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2020年3月29日日曜日

外出自粛の東京にて 〜満開の桜 お花見自粛 春の雪〜

満開の桜、春の雪、花見の自粛、
マスクと傘の通行人が足早に通り過ぎるだけ。
いつもと異なる大井水神公園のプロムナード

東京は暖冬のせいで三月下旬には桜が満開を迎えた。しかし、今年は花見どころではない事態になっている。年明けに中国武漢で発生した新型コロナウィルス感染が世界的に拡大し、東京もここ数日で感染者が急増。都知事はついにこの週末の外出自粛を要請した。二月下旬からは学校も休校。大規模イベントの自粛にともない大相撲大阪場所が無観客試合となるなど前代未聞の事態となっている。この週末は都心もがら空きの状態だ。中国武漢に発し、中国全土、韓国、イラン、イタリアを始めとするスペイン、フランス、ドイツ、イギリスなどの欧州諸国、さらにはアメリカへ飛び火してこの三ヶ月で世界中に急速に感染拡大している。いわゆるパンデミックだ。日本も例外ではないが、これに比べると、日本は今のところ感染者数、死亡者数ともに抑えられ、感染爆発(オーバーシュート:overshoot)は起きていない。日本はクルーズ船感染から、感染クラスターを一つ一つ潰してゆく手法でコントロールし、爆発的感染を抑えてきたが、感染拡大が第二フェーズ(中国以外の海外からの感染流入)に移行してきたため、ここ数日で東京や大阪などの大都市部で感染経路が追えない(クラスターが特定できない)感染が急増しており、いつ感染爆発に移行してもおかしくない事態になっている。とにかく中国武漢やイタリア、スペインなどのような医療崩壊に至ると急激に死者が増加することになる。アメリカがニューヨークを中心にこのフェーズに入っている。日本ではこれを絶対に避けるためには「3密:密接、密着、密閉」を避けるべく外出を「自粛」するように要請されているわけだ。米国ニューヨークのようにたった三週間で感染者が爆発的に増加し、死者が急増している状況が、次に東京で起きないという奇跡のような保証はない。日本の感染症専門家は優秀で、日本モデルを実行し、第一フェーズは成功しているが、第二フェーズでのクラスターコントロールが出来ない感染爆発の可能性を警告している。油断はできない。ここ数日のうちに「外出禁止」による都市封鎖(ロックダウン:lockdown)に移らざるを得ないだろう。

2020年の7月に開催するはずであった東京オリンピック/パラリンピックは来年に延期された。今やオリパラどころではなく延期は仕方がないが、果たしてこのパンデミックが来年までに収束しているのであろうか。中国やイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカなどで、ニューヨークなどの大都市が軒並み都市封鎖(ロックダウン)した中、日本は東京も大阪も、まるで何事もないかのように満員電車で通勤し、若者で賑わう渋谷の飲み屋の密閉空間には連日連夜酔客が押しかけている。学校は休校となり、相撲や野球などの大規模イベントは無観客試合や中止、延期したものの、まだまだ危機意識が低い。ともかくこの週末は「外出自粛」要請で銀座も新宿も渋谷も人出は激減(といってもニューヨークのブロードウェイやパリのシャンゼリゼに比べるとまだ人が多い)。折からの花見シーズンではあるが、今年は人が集まる花見自粛。上野公園も、千鳥ヶ淵も、飛鳥山も、お花見の名所から人は締め出され、桜散策は諦めざるをえない。例年なら出かけたいい京都、奈良大和路の桜も今年は諦めよう。残念だが致し方ない。パンデミックという歴史に記憶される年になったのだから。しかも四月を目前に思わぬ春の雪に見舞われた東京。「外出せず自宅に居ろ!」という神のメッセージだろう。

だが「自宅謹慎」中とはいえ時空フォトグラファー魂がうずく。満開の桜。思いがけない春の雪。そして人気(ひとけ)のない桜の名所。またとない歴史的光景を切り取るチャンスではないか!ということで、雪が降りしきる中、カメラ担いでご近所ブラパチハンティングに出かけた(遠路はるばる桜の名所を巡らないことで「自粛」の意思を示したつもりだが...)。これはこれでまた違う趣の桜見物ができた。雪に凍える満開の桜もまた悪くはない。その満開の桜の下、花見提灯もなくブルーシートで場所取りする花見客もいない公園。歩く人もまばら。たまに通りかかる人もマスクと傘で身を覆いながら、これだけの見事な桜と空からハラハラと落ちてくる白い雪を見るでもなく足早に通り過ぎる。これもまた異様な光景である。こうした非日常的「景色」を後世の「時空トラベラー」のために残しておくのも悪くない。春の雪は儚い。やがて早くもみぞれに変わり、とうとう雨になった。午後には雨も上がり明るくなってきた。かといって花見に繰り出す人で賑わうこともない。今年の春はこうして終わってゆく。さて自宅の「巣篭もり」に戻ろう。株は暴落し、グローバルなサプライチェーンは分断されて製造業は生産停止を余儀なくされ、総じて経済は停滞し、失業者が増え、経済パンデミックがこれに続くのだが、しばらくは大人しくするしかなさそうだ。しかも長期戦だ。感染しないように、感染させないように。そして心のバランスを壊さないように。



