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2022年5月5日木曜日

五月晴れの日比谷公園に薔薇と新緑を愛でる 〜3年ぶりに外出規制のない連休に恐る恐る歓喜するの巻〜

 今日は5月5日の「こどもの日」。連休真っ只中である。都心は人出で混雑している。というのも3年ぶりに緊急事態宣言も蔓延防止策宣言もない連休となったため、これまで外出自粛していた人たちが一斉に出かけたという感じだ。この連休中は久しぶりに新幹線も高速道路も、かつてのような満席状態や、渋滞を経験し、日常が戻ったようだ。ただまだなんとなく警戒心が完全に解けたわけではないので、出かけるとと言っても近場が圧倒的に多いようだ。ハワイが旅行解禁になったと言われ海外旅行もか?と話題になっているが、実際に出かける人はまだまだ少ない。コロナが完全に終息したわけではないので、連休明けのこれからまた感染拡大のピークが来るかもしれない。みんな恐る恐るという様子見状況だ。しかしとりあえず久しぶりに「連休の人出」というものを思い出した。

そんな今日、五月晴れの汗ばむような好天に誘われて、いつもの日比谷公園に出かけた。近場も近場。この辺りがまだまだ自粛「巣篭もり」の惰性から抜け出せていない証拠だ。生活圏からは一歩も出てない事になる。やはり休日とあって家族連れが多く、子供向けの遊具のあるエリアはかなりの混雑状態だ。噴水のある広場や池の周りもベンチは満席。松本楼も入場制限が出る状況だ。疲れたおじさんたちが佇むサラリーマンのオアシスも様変わりだ。既に桜や花水木、藤、チューリップ、ネモフィラの季節は終わり、今は薔薇と新緑が美しい。特に新緑の青さが目に沁みる。四季折々の花や緑や紅葉が楽しめる貴重な都心の公園だ。改めてここは都会のオアシスというにふさわしいと思う。我が家からは電車で二駅なので、ブラパチ散策にちょうど良い。馴染みの公園というわけだ。いや、(勝手に主張する)我が家の庭なのだ!

日比谷界隈は、これから再開発が始まるので景観がすっかり変わってしまうのだろう。旧みずほ銀行本店ビルや旧NTT本社ビルには既に規制線が張られて、人の出入りがなくなっている。帝国ホテルもまもなく解体されて新しいビルに建て替わる。涙と笑いと汗の染み込んだあのビルも、この横丁もなくなる。日比谷のランドマークが次々消えてゆく。まだまだ十分使える建物で、しかも歴史的にも由緒ある建築物が惜しげもなく取り壊される。こうして金が回るのだ。「資本の論理」ってやつだ。馴染みの街が消えてゆくのは寂しい。この間、我が故郷である福岡に行った時に、天神の街並みがすっかり消えてしまい、ビルや商店街が更地になって、クレーンや重機で蹂躙されているのを見た。「おいらの故郷はどこへ消えた?」と涙したことを思い出した。「我が青春の日比谷、中年オヤジの日比谷よお前もか!」だ。「昭和は遠くなりにけり」。ついでに日比谷公園も「一帶再開発」されるらしく、テニスコートなどの施設が撤去されるらしい。都心の緑だけは失わないように都民は監視する必要がある。明治神宮の森の伐採計画は阻止されたようだ。「資本の論理」はもう良い。enough is enough!




















































2022年4月24日日曜日

「夕日の日照る」玄界灘 〜瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が見た「葦原中津国」は甚だ吉き国であった!〜



夕陽に輝く玄界灘と沖ノ島


古事記では、「天孫降臨」の地、すなわちアマテラスの孫ニニギが「天津国」から三種の神器と随伴の神々と共に「葦原中津国」を統治するために降り立ったのは「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」であるとしている。そして其の降臨の地の第一印象を次のように語った。「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚だ吉き地」と。とてもロマンチックな第一歩ではないか。そんなニニギを感動させた風景はどこにあったのだろう。

