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2020年10月23日金曜日

久しぶりの嵐山/嵯峨野散策 〜GoToトラベルで東京都民、京都に参上!.〜

 

大堰川と渡月橋

例年の紅葉シーズンの渡月橋(2010年)


紅葉の時期にはまだ早いが、京都の嵐山、嵯峨野散策に赴いた。「そうだ、京都行こう」じゃないが、前日に思い立って突然出かけることにした。鬱々とした「巣篭もり」の反動で突然弾ける。天気予報は幸いこれから二日は秋晴れだという。雨続きでうんざりもしていたこともある。GoToトラベルが東京都民にも適用されることになりこれが後押しした。宿泊料30%割引。地域共通クーポン6000円分付き。悪くない!「割引」キャンペーンは、金は無いが時間はたっぷりあるリタイア世代に、こんな果断な決断と行動をさせるものだ。

新幹線はジパング倶楽部でこれも30%割引。「のぞみ」には乗れないが、時間はたっぷりあるので「ひかり」で十分だ。新幹線はそこそこの乗車率。サラリーマン出張組が多い。「ガンバレ、サラリーマン諸君!」。「スマンがわれわれは遊びに行く!」。一車両の後列は団体用にGoToで旅行代理店が押さえているらしい。もっとも結局ほとんど埋まらなかったが。往時に比べりゃ席は空いている。

京都駅では、どこかの県みたいに「東京都民は京都には来ないでください!」とバリケードが張られ、防護服にマスク姿の府庁職員が立っているのではないか(?)と、恐る恐る降り立ったが、「入国検査」も「検疫」もなかった。思ったより観光客もいて、なんと修学旅行の一団まで!黒い制服の生徒たちが駅前広場のかたすみに腰を下ろして先生の指示を聞いている。街は賑わいを取り戻しつつあるものの、人出はイマイチかな。ホテルに到着すると、思いもかけず列を作ってチェックイン待ち。GoToが始まったので客が戻ってきたとのこと。ホテル業界にとっては良い兆候なのだろう。ここは以前から京都での定宿なのでチェックイン自体は簡単。体温検査はあったが「東京からですね?』などと余計な念押しもなし。街へ出て寺町新京極あたりを徘徊すると、地元の人(観光客らしくない人)で賑わっている。錦小路や先斗町へ足を伸ばすと、閉店してしまった店が多いのに驚く!やはりコロナは観光業中心の地元経済に大きな影響を与えているようだ。なんと言っても中国、韓国の観光客がいないのだから、ビフォーコロナのあの雑多な賑わいを求めるのは無理。「爆買い」などもはや過去の言葉になってしまった。しかし、この日本人だけでそれなりに賑わっている京都の街も悪くない。かつてのバブル時代の日本、すなわち物価高と円高で、海外からの旅行者には敬遠されていた時代に戻ったようだ。街中では日本語しか聞こえてこないし、慣れない着物着て自撮り棒振り回す「チャイニーズ・ゲイシャ」の一団もいない。なつかしさがこみ上げてくる。昔の京都はこんなんだったなあ!と。

京福電鉄嵐山線、いや「嵐電」で嵐山へ向かう。新入社員時代(初任地は姫路)、デート時代、新婚時代、大阪時代と頻繁に出かけた。嵐山、嵯峨野のブログもいっぱい書いた。地下鉄太秦天神川で乗り換えてコンプレッサーの音も懐かしいチンチン電車に乗車。車内はそれなりに席が埋まっているが、雰囲気的には地元の乗客が多いようだ。嵐電嵐山駅につくと駅前の人出は閑散としている。もちろん紅葉にはまだ早いし、ウィークデーであることもあるが、かつてのように駅前の通りが観光客で溢れている感はない。ここでも閉まっている店が多いのに驚く。なかには看板下ろした店も。もちろんインバウンドも姿を消した。コロナの影響は大きい。なんかあの渡月橋が落下するんじゃないかと思うほど人が溢れていた時代の嵐山じゃないような気がする。

嵯峨野にいたっては、かつての嵯峨野散策コース入口、竹林地区が人の波で大渋滞して先へ進めなかった時代が嘘のよう!そこそこ観光客はいるが閑散としている。都会の人人人の生活に疲れてやってきた嵯峨野で、観光客の喧騒の渦に巻き込まれるなんてイヤじゃあ〜りませんか。静かに散策する本来の環境が戻ってきたようで少し嬉しくなった。ゆったりと秋風を感じながら竹林を抜け、野の宮神社、山陰線の踏み切りを渡り、落柿舎、常寂光寺へと散策する。ここから先は二尊院、祇王寺、化野念仏寺、そして鳥居本へと続く。こんなに静かな小径だったかと驚く。かつても念仏寺を過ぎると歩く人も急に少なくなってゆっくり散策できたものだが、今は落柿舎あたりも人が少なくやけに秋空が広い。ここは一人旅の女性の姿が良く似合う。一眼レフ下げて歩く「カメラ女子」にも出会った。嵯峨野は今も昔も「女子」に人気だ。「女ひとり」とういうデュークエーセスの歌が流行ったっけ。

