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2014年8月15日金曜日

2014年終戦の日 新益京(藤原京)の時空旅 〜讃良大王(ささらのおおきみ)(持統天皇)の維新大業の足跡をたどる〜

 終戦の日、澤田瞳子「日輪の賦」読了。同氏の作品「泣くな道真」に次ぐ2冊目だ。読み応えのある分厚い書き下ろし歴史小説だが一気に読み終えた。2冊ともタイムスリップ感が味わえるワクワクするような作品だ。

 物語は、7世紀の倭国。讃良大王(ささらのおおきみ)すなわち持統天皇の、いわば「日本建国」という時代を背景に、建設途上の新益京において律令編纂事業を行う撰令所、法令殿を舞台とし、それに関わる(推進勢力・抵抗勢力)諸々の階層の人々の姿を生々しく描いている。古代史的興味から読み始めたが,最後はサスペンスとしての興奮と、時代を超えて愛すべき人々の姿に涙した。

 女帝である讃良大王(持統天皇)の建国事業の歴史は、父である葛城王・中大兄皇子(天智天皇)、夫である大海人皇子(天武天皇)の遺志を継ぐもので、天皇中心の中央集権国家建設、大国にふさわしい律令国家の創設、という三代に渡る闘争の歴史である。

 この時代、すなわち7世紀半ばは、古来から倭国(弥生稲作農耕から発生した「ムラ」「クニ」の連合体たる「倭」)の成り立ちの基礎となって来た氏族/豪族制、私地私民制から、天皇制、公地公民制へ、という政治改革、社会改革、経済改革が進められた時代である。さらには私地私民制の根幹にある倭国古来の「八百万の神々」から、「天照大神」を皇祖神とする「神々の体系化」を行い、一方で外来の思想である「仏教」を、国を治める統合の思想「鎮護国家の思想」と位置づける「思想・文化革命」も行っていった。その重要な果実の一つである「大宝律令」は701年、持統天皇の孫、かるの皇子(文武天皇)の時代にようやく発布される。そうして、国号を自ら名乗ったわけでもない「倭」から日の出国「日本」と変えた。これは単に国号変更にとどまらない。「明治維新」の原型たる、いわば「大宝維新」が成し遂げられた瞬間である。まさに「日本建国」と言ってよい。

 もちろん、そのプロセスが平坦なものではあり得なかった事は容易に想像出来る。旧来からの氏族・豪族という私地私民制に依拠した既得権益層からの猛烈な抵抗のなかでの「維新」である。さらにそこへ、同盟国百済の滅亡、唐による倭国本土侵攻の危機という倭国を取り巻く国際情勢の緊迫である。大きな出来事だけでも次の事件がある。

1)まずは、645年の宮廷クーデターである「乙巳の変」(「大化の改新」と称せられたが、後述のように、この事変をもって改新が完了した訳ではないことから最近ではこのように呼ばれる)である。大王家と姻戚関係を持ち、政権中枢で権勢を振るっていた蘇我一族を滅ぼして「改新の詔」を出す。しかし、これは「維新」の始まりにすぎなかった。

2)次は、663年の集団的自衛権行使「白村江の戦い」である。同盟国百済救済のために朝鮮半島に出兵。唐・新羅連合軍との戦争に大敗を期し、倭国の半島に置ける権益を喪失する。やがて迫りくるであろう唐・新羅の倭国侵攻に備え、太宰府・水城建設、防人の徴用、西国の防衛力強化、首都の飛鳥から近江移転まで果たす。いわば外圧に対抗する軍事力強化策が国策となった。。

3)そして、674年の古代史最大の内乱である「壬申の乱」である。いわば軍事中心の近江朝政権から内政中心の飛鳥朝政権へと政権交代を果たしてゆく。百姓(民)、豪族は対外戦争と遷都事業に駆り出され疲弊していた。ここから「日本建国」事業が始まる。

 こう見るとまさに激動の7世紀である。日本建国の世紀である。明治維新の原型、「大宝維新」である。

 倭国内における氏族/豪族の争いという「内憂」と、朝鮮半島における権益の喪失、唐・新羅による、倭国侵攻への恐怖という「外患」が、大王の権力集中、国家体制の強化の試みの大きなモチベーションになったのは不思議ではない。やがて大陸の大国に負けない中央集権的国内統治体制の確立、そのための抵抗勢力封殺が、中期的な国家の安全保障目標となった。やがて国号を「日本」と改め、律令制を敷き、天皇制を確立し、天皇即位ごとの元号を定める。 いわば国家の「近代化」に一気に突き進んだ。

 そのモデルは唐の統治機構、なかんずく律令体制である。「日輪の賦」で描かれているように、唐から帰った留学生、学者や外交官が律令編纂に従事した。また百済からの亡命渡来人が大勢いたので、彼らの知識や技能が役立った。単に唐の律令をコピペするのではなく、倭国の実情にあった形に咀嚼し、策定する作業は、681年の天武天皇の詔から20年を要した。そして、その律令制定により既得権益が失われてゆく抵抗勢力の妨害も凄まじかった。その様子が生々しく描かれている。

 一方で、新しい国家「日本」の正史である日本書紀も、「天皇」の記である古事記もみなこの時に編纂された。天照大神を皇祖神とし、天孫降臨族の正当な子孫としての「万世一系の天皇」という思想はこの時出来た。豪族/氏族に共立されていた大王(おおきみ)が、彼等の上に立つ天皇(すめらみこと)として国家を統治する正統性、権威を歴史的に証明(?)してみせたのがこれらの歴史書である。明治維新後の皇国史観はこのときに編纂された記紀がその根拠であり、天孫降臨神話も神武天皇東征も神功皇后三韓征伐もこの時代が生みだしたストーリーであることを知っておく必要があろう。

 一方,これは、中華帝国、その皇帝(天帝)の他に,もう一人天帝が東アジアに出現したという事を宣言したものでもある。すなわちこれまでの中華帝国への柵封朝貢国家「倭」から,独立した国家「日本」を樹立した事を宣言したものだ。白村江の敗戦と唐の倭国侵攻の危機を乗り切った後に,急ぎ国力を充実させ,国家体制を整備して「大宝維新」を成就させた。

 歴史は繰り返す。日本という国の歴史的な転換、パラダイムシフトには必ず、海外からの脅威が背景にある。やがては脅威であったその外国に学び、国の「近代化」を果たすことによって生き延びてゆく、これが日本という国の「歴史観」であろう。7世紀の「大宝維新」は19世紀の「明治維新」のモデルとなった。武家政権・幕藩体制から天皇への大政奉還は、すなわち「王政復古」なのである。明治新政府の太政官・神祇官などという官制は、なんとこの大宝律令時代のそれの復活なのだ。

 19世紀に、西欧列強の脅威に対抗して国家の近代化を指向するなかで、1200年も前の日本の古代の統治制度を復活させるという歴史的皮肉に、永年続いた武家政権、封建制度からの脱却の困難さを思うばかりである。倒幕の理念としての尊王攘夷だけではなく、強力な中央集権国家のモデルイメージとして大宝律令時代の天皇制、皇国史観を引っ張りだしてきたところが日本という国の歴史の妙であろう。一つの権力を倒し、新たな権力を打ち立てるには、古からの「権威」regitimacyが必要であった。まさに「王政復古」Meiji Restorationなのである。

