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2022年10月24日月曜日

横浜旧外国人居留地探訪(1)「山下居留地」編 〜幕末・明治の外国人居留地の面影は残っているか?〜

旧横浜正金銀行本店
「エースのドーム」


横浜の外国人居留地

山下居留地(関内居留地とも呼ぶ)は安政五カ国条約に基づく横浜開港に伴って設定された外国人向けの居留地である。開港場は東海道神奈川宿のはずれの寒村だった横浜村に築造され、その地名を関内という。関内は海と川・水路に囲まれた地区で、1871年(明治4年)に開港場に出入する橋のたもとに二つの関所が設けられたため、関所の内側=関内と呼ばれた。ただし山下外国人居留地=関内ではなく、山下居留地は関内の日本大通りの東側一帯で、西側は日本人居住地区である。日本人との雑居地はなかった。のちに、人口増に伴い山手外国人居留地を増設。山下地区は商社などのビジネス街。山手地区は主に住宅街となった(下記の地図参照)。外国人居留地廃止後も関東大震災で被害を受けるまでは、居留地の町並みが残っていたが、現在は往時を彷彿とさせる建物は殆ど残っていない。現在は商業地、ビジネス街となり、日本大通り、馬車道周辺は官庁街、銀行街となっている。

幕末の開港初期の頃は、外国人は居留地に住むことが義務付けられ、居留地以外への旅行も定められた範囲しか行動できなかった。行動制限が課せられていたわけだ。また、幕末に多発した攘夷派による外国人襲撃に備える意味もあった。生麦事件や、ヒュースケン殺害事件、東禅寺襲撃など、多くの外国人とのトラブルや殺傷事件があり、やがて列強諸国は居留民保護の名目で、居留地に自国軍の駐屯を認めるように幕府に迫った。山手地区には駐屯地や兵舎が設けられ(イギリス山、フランス山の兵站跡など)、港には軍艦が停泊するなど、上海を彷彿とさせるような光景が見られた。明治になってからはこうした攘夷事件は少なくなっていった。

居留地の住人は1870年(明治3年)の記録では942人。そのうちイギリス人が513人と一番多く、アメリカ人、ドイツ人と続く。なかでもイギリスの商社は既に中国やインドに進出していたジャーディン・マセソン商会、デント商会の二大商社が横浜にも進出し、大きな市場支配力を持っていた。この他にもイギリス系の商社が、外国商社総数256社のうち101社を占め、取り扱いシェアーは輸出で60%、輸入で75%であった。また香港上海銀行やオリエンタル銀行のようなメガバンクも進出してきた。一方で、居留地人口が増えるに連れ、こうした大商社、銀行や、公使館などの外交官以外にも、主に上海や海外植民地から渡ってきた日本で一攫千金を狙う商人や、サービス業が進出し、中には粗野な商売をする者もいたようだ。アーネスト・サトウの日記によると、オルコックと思しきイギリス人が「ここはヨーロッパの掃き溜めだ!」と叫んだとある。居留地という狭いコミュニティーにおいても、西欧人の間で格差や偏見があった様子が伺える。ちなみに山下居留地の一部は中国人華僑の居住地区となっていた。現在の中華街である。西欧人の通訳や商社員などとして横浜に来た清国人(広東省、福建省が中心)が定住し始めたのが始まり。やがては中国との航路が開設されると貿易商などとして横浜に進出してきた。日本における華僑の歴史は長く、江戸時代初期の長崎以来の伝統を有している。

居留地では借地権と建物所有権は認められたが土地所有権は認められていなかった。安政五カ国条約に基づき、居留地外国人には治外法権・領事裁判権があり、日本の司法権が及ばなかった(不平等条約として改正に努力することに)。行政権は日本にあったが、事実上課税無しなどその実効性が担保されていないのが実情であった。この状態は1899年(明治32年)の条約改正に伴う外国人居留地の廃止まで続いた。一方で明治も半ばになると、外国側から見るとこうした居留地の維持に費用がかかることもあり、外国人や外国商社から徐々に借地権の放棄や返還が始まり、事実上「外国人居留地」が解体され始めていった。長崎などは条約改正を待たずに事実上居留地制度が消滅していった。横浜でも居留地の日本側の行政権が復活した。


