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2023年2月22日水曜日

池上梅園に春が来た! 〜「梅は咲いたか桜はまだかいな」〜

 今年もようやく梅が咲き誇り始めた。

コロナ騒ぎも少し収まって、池上梅園では4年ぶりに26日に「梅まつり」が開催される。人混みの嫌いな小生はそれに先立って、平日の人出の少ない時間を狙って出かけた。当日は、春の訪れというには北風が吹きすさび、厚手のジャケットを羽織るような気候であったが、お天気には恵まれ、中高年世代を中心に思ったより多くの人出で賑わっていた。早くコロナ禍の「巣篭もり」から解放されたいという気分の高まりからか、皆んな春の訪れと梅の開花を待ちきれない様子で駆けつけたのであろう。梅は白梅、紅梅ともに約30種類が植えられていて、枝垂れ梅など一部の木はすでに満開に、多くの木は七分咲きという様子であった。また、本門寺階段の河津桜も例年通り開花し、こちらも七分咲きといったところだ。


「梅は咲いたか桜はまだかいな」

日本では長くて寒い冬がようやく終わり、春を寿ぐ気分だが、ロシアのウクライナでの侵略戦争は24日で一年となる。だが、まだまだ戦闘が終わる気配がない。大義なき戦争でウクライナに侵略し、無差別に破壊し、ウクライナ人を殺し、ロシアの若者も大勢徴発して死地に向かわせる。戦況は一向にロシアに有利には動いていないし、ウクライナ国民の士気は驚くほど高い。北朝鮮とイラン以外の世界はロシアに味方しないが、独裁者の意地とメンツと権力保持のためだけで行う戦争はまだ続く。消耗戦、殲滅戦に持ち込めば、最後に生き残るのはロシアだ!プーチンは「大ロシア」の不滅を叫んでいるが、ますます誰のための戦争なのか。時代錯誤な誇大妄想の独裁者の運命がどうなったか、歴史の教科書に書いてあり、誰でも知っている。ウクライナに一日も早く春がやって来ることを祈念したい。


30種類の梅が植えられている

65歳以上は入場無料



枝垂れ白梅は満開





陰翳礼讃
茶室清月庵



春よ来い!




池上本門寺階段の河津桜も七分咲き



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年2月19日日曜日

亜欧堂 田善 〜Who is AEUDOO DENZEN ? 江戸のオランダ人画家?〜

  

「フローニンゲン新地図帳」オランダ語版 1791年 表紙
亜欧堂田善の模刻

オルテリウス「世界の舞台」英語版 1606年 表紙

コメリン「オランダ東インド会社史」1646年 表紙



千葉市美術館の「亜欧堂田善」展 没後200年記念、江戸の洋風画家・創造の軌跡 を鑑賞してきた。先週のNHK「日曜美術館」でも「日本に生まれたオランダ人」として紹介された。この亜欧堂田善の作品140点と、彼の画業に関する日欧の作品250点が一堂に展示されるという圧巻、充実の企画展である。

亜欧堂田善(あおうどう でんぜん、本名は永田善吉 1748年寛延元年生まれ、1822年文政5年没)は現在の福島県須賀川市生まれ。47歳のときに白河藩主松平定信の命を受けて腐食銅版画技法を習得し、主君の庇護のもと、日本初の銅版画による解剖図「医範提鋼内象銅版図」や、幕府が初めて公刊した世界地図「新訂万国全図」などを手がけた。いっぽうで西洋版画の技法を取り入れた江戸名所シリーズや肉筆油彩画も手がけるなど、多くの傑作を残している。 須賀川の商家に生まれ生来画を好んだという田善は伊勢国の画僧・月僊の画を学ぶも、絵師としては生計を立てられず、兄とともに染物業を営んでいた。田善に転機が訪れたのは、1794年に白河藩主の松平定信に見出されたときだ。以後、定信が重用する谷文晁に師事し、画業の道を歩むこととなる。画号の「亜欧堂」は、藩主松平定信が、アジア(亜)とヨーロッパ(欧)を眼前に見るようだ、と称賛して彼に与えたと伝わる。

 やがて、田善は江戸に召し出されて本格的に銅版画技法の習得を命じられる。当時を伝えるものとして注目したいのは、田善の《洋人曳馬図》(1802)とヨハン・エリアス・リーディンガー《トルコの馬飾り・諸国馬図》(1752)の比較展示だ。《トルコの馬飾り・諸国馬図》は田善が最初に目にした西洋版画のひとつであるが、田善がこうした西洋版画から構図をはじめ多くの引用をしながら絵馬や画を制作していたことがわかる。

 田善は銅版画技術の習得のみならず、その過程で透視遠近法や陰影法といった手法も西洋画から学んだ。油彩画においてもその力量が発揮され、例えば、透視図法を用いた絹本油彩の《江戸城辺風景図》(1789〜1801頃)は、江戸城の石垣と堀の描写が、独特の空間表現として見るものに強い印象を残す。いっぽう、重要文化財である《浅間山図屛風》(1804〜18頃)は江戸時代最大の油彩画と言われているが、本作で田善は西洋画法をよく理解しながらも、ただ模倣するのではなくあえて写実性を排して装飾的な迫力を表現している。

 華やかな浮世絵とはまた異なり、実利実用の側面も強かった田善の仕事だが、その技術の高さや多彩な表現を豊富な作品群で見ることができる。「美術」という言葉がまだなかった時代のひとりの絵師の多様な仕事を、いまに生き生きと伝える展覧会だ。

(以上、「美術手帖」ウェブサイトから一部を引用)

