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2020年6月12日金曜日

古書を巡る旅(2) 〜ラフカディオ・ハーンを訪ねてロンドン、ニューヨーク、東京そして出雲松江へ〜





ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patric Lafcadio Hearn)。1850年ギリシャの生まれ。父はアイルランド人で英国軍医。母はギリシア人でアラブの血も流れていると言われている。当時のアイルランドはイングランドに支配されていたので英国籍。
ラフカディオはミドルネームで、彼が生まれたギリシャの島の名前に由来する。彼はキリスト教に馴染めず、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの名をとったファーストネームを名乗らなかったと言われている。
その後アメリカへ移民し、シンシナチやニューオーリンズで記者をしていた。ニューオーリンズ万博で出会った日本人の話に強く惹かれ、また女性冒険家で世界一周旅行を果たしたエリザベス・ビスランドに強い影響を受けて、日本行きを決意する。その頃イギリス人のバジル・チェンバレンによって英訳された「古事記」に出会い影響を受けたとも言われている。

日本に来てからの略歴

1890年8月30日来日。文部省の服部一三の斡旋で松江尋常中学の教師として松江に
1891年、旧松江藩士の娘、小泉セツと結婚する。
1891年11月、熊本の第五高等学校の英語教師に招聘され熊本に移る
1894年、神戸の新聞社ジャパンクロニクルに就職
1896年、東京帝国大学で英文学講師、日本に帰化、小泉八雲と名乗る
1903年、退職(後任は夏目漱石)
1904年、早稲田大学英文科講師、死去(享年54歳)雑司ヶ谷墓地に眠る

日本人は「外人」が日本をどう見ているかについて異様なほど関心を持っている国民だと感じる。私自身もかつてはそうであった。テレビ番組でも「Cool Japan!」だとか「Youは何しに日本へ?」だとか「ワタシが日本に住む理由」とか、外国人の日本観察番組が大人気だ。書籍でも「青い目の見た...」とか「台湾の若者に人気の...」というようなタイトルの本が溢れている。そしてほぼ例外なく「日本はこんなに素晴らしい!」「こんなにかっこいい!」と礼賛するものばかり。「キミたち日本人は気がついていないだろうが、ワタシたちガイジンは日本のこんなところに感動しているんダヨ」と。こういうのが日本人は大好きだ。まあ自尊心をくすぐられて悪い気はしないのだが、ほんとにそれが日本の姿、日本人なのか。なんで悪いところは言わないのか?ふと疑問に感じる。少なくともロンドンでもニューヨークでも、あまりイギリス人を、アメリカ人を「君たち日本人は我々をどう見てる?」なんて聞かれたことも話題になったこともないし、そんなTVショーを見たこともない。そもそも誰がどう思おうと関係ないという態度だ。日本人は日本を意識し過ぎなのだろうか。これはおそらく明治以降、日本が欧米列強に追いつけ追い越せ、とやっていた頃から始まって、戦後の復興期から高度成長期にそのピークに達したのでは無いかと思う。江戸時代は、鎖国ということもあってかあまり外からどう見られているかなど、少なくとも庶民は考えもしなかったであろう。古代においては中国王朝から蛮夷の国に見られないように意識していた様はよくわかるが、これも庶民レベルでは全く関係ない話だったろう。明治の文明開化、富国強兵、殖産興業というスローガンの下、日本がどれほど「東洋の非文明国」から欧米に負けない「近代文明国家」になったか、「一等国民」になったか、それを検証したくて、特の欧米人はどう見ているのかすごく気になるのであろう。

私も、明治以降、日本にやってきたお雇い外国人が書いた日本に関する著作が取り上げられ、翻訳され日本人に愛読されるのもそのせいだと考えていた。しかし彼らは別に日本人に読ませようとして書いた訳ではなく、世界に向けて未知の日本を語り、自分がいかに貴重な体験をしたかを記録したのである。その中で日本がいかに素晴らしい、欧米とは異なる神秘的な「もう一つの文明国」であるかを強調した。それを読んで日本人が感動した...「日本はこんなに素晴らしいところなのか」と。そういう視点でラフカディオ・ハーンを見てみると、彼はなぜ「怪談」とか「神話」とか「民間伝承」に拘ったのか。もう少し日本が力を入れている「近代化」を評価して欲しいものだと。確かに近代化していく日本の強みや、西欧諸国との違いや優位性についても観察し触れているが、しかし神秘的で、心穏やかで、控えめな日本人の姿から、富国強兵で、日清戦争に勝ち、傲慢さを身につけ徐々に大事なものを失いつつある日本人の姿を感じ取り始め記述している。しかし彼は基本的に霊魂や妖(あやかし)といった非現実的な世界に日本人の霊的体験と精神性を見ている。「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談話は、日本古来からの伝承であるが、我々はむしろハーンの「怪談」の日本語訳でそれを知ったようなところがある。そういう意味でこれも「外人が見た日本」のもう一面だと感じてきた。しかし、このような「日本人」と「外人」、「ウチ」と「ソト」という日本人に特有の二分法思考による視点が必ずしも物事の本質や人間の普遍性を正しく認識し説明してくれないことに気づくことななる。

私がロンドンやニューヨークで古書店を巡るとき、そうした「外人が見た日本」的なテーマで本を探したものだった。ところが、まずロンドンで感じたのは日本はイギリスから見ると「Far East」極東であり、旧大英帝国版図にあるインドや香港やオセアニア地域に比べると馴染みが薄い、ということであった。大英図書館やLSE図書館でも、「日本」は「アジアその他」ないしは「極東」のカテゴリーで取り扱われ、書籍の数も世界の他地域に比べ相対的には少なかった。であるから古書店を歩いても日本関係の古書に遭遇する確率には限りがあった。ラフカディオ・ハーン、いや小泉八雲についても日本人には有名で馴染みがあるが、イギリス人にはどうなのかと半信半疑であった。しかし、意外にもハーンの著作は比較的遭遇する頻度が高いことがわかってきた。イザベラ・バードやアンナ・ハーツホーンの著作にも出会った。古書店主に聞くと、ハーンは、いわば著名なジャパノロジストで、英国においては日本研究者だけではなく読書家にも人気のある著者である。したがって古書もよく出るとのことであった。見つけるのもそれほど困難では無いとのことである。イギリス人は大英帝国時代以来の「World Grand Tour」の伝統があり、世界旅行が好きな国民だ。これに出かける人がよく買ってゆくという。この辺がミシュランやトマスクックの旅行ガイドブックだけに頼らない、イギリス知識人の知性と教養の片鱗が見え隠れする点だ。こうしてチャーリングクロスやセシルロードの古書店街を徘徊しハーンを探した。結局シティーのど真ん中のロイヤルイクスチェンジに店を構えるAsh Rare Booksでは「怪談」と「心」を見つけて購入した。

数年後、ニューヨーク勤務になった時に、やはりハーンを探して古書店を巡った。ニューヨークはロンドンほど古書店が多くはないが、これも意外なほど簡単に見つかった。住んでたアパートの近くのマディソンアベニューのComplete Travellerは、その名の通り旅行、地理関係の古書、古地図が豊富であった。ハーンの著作は初版本ばかりではなく種類も多い。ロンドンと同じで、店主はハーンはアメリカでも人気だという。大学でも研究されているし、学校の図書館にも並んでいて、それが古書市場に出てくると言っていた。この店でJapan an InterpretationとOut of the Eastを入手した。