この週末は外出自粛要請で町は閑散としてる





オリンピックを目前に設置されたのだが...
例年なら花見宴会のグループで混雑する公園もひっそり
お花見提灯も自粛

JRは通常通り動いてる


去年の光景
去年の桜祭り



春の雪
屋根にはうっすらと積雪








2020年3月17日火曜日

クラシックカメラ遍歴(7)スイスの時計部品メーカが作ったテッシナ 〜スパイも愛した超絶技巧カメラ?〜

Tessina

前回はスイスの時計屋さんが作った精密コンパクトカメラ、コンパス(Compus)をご紹介したが、今回は、これと双璧をなすもう一つの精密コンパクトカメラ、テッシナ(Tessina)を取り上げてみたい。イタリアとの国境に近いルガノにあるスイスの時計関連メーカーで、ロレックスなどへ部品供給していたコンカバ社(Concava S.A.)が1957年に売り出した。本機は初期型のTessina Automaic 35mm。このあと改良版のTessina 35, Tessina 35Lが続き、計3タイプが1996年まで製造された。結構な長寿製品と言うことになる。サイズはタバコの箱くらいで極めてコンパクト、かつ精巧で仕上げも美しい超絶技巧カメラだ。フィルムは35mmを専用パトローネに詰め替えて使用する。このパトローネはデュカティ(Ducati)と同じサイズ(内部の軸が異なる)なのでハーフサイズ。フィルム巻き上げはゼンマイ式で、一回の巻き上げで7〜8枚程撮影出来る。レンズは固定式のテシノン(Tessinon) 25mm f.2.8。なんと二眼レフ方式で、ピント合わせは距離計ダイアルを回すと同時に測距レンズが繰り出される本格的なものだ。おそらく世界最小の二眼レフカメラであろう。レンズ前にはスライド式のレンズカバーがあり、屹立式のビューファインダー(ツアイスイコンタの様なアルバダ式)が装備されている。またこのファインダー台座の下にピントグラスが在りピント合わせが出来る。しかしこのピント合わせは極めて見難く、アクセサリーでピントルーペやプリズムファインダーが供給されている。撮影レンズからフィルム面までの光路がユニークでミラーで45°曲げてフィルム面に到達させる。従ってフィルムには画像が反転して投影されるのでプリント時に裏焼きしてさらに反転させる必要が在る。5×5cmサイズのコンパクトなボディーに、シャッター速度設定ダイアル(なんと500,250,125,60,30,15,8,4,2,Bの10速)、絞り設定ダイアル、距離ダイアル、フィルムカウンター、シンクロ設定ダイアル(シンクロ速度1/125を誇る)、フィルム巻き上げ用ゼンマイチャージャー、フィルムリワインドノブ/レバー、交換式ファインダー、アクセサリーシューが精密に実装されている。なんとアクセサリーシューにはセレン式露出計の他に、時計(ジャガー.ルクルトール社製)を装着するオプションもあり、テッシナ本体を腕に装着するためのリストバンドまで用意されている。今で言うウェアラブル端末だが、かなり目立つのでこれをつけて自慢げに歩く人の気が知れない。精密さという点ではコンパスに負けないが使いやすさと言う点ではテッシナの方が有利。

テッシナには超絶技巧カメラというだけでなくスパイカメラという受け止め方もされてきた。スパイ仕様の静音シャターバージョンもある。つまり巻き上げギアーをナイロン製にしたり、ゼンマイ式フィルム送出機構を排して、できるだけ音がしない工夫をした物があるそうだ。実物を見たことはないが諜報機関でも使われたという。実際にあのウオーターゲート事件の時にも登場して名を馳せたことがある。スパイカメラといえばラトビア・リガのミノックス(Minox)が有名である。こちらは8×11mmのミノックス版フィルムを使うマイクロカメラである。しかしスパイにとって潜入先で入手困難な特殊サイズのフィルムより、どこでも手に入る35mmフィルムの方が便利なのと、特殊フィルムを購入することにより足取りを追跡されるリスクを避けたい(すこし話を盛ってる感もあるが)ということから、このテッシナのほうがスパイには人気だった(?)という。しかし、専用カートリッジに詰め替えないといけないので、かえって面倒な気もするが...

この個体はニューヨーク勤務を終えて帰った翌年に、有楽町のDカメラで購入した。アメリカでも人気がありそれなりに出回ったカメラなので、ニューヨークのダウンタウンのAカメラにもそこそこの数出ていたが、程度の良いものが少なかった(別にスパイが酷使して使い捨てた物が多いというわけではなかろうが...)。少なくとも整備された状態ではなかった。どれもジャンクに近い状態でゼンマイが切れたものもあり、他のカメラと一緒に箱にぶん投げられていた。ガラガラと引っ掻き回して安くて程度のマシなやつを探して持ってけという感じだ。そこにはvatue for moneyという経済合理性は働いているが、道具に思い入れを持って愛おしむ心に欠けているようで買う気が出てこなかった。日本人はモノにモノ以上の感情を移入する性質がある。特に丁寧に作られ、歴史を刻んできた「お道具」には、何かしら作り手や、歴代所有者の心とストーリが住み着いていると考える。この超絶技巧カメラ、テッシナがジャンクボックスに放り投げられているのを見るのはいたたまれなかった。東京のDカメラでこのテッシナに出会ったときは、ショーケースの中から「おおい!ここに居るよ」と手招きしていた。目と目があった。一期一会、出会いである。脳内で「有楽町で逢いましょう」のメロディーが流れた。というわけで連れて帰ることになった。


正面
レンズカバーを閉めた状態。
ファインダーも折りたたんでいる状態なのでとてもコンパクト。

正面
ファインダーを立て、レンズカバーを開けた状態。
レンズが互い違いに二個ついていて二眼レフであることがわかる
向かって左がシャッターボタン

後面
アルバダファインダーを覗いて撮影する。
向かって左は絞りダイアル。右は距離計ダイアル。ピント合わせができる。

向かって左から、巻き戻しダイアル、シンクロ接点(シンクロダイアル)、シャッター速度ダイアル、リワインドレバー、そして右がフィルム巻き上げ(ゼンマイチャージダイアル)


フィルム装填は裏蓋を外し、専用カートリッジ(手前)を装着する

ちょっと見難いがレンズ上部にレフレックス鏡が仕込まれている。

同じくスイスの時計メーカーのコンパスとの比較写真

本機のボディーはメタリックだが、黒やカラフルな貼り皮のものもある
左レンズが撮影レンズ、右が測距レンズ


黒皮のケース、フィルムローダーといった付属品の他に、腕時計式のリストバンドやプリズムファインダ、セレン式露出計、はたまた時計まで豊富なオプションが用意されている。
腕に装着!
ちょっとなあ〜