千葉市美術館における「亜欧堂田善」没後200年記念展についての詳細については我が畏友のブログ「東京異空間」をご参照いただきたい。


銅版エッチング作品について

今回は特に。西洋銅版画との比較で、田善の腐食銅版技法を駆使した作品に注目した。先述のように、白河藩主の松平定信に、西洋で作られた世界地図や解剖図のような実用的な銅版画の製作技術を身につけるよう命じられたことから始まった。田善は、そのためにはということで西洋絵画を学び、油彩画にも取り組んだ。そして銅板エッチング作品に取り組んだ。その結果が、多くの絵画・版画作品を生むこととなり、最終的には世界地図と解剖図を完成させることで藩主の期待に応えることができた。そのプロセスで生み出された様々な作品に見られる模写、模刻の力は卓越しており、モノマネが得意な日本人、コピーがうまい日本人、と揶揄されるのも故なしとは言えないと感じるが、それにしてもこれだけ高度な模写・模刻できる技術・技量は驚嘆に値し、誰もがまね出来ることではない。もちろんヨーロッパに留学したわけでもなく、オランダ人画家・版画家に手ほどきを受けた訳でもない。鎖国下の日本での話である。長崎のオランダ商館を通じて得られた限られた西洋画や書籍を見ながらの模写・模刻であるから驚きである。寛政年間には司馬江漢など一部で腐食銅版画の制作が成功していたが、松平定信から見るとまだ細密さにかけており、満足の行く出来ではなかった。田善は卓越した技法を身に着け、銅版画の創始者は江漢であるとしても、その大成者としての地位を確立した。それ故に司馬江漢をして田善を「日本に生まれたオランダ人」と言わしめたほどである。更にそれにとどまらず、田善自身の感性による銅板版画の咀嚼と止揚で、遊び心に満ちた独自の世界を生み出した。まさに日本文化の「受容」と「変容」プロセスの典型例だとも言える。

さて、ヨーロッパで刊行された17世紀から19世紀中までの書籍には、その挿画に銅版エッチングが多く用いられた。肖像画や、建物、風景、地図、または装飾的な表紙のイラストなど、油彩画や木版画と異なり、小さな画面に精密に描写できること、繰り返しプリントできることから書籍の出版に適しており、写真がない時代のビジュアルメディアとして重宝がられた。成熟期のエッチング作品は、工芸品、更には芸術作品としての価値も高く、著名な作者も現れて作品としても洗練されていった。故に、現代まで愛好者、コレクターが多く、ロンドンなどの古書店でも古プリントとして取引されている。ちょうど日本の浮世絵のような存在と言ってよいだろう。透視遠近法や陰影法が用いられていて立体感があり、奥行きのある写真のようなリアリティを感じる作品が魅力的である。私もこうした銅版エッチング作品の魅力に虜になった一人である。であるからこそ、日本の江戸時代(文化文政年間)の田善のエッチング作品との出会いには衝撃を受けた。

今回の展示の、腐食銅版画技法、透視遠近法、陰影法を用いた、西洋版画の模刻作品は、本家の原画を凌ぐほどであり、先述の解剖図「医範提綱内象銅版図」やわが国初の世界地図「新訂万国全図」の完成度は、田善のいわば技術者としての到達点を示している。一方、その実用的版画の完成域に到達する過程で生まれた、数々の版画・油彩画作品は、個性的な造形や構成力を遺憾なく発揮しており、芸術家としての田善の力量を示している。特に、小型の銅板エッチング作品である「東都江戸名所図会」には、新鮮な驚きを感じる。これまで広重や北斎の多色刷り木版画の浮世絵の世界に慣れ親しんできた我々にとって、同じ風景、同じ構図、同じテーマであるにも関わらず、全く違ったモノクロの世界で、より精密で、透視遠近法、陰影法を駆使したリアリティーあふれる江戸の街の風景が再現されていることに驚く。また、その空の描き方、雲の処理は、西洋の銅版画のそれを江戸時代の日本に復元したもので、「泰西名画」的なエキゾチシズムすら漂う。また、やや時代を下る幕末、明治初期のベアトや上野彦馬が写し出した江戸の古写真をも彷彿とさせる。日本の浮世絵が19世紀ヨーロッパの芸術運動・アールヌーヴォーに与えたインパクトと同様、西洋の銅版エッチング画が、19世紀初頭の江戸・文化文政期に、浮世絵に与えたインパクトも大きかったはずだ。しかし、これまで田善の画業があまり顧みられなかったことは不思議に感じる。今改めて彼の作品に光が当てられることは嬉しいことだ。この亜欧堂田善:AEUDOO DENZENの画業がヨーロッパでどのように評価されるのか。次の企画展をぜひオランダあたりでやって欲しいものだ。

以下に、田善の作品と、同時代の私所有のイングランドの銅版画作品を比較鑑賞してみたい。

(田善の掲載作品は展示会場で撮影許可されたもの)



1)小型の原版による風景画「銅版画東都名所図」(文化年間1804〜18年)


飛鳥山眺望

金龍山浅草寺

両国勝景

品川月夜図

三囲図

愛宕山

愛宕山眺望図

今戸焼ノ図

日本橋魚郭図

道灌山

不忍池図



2)田善の油彩画作品二点

油彩画「江戸城辺風景図」
寛政年間(1789〜1802)後期から文化年間(1804〜18)前期

「浅間山図屏風」六曲一隻 
文化年間・1804〜18年ころ





3)同時代のイングランド銅版画私有コレクションから

Black's Travel Guide Book 1856
スウォンジー市内鳥瞰図

Black's Travel Guide Book 1856
エジンバラ市街地図



彩色エッチング「ドーバーの白い壁」
1804年
銅板エッチングに水彩で彩色したもの

彩色エッチング「ロンドン・グリニッチ公園」
1805年

Dictionary of Geography 1856
「江戸図」
誰が描いたものか興味がある

Dictionary of Geography 1856
ロンドン・ウェストミンスター宮殿とテムズ川



4)ロンドン街角ガイドブック ”Up and Down The London Street 1867”より


Charing Cross

New Hall Hospital

Guildhall

Royal Exchange

St. Paul 聖堂内

Piccadilly

エリザベス一世肖像

シェークスピア肖像




5)江戸鳥瞰図

亜欧堂田善「東都名所図」
銅版画

鍬形蕙斎(1764-1824)「江戸一目図屏風」東京都立中央図書館
木版画


現代の東京
羽田離陸後の写真


6)実用銅版画としての解剖図・世界地図・日本地図



宇田川玄真「医範提鋼内象銅版図」1805年・文化2年


高橋景保「新訂万国全図」1816年・文化13年


日本地図



2023年2月14日火曜日

古事記の神話は「稲作の起源」をどのように語っているか? 〜「豊葦原瑞穂国」はどこから来たのか?〜

 

豊葦原瑞穂国
田植えに始まる稲作農耕

日本最古の稲作農耕集落跡「板付遺跡」


上空から見る「板付遺跡」
都市化した環境にわずかに残る初期の環濠集落の痕跡



前回のブログ(https://tatsuo-k.blogspot.com/2023/01/blog-post_11.html)では、古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか、について考察してみた。今回は、日本の文化の基層をなす稲作の起源について見てみたい。稲作農耕文化はどこから来たのか?古事記はどのように語っているのか。

