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2023年6月6日火曜日

ウィリアム・ホガース版画展 〜東大「知の継承」プロジェクト 駒場の旧制一高図書館にて〜

東京大学駒場博物館



東京大学経済図書館蔵 ウィリアム・ホガース版画(大河内コレクション)「近代ロンドンの繁栄と混沌」展を見てきた。東京大学駒場キャンパスの駒場博物館で開催されている。東京大学が進めている「アダム・スミスからの「知の継承:2020−2023」プロジェクトの一環としての展示会である。展示されているウイリアム・ホガースの銅版画は、東京大学経済学部で長く教鞭をとり、日本におけるアダム・スミス研究、スミス旧蔵書のコレクションに尽力したことで知られる、大河内一男・暁男両教授が、親子二代にわたって収集されたものである。後に大学に寄贈されて経済学図書館・経済学部資料室の貴重なコレクションの一つとなっている。大河内教授といえば、70年安保、全共闘大学紛争世代にとって、東大紛争真っ只中での総長であったことも記憶されている。経済学部は2019年に創設100周年を迎えた。経済学図書館・経済学部資料室もその前身の設立から、それぞれ2020年に120周年、2023年に110周年となった。それを記念して、東京大学は2020年から、先述の「知の継承」プロジェクトを展開してきた(東京大学「知の継承」ウェッブサイト)。


東京大学経済学図書館・資料室デジタルミュージアムに
ホガースの版画集やスミスの「国富論」初版本など、貴重な蔵書が展示されている。




ウィリアム・ホガース:William Hogarth (1697-1764)

ロココ時代のイギリスの画家。版画家、社会批評家、風刺画の父と言われる。一般にイギリスの画家と言われてもなかなか名前が出てこない人も多いと思うが、ホガースはこの時代に風刺画を中心に版画作品を多く世に出したことで知られる。こうした「政治的な風刺画」は「ホガーシアン:Hogarthian」と呼ばれている。ロンドンの下位中産階級の家庭に生まれ、父は借金が返せなくなり債務刑務所に収監されるなど、決して恵まれた環境で育ったとは言い難い。こうした幼少期の生育環境が彼の絵画や版画に社会に対する眼差しの鋭さをもたらしたと考えられる。彼はフランスやオランダなど大陸で絵を学び、ロンドンを拠点に活動した。当時のヨーロッパ絵画の主流であった貴族や金持ちの肖像画のような油彩画、版画ではなく、世相を物語風に描き出す連作版画(「読む版画」と言われた)を生み出し、18世紀という時代の潮流に乗り人気の作家となった。彼の作品は版画で大量に流布され、後に18世紀、19世紀のイギリスの風刺画家、ローランドソンやクルックシャンクなどに大きな影響を与えた。代表作として、「当世風結婚シリーズ」「娼婦一代」「放蕩息子一代」「残酷の四段階」「ビール通りとジン横丁」「南海の泡沫」「勤勉と怠惰」などがある。今回のホガース展でもこれらの代表作が展示されている。

ホガースの銅版画は、同時期のイギリスの世相を反映したもので、日本の江戸時代における浮世絵のように庶民にも人気があり、当時の人々が争って購入したものであった。のちに美術作品としても評価されるとともに、18世紀前半のイギリスの社会や文化を知る貴重な資料となっている。ホガースの作品は、当時の社会世相や政治、風俗などをビビッドに、かつシニカルに描き出しており、細部にわたって同時代の人々に向けられた様々なメッセージが込められている。彼が生まれ育ったロンドンは、17世紀に起きたペストの大流行とロンドン大火で、何世紀にも渡って無秩序に形成されてきたロンドンの都市空間は消滅した。その後に再生された街であった。ロンドンは18世紀になると産業革命による商工業や貿易業の隆盛を見ることとなり、金融資本のシティーへの集積や、それに伴う金と物と情報のロンドンへの集中があり「アーバンルネッサンス」と言われる都市活性化が起きる。これが19世紀のヴィクトリア朝時代の大英帝国繁栄へと繋がってゆくが、そうしたロンドンは輝くような繁栄と、その輝きの分だけ、濃い陰も存在する街となっていた。ホガースはこうして時代のロンドンで活躍し、彼の描き出したロンドンの「ビール街」と「ジン横丁」の対比が「繁栄と混沌」「光と陰」を象徴している。一方で、彼のフランス嫌いも作品の随所に現れている(「カレーの門」)。イギリスは長い間フランスと戦争を繰り返しており、そうした時代背景も彼のフランス嫌いにはあったのであろうか。