紅葉の名所、常寂光寺を目指した。ここは1561年(永禄4年)開山の日蓮宗の寺だ。この緑濃い寺は、信仰と修行の場というよりは、俗世を離れて静かに隠棲して仏道に精進する場なのであろう。この辺りはかつて藤原定家の山荘があった場所だ。小倉山の中腹にありここから京の都を展望することができる。今はまだ錦繍の紅葉シーズンには早いが青紅葉が美しい。陽の光にモミジと苔の緑がキラキラ輝いている。しかしこの寺の苔がこのように見事であることに今まで気づかなかった。これも慌ただしい観光客の群れに巻き込まれず、ゆったりと時を過ごすことができるお陰だろう。何か忘れていたものを取り戻した感じがした。内外の観光客に人気なのも良いが、オーバーツーリズムはやはりなんとかせにゃいかん。観光業を生業にしている方々には申し訳ないが、こうした静かな佇まい、ゆったりとした時間を取り戻すのも悪くない。そういう時間と空間に価値を見出す生活。コロナを機会にもう少し豊かさをは何かを考えてみたいものだ。


京福電鉄嵐山線
またの名を「嵐電」
渡月橋のたもと、金木犀が芳香を放っている

渡月橋

大堰川堰堤

秋晴れの天気

むらさき芋スイーツ
嵯峨野の竹林




野々宮神社
コロナ退散を祈願

落柿舎
秋の空が大きく広がる

常寂光寺山門

仁王門

本堂

多宝塔

紅葉と苔のコラボレーション


仁王門


苔むす庭

境内から東山方面を展望

藤原定家の小倉山荘跡



嵐電嵐山駅前の人出の比較写真をご覧いただきたい。それにしても例年の紅葉シーズンの嵐山は凄まじいほどの人出で、紅葉狩りどころではなかった。今回は紅葉シーズン直前の平日であったことを割引いても、閑散とした佇まいだ。店仕舞いしたところもありかつての賑わいは感じられない。どちらが良いのか...

(現在)

嵐電嵐山駅前の通り
人力車も余裕で走れる

閑散とした駅前通り
店仕舞いしてしまったところもある


(10年前)

例年の紅葉シーズンならこの賑わい!
嵐電駅前の通り(2010年)

2010年頃の天龍寺曹源池庭園まえ

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6 ただし以前の写真三枚を除く)







2020年10月12日月曜日

クラシックカメラ遍歴(8)Leica Copy Cameras 〜本家を超えた偉大なるライカコピーたち〜

Leica IIIa
高速シャッター1/1000を装備
本家本元のライカカメラ

レンズはSummarit 50mm f.1.5
当時としては驚異的な高速レンズ

Leica Pistol
底に速写用ワインダー、ライカピストルを装着できる

まずは本家本元のLeica IIIaをとくとご覧あれ。1935~1950年、すなわち戦前にドイツのエルンスト・ライツ社:Ernst Leitz GMBHで製造された戦後まで続いた板金成形のバルナック型ライカだ。III型に始まり、高速シャッタ1/1000を追加したIIIa、ファインダーを改良したIIIbへと進化した。他社の追随を許さないと言われた最高峰カメラである。唯一の競争相手は、同じドイツの老舗光学機器メーカー、カール・ツアイス社:Carl ZeissのContax Iだけだと言われた。そのLeica III型をモデルにした(コピーした)各国のライカ型カメラの代表作を三点ご紹介しよう。

戦時中、交戦相手であったドイツからLeica IIIが入らなくなり、困ったイギリス、アメリカ、日本が製造したのが「ライカコピー」と言われるカメラだ。カメラは個人の趣味の道具ではなく、特にライカのような小型、高性能なカメラは重要な軍用機材であった。英米は開戦初期はライツ社製の高性能カメラを確保するために、中立国や第三国から輸入したり、国内の研究機関や市民などのライカ所有者からの供出に頼ろうとしたが、それでは間に合わず、やがてライカを分解して研究し自国でコピー製品を製造しようとした。これがコピーライカの始まりだ。やがて戦争が終わり、イギリスは占領中のドイツ、エルンスト・ライツ社のウェツラー本社から設計図を接収したり、海外のライツ社の特許の無償公開を利用して製造を進めた。またアメリカでは米国子会社のニューヨークライツ社による全面的な支援があり、英米両国で「ライカ」の国産化を進めた。一方、ドイツからカメラの製造設備を接収したソ連(ロシア)が大量のライカコピーやコンタックスコピーを製造した(ハッキリ言ってどれも粗悪品ばかり。コレクターアイテムにはなっているが)。日本は持ち前の器用さで数多くのライカコピーやレンズシャッタカメラを作り、戦後の外貨稼ぎの柱となった。そうしたいわば草の根のカメラブームが日本のカメラ業界の発展の基礎となった。

この戦後間もない時期のライカコピーは、戦前の板金加工ボディーのLeica III, IIIa, IIIbをベースに行われた。したがってその形状はIII型とウリ二つ。ところが、コピー製品の方はダイキャスト成形の高剛性ボディーで、かつ仔細にみると様々な改良が施され、本家のライカを上回る出来ばえの高性能カメラに仕上がっている。戦後のこの頃には本国ドイツでは(戦争中、戦後の荒廃の中であるにもかかわらず)次世代モデルであるダイキャスト成形のIIIcが開発済みであったが、ライカコピーは全て戦前型(板金加工型)のIIIa型のデザインを踏襲していたのである。こののちライツ社はドイツの戦後復興と共にIIIc, IIId、そして究極のバルナック型ライカ(スクリューマウント)となるIIIfを市場に投入してくる。ライカコピー製品の命脈は、その成立の事情から考えてもは徐々に絶たれてゆく。

ここでは代表的なライカコピーカメラ、英国のリード、米国のカードン、そして日本のニッカを紹介しよう。


1) 英国製 Reid + Taylor-Hobson 50/2

Reid & Sigrist Ltd. Leicester England

イギリス軍の要請により、レスターにあった航空機関連の精密機器を製造するリード・シグリスト社に白羽の矢が当たりライカコピーを製造開始。ということでReidはLeica IIIb(高速シャッタ1/1000搭載、ファインダー改良)をモデルとし、軍用として製造された。やがて民生用としても売り出された。民生品としては1947年に発表され、実際の市場には1951年に登場して、1964年まで発売された。すなわち、戦時中の軍の要請に始まるのだが、戦後に比較的長く販売された。ライカに倣ってスタンダードなI型と高性能なIII型の二種類があった。I型は主に軍用に納品されたようだ。

