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2023年3月10日金曜日

古書を巡る旅(31)Adam Anderson's "Origin and History of Commerce" 〜18世紀の"サラリーマン"が書いた「大英帝国商業史」〜

1790年ダブリン版全6巻


商業の神マーキュリーのシンボル

表紙

世界地図

古代の世界地図プトレマイオス図



 今回取り上げる古書は、18世紀イギリスのアダム・アンダーソン:Adam Anderson著の「商業の起源に関する歴史的・年代記的推論」:HIstorical and Chronological Deduction of the Origin of Commerce 。6巻からなる大著である。初版は1764年であるが、本書は1790年の第三版である。本書には、長々しい表題が付けられている。この時代の書籍にはありがちな、本の内容をひと目でわかりやすく説明するためのサマリー形式のタイトルである。参考までに掲載すると下記のようになる。

Historical and Chronological Deduction of thr Origin of Commerce, from the Earliest Accounts
containing 
An History of the Great Commercial Interests of The British Empire.
To which is prefixed, 
An Introduction,
exhibiting 
A View of the Ancient and Modern State of Eupope; of the Importance of Our Colonies; and of the Commerce, Shipping, Manufactures, Fisheries, &c. 
of 
Great Britain and Ireland; and their Influence on the Landed Interest
with an Appendix, 
containing 
The Modrn Politico-Commercial Gepgraphy of the Several Countries of Europe.

Carefully Revised, Corrected, and Continued to the Year 1789, By Mr. Coombe.

抄訳すると、

大英帝国の商業的利害の歴史、商業の起源に関する歴史的、年代記的推論 
(序論)グレートブリテン・アイルランドとその影響下にある地域の、古代〜現代ヨーロッパ諸国に関する見解、我が殖民地の重要性に関する見解、商業、航海、製造業、漁業その他に関する見解
(補遺)現代ヨーロッパ諸国における政治的・商業的地理について

この表題が本書の内容を「わかりやすく」説明しているかどうかは別にして、要するにヨーロッパにおける商業活動、通商の起源を「ノアの箱舟」の創世記にまでさかのぼり、古代、紀元前の交易から解き明かす。その上で、ローマ帝国、ヨーロッパ各国、そして大英帝国の海外進出、貿易、植民地、製造業などに及ぶ商業活動を時系列的に記述している。国家財政、交易商品、物価、通貨、株価、人口、貿易量に関する詳細なデータが紹介され、さらに法令・条約も掲載されているなど、網羅的であるとともに詳細を極めた年代記となっている。ヨーロッパ諸国・大英帝国の商業史研究にとっても、また歴史書として貴重な大作であることから、後世の研究書や論文等に度々引用されている。年代から出来事の検索でき、またキーワードによる索引も充実しており、いわば経済史事典としても重宝されている。商業活動が「国家の富」と認識された重商主義政策時代の著作だが、すでに産業革命の時代に入っており、やがてデヴィッド・ヒューム、アダム・スミスの自由主義貿易政策の時代へと転換してゆく。そういう時代の大きな転換点にあって、商業活動の歴史を俯瞰した通史としても重要な著作である。日本語の翻訳は出ていないようだ。


著者アダム・アンダーソンとは?

今回の書の著者であるアダム・アンダーソン:Adam Anderson(1692or3〜1765年)はスコットランド生まれ。ロンドンの特許会社、南海会社:South Sea Companyに40年以上、経理社員として奉職し、最後は株式・年金資金運用の責任者として退職:Chief Clerk for the Stock and New Annuities of the South Sea Company。ジョージア植民地のトラスティーの一人にもなったという人物である。しかし彼に関する記録は少なく、生まれやアカデミック・バックグラウンドなど、本書の編集者による序文にも著者についての紹介がない。上記3作の著者は、アダム・アンダーソン以外は、歴史学者であったり高位の聖職者であるが、アンダーソンは、このように経済学者でも歴史学者でもないし、高位高官の地位にあったわけでもない。会社の会計担当者の一人に過ぎない人物であったのだが、その博識と長年の実務的な観点からの分析能力、資料批判力がこの大著を書かせたのだろう。内容には翻訳や二次資料引用に伴う間違いが多いとされるが、過去の二次資料からの引用は別として、後年の記述は正確であり資料としても信頼性は高いと言われている。こうした誤りや不足分は彼の死後に編集者(William Combe)によって訂正と追補がなされている。したがって今日まで、この年代記が当時の商業史の代表作であると評価されている。ある経済史研究者は、「アダム(聖書の創成記に登場する最初の人間)とアダム(自由主義経済を主張したアダム・スミス)の間をつないだもうひとりのアダム(アダム・アンダーソン)」と評している。少し褒めすぎとは思うが。現代風に言えば、彼は大企業のサラリーマンで、最後に管理職に昇進してリタイアーしたという経歴の人物である。在職中、よほど社内外の情報、資料に接する機会が多かったのか、歴史を勉強し執筆する時間に恵まれたのか、このような網羅的、詳細な商業史編纂をものすることが出来たとは。同じように一つの会社に40年以上奉職した終身雇用時代のサラリーマン経験者の筆者としては、驚嘆するとともに敬意を評したい。


