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2019年10月18日金曜日

デジタルに疲れたらアナログで行こう! 〜高校時代のLPレコードが半世紀ぶりに復活!〜

久しぶりに我が家にアナログレコードプレーヤーがやって来た。
視覚的にもこの土星の輪を彷彿とさせるストリーミングが美しい!


ヘンデル「メサイア」
パッケージングも素敵だ!
私のお宝レコードだ!


世の中なんでもデジタル。スマホもデジタル。カメラもデジタル。オーディオもデジタル。こういうブログもデジタル。SNSもデジタル。仕事もデジタル。思考様式もデジタル。お金までデジタル。これからは全てがデジタル。そうデジタルトランスフォーメーションだあ!だけど少しデジタルに疲れたなあ!と感じる今日この頃である。何か一息つけるものはないものか。

膝を痛めてウォーキングを自粛している間に、少し部屋の片付けを始めた。ところがいけないものが出てきた。高校時代にクラシックにハマっていた頃のレコードが出てきた。懐かしいLPレコードの数々。デジタル時代に突如現れた我が家のアナログ遺産。当時は親のすねかじる高校生。今のCDのようにどんどん買い込むほどの小遣いはなかったので一枚買うのにもよく考えて買ったものばかりだ。それだけに、その一枚一枚に込められた思い出が一気に蘇ってきた。開けてはならない「玉手箱」を開けてしまった。「あっという間に白髪のおじいさん」が、一気に時空を超えて高校生の頃の自分に戻った。中でもSir Adrian Boult指揮、London Symphony Chorus and OrchestraのHendel作曲「Messiah」のLP3枚組セットが出てきた。これは高校生の当時としてはかなりの大枚を払って天神福岡ビルのヤマハで買ったものだ。福岡では年末には福岡市民会館で恒例のヘンデル「メサイア」の市民合同演奏会が開かれていた。荒谷俊二指揮、九州交響楽団と社会人/大学/高校の合唱団総出のスペクタクルな演奏会。ステージも聴衆も一体となってハレルヤを合唱する一大イベントであった。合唱団としてステージ参加した私はその感動が今でも忘れられない。クラシック、中でもバロックや古楽器演奏の曲が好きなのはその時の身震いするほどの歓喜の「トラウマ」が今も引きずっていいるからだ。その思い出にとレコードを買い込み、自宅で友人と集まり、父に買ってもらったばかりのコンポステレオで擦り切れるほど聞き倒したものだ。自分たちが市民会館で歌ったパートをSir Adrian Boultの指揮とLondon Symphonyの演奏に合わせて合唱した。当時ステレオプレーヤーといえば、家具のような立派な装飾のプレーヤー/アンプ/スピーカー一体型が主流だったが、パイオニアが初めてそれぞれ独立したセパレートコンポ型のステレオセットを売り出した。父はカタログを取り寄せて研究し、天神のヤマハに行って視聴し、確か県庁前のベスト電器で買った。アンプは真空管だった。スピーカーは卓上型だったが、セッティングが変えられるので高音から低音まで素晴らしい音域を持ったコンポだったことを覚えている。

こんな思い出が一気に吹き出してこのお宝レコードをどうしても聞きたくなった。レコードはウン10年のお蔵入りのわりにはカビもなく、あんなに聞き倒したにしては傷も見えず、程度は良さそうであった。そういえば父の遺品のレコードコレクションも大量にあるはずだ。しかし肝心のレコードプレーヤーがない。針を落として聞くアナログプレーヤーなど、いつ頃我が家から姿を消してしまったのか。確か古いベルトの切れたプレーヤーを、ロックにハマっていた息子が高校生の頃だったか、「壊れてるならもらっていい?」ということで進呈したとこまでは記憶している。その後のあのプレーヤーの消息はようとしてつかめない。息子は友達とDJの真似事をしようとスクラッチ演奏の練習用に持っていったらしい。きっと完全に壊れて捨てられたに違いない。ということでオーディオといえば、いつの間にかカセットテープへ、ウォークマンへ、そしてCDへと変遷していった。今やネットワークオーディオとかハイレゾとか、完全にデジタルオーディオに移行してしまった。PCやスマホでアップルやアマゾンからのダウンロードで手軽に聴けるようになった分だけ、オーディオもコモディティー化が進み、趣味人として道具にこだわる余地が少なくなってしまったような気がするのは私だけであろうか。そう思っているところへ、先だって他界した義父の形見分けで大量のCDとLP盤のレコードが我が家にやってきた。義父もクラシックが好きで単身赴任先のアパートでよく聞いていたのを覚えている。ピアノのリチャード・クレーダーマンが好きで、よくカセットにダビングして送ってくれた。