今回取り上げたReid IIIは3機種の内、仕上げが一番洗練されている。ボディー角やノブ類の面取りなど、掌に馴染む仕上げとなっている。エルゴノミクスはLeica IIIbよりも優れている。シャッター軸にはボールベアリングが使われ、滑らかな駆動。貼り皮も滑りにくい材質。ダイキャスト成形も薄型で、のちのLeica IIIcのそれよりも出来が良いかもしれない。シャッター巻き上げやレンズ距離計のスムースな動きも秀逸だ。ボディー正面にストロボ用の接点が用意され利便性もオリジナルを上回っている。いかにも「英国製ライカ」という佇まいだ。

沈胴、直進ヘリコイドの50mm(2 inch) f.2の標準レンズがついてくる。このレンズはテーラー・ホブソン社製で、シャープで秀逸な名レンズである。その姿形も工芸品と言って良い上質なものである。付いてくるレンズキャップのエレガントさはまさにMade in Englandだ。イギリスには、この他にもロスやダルメイヤーなどの優秀なレンズメーカーがある。ライカLマウントレンズの他、英国製カメラ用(アドボケイト、エンサインなど)にずいぶん作った。



フィルム巻き上げノブ、巻き戻しノブは角が面取してあり、またボディーも全ての角がアールが取ってあって手触りが良い。
ダイキャスト成形のボディーも薄く仕上がっていて、しかも剛性感がある。
ストロボ、フラッシュ用接点が正面に設けられている

メッキ、貼り皮の質が高く美しいシルエットだ

軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
「Reid」のロゴが誇らしく彫られている

レンズはTaylor-Hobson Anastigmat 2 inch f.2
鏡胴の作りも高品位

レンズキャップのロゴが美しい


2) 米国製 Military Kardon + Kodak Ektor 47/2

Premier Instrument Corp. USA

カードンは、戦時中、交戦国ドイツからライカが入って来なくなったので、アメリカ陸軍によりニューヨークのプレミア・インストルメント社に製造が委託された。アメリカでは戦前からコダックなど、大手のカメラメーカーがあり、軍用のシグネットや、スピードグラフィックスなどのカメラが製造された。それに加えてライカ型の小型高性能カメラへの軍需ニーズが高かったことから製造に着手した。こちらはLeica IIIaをモデルとした。戦後は、ニューヨークのライツニューヨーク社の全面協力もあり製造が進み、カードンは軍用から転用して民生用として売り出された。もっともカードンの製造台数は限られており、軍用、民生用合わせて2500台ほど。日本のように大量にライカコピーが製造されたわけではない。またイギリスのリードのように戦後長く販売されたわけでもない。戦後はドイツからも本家のライカが入るようになり、さらには戦後復興が急速に進んだ日本からは、安価なライカコピーが輸入されるようになった。一方でドイツコダック(戦争中も存続した)のレチナなどがアメリカで大量に販売されたこともあり、カードンは民生用としては普及しなかった。したがって現在中古で出回っている数にも限りがありレアものとなっている。軍用と民生用で(後述のように)形状が異なっており、これは軍用のカードンである。

軍用は堅牢でヘビーデューティーな作り。メッキは光沢が無く、マットな感じでエッジがたった無骨さがある。使用感はややゴリゴリ感があり、洗練された工芸品というよりは、ロバストな実用品としての工作精度を感じる。当然、軍用であるので、戦場での使用に配慮した様々な工夫が施されている。なんといっても手袋をはめたままでも操作しやすいように多くの改造が施されている。大型のフィルム巻き上げノブ、背の高いシャッターボタン、低速シャッターダイアルのレバー、レンズの距離計ダイアルにはギアーが付いており、フィルム入れ替えの底蓋のロックレバーは、開けやすいようにスプリングで半分浮き上がらせている(アメリカとは思えない細やかな配慮!)。全体としてはメカニカルな「武器」のような風合いのカメラだ。陸軍信号部隊用である旨のシリアルナンバーと機種名プレートが背面に付いている。

レンズはコダック社製のエクターだから写りが悪いはずがない。アメリカ製のエクトラやハッセルブラッドなどのハイエンドカメラに採用されている名レンズ。黒いリングがレンズ先端に取り付けてあり、Made in USA by Eastman Kodak Co. Rochester, N.Y.とある、鏡胴側の絞りリングにはPremier Instrument Corpと刻印されている。ライカの形をしているが、これはアメリカ製であると、アメリカの製造業の基礎体力の充実ぶりを主張しているようだ。



大型フィルム巻き上げダイアル、シャッターボタンはトール型、レンズには距離計ギア、低速シャッターダイアルには突起が付いていて手袋のまま操作しやすくしてある。
無骨で堅牢な作りだ

フィルム交換のための底蓋開閉ノブは半分浮かせてあり、
手袋のままでも操作できるようになっている
ここにまでUSAの刻印が

米陸軍信号部隊用であることを示すプレート
シリアルナンバーが打刻されている
製造メーカーはPremier Instrument Corp.


軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
メッキの質はマット調で工芸品的な美しさはないが、堅牢でロバストな仕上がり
「Kardon USA」のロゴもシンプル。シリアルナンバーなどは打刻されていない

レンズはKodak Ektar 47mm f.2
アメリカが誇る名レンズがついている



3) 日本製 Nicca + Nikkor-Q 50/3.5

Nicca Camera Co.Ltd Tokyo, Japan

1940年、キャノンの前身である精機光学でハンザキャノン製造に携わっていた技術者が立ち上げた光学精機がニッカの前身。戦時中は1942年に軍用に「ニッポン」というライカコピーを作った。これは軍の命令で特許無視で製造したものだ。戦後、1947年に社名をニッカと改称し、民生用に転換して、Leica III(1/500シャッター版)のコピー、Niccaを製造した。以降、改良を加えながらシリーズ5まで製造され、最後はヤシカに吸収されて消滅した。

戦後はニッカの他にも、レオタックス、チヨタックス、タナック、ミノルタ、キャノンなどのカメラメーカーがライカ型のカメラを製造した。1950年代に入るとさらに数多くのライカコピー機(中小のメーカーが多かった)が登場した。日本くらい多品種なライカコピーが作られた国はない。もっともライカコピーとは言っても、外見だけがライカ風で中身はレンズシャッターの廉価版カメラや、なんちゃってライカのトイカメラを含め、ほぼ無数と言って良いほどの機種が生み出された。しかしそれを基礎とし、その中から改良型の高付加価値型のカメラが出回るようになり、やがてMade in Japanカメラとして戦後の輸出花形商品となっていった。その中でもニッカはそれなりの精度と高品位な仕上がりを持つ「本格的なライカコピー」として人気があった。海外でも本家のライカよりははるかに安くて(当時のライカは家一軒買える価格と言われた)、その割には高性能な「日本製ライカ」が売れた。レオタックスと共にライカ型カメラの一時代を形成した。原型モデルのコピー、その改良版、量産化(高品質で安い)という日本のモノ作りの原点がここにある。そうした歴史的な「産業遺産」としても興味深い製品である。しかし、この頃はすでにドイツの本家ライツ社はダイキャスト成形の軽量かつ高剛性ボディーに、高性能な光学ファインダーを搭載したLeica IIIfを市場投入しており、これに比較すると戦前のIII型をモデルにした板金ボディーのニッカはさすがに見劣りするようになっていった。しかも、ライツ社は1956年にはが距離計連動ファインダー付きの、全く新しいライカM3を出し、とうとう日本のカメラメーカーは追いつくどころか突き放されてしまった。ニッカはこの時にはヤシカに吸収され、ヤシカブランドのカメラがやがては世界を席巻することになる。ところで、この究極の距離計連動レンジファインダーを搭載したライカM3のインパクトは強烈で、なんとかライカについてゆこうとしたニコンはこれに追いつけないと観念し、一転、一眼レフカメラに転換して、ついに世界のニコンFになった話は有名。

このニッカのレンズはそのニコンの日本光学のNikkor 50m f.3.5。標準レンズとしてキット化されている。この他にもf.2やf.1.5の高性能レンズもラインアップしていた。この時期、ニッカは日本光学(海軍)のレンズ(ニッコール)を、レオタックスは東京光学(陸軍)のレンズ(トプコール)をつけていた。このニッコールは光学性能が非常に優秀で、欧米市場でもライカレンズに匹敵する高い評価を得始めていた。しかもレンジファインダーの最短撮影距離1mという限界を超えて近接撮影ができる。実際には距離計連動しないので、近接撮影用のスタンドに取り付けて撮影する。ちなみに最近のデジカメに装着すると簡単に30cmくらいまで寄れるので便利だ。日本光学は、秀逸なニッコールシリーズを次々と市場に投入し、ライカと競い合う製品となる。のちにライフ誌のカメラマン、ダンカンによってニッコールが絶賛されて、一眼レフカメラ、Nikon Fと共に世界的にな成功を収めることとなる。このニッカにキットされた標準レンズは、その初期の記念すべきニッコールであった。


上質なメッキと貼り皮
戦後の物資不足の時代の製品とは思えない仕上がり

シャッター速度は500分の一までのIII型初期
Type-3やIIIの刻印がない

軍艦部レイアウトはLeica IIIと同じ

レンズはNikkor 50mm f.3.5
ライカのElmar 50mm f.3.5をモデルにしたが沈胴ではない
この他にもf.2, f.1.5があった

Nikkorはレンジファインダー機の最短撮影距離3.5 feetよりもさらに1.5 feetまで寄れる。
近接撮影モードが特色だが距離計ファインダーには連動しない。
(1.5 feetに設定した状態。鏡胴が伸びている)


こうして振り返ってみると面白い。その後、イギリスもアメリカもカメラ製造事業は縮小してゆき、その一方で日本は世界市場を席巻していった。そのスタートポイントが「憧れのライカ」に追いつけ追い越せで、そのコピーを作るところから始まったことは先述の通りだ。そのライカは、とうとうニコンやキャノン、ミノルタなどの日本のカメラメーカの後塵を拝することとなり、伝統のエルンスト・ライカ社はついにスイスの会社に買収され、創業の地ウェツラー本社を失う事になる。やがて時代はデジタルカメラ時代へ。レンジファインダーカメラから、一眼レフカメラへと進展していったカメラは、ミラーレスカメラへ。コンパクトカメラはスマートフォンにその座を奪われる。さしもの日本のカメラメーカーも勢いを失いはじめ、次々と事業縮小し、ブランドを他社に売却してカメラ事業から撤退するところも現れている。そしてあのライカが、臥薪嘗胆、そろそろと伝統のブランドを生かして復活してきた。Leica Wetzlar本社と赤バッチを復活させた。そうブランド資産は強い。そして今度は宿敵、ニコンやキャノンをミラーレスで追撃し始めている。一方でふと気がつくと家電メーカーであったはずのソニーやパナソニックが、半導体や電子技術やデジタル技術を駆使してデジカメ市場で台頭してきているではないか。カメラ業界の栄枯盛衰。すべてはライカコピーから始まった。その本家のライカはこれからどこへゆくのか。ニコンやキャノンはどう戦うのか。まさか第二の「ライカコピー」時代に入るのではあるまいな。奢れるものは久しからず、盛者必衰の理あり。

