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2022年8月12日金曜日

古書を巡る旅(24)チャールズ・ディケンズ全集 〜なぜ文豪ディケンズの邦訳全集は出なかったのか?〜

 


The Works of Charles Dickens 16 volumes
Chapman & Hall, Ltd.,London
1890-1891

田辺洋子訳「ディケンズ全集」第一回配本(萌書房)


2021年1月に日本語訳ディケンズ全集が刊行開始された。出版社は2001年に奈良で創立された萌(きざす)書房(白石徳浩社長)。同社の創立20周年記念事業として企画された。チャールズ・ディケンズは、『オリヴァー・トゥイスト』や『二都物語』など,今なお世界中の多くの人に親しまれ,映画・演劇・ミュージカルとしても知られる作品群を生み出したイギリスの国民的作家。そのの個人訳による本邦初の全集である。そう、「本邦初」なのである。

訳者は英文学者で現代ディケンズ研究の第一人者の田辺洋子氏。広島大学院文学博士で広島経済大学教授である。これまでもディケンズ作品を翻訳し三つの出版社から出しているが、今回、訳者によってこれまで邦訳出版された全小説や寄稿集を修正・改訳したものに、これまで翻訳されていなかった書簡集などを加え、全30巻に及ぶ全集として刊行を開始した。第1回目の配本は,小説家として地歩を固める前後までの,友人知人や出版社・編集者,後に妻となるキャサリン・ホガースらとの交流を物語る1,061通を収める書簡集。続いて2021年に「ドンビー親子(上巻)、2022年に「ドンビー親子(下巻)」と第2回、第3回配本がなされている。

しかし、この全集が「本邦初」であるというのは如何なることなのか。もちろんこれまでも文庫本や「世界文学全集」的な刊行物にディケンズは収録されてきたが、ディケンズほどの英国を代表し、世界中で愛されている偉大な文豪の日本語訳全集が、これまでなかったことは世界の不思議の一つと言って良いくらいである。なぜなのか?全集は売れないという理由からなのか。日本の出版文化の重要な欠落部分であったのではないか。世界的な名著を、作家の全仕事を各国語の翻訳し残してゆくことは歴史的な文化事業であり、採算性よりも、後世に残すべきレガシーとして取り組むべき事業であろう。またそういう外国作品を求める読者、研究者が数多くいることがその国の文化的な層の厚さと知的なパースペクティブを示すものであろう。そういう意味においても、東京の大手出版社ではなく、謂わば地方の新興出版社である萌書房の企画と刊行には敬意を払いたい。白石社長は刊行にあたり、この全集が全国の大学図書館、公立の図書館に配備されることを願うとしている。今回の邦訳ディケンズ全集の刊行は単にディケンズファンとしてだけでなく嬉しいニュースだ。萌書房の出版人として、文化人としての矜持に拍手を送りたい。

神保町の古書店でも、最近は全集ものはなかなか売れないという。ディケンズのオリジナル英文全集も、かつては大学や図書館からの注文があって、必ず仕入れ、在庫していた定番作品であったものが、最近は引き合いがないので在庫として置いていないと、老舗洋古書店店主は嘆いていた。これは図書館の危機、書籍の危機、出版文化の危機、いや知的な欲求の衰退という危機である。コンテンツがオンラインで公開されているので直接原典にあたらない読者や研究者が増えているからだという。しかし「本」そのものが歴史的な作品であり、貴重な史料であることが忘れられている。逆に、今回の邦訳ディケンズ全集の出版が引き金となって、原書であるディケンズ全集が神田神保町の書肆の棚を飾り、全国の大学/図書館に並ぶことができれば嬉しいことである。大学図書館はディケンズくらい揃えておけよ!と。

ところで、今回紹介するのは、オリジナルのディケンズ全集である。1890〜91年にロンドンのチャップマン&ホール社:Chapman & Hall, Ltd.から出版された革装の16巻からなる全集だ。巻頭にはディケンズ自身の言葉でチャップマン氏からの作品の出版にあたっての熱心な勧奨と支援があったことに謝意を示している。またいくつかの作品の冒頭に、彼自身による作品を執筆するにあたっての経緯や意図についてコメントした巻頭言が記されている。したがって初版はおそらくディケンズ存命中(1870年に他界している)の1860年代と思われる。手元には同社から1865年、1866年に刊行されたディケンズ作品の「ピックウィックペーパー」」と「我らの共通の友」2巻があるので、この頃から継続して版を重ね続けたロングセラーと考えられる。この全巻揃いの全集は神田神保町の老舗洋古書店にも問い合わせたが見つからず、バラバラの状態で何巻かが英文学の棚に確認できる程度であった。先述のように、最近は英文学の定番中の定番とも言えるディケンズ全集を店頭で見かけることは少なくなった。この全集はネット検索で地方のある古書店で見つけた。見知らぬ土地の古書店の現物を見ない取引になるので不安があったが、問い合わせに対して、店主には丁寧に写真付きメールで対応していただいた。このシリーズはディケンズのオリジナルの全集の一つで、出版人による改訂の記述はなく、初版と内容は同じであること。読書家、愛蔵家の好みに応じて装丁を変えたり、収録作品の選定を変えたシリーズがいくつか出されており、これはその一つであること。革装はオリジナルであることなどと説明してくれた。ちなみに店主によると、最近はネットと宅配があるために地方でも日本全国、世界中と古書商売ができると言っていた。確かにロンドンやニューヨークの馴染みの古書店も、今は店舗なしで世界中とネットで取引している。地方の古書店にとっては新しい流通チャネルの出現だろう。古書ハンター側から見るとこうした地方古書店は穴場かもしれない。