横浜外国人居留地略史

1858年(安政)安政五カ国条約締結 開港場(長崎、神戸、新潟、横浜、函館)、および開市場(東京、大阪)が指定され、そこに外国人居留地の設置が決まった。

1860年(万延元年)横浜山下外国人居留地設置

1867年(慶応3年) 人口増に伴い山手外国人居留地を増設

1872年(明治4年) 新橋、横浜間鉄道開通 事実上、横浜山下居留地と東京築地居留地を結ぶものであった 

1877年(明治9年) 日本の行政権確立(長崎など維持費高騰のため居留地返還の動き)

1899年(明治32年)条約改正に伴い外国人居留地を正式に廃止

1923年(大正12年)関東大震災で多くの被害を受けるまでは居留地の町並みが存続


今回の「山下外国人居留地探訪」では、残念ながらかつての外国人居留地を彷彿とさせる建物や建造物には出会わなかった。いくつかの当時の洋館の遺構や商館跡、標識が残されているが、いずれも往時の姿を残すものはない。やはり居留地廃止から120年が経ち、しかも関東大震災による壊滅的被害により、建物は崩壊しかつての居留地の町並み景観は消滅してしまった。現在眼にする横浜を代表する建物は、震災以降、昭和初期の港町横浜の繁栄を偲ぶものばかりである。いわば念願の「一等国」になり海外進出著しい日本の表玄関のシンボルである。特にキングの塔(神奈川県庁)、クイーンの塔(横浜税関)、ジャックの塔(横浜開港記念館)の愛称で呼ばれる塔屋を有する近代建築が、旧山下居留地地区の歴史的なランドマークになっているが、「居留地」時代の遺産ではない。これらはまだ周辺に高い建物がなかった昭和初期の時代に、横浜港に入港する船の目印になっていて「横浜三塔」としてつとに著名である。最近はこれに馬車道の旧横浜正金銀行本店(神奈川県立博物館)の「エースのドーム」を加えて「横浜四塔」と呼ばれることもあるらしい。この他に、旧英国総領事館(横浜開港資料館)、ホテル・ニューグランド、氷川丸を巡った。いずれにせよジャックの塔とエースのドーム以外は昭和初期の建築・建造物だ。かつて訪れた上海には、現在でも欧米や日本の共同租界、上海バンド(外灘)の時代を色濃く残す街区、町並みが残っており、それが上海の歴史地区・観光名所になっているが、ここ横浜では見られない。もちろん香港のような(99年の借地権による)植民地の旧宗主国の文化的景観もない。エキゾチックな観光資源に乏しいとすれば残念なことかもしれないが、これは日本にとって幸運なことであった。今の横浜には観光キャンペーンで喧伝するほどの幕末・明治の異国情緒豊かな町並みは無いのだが、それは上海や香港の状況を「他山の石」とした天保老人、幕末の志士、明治人が頑張ったおかげなのである。その思いに至ったのも今回の探訪の成果だろう。

「明治は遠くなりにけり」

今回は第一回として「山下外国人居留地」を探訪した。次回は「山手外国人居留地」を紹介する予定である。


「横浜外国人居留地研究会」より引用



1)旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立博物館)

重要文化財

愛称:「エースのドーム」

完成:1904年(明治37年)

建築様式:古典主義様式 日本銀行と同じで堅牢な要塞のような造り。

設計:大蔵省建築部 妻木頼黄(赤レンガ倉庫の設計も)

戦後の東京銀行横浜支店を経て、1967年(昭和42年)神奈川県立博物館に








2)横浜税関本庁舎

市認定歴史的建造物

愛称:「クイーンの塔」(51m)

完成:1934年(昭和9年)

建築様式:震災復興建築 旧税関ビルが震災で壊滅的被害を受けたため建て直し

設計:大蔵省営繕管財課











3)「象の鼻」(イギリス波止場)