初版及び改訂版の内容

初版:1764年 2巻フォリオ版 原著 ロンドン出版 London: A. Millar; J. & R. Tonson; J. Rivington; R. Baldwin; and others

        献辞:ウィリアム・ピット:William Pitt, First Lord of the Treasury and Chancellor of the Exchequer

第二版:1787年 4巻フォリオ版 編集者による増補改訂版 ロンドン出版 London: J. Robson; T. Payne & Sons; B. White & Son; L. Davis; and others

第三版:1790年 6巻 さらに追補・改訂しフォリオ版を廃して6巻本とした ダブリン出版 Dublin: Printed by P. Byrne

        献辞:ジョン・フォスター:John Foster, One of the Lord Justices, and Speaker to the honourable the House of Commons of Ireland

1764年の初版(ロンドン版)は原著者アンダーソンによる記述 (1762年まで)である。彼の死後、1787年に第二版が編者Mr. Combe (William Combe:後述の参考1)による追補改訂版(原著に2巻追加して全4巻とした)が出版された。1790年のダブリン版はさらに改訂追補され、アンダーソンの死後、現在(1789年)までのアップデート版ということになる。したがって、原著には記述がなかったアメリカ植民地十三州の独立宣言(1776年)と独立承認(1783年)、フランス革命(1789〜)前夜の緊張状態など、世界史の画期となる出来事が盛り込まれている他、1770年頃から産業革命期に入ったことから、マニュファクチャリングの隆盛が記されている。また新たな事柄で出版までに間に合わなかったヨーロッパ諸国における出来事についてはAppendixにまとめて追加されている。たとえば、新しい産業機械の発明(蒸気機関や自動織機など)や、Genaral Post Officeの改革が取り上げられているのが興味深い。

本書は年代別に、商業活動、貿易、航海に関する記事の他、その年の王室の動き、政治情勢、海外情勢についても掲載しているので、先述のように、いわば経済史事典、あるいは歴史年表としても使える。特に、アルファベット順、年代順のインデックスが充実しているので、記事の検索に非常に便利である。第4巻一冊の殆どがこのインデックスになっている。例えば、「イギリス東インド会社(English East India Company)」というキーワードで検索すると、年代順に130件の記事が拾い出せる。さらに、その東インド会社の日本との交易関係を検索すると3件の記事が見いだせる。我々が慣れ親しんでいる現代の百科事典とは編集形式が異なるが、その違いを理解すれば便利に使える。ちなみに、対日貿易に関する記事を読んでみると、1613年の項(下記参照)で、ジョン・セーリスが東インド会社の艦隊を率いて日本へ渡航し平戸に入港。イギリス商館を開いて交易開始した、と短く触れられている。しかし、ポルトガルの宣教師やオランダの妨害に会い、セーリスは日本撤退を余儀なくされたしたとしている。実際には、平戸に駐在したのはリチャード・コックスであり、コックスは1623年の平戸撤退まで10年にわたって日本で奮闘しているのだが、その活動記事はない。また、このきっかけを作ったウィリアム・アダムスに関する言及もない。その後の1681年のリターン号の日本ミッションらしい記事も見えるが、中国との交易交渉のほうがメイントピックとなっている。大英帝国にとって成功しなかった対日貿易に関する記録は簡略化されているように見受ける。ただ、ライバルであるオランダとの東インドにおける攻防(アンボイナ事件など)に関しては詳細に記録されている。

18世紀後半といえば、アメリカ植民地の独立、フランス革命によるヨーロッパの混乱、戦争、産業革命による製造業の発展、インド植民地貿易の全盛へ。商業活動や経済発展がイギリスを大英帝国へと発展させる途上の時代である。商業活動を支える経済政策が重商主義から自由貿易主義へと転換する時代でもある。いわば、ジョサイア・チャイルド(重商主義者、東インド会社総督)から、1776年の「国富論」の発表に象徴的なアダム・スミス(自由貿易、レッセフェール)へと、経済思想、政策の主役が交代する時代である。本書はこうした、大きな時代の転換点、すなわちアダム・スミス(1723~1790)の時代の前夜までの歴史的記録であると言えよう。