ディケンズ肖像




チャールズ・ディケンズ:Charles John Haffum Dickens (1812-1870)とは何者か?ディケンズはビクトリア朝。パクスブリタニカの申し子である。と言っても輝かしい帝国の版図拡大や、産業革命と科学の時代、資本主義の成果を誇る側ではなく、それによって生じた社会の矛盾と経済格差に苦しむ庶民、新しく生まれた労働者階級の側に立ち、社会風刺や理不尽を描いた作家としてである。謂わば帝国の「光と陰」の陰の立場に立ってビクトリア朝時代を描いた。それを英国人特有のユーモアとウィットで描いた。サムエル・ジョンソンのようなオックスフォードやケンブリッジのインテリ層、上流階級や有産階級ジェントルマンのBritish sense of humourとは少し違う辛辣なジョークの使い手である。しかし、概して結末は丸く収まる(ハッピーエンド)で読み手を安心させる手法も取り入れ、モチーフの重さとは裏腹に読後の爽やかさがあり人気があった。ディケンズの作品は、作品の筋だてやストーリー展開が、時に意外な方向に進んだり、途中で筆致が変わったりすると批評家から指摘される。その理由は、当時の新聞や雑誌に連載された彼の作品が元になっており、また発表形式としても月刊分冊であったことに起因するようだ。連載中に読者の評判や、人気、売れ行きに影響されて筋を変えることがしばしばあったためだと言われている。また最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンも晩年の作品まで踏襲されていった。こうしたことから、ディケンズは通俗作家として、芸術至上主義的な文壇からは批判されていたが、一般大衆の人気は衰えることはなかった。彼は国民的人気作家として英国でもてはやされるだけでなく、世界中の人々に愛される作家でもあった。トルストイはディケンズを英国が産んだシェークスピア以上の歴史に名を残す作家であると評している。ディケンズ自身は中産階級の出身であるが、幼い時から貧困と両親によって与えられた理不尽な生活環境で育った。「リトル・ドリット」に出てくるマーシャルシー債務者監獄は実際に彼の父が収監されていたし、彼もひどい環境の工場での労働を強いられ、精神的なダメージを受けてもいる。「デビッド・コッパーフィールド」は彼自身がモデルになっているとも言われる。「オリバー・ツイスト」の悲惨な孤児としての半生や、「大いなる遺産」のピップの半生にも彼の経験や社会への眼差しが込められている。一方で、上流階級やインテリ層と言われる人々の滑稽さや悲哀も描いて見せて、人間としての共感も示している。彼は若い頃に高等教育を受ける機会に恵まれていないが、法律事務所の事務員や新聞社の記者(モーニングクロニクル社)などの経験を活かしジャーナリストとして活動した。この時に「ボズのスケッチ帳」というエッセイを新聞と雑誌に連載し、それが注目されて1836年に第一作目として出版された。この時、この作品に注目し出版を薦めたのがチャップマン氏であったことは、彼の巻頭言に記載されている。以降、ロンドンのチャップマン氏の出版社「チャップマン&ホール社:Chapman & Hall, Ltd.」が彼の作品を一手に引き受けて、ついにはディケンズ全集を出版する。今回手に入れた全集もこのシリーズの一つである。