2020年3月14日土曜日

クラシックカメラ遍歴(6)スイスの時計屋さんが作った超絶技巧カメラ「コンパス」 〜過ぎたるは及ばざるがごとし〜

アルミブロックの削り出し筐体
背面からのぞいてピントを合わせてからフィルムフォルダーを上のスリットから挿入する。
ビューカメラと同様の撮影ができる

非常にコンパクトだが、ホールドしにくい
右にあるのは水準器


コンパスというカメラをご存知だろうか。1936年、英国人の実業家がスイスの時計メーカに製造を委託した精密超小型カメラである。 しかし、これが半端なモノではない。戦前にこんなスゴイカメラを企画設計し、商品化した人間がいたということにまず驚かされる。どういう購買層を狙ったのだろう。技術者魂もスゴイが、商品企画者もスゴイ。小さなアルミダイキャスト削り出しに磨きを入れたボディーに、考えられる機能をありったけ詰め込んだその根性に気迫を感じる。まず、連動距離計付きレンジファインダ(二重像合致式)、アングルファインダ、視度調節付き透視ファインダーとファインダーだけでも小さなボディーにこれだけの懲りよう。さらに濃淡のスケールで測定する光学式露出計、ガラス圧板(シートフィルムホールダ付き)、二重沈胴レンズ、内蔵フィルター、内蔵フード、内蔵正円絞り、被写界深度表付レンズキャップ等々てんこ盛り。シャッターは時計屋さんの設計らしくぜんまい式ロータリーシャッター(500-4,4.5, B,T スナップモードと21速を誇る)。あとまだ解読されてない指標が刻まれている。どうやら低速シャッターで中間速度を使うことに関連しているようだ。レンズは固定式のCCL3Bアナスチグマット35mm f.3.5という広角レンズ。フィルムサイズは35mmフルサイズ。内蔵のモノクロフィルターが二種類仕込まれており、正面のダイアルで選択する。この他に、水準器、三脚穴、そしてどう使うのかわからないがステレオ撮影用のネジ穴まで付いている。ポーチ型のケース付き。別売りでロールフィルム用バックもあるそうだが、通常は35mmフィルムを切ってフィルムホルダーにれてバックのスリットに差し込んで一枚ずつ使うのだから面倒。何よりも、どうやってカメラをホールドせいと言うのだろう。小型すぎるのと表面いっぱいにダイアルやレバー類が装着されていて持つところがない。そんなことにはお構いなく、ありったけの機能をこの小さな筐体に盛り込むとどんなカメラができるのか、という挑戦が作らせたカメラなのだ。使い手のことなんか考えてみたことはないだろう。したがって極めて使い勝手の悪いカメラで「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉が頭をよぎる。私自身、いまだに完全に機能を使い果たしたことはないし、これで日常的に写真撮ってみようという気にもならない。完全珍品コレクションとして鎮座ましましている。

そもそもどうしてこんなカメラが生まれたのだろう。その背景にあるエピソードを紹介しよう。このコンパスは英国人のノエル・ペンバートン・ビリング(Noel Pemberton Billing)が1936年に設計したカメラである。と言っても彼はカメラの専門家ではなく、まったくのアマチュアであった。Wikipediaや、クラシックカメラのコレクターの高島鎮雄氏の著作によれば、かれは英国の戦闘機、スピットファイアーの製造元である航空機メーカー、スーパーマリン社を創設した航空家、実業家で、貴族院議員にまでなった英国紳士だ。彼は英国紳士にありがちな賭け事好きで、ある時、仲間とドイツのライカを超えるカメラを設計できるか賭けをして、彼自身でやらざるを得なくなったと言う。当時、ライカは35mmシネフィルムを使う画期的なコンパクトカメラとして一斉を風靡していた、これを超えれるかというわけだ。こうして生まれたのがコンパス。あまりにも小型で精密なので英国では製造できるところがなく、スイスの時計会社、ル・クルトール社(現在のジャガー・ルクルトール社)に製造依頼したというわけだ。1937年から英国のコンパスカメラ社から発売され1944年に販売終了したようだ。当時、ライカIII + Elmar 50mm f.3.5が31ポンドで売りに出ているところ、コンパスはほぼ同じ30ポンドとうプライスタグで売り出したという。ライカを超えることを目指した彼は、ライカの使い勝手と言うよりは、ライカにない機能を、ライカより小型のボディーにありったけ詰め込むということを目指し、その通りにした。その結果、賭けには勝ったのだろうが、前に述べたように極めて使い勝手の悪いカメラになってしまった。まさに「過ぎたるは及ばざるが如し」である。コンパス社がその後商業的に成功したのかどうか多くは語られてはいないが、おそらくはそうではないだろう。その会社は現存していない。彼にとってそんなことはどうでも良かったのだろう。賭けに勝ったのだから。ただ、いじくり回し甲斐のあるメカニカルなおもちゃが好きなクラシックカメラマニアには垂涎の珍品、稀少カメラになっていることだけは確かだ。中古カメラ市場では高値で取引されているようだ。私の場合、17年ほど前にヒョンなことから手に入れることとなった。フリマでガラクタと一緒に金属の塊が転がっているのを発見。売り手に聞くと、この逸物がなんだかまったく分かっていなかった。「コンパスと書いてあるから多分何かの測定器械だろう」と言ってた(カメラだと思っていなかった)。「持ってけ泥棒」で手に入れた。私自身、こんな珍品だとは知らなかったのだが、帰ってから調べてお宝だと分かった。ノエル・ペンバートン・ビリングのツキが私に巡ってきたのだろう。ただし、フィルムフォルダーが無いのでキチンとした撮影はできないし、中古カメラ屋で聞いても入手はほぼ無理とのことだから、今は珍しいカメラの形をした高価な「文鎮」になっている。




スイスの時計メーカー、ル・クルートル(Le Coultre Co.)社がイギリスのペンバートン.ビリングの特許により製造、という刻印
イギリスのコンパスカメラ(Compass Camera Ltd.)から発売された

二重沈胴レンズになっていて、外周は距離計/ピント合わせ、中の鏡胴でロータリーシャッターの速度(1/500~4.5, B, Tとスナップモードの21速設定が可能)を設定する。

沈胴させるとコンパクトになる

レンズには固定フードがついている。引き出して使う。
レンズカバーが被写界深度表になっている
これがえも言われぬ「謎のサイン」感いっぱい!

正面の面構え カメラに見える?
レンズ周辺にシャッターボタン、フィルターセット、シャッターセット、天候による簡易フィルタ表、
下部にレンジファインダー

底部にレンジファインダ(距離計連動)とビューファインダ(右)がある本格的なもの
当時のLeica IIIシリーズと張り合ったのだろう

正面から見ると、左端がフレーム窓、二個の丸い窓が測距窓
底部にはカメラを立てるバーと三脚座がついている

これがユニークな露出計(SPEED METER)
右の丸い窓から覗きなからグラディエーションスケールをずらし、うっすらと見えるポイントが露出値。その数値を換算表で見てシャッター速度と絞りを決める。昔の露出計で時々この方式のものがある。

(撮影手順1)フィルムフォルダーを入れる前にルーペをのぞいてフレーミング、ピント合わせする。
あるいは底部のレンジファインダーでもフレーミング、ピント合わせができる。
右下サイドのアングルファインダーで、人に気が付かれないように撮影することもできる。