大河内コレクション

今回は、ホガース版画の大河内コレクション71点すべてが駒場博物館に展示されている。これだけの作品が一堂に並ぶのは貴重で圧巻の展示である。これら、イギリスの社会・日常生活に焦点を当た、道徳的、教訓的主題の社会的諷刺版画は、「描かれた道徳」(pictured Morals)とも称された。ホガースは頻繁に、この時代を象徴する情報交換の場、ロンドンのコーヒーハウスに通い、クチコミや、新聞や雑誌を読み漁りネタを仕入れたと言われている。アダム・スミスが生き、思索し「道徳感情論」「国富論」を著した18世紀のイギリス。アイザック・ニュートンに代表される「科学の時代」のイギリス。産業革命、産業資本家の台頭、アフリカやインドの海外植民地との交易(アフリカから北米への奴隷貿易や、インド綿花輸入によるマニュファクチャリング加工貿易)、絶対王制から立憲君主制への移行、北米植民地経営の困難とアメリカ独立運動、フランスとの戦争、フランス革命、英国国教会とピューリタンの対立という「光と陰」の交錯する時代である。「南海泡沫事件」のようなバブル崩壊も経験した、まさに「近代ロンドンの繁栄と混沌」を描いた作品集である。19世紀ヴィクトリア朝、大英帝国繁栄の時代へと繋がるプロローグの世紀はかくなるものであったのかと。19世紀のディケンズが小説で描いた「繁栄と混沌」「光と陰」が、すでに前世紀のロンドンに現れているのだと。

展示はユニークである。まず写真撮影は禁じられていない。そして、むしろ展示されている作品についてのコメントを自由に書いて、作品の周辺にポストイットで貼り付けることが奨励されている。ただ展示物を眺めて終わるのではなく、作品の発するメッセージとインタラクティヴに会話する。このコメントを一つ一つ読むのもまた楽しい。作品を見る側のリアクションがわかる。なかなかシニカルなコメントや解釈も有り知的好奇心をくすぐられる。天井が高く、広々とした空間が独特の陰影を生み出す、昭和初期の名建築、旧制一高の旧図書館という器が、ホガースの作品を引き立て、アダム・スミスの時代への妄想をふくらませてくれる。東京大学ならではのこの知的空間と知の継承。見事な企画であると感じた。「知の継承」は、「再開発」という名の破壊からは生まれないことをあらためて体感することができた。



作品に対する観覧者のリアクションがポストイットで表現される

ホガース流「イギリスとフランス」の対比

ホガース自画像
愛犬家で常にパグと一緒に描かれた

「美の分析」

演劇「リチャード三世」

ヘンリー8世とアン・ブーリン

ジン横丁

ビール街

「カレーの門」または、イギリスのローストビーフ


「美の分析」原本

美の分析



東京大学駒場博物館

この展示が行われた場所は、旧制第一高等学校の図書館であった歴史的建物である。2003年に美術と自然科学に分かれていた博物館を統合し、駒場博物館としてリニューアル開館。まさに東京大学が誇るアダム・スミス文庫、ホガース版画集というレガシーを語り継ぐにふさわしいベニューである。老舗の酒蔵には伝統の酒が生まれる。そして革新の温床となる。そこに住み着いた酵母の住処を奪ってしまっては、味わい深い古酒も、新しい酒も生まれない。「知の継承」とはそのようなものである。駒場キャンパス内には一高時代の遺構や建物が数多く保存、活用されている。時計台のある本館(現一号館)を中心に、向かって右手には図書館(現駒場博物館)、左手には講堂(現900番教室)が現存している。この2つの建物は左右対称を意識した配置となっており、外見は双子の建物である。また当時の建物としては特設高等科(現101号館)があり、いずれも内田祥三の設計になる、いわゆる「内田ゴシック」建築である。この他にも一高同窓会館(現ファカルティーハウス)などが修復保存され現在でも活用されている。緑濃い構内は、近代日本の歴史と知の殿堂、知の継承を感じさせ、その観念が、その実存とあいまって、誠にアカデミックな佇まいである。