ディケンズの作品は今更列挙し、解説するまでもないが、こうして全集を概観してみると、意外に日本では限られた作品しか人々に浸透していないように思う。おそらく誰でも知っているのは「クリスマスキャロル」であろう。これはまず児童文学として取り上げられた(村岡花子などにより)。そう、子供の頃に聞かされたお話として記憶している。「オリバー・ツイスト」も映画や演劇作品で馴染みがあろう。あとは「二都物語」「大いなる遺産」くらい。しかし、それ以外は、その膨大な作品量からか、ロンドンの下町英語表現や独特のジョークの難解さからか、日本語に翻訳された作品は限られており、翻訳された作品も小説として親しむよりは、むしろ海外からの映画や演劇、ミュージカル作品を通じて知った、というのが多いのではないだろうか。明治期や大正デモクラシー、昭和の時代にディケンズを研究し、日本に積極的に紹介した研究者や文豪は意外にも知られていない。日本の国民的作家、「日本のディケンズ」とも言うべき夏目漱石も、英国に留学時代にディケンズを読んだようである(しかし漱石の遺した蔵書にはディケンズが少ないとも言われる)。ディケンズに言及した漱石の論文(漱石全集「文学論」)はあるが、あまり高い評価をしたり、彼の文学に影響を受けたりした形跡がない。一方で「坊ちゃん」は「ニコラス・ニクルビー」の影響を受けているとする研究者もいる。しかし漱石がシェークスピアーを英文学の原点と捉え、作品を多く読み、研究した。また17世紀のローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ氏の生活と意見」の影響を「吾輩は猫である」に遺しているとする研究者はいるが、漱石がロンドンに滞在していた頃にすでに人気作家であったディケンズの影響を受け、彼の作品を日本に紹介した形跡は少ない。ディケンズはいわば漱石にとってイギリスの通俗的な「現代作家」であり、古典作家ではなかったからだろうか。こうした漱石のディケンズへの眼差しが象徴するのか、戦前の日本でディケンズを研究し全集の翻訳に取り組もうという人は少なかった(少なくとも文壇や研究の表舞台で活躍することにはならなかった)のかもしれない。まして、大手出版会社で邦訳全集が企画されることがなかった。先述のようにこれは文学の世界の不思議の一つであろう。ちなみにシェークスピア全集は明治期の坪内逍遥の大作をはじめ、小田嶋、松岡和子の個人訳が筑摩書房から出ている。トルストイ全集もドストエフスキー全集も、ゲーテ全集も大手出版各社から出されている。そういう意味で、あらためて今回の萌書房のディケンズ全集刊行は画期的であると思う。また、広島で長年ディケンズ作品に熱意を持って取り組んでこられた田辺洋子教授の地道な努力と成果に、全身全霊で敬意を示したい。遅まきながら...とは言えである。

ちなみに「ディケンズ・フェローシップ日本支部」という同好会、研究団体がある。1970年英国の本部から日本支部として認証されたという。

以下はこの全集に収録されている作品の中から、私がかつて読んだことがあるか、映画やミュージカル、ネット動画で見たことがある馴染みの作品をリストアップしてみた。

出世作は「ボズのスケッチ集」:Sketches by Bos

「オリバー・ツイスト」:Oliver Twist
「デービッド・コッパーフィールド:David Copperfield
「大いなる遺産」:Great Expectation
「クリスマスキャロル」:Christmas Carol
「二都物語」:Tale of Two Cities
「リトル・ドリット」:Little Dorrit
「荒涼館」:Bleak House
「我らの共通の友」:Our Mutual Friends
「ピックウィックペーパー」:Pickwick Papers
「骨董屋」:Old Curiosity Shop
「ニコラス・ニクルビー」:Nicholas Nickleby

これらの作品の映画化、TVドラマ化、さらには演劇、ミュージカル作品化されたものなど、どれも秀逸な出来である。このほかにBBCのドラマ「ディケンジアン」が面白い。ディケンズのそれぞれの作品に登場する人物がロンドンの下町に集うオムニバス風のドラマ。ディケンズが現代のイギリスのドラマ作品や演劇に与えた影響の大きさを感じることができる。脚本、構成、演出、フィルムワーク、もちろん出演俳優の演技とセリフ。どれをとってもイギリスの文芸、演劇、映像表現の豊かさ、奥深さが感じられ、エンタメ/娯楽作品とはいえその上質さが際立っている。これもディケンズのレガシー(遺産)であることは間違いないだろう。シェークスピアのレガシーに重層化されて息づいている。こうした現代の映像作品を見てからディケンズの原典に立ち返る。これもまた楽しからずや。イギリスはやはり面白い。



ディケンズのデビュー作「ボズのスケッチ集」表紙



「偉大なる遺産」表紙



「オリバー・ツイスト」「二都物語」表紙


「ピックウィック・ペーパー」表紙

「リトル・ドリット」表紙

「デビッド・コッパーフィールド」表紙


革装の背表紙


マーブルプリントの背表紙

ディケンズ生誕100周年(1812−1912)の記念シール
が各巻に貼られている。おそらく所有者が貼ったものであろう。


ロンドンのディケンズ博物館
ディケンズが住んだ場所というのがあちこちにある
ここは大英博物館近くのホルボーンの住居跡
(ディケンズ博物館HPより)

ディケンズの書斎
『ディケンズ博物館HPより)

LSE近くに現存するThe Old Curiosity Shop


そこでゲットしたお土産マスタード入れ!












