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2023年10月14日土曜日

福岡・博多に近代建築遺産は残っているか? 〜過去を振り返らない街の物語〜


石造建築にみえるが木造で外装に擬似石材モルタルを貼り付けている





旧福岡県公会堂貴賓館(重要文化財)

沿革

第十三回 九州沖縄八県連合共進会の開催に際し、会期中の来賓接待所を兼ねて、明治43年3月、会場東側の現在地に建設された。

建物の設計、監督は福岡県土木部技師であった三條栄三郎。県庁本庁舎の設計も手掛ける

共進会会期中は閑院宮ご夫妻の宿泊所として利用され、会期終了後は、県の公会堂として市民に利用された。戦後は、厚生省出先機関、福岡高等裁判所、県農林事務所などが入り、昭和31年からは県教育庁として利用された。

昭和56年の県庁の移転に伴って、跡地は天神中央公園として再開発されることとなり、旧公会堂も取り壊し予定であったが、貴賓館は貴重な明治期のフレンチルネッサンス建築であることから、昭和59年、重要文化財に指定され保存されることとなった。

建物概要

木造二階建てフレンチルネッサンス様式洋風建築

玄関には石柱のよる玄関ポーチが設けられ、北東には八角形の塔が張り出す。

外壁はモルタル壁に目地を入れて、外観を石造に擬している。

屋根は寄棟型、塔部は尖塔、天然スレート葺き

内部は、床は板張り、壁は白漆喰塗り腰板張り、天井は木製フレーム、漆喰塗りフレームの組み合わせで幾何学模様

大理石の暖炉、シャンデリアは旧県会議場のものを移設した。

(以上、県教育委員会パンフレットから要約引用)


前回のブログでは、博多の町家建築の現況について書いたが、今回は、福岡市の明治以降の近代建築遺産のことを語ろう。今回紹介する福岡県公会堂貴賓館は、福岡/博多には珍しい明治のフレンチルネッサンス様式の近代建築であり、取り壊されずに重要文化財として保存された貴重な文化遺産である。同じ敷地にあったネオゴシック様式の県庁舎は、設計も貴賓館と同じ三條栄三郎である。大正4年竣工の、福岡を代表する堂々たる近代建築であったが、残念ながら県庁移転に伴いこちらは取り壊されてしまった。その残痕とも言うべきの大理石の列柱や階段の一部が天神中央公園に、ローマの遺跡然としたオブジェとして陳列されている。公園を彩るアーティスティックなモニュメントとして残したのであろうが、なんとも無惨な姿を晒している感がしてならない。ただ、同じ敷地に建設されたアクロスは、ビル斜面に「森」を配し、公園の緑と一体になるようデザインされたたユニークな建物である。中には素晴らしいシンフォニーホールがある。また県庁の隣りにあった、もう一つの代表的な近代建築であった福岡市庁舎も建て替えに伴い、旧庁舎は取り壊されてしまった。跡地には、なんというか白い無機質なビルが建った。この一帯は、かつては堂々たる石造りのレトロ建築が建ち並ぶ地区であり、戦時中の福岡大空襲の被害も免れた貴重な建築遺産群であるのに、戦後の高度経済成長期に、きれいサッパリ取り壊されてしまうとは残念なことだ。

人口150万を超える大都市、福岡市、2000年の歴史を誇る博多には、意外にも歴史的な近代建築遺産が少ない。レトロモダンなどとも呼ばれる明治以降の近代化の過程で生まれた建築物は、いまでも大阪や京都、神戸、横浜では多く見かけ、街のランドマーク、そして観光資源となっているケースが多い。福博の街では、重要文化財として保存、利用されている建物は、この県公会堂貴賓館の他には、辰野金吾設計の旧日本生命九州支社、現福岡赤レンガ文化館くらいのものだ。一方で、お隣の北九州市や、筑豊では、明治の近代化産業遺産とともに、「門司港レトロ地区」の有名な門司港駅舎、門司三井倶楽部と関連施設、旧松本家住宅、伊藤伝右衛門邸他、炭鉱主屋敷/邸宅などが、重要文化財指定の近代建築遺産として保存、活用されている。この他にも八幡製鐵所本館、門司税関、門司電話局、三菱倉庫、日本郵船門司支店などのレトロモダンビルが数多く残されている。福岡と北九州の明治以降の近代化の過程における都市の成り立ち、歴史的背景の違いが現れている。このように、福博ではただですら歴史建築遺産が少ないのに、最近、旧九州帝国大学の貴重な歴史的近代建築群(箱崎キャンパス)が、キャンパス移転とともに、その大半が取り壊されてしまった。特に、帝国大学の象徴的な建物であった法文系本館が取り壊されてしまったことには驚きを禁じえない。一方、医薬歯系キャンパス(馬出キャンパス)は移転しないため、多くの歴史的建築物が残っている。帝国大学誘致は、明治・大正初期に福岡市が成功した数少ない国の大型投資であったのだが、取り返しがつかない、もったいないことをしたものだ。大学や県や市に、歴史的な建築物を保存/修復し公共の博物館や図書館などとしてリユースする、先人の残したレガシーを街の歴史資産として未来につなぐという発想はなかったのか。市民の間にも取り壊しに反対し、保存を求める運動もクラウドファンディングも特になかったそうだ。保存/修復を支える資金力不足という事情もあるのだろう。ただ、最近のレトロ建築リユースの例として、旧大名小学校の校舎を保存、リノベーションし、ベンチャーインキュベーション拠点としてリユースすることが決まった。福岡でも徐々にそういう動きが出始めていることは歓迎すべきことだ。いつまでも「新しもの好き」で、「再開発」という名の「破壊」が淡々と進む街であるというイメージは払拭されなければならない。文化リテラシーの高い街、福岡をめざせ!