ようし、こうなりゃレコードプレーヤーを買うまでだ。とネットや量販店で物色して購入を決断した。こうしてウン10年ぶりにアナログレコードプレーヤーが我が家にやってきた。最近はまたLPレコードブーム再来だとかで、Amazonでも、量販店でも結構な種類のプレーヤーが出ている。PioneerやSansuiのように姿を消したメーカーもあるが、懐かしいYAMAHA、Technics、Luxman、DENON, TEACなど老舗メーカーの復刻プレーヤーも出ている。中古レコードショップも渋谷や秋葉原に出ている。オーディオの世界こそ、カメラの世界以上に凝りだすと底無し沼の無間地獄に落ちるので、「物欲煩悩」と戦いながらながら程々のプレーヤー(TEAC)を買ってきた。ここで背伸びしなかった私は、やはりカメラで修行を積んできただけあって、「とどまるところを知る」境地に達した、と自己満足した。懐かしい!ベルトドライブ、のシンプルなやつだ。最近のデジタルオーディオアンプにはフォノイコライザーがないものが多いので、フォノイコ内蔵のやつを買った。カートリッジもまあまあのやつがついている。最近ぽいのは、USBポートがついていてPCにつなげてデジタル録音ができる。スピーカーはイギリス時代に大枚叩いて買ったB&Wのトールボーイタイプ。リビングで無用の長物としてただ植木鉢を置く台になっていたものが、再び本来の実力を発揮できる仕事を与えられることになった。その音は悪いはずがない。早速、デジタルアンプと繋げてメサイアを再生してみた。針を落とす瞬間のドキドキ感がたちまち蘇った。おお!なんとこのアナログなほんわかした空気が一気に部屋に充満するではないか。そこはかとないノイズすら人間的なリアリティーを感じる。高校時代に誤って針を落として傷つけた箇所での「ポチッ」という音も、時空を越えて鮮やかに再現された。英国人のトールボーイとの相性も良い。しかし思った以上にノイズも少なく、滑らかな音色と高音から低音までクリアーに再現できるアナログサウンド。デジタルの合理性に疲れたらアナログのゆるい世界に浸ってみよう。気づくと時間が50年タイムスリップして、私は福岡市民会館の大ホールのステージに立っていた。高校の友人とThe Glory of the LordやFor unto Us a Child is Born, Behold The Lamb of God,そしてHalleluyah!を合唱している。あの高揚感に浸る。なんとアナログレコードは「時空トラベラー」にとって、今まで気づかなかったが、時間をワープするタイムホールだったのだ。こうしてすっかり昭和40年代の市内電車が走る福岡に時空旅行して、懐かしい旧友たちに会った。

いやあ考えてみると危険だ。モノを減らしていこうと思って片付け始めて発見した懐かしいレコード。その結果、レコードプレーヤーを買う羽目になり結局モノが増えた。物欲煩悩の無間地獄だけでなく、危うく異界にまで引きずり込まれて帰って来れなくなりそうだ。アナログレコードの世界がこっちへ来いと手招きしている。しかし、まあそれも良し。地獄へも行ってみよう。異界にも行ってみよう。なるようになる。しばらく膝が治るまではこの世界に身を委ねてみる気になった。カメラを抱えて「山川を跋渉して寧処にいとまあらず」のはずが、「寧処」でアナログオーディオ三昧の日々を送っている自分も悪くはない。




TEAC のベルトドライブターンテーブル

オーディオテクニカのMMカートリッジ

なんとか隠れ家のデジアナ混在環境が完成した

サー・エドリアン・ボールト指揮
ロンドンシンフォニー/合唱団
ソプラノはジョアン.サザーランドが...