(撮影手順2)ここにフィルムフォルダーを挟む。
35mmフィルム一コマ毎しか撮影できない

(撮影手順3)裏板を閉めて撮影する。
こう説明すると簡単に見えるが、どっこいそうは行かぬ。

同じスイスのマイクロカメラ、テッシーナ(右)と並べてみた

黒のソフトレザーケースがついてきた。
中身に比べ、あまりにそっけない作りのケースだ。



2020年3月12日木曜日

クラシックカメラ遍歴(5)イタリアの伊達男デュカッティ・ソーニョ 〜有名オートバイメーカーが作った超コンパクトカメラ〜





イタリア製超小型精密カメラ、デュカッティ(Ducati)。クラカメ専科43号イタリアカメラ特集に詳細が記されている。本機はレンジファインダー付きのソーニョ(Sogno)。ハーフサイズの15枚撮りで専用カセットつき。コンパクトで精密な作りのカメラ。なんと言ってもオール金属製なのでマイクロサイズカメラだが手にずっしりとくる。この質感とがなんとも言えず心地よい。距離計窓がビューファインダーの両側にある二眼式レンジファインダーだ。二重像の分離が良く、クリアーで見やすい。一個の光学ガラスファインダーブロックで出来ている。しかも視度補正レバーまでついているから驚きだ。しかし小さなファインダーで針穴から覗くような感じである。シャッターは横走り布製のフォーカルプレーンシャッター。ライカなどの高級機を意識したのだろうが、シャッターガバナーを搭載する余地はなかったと見え、固定スリットでスプリングのテンションだけでシャタースピードをコントロールしている。低速シャッターはない。フォーカルプレーン幕の前に、観音開きの金属製鎧戸があり、シャッターボタンを押すとパタパタと開閉する。シャッター速度は500/200/100/50/20/Bの6速。部品点数を少なくして工作精度をあげるシンプルな構造だ。操作は慣れが必要。というのもフィルム巻き上げも左、シャッターボタンも左という、他カメラとは異なるレイアウトとなっているからだ。レンズは交換式で標準レンズは沈胴式のVitor 35mm f.3.5がついている。この他に豊富な交換レンズをはじめ一大アクセサリー群を擁するデュカッティ-ワールドを形成している。さすがイタリア製だけに素敵な作りの皮製ケースがついたオシャレなマイクロカメラだ。 

イタリアにこんな精密光学機器が、と思ってしまうが、現在ではスーパーオートバイで有名なドゥカッティ社の製品であったというからびっくりだ。デュカッティ(ちなみにカメラはこう表記するが、オートバイではドゥカッティと表記されている)社は戦前にイタリアのボローニャに創業されたメーカーで、通信機器、無線機やラジオ、シェーバーなどの電気機器など幅広く製造する。いわば総合電機メーカーであった。オートバイ、カメラは戦前から作られていたとの説もあるが、確かではない。このカメラ、デュカッティは戦後(1950年?)の製造で1952年まで製造されていたが、したがって台数が少なく珍品カメラである。レンジファインダーのソーニョ(Sogno)と距離計なしファインダーのシンプレックス(Simplex)がある。ちなみに1954年にドイツのエルンスト・ライツ社がレンジファインダーカメラの完成形ともいえるライカM3を出して業界に衝撃が走った。それに先立つ2年前の1952年にはドゥカッティ社はカメラ部門を閉鎖し、1953年には通信機器部門とオートバイ部門を分社化している(双方とも現在も存続しているが資本関係はない)なお、オートバイメーカーとしてのドゥカッティー社は2012年にドイツのアウディーに買収された。今でもバイク好きにはたまらないイタリアブランドだが、カメラの方もナカナカの伊達男振り。イタリアもこんな精密工業製品が作れるんだ!と。

このカメラは20年ほど前にウイ-ンの老舗中古カメラショップから購入した。ネット通販など無い時代なので、メールで注文、国際銀行振り込み、航空便で送られてくるという、なかなかリスキーな買い物で勇気がいった。注文してから、ちっとも送ってこないのでメールで問い合わせると「調整が必要なのでもうすぐ送る」との返事。注文確定から2週間で配送。しかしちゃんと出荷時にチェックしてるんだ。ほっとくとなにも言ってこないが、問い合わせるとすぐ返事がくる。結局「調整したがシャッターが完璧ではない」としてプライスタグから大幅なディスカウントしてくれた。さすが老舗、信用第一。結構ちゃんとしてるんだ。本機はやはりシャッターの調子がよろしくなかった。高速では巻上げスプリングのテンションが強くなり、シャッターダイヤルのクリックがすぐ外れてしまう。指で押さえればちゃんと行くが。低速1/20ではスプリングテンションが弱いのか、シャッター幕が戻りきらない。スプリングのテンションだけでシャッター速度を制御しているのでメカ的には脆弱だ。購入から数ヶ月後に使用中にシャッター幕が切れてしまった(古くて劣化していた)のと、シャッター速度1/500が滑って設定出来なくなってしまったので、有楽町のDカメラで直してもらうことにした。日本に部品などあるのか心配だったが、Dカメラはデュカッティやロボットなどの欧州製珍品クラカメを手掛けているので修理出来るとのことであった。依頼から数日後に新しいシャター膜に換装され、調整されたデュカッティーが戻ってきて感動した。ウイーンの工房より腕がいい!デジカメ全盛の当世、カメラ屋と言うものが世の中から消えてゆく中、Dカメラは今でもクラシックカメラ専門店として盛業中。ただしデュカッティはもう手に入らないそうだ。もし市場に出てきてもいまなら当時の三倍の値をつけていると言う。実用的には撮影にいろいろ難しい「お作法」がいるカメラだが、その希少価値と圧倒的な精密機械的「お道具」としての存在感が魅力的なカメラだ。



手の中にすっぽり入るマイクロカメラだが、オール金属製の質感は抜群で、手にズッシリと来る
ファインダーは二眼式距離計連動レンジファインダー
小さいのに凝った作りで、二重像分離で見易い
シャッタボタンが左前なので少し戸惑う
軍艦部には右から、フィルム巻き戻し、シャッターダイアル+視度補正レバー(!)、フィルム巻き上げ
シャッター速度は500/200/100/50/20/B
ファインダーは右が距離計連動、左がフレーム枠

イタリア製らしく上質な革製のケースがつく
左上に見えるのはVitor専用のレンズフード。これは珍品!