2022年8月1日月曜日

古書を巡る旅(23)A History of Japan:「日本歴史」全三巻 〜ゼームス・マードック先生と夏目漱石〜

A History of Japan 全三巻 1925年初版本


「日本歴史」:A History of Japan は明治期の御雇外国人研究者、ジャパノロジストの一人であるゼームス(ジェームス)・マードック:James Murdoch による体系的な日本史研究書である。三巻からなる大著で、日本の上代から江戸時代までの歴史がまとめられた初めての英文 日本史全集と言って良いだろう。これまでも来日外国人による「日本史」と称される歴史史料としては、ルイス・フロイスの「日本史」や、ケンペルの「日本誌」などがあるが、これらは彼らの滞在期間中の日本見聞録であり、歴史書として古代から中世、近世、近代がまとめられたものはこれが初めて。この頃日本には、既にアーネスト・サトウやウィリアム・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのジャパンノロジストの先達がおり、マードックもこの大著の執筆にあたっては、彼らの研究成果や著作に学び、本文中にも多く引用している。さらには、日本の上代、古代史を研究するにあたってはアストンやチェンバレンの日本書紀、古事記の英語版を参照するのみならず、自ら日本語の古文を学び、原典を研究している。彼に限らず、この時期のジャパノロジスト達の語学習得能力の高さには舌を巻く。ちなみにマードックは夏目漱石の一高時代の恩師である。一高では英語と英文学を教えた。漱石は、マードックをスコットランド訛りの英語で何を言っているのか分かりにくかったが、どうせ分からないことなので、と構わず飄々と語り続けるボヘミアンな先生だったと評している。よく家まで押しかけて、朝食をとっている先生と論議したり、最新の書籍の紹介を受けたりしたと回想している。漱石とマードックの交流の模様が「漱石文明論集」岩波書店刊に記述されている。後述する。


 ジェームス・マードック:James Murdoch (1856-1921)略歴

1856年、スコットランド・アバディーン生まれ。アバディーン大学、オックスフォード大学、ゲッティンゲン大学、パリ大学に学び学士号、修士号を得る。

1881年、オーストラリアへ移住。

1889年(明治21年)、来日。第一高等中学英語教師に。この時の教え子が夏目漱石。

1893年、離日。

1894年、再来日。金沢の四高教師に、日本人と結婚後、1900年鹿児島の七高へ。その後教職を離れるも鹿児島に暮らし、神戸クロニクル社への寄稿などで生計。大著「日本の歴史」執筆に取り掛かる(10年以上かけて)。

1903年、最初の出版(ポルトガル人来航)

1910年、第二冊目出版(古代から足利時代)

1915年、第三冊目(徳川時代)完了。未発表。

1917年、シドニー大学日本語教授としてオーストラリアへ。

1921年、オーストラリア・シドニーで没す

1926年、「日本歴史」全三巻ロンドンにて出版


「日本歴史」:A History of Japan 全三巻

このロンドンで出版された「日本歴史」:A History of Japan 全三巻は、マードックが10余年をかけて研究、編纂に取り組んだ大作で、次のような構成になっている。

第一巻:日本の上代、古代から1542年のポルトガル人の来航まで:From The Origins To The Arrival of The Portguese In 1542 A.D.

    出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1925年

    初版は明治43年(1910年)ジャパンクロニクル社印刷、亜細亜協会発行

第二巻:初期の西欧との通交の世紀(1542−1651):During the Century of Early Foreign Intercourse (1542-1651)

    出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1925年

    初版はマードックの自費出版で明治36年(1903年)神戸クロニクル社印刷・出版

第三巻:徳川時代:The Tokugawa Epoch

マードックの没後、遺稿を基に、元イギリス長崎領事で、ロンドン大学キングスカレッジ名誉教授、ミドルテンプル法廷弁護士、英国ジャパンソサエティ副会長のJoseph H. Longfordにより改訂、編集されたもの

    出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1926年


このように初版年を見ると、一番最初に書かれたのは第二巻の内容であることがわかる。時系列的に辿ると、第一期(明治36年:1903年):ポルトガル人の「日本発見」から関ヶ原、大坂の陣、島原の乱までの歴史。第二期(明治43年:1910年):古代に遡っての日本の歴史。第三期(1926年):江戸時代から幕末開国まで。すなわち、第二巻収録の「ポルトガル人来航」の章が、まず神戸で1903年に自費出版され、のちに第一巻収録の「古代からポルトガル人来航」部分が1910年に神戸で。そして最後に第三巻収録の「徳川時代」が、既刊と合わせた三巻にまとめて全集として、1926年(マードック没後)にロンドンで再出版されたというわけである。

なぜこの様に初版は時代順に出版されなかったのか?これはマードックが明治日本の急速な近代化(開化)に驚嘆し、まず日本と西欧諸国の「遭遇」の歴史を研究しようと、その端緒を16世紀のポルトガル人の来航から紐解いたことによる。その後、考察を進める過程で、そうした日本の対外交渉の歴史を古代に遡って研究する必要を感じ、古事記や日本書紀や中国、朝鮮の史書の解読に取り組み、その内容を研究し、さらに古代、中世、近世(足利幕府まで)までの歴史をまとめた。この研究は亜細亜協会の支援によるものである。その後、江戸時代(徳川時代)をペリー来航までまとめた。これは、先述のようにマードック存命中の刊行にならず、没後にジョセフ・ロングフォードにより遺稿が編纂、出版された。さらには明治維新以降、現代(1904年の日露戦争まで)までの第四巻が企画されたともいわれるが遺稿がどの程度まで残っているのか不明で実現はしていない。ちなみに第三巻では元禄時代に起きた「赤穂事件」を取り上げ、「47 Ronin」の物語として紹介している。ただ戯曲や文芸作品としてではなく歴史的な背景や意義を取り上げて解説し、広く欧米諸国で知られることとなった。2013年封切りのアメリカ娯楽アドベンチャー映画「47 Ronin」(キアヌ・リーブス主演)はこの赤穂浪士事件に着想を得た映画だが、マードックの「47 Ronin」と直接の関係はない。