 ここで、「激動の7世紀」、「激動の19世紀」の共通点をいくつか拾ってみよう。

1)国号変更:
倭から日本(ひのもと)へ ⇒ 日本から大日本帝国へ

2)中央集権:
氏族・豪族体制から天皇中心の中央集権体制へ ⇒ 幕藩体制から天皇中心の中央集権体制へ

3)外圧:
唐の侵攻の脅威 ⇒ 欧米列強の植民地化の脅威

4)内戦:
対外戦争から国内体制の安定化優先への政権交代(壬申の乱) ⇒ 倒幕内戦(戊辰戦争)から不平士族反乱鎮圧(西南戦争等)まで

5)統治機構:
私地私民制から公地公民制、氏族・豪族の臣民化、官僚化 ⇒ 藩籍奉還、秩禄処分(武士階級の廃絶)、華族令(藩主の皇室藩屏化)、官僚制整備(帝国大学による官僚育成)

6)法治国家:
大宝律令発布(人治国家から法治国家へ) ⇒ 大日本帝国憲法発布(西欧流立憲君主制)

7)遷都:
新益京遷都(近代的国家に相応しい首都建設) ⇒ 東京奠都(近代国家にふさわしい首都建設)

8)政治思想と統治理念:
記紀編纂。皇祖神天照大御神創出による天皇支配の正当性 ⇒ 皇国史観による政治、社会,教育。廃仏毀釈(後に文化財保護視点から廃止)

 しかし、天智天皇、天武天皇、持統天皇による天皇中心の中央集権国家体制、律令体制も、奈良時代末期から平安時代には、ほころび始め、天皇家と姻戚関係を持つ藤原一族の支配(摂関政治)へと移り、律令制も何時しか崩壊してゆく。さらに平安末期の武家の棟梁平清盛に始まる武士階級が政権をになうようになり、途中,幾度か天皇親政を試みる動きはあったものの、将軍(天皇が与えた官位である征夷大将軍)が国を統治する時代が、江戸末期まで700年も続くことになる(権威は天皇,権力は将軍という二元支配体制)。

 明治維新の国家統治理念は、基本的には上記のように大宝律令時代の統治理念を復活させようという「王政復古」であり、再び天皇中心の中央主権国家が生まれたわけであるが、そのわずか77年後の1945年の大日本帝国の敗戦により、天皇が主権者という統治構造は崩壊する。かわって、国民(律令時代風に言えば「百姓(ひゃくせい)」)を主権者とする、すなわち民主主義という新しい国家統治理念がもたらされる。明治の王政復古で主権者の地位に返り咲いた天皇が、外国に国土を占領され、独立主権を奪われるという形で主権者の座を降りるという(戦後は象徴天皇制として残ったが)、日本開闢以来未曾有の出来事であった。そして、この戦争は近隣諸国に甚大なる被害を与えただけでなく、320万人もの国民同胞(百姓)が犠牲になった戦いであった。白村江の戦いの比では無い。かつて唐の侵攻を防ぎ、元の来寇を博多で食い止め、南蛮人の野望から鎖国で国を守り、西欧列強の植民地化にも対抗して独立と国土の安全を守ってきたこの国は、なんと外国に占領され、6年間独立を失った。20世紀になって歴史に大きな汚点を残した。ついに民を、国土を守れなかった。この歴史の重みを知るべきだろう。このことを忘れてはいけない。

 新益京について以前書いたブログ:新益京(あらましのみやこ)


大和三山を包摂する新益京

新益京藤原宮大極殿跡。背後には耳成山

大極殿の基壇跡

夏の睡蓮
夏は睡蓮畑になる藤原宮跡
背後には畝傍山

藤原宮跡から見る香具山

大極殿跡から真南、朱雀大路の先に夏雲が

元薬師寺。夏はホテイアオイ畑になる



元薬師寺金堂基壇跡

幻冬社



























2014年8月6日水曜日

太宰府 〜遠の朝廷(とおのみかど)にはチャンスがいっぱい!〜

 普段あまり小説を読まないが、最近面白い小説に出会った。澤田瞳子氏の「泣くな道真」ー大宰府の詩ーだ。日経新聞の書評欄に紹介されていたのが眼に留まった。この新進気鋭の歴史小説家の描く、菅原道真と彼を取り巻く太宰府や博多の人々、1100年ほど昔の太宰府と博多という町の有様が新鮮だ。逆説的だが、フィクションという形で描かれてはいるからこその、歴史書や考古学からは見えてこない当時の生々しい光景が目の前に広がる。まさにひとときの「時空旅」を楽しませてもらった。史料・文献を読み込んだ実証的な歴史研究の成果に基づいて書かれた歴史小説であるが、どこかサラリーマン小説的でもある。面白い。

 みやこで右大臣にまで上り詰めた菅原道真が、左大臣藤原時平の讒訴により,筑紫大宰府に左遷されて落魄の時を過ごすが、そこで、内裏しか知らず、位人臣を極めていた時には知る術もなかった、地方の民の暮らしぶりやその苦悩を知り、かたや博多津という国際貿易都市に入ってくる異国の文物の豊かさに驚き、そのなかで唐物書画骨董の真贋目利きに頭角を現し(さすが当代きっての文章博士だ)、再び生き生きと自分の立ち位置を見つけて行くというストーリーだ。

 道真公の大宰府左遷という誰でも知っているストーリーを、当時の大宰府/博多津という都市の性格をうまく舞台化して、新たな自分に目覚める一人の男の物語りとして描いた歴史小説だ。みやこ/朝廷というある種狭い世界で政治権力闘争に明け暮れている連中には見えない世界があるんだという。みやこでの権力闘争の敗者が、ここ大宰府という別の世界の勝者になるという。歴史小説であるが、現代の世相と重ねあわせた批判精神が愉快だ。痛快サラリーマン小説みたいなストーリ展開で一気に読み終えてしまった。サラリーマンの我が身としては身につまされる部分が多いだけに(笑)

 太宰府といえば,このように菅原道真が都から左遷されて来た鄙の地、というイメージが強い。しかし、大宰府は西海道(九州)九カ国三島を統治する,強大な権限を有した役所である。大宝律令下では最大の地方国衙であり、その街は「遠の朝廷(とおのみかど)」と称される殷賑極める大都会であった。さらに、大陸に近く、我が国弥生文化発祥の地であり,ヤマト王権の拡大に応じて外交窓口、辺境防備の役割を担う拠点となった。したがって、大宰府がとりわけ重要であったのは外交、国際貿易を取り仕切る役所であったという点だ。大宰府の外港である、那の津/博多津には筑紫鴻臚館が設けられ、そこで外交使節の接遇、饗応を行い、大陸との交易の先取り特権有した。これは独占貿易からの巨万の富という経済利権を有する地方国衙である事を意味する。特に平安時代に入り、遣唐使が廃止されると(この進言をしたのは菅原道真)、日本は一種の鎖国となり、博多津が唯一海外に開かれた港となる。江戸時代の鎖国体制の長崎と同様だ。その博多津を大宰府が一手に掌握していた。いや博多津は大宰府の一部であって、切っても切れない関係であった。