文明や文化は古来、大陸や半島から海を渡ってやって来た。そして人の移動に伴ってやって来た。海で隔てられた列島への到達には船を操る海の民の存在が必須だ。したがって農耕文化の伝来にも漁労民、海洋民の介在があった。あるいは海洋民が定住して農耕民になっていったこともあるだろう。列島においては、まず大陸に近い沿岸部にそうした文明のフロンティアが成立した。それが列島内部に徐々に展開してゆく。そうした外来の文明や文化を「受容」し「変容」させて独自の文化を生み出していった。それをまた海を経て発信していった。それが日本である。

稲作農耕文化も例外ではない。まず最初は種籾を持った大陸の人々が小さな船で海を渡り列島に稲作を伝えた。文明や文化そのものを伝えることが目的であったわけではない。様々な事情で危険な海を渡り、大陸から船でやって来た。そして生活のために列島に定着して、その種籾を撒き稲作を始めた。それを見た列島の人々が、その種籾をもらい、耕作のやり方を習って稲作を始めた。徐々に従来の縄文的なコミュニティーが、外来の農耕定住コミュニティーの影響を受け、それを「受容」し、列島風に「変容」していったのが弥生時代である。文明や文化はこうした人々の通交、交流の中で伝搬し定着し、また還流してゆく。考古学的には、大陸に近い北部九州の福岡の板付遺跡、江辻遺跡、唐津の菜畑遺跡など紀元前930年頃の水耕稲作遺跡が日本最古の稲作の痕跡ととされている。稲作はこの頃大陸から伝わったのであろう。これが狩猟・採集や小規模な栽培を生業とする縄文的な人々の社会に変革をもたらし、定住して農耕を営む弥生的なムラ、クニが生まれ、やがて国になった。これが日本の先史時代の姿であった。もっともこうした縄文から弥生への変遷は、フェーズ転換やパラダイムシフトというような急激なものではなかったことも、最近の研究で明らかになっている。それでも大陸からもたらされた稲作農耕が、日本列島の住人に大きな変化をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたことは事実だ。このことは7世紀の古代日本人の記憶の中にもはっきりと生きており、それがその時代に記述され編纂された古事記や日本書紀、万葉集などに表現されている。

ではこの稲作の起源を、古事記はどのように語ってるのだろう。結論を先にいうと、「どこから来たのか?」というよりは、この葦原中国においては稲作が「所与」のものとして扱われているのではないか、ということである。まず、高天原から葦原中国に稲作と農耕をもたらす上で重要な役割を果たしたのはスサノヲであるとされているように見える。とは言っても、スサノヲが稲作をもたらした、と明確に語られているわけでもない。曖昧である。古事記の神話では次のように語られている。高天原を追放されて放浪している途中、スサノヲは食べ物を求めて女神、オオゲツヒメカミ(大宜津比売神)と出会った。オオゲツヒメカミは体の穴という穴から食べ物を生み出してスサノヲに提供した。しかし、スサノヲはこれを穢れたものとして殺してしまう。そのオオゲツヒメカミの体からは蚕や五穀が生まれ、その中からカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日御祖命)が穢れを祓って穀物の種をスサノヲに与えた。これが葦原中国における稲作農耕と養蚕の起源であるとされている。やがて出雲にたどり着いたスサノヲは、そこでクシナダヒメ(櫛名田比売)に出会い、ヤマタノオロチを退治してヒメと結婚する。後にスサノヲの子孫であるオオクニヌシ(大國主命)が国を栄えさせた、これが地上の国の始まりであると。いわゆる「出雲神話」前半である。ここに登場するクシナダヒメは、クシ(奇し)イナダ(稲田)ヒメ(女性)、尊い稲田の女神、すなわち稲作の女神であると解釈される。高天原から追放されたスサノヲが地上の国、出雲に稲籾を持ってやってくる前にすでに稲作の女神がいるのである。では、その前に登場する先述のオオゲツヒメカミとはどのような神なのか。この話は、出雲神話のヤマタノオロチ退治やクシナダヒメとの結婚の前に、唐突に現れた話で、古事記のストーリーに一貫性がない例の一つであるとされてきたが、このオオゲツヒメカミの物語は、稲作起源譚にとって重要なエピソードであるという説を唱える研究者もいる(三浦佑之説)。すなわち、この神は体内からあらゆる食物が出てくる、すなわち大地の恵み、生命力を宿した神「大地母神」のような神であるとする。しかし、これは栽培・耕作といった秩序だった生産活動をイメージするものではなく、狩猟・採集をむねとする混沌とした生産の女神である、すなわち縄文的な女神であり、弥生的な稲作の女神ではない。この縄文の女神が殺された話が、弥生時代への転換を象徴的に示唆しているとする。そして、スサノヲが出雲で出会ったこのクシナダヒメが稲作の女神であり、これが弥生の女神の出現だというわけだ。

興味深い解釈だ。しかし、これは、稲作伝来を契機とした縄文時代から弥生時代への変遷という歴史を知っている後世だからこそ、そのように解釈したのではないかと考える。むろん古事記の作者には、オオゲツヒメカミは「縄文的」女神、クシナダヒメは「弥生的」女神という区分認識はなかったであろう。またスサノヲがカミムスヒから得た種は稲だけではなくて、五穀の種と養蚕である。そのなかでクシナダヒメという稲作の女神と結婚することで稲作が別格な農耕であることを示したにすぎないのではないだろうか。古事記では明確な稲作の起源譚が語られず、クシナダヒメの存在が示唆するように、稲作は高天原(天の国)からもたらされたものではなく、葦原中国(地上の国)に既に存在しているものとして描かれているように読める。ただ、確かにこのエピソードからは、「縄文的」な混沌とした生産の時代(狩猟採集の時代)から、「弥生的」な秩序だった生産活動の時代(稲作農耕の時代)への変遷があった、という認識を古事記の作者が表明したものであるようにも読める。7世紀の倭人いや日本人の心の基底に、縄文的な時代の記憶が受け継がれていて、稲作農耕がその時代を大きく変えたと認識し、それがやがては「治天下大王」である天皇を生んだ、という理解が示されている。これは必ずしも稲作=天皇という明確な図式ではないにしても、稲作農耕社会の登場が、狩猟採集社会とは異なる天皇のような統治者の出現を想定していた。8世紀に表された古事記にこのような上古の日本人の記憶の基層にある「歴史観」の表明があるとするとこれは興味深い。