高校時代の懐かしいLPレコードが出て来た
ドイツグラモフォン盤
カラヤンとリヒテル
ウイーンフィル

福岡市民会館での年末恒例の「メサイア」コンサート楽譜も出て来た。

練習の痕跡が随所に



2019年10月14日月曜日

伊豆高原の別荘 〜バブルはじけて20年。別荘物語の第二章始まる〜




伊豆高原駅前に開業したフレンチレストラン「MIKUNI IZUKOGEN」
地元の別荘族を狙ったという


別荘と聞くと、何やらバブリーな響きを感じて、無縁のもの、敬遠すべきもののように感じるのは、我々戦後生まれ団塊世代の(勤労サラリーマンの)受け止めだろう。軽井沢、那須、日光、箱根、伊豆と首都圏に近い別荘地はいずれも、かつては皇族や政財界の大物の別邸が設けられたところであった。憧れの別荘ライフは、そもそも庶民にはとても手の届かぬ「憧れの世界」でしかない時代が長く続いた。庶民の日常的な「ある姿」と非日常の「あるべき姿」の乖離は絶望的とは言わないまでもとてつもなく大きかった。しかし、戦後の高度経済成長の中で、一億総中流となり、別荘も単なる夢や憧れでない時代がやってきた。勤労サラリーマンの中にも小さな別荘を買う層が現れたものだ。東京都心のマンションや土地付き住宅が異様に高騰して、こっちの方が「憧れの都心マンションライフ」となり、勤労者は狭小住宅しか手に入らず、そんな息が詰まりそうなな庶民が、せめてもの週末の息抜きに都心に比べると入手しやすい「リゾートマンション」「別荘」に憧れ購入。しかし、やかてバブル崩壊。中流崩壊。格差社会がやってきた。再び別荘なんて夢のまた夢。無理して買った人は代々そのツケを払わされることになった。

こうした別荘地やリゾートは、もともとは幕末、明治にやってきた西欧の外国人が開いたもので、都会での生活とは別の、オン/オフを切り替えて過ごす彼ら流のライフスタイルに基づいて開発されたものであった。私がかつて暮らしたイギリスやアメリカでは、今でも勤労サラリーマン世代でも、郊外に小さなコテッジやシェアーハウスを持ち、週末や長期バカンスの静養の場として生活に欠かせないものとなっている。猛烈に働いてお金を貯めて、資産運用で増やして、なるべく早期にリタイアーして、ケントやサセックス、いやスペインのコスタデルソル、ギリシアあるいはフロリダやハワイに生活の場を移して老後はゴルフ三昧。もちろん貴族のマナーハウスや、トランプの豪邸のような別荘もあるが、程度の差はあれ、働き盛りの息抜きと、老後の生活の場の確保としての「別荘生活」は今も普通の人々が「手の届く夢」のライフスタイルである。もっともこうしてリタイアーして「別荘」生活にはいった直後にハートアタックで死ぬ人も多いが。それはさておき、そういうライフスタイルを日本人もマネ、取りいれるようになっていった。日本ではこれに温泉湯治という貴重な付加価値がついてきたので、日本独特の別荘地が生まれた。

しかし、バブル崩壊20年。格差社会の到来とともに、別荘地には大きな変化が訪れている。ここ伊豆別荘地を廻るとそれがわかる。大きくて立派で、手入れのよく行き届いた豪邸が立ち並ぶ一方で、草むし、荒れ果てた廃屋が点々と。中にはすでにほぼ自然に返りつつある一画も。バブルの遺産の成れの果てだ。小さくても瀟洒な別荘も多く、意外に別荘を手に入れるのは難しくはない。土地家屋は東京の異常な不動産相場に比較すればお手頃物件に見える。しかし、それを長年、子孫代々にわたって維持し続けるのは難しい。現役時代には息抜きの場として、老後は都会の喧騒を忘れて静かな余生を送るために求めた別荘は、その世代交代とともに、子や孫の世代に引き継がれることは少ないようだ。親世代の時代はそうした別荘を購入し維持する経済力があったが、その子世代にはその力がない事態が増えている。日本はかつては分厚かった中間層が痩せ細りつつある。したがって相続しても維持できない。購買層の縮小傾向が常態化すると買い手もつかず売却もできない。したがって放置される。そんな(元)別荘が、先ほどの廃屋、自然に還る土地である。別荘地の不動産屋の売り物件は豊富で、しかも驚くほど安いが、かと言って買い手市場で活況を呈しているわけでもない。