ハーフサイズの15枚撮りフィルムカートリッジを使用する。
詰め替え用のフィルムローダーもある。

裏蓋を外してフィルムを装填する。
ハーフサイズの布幕フォーカルプレーンシャッターだ。

レンズ交換式
沈胴式標準レンズのVitor 35mm f.3.5
フォーカルプレーンシャッター幕の前に金属の観音開きの遮光鎧戸があり、シャッターボタンを押すとパタパタと開閉する。




2020年3月3日火曜日

SNSは自由と民主主義を損なっているのか? 〜コロナウィルスパニックに思う〜

ミケランジェロ「最後の審判」の一場面
地獄へ引きずりこまれる人間の姿が描かれている


昨今の一連の新型コロナウィルス感染関連のドタバタを見ているといろいろ考えさせられる。情報源としてのFacebookやTwitterなどのSNSの功罪についてだ。マスクが店頭からなくなったのはともかく、トイレットペーパーがなくなる。米や食料品がなくなる。熱いお湯を飲めばウィルスが死ぬ。電車内で咳するヤツをめぐって喧嘩になる、テロリストがウィルス流した、中華料理食うと感染する、アメリカではアジア系が暴行されたetc.  ネット上でのフェイクニュースや根拠のないデマが流布して人々が右往左往する様を見ていると、SNSの影響力をまざまざと見せつけられる思いがする。そもそもコロナウィルスの感染力についてもまちまちの情報が流れている。意図的にデマを流すケースもあるが、意図せず、悪意もなく、根拠が薄弱な「うわさ」をリツイートしたり、怪しげな「ニュース」をシェアーするだけで、フェイクがリアルらしく見えてしまうことがある。また一件のショッキングな出来事があちこちで起きている普遍的な事件であるかの如く誇張して不安を煽るケースも出てくる。事情通ぶったり、知ったかぶりの「自己顕示欲」ツイートや投稿も横行し始める。日頃の鬱憤をここぞとばかりネット上にぶちまけるパラノイア的投稿も多いようだ。これらが連鎖し拡散することで世の中を動かしてしまうという恐ろしさ。

ネット上では、国のトップや行政の怠慢や無策に対する批判、専門家と称される人々同士の見解の対立とそれへの不信感、生活者の意識とのギャップから、多くの憤りが表明される。それが罵声に近い怒りのコメントとなってネット上を駆け巡る。批判は極めて正常な行動だし、批判精神は絶対に失ってはならない。それが許される社会こそ自由で民主的な社会である。しかし、本当は「批判」の根底にある「憤り」と「怒り」は違うはずだ。「憤り」はうちに秘めたる理性的なエネルギーになり、問題解決に向けた知恵を生み出す力になることがあるが、「怒り」は感情的な言葉にして表に出した途端に理性的な思考や議論を破壊してしまうことがある。声の大きいもの勝ち、怒鳴ったほうが勝ち、というやつだ。怒りに任せて人をバッシングしたりしたり、罵詈雑言を書き込んで溜飲んを下げたり、声を荒らげて非難したりしても何の解決にもならない。かえって生半可な、根拠の薄い「ニュース」や、噂話に過ぎない事柄が「怒り」を増幅させ、それを拡散させたりすることで更なる「怒り」と「不信」の連鎖を引き起こす。これが「流言飛語」、「誹謗中傷」となり、人々を「疑心暗鬼」に陥れる。健全な批判精神と、建設的な問題解決を却って妨げがちである。

SNSは声高に「怒り」をぶちまけるツールとしてではなく、「憤り」を創造的な問題解決力に変えるのに役立っているのだろうか? 誰でもいつでも自分の意見や主張を表現できる手段を手にしたことは「自由」と「民主主義」に役立つはずであった。一方向のマスメディアに対する双方向メディア、ユーザージェネレイテッドコンテンツは、情報発信の民主化、表現手段の自由化を革命的に進めたと言われている。しかし人はそれによって本当に自由を手に入れたのだろうか。昨今の騒ぎを見ていると懐疑的になってしまう。プライバシー問題も新たな課題として出てきているし。だからSNSは使わない、という人もいる。それはそれで見識のように見えるが、その本人が使うか否かにかかわらず、上記のような事象は社会現象として起こるし、それが正しいか否かに関わらず社会を変えてしまう時代になってしまった。我関せずでは済まなくなっている。

一方で、そうした新しいメディアは権力の側にある者も使うことができる事を忘れてはならない。独裁的な権力構造の国において情報統制と市民監視の道具に使っていることも忘れてはならない。コロナウィルス感染の発生源になっている国のネット上での指導部批判の封じ込め、批判者の追跡/取締りなどの統制/監視を見れば分かるだろう。民主主義と自由の盟主を自認する国の最高権力者が個人のSNSでフェイクニュースを連発して国の尊厳を傷つけ、世界を不安定化することもできるのだ。またネットでのカオスが生じて不安と混乱が起きることは権力者にとっては思う壺となることすらある。権力者の「公定」見解だけが、あたかも正しい見解であり、真実を語っているかのように振る舞う。既存のマスメディアが十分に機能せず、きちんとした情報が不足し、先行きが見通せないでパニックになっている状況では、SNSは「流言飛語」「誹謗中傷」「疑心暗鬼」を撒き散らすだけの道具に成り下がってしまう可能性がある。そうしたときに現れる「信頼できる」情報の危険性にも気づく必要がある。SNS上でいろいろ批判しながらも、結局はお上の「政治的判断」に基づく指図には横並びで従う性質を持つ国民性にも警戒すべきだろう。自己責任という考え方のない社会においては、誰かの(お上の)責任にしておくほうが楽だし、「この非常時に自分勝手な非国民め!」というあの時代の亡霊に取り憑かれるのは嫌なのだ。「愚かな民草」になってはならないのだが。

最近人気のドイツの気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは「SNSは自由と民主主義を損なう」と警鐘を鳴らしている。一見自由に見えて、その「自由」が利用されて不自由になっていないかと問う。カントが言うように人間の「意思」の調整の最適化を可能ならしめるのが「自由」である。しかしSNS上では人間の「自由な意思」は「最適化」されているのだろうか。SNSの世界には民主主義にとって重要な「Rule of Law:法の支配」がないという。共有できるルールと道徳と正義が支配していないとそれは無法地帯になる。そして自由も民主主義も脅かす存在になってしまう。これはあながち誇張された警鐘ではないように感じる。道徳と正義の欠如した「自由放任:レッセフェール」による市場経済活動が富の偏在と格差の拡大をもたらし、資本主義を行き詰まらせているように、道徳と正義の欠如した「自由」は、「不自由」を引き起こして民主主義を危機的な状況に落としめてしまう恐れがある。さらにそこには人々が共有できる「法の支配」もないというわけである。ここでもアダム・スミスの「道徳感情論」の人間への「共感」と「社会的存在である人間」という理解が思い起こされなくてはならない。人と共感する、人のために事を為そうとする性質を持った「社会的」「道徳的な」人間、という理解だ。そういう人間が主体となったものがアダム・スミスが「国富論」で論じる「資本主義」であり、また「自由主義」「民主主義」であったはずなのだ。そうした倫理観に基づく「法の支配」、それがなければ、道具に過ぎないSNSも革新的なデジタル技術も、使い手によって有用な道具のはずが邪悪な道具にもなる。あるいは「自由」を金に変える有能な事業家や経営者達に利用されるだけになってしまうだろう。資本主義が曲がり角に来ているように、自由も民主主義も曲がり角に立たされているのかもしれない。SNS上で発生したトイレットペーパー騒ぎが、思わぬ哲学論争に発展してしまったが、これも人間の道徳と倫理観、他人への共感の欠除から発生していることに気づけば、あながち論理の飛躍とも言えまい。。