経済史の原点「年代記編纂の時代」

現在では経済史という研究領域があるが、いつ頃からこのような経済や商業、貿易に関する歴史に関心が持たれるようになったのだろう。イギリスにおける経済史学の黎明期は17世紀だと言われており、この時期にいくつかの経済活動に関する著作が表れる。以前のブログで紹介したジョサイア・チャイルドの著作もその一つである。こうした経済思想や商業活動の歴史への関心の高まりは、かつては貿易や商業活動が、都市や一部の富豪の富の形成という問題に眼が向けられていたのに対し、18世紀になると「国家の富」:Wealth of Nationの問題へと関心が移っていったことと連動している。経済政策が国家の大きな課題となり、国富の増大と、その実現のための研究が必然的に求められるようになった。その一つが、当時商業活動、海外進出で発展著しかったオランダへの関心である。当初のオランダの海外進出は、各都市ごとに船団を組み、富豪がそれに投資するという方式であったが、投資効率を上げ、利益率を最大化するため、株式会社制度を生み出し、税制優遇措置、特許会社化などを含め、国を上げた「連合」会社形式での海外進出、交易拡大に向かい成功を収める。その成功モデルに学ぼうというもの。もう一つは古代における航海と商業の起源を探ることであった。この頃の歴史家は、その起源を聖書の創世記にさかのぼって語ることが一つのスタイルであったようだ。アンダーソンの年代記も「ノアの箱舟」が金を運んだエピソードを交易の起源として取り上げている。歴史家が直近の成功事例と、過去の事例、さらにその起源となると考えた聖書のエピソード、古代の事蹟、そこから発する歴史に何らかの教訓を探ろうとしたのは、これから商業活動を発展させ「国家の富」を形成しようという重商主義的な時代の要請であった。特に海外進出に積極的であったイギリスの王室、政治家や投資家、学者にとって、強力な競争相手であるオランダの強みの秘密の解明と、その他の諸国の動向、イギリスの現状との比較研究は必然であった。また、その一方で計数的な分析・評価方法が、過去の成功の秘密を解き明かす有効な手法と考えられた。このいわば「政治算術」ともいうべき、一種のマクロ経済的な課題分析手法、予測手法が生まれた時代でもあった。こうした17世紀後半の商業活動の事例研究に対するニーズは、やがては18世紀初頭の、極めて広範かつ多岐にわたる資料の収集と編纂、資料批判、計数的方法による分析、という新たな「年代記の編纂の時代」:Age of the Annalistへと繋がっていった。


その「年代記の編纂の時代」の代表的な編纂者、著作としては、次の三人が挙げられる。

ウィリアム・フリートウッド:William Fleetwood (1656-1723)  Chronicon Preciosum:「物価の年代記」1707

ジョン・スミス:John Smith  ( -1747)   Chronicon Ruscum-Commerciale; or Memoir of Wool etc., 「農村商業の年代記、別名 羊毛の覚書」1747

アダム・アンダーソン:Adam Anderson  (1692,3-1765)  Historica and Chronologica Deduction of the Origin of Commerce 「商業の起源に関する歴史的・年代記的推論」 1764、追補改訂1787, 1790

また、このアンダーソンの業績をベースとし、それに加筆、追補した著作に、デビッド・マクファーソン:David  Macpherson (1746-1816)  Annals of Commerce, Manufactures, Fisheries, and Navigation, 4 vol. 「商業・製造業・漁業・航海の年代記」1805 がある。



アルファベット順、年代順のインデックス
「ノアの箱舟」に始まり1787年まで

1613年の項
セーリス艦長の率いる東インド会社の艦隊が日本の平戸に入港した記事



南海会社と南海泡沫事件

ところで、著者アダム・アンダーソンが40年在職したという、南海会社:South Sea Companyとはどのような会社であったのか。この会社名を聞いて、イギリス経済史における「南海泡沫事件」:South Sea Bubbleという歴史的事件を思い出す人も多いであろう。この南海会社は当時のイギリス経済の「バブル崩壊」のきっかけを作った会社である。以下に簡単に紹介しておきたい。

南海会社:South Sea Company(1711〜1850年)

18世紀のイギリス特許会社。南海(アフリカ、南米)向けの奴隷貿易のために設立された。しかし裏の目的は、当時財政破綻に瀕していた政府の負債(債権、証券)を引き受けて、貿易の利益で補填することが目的であった。しかし、奴隷貿易は十分な利益が上がらず、富くじ:Lottaryを始め、大きな利益を上げたことをきっかけに、金融事業を始める。債権や国債を引き受けて市場の売買で利鞘を稼ぐ「財テク会社」として大儲けした。また政府債権と会社株式の交換レートのトリック(「南海計画」と称する仕組み)を利用し、会社の株価が急騰(半年間で100ポンドの株が、700ポンド、さらに1050ポンドに跳ね上がった)。株主や投資家の間で「南海成金」を生むも、すぐに暴落して多くの破産者が出た。その後も南海会社は清算されず、奴隷貿易や北極海での捕鯨事業などに手を出すがうまくゆかず、細々と金融事業などで1850年まで存続した。ちなみに特許会社は、この他にも有名な、イングランド銀行や東インド会社 (17〜19世紀 キャラコバブル インド植民地経営)や、ハドソン会社 (1670〜現在もカナダで存続 百貨店チェーンThe Bay)などがある。これらは国営、ないしは王立というわけではなく、勅許により独占的な権利を与えられた民間からの出資による株式会社:joint stock companyである。