しかし、最近は、別荘物語は第二章へ進みつつあるようだ。すなわちこうした廃屋付きの土地を安く購入して、別荘としてではなく住居として住み始める人が現れている。流行りの田舎暮らしの古民家ブームに似ている。都心の狭小住宅やタワーマンションを多額のローンに縛られて買うよりは、はるかに安く手に入るし、自然環境はもちろん良い。であるから都会から移住する人が増えているという。もとより地元に働き口があるわけではないし、畑三昧の田舎暮らし、などという安易な農業回帰もできないので、若い世代はここから都会へ通勤するのだ。軽井沢や那須は新幹線通勤ができる。伊豆は直通特急「踊り子」で2時間超で都心へ出れる。リタイアー世代は東京の家を売却して永住の地として移り住む。伊豆高原の場合、学校もスーパーも整備されていて普通の生活には不自由がない。車さえ運転できれば移動に不自由はない。歳をとってからの問題は病院だが、最近大きな総合病院が駅前に開業した。しかも老人ケアー施設付き。生活インフラは意外に整備されている。私の周りの知り合いもここ伊豆に移り住んでいる人が多いことに気づく。現役時代に別荘として買っていたところに移り住むケースが多いようだ。

さて、こうした新「別荘生活」はオススメなのだろうか。なんとも言えない。人それぞれのライフスタイル、居住地観による。私のように地方から出てきて東京や大阪や海外でほぼ人生の大半をサラリーマンとして過ごした人間がリタイアー後にどこに住むか。結構重要な決断を求められる選択だ。確かに東京は便利だ。長年の生活の場にもなっている。ビジネスやキャリアディベロップメントの場としては忙しくもエキサイティングであるが、リタイアーしてみると、「憧れの都心マンションライフ」に固執する意味はあるのか疑問が湧いてくる。そもそも人が多すぎて人間関係もギスギスいていてなんか息苦しい。かと言って、今更故郷に帰れるか。若い頃あんなに「こんなとこにいつまでもいるか!」「人間関係が息苦しくて!」と言って飛び出した故郷に、今になって急に里心ついて帰ることなんてできない(勝手なこと言うなという声が聞こえる...)。それに半世紀も経つと故郷には親も兄弟もいない、子供の頃の友達もそれぞれの人生を歩み何十年も経つとすっかり疎遠になってしまった。帰っても全くの「浦島太郎」だ。「故郷は遠きにありて思うもの。そして悲しく歌うもの。...帰るところにあるまじや」である。いっそ、娘夫婦と可愛い孫がいるニューヨークに移り住むか。緑豊かなロンドン郊外もいいなあ。などとありえない妄想が膨らんでいく。じゃあ、近場で伊豆に移り住むか? しかしなんの所縁や根拠があって伊豆なんだ?それもなあ。とグルグル回り。理屈っぽい人間はその意思決定の合理性に拘るので困る。結局ため息つきながら、思考停止して東京のマンションの一室で呻吟している。イギリスやアメリカ時代の友人のように、土地にしがらみを持たない「終の住処」思考様式が、なんか新鮮に見えてしまう。彼らは母国にすら拘らないのだから世界中に散らばっている。「人生至るところ青山在り」は日本人の思考様式、美学ではなかったのか? 鴨長明や吉田兼好はどこへ行ってしまったのだ、などと考えながら伊豆別荘地の散策を終える。


大室山から展望する伊豆高原別荘地

一碧湖周辺


豪邸は桜並木沿いに



季節の花に埋もれる別荘ライフ

建物もそれぞれに意匠を凝らす


噴水通り

閑静な別荘地内にあるベーカリーカフェ
少々分かりにくいロケーションにあるが
地元の客で賑わっている





なるほど絶品ランチ!

テラス席がお勧め




伊豆高原駅
シンボルはこの楠の巨木

駅前に出来たフレンチレストラン



開業したフレンチレストラン「MIKUNI IZUKOGEN」
建物は当代人気の隈研吾設計

横浜から伊豆に向かう豪華観光列車「The Royal Express」
これも人気の水戸岡鋭治デザイン

スーパービュー踊り子
伊豆大川駅での離合

トンネルを抜けるとそこは駅だった
伊豆熱川駅







2019年10月7日月曜日

クラシックカメラ遍歴(4)ライカの一眼レフカメラ達 〜「日本に追いつけ追い越せ」苦闘の作品集〜

 ライカがミラーレスカメラで新たなジャンルを築きつつある。ライカ社はLマウントレンズアライアンスを形成。これにパナソニック、シグマが参加している。ライカは一眼レフ型のミラーレスLeica SLの後継機種として、間も無くSL2を発表すると噂されており、その写真がネット上ではリークされている。こうして一眼レフでニコンやキャノン、ペンタックス、ミノルタ、トプコンの後塵を拝したライカは半世紀ぶりにミラーレスで巻き返しを図ろうとしている。カメラの世界も技術イノベーションの急速な変化で目まぐるしく事業モデルが変わり、優勝劣敗が入れ替わる。デジタルトランスフォーメーション、いや輪廻転生とどまるところを知らず。