このように英米においては日本人の間で知られる日本贔屓の「外人」ラフカディオ・ハーン、いや「日本人」小泉八雲としてではなく、著名な作家として根強い人気がある。それに奇妙な東洋趣味や、神秘的な不思議の国日本といった関心からだけではなく、欧米文化とは異なる日本人の内なる心情や、日本文化の内面に迫る、そういう知的な関心を寄せる人たちのバイブルである。また人間に内面に潜む不可解や神秘への憧れ、といった普遍的な心情を愛する一般の読書人の読み物としても、説話短編集、あるいは評論集なので読みやすく面白いのであろう。こうして私の「外人が見た日本」というベンチマークでの本探し、換言すれば「日本人」「外人」、「ウチ」「ソト」という二分法視点がいかにロンドンやニューヨークの古書店では通用しないかを悟った。

古書の楽しみの一つに、以前の所有者の痕跡を探すことがある。この古書が辿ってきた歴史と、その背後に見え隠れする所有者たちの物語がある。蔵書票やメモ書きやメッセージ、また栞が挟まっていたり、メモ用紙が挟まっていることもある。鉛筆での下線やチェックは、その読者が何に興味を抱いたのかを知る手がかりになる。ロンドンで入手した「怪談」には個人の蔵書票があり、その横に万年筆で「To ... From...」が記載されている。誰にプレゼントしたのだろう、息子、娘なのか、恋人なのか、友人なのか... 想像が膨らむ。「怪談」をエキゾチックな極東の日本の伝承物語として興味を持ったのか、あるいは日本を理解する一助としたのか... またニューヨークで手に入れた「神国」には「愛する可愛い妻へ」と書かれている。日本に強い興味を抱いていたであろう妻にクリスマスのプレゼントとして贈ったらしい。その夫の心を思う。また神田神保町で手に入れた「骨董」には「1930年東京の英国大使館にて」とノートがある。日本が戦争の時代に突入する満州事変が起きた前年だ。この所有者はやがて、この本を残し、交戦国となった日本を退去したのだろう。どんな思いでハーンの描いた精霊の国日本を離れたのであろうか。イギリスでもアメリカでも、かつて日本と戦争した国の人々が、愛を込めて妻や子供や友人に、ハーンの日本に関する本を贈り愛読した。その痕跡がありありと残されている。戦後日本の連合国GHQによる統治を指揮したダグラス・マッカーサーと、その書記官であったボナー・フェラーズはハーンを読んで日本を研究した。とりわけボナー・フェラーズはハーンの愛読者で何冊もの著作を所有し日本滞在中も手放さなかったという。そこから得られた日本と日本人への内省的な理解が、GHQの民生統治の基層にある。かれは滞在中、ハーンの遺族を訪ね交流を深めたという。

日本人が外人からどう見られているか、という一方的な関心事や、戦前の「敵性外国語」書籍だから読まない、といった、そんな偏狭なものの見方ではなく、広く深く人間のうちなる精神を読み取ろうとする試みに、多くの人々が共感し、その感動を共有したのだ。その心は、文字通り、洋の東西を問わず、国家同士の非人道的で非生産的な戦争に左右されることもなく、深い普遍的な人間の物語として読み継がれてきたことを知る。そこには著者とその著作にまつわる物語だけでなく、その書籍を読み継いできた所有者が記したメッセージやノートやチェックなどの痕跡に、その心情、家族や友人との交流の物語を発見することができる。これこそ古書をめぐる旅の面白さだ。



古書店巡りクロニクル

1)Ash Rare Books ロンドン(1993〜96年に訪問)
 もとはCityのRoyal Exchangeにあったが、ネットで調べると現在はSouth Bankに移転し盛業中のようだ。旧店舗は歴史的建築物の中にあり、ここに居るという体験自体が「時空トラベル」で、いつまでも佇んでいたい素晴らしい空間だった。古地図も豊富で、16世期のベルギーの地図製作者ヤン・ヤンソンの日本地図をここで手に入れた。額装までやってくれた。

 Kokoro「心」: 
 1896年ロンドン初版本 神戸時代の著作
 Kwaidan「怪談」:
 1904年ボストン/ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作

2)Complete Traveller Antique Bookstore ニューヨーク(2003〜06年に訪問)
 Madison Avenueにある。現在はオンラインのみとなってしまったが、旧店舗は「古書の大海」に揺蕩う、という言葉がぴったりの智のラビリンス、時空のワンダーランドであった。店主は趣味人、教養人がメガネかけて、パイプ燻らしているという、如何にもこの場にぴったりの人物であった。「用事があれば声かけてくれ」という人と人との距離感。質問すると丁寧に調べて答えてくれる誠実さ。何時間でも過ごすことのできる心地よい空間であった。こうして店舗が街中から消えてゆくのは寂しい。

 JAPAN An Interpretation「神国」:
 1904年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作
 Out of the East「東の国から」:
 1895年ボストン/ニューヨーク初版本 神戸時代の著作 熊本での話が描かれている

3)北沢書店 東京(2019年〜)
 神保町の老舗洋古書店。「巣篭もり」中、オンラインで購入。本業はもちろん欧米古書を扱う伝統的な老舗店であるが、それだけでなく最近は店主の代替わりに伴ってDisplay Booksという、インテリア要素を入れた古書シリーズを提案している。しかもオンラインショップで受け付けている。古書のイメージをガラリと変える新しい感覚の「アンティークショップ」と言って良い、今注目の「古書店」だ。エドモンド ・マローンのシェークスピア全集やチェスウィック版シェークスピア文庫集など、美術品とも言える美しい古書をここで手に入れることができた。

 KOTTO「骨董」:
 1927年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作 
 1930年2月14日British Embassy Tokyoの個人の所有
 Japanese Miscellany「日本雑記」 :
 1901年ボストン初版本 東京帝国大学英文学講師
 1982年Yushodo Booksellersからの復刻版(300部限定)


怪談(KWAIDAN)1904年初版本

雪女の挿画

耳なし芳一


心(KOKORO)

ロンドン、ニューヨーク、東京と
それぞれの都市で出会ったハーンの著作
どれも個性的で美しい装丁だ


出雲松江散策 (2008年に訪問)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はまるで出雲に長く住まったような印象があるが、実は一年ほどしか滞在していない。また滞在中には本を出していない。しかし松江での日本生活の第一歩は彼に大きなインスピレーションを与えた。後に出版した「Glimpses of Unfamilier Japan」に書かれている、松江大橋を渡る人々のカラコロという下駄の音で目が覚める朝のシーンが印象的だ。物売りの声、臼の響きなどの生活音、彼は音に感性を刺激された。文字を用いないサウンドスケープ(音景)の世界を感じていた。これが彼が夢見た日本の現実(リアリティー)であった。夢と現実は、時として大きな乖離があるものだが、彼にとってここ松江で目にし耳にする日常的な現実は、まさに夢見た通りであった。特に妻の小泉セツの語る怪談話や民間伝承がのちの著作の基層になっている。松江では本を出さなかったが、この松江での生活と体験が、あの代表作「怪談」や「心」などの名著を生み出した。松江という街が彼の抱いていた日本のイメージとぴったり一致していたのであろう。大きな感動を与えた。

彼はなぜそのように怪談、幽霊、精霊などの日本固有の民間伝承や神話の世界に惹かれたのか。古事記に出会ったことがきっかけとも言われるが、その前に、少年期の体験、すなわちカトリック学校の教えに馴染めず、次第にアイルランドに古くから伝わるケルトの精霊信仰に興味を持っていったことがあったようだ。そのようなキリスト教伝来以前のケルト源教の心霊説話に親しんだ幼少時代の影響で、日本の、やはり仏教伝来以前の自然崇拝、精霊信仰、祖霊信仰の基礎にした神話、民間伝承に強く惹かれたのであろう。特にバジル・チャンバレンの英訳「古事記」に影響を受けたのも事実だろう。彼とは来日後も親交を深めた。このように日本人の祖霊信仰に共感を覚え、神道のような経典もなく教えも説かない宗教を邪教と考えるキリスト教的な宗教概念に違和感を感じたのも、このケルトの体験があったのかもしれない。こうして小泉セツの語る怪談、伝承、や「雨月物語」「今昔物語」の中の説話を題材とした「再話集」を次々と書いていった。