 その大宰府の最高位である長官は、大宰帥(だざいのそち)である。平安時代になるとその地位には代々親王がついた。筑紫大宰府に赴任しない「遥任」官として都に居たまま高給と貿易利権を手に入れる事の出来る美味しいポストであった。実際には、臣下である大宰権帥(だざいごんのそち)や、大弐(だざいだいに)がみやこから筑紫に赴任して地方長官,外交長官として、地元採用の官人を統率して権限をふるった。いわば中央官庁採用と地方採用のような構造だ。彼らも在任中(通常5年だったようだ)大きな経済利得を享受した。

 901年、菅原道真は右大臣から太宰権帥に左遷され、はるばる筑紫大宰府に流された。権帥(ごんのそち)とは、「権」(仮の)「帥」、すなわち、大宰帥の次官あるいは長官代理のようなポジションである。道真公のように従二位という身分の高い官人が赴任する時には、大弐ではなく権帥となった。権帥は必ずしも左遷ポストというわけではなく、実際に筑紫に赴任して活躍した大江匡房のような権帥もいた。彼は在任中せっせと蓄財をして都に帰っている。しかし道真公の場合は権帥といっても「大宰員外帥」で、実際には何の権限も与えられず、部下も身の回りの世話をする従者もなく、報酬も与えられないポジションであった。このような「哀れ道真公左遷」の話が後世あまりにも有名になり、太宰府は左遷の地、権帥は左遷ポストというイメージが定着してしまうが、実は先述のように、大宰府の高官という地位は美味しいポジションだったのだ。左遷されてきた人もいたが、願って赴任してきた人もいる、という状況だった。

 もっとも、みやこで位人臣を極めた道真公にとってはそんな現世利益みたいな話しはどうでも良いことだったろう。ただただ帝への忠誠と自らの名誉を重んじた。自身は一度も府庁に出仕しなかった。「不出門」の漢詩のように、府庁から朱雀大路を下った府の南館(といっても当時はほとんど廃屋状態だったと言われる)で「配所の月」を眺め、「観世音寺の鐘の音」を聴きながら謹慎していたから、実際に権限をふるう事も蓄財する事もなかった。

 903年、道真公が大宰府で亡くなって37年後の天慶年(940年)、伊予の中級官僚である藤原純友が瀬戸内海日振島で反乱を起こした。彼は都を襲わず、大宰府を襲う。このとき蔵司にあった財宝が奪われ,官衙はことごとく焼き払われてしまう。大宰府が西海道の租税徴収権限を有し、税の集積地であった他、博多津の筑紫鴻臚館での大きな貿易先取り特権による富の蓄積があったからこそ、襲撃のターゲットになった訳である。こうして大宰府官衙は壊滅するが、最近の都府楼跡の発掘調査で、すぐにこれまでにも増して壮大な政庁が再建された事実が判明している。現在、都府楼跡に並んでいる,壮麗な礎石群は、この第三期(一期は飛鳥時代後期の掘建て柱建築。二期は大宝律令下の奈良時代の礎石柱・瓦屋根の朝堂院形式建築)の再建政庁正殿の礎石であった。この時期は律令体制が崩壊しつつある時期で、中央の再建支援が期待出来ない状況であった。しかし、都の支援を仰がなくても、このような再建を可能ならしめる財力が、地元、博多や大宰府に備わっていた。

 人間の物欲煩悩とどまるところを知らず。大宰府が牛耳っていた富を巡る争いは,この後も続いて行くことになる。

 律令制の実質的な崩壊過程で、役所としての大宰府はその機能を低下させていったが、大陸の唐の滅亡、五代六国の王朝交代の混乱が収まり、東アジアに再びグローバリゼーションの波が押し寄せる情勢を見て、いち早く大宰府の戦略的役割を再評価したのが平安末期の平清盛である。彼は大宰府における宋との交易利権を独占すべく、自ら大宰大弐のポジションを朝廷に要求した。以降、平家一門は有力な子弟を大宰大弐として実際に赴任させている。平家一門の繁栄、みやこにおける権勢を支える経済的源泉が、この大宰府/博多津である事を認識していた。やがて清盛は活動の拠点を太宰府ではなく博多津に移し、袖の湊を建設することでますます宋との交易に傾注してゆく。さらには瀬戸内海に大型の宋船が通行できる航路を開削し、直接都に近い大和田の泊で交易独占しようとしたが、この国家的プロジェクトは実現を見ぬまま清盛は没し、やがて平家一門は壇ノ浦に沈んで行った。鎌倉時代以降は、源氏・北条氏など東国武士団はグローバリゼーションへの認識が薄く、平氏の勢力圏であった西国統治にも苦慮していた。海外との交易も大宰府による官製貿易から、徐々に博多在住の華僑(博多鋼首)や日本人商人の私貿易が中心となってゆき、のちの博多豪商達の黄金の日々に繋がってゆく。

 歴史に「もし」はない、とよく言われるが、この小説のなかの、もう一人の自分に開眼した菅原道真公が、いま少し太宰府で生きながらえていたらどうなっていただろう。後日譚を想像してみるのも面白い。

 すなわち、毛並みの良い学者一族の出という血筋、稀代の文章博士という知性、宇多天皇、醍醐天皇寵愛の右大臣、というみやこでの栄光の過去をすっぱりと忘れて、ひょっとすると唐物の目利き能力、漢籍の素養を生かしたコミュニケーション能力を遺憾なく発揮して、博多津の豪商、菅三道(かんさんどう)になっていたかもしれない。左遷されてもひたすら謹慎し、天拝山に登ってみやこの方角を遥拝する勤王の心篤き忠臣として彼の地で没するのではなく、己の才能が別のパラダイムに生きる事に気づき、博多津から海を渡り、世界に飛び出す冒険的商人に変身するのだ。かつて遣唐大使に任命されながら、唐の衰亡を見て遣唐使廃止を進言した道真。今度こそ渡海を果たす時がやって来た。和魂漢才の冒険的商人は無敵であっただろう。みごとな人生パラダイムシフトではないか!「もし」そうなっていたら、都で祟りをなすと恐れられる雷神にはなっていなかっただろう。もちろん太宰府天満宮も北野天満宮も創建されてなかっただろう。天神様として崇められたり、学問の神様にはなってなかっただろう。そのかわり後世に博多と福州・杭州の双方に子孫、人脈を残して、東アジアにネットワークを張る倭僑コミュニティーの始祖になっていたかもしれない。中高年の期待の星として歴史に名を残していたかもしれない。

 道真は膝を打って叫んだ。「おお、それは痛快じゃわい!」



うんちくコラム:

 「だざいふ」は「太宰府」なのか「大宰府」なのか?「福岡」と「博多」の違いに続くウンチク話第二弾。一言で言うと、大宝律令で定められた官位、地方行政官庁の名称としては「大宰」「大宰府」が使われていたようだ。後に地域の名称として「太宰府」を使うようになる。しかし、正確に使い分けられていた訳でもなく、古くから混用されていた。ちなみに天満宮は「太宰府天満宮」、現在の自治体としての市も「太宰府市」である。