 さて、ライカのクラカメファンにとってSLとかSL2とか言うと、往年のライカ一眼レフLeicaflex SL, Leicaflex SL2を思い出す。このころはすでに、ニコンやトプコン、キャノンが次々とTTL測光、AE標準装備のプロ仕様の一眼レフカメラを出していて、日本の一眼レフが世界のカメラ市場を席巻していた時代だ。ライカにとって日本勢の背中は遠い存在であった。これに追いつけ追い越せ、と伝統のレンジファインダーカメラMシリーズとは別の一眼レフ、Leicaflexシリーズを開発し世に出した。レンズ群はRマウントシリーズが新たに開発された。これが1964年(先の東京オリンピック開催の年だ)のことである。ライツ社はこのころから経営的にも苦しくなり、1974年には創業家であるLeitzファミリーから所有権がスイスの会社に移り、本社も創業の地WetzlarからSolmsに移転していった。そんな苦闘の中の新製品であった。

 一限レフカメラLeicaflexシリーズを俯瞰して言えることは、ライツ社(当時はまだLeitz社のLeicaカメラ)らしい、高品位な作りの工芸品であると言って良いだろう。レンジファインダーカメラの最高峰Mシリーズのそれに劣らない作りが特色である。シルバークロームの梨地メッキ表面は、とてもきめ細かくスムースで日本のカメラメーカーはここまで高品位なメッキのボディーは採算が取れず、コストパフォーマンスで成功してきた日本型ビジネスモデルには不向きであった。ブラックペイントボディーもMカメラと同様、使いこむと光沢を増し、さらにペイントが擦り切れると真鍮の下地がのぞく、使い込むほど手に馴染むプロのお道具にふさわしい風貌に変化するカメラであった。もちろんRマウントのレンズには優秀なものが多い。同じズミクロン、ズミルクスでもMシリーズより近接撮影に有利、最短撮影距離が0.3~0.5mと、Mのように0.7~1.0mなどという「老眼でない」ので使いやすい。今でも語り継がれて、中古市場でしか手に入らないApo-Macro Elmarit-R 100/2.8など伝説のレンズもある。残念ながら、ボディー側の性能面での劣勢は否めず、日本製との競争では大きく水をあけられたままであった。またAFが当たり前の時代になってもボディー、レンズ共にAF対応になっていない。こうしてR8型を最後に一眼レフから撤退する。こうしてRマウントレンズ資産を宝の持ち腐れにしてきたユーザーが多かった。ライカ社はRレンズユーザをずっと意識してきた。ついにデジタル化を果たしてからMマウント用Rアダプターを用意。さらにSLになってLマウント用Rアダプターを用意して、「流浪の民」となっていたRレンズユーザの帰るべき故国を用意したというわけだ。こうしてRマウントのライカ一眼レフカメラはライツ社、ライカ社の栄枯盛衰を見てきた歴史の証人である。


 私のクラカメリストの中から、2000〜2004年ころの中古カメラハンティング、購入奮戦記と評価の記録をここに引用してみたい。紹介したカメラの写真は、Rレンズへのレスペクトを込めてミラーレスカメラLeica SL+Rマウントアダプター+Macro-Elmarit-R 60/2.8で撮影した。


 1)Leicaflex (1964年〜)