旧制一高は、1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設に必要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設された。1894年(明治27年)には第一高等学校と改称され、帝国大学の予科となった。第一高等学校は、もとは帝国大学本郷キャンパスの隣の弥生町に開設された。向ケ丘にあったことから「向陵」と呼ばれた(一高寮歌:「嗚呼玉杯に花うけて」にも歌われている)。しかし、1935年(昭和10年)に駒場にあった帝大農学部とキャンパスの交換を行い、駒場に移転した。したがって駒場キャンパスは、一高の64年の歴史の中では比較的新しい。終戦を挟んで、移転から15年後には旧制高等学校が廃止され、新制東京大学の教養学部となった。

ちなみにこの西側には駒場IIキャンパスがあり、先端科学技術研究センターや生産技術研究所などの日本を代表する最先端研究施設がある。またこの2つのキャンパスの間に、旧前田侯爵邸、日本文学館、柳宗悦の日本民藝館がある。



駒場博物館エントランス



「近代ロンドンの繁栄と混沌」展

ドーム状の天井が高い










東大駒場キャンパス散歩

東大本郷キャンパスと同様、駒場キャンパスに現存するゴシック調の建築は、内田祥三の設計によるものである。いわゆる「内田ゴシック」と呼ばれる、伝統的な帝国大学建築様式といってもよいもので、重厚さと独特の雰囲気を今に伝えている。元農学部の構内だったせいか巨樹が多く、多様な植生が確認できる。枇杷の巨木が本館横にあり、たわわに実っているのが不思議な光景だ。学生たちが木を揺すって実を落としていた。まだ青くて食べられないと思うが。とにかく緑濃きキャンパスだ。ちなみに農学部時代の建物は残っていないようだ。


正門

旧制第一高等学校校章
「文」をあらわすミネルバのリーブと「武」を表すマルスの三つ柏

旧図書館(現駒場博物館)

玄関

旧本館(現一号館)



本館北面

旧講堂(現900番教室)

玄関


旧一高同窓会館(現ファカルティーハウス)

旧特別高等科(現101番教室)

緑濃いキャンパス
元農学部だったせいか

なぜか枇杷の大木が鈴なり




(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年6月1日木曜日

古書を巡る旅(34)ケネー「経済学・哲学論集」1888年初版 オンケン編




フランソワ・ケネーといえば「経済表」と、高校の教科書に出てきたのを覚えている人は、大学入試で世界史を選択した人だろう。私もそうだった。しかし、それ以上にケネーって何をした人かを語れる人は少ないだろう。18世紀の「重農主義」経済学者、といわれても... 高校の世界史は、こうしたキーワードと年号で覚える暗記科目であった。「下記の文章のカッコ内に当てはまる言葉を書け」という穴埋め問題に「ケネー」と書き込めば点がもらえるのだ。「アダム・スミス」と書くとペケ。それがどういう意味を持つのか、どう世界を動かしたのかを深くは考える必要はない。したがって入試が終わるとすっかりご無沙汰となる。せいぜい経済学部にでも進学すれば再びお目にかかることもあるが、そうでなければおそらく一生ご縁がない。それがあの頃の受験勉強というものであった。こうした知識詰め込み型の教育の弊害を語る人も多い。しかし、こうして歳月を重ね、人生を振り返る歳になり、神田神保町の古書街を歩いていてケネーに出会って、「おおっ!」となるのは、高校時代の詰め込み暗記物があったればこそだ。サラリーマン生活を終えて、「古典に帰れ」生活を送り始めると、50年前の暗記ものの記憶がにわかに蘇る。あの頃必死で覚えたキーワードは意外に忘れていないことに気づく。そしていまやネットで何でも検索し知識を蘇らせることができる便利の世の中になったので、一応の復習ができる。なんでもそうだが、若い頃に勉強して知識を蓄えておく、それが無理やり暗記した断片的なキーワードであっても、これがその後の自分の経験や、あらたに獲得した知識とつながり、知の連鎖、思考の拡大となるものなのだ。受験勉強は無駄ではない。惜しむらくは、もっと早く現役時代にこうした気付きがあればよかったのに。