しかし、彼は松江を去り、熊本、神戸、東京と移り住むに従って、徐々に日本の美しい内面ばかりではなく、文明開化や富国強兵により近代化を果たしてゆく日本に、何か大事なものを失ってゆく姿を見るようになる。時代は1894〜95年の日清戦争の勝利を経て、1904年の日露戦争へと、日本が大陸へ、戦争へと突き進み、念願の「一等国」への道を歩き始めた時期である。彼は徐々に日本に幻滅していったとも言われている。岡倉天心が「茶の本」で「西欧諸国は日本が平和な文芸にふけっていたときには、野蛮国とみなしたものである。しかるに満州の地で大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。それならば日本は喜んで野蛮国に甘んじよう」と書いた。この心情をハーンも共有したに違いない。この辺りの評論は晩年の著作に現れている。こうした心境の変化は時代背景があってのことではあるが、彼が最初に暮らした松江の思い出はひとしおであったことだろう。1896年に日本に帰化したとき(この時は東京にいて東京帝国大学に教職を得た)、かれは日本名を妻の姓「小泉」と、出雲の美称(枕詞)である「八雲立つ出雲」の「八雲」を採り小泉八雲と称した。こうして松江は彼の原点となり小泉八雲とは切ってもきれない関係となった。


「八雲立つ出雲」の夕景
穴道湖大橋
松江大橋
ハーンが橋を渡る人々の下駄の音で目が覚めた松江最初の朝のことを書いている

松江城
松江城天守

天守から松江の街を展望す
武家屋敷街にある「小泉八雲旧居」
その並びに記念館が開設されている

武家屋敷
現在は美術館になっている
塩見縄手









2020年6月7日日曜日

旧尾崎士郎邸に紫陽花を愛でる 〜馬込文士村、ジャーマン通り散策〜



尾崎士郎旧邸
紫陽花が美しい季節になった


コロナ騒ぎでここのところ遠出を自粛している。緊急事態宣言は5月25日に解除されたが、東京都はまだじわじわと二桁の感染者が出続けているので、いつまた二次感染爆発が起きるか心配だ。まだまだ油断はできない。気分的にもまだ遠出を避けたい雰囲気である。

しかしZoom会議と「巣篭もり」ばかりしていると体が鈍るのと、気分的にも晴れない。早くカメラを担いで「山川を跋渉して寧所に暇あらず」と行きたいものだ。遠出がダメなら近場で、というわけで「三密」を避けてご近所散策を心がけている。季節は梅雨入り直前。今回は「人生劇場」の小説家、尾崎士郎の旧邸で咲き誇る紫陽花見物と洒落込んだ。この界隈は「馬込文士村」と言われた地域で、我がソーシャル・ディスタンスならぬウォーキング・ディスタンス内の散策テリトリーだ。しかし考えてみるとこれまで「時空トラベラー」ブログに取り上げたことはない。なぜか?あまりにも近すぎて「時空」を「旅行」している気がしないからか。しかし、こうして外出自粛という形で「巣篭もり」を強いられて、改めて普段の街を歩いてみると、身近なところにいろいろな発見があることに気づく。これが「巣篭もり」生活の成果かも。


1)馬込文士村
「馬込文士村」は大田区大森山王一帯で、戦前に多くの小説家や芸術家が住んだことからそう言われている。この辺りは東京の郊外で、特に関東大震災の後、都心から引っ越してきた人が多く住んだ地域であった。まず大正期に小林古径、川端龍子、伊藤深水などの画家が住み始め、その後広津和郎、川端康成、室生犀星、宇野千代、萩原朔太郎、三好達治、佐多稲子、村岡花子など多くの文士が棲み始めた。特に尾崎士郎は生涯において何度か馬込、山王あたりに暮らし、数多くの文士をこの地に誘い、ダンスや酒宴、麻雀など様々な会合を開いて一種のサロンを形成した。望翠楼がその社交の中心であった。その後八景園などの新しいホテルができ徐々に衰退していったそうで現在はその建物は取り壊されて跡地にマンションが立っている。かつての文士の邸宅跡はほとんどが痕跡もなくなっている。わずかに姿を止めるのはこの尾崎士郎邸と、日本画家の川端龍子の邸宅跡の龍子記念館、書家の熊谷恒子の邸宅跡の熊谷恒子記念館くらいである。その他はただ「かつて在りき」のプレートが示されているだけである。大森駅へ降る八景坂の側壁に「馬込文士村」のレリーフが掲げられている。これだけ著名な文士が数多く住んでいた割には、その「邸宅」がほとんど残っていないのは、駆け出し、文豪を問わず、彼らの収入がそれほど多くなく、生活にも苦労していたためだと考えられる。多くが家賃が安い借家だったらしい。あるいは原稿料は全て他のことに使われて、豪邸を構えるところに回らなかったのかもしれない。それもまた文士らしい「宵越しの金は持たない」人生なのかもしれない。

2)旧尾崎士郎邸
この「文士村」形成に大きく貢献した尾崎士郎はこの山王の邸宅を終の栖とした。邸宅と敷地は現在は大田区が所有し、一部、玄関と書斎部分が復元され「旧尾崎士郎邸宅跡」として一般に公開されている。蔵書の多くは彼の生まれ故郷、愛知県の吉良町に寄贈されているようだが、復元された書斎にその一部が展示されている。さほど大きな敷地ではなく、建物も特筆するような古建築の面影はない。しかし、門を入った正面に紫陽花が咲き誇り、右手には藤棚が、また至る所につつじの生垣が施されていて落ち着いたなかにも明るい佇まいである。庭には、相撲好きであった尾崎が「てっぽう」の練習した大木がそびえている。文士で邸宅が残っているのはこの尾崎士郎邸だけである。尾崎邸の門を出てすぐ左に曲がると徳富蘇峰の邸宅跡、現在は「山王草堂」「蘇峰公園」(これも大田区の所有)があり、これも一般に公開されている。あたりは今でも閑静な住宅街で、少し前までは瀟洒な洋館や立派な和風建築のお屋敷が軒を並べていた。しかし、ご他聞にもれず、最近はこれら「建築遺産」ともいうべき建物が惜しげもなく次々と破壊され、跡地にはマンションや狭小住宅群が立ち並ぶという景観破壊と過密化が急速に進行中である。すっかり城南のお屋敷街の面影が薄れてしまった。

さはさりながら我が家のお気に入り散策コースである。蘇峰公園、尾崎士郎邸、ジャーマン通り、山王邸宅街といくつかポイントを巡ると5000歩ほどの歩数を稼げる。コースには高低差もあるので有酸素運動にもなる。緑と四季折々の花と文化の香りが楽しめるブラパチ散歩コースである。






藤棚

尾崎士郎旧邸
復元された玄関と書斎の一部
「人生劇場」碑
その奥には当時からある井戸が
尾崎士郎邸玄関から山王を望む
この先に徳富蘇峰の旧邸
「蘇峰公園」がある


応接間
JR大森駅に続く「八景坂」
馬込文士村」のレリーフがはめ込まれてる
大森山王のお屋敷
堂々たる洋風建築だ
壊さずに残して欲しい
両隣の邸宅は最近取り壊されてマンションになった
大森山王は坂の多い街
古い木造建築が残るが、ここでも次々と取り壊されていく

