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下田港と寝姿山 |
伊豆の下田は今年が開港170周年だそうだ。伊豆半島の小さな港町だが、これほど歴史と物語に溢れた街も少ないかもしれない。長い鎖国の眠りから覚めて日米和親条約で開国した日本の最初の開港地である。アメリカ東インド艦隊のペリーが上陸し、了仙寺まで軍楽隊と下田条約調印のために行進した町である。ロシアのプチャーチンが日露和親条約に調印した町である。その彼の旗艦ディアナ号が戸田で安政地震に遭遇。沈没し多くの乗組員を失うも戸田の人々の救助と軍艦建造で帰国した。遠征中に亡くなり、故郷へ帰ることができなかったペリー艦隊の水兵やプチャーチンのディアナ号の乗組員が眠る町である。その墓所は玉泉寺にある。吉田松陰がそのペリー艦隊に乗船して密航を企てるも、拒否されてやむなく断念。幕府に自首して捕えられた町でもある。日米和親条約/下田条約で開港の地となり、初代アメリカ領事ハリスが玉泉寺に領事館を開いた。不慣れな土地に赴任したもののなかなかやってこないワシントンからの便の到着を待ち侘びた波止場がここだ(ハリス日記)。好奇心旺盛なヒュースケンが街に繰り出し混浴を見に行ったり、犬に吠え立てられた町でもある(ヒュースケン日記)。異人蔑視と理不尽なゴシップから生まれた「唐人お吉」の悲しい物語の舞台もここだ。しかし、横浜が開港すると下田は閉港。歴史の表舞台から消えてゆく。そして「伊豆の踊り子」で学生がカオルと別れた波止場。その最後のシーンに胸を熱くした。そんな多くの歴史と物語を纏った下田。昔から江戸湾に入る船を監視する幕府の船番所があり、下田奉行所も置かれ風待ち港としても栄えた。江戸からは遠く離れていた。だから開港場に選ばれたのだ。立派ななまこ壁と伊豆石の商家や蔵が立ち並び、花街もある情緒あふれる港町であった。今も往時の繁栄を彷彿とさせる痕跡をあちこちに見出すことができる。下田の街並みに独特の景観を生み出している名物のなまこ壁の建物は、平瓦を並べて白漆喰で継ぎ目を埋めるもので、伊豆石と組み合わせたりして耐火、防水性に優れている。伊豆半島という土地の風土が生み出したのであろう、小規模ながら碁盤の目に整えられた町割りと相まって、内陸の在郷町や宿場町とは異なる風情がある。しかしそのなまこ壁の建物もめっきり少なくなってしまった。
伊豆の隠れ家にゆく時には、必ず、東京から伊豆急下田まで直行して街を散策する。2時間半の道のりだ。ここまで来れば、さすがのインバウンドの嵐、オーバーツーリズムも無い。黒船祭りの時以外は静かな佇まいだ。地元の観光協会にとっては不満かもしれないがこれが我が心のデトックスコース。平野屋のハンバーグ、牛すじカレー、邪宗門のウィンナコーヒーとトースト、平井製菓のハリスのあんぱん、ページワンのモツェレラチーズパスタとトマトサラダ。それに駅前のインドカレーのテイクアアウト。なんで下田に来てイタリアンやインドなのか。ワサビじゃなくてカレーなの?金目鯛じゃなくてタンドーリチキンなの?ぐり茶じゃなくてウィンナコーヒーなのか?固定観念にとらわれない下田は「舶来物」にもオープンな街なのだ。しかし、海の幸、山の幸がいっぺんに味わえる奈良本の山家料理の山桃茶屋が閉店してしまったのが何よりも悲しい。
ペリー艦隊の日本遠征記にも初めて体験する日本の街、下田の様子が興味津々で描かれている。街を歩く水兵たちはどこへ行っても子供に追い回され、奉行所が取り締まると、今度はペリーが交流を妨げないでと抗議する。公衆浴場の混浴に仰天し、女性のお歯黒に嫌悪するヤンキーの異文化体験が面白い。下田に滞在していたハリスとヒュースケンの日記を読むとさらに面白い。下田奉行所の役人とのやりとりに最初は違和感を抱いたハリスも、次第に彼らの真摯な態度と、知性、品格の高さをレスペクトするようになる。街が清潔で平和であることに驚いている。世界にこんな街はないだろうと書いている。ぺリー遠征記もハリス日記も米国全権代表としての記録なので真面目で歴史的には重要かつ興味深いが、ヒュースケン日記の方は彼の個人的な記録であり、彼の若さと好奇心旺盛な性格が現れていて、先ほどの犬に吠えられた話や無頓着な猫に歓迎される(?)話に思わず笑ってしまう。
以下にヒュースケンの1857年2月26日付けの日記の抜粋を紹介しよう。
「役人の付き添いなしに一歩も領事館の外へ出かけることができなかった。(中略)奉行所に抗議すると、それはあなた方を民衆から守る為だという。可哀想なのは日本の民衆である。我々がそれほど恐ろしい存在だと仕向けられている。(中略)下田の住民は我々と話をしないよう厳重に命令されており、我々が街に出かけるときには、住民は戸も窓も締め切ってしまう。特に婦人は我々が近づくと、まるで人類の敵に出会ったように大急ぎで走り去る。(中略)たまたま大胆に近づいてくる女性があるとすれば、それはシワだらけの八十婆さんで、目が悪いので「異国の鬼」と「自国の人間」との見分けがつかないのである。日本では普通大人しい牛馬までが、我々に出会うと目が覚めたように元気になり、後ろ脚で立ったり、跳ねたり、重い荷物を積んでいるのに全速力で駆け出したりする始末である。犬などは、月に向かって吠えるだけの動物のはずなのに、何をどう間違えたか、我々を見るとひどく騒ぎ立て、町中が犬の大合唱になり、我々の後を追いかけて街外れまで来ると、そこで郊外の犬に吠える権利を譲渡するのである。猫だけは外国人に過酷な日本の法律には従わず、無頓着に我々を見つめている。この冷淡な動物だけが、我々の最上の接待役であるというに至っては、我々も随分落ちぶれたものである」
過去ログ:
2015年5月26日「ペリー艦隊日本遠征記」
2020年10月7日「最初の米国領事館、下田玉泉寺探訪:ハリス、ヒュースケン、お吉の物語」