マードック先生と漱石

先述のように、マードックは漱石の一高時代の恩師である。漱石は、のちに鹿児島にいたマードック先生から、読んで欲しいと大著の「日本歴史」を受け取り、その批評と推薦を頼まれている。この頃の漱石は英国留学から戻り10年以上経っていて、東京帝大で教鞭を取るなど、当世一流の文学者、小説家として名声を確立していた。まず漱石は先生の歴史に学ぶ姿勢を真摯に受け止めている。先生は日本がこの50年で驚異的な近代化を果たしたという「現在の日本」に畏敬の念を持って、そのエネルギーの背景を理解すべく「その過去」を振り返って研究するという、漱石曰く「動物学者的な」観察者としての姿勢に感銘を受けている。アメリカのペリーが率いるたった4隻の軍艦になすすべもなく開国した日本が、そのわずか50年後には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破している。こうした急速な「富国強兵」「文明開花」を果たすことができる日本をより深く理解するために、西欧諸国との最初の遭遇(16世紀のポルトガル人の来航)から19世紀のペリー来航までの歴史をまず振り返り研究するとともに、さらにその日本という国の成り立ちと対外的な通交の歴史に関する考察を探るために、日本の上代から16世紀までの歴史を研究した。一方で漱石は、西欧における開化とはキリスト教的なカルチャーの開花と同義でなければならない、との先生の指摘に違和感を感じている。しかし、このゆえに西欧人が(キリスト教的でない開花である)日本の文明開花に驚いていること、これが西欧人の受け止め方であることを先生は指摘していることを了知し、それが正しく日本が西欧に理解されるに重要な点であることを改めて認識したと書いている。

しかし、漱石自身は、この先生の大著を目の前にして、明治維新以降、温故知新を忘れ、あたかも我々に振り返る過去はないと言わんばかりに前しか見ない日本人を、日露戦争勝利という出来事に浮かれて未来を見通す力を失っている日本人を、まさに憂えている。こうした自らの歴史を顧みることもないままに、しゃにむに突き進む日本の未来に悲観さえしている。「三四郎」の廣田先生に「日本は滅びるね」と言わせているところにもその一端が垣間見える。「一等国」などと言って浮かれていて良いのかと疑問を投げかけている。マードック先生の大著を世間に紹介するにあたって、日本の急速な文明開花に驚嘆する点はさておいて、過去の歴史を振り返り、そこから学ぶことの意義に共感すると共に、この際、それを忘れた日本の未来に対する懸念を先生に伝えたいと書いている。漱石の、時代を読む視点と目線は真っ直ぐで、まさに彼の危惧の通り、日露戦争を契機に日本は戦争の道を突き進むことになる。漱石は1916年に若くして亡くなるので、その後の数々の事変や日本の悲劇的な出来事に立ち会うことはなかったが、もし生きていたらどの様にこれを評したのであろうか。マードック先生は、漱石よりはやや長く生きた。離日後、オーストラリア、シドニー大学で、急速にアジアにおける大英帝国の脅威になりつつある大日本帝国の研究をリードし、政府のアドバイザーの役割を担うが、やはり彼も漱石が懸念した「日本の未来」を見ぬうちに、1921年亡くなっている。

また漱石の博士号辞退問題が世間の話題になった時、これを快挙としてマードック先生が賛辞を送り、世俗の名誉のために学問や文学をやっているのではない。英国でも偉大なる先人グラッドストンやカーライル、スペンサーなどが博士号を辞退しているのだから何も後ろめたがることはない。先生がそうした漱石の決断への共感を表してくれたことに感謝している。だからこそ、そのような共感の友たる漱石に大著「日本歴史」を推薦をして欲しいのだと理解し、喜んで世に知らしめたいとしている。漱石に影響を与えた外国人はロンドン留学中ののグレッグ先生を含めても、意外に少ない。そうした中、この一高時代の英国紳士らしからぬマードック先生の泰然自若たる心意気と事物を観察する眼差しに惹かれた漱石を姿が垣間見える。そして、漱石のマードック先生の「日本歴史」を手にして語るこうした短い一文の中にも、西欧人の日本への驚嘆と好奇心とは裏腹に、日本の未来に危惧を抱く漱石の心のざわめきが感じられる。


(参考)

「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店  1986(昭和61)年10月16日第1刷発行、1998(平成10)年7月24日第26刷発行