 大宰府は「おほ みこともち の つかさ」と読み、「大宰(おほ みこともち)」は官位名称。その役所が「府(つかさ)」である。大宝律令以前は筑紫大宰だけでなく、吉備などの地方の長官を大宰と称していたようだが、やがて筑紫大宰府の長官だけを大宰と称するようになる。

 大宰府がいつ頃設置されたのかについては論争がある。7世紀の後半、白村江の戦い以降、現在の博多湾岸にあった那の津宮家を内陸に移したのが太宰府の始まりという説が有力だ。しかし、日本書紀には601年の推古大王時代に「筑紫大宰」の記述があり、大陸との窓口の役割を果たす官家があったようだから、さらに歴史はさかのぼるのだろう。

 逆に、何時無くなったのか? 平安末期の11世紀には地方行政組織としての大宰府は消滅してしまったようだ。律令制がその実態を失っていった時期である。したがっておよそ400年ほど存続していたのだろう。しかし律令官制としての大宰府は無くなっても、筑紫、博多の重要性は変わらず、鎌倉北条氏の時代にも、大宰府の地に鎮西総督府が置かれている(その場所は特定できていないが、政庁跡の東、現在の五条付近ではないかと言われている。発掘調査が進められている。)し、元寇のときも蒙古/高麗軍は、筑紫大宰府を目指して博多湾に上陸してきたと言われている。さらに官位としての大宰帥、権帥、大弐、少弐は府庁が無くなっても継続する。もとはみやこの皇族や貴族の官位であったが、先述のように、平清盛など、武士の台頭に応じて、有力武士団が、筑紫における外国交易による経済利権と九州統治の権威を得るためにこうした官位を欲しがるようになる。例えば、鎌倉から移って来た,いわゆる西遷御家人である武藤氏は、後に、その官位である大宰少弐の名を取り、少弐氏と改称する。また周防の大内氏は博多における権益拡大と九州支配を目指し、朝廷から大宰大弐の官位を受けている。

  こうして、大宰府の権威はいつまでも亡霊のごとく権力者につきまとった。なんと、最後の大宰帥は1849年に補任され明治2年1869年に任を辞した有栖川宮熾仁親王である。


大宰府政庁跡。平城京大極殿に匹敵する正殿ほか、壮麗な朝堂院形式の府庁が建っていた。
背後は大野城。有事の際は大宰府全体が籠城できた。
大宰府政庁正殿跡の礎石。第三期のものである事が分かっている。

太宰府天満宮と飛び梅
「東風吹かば思い起せよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
筑紫鴻臚館発掘現場
旧平和台球場の地下に遺構が発見された。
九州帝国大学医学部の中山平次郎教授の功績をたたえる

左(北)の山は大野城、その麓に太宰府政庁跡や観世音寺が並ぶ。
右(南)の市街地のなかの小さな緑が菅原道真公の配所の館跡


集英社文庫



2014年7月31日木曜日

福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾)再掲

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ後半のクライマックスに突入。秀吉の天下取り。関ヶ原の戦い。時代を動かした名軍師官兵衛の生き様の描写が面白くなってきた。さて、終盤では官兵衛、長政父子の活躍の舞台は、豊前中津、筑前福岡に移って行くことになるのだが、多分、このドラマでは、官兵衛が家督を長政に譲り、隠居して如水と号して福岡で余生を過ごすところで終わりなのだろう。我が故郷、福岡がこのドラマで主要な舞台となることは無いのだろう。如水/長政父子が築いた城下町福岡と古代からの国際貿易都市、博多について、以前に綴ったブログを「軍師官兵衛」にちなんで下記に再掲しました。

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾): 福岡と博多はそもそも別の街であったことをどれだけの人が知っているだろう。古くからの博多っ子ですらよくわかってない人がいるくらいだし、まして転勤族である福岡市民はあんまり考えたこともないだろう。知らなくても日常の生活に支障はないからどうでもいい。しかし,そこには栄光の歴...


福岡城 別名を舞鶴城。ここは大手門跡。
かつてのプロ野球パリーグの野武士軍団西鉄ライオンズの平和台球場へはここから入っていた。

天守閣はなかったが、多くの櫓が連なる壮麗な舞鶴城も、明治維新以降大きく破却されてしまった。
ここはわずかに往時の威容を伺わせる多聞櫓。

下の橋御門と伝潮見櫓 
いずれも戦後復元されたものだが,実は正確な資料が残っていないため,位置や様式に論争を残す結果となっている。

博多湾 シーサイド百道 福岡の新しいウオーターフロントの景観だ。
左の緑は西公園。万葉集にも歌われた荒津山。かつて海に突き出していた半島もいまや陸に閉じ込められてしまった。

福岡城上空写真 大濠公園が見える。ここは古代には草香江の津であった。築城時にこれを外堀とした。
右下の円形の構造物は平和台球場跡。筑紫鴻臚館遺跡が見つかり現在発掘作業が続いている。遠景は魏志倭人伝にでてくる伊都国。したがってこちら側は奴国。いにしえの倭国の風景でもある。

2014年7月27日日曜日

Leica T Black登場!そして2ヶ月経ったLeicaTの使用感。


5月27日のLeica Tのデビューから2ヶ月。噂されていたTのブラックボディーが発売になった。個人的な好みでは、シルバーボディーよりブラックの方が、ライカらしくて引き締まった感がすると思っていたので、デビューを期待感を持って待っていた。

 レンズは黒鏡胴。外付け電子ファインダー(いわゆるVisoflex)も黒。付属ストラップも黒。なのにボディーだけがシルバーというT。白黒パンダも別に悪くはないが、往年のM3はボディーがシルバーでレンズ鏡胴もシルバーだった。カメラ全体の風貌はいかにも工芸品的な精密さを持った金属の固まりで素晴らしかった。そうしたシルバーM3の定番カメライメージがあったので、シルバーボディーでデビューしたTシリーズには、往年のライカ復活との期待感があった。

 その後、M3に黒いマスキングテープを貼付けたアンリ・カルチェ・ブレッソンの影響か、特別仕様のブラックペイントのM3,M2が世に出た。この頃の塗装は質が悪くて、すぐハゲちょろげになる。しかし、そのハゲ具合が何ともいえず良い、というマニアの間で、中古ブラックが高値取引される。これを「黒皮病患者」と呼んで喜んでいた。マニアってヤツは... M4くらいから特別仕様でなく黒ボディーが製品化され、M6からブラックボディーが主流になり始めた。それに伴ってレンズ鏡胴も黒が主体となる。カメラが現場で目立ってはいけない、というフォトジャーナリストの意見が反映され、それがアマチュアにもプロ仕様という事でウケた。こうしてやがては黒ボディーがライカの定番のイメージに置き換わっていった。