開港時に2本の突堤を築造。現在残る数少ない開港時の遺構の一つ。東波止場(常夜灯備えたイギリス波止場と呼ばれた)、西波止場(運上所、税関波止場と呼ばれた)として運用した。後に明治大火の後、東波止場を荷役の便を考慮し弓なりに改造し(1867年)、西波止場は新港埠頭に改造。税関も移転した。さらに1889年(明治11年)にはイギリスの技師パーマーによって東波止場に鉄桟橋を増設した。コレがのちの大桟橋になる。現在は「象の鼻パーク」として整備され、赤レンガ倉庫、大桟橋、キング、クイーンを見渡すことのできる観光スポットになっている。


「象の鼻」の突堤と大桟橋

「象の鼻」突堤の内側

臨港線跡はプロムナードデッキに

現在の大桟橋

象の鼻パークからキング、クイーンを展望

象の鼻パークから見る赤レンガ倉庫(1911,1913年の創建)





4)神奈川県庁本庁舎

重要文化財

愛称:「キングの塔」(49m)

完成:1928年(昭和3年)

建築様式:帝冠様式

設計:公募デザイン 小尾嘉郎の原案を元に県内務部で最終設計










5)横浜開港記念館(現在改修工事中で見学不可。写真撮影せず)

重要文化財

愛称:「ジャックの塔」(36m)

完成:横浜開港50周年記念事業(1909年(明治42年))として企画、建設。1917年(大正6年)竣工。 その後、関東大震災で全焼。1927年(昭和2年)復元再建     

建築様式:辰野式フリークラシック 

設計:福田重義、山田七五郎






(写真は全て改修工事前の写真。「横浜開港記念館」HPより借用)




6)旧英国総領事館(現開港資料館)

市指定文化財、近代化産業遺産(2007年)

完成:1931年(昭和6年)、1972年(昭和47年)東京へ移転、横浜市へ譲渡

建築様式:古典主義、コリント様式正面玄関

設計:英国工務省 英国から殆どの資材を持ち込んだ

日米和親条約締結の地である(「たまくすの木」)


正面玄関

正面玄関のコリント式列柱


本館側面入り口


本館裏面

日本初の水道蛇口

薩英戦争のイギリス側戦没者銘板

日米和親条約締結の地
「たまくすの木」



7)ホテル・ニューグランド

市認定歴史的建造物、近代化産業遺産

完成:1927年(昭和2年)

建築様式:震災復興建築

設計:銀座服部時計店(現和光)を設計した渡辺仁

横浜を代表する迎賓館とも言うべきホテル。元のグランドホテルは、旧居留地20番に1870年(明治3年)に開業した豪華ホテル。イギリス人のW.H.スミスや、写真家のフェリーチェ・ベアトなどが出資した。しかし、関東大震災で灰燼と帰し、1923年(大正12年)廃業。そのオマージュとして日本人の手で開業したのがニューグランドである。元のグランドホテルとは繋がりはない。ヘレン・ケラー、チャップリンやベーブルースが宿泊。マッカーサー・スイートがある。













8)氷川丸

重要文化財、近代化産業遺産、

完成:1930年(昭和5年)横浜船渠(現三菱重工)で竣工

1930年 北米シアトル航路に就航(戦前だけで75航海、船客のべ1万人)

1941年 戦時中は病院船 

1945年 戦後の復員船として 南方から2万人。戦後の引揚船として 満州、フィリピンから8000人(博多〜葫蘆島)(名古屋〜マニラ)

1951年 シアトル航路復帰。フルブライト留学生2500人(1953年から7年間)

1960年(昭和35年)引退(太平洋航路254航海、船客25000人)

1961年 山下公園に係留










山下公園
関東大震災の瓦礫で埋め立てて造成されたという
この下に「山下外国人居留地」の残骸が埋まっている...


