ジェームス1世の紋章と「反論書」表紙 |
以前のブログ(2024年10月15日 ジェームス1世:「最も賢明にして愚かな国王」)でジェームス1世の事績を紹介したが、この王様は多くの著作を残したことでも知られている。スコットランドからイングランドにやってきてエリザベス1世の王位を承継。スチュアート朝を開いた。在位中はイングランド議会と対立し、コモンロー優位も受け入れない専制君主として君臨した。またカトリックと国教会とプロテスタントの融和を図るが、結局融和どころか対立を生み、息子チャールズ1世のの時代には内戦、挙句に革命へと繋がる道筋を引いてしまった。彼は政治と宗教にどのような考えを持っていたのか。その政治思想、統治理論を自らの筆で著した著作が、The Political Works of James I:「ジェームス1世政治論集」である。その内容は5篇の論文と演説集からなる。
Basilikon Doron(スコットランド王時代に長男のヘンリー皇太子宛に書いた王としての政治指南書。ギリシャ語でLoyal Giftの意)
The Trew Law of Free Monarchies(「自由な君主国の真の法」議会から助言も承認も受けない王権の絶対性を説く)
An Apologie for the Oarth of Allegiance(忠誠の誓いへの弁明)
A Premonition to all Christian Monarches, Free Princes and States(全てのキリスト教君主と自由な王子と国家への悪い予感)
A Defence of the Right of Kings, against Cardinall Perron(ローマ・カトリック枢機卿への王権擁護のための反論)
Speech of 1603-1604
Speech of 1605
Speech of 1607
Speech of 1609-1610
Speech in the Star Chamber, 1616
彼の在位中の1616年に初版が出された。国王直属の印刷人Jmes Montaguによる。300年ののちの1918年にハーバード大学の政治史学者Charles Howard McIlwainにより、現代語訳されて解説を加えたものが、さらにそのリプリント版が1965年に出版されている。
今回紹介するのは、その「政治論集」にも含まれている最後の論文で、同じ年に独立した一冊として出版された、'A Remonstrance, Defence of the Right of Kings':「反論 国王大権の擁護に向けて」である。1616年のケンブリッジ大学の印刷・出版人であるCantrell Leggeによる出版である。今回、この貴重な1616年の初版本を入手することができた。いつもお世話になっている神保町の北澤書店である。これは」書庫の奥に長らく忘れられたように潜んでいたそうで、ジェームス1世関連の古書を探していたため「発掘」された一冊である。我が蔵書の中で最も出版年代が古い。ちなみに、CiNiiで検索すると日本では岡山大学図書館に一冊あるだけである。
本書には次のような長いタイトルが付けられている。
A Remonstrance of The Most Gratious King James I. King of Great Brittaine, France, and Ireland, Defender of the Faith, For The Right of Kings, and The Independence of Their Crownes Against an Oration of The Most Illustrious Card. of Perron, Pronounced in The Chamber of The Third Estate, Jan. 15.1615
Printed by Cantrell Legge, Printed to the University of Cambridge, 1616
和訳すると
「最も慈悲深い国王にして、グレート・ブリテン、フランス、アイルランドの国王、信仰の守護者であるジェームス1世の、王の権利とその王位の独立について、最も著名なペロン枢機卿の1615年1月15日の第三部会における演説に対する反論」
この書は1615年にフランス三部会の平民(都市ブルジョア)部会:The Chamber of Third Estateにおけるローマ・カトリックのペロン枢機卿の演説に反論したものである。すなわちこの演説は国王と世俗の皇嗣の王位の正当性への異議と廃位を示唆するローマ教皇の考えを示したもので、これに真っ向から反論したものである。元々ジェームス自身によりフランス語で書かれたものを英訳した。この中で、まず巻頭言でペロン枢機卿の演説に関して12項目にわたる疑問点を指摘した上で、本文で4章に分けて枢機卿の主張の問題点を詳細に分析し、聖書や歴史的背景に遡り、逐一反論している。残念ながら今回は内容を詳細に紹介するところまで解読できていない。とはいえ圧倒的な筆力とボリューム、そこに現れる熱量ににジェームスのこの議論に関する強烈な執着を感じる。先述のハーバード大学のMcIlwain教授の解説によれば、主張の骨子は、国王大権はローマ教皇から与えられたものではなく、その王位は教皇からは独立したものであるということ。すなわちそれはDivine Right of Kings、すなわち神から直接に統治を付託されたものである。それは聖書の創世記に由来するものであるということに尽きる。すなわち「王権神授説」の正統性を論証、力説し、王権に対するローマ・カトリック教会の介入を否定した書である。その論拠、歴史的背景などこれを実証的に解読するには盛んに引用されているラテン語やギリシャ語、さらにはヘブライ語で書かれた神学書や教義書の知識、史料批判がないと理解できない。ここでは、後世の研究者の評価、すなわち国王ジェームス1世により「王権神授説」を理論化したイギリス政治思想史上重要な著作であり、ローマ教皇との関係についてヨーロッパ各国の王に大きな影響を与えた書であることを紹介するにとどめたい(先述の1918年、1965年の「ジェームス1世政治論集」再版の解説を参照願いたい)。