James Murdoch

晩年の漱石(1914年)



第一巻表紙

第二巻表紙

第三巻表紙





16世紀戦国時代日本地図

関ヶ原合戦地図

大坂の陣地図



2022年7月21日木曜日

オルテリウスの世界地図帳「世界の舞台」The Theatre of The Whole Worldにロンドンで出会った! 〜日本地図が掲載された最も古い世界地図帳〜


ヤン・ヤンソン「日本地図」1636年アムステルダム刊

ヤンソン図の元ネタは、アブラハム・オルテリウス「世界の舞台」掲載の「日本地図」
1606年アントワープ刊
さらにこのオルテリウス図の元ネタはルイス・テイセラ図
さらにその元ネタは「行基図」


ロンドンは魅惑的な街だ。大英帝国の帝都として栄え、輝けるヴィクトリア朝時代の歴史的な遺産に溢れ、それが今に生きる街。そして数々の歴史的事件の痕跡が街角に残され、社会の発展と停頓というディケンジアン的矛盾という澱が溜まった街である。このことは古書街を巡ることでも十分肌で感じることができる。古書の集積度合い。これはその国の歴史と文化の時空スケールと深さを推し量るバロメーターである。東京神田の神保町もまた然りである。ロンドン留学時代、勤務時代には、よくチャーリングクロスやセシルコートの古書店街を歩き回った。ここもまたロンドンを、大英帝国を知ることのできる迷宮である。その時感嘆したのは、ダンジョンのような店内に並べられた古書の豊富さ、濃密さもさることながら、店頭のボックスにジャンク然とぎっしりと詰め込まれた古い銅版画プリント類の山が累々と積み重なっていることだ。これらは、19世紀以前の古書に収録されていた図版や挿画、イラスト、地図で、古書として売れなくなってしまった(装丁が壊れてしまった、痛みや落丁で本の程をなさなくなった等々)ものから抜き出したものだ。写真がない時代の細密エッチングで、モノクロもあるが手で彩色された美しい風景や風俗の銅版画プリントは。コレクションとしても人気があったし、何よりもその山の中からお宝を探す楽しみがあった。気に入ったプリントをその場で額装してくれる店もあった。どれもそれほど高い値付けではなく、気楽にコレクションできるものが多かった。もちろん中にはとんでもないレアもの発見することもあった。

特に興味を引いたのは、古地図である。16世紀〜19世紀前半のイングランド、スコットランドの地方や都市の古地図はもとより、大英帝国時代のレガシーともいうべきヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの古地図まで、極めて豊富であることに驚いた。書籍の挿画として掲載されたものが多いので、比較的小型の地図が量的には中心である。それでも大型の単体地図も豊富に並んでいる。その中に日本の古地図(主に「大航海時代」のヨーロッパ人が作成した)が散見された。大体16世紀後半から17世紀前半の、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や、その後のオランダ人、イギリス人が活用したオルテリウスの世界地図帳などから抜き出したものや、その系譜の地図製作者の地図である。大抵はアジア地図、ないしはインド/オリエント地図の右端に記された奇妙な形状の「日本:Iapan」が多いが、中には日本列島を比較的正確に描いた単体地図もある。彩色されたものもある。こちらは結構な価格だ。意を決して入手したのはヤン・ヤンソン作成の彩色版の日本地図(上掲)である。これは後述のオルテリウスの地図帳に掲載されている日本地図を原図としている。

あるとき大英博物館近くの古書店を覗いていると、なんとそのオルテリウスの「世界地図帳/世界の舞台:THE THEATRE OF THE WHOLE WORLD」が無造作に店の片隅に転がっているではないか。古地図のプリントはよく見るが、こうした地図帳は珍しい。大型の重い本で、先述の各種の古地図の原本になる地図帳である。彼は1570年にアントワープで最初の世界地図帳( THEATRVM ORBIS TERRARVM:ラテン語)を刊行したのち、オランダ語、フランス語版などが刊行され、1606年に英語版: THE THEATRE OF THE WHOLE WORLDを刊行した。店の片隅にあった地図帳は、その英語版の800冊限定の復刻版(1969年)である。店主に聞くと「なかなかこういった本は売れないから安くしとくよ」と!速攻ゲットして、その重い地図帳を抱えて帰った思い出が蘇る。今思えばよくこの時手に入れておいたものだと自分を褒めてやりたい。その後二度と古書店でお目にかかっていない。


アブラハム・オルテリウス:Abraham Ortelius(1527〜1598)