南海泡沫事件:South Sea Bubble(1720年)

先述の、南海会社の株式急騰と暴落(バブル崩壊)による混乱事件であるが、さらに南海会社の株式急騰に触発されて、事業もせず投資資金だけを募る無許可の泡沫会社が190社以上も乱立、投機熱を煽ることとなった。当時は裕福な中産階級が生まれ、その内部留保資金の運用先を求めて、マネーが動くという一種の金余り状態であった。結果、多くの会社が破綻し、投資資金が回収できなくなり、都市ブルジョア(中産階級)はじめ、貴族、ジェントリーから庶民までが破産するという大惨事となった。有名人ではアイザック・ニュートンやヘンデルもこれで大損失を被ったと言われている。「バブル経済」の言葉の由来となった事件である。ニュートンは「天体の動きは計算できるが、人間の不可解な欲望の動きは計算できない」と言葉を残している。これを受けて、ロバート・ウォルポールが財務相、また首相となって規制法を制定(Bubble Act 1720」。責任者の追求、処罰は曖昧なままであったが、この結果、大半の泡沫会社が消滅させられ、株券が紙くずとなり、いっそう破産者が増える結果となった。しかし、これで経済パニックは収束していった。以後、この事件が、近代的な会計監査制度、公認会計士制度が始まるきっかけとなった。南海泡沫事件に関しては、本書の1720年の項でアンダーソン自身が詳細に記述している。インサイダーが見た「南海泡沫事件」顛末記というわけだ。読んでいると、まさに労働や交易から生まれたリアルな富ではなく、金融操作によるあぶく銭、フェイクな数字で人が踊らされた出来事であって、まさに「歴史は繰り返す」と、バブル崩壊を経験した日本人なら痛感するであろう。我々は本当に歴史に学んだのだろうか。しかし、イギリスは、そのバブル崩壊後、これを教訓として会社のコンプライアンス制度を整え、財政再建に成功し、技術イノベーションである産業革命とインド植民地経営拡大で大英帝国繁栄への道を歩んでいった。日本はバブル崩壊後の再生の道を模索して30年になる。トンネルを抜けるのはいつなのか。


参考1)

1787年版の編者のWilliam Combe (1742−1823)は18〜19世紀前半のイギリスの著述家。様々な旅行記や詩を書き、また、ノンフィクション作家として翻訳や歴史物を手掛けた。代表作はコミック詩集「The Tour of Dr. Syntax」。当時人気のイラストレーター、トーマス・ローランドソンが挿画を担当している。またローレンス・スターンと交流があり、彼の作品「トリストラム・シャンディー」の中で出てくる手紙などのシャドウライターであると言われている。後半人生を債務刑務所で過ごし、ここで多くの著作をモノしている。アンダーソンの著作の編集、追補もここで行ったと見られる。このように、ほぼ手当たりしだいと言ってよいほどに幅広いジャンルを手掛けていたことにも驚嘆させられる。


Wiliam Combe (1742-1823)

参考2)

日本は、第八代将軍徳川吉宗(1714−1745年)の「享保の改革」(緊縮財政、質素倹約、上米の制)の時代から、老中田沼意次(1767−1786年)の「重商主義政策」(専売制、会所制、冥加金)の時代、そして老中松平定信(1787−1793年)の「寛政の改革」(倹約令、棄涓令、寛政異学の禁)へという時代であった。


南海会社ロンドン本社(19世紀頃)

南海会社社章


当時の諷刺画家ウィリアム・ホガースによる

投機バブルを皮肉る漫画(ウィリアム・ホガース)

2023年3月2日木曜日

皇居東御苑に春が来た! 〜紅白梅、河津桜、緋寒桜、山茱萸、満作、三椏、薮椿...そしてインバウンド復活!〜

 皇居東御苑に春が来た!長い長い冬が明けて春が来た!梅林坂の紅白梅が満開になった。河津桜、緋寒桜、満作、山茱萸、三椏、薮椿等々が次々と開花している。コロナ禍による外出規制も撤廃され。入国規制も緩和され、久しぶりに外国人観光客の姿が増えた。日本の観光を楽しんでもらいたい。気温も一気に四月中旬並みに上昇!春だ!