3)ジャーマン通り
この大森山王の真ん中を横切るように走る通りがジャーマン通りである。池上通りから環七通りへ斜めカットするように走っている。なぜ「ジャーマン通り」なのか。かつてここにドイツ人学校(Deutsche Schule Tokyo)があり、在日ドイツ人コミュニティーがあったことからこの名がついた。この学校の歴史は古く、明治に横浜で開校したが1925年東京に移り、戦前の1933年に大森山王に校舎が建てられた。その後、1991年にはドイツ人学校は横浜に移転したため、多くの家族が引っ越したようだ。今でも少しだがドイツ人家族が住んでいるし、ドイツ系プロテスタントのルーテル教会がジャーマン通りにあり、かつての「リトルドイツ」の痕跡を残している。大森山王の住宅地や「馬込文士村」のあった地域に近く、無電柱化され、空が広々とした通りには小洒落たパティシエやベーカリー、エスニックな料理を出す店なども在り、ちょっとした街歩きを楽しめる通りになっている。最近、こじんまりしているがおしゃれな古書店もオープンした。

以前、ボンのドイツテレコム(Deutsch Telekom)を訪問した時に、対応してくれた社員が流暢な日本語を話すのでわけを聞いたら、「私は子供の頃大森のジャーマン通りに住んでました」と懐かしそうに話してくれた。彼は「ピンポンダッシュって知ってますか?」と聞く。他人の家の玄関のインターホンをピンポ〜ンと押して、家人が出てくるまでに逃げる、といういたずらだ。学校の帰りに友達とよく遊んだ「ワタシは悪ガキでした」と笑っていた。こうした「ガイジン」のいたずらに近隣住人も悩まされたことだろう。しかし、これを教えてくれたのは日本人の悪ガキだったそうだ。時空を超えたドイツのボンに、ここ大森のジャーマン通りを故郷と懐かしみ、思いをはせている人がいることに心が熱くなったことを思い出す。彼は今頃どうしているのだろう。


ジャーマン通り
無電柱化し街並みがすっきりしている
欧州仕込みのパティシエやパン屋、小洒落たレストランが並ぶ


TOKYO 2020の旗が取り外されることなくはためいている


ルーテル教会


パン屋さん
金子屋敷

蘇峰公園




2020年5月26日火曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第四弾) 〜日本書紀は何を語っているのか?〜


河内と大和の間にそびえる生駒山
カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は生駒山麓の河内の草香江から大和に攻め入ろうとしたが、ニギハヤヒ(饒速日)の支配下にあった土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け敗退する。
ちなみに現在の東大阪のあたり(画面左)は当時は「河内湾」ないしは「河内湖」という汽水湖であった。
(伊丹空港への着陸ルート直下に見える)

金の鵄に導かれてナガスネヒコを破り、カムヤマトイワレヒコは大和に入った




古事記と日本書紀の違いは?

日本に残る最古の文字で表された歴史資料と言われる古事記と日本書紀は、両方ともほぼ同時期、8世紀初期に成立した。古事記、日本書紀ともに681年に天武天皇の命により編纂開始。古事記は途中の中断を経て711年元明天皇に献上された。日本書記は720年に元正天皇に献上された。両方を合わせて記紀と呼ばれることが多いが、その成立の経緯、編纂の意図、また内容には違いがある。また、日本書紀は平安時代以降も朝廷で基礎的な教科書として定期的に読み習わされ、天皇始め宮廷官人の基礎的な素養として身につけておくべき必須科目となった。紫式部の「源氏物語」に関する一条天皇の「作者は日本書紀の知識がある」とのコメントにその一端が垣間見え、紫式部は「日本紀の女御」と呼称された。一方の古事記は、その後あまり日の目を見ることは少なく、ようやく江戸時代になって本居宣長が「古事記伝」で紹介してから急速に注目を浴びることになる。以降。古事記は国学の基礎史料で、儒教や仏教などの外来宗教や思想を排した日本古来の「やまとごころ」の定本あるいは神道の聖典とみなされ、やがては幕末維新の「尊皇攘夷思想」「王政復古」「皇国史観」へとつながっていった。この記紀の日本史における扱いの違いの背景、理由ははっきりしていないが、日本書紀(日本紀)は藤原不比等が編纂の中心にいたとされ(中臣鎌足の功績など藤原氏の朝廷における事績が述べられている)、長らく藤原氏中心の摂関政治における「定本」の位置にあった。それに対し古事記はいわば日本書紀の副読本のような扱いで、やがて忘れられてしまったのかもしれない。このように古事記は江戸時代の国学思想勃興期に宣長によって再発見され、やがて神道、皇国史観のバイブルのような役割を持たされることになった。そうした成立経緯と、その後の位置付け、そうした時代背景を考慮しながら読んでゆく必要がある。

古事記

(目的)
国内向けに天皇支配の正当性を主として氏族、豪族向けに述べた天皇の私史。
(使用言語)
漢字を用いた和語で書かれた。
(内容)
神話部分が大きなウェートを占める。天皇祭祀の由来の解説と氏族の系譜との関わりが詳細に語られている。特に出雲神話に多くの紙幅を費やしている。
中国を意識しない(朝鮮半島は天皇の支配下にあるという認識のみ)内容。
(構成)
天地開闢〜33代推古天皇まで全3巻
(編者)
稗田阿礼の誦習、太安万侶の筆記、

日本書紀:
(目的)
中国王朝を強く意識した対外向けの「日本」の正史。いわば公式文書。
(使用言語)
漢文で書かれた。編年体で記述され中国の歴史書の形を踏襲している。
(内容)
祭祀の起源を語る神話部分は少なく、神代紀においては高天原の世界が語られず、また出雲神話の言及もないなど古事記とは大きく異なる。神武天皇の東征伝承から人代紀が始まる点は古事記と同じ。また「一書に曰く」として別伝承を補足的に紹介している構成がユニークで中国の史書にもその例がない。なぜこのような補足記事を入れたのかわかっていないが、中国、朝鮮の史料を参照し引用したり、氏族、豪族の伝承に配意した可能性がある。
(構成)
天地開闢〜41代持統天皇まで全30巻系図一巻。
(編者)
川島皇子ほか六人の皇親、中臣連ら六人の官人が命ぜられて編纂開始、天武天皇の皇子、舎人親王に引き継がれて完成。しかし、書紀には序文がないため正確には記述に携わった人物や編者が誰なのかはっきりしていない。また巻によって漢文の表記が統一されていないなど、複数の書き手で分担して執筆した可能性が高い。最近の研究では和風漢文(倭人が書いた)で記述された部分(神代など)があり、正しい漢文(漢人などが書いた)で記述されているところ(歴代天皇の事績)とその差異が明確に読み取れることから、主に渡来人が執筆に関わり、その後に倭人が神代部分を中心に加筆、修正したと考えられている。
日本書紀編纂には藤原不比等(大宝律令制定に関わった)の関与が大きいと考えられている。したがって、有力氏族や廷臣に関する記述の中でも中臣鎌足の功績を大きく描いて見せたと考えられている。


「神武東征」をどう描いてるか?