ライカフレックス最初期型(Mark I)。フィルムカウンター窓が扇型のもの。ライツ社初の自社設計一眼レフカメラ。レンズは1カムのズミクロン50mmが付いている。やはり鍍金など作りがいい。また巻き上げレバーもスムースでさすがライカ。本品は概観も綺麗だ。露出計はTTLでなく外部測光式。残念ながら動きが不安定。ついに電池接点の金具が折れてしまった。ファインダープリズムにうっすらと腐食が出ており、それで安い(通常は10万円前後)。セルフタイマーが戻らなくなってしまった(ということは、シャッターが下りないということ)。ファインダーは真ん中の円形の焦点板を除くと、素通しなので、とても明るい。しかし、焦点板以外の部分でピントを合わせることができないので、一眼レフの特色が生かせない。ライカ初の一眼レフは、やはりMシリーズのRF式の思想が生かされており、2000分の一秒が最高速として搭載されたとはいえ、日本製一眼レフには一歩譲ることとなる。何しろ、この時期には既にトプコンがTTL測光方式を世に出し、1959年に登場したニコンFもTTLファインダーが用意され、日本製カメラはTTLが技術的にも認知された測光方式として定着していた時期だ。ライツ社はこれを知っていてあえて、外部測光のほうが技術的に安定した方式である、として採用しなかった。 いかに後発の一眼レフが先行者と差異化するかの苦労の一端とも見れるが、なにやら負け惜しみくさくもアル。この頃ののライツ社は、このライカフレックスをプロ用の機器としては位置づけておらず、ハイエンドアマチュア向けの、高級一眼レフと位置づけていたようだ。レンズも、35,50,135mmという、品揃えで、やはり、プロはMシリーズを、というわけか。既に一眼レフの領域では、日本の各社が完成されたモデルを出しており、ライツ社はこれを追っかける立場になっていたわけだ。レンジファインダー機でMシリーズを出し、日本各社が追いかけるのをあきらめて、一眼レフへ方向転換した史実を鑑みると、開発競争とは厳しいものだと知らされる。 電気系統が弱っているがマニュアルメカニカル機なので問題ない。結局、商品としての人気はイマイチだってようだ。すぐにSLが発表になる。

 翌年、ライカフレックス初期型のマイナー改良版(Mark II)を出す。変更点は、1)フィルムカウンター窓が、円形クローム枠に、2)露出計スイッチが付いた(巻き上げればーを予備角に起こすと、スイッチオン)3)三脚ねじ部分が底蓋一体型に、4)ストラップ管の形状がやや変更。5)セルフタイマーレバー先端が面取りされて滑らかに。 ずんぐりボディー、ワンカムレンズ、外部測光、素通しファインダーは同じ。 しかし、ライツ社が満を持して世に問う一眼レフ機への期待感の高まりにに反し、発表されたライカ初の一眼レフはあまりにも旧式のスペックで評判悪く、2年後には結局、東京光学が発明し、日本製一眼レフでは標準装備されているTTL測光方式を取り入れたフレックスSLが発表になる。 とは言うものの、やはり作りはライカ。機能面でよりは、その作りのよさ、仕上げの丁寧さ、質感が今の一眼レフカメラとは全く違う。ファインダーはあくまでも明るく、クリアーで見やすい。やはり、ハイアマチュア向けに丁寧に作られた高級一眼レフ、という位置づけにこだわったものだ。お金と手がかかっており、日本の各社が出す製品群が次々と生産管理技術の合理化により、安くて、シンプルな作りになっていく(よって、安くても高性能でみんなが使える)のを尻目に、意図的にか図らずもか、ライカはニッチマーケット商品の道を歩き始める。 本品は、きわめて程度のいい極上品。ケースもほとんど新品だ。残念ながら、無限大ピントがずれている。いずれ調整に出すつもりだ。


Leicaflex Mark II

このクロームメッキのシルキーな感触がたまらない

Leitz Wetzlar
誇らしく輝く!

TTL測光ではなく外部測光
露出計がペンタ部にビルトインされている
水銀電池を格納する丸い蓋と受光部の非対称が印象的



ボディーのカーブ
意外にホールドは良い




 2)Leicaflex SL (1968年〜)

 とうとうTTL方式の軍門に下ったライカ初のTTL一眼レフカメラ。開放F値をレンズ側のカムで伝えるため2カムタイプのレンズが必要。ミノルタとの提携前の一眼レフの設計開発に試行錯誤していた時代の製品だ。当時既に日本ではニコンやキャノンが高い評価を得た一眼レフ製品を世に出しており、結局、結果的にはこのSLは正直言って機能的にはそれほど見るべき点の無い平凡な一眼レフと言わざるを得ない。一般にライカの一眼レフは外装など丁寧な作りで価格が法外に高い割には性能面での評価は低くい。ドイツ流のコスト度返しのものづくりの考え型と、日本流のコストダウン方式による、性能面での完成型一眼レフというコストパフォーマンス優先の考え方との闘いであった。かつての老舗が後発に追い抜かれ、もはや商業的な成功を収めるのは無理であった。その後、ライツ社は方向転換を図り、ミノルタとの共同開発を進めるが、中身ミノルタ、外装ライカ、として、昔からの保守的なライカファンにやたらにバカにされており、R3やR4は人気が無い。しかし、個人的には優れた技術の日本のミノルタ/セイコーと丁寧な作りのドイツのライカの組み合わせはドリームチームとしか言いようが無いと思う。 中にはニコンよりSLの方がカメラの出来が良い、と言う人もいるが、残念ながらそれはライカ一神教信者の妄想である。ライツブランドの盲信でしかない。 しかし外装の作りなど手抜きの無い仕上げはやはりライカだ。ボディー形状が後ろが丸くなったずんぐりしたシェイプだが、ホールディングはいい。