(参考文献:「世界のライカ型カメラ」カメラレビュー・クラシックカメラ専科45巻)

(撮影機材:Leica SL2 + Apo Summicron SL 50/2 ASPH)


2020年10月7日水曜日

伊豆下田の玉泉寺 最初の米国領事館跡を探訪す 〜ハリス、ヒュースケンそしてお吉の物語〜

伊豆下田の玉泉寺
初の米国領事館が置かれた場所
米国領事館跡の碑とともにロシア艦ディアナ号水兵墓所の碑も建っている


前回は最初のイギリス公使客館が開設された高輪の東禅寺を訪ねたが、今回は伊豆下田の玉泉寺を訪ねた。ここは初めてのアメリカ領事館が開設された日米交流史にとって記念すべき寺だ。英国公使館開設に遡る4年前、1854年米国ペリー提督と幕府の間で締結された「日米和親条約(神奈川条約)」に基づき開港された下田が米国領事館開設の地となった。日本にとっては鎖国時代を打ち破る「開国のシンボル」とも言うべき史跡である。今回はこの舞台に立った3人の人物を紹介しよう。ハリス、ヒュースケンと、お吉だ。タウンゼント・ハリスの幕末日本における活躍と日本の新しい時代を作り出した役割については、ここで改めて詳説するまでもないが、彼は民主党支持のニューヨーカーである。そして知られざるもう一つの顔、すなわち出身地ニューヨークにおける教育者としての姿についても知ることになる。あのニューヨーク市立大学の創設者なのである。そして彼がこの舞台の主役であるとすれば、彼を取り巻くいわば脇役たちの物語も興味深い。


タウンゼント・ハリス:Townsend Harris(1804〜1878年)

1804年、ニューヨーク州サンデーヒル(現ハドソンフォールズ)に生まれる。ウェールズ系移民の子として育った。
1847年、苦学の末、ニューヨーク市教育委員会委員長に就任。この時に庶民でも高等教育を受けられるようにフリーアカデミー、現在のニューヨーク市立大学:City College of New Yorkを創設。自らもそこで教鞭を取った。地元ニューヨークでは市立大学創設者として知られている。
1849年、貿易商として上海に渡る。このころから東洋に強い関心を抱くようになり、奇しくも日本に開国交渉に向かう途中のペリー艦隊に遭遇。このデレゲーションに加わるべく交渉するが軍人ではないとの理由で断られ断念。
1854年、清国寧波領事に就任。
1854年、のペリーの日米和親条約締結に伴い、米国領事館を設置することとなったことを知り、ニューヨーク時代の人脈を通じて各界に根回ししたのち、1855年ついに当時のピアース合衆国大統領によって初代日本総領事に任命される。
1856年、初代駐日総領事として下田に赴任。この時ニューヨークで出会ったヘンリー・ヒュースケンを通訳として伴い米艦サン・ジャシント号で下田に上陸。玉泉寺に領事館を開設した。
1857年、日米和親条約の改定である下田協定を締結、このなかで領事裁判権を認めさせた。同年、江戸に参府して13代将軍家定に謁見、大統領親書を渡す。
1858年、彼が全権代表となって日米修好通商条約(14カ条)を締結。これが彼の最大のミッションであった。幕府はこれを機に五カ国と修交通商条約締結(安政五カ国条約)。これが朝廷の勅許を得ずに大老井伊直弼の独断で締結され、安政の大獄、桜田門外の変へとつながっていったことは知られているとおりである。。
1859年、日米修交通商条約を受けて江戸の善福寺に米国公使館を開設。ハリスは公使に昇格し下田から移る。
1861年、ヒュースケン暗殺。これ以降攘夷派のテロ相次ぐ(東禅寺事件など)
1862年、帰国(体調不良が理由と言われる)
米国への帰国後は公職にはつかなかったが、彼のこれまでの功績により議会決議で給付された年金で暮らした。
1878年、フロリダで死去。ニューヨークのブルックリン、グリーンウッド墓地に埋葬。
民主党支持者。聖公会の敬虔なクリスチャン。生涯独身を通した。

ハリスは、同時代に日本に駐在したオルコックなどのイギリス人と違い、キャリア外交官ではない。独立から100年も経っていない新興国アメリカ合衆国は、キャリアとしての連邦政府官僚や外交官を育成、保持する官僚制を持たず、海外現地に駐在している貿易商などを領事に任命した。高等教育を受けたエリート官僚や外交官ではなく、民間人が官僚や外交官になる。これは、大統領が変わると、選挙キャンペーン支持勢力(資金提供者)から各国大使やワシントンの連邦政府各省トップを指名する(いわゆる猟官制)という、現在まで続くアメリカの特色である。それにしても、ニューヨーク市での功績はあるにしても、一介の上海の貿易商に、このような重要な国の外交ミッションを与えるという米国の人材登用システムのダイナミズムには驚く。英国のオルコックやパークス、サトウらが職業外交官であるのと大きな違いだ。ちなみに日本に赴任してきたオルコックとオリファントは、長崎から江戸へ艦隊で向かう途中、下田に寄港し、ハリスとヒュースケンに会っている。記録にはハリスから日本の事情を聞き、解説を受けたとある。この出自がまるで違うイギリス人とアメリカ人、二人はお互いどのような印象を持ったのだろうか。やがて江戸で幕府と修好通商条約交渉に入るわけだが、この時どんな会話をしたのだろう。興味がある。