ちなみに、このオオゲツヒメカミの物語に類似の神話は、インドネシアや、太平洋島嶼地域、メキシコやペルーに広く伝承されている。すなわち、生きている間は、人間に食料を与え、殺されてから、その死骸のあちこちから穀物(芋、豆、とうもろこし、稲など)などの栽培作物を生み出した女性(女神)の物語である。農耕や作物の起源神話の一つの類型、「ハイヌウェレ型」(インドネシアに伝わるハイヌウェレ神話に原型を求めたドイツの民俗学者の類型)と言われるものである。これに類する民間伝承や昔話は、「山姥」話のように日本のあちこちにも伝わっている。オオゲツヒメカミ神話もその典型的な事例で、古事記がこうした外来の神話の影響を受けていることを示唆している。その中でも、さらに「稲」に特別な意味を持たせたのがクシナダヒメやスサノヲの物語であったのだろう。

一方で、日本書紀では異なる稲作起源譚を示している。スサノヲではなくツキヨミが、オオゲツヒメカミではなくトヨウケを殺して、その死骸から生えた稲と穀物をアマテラスに献上したとする。しかしアマテラスはこれに怒り、ツキヨミとは今後一切同じ時間を過ごすことなく、アマテラスは昼間を、ツキヨミは夜を支配することとなった。これも、前出の「ハイヌウェレ型」であるとともに、太陽と月が昼夜で入れ替わる起源を説明している。また、「一書に曰く」で、アマテラスが高天原で育てられた神聖な稲籾を孫のニニギに託し、そのニニギが葦原中国を統治するために高天原から葦原中国の筑紫の日向に降臨するときに、この稲籾を携えて降りてきた。これが地上に稲作が始まった起源であるとする。この日本書紀の稲作起源説明のほうが、古事記のそれよりも明解で、しかも霊性があり神話としての説得力があるように思える。また、この「穀霊神の降臨」という神話は朝鮮半島にも伝わる。国外にも説得力を持つ神話として受け入れられることを狙ったのかもしれない。したがってアマテラス、ニニギの子孫たる天皇はその稲作に関わる祭祀の主宰者として権威を有し、皇室祭祀において稲作と養蚕が深く係る起源がここにあるとする。この、稲作がニニギによって地上にもたらされたとする点と、天皇の祭祀と稲作の強い結びつきを主張している点が、古事記の説明とは異なる。

差はさりながら、日本にとって稲作が特別なものとして受け止められていることは古事記でも日本書紀でも共通である。五穀の中でも稲が大八州、葦原中国の原初的な作物であり、日本は高天原からやって来た天孫族がもたらした稲作文化の国であり、それ故に、日本は「葦原中国」、「豊葦原瑞穂国」などと表現されている。ここには、海の向こうの大陸からもたらされた外来の作物、外来の農耕文化が根付いたものであるとの認識は表明されていない。この主張は、これまでも考察してきたように、日本が中国の華夷思想(大宇宙)、朝貢冊封体制から脱して、高天原の神々の子孫である天皇を頂点にいただく日本という小宇宙を形成する、という思想、国家観の表明と同根である。天武、持統期の新たな律令制国家樹立、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ、自分が名乗ったわけでもない「倭(わ)」から「日本(ひのもと)」へ国号変更と同様、「豊葦原瑞穂国」もこの時代の国家アイデンティティー表明のエピソードのひとつなのだ。日本書紀は外国(中国)を意識して編纂された国の「正史」であるが、古事記は外国を意識していない分だけ、稲作農耕=天皇祭祀といった図式が明確に表明されていない。ただ日本文化の基底にある稲作文化は、天から与えられ、大八州に独自に始まり開花した文化だと説明している。このように古事記は日本書紀とも異なるストーリーを展開しているわけだが、どちらがより正確に日本における「稲作」の起源を説明しているかといった解釈論争してみてもそれは無意味であろう。稲籾を、スサノヲが持ってきた。いやニニギが持ってきた。その違いは神話の世界では重要かもしれないが、歴史の世界では史実とは別の「物語」でしかない。

こうした稲作の起源をめぐる捉え方一つを見ても、古事記は、客観的な史実、あるいは過去の出来事の記憶を基にして編纂された「歴史書」ではなく、かと言って古来より伝わる伝承や口承神話を積み上げて文字化した「神話集」でもなく、7世紀後半から8世紀前半という「日本国家」形成期において、最初から或る意図を持ってストーリーを作り(いくつかの撰録された伝承や神話に仮託して)記述された作品としての「物語」であるという性格が明らかになるであろう。語り継がれる神話や伝承を取捨選択して「文字化する」時点で、その撰録と、後世に残ることを見据えた文章表現には編纂を命じた為政者の意図が明確に表明され、作者がその意図に沿って物語として完成させる。まさに序文に言うところの「帝紀・旧辞をよく調べただし、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えよう」とした物語、すなわち「天皇の物語」なのである。そのように読むことで古事記の奥深さがより味わえるのだと思う。まさに古事記の解釈に関する定説は、「成立論的解釈」から「作品論的解釈」へと変わってきている。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館

参考過去ログ:



2023年2月5日日曜日

古書を巡る旅(30)Memoirs of A Captivity in Japan:ゴロヴニン「日本幽囚記」〜露西亜人が見た初めての日本〜


幽閉から解放されたのちのゴロヴニン肖像


1)ゴロヴニン「日本幽囚記」:Memoir of Captivity in Japan 英訳版第2版 1824年 ロシア人が見た初めての日本

日欧関係の歴史を振り返る時に、ファーストコンタクトのポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人、そしてセカンドコンタクトのアメリカ人、イギリス人、フランス人がよく登場する。今回は、我が隣人ロシア人による日本記録である。また、これまでの宣教師や商館長や外交使節団、あるいはお雇い外国人とは異なり、今回の主役は日本側に幽閉された帝政ロシア海軍士官である。