 Leica Tのシルバーボディーは、素晴らしい仕上げだ。M3時代の復活か、と思われた。それだけにシルバー鏡胴のTマウントレンズ群を取り揃えれば、レガシーとモダニズムが融合して面白かったのではないかと思う。T発表会でのこの点に関する会場からの質問に対するライカ社の開発担当の反応は、「シルバー鏡胴のTレンズを出す予定は無い」とつれない。ライカノスタルジアを追求するのでなく、それから脱皮する新しいシリーズにしようという意気込みなのだと解釈することにしよう。

 ともあれ、Tのブラックが登場してきた。シルバーも良いが,今やこちらの方が正統派ライカのような気がするから面白い。マット調の仕上げは上々で、アルミ削りだしの質感を損ねていない。ずっしりとした質量、手触りも良い。さすがだ。Vario-ElmarとVisoの黒ともマッチしていて、ステルス性を取り戻した感じだ。これで目立たずTを持ち出すことが出来る(赤いライカロゴマークはもちろん目立っているが)。

 さて、Leica Tを使い始めて2ヶ月経った。その後、使ってゆくなかで気がついた点と、ファーストインプレッション(http://tatsuo-k.blogspot.jp/2014/05/leica-taudiaudi.html)とは少し違った印象も持ち始めたので、少々コメントしてみたい。

 気がついた点:

 気になっていたタッチスクリーンによる操作性は悪くない。機能の設定変更も、頻繁に使う項目は第一画面に呼び出して保存しておくことが出来るほか、階層が二段構成で浅いので使いやすい。露出補正、プログラムシフト、ISO感度設定、MFアシストなどはダイアルに割り付けておくことが出来る。目新しさを追求すると使いにくくなりがちだが、よく出来ていると思う。その他は...

1)意外にバッテリーの消耗が速いようだ。少なくともフル充電から、現場で何枚か撮り始めると、早くも電池マークの右端が欠け始める。その後は保つのだが「心理的に」充電をせかされる感じがする。VisoでGPSをオンにするとそれなりに電池を消耗するのだろう。スペアーバッテリーはマストアイテムだ。

2)WiFiは実用にならない?自宅の無線LANもiPhoneのテザリングも、なかなか波を拾ってくれない。ようやく繋がっても、レスポンスが異様に遅くて、忘れた頃にカシャリ! シャッターチャンスなんてモノではない。そしてまたすぐ接続が切れる。どうしたものか。WiFiはIEEE802.11標準規格(b/g/n対応)というが。こんなもの搭載してみました、か? まあ、あまり使わないから良いけど。

3)やはり全体にレスポンスが遅い。電源オンからの起動にも2〜3秒かかる。一番レスポンスの遅さを感じるのは、再生画像のスクロール。せっかくタッチスクリーンにしたのだからサクサク感が欲しい。

4)オートホワイトバランスで、アダプターリング+Mレンズを使用すると、Tマウントレンズで撮影した時と色味が変わる。特に室内で撮影するときにはオートではなく、蛍光灯か、白熱電球モードに設定した方が良い。

5)Visoで、MFフォーカスアシストを6倍拡大に設定すると、ピントが合わせづらい。クローズアップされたところがギザギザでピントの山が掴めない。

 まあ、ライカという大御所にとって、どれも致命的な問題ではないかもしれないが、今後のファームウエアー更新で改善されることを期待する。なにしろ、プロ用の機材ではなく、アマチュア用の機材なのだから、むしろ他社のAPS-Cミラーレス製品と比べられることになる。消費者の眼とコスパ感覚は厳しい。逆説的な言い方だが、アマチュアはプロほど寛容ではない。すぐに「買わない」という評決がでるのが怖い。

 最後に一言。「なんか普通のカメラになってしまったのかなあ」。ボディーデザインは素晴らしい。手にした質感も素晴らしい。その素敵な出で立ちから出力される写真は、ライカらしい個性が表現されているのか? レジェンドとなった伝統の画作りは生きているのか? 下記の作例のように、素晴らしい描写力で、間違いなくキレイな写真が撮れるのだが、なんかライカを持ち出して撮る時のワクワク感、特別感が、すこしフツウになってしまった気もする。 やはりAPS-Cサイズで暗いズームレンズの組み合わせだとこうなるのか。せめてLeica X Varioの70mm望遠マクロ(近接撮影距離30cm)が欲しい。Tの85mm近接撮影距離45cmだとボケがきれいに出ない。全体的に、木村伊兵衛のいうライカ独特の味である「デッコマ、ヒッコマ」が微妙に無くなった? 他ならぬライカなのだから、という期待感が大きすぎるのかもしれないな。フツウじゃ嫌だ、という...

 ユーザって、わがままで贅沢をいうものだ。そして飽きっぽい... 横目でNikon D810のデビューをにらみつつ。

建仁寺中庭

建仁寺丸窓

鴨川河畔
黒鏡胴のVario-Elmarにマッチする

当然バッテリー底板も黒

追記(2016年1月記):2015年末にTのファームウェアーがバージョンアップされた。これにより、上記の諸々の問題点が改善された。特に電源オンからの起動が速くなった。AF合焦スピードも上がった。タッチスクリーンの操作感も改善された。さらにTのシルバーボディー向けに新しいシルバー鏡胴の単焦点レンズがラインアップされた(あれだけ出す予定はない、と言い切っていたのに)。Leica SL(Tマウント採用)発売のタイミングに、これまでの評判、課題を一気に片付けた感じだ(なんで最初からやらないのか?)LeicaTの売れ行きは、売り出し時の騒ぎほどは芳しくなくて少々がっかりだったが、ユーザからの不満の声に応えて(TマウントシリーズのSLとの比較で見劣りしすぎないよう)手を入れたのだろう。もう少し発売前の市場調査、ユーザ指向把握をキチンとやってからスペックを決め、市場投入すべきだはないか。この頃のライカは矢継ぎ早に新製品を出してくる。会社が元気が出てきたことは嬉しいが、ライカファンとしては手戻りのない製品作りを目指して欲しいものだ。


2014年7月22日火曜日

失敗から学ぶ 災い転じて福となす 〜HDD破壊の教訓〜

 写真のRAWファイルを保存していた外付けHDDハードディスクドライブが壊れた。ここ一年分くらいの写真データが喪失した。ガックリだ! HDDの電源を入れるとなかでカラカラと異音がして、やがて電源が切れてしまう。もちろんPCはHDDを認識しない。こうなるとただの箱。何の役にも立たない物体を見下ろして涙するばかり。論理障害ではなく、物理障害だ。幾つかの業者に診断してもらったが、データ復旧可能、と自信たっぷりに言うところと、完全復旧は難しいと言うところに分かれる。ネットでの情報を総合すると物理障害の場合、どうも復旧は困難のようだ。復旧可能と言っても100%ではなく、ファイルが壊れているとRAWデータがそのまま残っている可能性は低いだろう。以前の経験(SDカードの破壊)でもrecovery fileで上がってきたのは、DNGフォーマットは失われており、幾つかのJPEG ファイルとThumb nailクラスの小さなファイルのみであった。それにデータ量の多いHDDからのデータ復旧の費用は馬鹿にならない金額だ。