 SLのブラックペイントは後期の一時期に作られた限定モノ。非常に美しい塗りで、M2,M4の剥離してくる塗りとはまた一味異なる。本品は特に程度がよく、後塗りを疑ったほどだが、SLくらいで後塗りする酔狂な人間もいないだろう。ファインダーもクリアーで、巻き上げはSL2などに比べスムース。このごろは一眼レフに凝っている。特に、ライカの一眼レフは商業的には失敗作だろうが、この無骨でメカニカルであるが、工芸品的な作りは日本製のTTL測光やAEなどの先進技術を駆使した量販品とは一線を画す道具に仕上がっている。ずっしり重いのもいい。写真は感性を刺激するものであるがゆえに、道具にもこだわりたい。弘法筆を選ばず、のたとえもあるが、良い道具による芸術性を追求する美学は本来日本人の感性ではなかったのではなかろうか? TTL露出計は、一段以上オーバー気味だったので、ペンタ部前方の張り皮をはがし、調整した。


Leicaflex SL Black Paint


軍艦部の佇まい
大きなシャッタダイアル

ASA/ISO感度ダイアル
TTL測光の証だ

このころはまだ
LEITZ WETZLAR GERMANY

ペンタ下部の貼り革を剥がすと露出計調整ができる。
光沢のあるブラックペイント



 3)Leicaflex SL2 (1974〜76年)

 ブラッククロームのSL2。ライツ社自社開発の一眼レフとしては、これが最後のモデルとなった。1972年にはミノルタと業務提携を行い、73年にはミノルタ/ライツ合作のLeica/Minolta CLが発表された。このSL2も設計はライツ、ミノルタによる製造が行われたと言われている。この後、ミノルタインサイドの日独混合一眼レフR3、R4へと転換する。このSL2は1974年の製品で、私が社会人一年目で関西配属の同期の仲間と、盛んに京都で写真を撮りまくっていた時代の製品だ。この時代われわれが使っていた一眼レフは、すでに電子シャッター、AE化されていて、ニコンEL,ミノルタXEであったことを考えると、ライツの新製品が相変わらずのメカニカルシャッター、TTLになったとはいえ、レスポンスの遅いCdSメーター付のマニュアル露出式である。日独のカメラ開発技術のの差を見て取れる。翌年にはまさにミノルタの機構をそっくりライカの皮で包んだAEモデル、R3がライツから発表になったことが、日本の勝利宣言にもつながる出来事だった気がする。 さてこのSL2,SLとの違いは、あまり大してないように見受ける。1)ファインダー内にシャッター速度と絞りが見えるようになった。露出計は追伸式(針がクリップのような形状に変わった)で、低輝度側に2段感度が上がった。2)ファインダー内の照明ができる(これの効能がイマイチ分からない)3)ボディー形状が少し長方形に近くなった。4)裏蓋の開閉がフィルム巻き戻しを持ち上げる方式になった。5)レンズ着脱ボタンが金属円形になった。6)電池は、露出計用とは別に、ファインダー内照明用にもう一個銀電池を使用する(このための電池室がボディー正面右に見える)。7)アクセサリーシューに電気接点が設けられた。8)巻き戻しノブに白い線が入り、動きを視認しやすいようにした。9)ファインダーアイピース部が変更になり、Rシリーズにも引き継がれていくこととなる。てなところか。数えると結構あるか。巻上げレバーの感触はフレックス時代から比べると、徐々にスムースさが薄れてきており、Mシリーズと同様、オリジナルモデルほどゴリゴリ感がない。 ところで、この個体、レモン社に委託で出ていた。外見は傷凹みもなく、きわめて美品。埃がこびりついて錆っぽくなっていて清掃されていなかったような形跡がある。多分大事に仕舞い込まれていたのかもしれない。底の鍍金が少し痛んでいて、小さなぶつぶつが吹き出物のように出ている。ライツ社としたことが、こんな品質の鍍金で合格させたのか?経営不振の時代の産物なのだからか。ファインダーをのぞくと、端にカビがある。メーターが動いてない。ファインダー照明もつかない。電池を換えてもらって試すと、メーターは時々動く。照明はやはりだめ。電気系統が経年劣化で不安定のようだ。 メカは大丈夫のようだがやはりメーターはだめか、と購入を迷ったが、外見はすばらしくきれいなので、買うことに決めた。今までにも電池室の接点を磨いたりすると、ちゃんとメーターが動き出すケースもあったので一か八かやってみよう!ケースがついてきた。なんと、ほとんど新品のこげ茶の素晴らしいハードケースではないか。店員もびっくり!これだけでもメーターが動かない分を補って余りあると自分を納得させるに十分である。ケースの後ろに、東京シュミット商会の輸入証明のこれまた立派なバッチがしっかりと取り付けられている。やはりライカは並みの国産カメラとは違うんだぞ、ということを主張している。  当時はドイツ製カメラは先ほど述べたように技術と、商業的な成功では日本に追い抜かれたが、ステータスが違うよ、ステータスが、と貫禄で勝負していたのだろう。確かにすごい貫禄で有無を言わせぬ存在感がある。 家に帰って、早速電池を新品に換えて試したら、ヤッター!ちゃんとメーターもファインダー内照明も生きてるじゃないか!レモン社もいい加減な電池使うなよ。もっとも、感度が一段分低下しているようだが。ファインダー内のカビを除けば、なんと完動品ではないか。結果的に美品で掘り出し物だった。ひさびさのヒットか?これだから中古アサリは面白い。もっとも、もし壊れたら修理はドイツ送りで10万円のOHしか手はないそうだが。        

