウクライナの解放」の現実の姿だった。

前述のように、今回プーチンは偉大なるロシア帝国の復活。ロシア語を話す民族はみんな血族である!との妄想に基づき、「ロシアとウクライナは兄弟だ」と言い出した!「兄弟をナチから守る戦い!」だと。しかし、今やウクライナ人はそんなフィクションには全く耳を貸さなくなった。むしろ今回のプーチンのウクライナ侵略で明確にロシアはウクライナの敵だと認識した。プーチンの戦争はウクライナ人のアイデンティティーをより強固にした。それを国際社会が一致結束して支持している。皮肉なことにウクライナを「ナチ」から守るための戦争だ!とするプーチンの戦争ロジックが、ウクライナの人々のロシア離反を決定的にした。そしてロシアの衰退を決定的にした。人の言葉に耳を傾けないプーチンの妄想を根拠としたずさん極まりない作戦による戦争の結果だ。こうした試みを徹底して挫く。これが今後の世界の平和にとって重要だ。「武力による一方的な現状変更は絶対に成功しない」ということをはっきり証明させなければならない。

しかし、なぜプーチンのような時代錯誤な誇大妄想を抱く独裁者が生まれたのか。それは35年前の冷戦終結後の西欧諸国、米国の、旧ソ連圏の民主化への対応の誤りに遠因がある。あのとき、東欧までは民主化を支援し、復興を支援し、EUやNATOへの加入を進め、ヨーロッパの一員として迎え入れた。そして旧ソ連邦構成国であったバルト三国やウクライナ、ジョージアの民主化まで広がったが、しかし本丸の「ロシアの民主化」には冷淡であった。これがゴルバチョフ、エリツィンを失脚させ、プーチンを産み、やがて彼を孤立化させ、西側への反発、やがては汎ロシア主義、偉大なる大ロシア帝国の妄想へと発展させた。この西側諸国、アメリカの責任は大きい。あの時、ドイツを追い詰めてナチスによるファシズムの台頭を許してしまった歴史の教訓は生かされたのだろうか。だからと言って、プーチンはこのウクライナ侵略の責任から逃れることはできないし、彼がロシアを衰退の道に導き、「偉大なるロシア帝国」とは真逆の道を歩むことになってしまった責任を負わねばならない。しかし、追い込まれた独裁者の核保有国は危険だ。ロシアの北朝鮮化だ。今度こそ民主主義国家に転換する仕掛けと支援が大事だ。そしてロシアの市民は独裁者を許している以上は、共に責任を負わされる事を知らねばならない。中国共産党の専制主義体制、権威主義的なアプローチが間違いであることを中国の市民に気づかせるためにも絶対に必要だ。これは結局、国と国との戦いであるよりは、国を超えた民主主義と専制主義の戦いである。ナチやプーチンの過ちを繰り返してはならない。

我々は知らないことがたくさんある。知ったつもりでいることも多くある。無知と偏見を抱いたままであることがいかに世の中の正しい理解を妨げているかを知る。まして限られた個人的な経験だけで物事を判断することの危険性を認識する。まさに「愚者は経験で判断する。賢者は歴史で判断する」(ビスマルク)である。そして今回の戦争は情報戦である事を知らされた。政府によって統制されたテレビや新聞しか観ない人と、インターネットが使える人では、この世界の見え方は正反対になっていることも分かった。特に報道統制されているロシア国内の認識ギャップは甚だしい。それに比べてSNSとスマホを駆使するウクライナの情報戦における優位は明らかだ。そして平時から戦時に備えて情報インフラの脆弱性回避に努めてきた国防戦略にも驚嘆する。さらに何と言っても、そうした出来事の背景を知り、無知と偏見を取り除くためには、もっと歴史に学ぶ必要がある。プーチンはヒトラーから何を学んだのか。まさか自らの姿をヒトラーに投影したわけではあるまい。また西側諸国もヒトラーとナチの出現に何か学んだのだろうか。またプーチンを生み出してしまった。そのプーチンの出現に何を学ぶのか。