 HDDは精密な駆動部を持った機械で、熱、振動やホコリに弱いからいずれ壊れる。使用頻度に寄るが4〜5年が寿命かもしれない。以前、MacのTimeMachineも購入して1年程で壊れて,バックアップデータが全て消えた。保証期間中なので無料で修理いたしました、と「弁当箱」返して来たAppleさん、これじゃバックアップにならんだろう、と悔し涙が出た。クラウドサーバーでも、プロバイダーは、バックアップ、ミラーリング構成を取りながらも、定期的にHDDやSSDを取り変えながら運用している。

 重要なデータは二重三重のバックアップが必要である。今回をそれを改めて痛感した。これまでも少しずつクラウドサーバーやDVDやCDへの保存を始めていたが、本格的にバックアップをしなくては。しかし、DVDとて経年劣化する媒体だし、サーバー事業者だって何時までサービス提供してくれるのか保証の限りではない(つい最近も某大手プロバイダーがブログサービス止めると発表して慌てさせられた)。写真も結局プリントアウトして保存するしか無いのか。銀塩時代はネガフィルムやポジフィルムがあった。これとて経年劣化するが、保存状態を良くすれば結構長持ちする。父が60年前の在米時代に撮ったポジスライドは、いくつかのコマに黴が見られるが、ほぼ完璧に保存されていることを考えると、デジタル/銀塩どっちがいいのか。

 電磁的に記録されたデジタルデータは今後、未来永劫残すことが出来るのか?、時代を超えた記録として未来につなげることが出来るのか?、という根源的な問いを思い起こさせる。結局は紙ベースの記録媒体でないと残らないのでは。やはりロゼッタストーンか粘土板かパピルスか、せいぜい書写された古文書くらいは博物館に残されている。技術は進歩しているのか、退化しているのか分からなくなってしまう。人類の記録をどう記憶させるか、という文明的な問題であることを改めて認識させられた。デジタルカメラが実用化されてわずか20年くらいだが、すでにPC内蔵HDDの毀損によりあのころの写真が消失してしまったり、初期の頃のフォーマットは今のPCでは読めなくなっているファイルもある。

 ともあれ、気を取り直して、消えてしまったRAWファイルのバックアップとして、ランダムに他のHDDに保存していたRAWファイルやJPEG化してPC保存していたファイルを、こつこつと拾い集めて、新たなHDDにアーカイブを造り始めた。また、HDDの寿命対応でDVDへのコピー保存も始めた。結構大変な作業だ。ブログに掲載した写真はかなり自動的に圧縮されていて元データとしては役に立たない。Picasaにアップしているデータも、圧縮版でアップしていたので、これからはオリジナルサイズでアップすることとする。

 新しいHDDは、寿命があるとはいえ、信頼のエンタープライズ級ディスクドライブ、空冷ファン付きの機種に変えた。また、データ容量が多いと、壊れやすいのと、壊れた時の被害が大きいのとで、2Tbクラスを複数台でバックアップする構成とした。RAIDも検討したが、今回は物理的に分けて2台構成とした。


 こうして、膨大な写真データを再整理していて、そのなかで気づいたことだが、これまで、如何に雑多な写真を手当り次第に撮り貯めていたかを痛感させられた。こうして膨大の写真ファイルを、単に量的に処理すべきデータとして扱っていると、なんだか写真を撮るという行為の結果がこのような煩雑なデータボリュームとして残っていることに、少々違和感を覚えてしまう。もちろん膨大な写真の山のなかから、お宝を選び出す眼力(キューレーション)と、編集能力(エディティング)が試されるコトも確かだが、もう少し写真は一枚一枚心を込めて丁寧に撮影しなくてはならないと反省する。「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」式ではだめだ。デジタルカメラは、ついつい何でも取りあえず撮っておこう、になる。自分が撮った写真を、めんどくさいジャンクの山にするか、素晴らしい宝の山にするか。心して写真に向かう必要があることに気がつかされた。

 一方、こうして、改めて編集、拾い集め作業をしてみると、最近Leicaで撮影した写真ファイルで、RAW,すなわちDNGファイルが少なくなっていることに気がついた。これは、続けざまに出てきたライカの新製品、Leica X VarioやLeica TなどのASP-CセンサーカメラでJPEGフォーマットで撮る機会が増えたことに起因する。手軽に美しいLeica写真が撮れる。LeicaのJPEGの取って出しが素晴らしいし、ファイルが軽いのでついつい。で、本家のM9やM Type240によるDNGフォーマットで、じっくり撮ることが少なくなっている。

 扱いやすい機材でキレイな写真をお手軽にどんどん撮っておけるのは便利で、ある面では永年の問題解決になっているのだが、そういう撮影スタイルが普通になってきていることが、先述のような膨大な写真データの山を築いている原因となっている訳である。以前のように高価なフィルム代と現像代を気にせずなくてどんどん撮れるが、それでも画素数も大幅に増え、メモリーやストレージや処理速度の速いPC,、ブロードバンド回線などの周辺環境整備にコストがかかることを忘れてはならない。何よりも写真一枚一枚に込められた思いが軽くなってしまったのでは何もならない。現地ではしっかり腰を据えてDNGで撮り、帰ってからMacにむかい、Light Roomでじっくりと自分の心に映った作品を仕上げる、という基本に返ることが必要だ。深く反省。

 今回のHDDクラッシュは被害甚大であったが、そのお蔭で、あらためてバックアップの重要性の認識、そして写真に対する向き合い方,など、デジタル時代の時空フォトグラファーの心得、これまでの撮影姿勢等々、もろもろ反省するきっかけとなった。「失敗から学ぶ」「災い転じて福となす」。

 ちなみに、フラッグシップLeicaM Type240はファームウエアーをアップグレードし、ver.2.0.0.14となった。これによって格段に使い勝手が向上した。

1)露出補正が、ダイアルのみで可能になった。
2)Lマウントレンズがアダプター経由で使用可能となった。以前からユーザに指摘されていた点の改良。
3)ライブビューで水準器が表示できるようになった。
4)フォーカスアシストで、合焦部分のハイライト色が赤の他に青を選べるようになった(しかし、相変わらず分かり難い)。
5)ISO感度AUTOの改良。
6)その他バグ改善。

さてさて,これを機にせっかくの名器をドンドン使い倒すとしよう!


Leica M Type240+Summilux 50mm f.1.4 ASPH


台風一過の夕焼け
Leica M Type240 DNGで撮ってLightRoomで現像



2014年7月15日火曜日

今頃ホテイアオイが咲き誇っているんだろうな : 「今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた」再掲

 あれから二年経ちました。今年も元薬師寺跡に清涼なホテイアオイが咲き誇っていることでしょう。なかなか東京からは行けませんが、遠く懐かしく思い出しながら...

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた: 残暑厳しいこの季節、大和路花散策の楽しみは元薬師寺のホテイアオイ。毎年この時期に地元の小学生が休耕田にホテイアオイを植える。ホテイアオイは日本の原生種ではないが、この飛鳥時代の大寺、薬師寺の廃墟跡を埋め尽くす様は、不思議に藤原京の栄華を彷彿とさせる光景となっている。  今は...