1811年に起きた、いわゆるゴロヴニン事件。樺太、千島列島を測量調査中に国後島に上陸したロシア海軍の測量艦ディアナ号の艦長ワシーリ・ミハエルビッチ・ゴロヴニンと数名の乗組員が日本の役人に捕えられて2年3ヶ月にわたって幽閉された事件である。この本は、彼の日本での抑留体験を回想録としてまとめたもので、さらに彼の目で見た日本観察記が付け加えられている。日本語訳では「日本幽囚記」として岩波文庫から出版されているが絶版になっているようだ。ケンペルの「日本誌」がイギリスで出版された1727年の、約90年後に出されたヨーロッパ人による日本見聞録であり、鎖国体制下の日本の「空白の90年」を埋める貴重な歴史的資料とも言える。ペリー来航の40年ほど前の出来事であり、今から約200年前の出来事の記録である。ペリーも日本遠征に当たってこのゴロヴニン「日本幽囚記」を読み、研究している。

本書は、ゴロヴニンが解放されて帰国した後、1816年に本国ロシアで初版が出版されたもの。同年にはドイツ語版、フランス語版、英語版、オランダ語版が出版された。そして早くも1818年(文政元年)には蘭学者/オランダ通詞の馬場佐十郎(貞由:さだよし)によってオランダ語版から日本語版にも重訳された。英語版はフランス語版あるいはドイツ語版からの重訳であるようだ。英訳版は1816年の初版に続き、1824年には追補、改定された第二版が出版された。手元にある本書はこの第二版である。ロシア語版との違いは、多くの追補、注記の追加がなされているほか、フランス語版訳者の解説によれば、ロシア語版には検閲による改ざんや削除があり、翻訳版のほうがゴロヴニンのオリジナル原稿に忠実だとされている。また英語版第三巻の冒頭には、英訳編集者による日欧交流史の概説(大英帝国の視点での)が掲載されている。これはケンペルの日本史の英訳版(スローン版)にも見られる点で、とくにイギリスの東洋への進出に関する事蹟を追補する形が見られる。ただ、本書の場合、英訳編集者の名前はどこにも記述がない。また英訳第二版には、この事件のきっかけとなった「文化露寇」の顛末が追加収録されている。すなわち「フヴォストフ&ダヴィドフ日本航海記」である。


本書は三巻からなる。

第一巻 幽閉中のゴロヴニンの手記

第二巻 ゴロヴニンの手記の続き(解放に至る経緯が記されている)。及びゴロヴニンの後任としてディアナ号艦長となったリコルドの航海記録。リコルド・高田屋嘉兵衛によるゴロヴニン解放の交渉記録

第三巻 英訳者による日欧交流史ならびに日本解説、及びこの事件のきっかけを作った「文化露寇事件」の当事者、フヴォストフ&ダヴィドフの日本航海記

1824年 英訳第二版 オリジナルクロス装


2)ゴロヴニンの略歴

ヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニン(Васи́лий Миха́йлович Головни́н : Vasilii Mikhailovich Golovnin)

1776年 モスクワ郊外リャザン州グーリンキ生まれ

1790年 海軍士官学校入学14歳で海軍士官候補生に。在学中に実戦参加で活躍

在学中は、内外の航海家達の著作や、哲学、歴史、地誌、軍学、経済学、法学、文学と幅広く学ぶ。これはロシアの海軍士官学校の伝統でもあった。さらにプラトン、トマス・アキナス、ルソー、ヴォルテール、モンテスキュー、ディドロに親しみ、啓蒙主義、デモクラシーの理念や社会的・政治的思想潮流にふれた。発禁書であったプーシキンの詩篇にも影響を受けた

1793年 海軍士官学校卒業、以降ほとんどを海外での遠洋航海と海戦に参加する軍人人生を送る。

1802年 アレクサンドル一世の命でイギリス/ポーツマスへ留学。

1806年 サンクトペテルブルグへ戻り、ディアナ号艦長(中尉、大尉)に 北太平洋海域の調査目的であったが苦難に満ちた航海であった。ヨーロッパではイギリス、フランスとの緊張関係から、バルト海から出ることもままならない中、はるか北太平洋まで出かけた。

1811年 千島列島調査中に日本で捕縛され幽閉 2年3ヶ月に及ぶ抑留生活を送る

1814年 帰国 救出に奔走した副艦長のピョートル・リコルドとともに海軍中佐に飛び級

1816年「日本幽囚記」ロシア語版刊行 英語版など各国版翻訳

1817年 カムチャッカ号での世界就航へ 最後の航海

1819年 帰国 海軍大佐に昇進 帝国科学アカデミー会員

1821年 海軍准将 海軍兵学校校長補佐

1823年 海軍主計総監

1825年 露米会社取締役

1827〜30年 艦船建造指導 初の蒸気艦建造などロシア海軍近代化に貢献

1830年 海軍中将/副提督 聖アンナ勲章一等叙勲

1831年 サンクトペテルブルグに没す コレラで


3)ゴロヴニン事件とは その背景となる日露関係

ロシア帝国は東シベリアから北米(アラスカ北米植民地化を狙う)にかけての航路開拓のため、北太平洋の探検、測量をやっていた。またアラスカへの航路途中にある日本での補給のための不凍港をもとめていた。ロシアの伝統的な領土拡大戦略、「東進政策」「南下政策」である。このため、サハリン(樺太)、クリル(千島列島)、蝦夷地(松前)周辺にロシア船が頻繁に出没していた。蝦夷地、樺太、千島の開拓を進めていた幕府はこうして動きを警戒して、松前藩や東北各藩に北辺の警備の役割を仰せつけ、幕府直轄地として箱館奉行所を設けるなど、ロシア側の動きを強く意識していた。

日露通交の経緯を簡単に振り返ると、

ラックスマンの来航

1792〜3年、エカテリーナ二世の命令で、近衛中尉アダム・ラックスマンが根室に来航。大黒屋光太夫ほかの2名の漂流民を伴い、江戸への寄港を要求した。松前藩との交渉は難航したが、幕府(老中首座松平定信)からは、交易に関する交渉は長崎でのみ行うとして長崎入港許可書(信牌)が発行された。幕府は漂流民の帰国などで感謝の意を示し、ラックスマン一行はそれなりの好遇を受けた。ラックスマンはこの時は長崎には寄港せず一旦帰国するが、日本との通交に期待感が高まった。光太夫は9年にも及ぶ在露生活の中でエカテリーナ女帝にも謁見しており、帰国後は大槻玄沢や桂川甫周等による聞き取り、家斉との謁見で、ロシア事情について詳細な報告をしてる(「北槎聞略」に詳しい)。