そんな、にわかに思い出したケネーの重農主義経済学である。以前に、ジョサイア・チャイルド(重商主義経済学者)やアダム・スミス(自由主義経済学者)の著作集を手にした後だけに、スミスやのちのマルクスなどに影響を与えたケネーの著作には興味を覚えた。18世紀のフランスで活躍したケネー。そんな古典がなにげに神保町の古書店の棚に並んでいる、手を伸ばせばそこにある不思議。これは予約済みかと書店に問えば、「すぐ売れるような本じゃないので急がなくても大丈夫ですよ」と!最近はこうした古典を手にする人もいないようだし、大学や公共の図書館からの引き合いも少ないそうだ。しかし、アダム・スミスと並ぶ近代経済学の祖の一人であるケネーの著作であり、私の洋古書コレクターとしての「経済思想史カテゴリー」充実という観点からは無視できない古典の初版だけに、逡巡した挙げ句に手に入れることにした。逡巡の最大の理由は、フランス語の著作だということ。読めないんじゃあ単なる「本棚の飾り」じゃないか!と笑われそうだが、それでよい。どうせ日本語でも読んだことがない。これを機会に読んでみよう。自分に宿題を課すことは老化防止の秘訣でもある、と自分に言い訳した。


フランソワ・ケネーと「経済表」・「重農主義」(ネットから収集した情報に基づく教科書的サマリー)

では、ケネーとはいかなる人物で、どのような功績を残した人物なのか、「経済表」とはなにか、「重農主義」とはなにか。受験時代に覚えたキーワードを、最新の検索テクノロジーを駆使して振り返ってみよう。

フランソワ・ケネー:Fransois Quesnay(1694−1774年)は、18世紀フランスの経済学者。重農主義を説く。国家による管理を廃した自由な経済活動を重んじる、自由放任(レッセ=フェール)の経済を主張し、この思想はアダム・スミスに継承された。なんと!レッセフェールはスミスの専売特許ではなかったのだ。ケネーは有名な「経済表」を1758年に著し、財が地主・農業生産者・商工業者によって生み出され、分配されていく経済構造を明らかにした。この分析手法を駆使して、ルイ14世の絶対王政のもとで、コルベールによって進められた重商主義経済政策に対し、国家による経済統制の行き過ぎを批判し、農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させることを主張(すなわち「重農主義」と称される)した。ケネーは当時盛んになった啓蒙思想にも賛同し、ディドロの『百科全書』にもいくつかの重要な記事を執筆している(本書の第二巻に収録されている)。

そのケネー は、1694年にパリ郊外に労働者階級の子として生まれ、のちに医学を学んで1718年に外科医を開業、1749年にはルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の侍医としてヴェルサイユ宮殿に呼ばれそこで暮らした。さらには王子の天然痘治療に功績があって貴族に列せられ、国王の侍医長となった。しかし55歳で経済学に転じ、1758年に『経済表』を発表した。ケネーは医者としての自然認識を社会にも適用して、自然法をいわば自然科学的にとらえたと言われている。ケネーは人間の身体の中で血液が循環し、たえず再生される構造を知ったが、それと同じことが社会の中にも認められると考えた。社会のなかを循環する富を生産し、再生産する究極の場所はどこにあるのだろうか。それは農業の営まれる土地であると考えた。ケネーは土地を資本としてとらえ、資本の利潤に相当する「純生産物」が土地から生まれることを明らかにした。彼はこの関係を、社会の諸階級:地主階級・生産階級(小作農民)・不生産階級(職人)の関係と捉え、その富の再生産の相互連関を表式にまとめ上げた。これが「経済表」である。そのなかでケネーは生産の統轄者として地位を「地主階級」にあたえている。この「地主階級」は、資本主義的な生産を前提とするから、もちろん封建領主階級ではないが、しかし封建領主階級と言えども領主権に依存することをやめて、単なる土地所有者として再生すれば、「純生産」を手に入れることができると主張する。(河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書)