元薬師寺金堂跡

畝傍山


ホテイアオイの涼やかな色が厳しい暑さに一服の清涼感を

一面のホテイアオイは壮観



2014年7月14日月曜日

飛鳥古京・平城京・平安京、そしてTokyo 〜「みやこ」は国際都市?〜


 「みやこ」すなわち首都はその国家を統治する中心となる都市である。国家統治の権力と権威が存在する都市である。それと同時に、国内外の情報、文化と富が集まる交流の拠点である。グローバルな時代になればなるほど、その都市が如何に世界の交流拠点としての魅力があるかを競うことになる。今はもちろんその都市は必ずしも首都である必要は無いのだが、政治と経済と文化が一人の権力者の下に集中していた、いにしえの時代には、権力者、すなわち皇帝や国王のいる場所に、国中、世界中から富と情報が集まる。また国中,世界中に経済的富と政治的権力に基づく文化を発信する。それこそが大君の「みやこ」の権威なのだ。

 日本の「みやこ」の場合はどうであろう。私はこれまで、日本の古都である飛鳥、奈良、京都と歩き回り、ふと次のような考えが頭をよぎるようになった。確かに飛鳥・奈良はシルクロードの東の終着点で世界文明とつながる国際都市だった。しかし京都はどうであったのか?この千年の都には素晴らしい日本文化のレガシーがあるが、意外に国際都市としての「みやこ」というイメージがわいてこない。なぜなのか? 成り立ちを振り返ると少し何かが見えてくるような気がする。


飛鳥古京:

 飛鳥は、日本という国ができる以前、まだ倭と呼ばれていた国の「みやこ」が置かれた場所であった。すなわち倭京である。正確に言うと,大王(おおきみ)の宮殿があった地域で、かつては大王が死去し代が替わるたびに宮殿を立て替える「遷都」が、この狭い飛鳥、奈良盆地南部中心に行われていた。何時しかその伝統は破られて、板蓋宮跡地に浄御原宮が造営され、飛鳥古京と呼ばれるようになる。

 この時期は未だヤマト王権確立途上であり、天皇制は未成立であった。有力豪族が押す大王が統治の「権威」を主張した時代である。また中華帝国皇帝への朝貢、柵封により倭国の支配権の「権威」を得た大王(漢倭奴国王、親魏倭王、倭の五王の時代より)であった。いや倭は未だ国ではなかった。いわば倭連合王国 (The United Kingdom of Wa)であり、その王は、魏志倭人伝に描かれた3世紀の倭国、邪馬台国の卑弥呼と基本的には変わらない共立された王であった。そもそも国とは国王が統治する体制である。全土の土地と人民は国王の統治・支配の対象である。倭は当時、各地の豪族や氏族が各自の土地と人民を領有・支配(私地私民制)しており、この段階では倭に統一政権は存在しなかった。

 やがて、大陸からの渡来人による外来文化の導入、とりわけ6世紀に仏教という国際文化を取り入れ、倭京飛鳥は仏教を通じて倭が国際社会に進出し交流する「みやこ」となってゆく。大陸との人の往来も盛んになり、飛鳥は異文化の集積地となった。法興寺(飛鳥寺)の建立はそれを可視化させるのに充分なシンボルとなった。遣隋使の派遣による積極外交も行われた。外来文化の受容の是非、その支配を巡る有力豪族間の権力闘争、宮廷クーデター(乙巳の変)も起こった。唐・新羅連合との白村江の戦いの敗北による、倭存続の危機にも遭遇する。そして、滅ぼされた百済の遺臣達も大勢倭にやってくる。やがて古代最大にして最後の内乱と言われる壬申の乱を経て、ようやく大王を中心とした中央集権国家という国内統一のステージにむかう。倭国は中国型の律令制国家を目指す。中国の正史にならい歴史書編纂(記紀)、豪族優位の社会経済システムの改変(私地私民制から公地公民制へ)、中国皇帝の向こうを張る天皇制(大王から天皇へ)確立。そしてついに国号改称(倭から日本へ)。これは単なる国の名称を変えたと言うことではなく、その本質としてようやく「日本」と言う「国」が出現したことを意味する。そしてこの新国家にふさわしい「みやこ」は中華帝国のそれに負けないの都城として造営が企画された。

 こうした背景には、倭国内での権力闘争や、経済体制の変化という事情だけでなく、当時の東アジア情勢の変化、とくに中華王朝の交代、それに伴う朝鮮半島における勢力図の変化、人の大移動が大きく影響している。今は、のどかできわめて日本の原風景のような飛鳥だが、そうした国際的(東アジア的)な激動のただ中に居た「みやこ」であった。いわば内憂外患の歴史の舞台であった。


平城京:

 新たなる国「日本」の都の造営は、新国家の重要政策課題であった。最初飛鳥の地に中国風の都城の創出を試みた新益京(藤原京)造営は、その立地(水はけの悪い湿地)の不備から断念。新たに盆地の北の平城山(ならやま)に造営されたのが平城京である。飛鳥古京の、仏教という国際文化を通じて国際的に進出し、交流する「みやこ」という性格は、平城京に引き継がれた。

 この時期は、いわば新国家の創建期であり、政治的支配者となった天皇にとって、積極的に海外との交流を進め、国内統治の確立、国際社会に置ける立ち位置を確保しようと必死であった時期だ。仏教は世界思想、哲学、文化であり、仏法による鎮護国家思想を国家経営の基本理念と位置づけ、遣唐使の派遣、帰国留学生、渡唐僧の登用、国家プロジェクトとしての東大寺大仏開眼、全国に国分寺創設、唐の高僧鑑真の招聘、戒壇院と授戒制度の確立等々、天皇と仏教による、いわば「近代」国家体制が整備されていった時期だ。正倉院に残された国際交流の証を見てもこの時期がいかに海外との交流が活発であったかが分かる。奈良は国際的な都に発展し、筑紫鴻臚館、太宰府を窓口とした大陸との文物の交流がさらに活発になった。


平安京:

 しかし、新国家「日本」の首都、国際都市平城京の「みやこ」としての歴史はわずか84年で幕を閉じる。再び遷都が企画される。長岡京などいくつかの試みの後、平安京が造営された。実は平安遷都の理由は謎である。旧都の仏教勢力の増大に嫌気がさした、天武天皇系の奈良に決別した、藤原氏勢力との距離をおく、さらには怨霊払いなどの理由が語られているが、ともあれ大和奈良盆地を出て、さらに北の山城国のカドノの地に遷都した。

 中国風の風水により四方を神で守られた都を造営。仏教勢力を極力排除する観点から、奈良からの仏教寺院の移転は禁じられた。平城京遷都時に飛鳥や藤原京から有力寺院が移転してきた事情とは大きく異なる。やがて唐王朝が衰退期に向かうと、遣唐使が廃止(菅原道真の進言)され、一種の南都仏教禁教令、鎖国に近い時代に進んで行く。その結果として国風文化の隆盛、日本史上、対外的な軋轢の少ない平和が続く時代となる。仏教は、鎮護国家思想から変質して、世の末法思想の広まりとあいまって、現世利益を求める貴族や民の宗教(阿弥陀信仰)になって行った。平安京は文字通り平安な国の内向きの都になっていった。