彼は聖公会派の敬虔なクリスチャンであり、厳格な性格の人物であった。米国領事、米国公使というオフィシャルな立場からだけでなく、自らの出自から来る庶民目線を失うことなく日本を日本人を観察している。彼が残した「ハリス日本滞在記」( 'The Complete Journal of Townzend Harris' in 1930)には随所に彼の目線でのエピソードが語られている。なかで日本は文明国で、この上もなく清潔で快適な国だと絶賛している。ことに下田がいかに庶民にとって平穏で豊かに暮らせる街であるか記述している。ただ、この国がこれからやがて近代化への道を歩むことで、日本人にとって幸せな事態が訪れるのかは幾ばくかの不安を感じた。彼がこの地に初めて星条旗を掲揚した時の日記には、「疑いもなく新しい時代が始まる。敢えて問う、これが真の日本の幸福になるであろうか?」と。ちなみにペリー艦隊の報告書で有名になった「下田混浴」については、「なぜこのような醜悪で不道徳な習慣があるのか」と嫌悪している。彼の外交官としての視線は、むしろ国家と国家ではなく人と人であった。これは江戸に遷り米国公使なったあとも変わりない。階級意識、エリート臭、プロトコル重視のアリストクラチックなところがなかったので条約交渉にあたって、幕府の高官は扱いにくかったであろう。しかし、ペリー来航のインパクトに続き、日本に乗り込んできたハリスの辣腕が日本がさらなる欧米各国との通商開始、開国へと進む原動力となったことは記憶に留めるべきである。と同時に、ハリスが原型を作った日米修好通商条約が、各国との「不平等条約」の一種の雛形になったことで、その解消に明治新政府がどれだけの苦心をしたかについても改めて記憶すべきことであろう。もっとも清国での大英帝国による恫喝とも言える交渉で香港が割譲され、多くの都市で排他的な租借地や居留地が設けられて植民地化されていったことを考えると、ハリスはそうした日本の植民地化につながる条件を条約に取り入れなかった。当時の幕府側の交渉力とハリスの対日外交政策が、列強の植民地化政策を防ぐ役割を果たしたとも言える。こうした「外交官」としての辣腕ぶりばかりが日本では話題になるが、彼の出身地ニューヨークでは、先述のように、庶民のための高等教育機関を創設した功労者として記憶されていることを忘れてはならない。後述する。


晩年のハリス


ヘンリー・ヒュースケン:Henrry Heusken(1832〜1861年)

アムステルダム生まれのオランダ人。のちに米国へ移民。貧困の中様々な職業を転々としていたが、人の勧めもあって日本に赴任するハリスの通訳募集に応募。英語とオランダ語の通訳として採用される。
1856年、ハリスとともに下田に赴任。玉泉寺の米国領事館に通訳官として着任。
当時の日本は英語がわかる役人が少なく、オランダ語で幕府とは交渉し、それを英語に翻訳するという交渉スタイルであった。彼はオランダ語、英語だけではなく、フランス語やドイツ語も堪能で、滞在中に日本語も習得している。したがって他国領事館からも重宝され、引っ張りだこで幕府との交渉にに駆り出されたという。
1859年、日米修交通商条約に基づき、江戸の麻布善福寺に米国公使館開設。ハリスとともに下田から移転する。
1861年、プロイセン公使館からの帰りに攘夷派「浪士組」の薩摩出身者の襲撃により殺害される(享年28歳。港区光林寺に埋葬され墓碑がある)。

このヒューケンの殺害事件は各国にとって衝撃の出来事であった。外国人が排外的な集団に襲撃され殺害される事件が起きはじめて7件目の事件であった。しかし、ヒュースケンは先述の通り、幕府からも各国公使館からも信頼される人物であり、外交交渉において重要な役割を担った外交官であり、その殺害のインパクトは多大であった。また、人柄が多くの人々に愛された。この時もいつものように赤羽橋のプロイセン公使館に出かけて麻布の米国公使館へ戻る途中であった。幕府側から付けられていた護衛隊が付き添ってたが、その間隙を狙って赤羽橋付近で襲撃された。彼の葬儀は、幕府からは新見豊前守、小栗豊後守はじめ5人の幕閣が参列し、各国の公使や外交官も参列する盛大なものであった。各国の軍楽隊が葬列に付き、彼の棺は星条旗で覆われ、オランダ海兵隊員により運ばれた。幕府からもハリスに対して弔意が示された。幕府はヒュースケンのオランダにいる母親に弔慰金を払っている。ハリスはもとより各国公使館は幕府に厳重抗議する。これをきっかけに各国は公使館を横浜へ移すべく外交団の間で論議が沸き起こったが、ハリスだけは江戸に留まろうとした。このころは江戸に駐在する外国人外交官の数が増え、また民間人も横浜の居留地を勝手に出るものや、傲慢で不遜な態度を取るものもいて、日本人の反発が懸念される状況になっていた。特に中国に駐在経験を有する彼らが、日本に赴任してくるケースが多く、植民地化された地域の中国人に対するの尊大な同様の態度で日本人に接することが排外運動の火種となりうる、とハリスは懸念していた。そういう意味でもヒュースケン殺害事件は、そのハリスの懸念が現実のものとなった事件であった。これ以降、攘夷派による外国人襲撃事件が多発(同年の英国公使館襲撃の東禅寺事件など)。薩英戦争、馬関戦争まで尊王攘夷のテロ活動が吹き荒れることになる。