こうした主張から、日本では「重農主義」と呼ばれるが、当時は、その体系を「Physiocratie:フィジオクラシー(自然による統治)」と呼んだ。また彼は自らをEconomist:経済学者と称した。したがって欧米では「フィジオクラシー」が一般的である。アダム・スミスがこの学派を「Agricultural system:農業に関する理論体系」と評したことから、日本では「重農主義」と訳された。その骨子は、地主と農業生産者こそが富の生産と再配分の源泉(「生産階級」)であり、商工業者は「不生産階級」であるとする。すべての産物は土地から発生し、商工業者は、必要な分だけ加工しそれを流通させるだけで、付加価値を産まないとする。イギリスで論じられた資本と労働という考えがそこには無い。その背景には当時のフランス絶対王政の戦費の増大や宮廷の奢侈による浪費、さらに重商主義政策の失敗、これらに起因するフランスの国家財政破綻という現実があった。同時期に産業革命に成功して産業資本による自由な貿易を進めたイギリスとの違いが見られる。ケネーは、具体的な政策としては、土地所有者の安全と自由が保障されなければならないとした。その重農主義運動(フィジオクラシー)は、1760年代の「穀物取引の自由」や「土地囲い込みの自由」を実現した。この運動は絶対王政と結びついた特権的地主、特権ブルジョワの支配を揺るがし、地主や富農、産業ブルジョワジーの経済的自由主義を後押ししたが、具体的な政治改革とは結びつかなかった。また、重農主義(フィジオクラシー)の、土地を私有財産として、自由放任によって生産性向上のために競争させるという考えかたは、労働が価値を生む源泉であるとする労働価値説を否定し、「持たざる者」である農民層の没落、プロレタリア化をひきおこした。70年代になると、食糧暴動や囲い込み反対一揆が頻発し、重農主義(フィジオクラシー)は後退を余儀なくされ、ケネーも1774年に失意のうちに死んだ。彼の死の15年後の1789年にはフランス革命で絶対王政(ケネーは、これを必ずしも否定しなかった)が倒れる。このケネーを批判して、土地所有を貧富格差の根源であると論じたのがルソーであった。しかし、ケネーの「経済表」は、初めて富の流れ、経済活動を科学的分析手法で解き明かしたもので、経済思想の初期の重要な貢献の一つであり、フィジオクラシーは自由経済市場(レッセフェール)を主張し、アダム・スミスの『国富論』と並んで近代経済学の出発点となったと見ることができる。また彼の「経済表」による分析的アプローチは、その後のマルクス(再生産表式)やワルラス(一般均衡理論)、ケインズ(有効需要原理)、レオンチェフ(産業連関表)、ミルトン・フリードマン(貨幣供給理論)にも引き継がれていると言われる。ただ、農業分野での「レッセフェール」と産業貿易分野での「レッセフェール」。これがフランスとイギリスの将来、そしてケネーとアダム・スミスの歴史的な評価を分けたのかもしれない。参考に2023年1月5日「アダム・スミス全集」を参照あれ。

ケネー著作集を手に入れたことがきっかけで、「重農主義(フィジオクラシー)」について久しぶりに復習してみた。とくに、重要な経済思想家であったケネーを知ることは、同時代人であるアダム・スミスの現代的意義を理解する上でも避けて通れない道なのだとも知らされた。日本では「重農主義」と訳されたことから、近代産業資本中心の経済思想史の観点から、過去のものの扱いになってしまっているが、先述のように「フィジオクラシー」の基本は、市場における自由競争「レッセフェール」であり、これを唱えた先駆者であることを再評価する必要があるのではないだろうか。ケネーの思想を理解するには、ネット検索や解説書などの二次資料だけではなく、一次資料たる原典に立ち返ることが大事で、そのための古書ハンティングであるのだが、フランス語の原書にどこまで肉薄できるかは甚だ心もとない。本書の日本語訳の「ケネー全集」が有斐閣から出ている。また岩波文庫からは「ケネー経済表」が出ている。せめて日本語訳でと考えたが、どっこい、ともに絶版だ。ケネーの著作はなかなか誰でも手に取れる経済学の古典、という訳にはいかないようだ。神保町の古書店か、図書館で探してみよう。


「ケネー経済・哲学論集」:Oeuvres économiques et philosophiques de F. Quesnay,(Éd.1888)

本書は、1888年にフランクフルト、パリで刊行されたケネー著作集の初版である。ケネー自身の著作はまとまった形で出版されたものは少ない。かの「経済表」(Tableau Economique)の原著も現存しない。18世紀の彼の論文や寄稿文は「百科全書」への寄稿記事や、ケネーの追悼文が科学アカデミーに掲載されているが、多くは19世紀になってから経済思想研究者によって纏められたり、復刻された論文集として残されている。彼の没後114年経った1888年になって、ベルン大学の経済思想史研究のアウグスト・オンケン:Auguste Onckenによって編纂された本書が、最初の体系的なケネー著作集であり、ケネー研究の定本となっている。日本語訳「ケネー全集」有斐閣刊はこのオンケン編を原典としている。