 この頃から日本の社会はドメスティックになっていった。博多津では,相変わらず商人達が唐、新羅との交易に従事していたが、政治権力者が国際交流に再び目覚めるには平清盛の時代を待たねばならない。瀬戸内、太宰府、博多を押さえた唐物、南宋貿易で大きな財を成した平家一族は、「みやこ」を制する権力者一門となる。清盛は京に近い福原に遷都、大和田の泊にて国際貿易を企図する。一方、平氏滅亡後、東国に拠点を置く源氏、北条氏は国際認識に疎く、元の使者の来訪時にも対応を誤り、元寇を招いている。再び大陸との政権レベルでの交易が本格化するのは室町幕府、足利将軍の勘合貿易の時代に入ってからだ。やがて世界地図は塗り替えられ、大航海時代に入ったヨーロッパ諸国が東アジアに出没するようになる。そうした異人の来訪を受け入れたのは、「ほうけもん」の織田信長。堺や博多の豪商がいわば権力者のエージェントとして交易に従事し、莫大な利益を上げた。しかし徳川幕府時代に入ると、権力中枢は東国の江戸に移り、キリスト教禁教と再びの鎖国へ。歴史は繰り返す。しかし,これらは「みやこ」の外での出来事であり、「みやこ」はグローバリズム、反グローバリズムの動きの蚊帳の外に置かれ始める。


地政学的視点:

 奈良盆地は西に水運ルートが開けている。シルクロードは、那の津、瀬戸内海、ナニワ津、河内湖、大和川を通じて終着点、飛鳥、平城京へとつながっていた。もともと北部九州にあった倭の中心部が、次第に、版図を東に広げ、あるいはある時期、大陸からの脅威に備えるために、東遷していった結果選ばれた地が、奈良盆地なのだから。いわば稲作農耕文明の東遷トレンドにあったうごきだ。しかし、奈良盆地は東に山塊が行く手を阻み、倭、日本が、さらに東国へと支配を拡張してゆく過程に入ると不便なロケーションとなる。

 一方、京都盆地は、日本の中心に位置し、東西に走る街道、琵琶湖の水運により、国内統治には適したロケーションである。結果として、遷都後1000年もの間日本の首都であり続けた。しかし、平安京はナニワ津からは淀川、木津川、鴨川を通じて世界につながる位置にはあったが、飛鳥や平城京のように、シルクロードに直結する文明の終着点のイメージは無い。那の津、博多、太宰府、後にナニワすなわち大坂(さらには堺)が「みやこ」の外港の役割を果たし世界との窓口になるが、グローバルの波を「みやこ」には入れなかった。


「みやこ」は日本文化の聖地・象徴へ:

 平安京は国際的文化交流の「みやこ」というよりは、独特の日本文化の揺籃の地になってゆく。さらには日本の統治「権力」の中心と言うよりは天皇という統治の「権威」のおわします「みやこ」となっていった。武家政権が日本を支配する時代に入ってからは、ますます「みやこ」は、政治支配者が自らの政権の正当性のお墨付き(錦の御旗)をいただくところとなる。かつて倭国の時代に,その権威を中華皇帝に求めたように。

 鎌倉時代、室町時代、戦国・安土桃山時代を通じて、日本の海外交流はとぎれとぎれになりながらも細々と続くが、その波は「みやこ」には至らなかった。博多であり堺にとどまっていたのであった。江戸時代鎖国の時代に入ると、「みやこ」は天皇のおわします聖域、禁裏となる。すなわち外国人を入れてはならないForbidden Cityとなって行く。幕府により天皇や公家は、ますます有職故実や古来からの文化・芸能を継承してゆく役割に押し込められてゆく。その政策が京都と言う街の性格を形成することになる。


サマリー:

 このように振り返ってみると、飛鳥は、前述のように「倭」の「みやこ」すなわち倭京であった。その倭王は中華帝国皇帝からの信認関係で成り立つ王であった。こうした「倭国」はすなわち中華帝国との朝貢、柵封、を軸とした外交使節の往来、すなわち「国際交流」が不可欠の国であったから、必然的にその「みやこ」は大陸との使節の往来が盛んになり、異国の文物や人が多く入り、その外来文化や財を一手に支配する事で、統治の「権威」と「権力」を蓄えることが出来た。のちに、対外的な緊張関係(白村江の戦いの敗北など)に遭遇するなどの時期を経て、国家意識、倭人としてのアイデンティティーが徐々に形成されて行く。やがて中華帝国の柵封体制から決別し、中華皇帝を中心とした宇宙から独立したもう一つの小宇宙の天帝、すなわち天皇を生み出す。そしてその東アジア世界に立ち位置を示した国家創世のシンボルたる「みやこ」が藤原京であり、平城京であることを知った。

 しかし、そういう新しい「日本」国家創世のプロセスがもう一段進むと、もう世界から学ぶことは無い、などとして「一種の鎖国」状態に進んでゆく。先述のように平安時代はその結果、国風文化が進み、「日本」文明が醸成されてゆく。江戸期の鎖国は、いわば第二の国風文化の時代を生み出したことになる。こうなると天皇のおわします「みやこ」は、国際交流の拠点ではなく、その性格を「日本」文明の聖地、権威の象徴、さらには禁断の地として外の世界から隔絶する「みやこ」へと変容してゆく。このように国際交流が「みやこ」の外に追いやられてきた歴史を観た。

 明治維新後の、かつての江戸への「遷都」は、新しい「みやこ」東京がそうした京都の1000年の呪縛から逃れ、新しい近代国家の国際交流の「みやこ」になった事を意味しているのである。飛鳥の時代の倭国を取り巻く中華圏グローバリズムとはまた別のグローバリズムが進む今日であるが、「みやこ」としての東京が、フラット化した世界の様々な面での交流拠点として発展することが求められる時代になった。「みやこ」Tokyoはこれからどこへ行く。

 一方、その結果、いにしえの風貌が文化遺産として残された、かつてのForbidden City京都は、国際的な観光都市として「日本文化」「和風」を求める外国人が押し掛ける町となった。歴史の皮肉であろう。そしてその昔、いわば血気盛んな若い国際人であった飛鳥/奈良は、まるで人生のあらゆる波乱を過去に脱ぎ捨ててきた、枯れた老人のような穏やかな佇まいになっている。「国のまほろば」の風景の中、山河、一木一草が語る歴史、老人がその背中で語る生涯がたまらなくいとおしい。


飛鳥板蓋宮跡。外交使節謁見の場で起こった権力者の暗殺。その現場からその一族の居館、甘樫丘が見える。

藤原京(新益京)跡。新生「日本」の「みやこ」を目指して計画されたが挫折。背後は耳成山



夏の藤原京跡は睡蓮の花畑となる。背後は畝傍山


闇に浮かぶ平城宮大極殿。国際都市に偉容を誇った。
京都御所。平安京大極殿はさらに西の現在の千本丸太町辺りにあった。
高い塀に囲まれ他を寄せ付けないまさに「禁裏」。