レザノフ来航と「文化露寇」事件

ラックスマン来航から12年後の1805年、アレクサンドル一世の命令で、露米会社の代表ニコライ・レザノフが、先にラックスマンに発行された長崎入港許可証を持参して長崎に来航。仙台漂流民4名を伴い。しかし、すぐに認められると考えていた交易交渉は半年に渡る軟禁の末に結局は拒否される。ラックスマン来航から10年以上経過して幕府の方針も大きく変化してしまった(長崎入港許可を与えた松平定信も、幕府内の権力争いで老中を退任していた)。レザノフは幕府の不誠実な態度に怒り、1806〜7年にレザノフの部下であるフヴォストフ大尉、ダヴィドフ少尉率いる部隊によって樺太・千島列島・利尻を襲撃させる。樺太、択捉における幕府番所やアイヌ居住地区における放火、略奪、暴行、住民拉致を行い、利尻沖では幕府御用船を襲撃、略奪して引き上げて行った(後述のように本書の第三巻末にこの事件の記録が掲載されている)。この事件は、幕府や日本人に大きな衝撃を与えた。この時、警備にあたっていた幕府や南部藩、弘前藩の警備部隊は旧式の火縄銃や戦国時代さながらの骨董的な大砲で応戦するも、近代兵器には敵わず大敗する。一部の部隊は戦線から逃げ出すなど無様な有様であった。この責任をとって前線で指揮をとった奉行が切腹するなど、幕府の武威・威信が大きく傷つく事件となった。いわゆる文化年間の「文化露寇」事件である。この事件が、ロシアは他国の主権を武力で侵害する野蛮な国、との印象を現代まで200年にわたって日本人に深く刻み込まれることとなった。のちにアレクサンドル一世は、この襲撃の事実を知ると激怒し、フヴォストフ始め責任者を処罰する。本国の許可なき戦争であった。ちなみにレザノフは航海途中で病没していたので処罰を逃れた。しかし、幕府は突然の外国との戦争に直面してなすすべもなく、領土を蹂躙されたわけで、にわかに海防論が高まるきっかけとなった。しかし武力に負けて開港することはできないという松平定信の意見書もあり、むしろ海防政策、外交政策よりもますます内向きの「外国船打払」や鎖国の堅持に動いていった。「鎖国論」が言葉として共通認識化し、まるで家康以来の「祖法」であるとするきっかけともなる。日本を取り巻く環境の大きな変化にもかかわらず、結局、積極的な対外政策、防衛体制の見直しに取り組まないまま、事件に蓋をしてしまった。「不都合なことはなかったことにする」典型と言えよう。こののち50年後には米国ペリー艦隊の江戸湾来航があり、あっという間に開国へと向かうことになる。その予兆ともいうべき事件であった。

ゴロヴニン事件 高田屋嘉兵衛とリコルド

こうしてロシアに対する不信感と警戒心が頂点に達し、北辺の警備が厳重に執り行われている最中、ゴロヴニン事件が起きた。1811年、千島列島の調査測量航海中のロシア艦艇ディアナ号が国後島泊港に薪水補給のために寄港し、乗員が上陸した。現地では最初は比較的穏便に取り扱われていたが、結果的には「上」に伺いを立て、ゴロヴニン艦長他が捕えられる。先般の露寇事件が「未解決」であることが理由である。ゴロヴニンは、調査船であること、薪水補給が目的で、直ちに出港する旨説明するも聞き入れられず、結局、松前、ついで箱館に2年3ヶ月に渡って幽閉される。その後、拘束を免れた副艦長のピョートル・リコルドと、彼に、ゴロヴニン解放のための人質として拿捕された日本人商人高田屋嘉兵衛の奔走、尽力により問題は解決に向かう。彼らの仲介による幕府、ロシア政府双方の公文書交換、交渉により、露寇事件はロシア皇帝の意思ではなかった事、責任者を処罰した事を幕府に知らせ、ロシア政府からの事件に関する公式謝罪文書が出されて、ようやく1813年にゴロヴニン達が解放された(第2巻のリコルドの記録に詳しい)。この事件の解決にこれほど手間取った背景には、国交がないとはいえ、幕府側の情報収集能力、外交交渉力の欠如があった。ロシア政府の真意の確認をせず、その結果としての事態の誤認、そしてなによりもこれに伴う意思決定の遅れがあった。こうした背景には、もちろん「鎖国」政策を長く続けたことによる「平和ボケ」「外交音痴」があったとも言えるが、そもそも幕府の消極的な問題解決姿勢に尽きる。リコルドはその記録の中で、そうした背景には、日本人が長年、長崎のオランダ人による偏った世界情報しか得ていなかったことが大きいとコメントしている。特にロシアに対する偏見に満ちた情報が交渉の妨げになった、と述懐している。そのことの当否はともかく、結局は「民間人」高田屋嘉兵衛とディアナ号艦長リコルドの尽力による日露両国への働きかけ:「外交交渉」がこの事件の解決につながった。幽閉されたゴロヴニン他の扱いによっては、再びロシアによる蝦夷地攻撃の可能性がある緊迫した事態であった。これを避けることができたのは嘉兵衛の尽力によるところが大きい。リコルドの記録によれば、ディアナ号がゴロヴニン他を連れて函館を出港する最後の場面で、ディアナ号からは「ウラー!大将(嘉兵衛のこと)」。嘉兵衛の乗った日本の見送り船団からは「ウラー!ディアナ」と、お互いの姿が見えなくなるまでに別れのエールを交換したとある。ゴロヴニンの手記にも同様の記述があり、「友人」である日本人との別れを描いている。感動的なシーンである。リコルドは帰国後、この問題解決への貢献が認められて、ゴロヴニンとともに皇帝から生涯年金1500ルーブルを受け取ることになった。一方の高田屋嘉兵衛は、幕府により「国禁を犯し」海外渡航した罪で投獄された。のちに「ロシアに拉致された」ということで許されて出獄し、見舞金5両を受け取っている。この違いはどうであろう。また、嘉兵衛引退後の高田屋は、ロシアとの密貿易云々を理由に取り潰し処分を受け、蝦夷地や千島列島の開拓に尽力した北前船の大船頭「高田屋」の名跡は嘉兵衛一代で終わる。高田屋嘉兵衛については司馬遼太郎の歴史長編小説「菜の花の沖」がある。