関心事の「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に関わるエピソードとしての「神武東征」伝承は日本書紀ではどのように記述されているのか。筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギの子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武)が筑紫を発って大和に入り、橿原宮で初代天皇(神武天皇)に即位したとする点は古事記と共通する。また大和に入る時のナガスネヒコ(長髄彦)、ニギハヤヒ(饒速日)との戦いの伝承についてもほぼ同様である。カムヤマトイワレヒコが大和に入ろうとした時に、すでに大和には、もう一人の天孫族、ニギハヤヒ:饒速日(物部氏の祖神)が、地元の土豪ナガスネヒコ(登美の長髄彦)の妹を娶り一族を従えて支配していたという。カムヤマトイワレヒコは最初、登美の草香江(現在の東大阪の生駒山麓草香江)からの大和入りを試みたが、これに抵抗するナガスネヒコ(長髄彦)との戦いに苦戦。ついにカムヤマトイワレヒコは草香江の戦いに負け、兄の五瀬命を失う。太陽に向かって東に攻めたのが良くなかったとして、迂回して熊野に周り、苦心しながらそこから吉野、宇陀を経由して地元の勢力(土蜘やヱウカシ、オトウカシ)を退治し、国栖や八咫の烏や金鵄の助けで、ついにはナガスネヒコを破り大和入りしたという話だ。

ただ古事記と少し内容が異なっている。古事記では、ニニギの筑紫の日向への降臨を知ったニギハヤヒはそれを追って地上に降臨してきたと説明している。ただし筑紫ではなく河内に天磐舟(あめのいわふね)に乗り十種の神器を携えて降臨し、カムヤマトイワレヒコより先に大和入りして待っていたとする。そして進軍してきたカムヤマトイワレヒコ(神武)を出迎え、彼を正当な天神の子孫として崇めて服属したとする。いわば従属関係にあることを語っている。一方、日本書紀ではニギハヤヒはニニギの降臨とは全く無関係に河内に降臨したとする。ニニギを追って来たのではなく、河内、大和に先住している天神の子であるとしている。ナガスネヒコがカムヤマトイワレヒコに「自分が仕えている天神の子ニギハヤヒの他に天神の子がいるのか?」と問い、カムヤマトイワレヒコは「天神の子は多くいる」と答えている。すなわち天孫降臨はニニギだけではない、有力な豪族の祖神も天から降臨した神の子孫であるという認識が述べられている。ただそのなかで最も正当な天神の子がカムヤマトイワレヒコであり、それをニギハヤヒも認め服属した。いわば先住者であるが並存関係にあったものが服属したとする。また、日本書紀ではカムヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコは、その支配者であるはずの天神の子ニギハヤヒによって殺されたとされている。こうして服属の証としたのだろう。

このように古事記では物部氏の祖神であるニギハヤヒは、神武天皇の祖神であるニニギを追って(あたかも随伴するように)河内に降臨し、大和に先回りしてカムヤマトイワレヒコ(神武)を迎えたかのような筋立てになっているが、日本書紀では降臨の後先を語っていない。その理由は先述のような各有力豪族の、自らも天孫族の子孫であるという伝承、多神教的神話(八百万の神々)の存在を認める立場をとったからだろう。しかしそれにしても、古事記では出雲のオオクニヌシ(大国主)の「国譲り」で「芦原中つ国」はアマテラス(天照)の「天津国」の支配するところとなり、筑紫にニニギが降臨して、その子孫カムヤマトイワレヒコ(神武)が東征して大和に入り日本を治めたとされ(日本書紀にはこの「出雲神話」のストーリーが出てこない)、その際有力豪族の祖神(大伴氏など)はニニギに随伴して高天原から筑紫に降臨してきたとされているのに、物部氏の祖神、ニギハヤヒだけはニニギとは別に河内に降臨したとされている。しかもカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)に先立って大和を支配していたとされている。なぜそういったエピソードが必要であったのか。おそらく地元(河内、大和)にニギハヤヒ降臨神話が根強く残って語りつがれていたため無視できなかったのだろう。すなわち物部氏の河内、大和における先住豪族としての存在を否定するにはあまりにも誰にとっても既知の伝承でありすぎた。したがって後から入ってきたカムヤマトイワレヒコが「正当な地上支配者」であることをニギハヤヒが認め(服属し)、先住の物部氏(ニギハヤヒの子孫)を王権(天皇家)を支える有力豪族として記紀に記述することにした。これこそ「ニギハヤヒ(物部氏)による「国譲り」であったのかもしれない。古事記においても日本書紀においても、天皇の祖神(皇祖神)アマテラスを頂点とした各地の豪族、氏族の祖神の序列化とその記述には並々ならぬ苦労があったであろう様子がよくわかる一文である。


ヤマト王権成立の何を語っているのか?

これらの記紀双方の記述(神武天皇の大和入り)の背景にある事情を整理すると、なんらかの史実が浮き出てこないか、そこには初期ヤマト王権成立時の、大和盆地を巡る地域情勢が透けて見えるのではないだろうか。ニニギが「良き地」として降臨してきた筑紫をなぜその子孫は捨てなければならなかったのか。そして大陸の文明から遠く離れ、山に囲まれた「辺境の地」大和盆地をなぜ王権の地「美しき地」としたのか。この間の事情は古事記にも日本書紀にも語られておらず、東征、大和入りが安定した国を治めるための予定の行動であったかのようなストーリーになっている。おそらく記紀の編者としては中国王朝の朝貢/冊封体制に入っていた筑紫倭国(邪馬台国や、奴国、伊都国のような)とは異なる大和倭国、「天皇が支配する日本」への移行を演出して見せたのではないか。あるいは実際に筑紫の一勢力が「倭国大乱」の後に、筑紫倭国連合(邪馬台国連合)を抜けて東へ移っていった出来事の投影であったのかもしれない。しかし、大和入りの模様は比較的詳細に描かれている。大和には(出雲や吉備のようなまとまった有力勢力/国はないにしても)いくつかの先住の土着勢力がいた。その多くは土蜘(つちぐも)と呼ばれる山の民や土豪や、ヱウカシ、オトウカシなどという首領で、外来勢力から自分たちのテリトリーを守ろうと抵抗した。また、地元の神が熊に化身して「皇軍」を眠らせたりというエピソードに投影されるような数々の抵抗勢力の存在があった。その一方で「八咫の烏」や、吉野の国栖部族や、「金鵄」が「皇軍」の進軍を助けたりという、在地の同調勢力の存在を伺わせるエピソードも盛り込まれている。中でも最も強力な抵抗勢力は、先述のトミノナガスネヒコ(登美の長髄彦)である。しかも、彼は単なる土豪ではなく初期ヤマト王権成立以前に河内から大和へ移動してきた天孫族ニギハヤヒ(饒速日)と姻戚関係を結んで、その支配下にいるという。その子孫が物部氏であるとすることから、彼らがすでにある程度大和を実効支配していたのであろう。そこへ筑紫から入ってきた勢力が支配権を争った。このように大和がいまだ支配勢力が固まらない「無主の地」であったとはいえ、王権確立までには多くの地元抵抗勢力との戦いや服属、同盟の物語があったことを窺わせる。こうして大和、河内の地域勢力を固めた後、初期ヤマト王権はここを中心として「四道将軍」や「ヤマトタケル」などの「征討」伝承に象徴される全国統一事業へと進めていくこととなる。日本書紀にはそのような建国・国土統一ストーリーが描かれている。