ヒュースケンの人柄は、ハリスが厳格な性格であったのに対し好奇心旺盛な若者で、人に好かれる性格であった。下田の領事館で女性の召使を要求したのも彼だと言われている。下田の混浴を見にいったり、人々の日常の生活に興味を持って庶民と交流したと言われる。彼が残した「ヒュースケン日本日記」(岩波文庫で翻訳されている)は貴重な幕末史料の一つであるが、堅苦しい外交官の記録というよりは「若者が見た日本」、といった読み物としても興味深い。そのなかで将軍の謁見のためハリスとともに出かけた江戸参府の旅模様が出てくる。150名くらいの大行列であったようで、天城峠越えの苦労。そしてそれより高い箱根越えで富士山を見て感激した様子が約2ページにわたって記述されている(下田港から海路でなく天城越えの陸路で行ったことも驚きだ)。また、ハリスの日記と同様、日本が近代国家へと変貌してゆくことに、本当に日本人のためになる近代化なのか、との不安を吐露しているところが目に止まる。こうした観察と感想は、当時の多くの来日外国人の日記に見られる。彼らがはるけき日本にやってきて出会ったもう一つの文明国。人々の純朴さと、秩序が保たれ清潔で穏やかな生活が、やがて西欧文明に汚染されて、壊されてゆくことを懸念する感情だ。その後の日本を知る我々には示唆に富む記述だ。彼らが出会い新鮮に感じた、異国ユートピア観へのノスタルジアと片付けられない何かが感じられる。彼が生きていたら、どのような日本を見たのだろう。どのような日米関係を築いたであろう。そうしたヒュースケンが江戸で攘夷派の浪士に襲撃されて非業の死を遂げたことは日本にとっても痛恨事である。


下田時代に日本人が描いたと言われるヒュースケン騎乗図(作者不詳)

ヒュースケン襲撃の図(作者/年代不詳)


お吉(斎藤きち)(1841〜1890年)

ハリスが病気になった時に領事館へ看護師役として奉行所から派遣された女性である。当時17歳のうら若き女性であった。条約交渉に行き詰まっていたハリスは体調を壊し、医者か看護師を奉行所に要求した。奉行所は、妾の要求と考え、かつ交渉を有利に進めようと彼を籠絡すべく芸者を送り込んだ。ハリスはこれを嫌悪し吉を3日で解雇した(腫れ物があったという理由とも伝わる)。その後、お吉は「外人の妾」になった女として、人々から偏見と蔑みの目でみられるようになる。一時下田を離れるが明治に入ってからは下田で「安直楼」という小料理屋を営んだ。現在もその店が残っているが営業はしていない。のちに「唐人お吉」として小説になり、歌、演劇や映画にも度々取り上げられた。

しかし、この「唐人お吉」の物語、真実は如何に。市井の庶民だけに残された資料も少なく諸説あって確かなことは不明である。奉行所の記録によれば領事館に飯炊きなどの召使に派遣された娘たちは吉を含めて5名いた。ハリスの看病のためとして派遣された吉は、先述のように3日で解雇されている。他の4人の出仕期間は、ヒュースケンの召使の福は6ヶ月、あとはまちまちだが長くて1年ほどの出仕であった記録されている。しかし、そのなかで3日で解雇された吉だけが、人々にこのような偏見と好奇の目でみられ、差別と戦い次第に追い詰められて酒に溺れ身を持ち崩した晩年を送った。最後は稲生沢川で溺死体として発見される(入水なのか事故なのかこれも諸説ある)。彼女の遺体は宝福寺の住職によって寺に手厚く埋葬された。しかしこの理不尽さは何なのだろうか。後世に「唐人お吉」としてフィクションの世界で語り継がれたのはなぜか?この実在の人物である吉の物語は、如何にも結末が哀れであり、事実が不明な分だけフィクションとしていくらでも後世に「作り話」を加えられる要素があった。結局は後世の人々が「史実」と「作り話」のないまぜ潤色物語を創出していったのだろう。昭和初期には多くの小説、映画や、講談、演劇と、手を変え品を変えて「哀れな女の悲劇」を語り継いで行った。またハリスをまるで好色な米国人に描き、反米感情をも掻き立てるという、時代の要請、受けを狙ったのもあったのだろう。こうした吉に対する言われなき中傷とゴシップ、彼女に苦悩の人生を強いた世の中の好奇心。そしてハリスの名誉を傷つけるストーリーに、玉泉寺の住職は激しく反発している(「唐人お吉物語」その虚構と真実、玉泉寺住職村上文樹氏)。先述のようにハリスは経験なクリスチャンで高潔な人物であった。日本への赴任前には、貧しい階層向けの高等教育機関を創設するなど、ニューヨークでは偉大なる教育者として名を残している。そして生涯独身を貫いた。

お吉の墓がある宝福寺の「お吉記念館」に掲げられている写真が彼女の肖像として有名である。いかにも可憐で憂を含んだ表情には「唐人お吉物語」の悲劇性を彷彿とさせるものがある。しかしその真偽は不明である。現在では、撮影時期の年齢の相違や、庶民が肖像写真を撮ることはないことから、これはお吉ではないと考えられている。おそらく明治期に横浜の写真館で外国人向けの土産として売りに出されていた日本女性の写真(ブロマイド)「Officer's Daughter」が何らかの成り行きで「お吉」とされていった可能性があると言う。いずれにせよ、彼女が世間の下衆な好奇心や、それによる後世の作り話によって悲劇の主人公に仕立てられていったことは間違いない。ネット時代以前からこうしたゴシップや、根拠のない誹謗中傷で苦しむ人がいることに心しておく必要がある。

