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2024年12月14日土曜日

皇居お濠端 日比谷通りの秋 〜昭和な九州男児クンのノスタルジック東京〜




子供の頃、福岡に住んでいた。夏休みや正月にはよく東京の母方の実家に遊びに行ったものだ。父方の実家は大阪だったので交互に行った。福岡(なんばしよるとね)、大阪(なにしとんねん)、東京(てやんでえべらぼうめ〜)。それぞれの異文化コミュニケーションを味わったものだ。

東京は大きな街で、いつでもどこでも人で一杯である。ブルートレイン「あさかぜ」で17時間。博多から朝の東京駅に降り立つと、ホームも駅コンコースもものすごい人で埋め尽くされている。東京は人ばっかり!逆に帰りは、夕方の雑踏の東京駅を出発して一路博多に向かう。ネオン煌く有楽町界隈を車窓に見ながら。家路を急ぐ大勢の人々が有楽町駅のホームにぎっしりと立っているのが見える。夜が明けて山陽路を駆け抜けるときに見る途中駅は人影もまばら。長い旅路の末に関門トンネルをくぐり博多駅で降りても駅は閑散としている。はるけき距離に反比例した人口密度の差を実感したものだった。「東京は生馬の目を抜く競争の街だよ」と母が言った。そうだろうと思った。ぼんやり歩いていると突き飛ばされるし、満員電車はぎゅうぎゅう詰めで足を上げるとおろすところが無くなる。駅で電車のドアが開くと、後ろからドット押されて降りたくもない駅のホームに吸い出されてしまう。ぼんやりホームに立っていると今度は電車に乗り損なう。電車は長大編成で数分おきにやってくる。それでも満員だ。線路は複々線で電車が並んで走っていて、並走する電車の乗客と目が合う!乗り物といえば西鉄バスか市内電車しか乗ったことのない博多っ子にはびっくりするような街だった。そのエネルギーが日本の高度経済成長の原動力だった。

そんな九州男児くんにとって、皇居のお濠端の日比谷通りの街並みが格好良くて、「すごかあ!」「さすが東京バイ!」と驚いたのを覚えている。同じ高さの堂々たるビルジングが通りに沿って一列に並んでいる。堀を隔てた向かいは広大な皇居前広場。福岡や博多にはない壮観な街並みだ。高層ビル化した今もその景観は維持されていて、子供の頃見たあの堂々たる首都東京のイメージが残されている。東京に住むようになった今でも皇居外苑と日比谷公園と日比谷通りが東京の中で一番好きなところだ。子供の頃に刷り込まれた「東京らしさ」が満員電車のトラウマと共に記憶の底にこびりついているのだろう。一番首都らしい景観。皇居前広場の松の緑と広い空間。有楽町や銀座も近い。島倉千代子の「東京だよおっかさん...ここが二重橋」フランク永井の「有楽町で逢いましょう」石原裕次郎と牧村旬子の「銀座の恋の物語」。テレビの歌謡番組で聴いた東京の名所、繁華街はみなここだった。お上りさんの抱く東京のイメージにぴったりなのだ。今では渋谷や原宿、赤坂、六本木、いやお台場、ウラ原、吉祥寺なのだろうが、昭和な九州男児くんにとっては皇居、日比谷、有楽町、銀座なのだ。

その時は、自分が大きくなってその「感動の」日比谷通りに建つビルで仕事するようになるとは思っていなかった。あの満員電車の日常の一人になり、日比谷公園が昼休みの憩いの場になるとも思ってなかった。ましてロンドンのシティーやニューヨークのパーク・アベニューのオフィスで仕事することになるなんて想像だにしなかった。東京どころか世界を股にかけて... 田舎から出てきた九州男児くんは随分出世したものだ。その日比谷ビルも昨年取り壊されてしまった。再開発という名の都市破壊で跡形もなくなった。時間はものすごいスピードで流れてゆく。人生は長いようであっという間の出来事である。まさに「一炊の夢」。昭和は遠くなりにけり。立身出世して故郷に錦を飾る。それが昔の人生のサクセス・ストーリだった。しかし、終わってみれば皆同じ。今更飾る錦もなし。この歳になって気づく。故郷は遠くにありて思うもの。帰るところにあるまじや。故郷は大きく変貌して今や大都会になってしまった。両親もいないし自分が住んでいた痕跡もない。懐かしい友人たちも60年も会わない、すっかり容貌が別人になっていて誰だか見分けもつかないし、彼らもまた私が誰だかわからない。まさに浦島太郎だ。竜宮城で乙姫様やタイやヒラメの舞踊りでもてなされた記憶はないが、気づくと手には玉手箱を持っている。きっとこれは開けてはならないのだろう。タイムトラベラーはここは我慢だろう。
























(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)