これらのエピソードは太古の昔(西暦換算で紀元前660年頃)の伝説の天皇神武、すなわちカムヤマトイワレヒコの英雄伝として記述されているが、実際には3世紀後半の「初期ヤマト王権」成立の過程を描いたものであったと考えられる。すなわち初期ヤマト王権(三輪王朝)を開いたミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)の物語であり、彼こそ歴史上の初代天皇(初期ヤマト王権の大王)である。彼は筑紫から大和に入り、三輪纏向の地に宮を開くまでの苦難の王権成立過程を経験した。これを後世(記紀編纂時に)、先述のような王権の東征物語として潤色し、王権(のちに天皇)の権威を神格化するために、ミマキイリヒコイニエ(崇神)の10代前の神話の世界につながる伝説の(架空の)天皇、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)を創造し、その「神武東征伝承」に投影させた。そして先住勢力のニギハヤヒの服属をその「神武東征伝承」に盛り込み、その末裔である物部氏をヤマト王権を支える有力豪族として正史に記録した。ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のヤマト王権とと物部氏の間に同盟関係が成立したのであろう。またその一方で、記紀編纂の直前に起きた、記憶に新しい大海人皇子(天武天皇)の王権奪取闘争「壬申の乱」(674年)における大和入りのストーリーを重ね合わせることで、「伝説の神武東征」物語の「リアリティー」演出にも大きく貢献したことだろう。すなわち、神武天皇と崇神天皇と天武天皇の姿を重ね合わせた。日本書紀はこうした皇統の悠久の歴史と天神につながる神聖性を外に向かって語るために、「歴史上の初代天皇」崇神のはるか前に「伝統上の初代天皇」神武を置いた。

ちなみに神武以降、崇神までのいわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないとされ、日本書紀においても事績が記録されていない。皇統の神秘性と悠久の歴史を誇り「万世一系」の天皇を伝説化するために神武から崇神までを埋めるために創作されたと考えられている。しかし、これらの八代の天皇は大和盆地西側の葛城あたりに存在の形跡があるとする研究者もある。ミマキイリヒコイニエ(崇神)の「三輪王朝」創設の前に「葛城王朝」があったとする説だ。古事記には武内宿禰の子孫、葛城襲津彦がこの辺りの有力豪族で、4〜5世紀初頭に「河内王朝」の歴代天皇の后を出して姻戚関係を持っていたとある。日本書紀にも記述があり、また雄略天皇が葛城の一言主神にひれ伏したとする伝承が記載されている。この葛城氏の祖先が「葛城王朝」の主で「欠史八代」の天皇だとする。しかし、この説は少数説で、その存在は証明されていない。この一帯に「欠史八代」の天皇の宮跡の比定地の石碑や「陵墓」とされる古墳がある。もちろんこれらは後世(江戸時代、明治以降)に山陵/陵墓比定などの事業に合わせて建てられたり治定されたものである。ただ物部氏が河内から大和に進出する時、さらにミマキイリヒコイニエ(崇神)が大和盆地に入り三輪山山麓に王権を開く時にも、大和盆地の西の葛城山麓に勢力を張っていた土豪、豪族がいて、王権の成立になんらかの関係があった可能性があるのかもしれない。今後の私の研究課題である。


日本書紀は歴史書か?

このように日本書紀は、古事記のような天皇支配/祭祀の神格化/優位性を、諸豪族に対して語る神話部分の記述に注力するよりは、対外的、特に当時の超大国中国の唐王朝を激しく意識した新生「日本」成立経緯と、天皇制(もう一つの皇帝)の神話に遡る悠久の歴史を宣言したものである。したがって歴史書としての形式は中国の史書の様式をよく学び、踏襲して「近代国家」として恥ずかしくないように漢文で(今で言えば国際公用語英語で)記述された格式高い「正史」である。しかし、歴史を研究し、学ぶものとしては、やはり徹底的な文献批判は不可欠で、間違っても記述されていることが全て史実であるように読むことはできない。古事記が国内向けの(豪族に対する)天皇の政治的宣言文書であり歴史書としての性格に疑義があるとされるが、その一方で日本書紀は国の正史であり、史実を記述した歴史書であると単純に見做すこともできない。やはり当時の東アジア情勢を反映した対外的な政治宣言の文書、国家アイデンティティーの表明の文書であるという理解で読み解いてゆくべきであろう。そういう視点から「初期ヤマト王権」はどこから来たのか?という問いに関していうと、古事記とは異なる日本書紀ならではの独自の歴史観が語られているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ神代紀における高天原神話や出雲神話に言及していないなど、初期ヤマト王権と国内の豪族との確執や祭祀に序列化などの国内事情は簡略化されている。一方で人代紀で蘇我宗家の滅亡、藤原鎌足の王権への貢献が喧伝されているなど、編纂に深く関わったとされる藤原不比等のいわば「藤原史観」が表明されている。天皇の起源(ヤマト王権の起源)についてより掘り下げて述べるべきは古事記の方であるので、それを補う記述を日本書紀に求めるのは少々無理かもしれない。一方で、日本書紀は古事記と同様、中国の歴代史書に記述されているような、中国王朝に朝貢し、冊封を受けてきた、かつての筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような倭国、あるいは大和の「倭の五王」の時代の倭国のような国の姿を記述していない。ここでも太陽神の子孫である「天皇」が太古の昔に建国(中華世界とは全く独自に)した「日本」、そういういわば「小中華世界」観を描き出している。そして新国家「日本」は中国の朝貢冊封国家「倭」ではない、というメッセージが強く主張されている。そういう意味では日本書紀は歴史書ではあるが、「天皇」の「日本」の「紀」として編纂された対外的な政治的宣言書としての性格がより色濃く現れていると言える。しかも、その編纂の中心にいたのは藤原不比等であり、その父である鎌足の事績を強調するなど、政権内部における藤原氏の意思表明も多分に強調されている。


エピローグ

これまで、中国の史書の解読、考古学的研究成果、古事記、日本書紀の文献批判により「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」「どのように成立したのか?」を「妄想」してみたが、やはり未だ明快な答えは見つからない。限られた文献資料と「点」としての考古学的成果だけではカバーできない広大な歴史的空白をどのように埋めるか。さらに、なぜ大和の地が王権の地として選ばれたのか。カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は、あるいはミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)はなぜ筑紫を出て大和に都したのか。我々は後世の歴史を知っているから大和が王権の地であることを所与のものとしてその理由を問わないが、考えてみると不思議だ。記紀においても、東に素晴らしいところがあるから「来るべくして来た」と言わんばかりの記述しかしていない。その文脈の中からこうした「遷移」背景(国際情勢、国内騒乱、気候変動、資源、農業生産活動、物流など)を読み解くことは難しい。古事記も日本書紀も国家成立と天皇制の起源語っているのだが、それを人間の理性の及ばない神話に求めている点で、歴史書として評価することはできない。別のソースを当たることでよりより「客観的」「俯瞰的」な目線で考察する必要があるだろう。こうしてヤマト王権の姿はいまだ、時空の遥か彼方に霞んだままである。限られた「証拠」だけでは科学的な合理性を持って答えを見つけ出せない以上、妄想力を駆使してその姿を追うしか無いだろう。新型コロナウィルス感染防止対策に伴う外出自粛「すごもり」を奇貨とした妄想旅は、緊急事態宣言解除を機に一応区切りとする。これからさらに新しい妄想旅、いや時空旅に繰り出していきたいと考えるところである。


寛文9年版
日本書紀




2020年5月16日土曜日

東京における「社会的距離:Social Distance」 はどのくらいなのか?