そもそもジェームスはスコットランド王時代から多くの著作をものし、知性的な国王という面を有していた。その著作は魔女狩りや火炙りの刑を肯定する「悪魔論」や、先述の王権神授説を思想的バックボーンにした「政治論集」で、啓蒙主義、近代合理主義というより、かなり中世的な思想を引きずったものである。彼の政治理論の根本にある「王権神授説」:Dvine Right of Kingsは、聖書のアダムに由来する「家父長的王権思想」がその基礎にある。国王は父であり、臣民は子である。国王は頭であり国土は胴体である。といった主張である。ジェームス1世の王位を継いだ次男のチャールズ1世は父に輪をかけた「王権神授説」信奉者で、この時代にロバート・フィルマーにより理論化された。のちにジョン・ロックが「市民政府論」で一章を設けて徹底批判した思想である。国王は全ての責任を神のみに負う。全ての権能は直接神から授かったもので不可侵である。ローマ教皇から統治権威を授かったものでは無いし、臣民の議会により付託、承認されるものでもない。したがって国王大権は教皇からも議会からもなんら拘束を受けることはない。また法は国王が神の名において定めるものであって、国王は法の上にある。この王権神授説は、絶対王政を正当化する思想・理論として、当時は各国の君主に支持されていたこと、そしてローマ教皇権威からの離脱を宣言したイングランド国王自身による著作であるという点で時代の画期をなす論文と言って良いだろう。
スコットランドからやってきたジェームスは、王権に対抗するイングランド議会:Parliamentやコモン・ロー:Common lawを理解もせず、受け入れもしなかった。一方で自身はカトリックの出でありながらローマ教皇の権威を認めず、イングランドの宗教権威はイングランド国王にあるとするヘンリー8世以来の首長主義、国王至上主義の姿勢を堅持している。本書もまさにその立場を表明してものである。もともとヘンリー8世のローマ・カトリックからの離脱も、宗教上の教義解釈の相違というよりは政治的(自身の離婚を認めないローマ教皇への抵抗)であり、プロテスタントの宗教改革とは無縁のものであった。ヘンリー8世はむしろマルチン・ルターの教義解釈に反論しており、ローマ教皇から称賛されていたくらいである。この頃はカトリックと国教会には共通点と相違点が混在しているように見える。イングランド王がイングランドにおける宗教権威の最高位にあるとしたものの、国教会の典礼もカトリックに準じたものであった。この点ではジェームス1世も同様である。ただジェームスは欽定訳聖書(1611年の英語版聖書)を編纂させている。これは、ルターのドイツ語聖書印刷と並び、ラテン語聖書を自らの権威の根源として聖職者が独占したローマ・カトリック教会に対するインパクトは画期的である。一方でイングランドのカルバン派プロテスタント(ピューリタン)はカトリックとも国教会とも相容れず、独自の主張で対立した。スコットランドではカトリックに対抗するカルバン派(ユグノー派)プロテスタント、長老派(プレスビテリアン)が勢力を伸ばすなど、各派入り乱れての混乱の時代であった。この頃のヨーロッパ各国は、宗教改革やローマ教会/教皇からの国家(王権)の独立を進める王の登場で、ローマ・カトリック教会、教皇の権威が衰退した時代である。やがてはカトリック教国のフランスですら「朕は国家なり」の王が登場してくる。ジェームス1世のこのローマ教皇への「反論書:Remonstrance」がそうした時代の到来を如実に物語っている。
ちなみに17世紀のこの時代、ブリテン島ではアイルランドのカトリック勢力とスコットランドのカトリック、長老派勢力、イングランドの国教会とピューリタンとカトリックの三つ巴の争いに、イングランド、スコットランド、アイルランド三王国の争いが加わり混乱の時代を迎えていた。後世の歴史家はこれを「清教徒革命:Puritan Revolution」の時代と呼んでいたが、最近では「三王国戦争:Wars of Three Kingdoms」とか、「ブリテン革命:British Revolution」と呼んでいる。この中でチャールズ1世処刑とクロムウェルの共和制を「清教徒革命」、そして王政復古、そして立憲君主制を確立した権利章典、「名誉革命:Glorius Revolution」までのイングランド内戦と革命を「イギリス革命:English Revolution」と総称するようになった。名称はともかくジェームス1世の「王権神授説」による専制君主政治が、議会、コモンロー裁判所との対立。そしてカトリック、国教会、プロテスタントの三つ巴の争いを引き起こし、そしてその子チャールス1世の暴政が、こうした内乱と革命を引き起こした。やがてその帰結として絶対王権が制限され、その理論的支柱であった「王権神授説」は否定され、ロックが唱える「社会契約説」や「王権にたいする抵抗権」の時代へ。そしてアメリカ植民地とフランス王国は共和制へ、イギリスは立憲君主制(「君臨すれども統治せず」)へと遷移してゆくこととなる。ジェームス1世の皮肉な歴史上の役割を象徴するのが本書である。
ジェームス1世の欽定訳聖書 |