今は芝生広場となっている本丸跡は、昔の江戸城の「表」である本丸御殿や大奥があったところ。今年の大河ドラマ「どうする家康」や、夜ドラ「大奥」ゆかりの地である。この「どうする家康」は出足の視聴率が低迷していて、どうも人気がイマイチ。このままでは、松本潤演じる「家康」はここ江戸城の本丸に辿り着けないのではないか、と心配になる。一方の「大奥」の方は、男女が逆転した大奥と表を描くパラレルワールドドラマ。この奇想天外な設定に、妙なリアリティーと社会問題がうまく描かれている。これが結構面白い。この本丸跡や大奥跡に立つと、冨永愛演じる「吉宗」の時代にワープする感覚を味わえる。



梅林坂は満開!




大奥跡 河津桜

梅林坂




三の丸庭園



諏訪の茶屋



白鳥濠 蕗の薹

本丸跡



薮椿




満作



山茱萸



三椏

百人番所





2023年2月27日月曜日

古事記の神話は「文字の起源」をどのように語っているか? 〜「漢文」「変体漢文」「万葉仮名」から「平仮名・片仮名」へ〜


古事記 寛永版板本(江戸時代)




「文字」を使う、ということはどういうことを意味するのか?

音声による「言語」は、誰かが作ったり、使わせたりしたものではなく、人々が感情や情報や意思を「伝える」ために「発声」し、それを聞くという「聴覚」によるコミュニケーションツールとして自然発生的に生まれたものである。「言語」を持つ、すなわち、言葉を話すという行為はホモサピエンスが他の生物と一線を画すものの一つである。しかし、一方で「文字」は、その「言語」の発展過程で誰かが作り、決めて、ある目的のために使わせた記号である。書き記し、読むという「視覚」によるコミュニケーションツールである。「話し言葉」と同じように「伝える」ために創造されたのだが、自然発生的に生まれたものではない。発生起源的に言えば、優越的地位にある者が、一族や地域や国家の統治、支配のために作り出した記号の体系、あるいは支配のための社会インフラである。「文字」により成文法を制定し、税制を定め、歴史を記録する。「文字」が「国家」を生み出した。すなわち「文字による国家」の出現である。例えば、ヒログリフはエジプト王朝が、またローマ字、ラテン語はローマ帝国が、漢字、漢文は中国王朝が、統治のインフラとして作り出した。「読む」「書く」は、しばらくの間、一部の人々にだけ与えられた能力/権能であった。「文字を使える者」と「使えない者」という格差があった。それはすなわち「支配する側」と「支配される側」という階層の存在を表わしていた。庶民が日常のコミュニケーションの道具として読み書きを「学び」「用いる」のは、ずっと後の時代のことである。そして、「文字」は人間の脳の外部記録装置として、「記録として残す」「後世に伝達する」ためにも使われてきた。これも「支配する側」にのみ可能な行為であった。然り而してその記録は主に為政者によって残されたものであった。現在にあって過去を知る手掛かりが得られるのも「文字」による記録があればこそである。しかし、ホモサピエンスはその10万年以上の長い進化の歴史の中で、93%の時間は文字がない時代を過ごしたと言われている。文字を用いるようになったのはわずが直近の5〜6000年のことだ。例えば、漢字は3000年ほど前の、中国中原に現れた甲骨文字に由来する象形文字が起源だと言われている。その漢字が中国王朝の歴史を延々と語り繋いで来た。では、日本では「文字」はいつ頃から用いられたのか?古事記が日本初の「文字」による歴史記録であると言われているが、それ以前に」文字」は存在せず、用いられなかったのか?


第一ステージ:漢文

列島における文字の最初の出現はどのようなものであったのか。それは、中国の史書である後漢書に記述のある奴国、あるいは三国志魏志の邪馬台国など、1世紀〜3世紀の中国王朝の朝貢冊封体制における通交のなかで、中国皇帝から倭の王に与えられた、冊封の証である金印(漢委奴國王)や、威信財として下賜された鏡(銅鏡百枚)などに刻まれた文字として現れた。すなわち、すでに1世紀には倭国で文字が使われていたのである。と言ってもそれは中国から与えられた文字、漢字であり、中国王朝への朝貢、冊封関係の中でのみ使われた。すなわち、印綬を用いて漢文で国書を書く必要に迫られて漢字を使用するという、倭国の対外関係(いわば外交で)で使われていたに過ぎない。奴国や伊都国、邪馬台国など倭国内部の統治や、王権内部における通信、記録といったものに文字が使用された形跡はない。まして人々の日常生活におけるコミュニケーションに文字・漢字を使用することはなかった。少なくとも漢文・漢字を操れる人は、後漢王朝や魏王朝との通交、交渉に携わるほんの一部の人であった。おそらくは大陸からの渡来人であったのだろう。そういう意味で、倭国にはその当時の国内事情を窺い知ることができる文字史料はない。少なくとも現時点では見つかっていない。ただ、硯の破片ではないか、という遺物が、北部九州の3世紀前半の遺跡から見つかっており、今後、何らかの「文字」にまつわる考古学資料が出てくる可能性はある。