すなわち、ニニギが降臨してきたという「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」とはどこなのか?「久士布流多気」がどこかは不明であるが、後世、この地は筑紫島(九州)の日向国(宮崎県)の高千穂(高千穂峰)であると解釈され、そのように言い伝えられてきた。しかし本当にそうなのだろうか。伝承に基づいて創成された神話の解釈を史学アカデミズムの立場から試みることにどれほどの成果が期待できるかは甚だ疑問なしとはしないが、あえて歴史探偵的に解釈すると、ここが天孫降臨の地であるとすることには違和感がある。おそらく後世に其の地を古事記の神話伝承に因んで「日向」とか「高千穂」と命名したというのが真相だろう。「日向」や「高千穂」という地名はここだけではなく日本のあちこちにある。そもそも古事記や日本書紀が編纂された7世紀末には、律令制に基づく国制は成立しておらず、未だ「日向国」は存在していない。何よりも先ほどのニニギの言葉を思い出してほしい。「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」。韓国(からくに)は今の韓国ではない。大陸の(半島の)蛮夷の国(からくに:空の国)という意味である。この大陸の異国が望める地であると言っている。宮崎県から朝鮮半島は望めない。朝日が差し、夕陽が輝く景観は東西に開けた(おそらく海に面した)土地であろうから、東に日向灘、西に九州山地という宮崎の山奥では望めない。これはどう見ても玄界灘沿岸としか思えない。高千穂とは高くて神々しい山、という意味。日向は太陽に向かう地(ひむか)という意味。いずれも固有名詞ではない。神々しくて、太陽に向かう地という意味である。もちろん玄界灘沿岸にも高千穂や日向の地名がある。

外来文明の受容と変容。それが日本という国の歴史を特色付けていることは知られている通りだ。しかし、日本の正史である日本書紀や古事記はそういう認識を示してはいない。「日の本:ひのもと」は太陽神の子孫が天地開闢以来独自に築いた神国である。決して大陸からの人や文明の受容と変容でできた国ではないとする。どこの国の建国神話、王権神話も多かれ少なかれ同様なオンリーワン・ストーリーを共有しているものだが、我が国の建国神話もその例外ではない。日本書紀や古事記といった正史が生まれた時代背景を考える必要がある。ときはまさに倭国が朝鮮半島の白村江の戦いで唐/新羅に敗れ、国家存亡の危機に直面していた時代である。いわば「富国強兵」と「国家統治の近代化」が急務であった時期である。筑紫の防衛線を構築し、「天皇制」を定め、唐風の首都を建設し、律令制を整備し、税制を定め、仏教を鎮護国家思想とし、官位を定め、国の正史を定める。「建国神話」の創成は、当時の「倭国」から「日の本」へと国家の「近代化」を図る時代の要請を如実に表した政治的宣言の発露に他ならない。すなわち天帝が支配する中華宇宙とは異なる天皇が支配するもう一つの小宇宙の存在を宣言した。まして朝貢冊封体制の下で其の統治の権威を中国皇帝により認めてもらって存立している国ではないのだと、国家アイデンティティーを主張した。であるからこそ記紀では中国の史書に出てくる朝貢冊封国家である、邪馬台国や奴国、伊都国については一言も触れていない。これらの国々が日の本(ヤマト王権)のルーツであるとは認識していないとするのが記紀の立場である。当時全盛を誇る大唐帝国に学びながらもそこからの独立宣言にも等しい、いわば「大宝維新」の政治宣言であった。

差はさりながら、ここ玄界灘は大陸から文明が渡ってきた海である。有史以前より大陸との交流があった列島西北部の「文明のフロンティア」である。普段から海峡の両岸を漁撈や交易を生業とする民が行き来し、またあるときは難民が、流浪の民が、あるときは亡命貴族が海を渡ってやってきた。稲作農耕や生活様式、仏教、政治思想、官僚制、道徳感、そして文字などの大陸由来の文明が彼らと共に伝来した。そして玄界灘を舞台とした古代海人族の安曇族、宗像族が「海北道」の航海の担い手であった。彼らは列島と大陸との間を沖ノ島、壱岐、対馬を経由して航海した。そして列島には奴国、伊都国、邪馬台国などの倭の国々が生まれ、これらの国々は大陸と外交関係(「朝貢冊封」関係)を持つことで支配地域における統治権威を得た。事実、この文明の海には大陸との交流の痕跡、証拠があちこちに存在している(稲作農耕遺跡、鉄器、金印、沖ノ島祭祀、三種の神器の原型たる威信財を埋葬する墳墓等々)。紛れもなく日本は、海に隔てられ、外界から隔絶された地域ではない。そして海外との交流やその影響なしに独自に成立した社会、国でもない。この「夕日の日照る」玄界灘を渡って人々が交流し文明が行き交ったのである。そうした外来の文明や文化を「受容」し、独自に「変容」させてきた。「大宝維新」の「政治的な意図」とは別にニニギにこの風景を感動をもって語らせた。大陸からの文明の受容と変容で生まれた国ではないと主張しつつも、そのルーツを彷彿とさせる玄界灘の景色を懐かしく歌うことでまさに「日の本」の起源のありかを示唆したのだ。