2020年2月16日日曜日

「出雲と大和」展@東京国立博物館 〜なぜ出雲は古事記神話の中で重要視されているのか?〜



加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元模型
(数少ない写真撮影可能な展示物)


今、東京国立博物館で「出雲と大和」展をやっている。古代史ファンである「時空トラベラー」としては見逃すわけにはいかない。特に、倭国の実態、あるいはヤマト王権の成立過程、「日本(ひのもと)」建国過程における出雲の役割と位置付けには未知の部分が多い。これまで筑紫/チクシ倭国の実態や古代日本成立における役割については色々と書籍を読み研究し、またゆかりの遺跡、歴史の現場を探訪してきた。すなわち魏志倭人伝にその姿が叙述されている「邪馬台国」「卑弥呼」の時代のことである。しかし、同時代に列島内に存在し、大きな勢力を誇ったであろうと考えられる出雲については、この時代(紀元前1世紀〜紀元3、4世紀)の文献資料として唯一残されている中国の史書(漢書、後漢書東夷伝、三国志魏志東夷伝、晋書、宋書など)に記述が全く見えない。一方で、8世紀初頭に倭国/日本で編纂された史書、すなわち古事記、日本書紀においては、中国王朝と朝貢冊封関係にあったという卑弥呼の邪馬台国と筑紫倭国30カ国の記述はほぼ見当たらないのに対し、出雲に関しては多くの紙幅を費やして様々なエピソードが詳細に記述されている。この差はなんなのか?大和にとっての出雲の位置づけと、筑紫の位置づけには大きな違いが見て取れる。記紀編纂の経緯に何か隠された謎がある様な匂いがする。


1)文献史料に見る「出雲」

たとえば、古事記(712年)の神話の記述のほぼ3分の1が「出雲神話」で占められていおり、「大国主命の国譲り」が大きな出来事として記述されている。また正史として編纂された日本書紀(720年)には「出雲神話」としては記述が少ないが、「神代」の部分で出雲が大己貴命(大国主命の別名)によって地上の国として建国され、天上界の国に「国譲り」した経緯が記述されている。もう一つの文献資料である出雲國風土記(733年)も、他の地域の風土記の多くが散逸し、ほぼ完存する風土記はこの出雲風土記だけである。ヤマト王権の正史に記述されない地元の伝承や神話(国引き神話など)が記述され今に残っている。このほかに出雲国計会帳(正倉院文書)も完存しており、日本の古代史を物語る文献史料の多くが散逸したり、部分的にしか残っていなかったりする中、出雲に関しては多くの古代文献が残されている。それだけ古代史研究において出雲がハイライトを浴びることになってきたわけだ。しかし、それにも関わらず謎の多い「古代出雲」である。それはエピソードの多くが「神話」の世界として描かれているいて、史実との関係が曖昧だからだ。その「神話」、古事記に記述のある「出雲神話」および「天孫降臨神話」の要旨は次のとおりである。

出雲神話 国譲り神話
スサノヲの子孫大国主命が葦原中国(あしはらなかつくに:すなわち地上の国)を治める(「天津国」のスサノヲの子孫であるが「国津神」とされる)。しかし天上界にいるアマテラス「天津神」に国譲りする。その代わりに大国主命は高殿を建てて奉斎されることになる(出雲の杵築大社:出雲大社の由来)。また大和三輪山神、大物主命(出雲系大国主の別神)を大和に祀る(日本書紀では大国主命ではなく大己貴命となっている)。

天孫降臨神話 神武東征伝承
その「葦原中津国」を治めるために、筑紫の日向に「天津国」からアマテラスの孫、ニニギが「三種の神器」とともに降臨し、その子孫、神武が東征して、同じく天孫族の子孫である饒速日命一族を排して大和に入り初代天皇として建国する。

こうした記紀神話の記述から、出雲勢力が治めた国が大和に征服された(ないしは反対に出雲が大和に進出した)。後にその大和は筑紫から来た勢力に征服された。これが記紀神話の底流にある日本建国の物語だとする歴史研究者もいる。「神話」がそのまま「史実」であるとの考え方は、戦後はさすがに否定されたが、こうした「神話」の物語が、なんらかの「史実」の投影ではないかと考える研究者がいる。「国譲り神話」と「天孫降臨神話」、「神武東征」(こちらは神話としてではなく初代天皇の事績として記述されている)はなんらかの史実の反映なのか。遠い時代の歴史的「記憶」の反映なのか。

そもそも、この「神話」の物語はいつの時代の「記憶」をテーマにしたものなのか、それ自体が不明である。すくなくとも紀元1〜3世紀の日本列島はまだ統一国家、統一王権は存在せず、各地にいくつかの勢力が並存していた時代である。その一つが筑紫の邪馬台国連合であり。また出雲であっただろう。あるいは吉備、越(古志)、尾張などに有力な国、地域連合がいわば列島内で割拠していた状況であったと考えられる。筑紫や出雲と大和だけが歴史の主人公であったわけではないし、まして「倭国」全体を対外的に代表していたわけでも無い。ようやく近畿の奈良盆地や河内あたりにヤマト王権らしき、他地域に優越する勢力の姿が垣間見えるのは5世紀の中国の史書に見える「倭の五王」の時代になってからだ。その前の4世紀頃(倭人が朝鮮半島に出兵したという記録がある高句麗の好太王碑文や百済から伝来した七枝刀の時代)に徐々に各地域勢力が合従連衡の動きを示し、やがて近畿のヤマト王権に収斂していったのであろう。近畿の大型古墳がそれを物語る考古学的な証左であろうが、しかしそのプロセスを叙述する歴史的資料は見つかっていない。中国王朝の分裂、混乱の時代(五胡十六国時代)であったため正史が整っていない。すなわち「謎の4世紀」と言われる所以である。したがって4〜5世紀頃の出雲の姿も文献史料上見えてこない。