金印
福岡市博物館


第二ステージ:和様への変化の兆し

次に列島に文字が表れ、それが列島内部で意味を持つようになるのは、5世紀になってからである。奴国の金印から400年後、邪馬台国卑弥呼の「景初4年」の銅鏡から約200年後のことである。それは和歌山県の隅田八幡宮鏡銘、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣、熊本県の江田船山古墳鉄剣などに刻まれた文字(金石文)である。これはヤマト王権の大王が倭国の統治の権威を示すものとして、地方の豪族に下賜した権威の証、ないしは「威信財」と考えられている。すなわち「ワカタケル大王」(すなわち雄略天皇のことを指すと考えられている)が、地方豪族に王権の役職である「杖刀人」や「典曹人」などの職位を与えたものと考えられている。列島を支配下に置きつつあったヤマト王権が、地方豪族を支配・統治する道具として文字・漢字を使った初出である。これは中国王朝の朝貢冊封体制を、倭国/列島内部統治に転用したものである。文字による国内統治の始まりである。用いられたのは漢字であるが、中国の漢字とは少し異なる字体に変化している。また漢字という表意文字を倭語の表音文字として一音に一字をあてて用いたものである。この頃から、徐々に漢字が楷書などの中国伝来の形態から、少し描きやすく崩した、「倭人の感性にあった」形態に変化していると考えられている。後の仮名へと繋がる変化の萌芽と言えよう。

そして6世紀の仏教伝来(538年ないし552年)の時期、仏典とともに文字(漢字)が本格的に流入する。文字は仏典の写経に用いられ、学習、布教のためにヤマト王権の中枢や寺院で用いられた。用いられたのは漢語、漢文で、きちんとした楷書で記述されている。この延長線上に7世紀初めの聖徳太子の十七条憲法などの文字で表された「法制度」があると考えられている。しかし、原本、写本は現存しておらず、後の日本書紀に、全文引用した、とされるものが唯一今に伝わる十七条憲法である。従って、その存在を疑う偽書説や、日本書紀において初めて文字化されて記述された、とする説などがある。少なくとも5世紀以前に日本に文字で記録されたものはほぼ見つかっていない。


稲荷山鉄剣
埼玉古墳博物館



第三ステージ:変体漢文

7〜8世紀初期の律令制国家の整備とともに、文字(すなわち漢字)が国内政治の重要な統治ツールとして用いられるようになる。稲荷山鉄剣や江田船山鉄剣の時代から200年ほど後の時代だ。言い換えれば、律令国家は文字によって成り立つ「文字の国家」である。成文法を持ち、文字によって国家機構を定め、税制を定め、記録し、国を運営する。この律令国家「ヤマト王権」の支配が全国に及ぶにつれ、文字が一気に広まって列島全域をカバーするようになる。このことは藤原京、難波京、平城京跡のみならず地方官衙跡から大量に発掘される木簡の文字からもわかる。そうした事情を背景として、ヤマト王権の統治権威の源泉と正当性を記述する「正史」である「日本書紀」、あるいは統治者たる天皇の「物語」である「古事記」が生まれた。この前にも、おそらく文字を用いた帝紀、旧辞などの記録があったとされる(古事記の序文に記述)が現存しておらず、645年の乙巳の変で蘇我宗家が滅んだときに焼失してしまったのではないかと言われている。また。古事記の序文によれば、古事記は稗田阿礼が誦習したものを太安万侶が文字化したものである、とある。しかし、単純に口承を文字化したということではない。稗田阿礼が誦み習った元の記録(帝紀、旧辞など?)は確かにあったであろうがそれは漢語で記述されており、それは阿礼の誦習を伴わなければ日本語として用をなさないものであった。それをさらに文字に書き記すということは、表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにする。そのような創造的な作業が伴うプロジェクトであったはずだ。すなわち古事記は「漢文のようで漢文ではない」ものである。「変体漢文」などと言われているが、それは漢文の変種ということではなく、漢文を離れて日本語として漢字を用いたものである。その「日本語化」の営みこそ、律令体制の中での「文字の国家」日本を表現することであり、古事記はその象徴的な作品であったと言える。したがって、古事記は古来からの伝承の延長にあるのではなく、律令国家の世界観を漢字を用いた「日本語」で創造し作品化したものである。この点が、中国、朝鮮半島の王朝を意識して漢文で書かれた「日本書紀」と異なる点だ。したがって、古事記や日本書紀に記述のある天皇の事績などの記録については、その根拠になったという帝紀、旧辞は6世紀のものであろう。しかし少なくとも5世紀以前(応神、仁徳以前)には文字化された記録はなかったはずだ。