この著作集は三部構成になっており、

第一部:ケネーの評伝 ミラボー公爵による追悼文 科学アカデミーにおける各氏の称賛文
第二部:経済学論集、農民(小作人)論と穀物論、ディドロの百科全書所載の論考、「中国の専制政治」などの「農業ジャーナル」からの引用論文、「経済表」による分析など
第三部:哲学論集、農業王国の経済統治の一般準則、自然権などについての論考など

本書の外装は濃紺の革装で、タイトルは手書きと思われるラベルが背表紙に貼付されている。おそらく比較的新しく換装されたものであろうが、こういう古書リストア手法もあるのかと、その装飾性を廃した簡潔な姿が新鮮だ。何と言っても、モロッコ革に金文字ではなく、手書きのラベルが目を引く。スイス・チューリッヒの文房具商(papeterie)のシールが貼られているので、ここで装丁されたのであろうか。残念ながら、蔵書票や蔵書印などはないので所有者に関する手がかりを見出すことはできない。わずかに鉛筆による「しるし」が書き込まれている箇所がある。読まれた形跡が見出されることは、この書が過去に、誰かの知識の連鎖の一端を担った証であり、それを継承する責任を感じる。

First edition. The first part (pp. 3-142) includes biographical essays by Mirabeau, d'Albon and others. The second part (pp. 145-718) contains the economic works, including the famous articles "Fermiers" and "Grains" from the Encyclopédie, the "Analyse du tableau economique" from 1758, and numerous extracts from the "Journal de l'agriculture" and the "Éphémerides du citoyen", including the important article "Despotisme de la Chine". The third part (pp. 721-814) contains the philosophical works, including the "Essai physique sur l'économie animale" and a bibliography of Quesnay's works.


Fransois Quesnay 1694-1774) (Wikipediaより)

19世紀に復刻された「経済表」


濃紺の革装に手書きのタイトルが独特



表紙

「経済表」による分析に関する論考




編者のアウグスト・オンケン:August Oncken (1844-1911)について

1844年ドイツ・ハイデルベルク生まれ。ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学で学び、スイス・ベルン大学教授。18世紀の経済思想史、啓蒙思想史が専門。アダム・スミス研究、重農主義(フィジオクラシー)理論の研究で重要な功績があり、彼の研究がドイツ経済思想史学界における定説となっている。フランソワ・ケネー「経済・哲学論集」1888年初巻は、いまでもケネー研究の古典的な定本となっている。


August Oncken




参考:

「ケネー全集」 有斐閣 1952年 島津亮二・菱山泉 訳
「ケネー経済表」岩波文庫 2013年 平田晴明・井上泰夫 訳

2023年5月26日金曜日

Nikon Z8ついに登場!〜Nikon Z9の性能をそのままに軽量化〜


いわゆる「開封の儀」

底部の縦位置グリップがなくなった

背面のレイアウトはZ9とほぼ同じ





 Nikon Z9が出たときに、すごいカメラが出てきたなあ!モンスターマシーンだ!と仰天し、興奮したものだ。しかしブラパチ派には重すぎで、縦位置グリップ省略版の「Z8」みたいなカメラが出るといいのになあ、と言ってたらホントに出てきた。Z9ぶらさげてご近所プラパチ散歩なぞ、まるでベンツSクラスに乗って、コンビニに買い物に行くようなものだと揶揄したが。ようやくベンツCクラスが登場して、多少気が楽になった感じもする。このベンツのアナロジーが適切かどうかは別にして、ニコンもはじめからそんなラインアップを考えていたのだろう。Zシリーズの充実ぶりを示すもので大歓迎だ!