オルテリウスは、16世紀に活躍した地図製作者である。まだスペイン領であったフランドル地方アントワープ(現在のベルギー)で地図職人、彩色職人を経てギルドメンバーになる。1560年にメルカトルと出会い、本格的な地図制作技術を学び、メルカトルと共に各地を旅行したことがきっかけで後世に名を残す地図製作者、地理学者の道を歩むことになる、彼の後継者がヨアン・ブラウやヤン・ヤンソンたちである。オルテリウスはスペイン人やポルトガル人のインド、東洋方面の進出の足跡の成果である世界各地域の地図を、スペインの植民地であったフランドル地方アントワープで纏め、一冊の地図帳を作り上げた。続いて東洋へ盛んに進出していったオランダ人やイギリス人が持ち込ん新しいだ地理的な発見と新しい情報も次々に反映させていった。これが先述の世界地図帳「世界の舞台」である。いわゆる「大航海時代」にあって、航海や、交易に必要な携帯に便利な地図帳への要望が高まったことは容易に想像できる。この事業は、オランダのアムステルダムを拠点とした地図製作者ヨアン・ブラウ:Joan Blaeuの大地図帳全9巻:Grooten Atlas 1664に引き継がれた。この大地図帳はオルテリウスの「世界の舞台」を元版としており、ヤン・ヤンソン:Jan Janson(ブラウの義理の息子で弟子)の日本地図(上掲)もオルテリウスの原図を利用している。そしてそれがオランダやイングランドがスペイン、ポルトガルに続いて世界に飛躍する時代の画期となったと同時に、地図作成の中心がスペイン領のアントワープから、スペインからの独立を果たし、対外進出盛んなオランダのアムステルダムに移っていったことも象徴的である。


フェルメール「地理学者」
フェルメールは発見の時代を象徴するポートレート作品として「地理学者」を取り上げている


オルテリウスの地図帳「世界の舞台」の特色

タイトルのTHE THEATRE OF THE WHOLE WORLD(英語) : THEATRVM ORBIS TERRAVM(ラテン語)は「世界の舞台」という意味である。単に「世界地図帳」と称するよりはロマンがあり人々を夢の世界へ誘うニュアンスがあるように思う。しかし一方で、航海や交易に必要な地図をコンパクトな形で携行できるようにという実用性、いわば現場の要請に基づき編纂、製本された地図帳でもある。

1)初めての「近代的」地図帳であること。「近代的」という意味は、単なる地図の寄せ集めではなく、各地図で示される地域や国の地理学的な解説が掲載されていること、統一された方位、版型で小型本に編集したことによる。これまでもローマ時代のプトレマイオス「地理学」、ポルトラノ海図(14世紀後半)や、イタリアで編纂された地図帳はあったが、これらは発注者の求めに応じた既存の地図の寄せ集めであった。

2)1570年の初版(ラテン語版)から版を重ね、内容にも改定を加えながら1643年まで40版を重ねる、いわばロングセラー、ベストセラーとなった。収録された地図も初版は53点であったが、1593年のオランダ語版では119点にまで増えるなど、新しい情報にアップデートしてきた。またオランダ語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そして英語と各国語の版が出されるなど出版事業としても成功した。

3)ヨーロッパで作成された地図として初めて日本地図(単体)が加えられた(古くは中国で編纂された地図には日本が現れるが)。オルテリウス世界地図帳の1595年版から、より正確な「新版」日本地図が取り入れられた(詳細後述)。

4)当時の地図製作者の名鑑が収録されており、16世紀の地図制作に関する重要史料である。


日本地図の系譜

このオルテリウスの世界地図帳に掲載された「日本:Iapan」地図を見てゆくと、ポルトガル人やスペイン人の宣教師からの情報に基づいて描かれた日本地図(オタマジャクシ型、サモサ型など)から、日本で手に入れたと思われる地図(いわゆる「行基図」)をもとにしたより正確な日本地図へと進化が見られる。初期の地図(日本単体ではなくアジア/インド/オリエント地図の一部)に現れる日本は、のちに単体で掲載されるようになった日本地図とは形状が大きく異なっている。まだ日本が未知の国で十分に認識されていない時代には、日本列島はいわゆる「サモサ型」、「オタマジャクシ型」で南北に伸びる列島と認識されていた。この頃の日本図はザビエルなどのイエズス会宣教師たちが布教のために訪問した地域、都市を中心に描かれており、琉球列島、九州、山口、四国、瀬戸内海、ミヤコの周辺に限られている。すなわち彼らが見聞した地域の地図である。逆に言えば、彼らの東洋における布教拠点、ゴア、マカオから日本への足跡を辿ることのできる貴重な布教「足跡図」とも言える。その後、イエズス会宣教師ルイス・テイセラが日本で入手したと言われる日本人による地図「行基図」。これをもとに、彼らが見聞した地域の情報を加えて作成された日本単体地図がオルテリウスにより地図帳にも採り入れられるようになる。こうして2種類の形状の日本列島図が同じ地図帳に併記されるようになったわけである。この単体日本地図は、表題に「新版日本地図:IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO、IAPONIA NOVA DESCRIPTIO」と記されている。現在の北海道(蝦夷地)は見えず、朝鮮半島も「半島なのか島なのか不明」と注記がある。しかし、日本は東西に伸びる列島として描かれ、律令制による国の位置など比較的正確に記載され、かつ平戸や博多、堺などの重要な港湾都市、鹿児島、山口、ミヤコといった権力者、有力者の拠点都市、さらには新しく発見された石見銀山など、当時の最新情報が改訂版ごとに追加されてゆく。


「行基図」とは?