今日でもこの海は多くの船が行き交う「文明の海」である


神宿る島「沖ノ島」の遠景


奴国の今
大宰府の外港、博多津を経て今は人口150万を有する福岡市になっている

「漢倭奴国王」金印が発見された志賀島。其の向こうは「伊都国」

ニニギはここに降臨した

船はやがて那の津へ



(撮影機材:Leica CL + Sigma 18-50/2.8 DC DN)

2022年4月17日日曜日

福岡城址公園に新緑を堪能する


ここは黒田五十二万石、筑前福岡本藩の居城、福岡城(別名舞鶴城)跡。しかし、ここを訪れてまず感じるのは、これほどの外様の大藩の居城にしてはその栄華を偲ぶ遺構が少ないことに驚かされるだろう。最近流行りの「お城巡りツアー」でも取り上げられることが少ない。お隣の肥後の熊本城の人気に比べても寂しい限りだ。天守閣はおろか、大手門も主なる櫓や御殿も庭園も残っていない。加藤清正も尊敬した築城の名手、黒田如水、長政親子の築いた名城の片鱗を感じさせるのはその縄張り。すなわち北に博多湾、南に大休山、西にはの草香江の津(大濠)、東に博多の町。城そのものよりも地形と地の理を生かした城下町作りとなっている点だ。しかも黒田父子は合理主義者。戦のない時代に天守閣も、壮麗な堀割も、高石垣もいらない。朝鮮戦役の時に攻めあぐねた晋州城をモデルとした平城としての縄張りを徹底的に追求した合理的な作りになっている。だからなのか無駄な装飾や権威や権力を誇示する建造物もない質素で無骨な作りである。

幕末動乱期には、尊王攘夷運動の中心の一つであった筑前福岡本藩は最後の最後になって尊攘派を粛清して佐幕派に転換する。その結果、維新の動きに乗り遅れ、鳥羽・伏見の戦いではかろうじて官軍に寄せ集めの兵を出したが、明治新政府では完璧に干された。しかも、藩ぐるみの贋札事件がバレて徳川幕藩体制下では一度も改易されなかったのに、明治になってから藩知事更迭という不名誉を被る。こうして藩主は、廃藩置県を目前にして福岡を退去し、福岡城も明け渡されて破却されてしまう。こうして如水/長政父子の傑作名城は(その後の子孫の不始末で?)失われてしまった。ある意味では悲劇の名城と言っても良いだろう。

破却されて更地にされてしまった城内には、明治以降、県庁や陸軍練兵場や福岡師団の兵舎が設置され、戦後は高等裁判所、国立病院、戦後復興住宅、小学校が設けられ、あの西鉄ライオンズ全盛期の平和台球場や福岡国際マラソンで有名な陸上競技場が設けられた。こうして石垣と一部の堀を除けば完全に城郭としての面影が失われてしまった。最近、全国的に改めて城郭が観光資源として見直されるにつれ、福岡も負けじと城址公園としての復興整備が始まり、国立病院や高等裁判所が城外へ移転していった。ちなみに平和台球場の地下からは、奈良時代の太宰府鴻臚館跡が見つかり現在でも発掘調査が進められている。その結果、平和台球場は破却されてプロ野球は福岡ドームに移っていった。「鴻臚館から福岡城へ」その1000年の時空を超える新たな歴史公園として脚光を浴び始めている。

今、福岡城址は、隣接する大濠公園とともに桜とクスに埋め尽くされる花と緑の市民公園となっている。発展著しい福岡市。ミニ東京化が進み、どこにでもあるガラスと鉄骨で出来たビル群が幅を効かす福岡市。それに伴って歴史遺産と緑の空間がどんどん失われてゆく福岡市。街の文化的景観が希薄になった「大都会」福岡で、目先のお城ブームによる観光資源整備じゃなくて、市民にとって貴重な歴史と緑のスペースとして維持発展していって欲しいものだ。



天守台跡からの展望

天守台跡から大濠公園を望む

大濠公園
福岡城の外堀であった

大濠公園


本丸跡
桜満開の季節が終わると新緑の森に



枝垂れ桜と石垣

クスノキと八重桜

名島門



藤は藩主黒田家の家紋だ

桜と藤のコラボ
それに自転車...

クスの新緑

お堀端の八重桜

大手門

二の丸公園

平和台球場跡
正面は鴻臚館遺跡展示館




(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)