ページビューの合計

2024年12月26日木曜日

古書を巡る旅(58)『The Black Ship Scroll:黒船絵巻』 〜アメリカ人との初めての出会いはどう描かれたか? 黒船に乗って来た日本人漂流民Sam Patchとは?〜



ぺリー提督肖像
ペリー自身は髭がなかったにも関わらずこのご面相に


下田といえば、最近面白い本を見つけた。アメリカ人作家、オリバー・スタットラー:Oliver Statlerの、『Shimoda Story:下田物語』(1969年刊)と『The Black Ship Scroll:黒船絵巻』(1963年刊)である。スタットラーは太平洋戦争で日本との戦いに従軍し、戦後、連合国進駐軍で日本に長年滞在し下田にも2年滞在したこともある。両著ともペリー来航、開国直後の下田でのアメリカ人と日本人の出会いを描いた著作として興味深い。『下田物語』ではタウンゼント・ハリスの事績、人物像など彼独自の視点でまとめた著作で、発表当時に話題になった。今回紹介する『黒船絵巻』は、ペリー艦隊乗員が下田に上陸した時のエピソード、下田の人々が初めて見たアメリカ人への驚きと、街角で日米の人々が交流する模様が日本人の無名の絵師の極めてナイーヴな観察眼と筆で描かれている。その一連の絵をスタットラーが絵巻物風に仕立てて英語で解説している。ペリー艦隊に同行した画家ウィリアム・ハイネが遺した数々の日本のスケッチはアメリカ人が初めて見た日本として『ペリー艦隊日本遠征記』などでも有名だが、これらの日本人絵師の「異人遭遇記」も負けず劣らず新鮮で驚きに満ちている。初めて出会ったアメリカ人をどう観察したのか。そしてその日本人の目線をアメリカ人作家スタットラーはどう見たのか、なかなか興味深い。ペリー肖像など完全に髭だらけの天狗のようなご面相に描かれているが(ペリーは髭を生やしていないにも関わらず)、おそらく絵師は直接ペリーと会っていないので伝聞に基づいて描いたらこうなった!のだろう。実像よりも印象。いや、虚像という勿れ。この絵には日本人が心で受け止めたある意味での「実像」が描かれている。下田の街の人々とアメリカ人水兵の「出会い」の場面はまさに「未知との遭遇」「異文化コミュニケーション」そのもの。しかし、そこに描かれている人物は、さっきのペリー像と違って、意外に普通の顔をした普通の人に描かれていることに気づく。妄想と実像のギャップであろうか。スタットラーが語るように、歴史的事件としての国と国との出会いとは別に、人と人との出会いの一瞬、一瞬がなんとも微笑ましく愉快だ。この時の日米邂逅を記念して現在でも下田では、毎年5月に「黒船祭り」が盛大に催されている。当時のペリー艦隊の上陸と軍楽隊行進が横須賀米海兵隊により再現され、了仙寺での条約調印式の再現劇、日米の仮装パレード、街角でのパフォーマンス、フードコートなど楽しいイベント満載だ。日米市民レベルの交流は下田のレガシーになっている。

一方で、『黒船絵巻』には複雑な思いの人物も登場する。ペリー艦隊一行の一人に「日本通詞マトウ」なる人物が描かれている(下記図参照)。実は彼はペリー艦隊に同行した唯一の日本人漂流民である。まず日本人漂流民が黒船に乗船していたことに驚かされるが、確かに『ペリー艦隊日本遠征記』にその記述が確認できる。彼はSam Patch と皆から呼ばれた。著者のスタットラーは本名がMato Sanpachi(マトウ サンパチ)ではないかと書いているが、のちの調べで本名は仙太郎(1832年天保3年〜1874年明治7年)という播磨の船乗りだった事がわかった。