のちに創作されたプッチーニのオペラ「蝶々さん:Madam Butterfly」は長崎を舞台にアメリカ人海軍士官ピンカートンと日本人女性の悲恋物語だが、こちらは欧米の男の勝手な異国ロマン物語だ。当時、来日する外国人男性の間で密かに話題になっていた日本人女性との恋愛体験、現地妻「ゲーム」、「Nagasaki Marriage」をオペラ仕立てにしたものである。欧米男性はエキゾチックな夢を見て楽しみ、時間が来ればさっさと帰国する。悲恋を味わって哀れな最期を遂げるのは残された日本人女性だけと言う身勝手な話だ。これに対し、この「唐人お吉物語」は日本人が創出したもう一つの悲劇である。当時の日本人の外国人に対する穢れ観、その妾になった女性蔑視という全く不合理で理不尽な前提から、現実に存在した女性をモデルに物語を創出し、その哀れな女の一生に涙する。やはり悲劇を味わって人生を狂わせたのは女性だけ。いずれにせよこんな話が、後世に語り継がれる古典的名作になっているというのが不思議でたまらない。どちらも好みの作品ではない。小説や演劇や歌劇は必ずしも美しいものや正義の感情だけを描き出すものではないことを知っているつもりだが、なんともそのモチーフの残酷な現実を思い知らされることか。


お吉とされる写真
しかし...

晩年お吉が営んだ小料理屋「安直楼」
現在は営業していないが下田市の史跡になっている



玉泉寺

曹洞宗の寺院である。下田港のはずれの柿崎にある。創建時は真言宗の草庵であった。天正年間、1580年代に曹洞宗に宗旨替えとなった。1854年のペリー来航、下田条約締結後、米国人の休息所、船員の墓所に指定され、ペリー艦隊の水兵5名がここに眠っている。その2年後、1856年にハリスが総領事として赴任。日露和親条約の交渉や、プチャーチン提督の来訪もあり、安政地震津波で大破したロシア艦ディアナ号の犠牲者(3名)、アスコルド号犠牲者(1名)の墓所にもなっている。日本で初めての外国人墓地となった。海の見える丘の上の墓地に並ぶ墓碑を見ると、アメリカ、ロシア共に、ここに眠っているのはみな20代、30代の若者である。図らずも異国の地で命を失い、故郷に帰ることなくこの下田の土になった。人生至るところに青山ありと言うもののその無念の気持ちを思い魂の安らかならんことを祈る。

境内にはハリスの記念碑と星条旗掲揚のポストが残されている。またハリスが病気療養中に牛乳を取り寄せて飲んだことから「日本のミルク飲用発祥の地」になっている。一角にハリス記念館があり、ゆかりの品々が展示されている。昭和54年6月に第39代米国大統領ジミー・カーター夫妻、娘が来訪。その時の写真が掲示されている。伊豆急下田駅からは徒歩で30分ほど。途中伊豆漁協にある「道の駅」で新鮮な地元ネタの寿司を楽しみながら、ゆるりと散策すれば遠くはない。「ハリスの小径」と銘打った海べりの道を進むと、吉田松陰がペリー艦隊の黒船に乗船しようと小船を漕ぎ出した弁天島がある。そこから玉泉寺ははすぐだ。


ハリス記念碑
星条旗掲揚の場所

ペリー艦隊乗員5名の墓
はるかニューポートの地を離れ、故郷に帰ることもなく此の地の土となった若者の霊よ安らかなれ

埋葬されている一人、サスケハナ号軍医の墓碑


下田港を見下ろす丘の上のアメリカ艦隊水兵墓所
心は海鳥となって空を飛び故郷へ

玉泉寺本堂
ハリスが健康回復のために日本で初めてミルクを飲用した記念碑が建つ

記念館に残るハリスとヒュースケンの提灯
彼らが下田で作らせたもの

安政地震/津波で破壊されたロシア艦隊ディアナ号、アスコルド号犠牲者の墓
若き水兵の魂よ安らけくと祈る


「ハリスの小径」に地元の小学生の画が掲げられている。



ニューヨーク市立大学:City College of New York

1847年、NYC教育委員会委員長であったタウンゼント・ハリスによって創設された。
高等教育を受ける機会に恵まれない庶民や、当時、宗教上の理由でアイビーリーグなど東部名門校に入れない若者向けに、収入や人種、宗教による差別のない公立の教育機関として創設されたフリーアカデミーを起源とする。その後シティーカレッジ:City College of New Yorkへと改組し、それを中核としてニューヨーク市立大学:City University of New Yorkが形成され、全米でも有数の規模の公立大学に発展している。ニューヨーク、マンハッタン北西のウェスト・ハーレムに美しいキャンパスを有し、コロンビア大学も近い。私立優位のアメリカにあって、公立の大学として全米でも高い教育レベルを誇る。卒業生、在籍生には、ケネディー政権の国務長官のヘンリー・キッシンジャー:Henry Kissinger、ブッシュ政権の国務長官のコリン・パウウェル:Colin Powel、前ニューヨーク市長のエド・コッチ:Edward Koch、インテル共同創業者のアンドルー・グローブ:Andrew Groveなどがいる。ノーベル賞受賞者も9名にのぼる。



大学の紋章


大学に掲げられている
創設者タウンゼント・ハリス肖像
我々が知る姿よりは若々しく凛々しい


現在のキャンパス

1900年当時の本館


参考文献:

タウンゼント・ハリス著「日本滞在記」上・中・下 岩波文庫
ヘンリー・ヒュースケン著「ヒュースケン日本日記 1855−1861」岩波文庫