現在の海岸通り

居留地時代の海岸通り
(Wikipediaより引用)




(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)


2022年10月16日日曜日

「終わりなき変容プロセス」という都市景観 〜東京渋谷そして福岡天神・博多〜

 渋谷はいつ来ても街が変貌し続けている。いつ終わるともしれぬ工事。来るたびに街の姿が違う。資本の論理と、その合理性が問われているこの時代に、それをあざ笑うように、地上に、地下に、空中に、止めどもなく破壊と建設が繰り返される街。スクラップ・アンド・ビルド。そうして金を回さないと何かが成り立たなくなるのではないかという強迫観念にとらわれているかのように。もはやその終わりのない都市変容プロセスそのものがこの街の日常的な都市景観となり、完成に至らない途中経過であるダミーそのものがアートなのだと理解するしかない。渋谷は東急の街。この再開発も東急グループが中心になって近隣の地権者と語らって2027年目途に数々のビルの建て替えを進めている。「GREATER SHIBUYA 2.0」と言うらしい。しかしそこで終わりじゃない。次々と「勝ち馬に乗る」と言わんばかりにディベロッパーや企業が参画し、エリアを広げてまだまだ「続く:to be continued」だ。その変容プロセスの一瞬を切り取って後世に残しておくのも「時空トラベラー」の努めであろう。渋谷はもはや「谷」としての地形を視認、体感することはできない。谷あい独特の何本かの下り坂の底に形成された繁華街、という街の成り立ちを記憶することもなくなるのであろう。かつて猿楽町の住人であった頃に、桜丘の坂を下って遊びに行った馴染みの渋谷は記憶の彼方に霞んでもうない。あれから40年。「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」。

もう一つの都市変容プロセス進行中の現場がある。それが我が故郷、福岡天神の「天神ビッグバン」。こちらも破壊と建設の都市改造が進められている。福岡ではもう一つ、博多駅周辺でも大規模な都市改造計画「博多コネクテッド」が新たにスタートした。この2プロジェクトは民間ではなく行政、福岡市主導の都市改造プロジェクトだ。福岡市は国家戦略特区構想指定都市となり、福岡空港ゆえの航空法による高さ規制の緩和、ビル容積率規制緩和に基づき2025年迄に、天神地区のビル50棟を高層化する計画が急ピッチで進めている。また博多地区は2028年までに20棟のビルを高層化して回廊で繋ぐつもりだ。要するに高層ビル化計画というわけだ。確かに福岡には高層ビルが今まで一棟もなかった。都心に近くアクセスが便利な福岡空港があるためだ。いまどき貴重な都会だ。しかし、誰が福岡に高層ビルが欲しいなんて言ったのか。航空法のおかげで高さの揃った整然とした町並み、開放的な都市景観であるのが福岡だ。街中の空が広く見渡せた福岡天神、大博通りから海が見渡せた博多。そんな個性的な都市の有り様をかなぐり捨てて、東京や大阪のような高層ビルが乱立する大都会に変容させる合理性がどこにあるというのか。「福岡もコゲナ高層ビルのある大都会バイ」と自慢したいわけか。子供の頃の慣れ親しんだ風景や、ビル、商店街が次々と姿を消してゆき「知らない街」に変わってゆく。あれから50年。ここも「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」だ。

日本はなぜヨーロッパの都会のように、伝統的な建築物や歴史的な景観を生かした都市再生ができないのか。100年、いや何百年変わらぬ都市景観を維持できないのか。木造建築と石造建築の違いだ、耐震基準が変わったからだ、などともっともらしく説明している建築家がいたが、それは違う。歴史と伝統を守り使い続ける気があるかどうかの違いだ。ヨーロッパでも木造建築が歴史遺産としてだけでなく、現役の建物として使われているケースは稀ではない。一方、日本は明治以降に建てられた近代化遺産たる赤レンガ・石造建築物もどんどん壊されてなくなっているではないか。日本の耐震技術は歴史的建造物のリユースなどお手の物のはずだ。「古い」=「遅れている」。「新しい」=「進んでいる」。だから壊す。歴史を消し去ることが進化だと考え、破壊は美徳と考える価値観、思考回路がいつの間にか脳内を支配している。いつ頃からそうなったなのか。幕末の黒船、明治の文明開化の強迫観念か。近代化、合理化は箱物の作り変えだけで成し遂げられるのか。そうだとしたら明治維新は得たものも多いが、失ったものも多い。いい加減、明治維新の呪縛から脱皮してはどうなのか。いつまでも日本の大都市に成熟した文化の香りが感じられないのは如何なものか。「文化財守れる人こそ文化人」。嗚呼、昭和老人のノスタルジアと笑うなかれ。