仙太郎は、あのジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵と同じ兵庫の栄力丸の乗組員で5歳年上。1850年に遠州灘で遭難、漂流ののちにアメリカに辿り着き、のちに彦蔵らと共にアメリカから、日本へ送還すべくハワイ経由でマカオ、香港へ移された人物である。この時、彦蔵はペリー艦隊には乗船せず、アメリカに戻り帰化している。仙太郎だけが香港からペリー艦隊サスケハナ号に乗船して日本へ向かった。『ペリー艦隊日本遠征記』によれば、艦隊では簡単な通訳や乗員のサポートとしてよく働いたようだ。この時22歳。日本到着後、ペリーは幕府側の通詞、森山栄之助から、Sam Patchの帰国許可が出ており身の安全を保障するから日本に留まらせるように依頼されたが、ペリーは本人次第だと答えた。そして本人は死罪を恐れて帰国しなかった(役人との面会では「平身低頭するだけで何も言葉を発しなかった」と書かれている)。結局ペリー艦隊と共にアメリカへ戻る。アメリカでバプテスト洗礼を受ける。のちにペリー艦隊ミシシッピ号の乗員であったジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble(1827-1891)がバブテスト教会の宣教師として日本に渡るときに使用人として同道し、1860年帰国を果たしている。この時28歳。しばらくは横浜外国人居留地から一歩も出ずに暮らしたようだ。横浜パブテスト教会の創立メンバーに名を連ねている。その後、いくたびか雇い主が代わり渡米ののち、最後はお雇い外国人ウォーレン・クラーク:Edword Waren Clark (1849-1907)(ラトガース大学でのウィリアム・グリフィスの友人)のコック、使用人となり1871年に再帰国。静岡や東京に移つり東京で死去。享年42歳。故郷に身寄りもなかったため東京の法華宗の寺に葬られた。

当時の漂流民が、帰国を熱望しながらも、帰国後の死罪を恐れて逡巡し帰国をギリギリで忌避した様子がよく分かる。ジョセフ・ヒコの自伝(下記過去ログ参照)にも同様の葛藤と究極の選択が描かれている。ヒコはアメリカ市民権をとって開国後の日本に帰国(アメリカ領事館に赴任)している。有名なジョン万次郎は勇敢にも幕末の日本に帰国して投獄、詮議を受けている。もう一人の漂流民オットソン(山本音吉)も帰国を断念しイギリスに帰化。上海に住みアロー号事件ではイギリス兵として参戦した。その後エルギン卿のイギリス艦隊に通訳として乗船し日本に向かい日英条約交渉で活躍するが、帰国はしなかった。自らの責任で漂流民となった訳でもないのに、過酷な運命の下に置かれた彼らへの理不尽な仕打ちに同情を禁じ得ない。今回見つかったSam Patchこと仙太郎の心の葛藤は如何許りであったか。どのような心境で下田の地を踏んだのだろう。日本まで帰っていながら下田を去る時どのような心持ちであったのか。そして念願叶って帰国した後、どのような人生を歩んだのか。ジョン万次郎やジョセフ・ヒコのように歴史に名を残すことはなかったが、黒船に乗って来た日本人漂流民Sam Patchの一生を別途追っかけてみたい。

古書を巡る旅(48)2024年4月7日 「The Narrative of A Japanese :ジェセフ・ヒコ伝

2022年5月22日 「下田黒船祭

古書探索の楽しみ2015年5月26日 「ペリー艦隊日本遠征記」

この日本人漂流民、仙太郎:Sam Patchと、のちに宣教師として日本にSam Patchを伴ってやってくるジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble も、この『黒船絵巻』に下田に上陸したアメリカ人「マトウ」、「ゲブル」として日本人絵師に描かれている(下記参照)。

Sam Patch:仙太郎に関する書籍は多くはない。'Sentaro Japanese Sam Patch' by Calvin Parker があるので参考まで。


日本の女性と仲良くなりたいと、遊郭に押しかけて遊女にいじられるアメリカ人

艦隊には写真家も同行しており、日本人には初めてのカメラも登場する
「アメリカ国王への一覧に備へんと心を酌る図」


左は酒を飲んで踊るアメリカ水兵。振りに日本の歌詞が付けられている
右は洗濯するアメリカ水兵。港では洗濯女が洗ってくれるものだが、異人には近寄らなかったので自分で洗ったと

喉が渇いたので一杯所望したら、鬢付け油(椿油)だったので吐き出しているアメリカ水兵

街角で餅つきに挑戦するアメリカ水兵
婦人は腰が引けているが面白がっている

日本通詞マトウ
日本人漂流民、仙太郎のことである
Sam Patch(サンパチ)と呼ばれていた
少し憂いを帯びた顔をしているような

ゲベル
Jonathan Goble
のちにバブテスト教会宣教師としてSam Patchと共に日本にやってくる


ヒンテンデアル
随行画家ウィリアム・ハイネのことらしい
スケッチをしているところをスケッチされた


一方、これはウィリアム・ハイネが描いた下田の風景 了仙寺のあたりか
スケッチするハイネに子供が群がっていて役人が追い払っている

1963年初版