 もう一台はシルバークロームのSL2。SL2の時代はブラッククローム全盛の時代に入っており、生産台数はシルバーのほうが少ない。希少とまではいかないが、程度の良いものは手に入りにくいほうだ。さて、このクローム鍍金の出来が素晴らしい。惚れ惚れする仕上がりだ。そのシルキーな手触りは撮影するというよりは、撫で回して愛玩していたい。ライカはほんとにモノつくりに職人芸を駆使してプロの「お道具」に仕立てることにこだわりを持っている。ライカ独自の設計による一眼レフ機はこれが最後となり、R8の登場まではMinolta Insideのカメラとなることは周知のとおりだが、それにしても外装はライカ独特のこだわりを持って製造されていることに感銘を受ける。 ネットでシルバーを探していたら、上野の千曲商会に出ていた。ここはライカよりもコンタックスを売りにしている店だが、いかんせんライカのほうがやはり売れ筋だという。とはいえ、最近はクラカメブームも一段落、SL2なぞ探している酔狂なやつも少なくなっているご時世なので、これも既に値札が大安売り状態。売れ残って不良在庫になっても困るだろうと店主に嫌味を言いながら、さらに値切り倒してゲットした。

Leicaflex SL2 Silver Chrome

シルキーなクロームメッキの質は極上!
惚れ惚れする...

お道具としての佇まいにクラッと来る

真正面から見てもバランスのとれたスタイル

ペンタ部下部に露出計バッテリーチェックボタン
不思議な位置どりだ

軍艦部
ペンタ部のボタンはファインダー内露出計を「一部」照明するもの
このために別に電池を一個使用する
この仕掛けの意味がいまだに理解できない

ロゴにも品格がある

ペンタ部正面にも貼り皮が

Leicaflex SL Black Chrome



X接点が設けられた

このブラッククロームも高品位!


 ここまでがライツ社独自開発による一眼レフである。この後、先述のように1972年には日本のミノルタと提携し、73年にMマウントのレンジファインダーカメラ、CLを両社ブランドで出した(日本ではMinolta CL、ドイツ/米国/ヨーロッパではLeitz CL)。一眼レフでは1976年、外装はライカ、中身はミノルタというR3(Minolta XE)を、1980年にはR4(Minolta XD)一眼レフシリーズを出していく。ミノルタとの提携で一眼レフを学んだ後、この後再びライカ独自設計のシリーズR5、R6.2、R7を出し、ついに1996年には全くデザインを一新した怪物カメラR8でライカ独自の一眼レフRマウントシリーズの最高峰を達成する。しかし、この時点でもAFもなく、時代はすでにデジタルカメラ時代に突入。これも商業的には成功したとは言い切れず、一眼レフ市場から撤退する。こうしてデジタルミラーレスで次の巻き返しを計るべく、さらに数十年を要することになる。ちなみにライツ社は1990年にはライカ社に名称を変更した。



Leica R3
中身はミノルタXE
(撮影機材:Leica SL+ R adapter+Macro-Elmarit-R60/2.8)