1)東京渋谷編:「GREATER SHIBUYA  2.0」

東急など民間主導で進む都市改造計画。JR渋谷駅、東急渋谷駅、東京メトロ渋谷駅を中心に地上、地下、中空と一体再開発が進む。更にそのスクラップ・ビルドは周辺に拡大している。



渋谷という谷間に出現する高層ビル

スクランブル交差点は相変わらずのカオス

私が知っている渋谷駅とバスターミナルはどこへ?

重機がもはや都市景観の一部になった街

いつ終わるともしれぬ工事

東急東横線渋谷駅(かまぼこ駅舎)の痕跡
駅自体は地下へ

埼京線渋谷駅


タイムトンネルをワープして進むと...

スクランブルスクウェアービル屋上のスカイテラス


新宿方面展望

国立競技場

上から見下ろすと、もはや「谷間」という地形を感じる要素はまったく感じない
新装なった宮下公園
左下にスクランブル交差点

屋上ヘリポート
カオスな渋谷にこんな空に近いスペースが有ることが不思議

ソファー付き展望台は歓迎

不思議な「天孫降臨」図も拝める

SHIBUYA109と東急本店
次の再開発はここだ!

空中都市渋谷



東京スカイツリーと東京タワー

足元では終わりのない工事が続く

昭和老人が知ってる渋谷のランドマークはコレくらいになってしまった
ここも解体は時間の問題

東急本店
2023年1月31日に閉店、取り壊しが決定
東横店は既に無く、渋谷から「東急百貨店」は消える

岡本太郎は「渋谷は爆発だ!」と言っただろうか?


2)福岡天神編:「天神ビッグバン」

福岡市が主導で、天神交差点、西鉄福岡(天神)駅を中心に福岡随一の繁華街を大々的に改造する計画。国家戦略特区指定、航空法規制緩和による高さ制限、容積率拡大を起爆剤としたビル建て替えラッシュ。



西鉄グランドホテル
大名小学校を潰してリッツカールトンが建つ

見たこともないビルが出現している。私の知っている天神は消えた


昔懐かしい因幡町商店街は姿を消し、地下に移転?

天神交差点
かつてのビル街が消えてしまった
こうしてビル群が無くなってみると空が広い!

「天神ビッグバン」第一号ビル
昔ここには老舗の万年筆専門店があった

福岡ビル、天神コアビル、Vivre天神ビル、イムズビル
4棟一括建て直し


西鉄福岡(天神)駅
なんで今さらPARCOと同棲なんだ

西鉄福岡(天神)駅コンコースはビルの中に

西鉄福岡(天神)ターミナルビル
ターミナルデパートは岩田屋(地場資本)から三越(東京資本)に

左はNHK福岡放送局跡、右はNTT天神電話局跡
いまは岩田屋本店


最後まで残る昔ながらの商店街「新天町」
これも建て替えて高層ビルになる...


天神交差点
福岡ビルは姿を消した

かろうじて天神ビルはまだある
昔の天神交差点の面影が残るアングル


3)博多:「博多コネクテッド」

JR博多駅を中心としたオフィス街改造計画。駅を中心にビルを空中回廊で結ぶので「コネクテッド」。まだ始まったばかりで、目立った高層ビルはないが、取り壊しは既に始まっている。駅を起点としたこの整然とした景観が好きなのだが、やがてなくなってしまうのか。


博多駅前

博多駅・JR博多シティー

博多駅線路上に新ビルの建設が始まった

博多駅ビルから博多湾と志賀島が展望できる


博多駅からベイエリアに伸びる大博通り
博多港国際ターミナルと新幹線ターミナルを繋ぐ

建設当時、話題をさらった磯崎新設計のインド砂岩の銀行本店ビル
あっという間に取り壊されてしまい今は更地に。
建築遺産が残らない街だ