品川駅の平日
(去年の6月)


新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言が、東京/首都圏の神奈川/千葉/埼玉三県、大阪府/京都府/兵庫県、北海道の8都道府県を除いて解除された。しかしこれからまたいつ2次感染爆発が起き、緊急事態宣言、外出自粛要請、休業要請があってもおかしくないだろう。日本は「都市封鎖:Lockdown」ではなく、「自粛」「要請」で乗り切ろうとしているが、この手法が成功するか否か、国民も世界も注目している。しかし、東京の過密状況を毎日肌身で体感していると、東京の感染者数、死者数が全国でもダントツである事は不思議ではない気がする。このままの過密状態で、人との「社会的距離:Social Distanceを取る」、「三密(密閉、密集、密接)を避ける」とか、そうした行動変容による「新らしい日常生活:New Normal」に移行といっても、本当に可能なのかと思ってしまう。少なくも欧米スタンダード(グローバルスタンダード?)の社会的距離:Social Distanceとはだいぶ違う尺度を適用しないと実際にはやっていけないような気がする。

1964年の東京オリンピックの前だったと思う、私の小学校の頃、よく地理の授業で世界の「人口密度」というのを習った。一平方キロ当たり、人口が何人か、というやつだ。当時は「道路の舗装率」の世界比較というのもあった記憶がある。どちらもなにか国の豊かさ、貧しさを比較する指標のように見えて仕方なかったことを覚えている。人口密度では東京はいつも世界ランキングの上位を占めていた。大体中国やインドなどアジアの国々の人口密度が高く、欧米の国々のそれが低い、と対比的に記憶していた。そこにすし詰めの満員電車と狭い部屋に大家族、というイメージが重なり、日本の貧しさはなかなか解消しないとの印象を植え付けられたものだ。「道路の舗装率」の方は、オリンピックが終わりその後の高度経済成長の中で、たちまち100%になり、そんな統計数値があったことさえ忘れてしまったが、人口密度の方は、むしろ高度経済成長に伴う人口の都市集中、なかんずく東京一極集中でますます公害問題や、交通渋滞や、住宅不足が問題となったのは記憶に新しい。そしてバブル崩壊、低成長時代を迎えたこの30年で何か変わったのだろうか?

現在はどうなのか?
まず日本国内のランキングで見ると(2010年人口統計)
第一位)東京都 6,015人
第二位)大阪府 4,669人
第三位)神奈川県 3,745人
以下、埼玉県、愛知県、千葉県、福岡県、兵庫県と続く
最下位」北海道 70人

まあ予想の範囲内だ。人口の都市集中、ことに東京一極集中は今も基本的には変わっていない。

ランキングではないが世界の人口密度比較を見てみると(都市圏別2010年)
東京/横浜は4,700人
大阪/神戸/京都が5,700人
ニューヨークは1,700人
ロンドンは5,600人
北京は4,700人
上海は5,500人

人口密度が高いのは
バングラデシュのダッカが41,000人でトップ
インドのムンバイが26,900人、デリーが12,600人
インドネシアのジャカルタが10,200人
フィリピンのマニラが13,800人
メキシコのメキシコシティーが8,600人
ブラジルのサンパウロが6,900 人
などとなっている。

東京は世界の主要大都市並みということになる。ニューヨークが意外に低いことに驚く。おそらくロングアイランドの広大は地域が入っているからだろう。アジアの人口爆発による都市の過密化に拍車がかかっている様子がわかるが、基本的なデモグラフィーはあまり変わっていない印象だ。

それにしても東京が日本における一極集中、超過密都市である事はこうした人口密度の数字を見るまでもなく、ここに暮らすものとしては日々実感できる。日本全体が少子高齢化による人口減少期で、低成長時代に入って久しいとはいえ東京の朝夕の通勤ラッシュは相変わらずだし、渋谷、新宿、銀座などの繁華街に限らず、最寄りのターミナル駅周辺や地元の商店街に行っても、常に人で混雑している。また深夜まで繁華街は人で溢れており「眠らない街」である。すなわち場所、時間を問わず人が溢れている都市である。住宅環境も、高度経済成長期の郊外への広がりが収束し、郊外の大団地が高齢化、空家化し、あの憧れの私鉄沿線の戸建住宅街も高齢化、無人化に伴って、都心回帰ともいえる高層マンションの林立が顕著である。その一方で低層狭小戸建住宅がぎっしり密集しているところもある。私のかつての転勤経験に照らしても、東京は圧倒的にニューヨークやロンドンに比べ「人が多い感」は高い。ニューヨークもロンドンも場所によっては閑散としているところがあるし、街中でも時間によっては人気(ひとけ)がなくなる。いろんな場面で人と人の距離感を保てるし、またそうすることがマナーにもなっている。マンハッタンのミッドタウンで通りを歩いていて人とぶつかることも少ないし、東京のようにぶつかっても「すみません」とも言わない無礼者はいない。大阪だって、かつては繁栄の「大大阪」を謳歌して東京を凌ぐ人口過密であった時代があり、そのせいか今でも混雑したゴチャゴチャした街、という印象があるが、意外にも環状線に乗っても、私鉄に乗っても明らかに東京よりは空いている。梅田(混んでいるというよりは動線が混乱している)を除くと、ミナミも賑やかだが街中にも余裕がある。確かに人と人との距離は近い感じがするが、それは東京と違って知らない者同士のコミュニケーションが成り立っていることを意味しており、それが大阪の魅力にさえなっている。

こうした東京(首都圏)で、3.11の時は電車が止まり「帰宅難民」が路上にあふれた事は記憶に新しい。この私も帰宅を諦め会議室で一晩過ごした。分刻み秒刻みで動いている東京の交通システムは、ちょっとしたことでたちまち機能不全に陥る。すると駅から人が溢れ出す。動いてないと死んでしまう回遊マグロのようなものだ。このトラウマのせいか、今回のコロナ騒ぎで「外出自粛」と言っても、渋谷、新宿、銀座が100%無人になる事はなく、パリのシャンゼリゼやニューヨークのタイムススクエアーのようにホームレスを含めて「人っ子ひとりいない」ことにはならない。減少率が60%とか70%とか言って、それで町は「人っ子ひとりいない!」かのような報道がされる状況であり、私的には結構人が出てるじゃないか!と感じてしまう。そもそも外出自粛と言いながら交通機関はほぼ定時運行(世界に冠たる時間に正確な頻発サービス)。ガラ空きでも走らせているのだから乗る人は乗る。どだい出るなと言っても無理で、堰を閉めてもどうしても溢れ出るものは溢れ出る。動いていないと死んでしまう街なのだ。都市封鎖:Lockdownと自粛要請の違いだけではない。そもそも人が多いのである。

「家に居ろ(Stay Home!)」といっても、狭い3DKの集合住宅や庭もない狭小戸建てプレハブ住宅などの「ウサギ小屋」に何ヶ月もじっとしてられない。学校も閉鎖されていて子供たちも所在なげにぶらぶらしている。ニューヨークの学校のようなオンライン授業が毎日あって自宅にいても勉強で忙しいわけでもない。そもそも「元気な子供達」が部屋でじっとしてるわけもない。通りや街角公園でたむろし騒ぎ回っている。面倒みる親もたまらない。この東京の住宅事情をみれば、「社会的距離:Social Dstance」をとれ、「三密を避ける」など無理であることがわかる。隣の家との隙間もない密集住宅街で、社会的距離:Social Distanceなどという欧米的な尺度は当てはまらないことはすぐわかる。だからなのかオンラインで自宅で仕事するテレワーク:Teleworkも、以前から語られていた割には気がつくと全然定着していない。狭い家にいるよりも混んだ電車に乗ってでも会社へ行くことが息抜きになっているからだ。飲食店だってそうだ。そもそも狭い店内で、テーブル数を減らさなけりゃ(収益を減らすことを意味する)テーブル間の距離を開けるなんて無理だ。まして「袖触れ合うも多生の縁」の居酒屋やラーメン屋では、親密さが売り物というその業態そのものが否定されることになる。