基本性能はほぼZ9だ。センサーサイズは4571万画素裏面照射FXフォーマット。画像処理エンジンはEXSPEED 7、メカシャッターなし電子シャッターのみ。高速連写機能、ブラックアウトフリーのEVF、防塵防滴性能、すべてZ9と同等。縦位置グリップがなくなり、400グラム軽量化したのはブラパチ派には福音だ。軍艦部はマグネシウム合金から、軽量な新素材に変わったというが、外見、感触ともにあまり大きな変化は感じない。プラスチックっぽくなった、というようなことはない。実売価格は60万クラス。Z9は発売時70万クラスだったが、Z8発売を期に値上げを発表し、77万に(諸材料価格高騰のためと説明している)。10%も値上げだ!あのときZ9は随分お値打ち価格だと思ったが、やはりZ8発売に合わせて価格レンジの差異化をはかったのだろう。それにしてもZ9発売の2021年12月から、Z8発売の2023年5月まで、約一年半経っており、タイムラグが有りすぎではないのか。半導体調達で苦心したのだろう。全面海外生産(タイ)に切り替えたので円安デメリットもあるだろう。この間にZ9手に入れた人はお得だったということになる。私もその一人だ。


ニコンHPより引用

参考:Z9に関するブログ:2022年2月22日Nikon Z9試し撮り


Z9との主な違いは、

    縦位置グリップ無し

    Z9と比べ、容積比で30%サイズダウン、重量で400g軽量化

    トップカバーと背面カバーに新素材使用(前面カバーにはマグネシウム合金)。

    バッテリーはZ7II、D850と同じEN-EL15cで軽量化

    メモリーカードはダブルスロット 但しCFカードとSDカード

    USB-Cポートが給電用の他、画像ファイル転送用が設けられた。これは便利。

などで、この他にもマイナーな変更点はいくつかあるが、スペックはほぼフラッグシップのZ9まるごと継承。デザインも継承。軽量、コンパクトで取り回しが良くなったことを除けば操作性も変わらず、Z9に比べて気楽に連れ出せるようになった。とはいえ、スペックダウンやサブカメラ感がないのが嬉しい。なお動画性能もZ9を引き継いでいるそうだが、あまり使わないのでノー・コメント。ジンバルに取り付けての撮影には有利だろう。

今回は、Z8発表一番で予約を入れ、発売当日の5月26日にゲットできた。Z9のときは最初から供給不足が予想され、しかも世界的な半導体不足問題もあって、発売日の2021年12月24日に一番で予約したが、手にしたのは翌年の2月15日。それでも早い方で、実際に安定供給され始めたのは10月以降だった。あのライカお得意の、さんざんPRして発売日にはほんの数台しか入荷しない「プレミアム戦略」、「ユーザー焦らし作戦?」と異なり、生産の遅延、供給不足を恥とする文化の会社だ(日本の会社は皆そうだが)。ニコンはこうしたバックオーダーを今回は抱えないよう、タイムリーに製品供給できるよう努力したようだ。ニコンはユーザーを大事にする真面目な会社だ。dependable and durable Nikon なだけでなくuser oriented Nikon。好感が持てる。

今回はZ7IIからの乗り換えだ。Z7IIはセンサーサイズがZ9,Z8と同等の高性能ミラーレスであるが、ボディーサイズが小さくて、グリップを右手で握ると小指が余る。エクステンショングリップ付けてちょうどよいサイズとなったが、長いレンズをつけるとバランスが悪い。無理にコンパクトにしなくても良いのでは、という例だ。Z9導入時には、バックアップ用に残したが、今回Z8導入で退役となった。これでZ9とZ8二台体制で、あらゆるシチュエーション、被写体に向かい合える。道具は揃った。あとは、その高性能な「お道具」を使いこなす「ウデ」だけだ。


開封直後の試し撮り(Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

早速、開封後に試し撮り。まず、第一印象は、Z9のときのような「凄いヤツがやってきたなあ!」という興奮ではなく、高性能なままで圧倒的な取り回しの良さを実現してくれた感謝の気持である。とりあえずはNikkor Z 24-120/4を付けて撮影。この組み合わせはまさにご近所ブラパチに最適と実感。これから、EVFだけでなくチルト式液晶モニターも活用しながら「花」の写真もガンガン撮れそう。マクロや長いレンズも苦にならない。Z9より出番は確実に増えそう。高速連写機能やトラッキングの食いつき状況(400mmを手持ちで狙う、夕闇の中での新幹線の走行写真など!)は別途の機会に試してみたい。まずは取り急ぎご報告まで。










Nikon Z8 + Nikkor Z 70-200/2.8 + ×2 adapter 手持ち撮影