プチャーチン遣日使節と日露和親条約

その後は、ロシア帝国はクリミア半島の領土化、黒海、地中海航路の制海権をねらって、クリミア戦争(1853〜56年)を起こす。このため兵力をヨーロッパ側に割かれ、挙げ句にオスマントルコ帝国とそれを支援する英仏連合に敗れる。この間、日露が接触する機会は少なく、極東北辺の海におけるロシアの動きは比較的静かであったが、むしろ日本近海にはイギリス船やアメリカ船が頻繁に出没するようになる。ついには1853年のアメリカ・ペリー艦隊江戸湾浦賀への来航、1854年の日米和親条約締結、「開国」へと歩むことになる。その翌年、1855年、アメリカに遅れじとニコライ一世の遣日使節プチャーチン中将艦隊が長崎へ入港。日露和親条約締結へと繋がってゆく。この間の事情は、ゴンチャロフ「日本渡航記」岩波文庫に詳しい。ロシアのあくなき領土拡張主義と、日本の一切の外交接触を回避しようとする消極的鎖国主義との長きにわたる確執が続いた末の日露外交交渉であった。アメリカの場合と異なり、日露両国間には単に開港するというでけではなく、歴史的な経緯を有する国境線の確定という重要課題があった。


高田屋嘉兵衛
(淡路島出身の豪商 
北前船で活躍し、兵庫、箱館を拠点に国後、択捉航路を開いた)


4)日本観察記 ゴロヴニンの視点「公平な観察者の目」

読後の第一印象は、ゴロヴニンという人物は、グローバルな視野、啓蒙主義的な知性を感じるインテリジェンスあふれる海軍士官であり、本書は彼の啓蒙主義的な「公平な観察者の目」による日本観察の記録であるということである。こんな人物が帝政時代のロシアにいたのか、という驚きである。それと彼が描いた当時の日本人の姿にも驚いた。鎖国下の日本に高田屋嘉兵衛のようなグローバル思考を持ち、それに基づいて行動を取ることができる人物がいたことへの憧憬である。そして辺境の現場の役人や通訳の意外なほどの見識と判断能力の高さを知った。幕府上層部と現場とのギャップというか「リーダーは凡庸でも、現場は凄い」をここでも感じた。そして最初の不幸な出会いによる憎悪と侮蔑の感情は、時間を経てコミュニケーションを重ねるに従って、相互の共感とレスペクトの感情に変わってゆく。その様な感情の変化は、のちのタウンゼント・ハリスやアーネスト・サトウの記録にも現れる。それなのになぜ日本とロシアはすれ違ったままなのか。色々考えさせられるきっかけとなる本書である。

ゴロヴニンの観察は、乏しい語学力と限られた人脈(通訳、牢番、箱館奉行所や松前藩役人)の中での、彼の高い情報収集能力、鋭い観察眼、公平な評価 レスペクトを持った対人関係に基づくものである。彼が若い頃から研鑽を積み、長い航海の中で磨き上げてきた素養がこういう場面で能力を開花させるのだろう。また間宮林蔵とも面会している。ロシア語を教える一方、測量技術や世界情勢についての意見交換を行った。しかし間宮は幕府のスパイであり、また測量技術習得が目的で近寄ってきた人物だ、と鋭く指摘している。また日本政府(江戸幕府)の海外情報はオランダ人の偏見に満ちた情報源に依拠しており、貿易でも粗悪品を高く買わされている。オランダ商館に完全に牛耳られた貿易(幕府自身は幕府主導の管理貿易体制とみなしていたが)と、外交意思決定プロセスを決定づける情報の質を痛烈に批判している(先述のリコルドも同様のコメントを記述している)。

一方で、彼の回想録からは当時の日本人の教育レベルの高さ、識字率の高さはもちろん知識の豊かさが感じられる。先述のように、通詞はもちろん、牢番にも高い教育があったし、彼らは単なる下僕ではなく、サムライであると認識している。庶民階層も日本の法律や政治情勢、また海外の動向にも一定の知識を持ち、少なくとも大いなる関心を示すだけの好奇心があること。またロシア語を学ぶ若者達の熱意と吸収力にも驚嘆している。先述の本書の日本語訳を手がけた蘭学者馬場佐十郎も彼にロシア語を学んでいる。そうした日本人の知的好奇心の旺盛さに驚嘆した様子が読み手にも伝わってくる。

ゴロヴニンは彼自身がかつて感じた、西欧人が持つ日本に関する偏見に満ちた知識や、いびつな理解はどこから来るのか?と考えた(本書の序文に、この疑問が執筆するきっかけの一つであったと記述している)。そしてそれは、17世紀に日本から追い出されたカトリック宣教師達の反日プロパガンダや。出島に幽閉されて「貿易」に携わっているとするオランダ人による偏った日本観が基になっていると断じている。彼の2年半の滞在、しかも囚人として理不尽な扱いを受ける幽閉された時間においてすら、そうした西欧におけるステロタイプな概念とは異なる日本人像を得ている。先述のように、彼がコミュニケーションした人物は、インタビューに来た蘭学者やインテリジェンスある若者もいたが、おもに牢番や通訳、箱館奉行所や松前藩の役人であったが、こうした限られた日本人から得られた「日本人像」が、すでに既成概念から遥かに離れたものであった。囚われ人として受けた理不尽で耐え難い扱いにもかかわらず、憎悪と敵愾心ではなく、冷静な観察と相手へのレスペクトがあった。日本人の高い教育と礼儀正しさは、母国の庶民階層のそれとは異なると理解した。庶民にまで教育が行き届いていることへの驚き。文化的には、上流階級の知識/教養/道徳観、さらには詩歌や芸術はロシアの方が上だが、庶民のそれははるかに日本の方が上だとも書いている。

日本人の通訳と、こんな会話をした時のエピソードが記されている。豊かな国がいくつにも別れていて互いに戦争しているヨーロッパの状況を聞いた通訳が、そのヨーロッパと日本の比較して、「豊かだが争いの多い大きな町」と「貧しいが人々が助け合って暮らす田舎」と、どっちが良いと思うか?という問いを投げかけてきたという。これにゴロヴニンは、ヨーロッパでは戦争もするが、お互いに門戸を開いて情報を交換し、人が交流し、交易し、技術を競争しあって発展している、と答えたが、それ以上の説得力ある答えを彼に示すことは出来なかった、と。人の話や情報を鵜呑みにせず、自分なりの批判的な理解と解釈を持ち、それを相手にぶつけて議論を試みる。これがデモクラシーを知らない封建的身分制のもとで育った人々なのであろうか。ゴロヴニンでなくとも、現代の日本人にとっても、この「江戸時代人」の意外な姿に驚きを禁じ得ない。