一方で、我が国初の歴史書、正史である日本書紀、古事記は、ようやく8世紀初頭になって編纂されたものである。天武/持統帝の天皇制宣言、新国家「日本」建国事業の一環として編纂されたものである。すなわち大王(おおきみ)/「天皇」の統治権威の正統性を内外に宣言する政治的な文書として編纂された。各豪族による「私地私民制」から天皇による「公地公民制」へ、律令制による豪族の官僚化。その過程ではヤマト王権に統合してゆく各地方豪族、有力氏族をいかに納得させ、「合理的に」秩序立てて、天皇家の臣下と位置づける。これは換言すれば、いかに各豪族の祖霊神を皇祖神天照大神の下に体系化させるか、という難事業であった。その中の「出雲の扱い」、「筑紫の扱い」である。その記紀のなかで出雲は、ヤマト王権にとって大国主命の神話の出雲大社と大和の大神神社をかかえる王権/天皇の祭祀における重要な存在として記述された。一方の筑紫は、宗像三女神の神話が中心で、ヤマト王権の大陸との通交を可能とする海北道中(大陸への交通路)を守る存在と記述されることでヤマト王権の中枢に位置付けられた。しかし、中国の史書に記述のある朝貢冊封国家たる筑紫の倭国の邪馬台国や奴国、伊都国に関する言及は無い。

しかし、ヤマト王権と各地の勢力との交流は、出雲、筑紫に限らず多面的に展開されていたはずだ。先述の通り、当時の日本列島の様子は、地域ごとに国、豪族、地域連合が併存しており、統一的な王権や国家を形成するには至ってなかった。出雲や筑紫が記紀において重視されて記述されたのは、ヤマト王権が記紀編纂にあたって、皇祖神を頂点とした各豪族の祖霊神、地域氏神を体系化する中で、より王権/天皇家に近い、あるいは無視しえない「有力豪族」の物語(多くはその豪族から提出された)が採録された結果だと考える。すなわち、出雲氏や宗像氏のヤマト王権における発言力や、貢献度、あるは「近しさ」が影響していたと思われる。そういう点で中国皇帝に朝貢し冊封を受けていた筑紫の邪馬台国や奴国、伊都国は、中華皇帝に対抗して「天皇」(東アジアにもう一つの皇帝を宣言)を名乗るヤマト王権/天皇にとって、「近しい」どころか、王権/天皇家のルーツと考えたく無い国々だったのだろう。正史と言っているが史実とは必ずしも無関係な政治的な文書なのだ。

出雲氏は、ヤマト王権に臣従する代わりに、王権の国家祭祀/儀礼を担う。これが「大国主命(皇祖神天照の弟スサノヲの子孫とする)の「国譲り神話」「出雲大社創建」という形で記紀に記述された。一方の、筑紫の宗像氏はヤマト王権に臣従する代わりに、大陸との交流を一手に引き受ける「制海権」の保証と「海北道中」を守る国家祭祀を担う。これが宗像三女神(天照とスサノヲの誓約から生まれたとする)として記紀に記述された。ちなみに筑紫には、ヤマト王権に臣従しない強力な勢力があった。これがチクシ王権の盟主磐井氏である。新羅と組んで徹底的にヤマト王権と戦ったが、ついに滅ぼされた。これは記紀に「神話」の世界の話としてではなく、継体天皇の「事績」としての「筑紫国造磐井の乱」として記述されている。このとき宗像氏は筑紫のチクシ王権、磐井には味方せず、大和のヤマト王権側についたことから本領安堵され、大陸との通交の制海権も獲得できた。


2)考古学資料に見る「出雲」

ここですこし考古学的に出雲を振り返って見てみよう。出雲では近年驚きの弥生遺跡が次々と見つかっている。大量の銅剣、銅鐸が埋納されて見つかった荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡:弥生時代の青銅器祭祀遺跡(紀元前後の時代)があり、一方で、弥生時代から古墳時代への過渡期を示す四隅突出型墳丘墓という特異な墳墓形式を持つ西谷墳墓が見つかっている。加茂岩倉遺跡から発掘された大量の銅鐸は、銅鐸文化=近畿、銅剣文化=北部九州という「定説」を覆す発見であった。また荒神谷遺跡の大量の銅剣と銅矛は、銅剣は祭祀用に出雲で鋳造されたものであるが、銅矛は北部九州産であることがわかっている。これらの考古学上の発見は、出雲が弥生時代後期には大和と筑紫と交流し古墳時代初期において特異な文化を誇る有力な地域勢力であったことを物語っている。おそらく魏志倭人伝に記述のある「邪馬台国」の時代(3世紀〜4世紀)には、すでに日本海沿岸に「出雲国」が栄えていたのだろう。しかし魏志倭人伝には一切記述がないが。

こうした弥生の出雲文化はある時期に一斉に消滅してしまう。青銅器祭祀文化の途絶である。大量の銅鐸、銅剣、銅矛の埋納という行為そのものが、なんらかの理由で祭祀の形態をガラリと変えた事を示していると考えられる。その理由は明らかにはなっていないが、これをもって出雲勢力が大和勢力に屈服して消された(国譲り神話の根拠)考古学的な証左であるとする見解がある。しかし、こうした弥生の遺跡は記紀神話が編纂される700年も前の時代のものである。8世紀初頭に編纂された記紀の「出雲神話」「国譲り神話」の背景にある歴史的な事件として「記憶」されたとは考えにくい。