それでも日本の感染率が低く、死亡率が極めて低いのはどうしてなのか?感染者数が少ないのはPCR検査数が他国に比べて圧倒的に少ないからで、実数はもっと多いだろうが、死者数が少ないのは何故なのか。ある人は「日本人の清潔好きのなせる技」と言い、また「自粛要請を守る民度の高さ」と言い、「高度な医療体制のなせる技」と言う。しかし世界のメディアはこの「日本の奇跡」は本当なのか? 懐疑的に断ずる論調もない代わりに、称賛する論調もない。日本で起こっていることをどう評価すれば良いのか考えあぐねているように見える。少なくとも台湾やドイツ、ニュージーランドのような成功例として取り上げるには躊躇があるようだ。政治リーダーの市民の評価についても、クオモニューヨーク州知事や蔡英文台湾総統、メルケルドイツ首相(台湾を除けば多くの感染者を出し、死者を出しているにも関わらず)は高い評価を得ている。一方、日本(感染者数、死者数共に低いにもかかわらず)は、吉村大阪府知事と小池東京都知事の評価が高いものの、安倍さんの評価はいまいちだ。日頃の言動から来る信頼感が祟っているのだろう。国民はよく見ている。もっともアメリカのように非常時にヒーローを求めたがる国民性による評価もあるのだろうが。

東京に住んでる住民の立場から言わせてもらうと、「三密を避けろ」はかなり非現実的な要請だ。なぜなら常に「三密」の中で暮らしているからだ。社会的距離を取れ:Social Distancingも有名無実。列を作って2mも間を空けているとすぐに割り込まれる(というか並んでいると認識されない)。広大なお屋敷に住んでいるわけでもないので密閉空間は避けられない。ラーメン屋に行って個室があるか確認するわけにも行くまい。仕事をしている以上公共輸送機関で通勤せざるを得ない。医療も平時には機能しているが非常時にはほんの少数の重篤患者発生で崩壊しそうになる。もともと狭くて小さな病院内での院内感染が多発する。自主休業要請を守らないパチンコ屋は朝からギャンブル依存症の症状緩和の場になっている。メディアが取り上げる渋谷、新宿、銀座は人出が減ったが、戸越銀座商店街や近所のスーパーは子連れ家族でごった返している。メディアが取り上げない世界では全く異なる光景が現出しているのだ。「民度」という尺度は絶対的なものではない。さらに常々問題となっている官僚の縦割り行政と事なかれ主義の仕事ぶりはこうした非常時には機能しないばかりか、意思決定の遅延、行動の遅延を引き起こしている。中央政府トップと自治体、そして医療や検査の現場の意識のズレも甚だしい。ここはもっと「三密」でやってほしいところだが。国民の自粛に期待するだけではなくこここそ政治のリーダーシップが求められるところだ。

コロナ以後の「新しい平常状態:New Normal」が唱えられ始めている。ワクチンや治療薬が開発されてもコロナが完全に消滅する事はない可能性があるし、近い将来に新たな感染症がまたぞろ猛威を振るう可能性も高い。そういう「感染症ウィルス」と共生する社会の到来に向けて、東京は何よりも一極集中を見直すのが先決だ。社会的距離:Social Distanceを確保し、「三密」を避けるためには、論理的には限られたスペースから一定の人口を減らして密度を減少させるしかないだろう。繁華街や満員電車だけでなく、首都東京の住宅街を歩いてみたらわかる。こんな密集、密着している密閉空間をどうにかしなくてはと考えるはずだ。地震や火事など大規模災害時には消防車も救急車も入れない狭くて曲がりくねった道。東京都が緊急時には「人命に危険が及ぶ可能性の高い地域」と指定している地域でも、それでもなお一軒の住宅跡地にさらに4〜5軒の狭小住宅を密集して建てるということが繰り返されている。これでも人と人との感染が爆発しないのはコミュニティーや隣人同士の行き来がなくて「隣は何をする人ぞ」状態という冷たい人間関係のせいかと皮肉を言いたくなる。スペースを開けるということは関東大震災の時も、3.11の時にも言われた。すべて「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。そうやってなんとなく「持続可能な社会」を形成してきたのが島国日本なのだろう。何かあるたびに議論された首都機能移転も、本社機能移転、大学移転も進まない。ネットショッピングは始まっているが、オンラインによるテレワークも進まない。遠隔医療も常に「実証実験中」だし、ディスタンスラーニングも進まない。別に「パソコンが家庭に普及していないから」でも「インターネット環境がない」からでもない。そんな言い訳は世界に誇るICT大国には通用しないのではないのか。やはり「何か」にこだわる価値観。それに基づく仕事スタイル、学習スタイル、生活スタイルが、これらを阻んでいるのだろう。その「何か」の象徴が「東京」なのかもしれない。それを考え、行動を起こす時期が来た。と今はパニックの真っ只中だからそう言っているが、やっぱりやがて忘れるのだ。



住宅地密集化の実例

ここは都内某区の住宅街。江戸時代にはこのあたりは朱引外で、明治維新以降、戦前、戦後を通じて、高級住宅街とは言わないまでも、都心に勤める会社の幹部社員、高級官僚や軍人、大学教授や文人墨客のが好んで邸宅を構えた地区であった。現在も、広大な邸宅(大きな会社の所有になっているが)や、有名人の住処や官舎、社宅が残る閑静な住宅街である。しかし、最近、街の様相が大きく変わり始めている。こうした邸宅は主人を失うと、相続税対策なのであろう、売却されて、次々と瀟洒な住宅(純和風や擬洋風の古民家)が取り壊され、緑生茂る庭が破壊されてゆき、その跡地には複数の狭小プレハブ住宅が所狭しと建てられる。このパターンの「再開発」が急速に進んでいる。極端な場合、ある著名人の旧邸宅跡が10軒のプレハブ狭小住宅で隙間なく埋め尽くされてしまったところも出てきている。マンション化されるところもあるが、第一種低層住宅地域なので高層化できない。で不動産ディベロッパーとしては、土地を細かく分割して一戸あたり売却単価と利益率の高い「戸建」にして売り払う。こうすれば買い手から見ると土地全部は買えないものの、分割すれば土地購入単価が下がり購入しやすくなる。その上に「日本の建築技術の粋」である擬似三階建てプレハブ狭小住宅を建てれば立派なマイホームになる。こうして市場経済的合理性が働く売買が成立するというわけだ。もっともこうした個人の資産としての「不動産」価値が将来にわたって維持できるのかは疑問だ。少なくとも上物の償却期間は短く(不動産というより「耐久消費財」)何年か経つと資産価値はなくなるだろう。後は残された狭い土地だけだが、初期投資を回収できるだけの価格でこれからも売れる保証はない。地域住環境の悪化という悪循環が起きれば尚更だ。したがって中長期的に見ると資本主義的合理性(投資に対するリターンの最適化)が買主に働くかは疑問と言えよう。いずれにせよ昔ながらの(車の所有を想定していない時代の)狭い道路と、一定の広さの庭を有し、外塀に囲まれたセキュリティーのしっかりした邸宅が立ち並ぶ住宅街は、道は狭いままで塀もなく、庭もなく、隣地との境もほとんどない、例外なく一階が車庫スペースとなっているような擬似三階建狭小住宅で埋め尽くされる密集住宅地域に変貌を遂げる。必然的に人口密度は急速に上がっている。社会的距離:Social Distanceを取ることなんぞそもそも難しい街にどんどん変貌している。


かつて春になると白木蓮と桜が美しい庭があった

冬は雪景色...

しかし、空き家になって取り壊しが始まる。
桜も白木蓮の樹も切り倒されてしまった。
あっという間にすっかり更地になってしまった
不動産デベロッパーが土地分譲をはじめた
スペースがあるうちに奥の家も建て替え
一軒分の土地が四軒に分割されて分譲されることになった。
すぐに売れたと見えてたちまち建て始める

それぞれの敷地にそれぞれ違う業者が別々に施工。
こんな狭い土地に器用なものだ!

そして完成。
見事に一軒の邸宅跡に四軒の家が建った
これが東京の住宅街の社会的距離:Social Distance