ちなみに、現在目にすることが出来る古事記も、編纂から660年後の室町時代に書き写されたいわゆる「真福寺本」が、現存する最古の写本とされていいる。それ以前の写本は残っていない。書写は、書き写しの間違いや、脱落、解釈違い、故意の改変(構成の取捨選択)などが介在するので、正確にオリジナルの内容が後世に伝わっているかは疑問である。後世になればなるほど、書写した人の意思や解釈が介在して変容している可能性が高い。古事記を読んでいて、筋が通らない箇所や、矛盾するエピソード、話題が飛ぶ箇所などが多いのは、こうした後世の繰り返された書写のせいだと考えられる。


古事記 真福寺本 書写本(室町時代)


第四ステージ:万葉仮名

奈良時代になると日本初の詩歌集である万葉集が編まれる。750年ころの編纂と考えられている。編纂の意図を記述した序文も、編纂者の記録もない不思議な詩歌集であるが、約7000首が撰録されている。漢詩も多く掲載されているが、七五調を基本とする長歌、短歌を集めた和歌集である。詠み人は天皇から、中央の高級官人、地方官人、専門的な宮廷歌人、そして名も知れぬ防人や庶民まで含まれている、という稀有な和歌集である。しかし、これは、この時期には庶民まで「文字」を使って歌を詠んだということではない。歌の撰録は、大伴家持のような高級官人が行い、口承を文字にして書き記した。万葉集も漢字が用いられたので一見漢文のように見えるがそうではない。また、先述の古事記や木簡に見えるような「変体漢文」とも異なる。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれた文字、いわば「日本語」で記述された。これは漢字の音だけを借用して一音一字で(表音文字として)日本語を記述するもので、後の平安時代に生み出された平仮名や片仮名のルーツともいうべきものである。正倉院文書にも万葉仮名が見え、公式な文書にも用いられた。また、難波宮跡から出土した、659年と思われる木簡には、後世の古今和歌集にまで歌い継がれる著名な「和歌」が認められており、万葉集編纂以前から漢字の音を用いて一音一字で綴った和歌が詠まれていたことを示す貴重な発見である。漢文、漢詩は宮廷の高官、官人の必須教養であったが、徐々に日本語の和歌が新たな文書行政手段、表現手段として認知された時代でもある。歌の世界が漢詩から和歌へ、漢字の日本化、篆書、楷書、行書から草書、さらに崩した唐様から和様への変遷が起こった時代である。


万葉集 元暦校本版


第五ステージ:平仮名、片仮名

その後、9世紀の平安時代に至り、漢字から変化した、日本独自の表音文字、「平仮名」(漢字を崩したもの)、「片仮名」(漢字の一部を取り出したもの)が生み出されて、漢字仮名混じり文という独特の「日本語」表記が生まれた。しかし、これまで見て来た通り、いきなり平安時代になって仮名が考案されたわけではなく、漢字伝来から800年、「変体漢文」、さらに「万葉仮名」などの日本語化のプロセスを経て徐々に形成されていったと考えられている。ひらがな/カタカナは、最初は女性が使うものとされ、紫式部の源氏物語や、清少納言の枕草子のような平仮名文学が生まれた。また紀貫之の土佐日記のように男性が平仮名を用いて書く作品も現れた。やがて、勅撰和歌集である古今和歌集、新古今和歌集が編纂され、11世紀初め頃には流麗な平仮名文字が全盛を迎え、平仮名文学という日本固有の洗練された世界が広がってゆくことになる。いわゆる国風文化の時代を迎える。ただ、依然として男性の貴族や官人は、漢文、漢詩が必須の言語スキル、教養の基本であり続けた。一方で、この頃には万葉集で用いられた万葉仮名を解読できる人がいなくなり、万葉集が読まれなくなっていた。藤原定家を始めとする「古典解読チーム」が編成され、万葉集研究が進められたたほどである。また、漢文で書かれた日本書紀は、平安時代にも貴族の間で定期的な講義が行われたが、変体漢文で書かれた古事記は徐々に読まれなくなっていったと考えられている。


万葉仮名から平仮名へ


最後に、古事記は「文字の起源」をどのように語っているか?