2024年1月21日「ヒュースケン日本日記」
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下田公園からの展望 |
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いつの時代か不明であるが古い古民家が密集している様がよくわかる。 酒屋さん「土藤商店」の店先に掲示されている古写真 |
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航海安全と豊漁を祈る |
ペリーロード界隈
波止場と了仙寺を結ぶ300mほどの小径。ペリー一行が下田条約調印式に臨むために軍楽隊先頭に行進したことから「ペリー・ロード」と名付けられた。川端には古民家が並ぶ。元は港町の遊廓街であったところ。現在は古民家カフェやイタリアンレストラン、骨董店などとなっている。
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ペリーロード
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下田の名家、旧沢村家住宅 |
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伊豆石の古民家 |
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伊豆石の蔵 |
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現在のペリーロードあたりの古写真(大正時代か) |
開国ゆかりの寺巡り
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了仙寺 ペリーとの下田条約締結の地 |
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長楽寺 プチャーチンとの日露和親条約締結の地 |
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最初に米国領事館が置かれハリスが駐在した玉泉寺 米国水兵、露国水兵の墓所もある |
街中なまこ壁建築探訪
下田の街は、江戸末期には街の西の山手に位置した下田奉行所と八幡神社、寺院群を中心に、規模は小さいが碁盤の目状になっている。街中にはなまこ壁の商家や宿屋、酒蔵、漁具店などの古民家が今でもいくつか保存され残っている。一方で、店舗やアパートなどに改装されたり、取り壊された古民家も多く、なまこ壁の家は年々減っているように感じる。また、飲食店などは「なまこ壁風」看板建築のところもある。しかし本物を修景保存することも、新たななまこ壁を作るのも大変な努力が必要だろう。職人はいるのだろうか。下田は「伝統的建造物群保存地域」に指定されていないそうだから保存修景にもお金が出ないのだろう。
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お吉が開いたという「安直楼」現在は閉店中 |
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蔵を改装したカフェ(本日定休日) |
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いつまでこの佇まいを維持できるのだろうか いずれ両隣のように駐車場になるかプレハブ住宅になるのだろう |
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原型を留めない建物 |
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都会では見かけなくなったカメラ屋さんも健在 |
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昭和モダンな地域センター「コミュニティーホール」 |
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レストラン「平野屋」 幕末に「欠乏所」が置かれ、寄港する船に必要な物資を届ける場所であった。 |
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創業時から変わらない「松本旅館」 |
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窓枠はアルミサッシになったが |
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鈴木家「雑忠」邸宅 江戸時代の商家 見事な建物 |
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日中にも関わらず人通りが無い商店街 |
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老舗の酒屋さん「土藤商店」 備後鞆の浦の「保命酒」を扱う |
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伊豆石でできた酒屋さんの蔵 |
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下田の名物喫茶店「邪宗門」 |
(撮影機材:Leica SL3 + Vario-Elmarit SL 24-90/2.8-4)