またヤマト王権がほぼ全国に勢力を及ぼしつつあった古墳時代に入ると、出雲地域にも多くの古墳が造成された。しかしそれらの古墳は規模の点で100mを超えるものは一基もなく、大和の大王クラス、蘇我氏などの有力豪族クラス、筑紫の岩戸山古墳(筑紫磐井の墓)や宮地嶽古墳(宗像氏の胸形徳善の墓)クラスの古墳はない。古墳の規模が政治勢力の規模を示す指標だとするならば、出雲には大和や筑紫に匹敵する有力な豪族がいた証拠はないということになる。また大和型の前方後円墳が圧倒的で、畿内の古墳に準じたものである。当時の出雲以外の各地域に検出する古墳の形態と同じであり、特に出雲が何か突出した特色を持つというものはない。そもそも大和を中心に形成された古墳という墳墓形態、葬送儀礼は、各地域の墳墓、葬送儀礼を吸収、統合しながら形成されたものと考えられている。ヤマト王権による一定の列島支配の姿が見えるようになった古墳時代には、全国にいわば「大和型」の古墳が広がった。出雲もそのワンオブゼムということになる。しかし、一方で古墳形態とは別に、祭祀の形式、葬送儀礼のあり方に出雲独自のものがこの頃にも残っており、これがヤマト王権の祭祀に大きな影響を与えたとする研究がある。また、霊力があるとされた玉類(勾玉や管玉)の生産は6世紀以降になると出雲でほぼ独占的になされていたことから、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀や王統/皇統の権威材(三種の神器)供給にも影響を与えたであろう。8世紀初頭における記紀編纂事業(豪族の体系化)のなかで、こうした祭祀のルーツや権威材の供給地である出雲が他地域と異なった扱いになったのであろうと考える説が唱えられている。


3)大和王権祭祀における「出雲」の役割

一方、律令制下においては出雲国造が宮都における任命儀礼や、天皇に対する「神賀詞」(かむよごと)奏上儀礼を執り行うなど、出雲氏/出雲臣の王権中枢/朝廷における役割が重視され、ヤマト王権/天皇家の国家祭祀に大きな影響力を持っていた。こうした国家的な祭祀を執り行うために出雲国造は定期的に上京していた。律令制下の地方官僚、出雲の国造となった出雲氏/出雲臣と、ヤマト王権/朝廷の律令制の神祇官僚である伴造で出雲国守であった忌部宿禰子首とのつながりが無視できないと言われている。この。いわば中央官僚である忌部氏は記紀編纂において大きな影響力を行使したと言われ、出雲国造の祭祀/儀礼が天皇家の「国家儀礼」との因縁浅からぬものである事を、記紀に記述させる役割を果たしたのだろうと考えられている。

すなわち「出雲神話」「国譲り神話」は、弥生時代に起きた古代日本の(倭国の)成り立ちの歴史(文献資料的には中国歴代王朝の正史に記述された倭国情勢)とは関係なく創作されたストーリーであろう。スサノヲの子孫、大国主命が建国し支配した「葦原中国」すなわち出雲が、天照大神の「天津国」すなわち大和に軍事的に屈服した歴史的記憶が「国譲り」と記述されたわけでもなく、その後に「筑紫の日向の高千穂」に天から降臨してきた天孫族のニニギとその子孫、神武天皇が筑紫から東征して大和攻め込み、橿原で即位し新たな大和を建国したわけでもない。8世紀の記紀編纂時における上記の様な王権内/朝廷内の政治事情や、氏族/豪族との勢力バランスが大きく関わってると思われる。

これまで幾度も述べてきた様に、記紀の記述は、史実を客観的に述べているわけではない。白村江の敗戦、壬申の乱後の内憂外患の7世紀を経て、8世紀初頭の天皇制国家「日本(ひのもと)」建国プロセスの中、ヤマト王権が「天皇」として律令国家を形成する過程で、畿内の氏族や各地に勢力を張っていた有力豪族を統合するプロセスを「神話」という形で記述したものだ。それは、これまでの多くの氏族・豪族の祖霊神が並立するという多神教世界に、大王/天皇の祖先である皇祖神天照大神を頂点とした一神教的な秩序と体系化を目指す営みと連動させたものだ。それぞれの神と皇祖神天照との関係をストーリーとして明確にすることが求められた。そのプロセスの中で、出雲氏は無視し得ない有力な地方豪族であったのだろうが、それは国家祭祀に強い影響を有する祭祀/儀礼の担い手という点であり、決して出雲勢力が大和に軍事的に進出して建国したり、それを筑紫から東征してきた勢力に滅ぼされたり。あるいは出雲勢力が大和勢力に滅ぼされたり、と言った暴力的な武力闘争があったと考える必要はなさそうだ。したがって、それ故に歴代天皇の事績の中に記述されるのではなく、神話や神代の出来事として記述されたのだろう。


まとめ

今回の「出雲と大和」展には、出雲の古代日本建国プロセスに関わる役割、「邪馬台国」に象徴される「倭国」の時代の出雲国の姿など、私にとっての基本的な疑問に答える展示は残念ながら少なかった様に思う。出雲に関しては、以前に出雲大社を参拝した時に、発掘された心御柱や宇豆柱、出雲大社本殿模型を現地で見学させてもらった。また加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した青銅器祭祀の膨大な数の銅剣、銅鐸が埋納されていた事に驚いたことを思い出す。大和の方は大阪赴任中の5年間に毎週の様に通った奈良、大和路で見学して回る機会があったものが多く展示され、それぞれに再会を果たすことができたことはうれしい。感動は石上神宮の「七枝刀」の現物が展示されていた事だ。通常は門外不出。石上神宮でも滅多に公開されない「秘宝」である。したがって私にとって、ここでの拝観が初めてである。島根県と奈良県からそれぞれの歴史的文献や考古学的に貴重なお宝を持ち寄って展示したという点では豪華な展示会であった。しかし、かつて大和路,筑紫路、そして短時間であったが出雲路を散策した時に常に抱いていた疑問。すなわち中国の史書にしか記述が残っていない「倭国」の実態や、そこからどのようにヤマト王権が列島の統一を果たし、やがては「日本」が建国されていったのか。記紀の「出雲神話」や「天孫降臨神話」「神武天皇東征物語」が語るエピソードのなかに、客観的な史実はあるのか。そう期待して見て回ったが、展示の中にそれらを垣間見させる様なヒントはなかなか見えてこなかった。文献史料としての記紀による歴史研究にはやはり限界がある。記紀に出雲に関する記述が多くとも、神話というストーリーの底流に流れているものは「史実」ではなく、編纂当時の王権の「政治的なメッセージ」である。なにがしかの歴史の記憶が潜んでいるとしても、それを証明する文献史料も、それを補う考古学的な発見も限られている。展示会の「日本のはじまりここにあり」とのキャッチコピーにも関わらず、そういう意味では残念な展示会であった。もっともこの展示会のために発行された「図録」のなかで、東京大学の佐藤信名誉教授と島根県立八雲立つ風土記の丘の松本岩雄所長が寄せられた解説になるほどと思うヒントがあったことが収穫であった。やはり展示物を眺めているだけでは見えてこないことがある。いや、まだまだ歴史のミッシングリンクは見つかっていないことを確認したと言うべきか。日本の成り立ちを探る旅はまだ始まったばかりである...か。