一方で、ゴロヴニンは日本人には、勇気、勇敢、度胸、不屈の精神といった資質が欠けているのではないか、と書いている。これは露寇事件のときの日本側の無様な敗北から得られた印象であったのであろう。しかし、それは根本的な潜在能力の欠如ではなく、また日本人が生来臆病であるとは言えないとも書いている。なぜならば、それは単に長く戦争がなく平和で安息を得られる生活に身を委ねてきたからである。有事の準備ができていないからだと。いざとなればたちまちその潜在能力を発揮するだろうと。その惨めな文化露寇事件から90年後には、かのロシア帝国が誇るバルチック艦隊を対馬海峡に沈め、爾霊山(203高地)を奪取し、旅順港、奉天を陥落せしめた日本の姿があった。彼の観察の正しさを見事に証明することとなったわけだ。ただ、対露戦勝利をきっかけに日本帝国が戦争への道を突き進み、最後は無惨な敗北を喫することになることまでは予見する術もなかった。日本の外交戦略に枢要な目線と世界観の涵養は今なお課題である。

日本が西欧流の知見と技術や制度を取り入れたら、数年の後には東洋の王者となり、後には西欧諸国を脅かす存在になるだろう。そうなれば清国も同じ方針を取らざるを得なくなり、この2つの東洋の帝国はすぐにでもヨーロッパ情勢を別に局面に塗り替えてしまうだろう、と予見している。このゴロヴニンの洞察の意味は、残念ながら今は様々な理由からその真価が見失われている。ロシア人は1904年の日露戦争敗北を目の当たりにして、あの時のゴロヴニンの指摘をなぜもう少し真摯に受け止めなかったのかと後悔したのかもしれないが、その後の対日観にも、このゴロヴニンの視点と理解が生きているようには思えない。一方、日本でも、ロシアに対する拭えぬ不信感がこの200年の間に植え付けられてしまった。かつ領土的野心を露わにする「仮想敵国」への不信感はいまだに払拭されていない。ゴロヴニンの、理不尽な逆境にあってもなお日本人への人としてのレスペクトと鋭い洞察と公平な評価を思い出し、そのようなロシア人の存在を思い起こすべきであろう。また彼は、手記の中で、日本の役人がロシア皇帝からの謝罪文に皇帝のサインがあることを確認すると、全員が皇帝のサインにむかって最敬礼をした、と書いている。お互いが信頼し合ったときに、相手へのレスペクトが生まれ、最後は「友人」として別れることができた。彼が偉大な英雄として後世に名声を得たのは、理不尽な幽囚からの解放を勝ち取った冒険者だからではなく、幽閉中に示された日本人の露骨な憎悪の中においても、その行動を理解し、それを許すという理性的な公平さを示したからであろう。そして彼の観察と予見が、その後の歴史をみれば的確であったことが証明されたからでもある。また高田屋嘉兵衛とリコルドの人間としての相互のレスペクトと信頼関係が問題の解決に繋がったという、彼らが我々に残した教訓にも学ばねばならないだろう。国と国の関係は人と人との関係によって規定される。


5)ロシアというパラドックス

それにしても、こうしたゴロヴニンやリコルドのような、啓蒙主義的知性を備え、「公平な観察者の目」を持ったロシア人のイメージが、この200年でなぜ消え去ってしまったのか。いや、日本人にとってレザノフの部下による理不尽で残虐な事件による負のイメージが200年も歴史観の基層に巣食い、このゴロヴニンにような「目」を日露両国の人々が共有することなく、不信感と憎悪を修正できなかったのは何故なのか。歴史的には、明治維新の後に、いみじくもゴロヴニンが予見したとおり、いやそれ以上に日本が軍事的大国として成長し、ついには暴発して世界平和の脅威になったことにも原因があるだろう。また、ロシアの伝統的な南下政策という領土的な野心に加えて、ロシア革命による共産主義国家ソビエトの登場が世界平和の脅威となったことも原因であろう。また、日本人がかつて経験した「受け入れ難い体験」を忘れることができないからかもしれない。今でもソ連に不法占拠された北方領土問題(まさにゴロヴニンもリコルドも日本の領土だと認識していた島々)が解決していないことにも原因がある。日露両国は隣人ではあるが、残念ながら真の友好国になったことはない。しかし、そんな政治的緊張関係や歴史の記憶もさることながら、ロシアにおいては帝政ロシア時代に花開きつつあった西ヨーロッパ的な啓蒙主義の思想や文化や、デモクラシーの萌芽、そうした教養を備えた人物が十分に育たず、あのロシア革命で抹殺されてしまったのではないだろうかと、最近考えるようになった。ゴロヴニンやリコルドのような人間はどこへ行ってしまったのか。あの頃は軍人の中にもこういう人物がいたではないか。トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーのようなヒューマンでおおらかなロシア人はどこへ行ってしまったのか。国家としての過ちを認め、皇帝が謝罪するロシア。そういう観点で振り返ると、ロシア革命は何をなしたのか?何を失ったのか?スターリンのような独裁者と恐怖政治を生み出しただけか?その結果、近代民主主義国家が共有する「共通の価値観」を共有できない国家になってしまったのではないか。さらにその「共産主義革命」という歴史的な実験の破綻が、近代民主主義国家に転換する事に繋がらず、歪(いびつ)な社会と価値観を生み出し、再びプーチンのような怪物が登場することになってしまった。嗚呼!大ロシア主義。時代錯誤と笑い飛ばすにはあまりにも悲劇的であろう。ロシアにとっても世界にとっても。ロシア帝国海軍士官ゴロヴニンは今のロシアと日本と世界を見てなんと言うだろう。


参考ブログ:

日露戦争奉天会戦のクロパトキン将軍による「敗軍の将、兵を語る」書。この敗戦を記録し、後世のために残したロシア軍人の矜持。そして、当時のロシアはこのような出版ができた国だった。ロシア革命の8年前のことであった。

2022年3月21日 戦争の只中に「敗軍の将兵を語る」書と遭遇する





第一巻 表紙
英訳第二版 1824年


第三巻 日本観察記

第三巻 「フヴォストフ&ダビドフ航海記」
文化露寇事件の当事者による記録


参考図書:

「日本幽囚記」ゴロヴニーン 井上満訳 岩波文庫 (絶版)

「日本幽囚記」ゴロヴニン 斉藤智之訳 私家本

「菜の花の沖」司馬遼太郎 文藝春秋