古事記は、我が国最初の「文字」で書かれた「歴史書」であるとされている。日本という国の成り立ち、古代史を知る上で、この7世紀末から8世紀前半に成立した古事記、そして日本書紀が、中国の正史である一連の史書を除けば、国内に現存する唯一の文献資料ということになる。それ以前の列島の有様や、倭国、日本の歴史を知るには中国の史書、文献資料に頼るか、考古学的資料(金石文を含む)しかないのである。少なくとも、先述のように5世紀以前の文字化された記録は日本には無い。

その我が国初の「文字」による歴史書ないしは物語である古事記は、「文字」が葦原中国にもたらされた経緯について、どのように語っているのだろうか。「文字」も、稲作のようにアマテラスやスサノヲ、あるいはニニギによって高天原から葦原中国にもたらされたものであって、決して大陸から伝来したものではない、などと語っているのであろうか。ニニギが漢字を携えて筑紫の日向の高千穂に降臨して来た、とでも書いてあれば話は別であるが、そんな記述はない。古事記神話は、そのストーリーの中で、この物語を書いた「文字」すなわち「漢字」の由来については何も語ってはいない。そもそも漢字を使って7世紀末〜8世紀初頭に古事記が記述されていることで、漢字という外来の文字の存在が議論の余地のないものとして取り扱われている。しかしこの件に関しても、1世紀に中国皇帝から倭の奴国王が下賜された金印や、3世紀に邪馬台国女王が貰った銅鏡に記されていた漢字、漢文の存在については一切触れていない。漢字を用いて記述していながら、中華世界的秩序からの脱却、日本のオリジナリティー、アイデンティティーを主張していることは奇妙なパラドックスであるようにも思える。

あらためて整理すると、古事記という物語の成り立ち、特に神話部分は、新しく生まれた律令国家「日本(ひのもと)」が初めて「文字」を用いて創出した作品であるということである。表意文字である漢字を訓に読み、助詞や接続詞を用いて日本語として読めるようにした、「変体漢文」などと言われる「未完成日本語」で書かれた国家のアイデンティティーの物語である。それは「漢文のようでいて漢文ではない」。その中国由来の文字、漢字の「日本語化」の営みこそ、「日本」が、文字を持たない「倭国」から、「文字の国家」となったことを表現することであり、古事記はその象徴的な作品なのである。繰り返すが、古事記は律令国家の世界観を「日本語」で物語ったものである。すなわち、この古事記という物語の誕生そのものが、列島における「文字・漢字」の受容と変容を象徴している。その所以は、まさに「序文」に記述されていると言って良い。その序文は誰がいつ書いたものなのか不明で、議論の余地があるとされているが、図らずも、漢文で書かれていたらしい古文書を阿礼が日本語(倭語)で「誦み習い」、それを安萬侶が漢字を用いて日本語で「書き記す」、という漢文の日本語化のプロセスが語られている。古事記は、本文には「文字の起源」の由来話はないが、序文でそれを語っている。


参考文献:日本古典文学全集「古事記」山口佳紀、神野志隆光 校註・訳



2023年2月22日水曜日

池上梅園に春が来た! 〜「梅は咲いたか桜はまだかいな」〜

 今年もようやく梅が咲き誇り始めた。

コロナ騒ぎも少し収まって、池上梅園では4年ぶりに26日に「梅まつり」が開催される。人混みの嫌いな小生はそれに先立って、平日の人出の少ない時間を狙って出かけた。当日は、春の訪れというには北風が吹きすさび、厚手のジャケットを羽織るような気候であったが、お天気には恵まれ、中高年世代を中心に思ったより多くの人出で賑わっていた。早くコロナ禍の「巣篭もり」から解放されたいという気分の高まりからか、皆んな春の訪れと梅の開花を待ちきれない様子で駆けつけたのであろう。梅は白梅、紅梅ともに約30種類が植えられていて、枝垂れ梅など一部の木はすでに満開に、多くの木は七分咲きという様子であった。また、本門寺階段の河津桜も例年通り開花し、こちらも七分咲きといったところだ。


「梅は咲いたか桜はまだかいな」

日本では長くて寒い冬がようやく終わり、春を寿ぐ気分だが、ロシアのウクライナでの侵略戦争は24日で一年となる。だが、まだまだ戦闘が終わる気配がない。大義なき戦争でウクライナに侵略し、無差別に破壊し、ウクライナ人を殺し、ロシアの若者も大勢徴発して死地に向かわせる。戦況は一向にロシアに有利には動いていないし、ウクライナ国民の士気は驚くほど高い。北朝鮮とイラン以外の世界はロシアに味方しないが、独裁者の意地とメンツと権力保持のためだけで行う戦争はまだ続く。消耗戦、殲滅戦に持ち込めば、最後に生き残るのはロシアだ!プーチンは「大ロシア」の不滅を叫んでいるが、ますます誰のための戦争なのか。時代錯誤な誇大妄想の独裁者の運命がどうなったか、歴史の教科書に書いてあり、誰でも知っている。ウクライナに一日も早く春がやって来ることを祈念したい。


30種類の梅が植えられている

65歳以上は入場無料



枝垂れ白梅は満開





陰翳礼讃
茶室清月庵



春よ来い!




池上本門寺階段の河津桜も七分咲き



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)