ところで、その「行基図」とはどのような地図であったのか。行基は奈良時代初期の高僧であるが、彼が活躍した時代に日本全体の地図が作成されていた記録はないし、またそのような現物も残っていない。日本地図の最古のものは平安後期から中世に律令制に基づく国制を表す図が初見であるようだ。これ以降に制作された地図を総じて「行基図」と呼んでいたようだが、行基が作成した地図というわけではない。しかも大和奈良中心の五畿七道ではなく山城(すなわち京都)中心となっており、時代も奈良時代のものではないことが明らかである。なのに何故「行基図」などと彼の事績であるが如く呼ばれることになったのか。直接的には地図に「行基」の名が記されていることに由来しているが、先述のような理由からこれは後世に付記されたものである。数々の社会事業をおこなって庶民を救済したとされる聖人のレガシーの一つとして「伝説化」され、後世に伝承されていった。そうした権威づけのために「行基」の名を書き入れたのだろう。超人として人々の記憶に残る吉備真備や空海、菅公の奇跡伝説にも通じるものがある。史実かどうかよりもレジェンドの事績であって欲しいという願望や権威を求める心理の表れであろう。

1)行基図は中世から江戸時代初期の日本で作られていた日本地図の総称のこと。

2)実際に行基が作ったわけではないと考えられる。

3)独鈷杵になぞらえられた形が特徴で、南を上にしたものが多い。

4)五畿七道の道や調庸物運搬日数、国土に関する情報などが盛り込まれている。

5)役割としては案内図、追儺での使用、魔除けとしてなどが考えらえる。

6)中国や朝鮮、ヨーロッパに伝わり、行基図を原図とする地図が作られた。


16世紀後半に日本に渡来した南蛮人、宣教師が入手した「行基図」とは、このような当時の日本である程度流布していた一般的な地図であった。もちろん正確に測量した地図ではないし、五畿七道も国名が丸で、道路が線で示されているような簡単な地図に過ぎない。この「行基図」に、来航した南蛮人、紅毛人が現地で収集した情報を元に編纂を加えたのがオルテリウス図なのだ。しかしオルテリウスの世界図帳に登場した新たな「日本地図」は当時のヨーロッパ人の東洋の未知の島国への夢を嫌が上にも掻き立てたことであろう。ちなみにオランダ船リーフデ号で1600年に日本の豊後に辿り着いたウィリアム・アダムス一行は、この日本地図を所持していたのであろうか。オルテリウスの地図情報をもとに航海したのであろうか。ロッテルダム出港にあたって、1595年の初版であるから最新の地図を入手していたといたとしてもおかしくない。リーフデ号の遺物はほとんど残っていないので確かめようがないが、だが、もしそうだとすれば方位(最新のメルカトル図法による)はほぼ違わない当時としては最新の地図ではあるものの、今から見ればこのような想像をも交えた不完全な情報に基づく地図、海図でよく航海できたものだと驚く。まさに東洋への航海は、限られた情報に基づく未知の世界への冒険、探検であった。こののち正確な測量に基づく日本地図が作成されるのは、江戸時代中期以降の伊能忠敬による「伊能図」を待たなければならない。これを、長崎のオランダ商館のシーボルトが欲しがって極秘裏に持ち出そうとして見つかったシーボルト事件へと繋がる話はまた改めて取り上げたい。古地図にまつわるストーリーは尽きない。



明暦2年(1656年)拾芥抄写本に掲載されている「行基図」



THE THEATRE OF THE WHOLE WORLD : THEATRVM ORBIS TERRARVM
「世界の舞台」英語版1606年


英語版の表紙

イングランド国王への献辞

地図の索引

アブラハム・オルテリウス肖像

世界地図
南極大陸が未知の巨大大陸として描かれている

ヨーロッパ図
比較的現状に近い

アジア図
右上に日本が南北に長い「オタマジャクシ型」の列島として描かれている。

1595年版から単体の日本地図が初めて掲載された
いわゆる「行基図」が元になっている

日本:Iapanに関する記述も詳細で、地理書としても重要な役割を果たしている。

1969年の復刻版の表紙
縦47cm×横31cmの大型版



東洋文庫探訪とオルテリウスに関する過去のブログ:

2015年6月8日「東西文明の邂逅 知のラビリンス東洋文庫を探訪する」


参考図書:

ORTELIUS ATLAS MAPS An Illustratede Guide Second Revised Edition
Marcel van den Broecke
HES & DE GRAAF Pblisher BV, Houten, Netherlands, 2011

オルテリウスの評伝、初版からの全ての各国語版地図帳リストと出版年代、掲載された地図のリストと掲載年代、各地図に関する解説と考察が網羅されたガイドブック。書誌学的な研究書としても興味深い。1996年初版、2011年改訂第二版。