旧福岡県公会堂貴賓館の写真集


八角塔がシンボル

一階食堂
旧県議会議場のシャンデリアを移設


一階食堂 ハロウィンの飾り付け

二階から中洲、「福博であい橋」を展望

八角塔の内部

八角塔の明かり採り窓

二階貴賓室






二階テラスからの眺望







玄関ホール



(参考1:失われた福岡の近代建築遺産)

福岡県庁舎

1915年(大正4年)竣工 三條栄三郎設計

1971年(昭和46年)移転に伴い取り壊し



(福岡古写真集より)

跡地の一角に建てられた「アクロス」



福岡市庁舎

1923年(大正12年)「竣工

1985年(昭和60年)建替えに伴い取り壊し


(福岡古写真集より)



県立修猷館高等学校本館

1937〜39年(昭和12〜14年)竣工

1998年(平成10年)建替えに伴い取り壊し



(修猷館同窓会HPより)





九州大学法文本館/附属図書館

1925年(大正14年)竣工 倉田謙設計 セセッション様式

2017年(平成29年)キャンパス移転に伴い取り壊し




正門と法文系本館

附属図書館





(参考2:保存された近代建築遺産)

旧日本生命九州支社 現福岡赤レンガ文化館

1909年(明治42年)竣工 辰野金吾設計

1969年)昭和44年)国重要文化財




(福岡赤レンガ文化館HPより)



旧大同生命九州支店 

西中洲からグリーンピア八女に移設

竣工、移設年月は不明


Wikimediaより

福博古地図/絵葉書より



旧九州大学工学部本館 現九州大学学術総合博物館

1930年(昭和5年)竣工 倉田謙設計



事務部棟





旧福岡市立大名小学校

1873年(明治6年)開校

1929年(昭和4年)校舎竣工 

2014年(平成26年)閉校 現ふくおかGrowth Next





現県立福岡高等学校本館

1929年(昭和4年)竣工 三條栄三郎設計
県有形文化財





(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4 撮影写真以外はそれぞれの所属団体HPより引用)


2023年10月8日日曜日

博多総鎮守櫛田神社と博多町家 〜日本最古の都市 博多の歴史地区を歩く〜


博多総鎮守 櫛田神社


山笠


樹齢1000年の大銀杏


博多の歴史は古い。博多の地下を掘ると3mの地層のなかに、2000年の歴史の遺構が折り重なっている。弥生時代のムラ・クニ、倭の奴国、飛鳥時代の那の津、奈良・平安時代博多津、中世博多、室町戦国桃山時代博多黄金時代、太閤町割りの博多、黒田藩政時代博多が重層的に検出されるという。「博多遺跡」は世界にも珍しい2000年のあいだ人々が定住し続けた遺構がギュッと詰まった複合遺跡である。そういう意味では博多は日本最古の都市だといってよいだろう。しかし、長年、故郷福岡を離れ、いわば外から故郷を見ていると、福岡市民は、そんな福岡・博多の歴史をあまり知らない。そんな街に住んでいながら、博多っ子ほど新しもの好きで、これほど歴史や伝統的な景観を顧みない人たちも珍しい。伝統的な町並みは「再開発」「区画整理」と称して消え去り、歴史的な建築物は、古くなったと言ってすぐに壊して新しい建物に建て替える。福博の町は「なんとかビッグバン」と称したガラスとスチールのビルへの建替えが盛んだ。町は人口が増え、発展しているというが、世界の都市と比べると、これだけの歴史を重ねながら街の景観に、何処か趣や重厚感がないのはそのせいだろう。歴史と伝統的な建築物や都市景観を保存し、未来に繋ごうという試みが少ない。それを、「過去を振り返らない」「進取の気性に富んだ気質」などと自画自賛しているが、歴史に学ばない、先人のレガシーにレスペクトを持たないイノベーションなど、しょせんは泡となって消え去るのみだ。ちなみに私は福岡っ子であって、博多っ子ではない。那珂川の西の城下町福岡育ちで、東の商都博多の育ちではないからだ。「博多っ子」には、「江戸っ子」と同じどこか特別のプライドがあり、東京に住んでいるものが全て江戸っ子ではないように、福岡っ子がみだりに自称すべきではないと思っている。以前にも書いたが、現在の福岡市はかつての城下町福岡と商都博多のツインシティーなのだ。

実際に博多の旧市街を歩いてみる、日本最古の都市、2000年都市、博多も、昨今の発展著しい町には新しいビルが次々と立ち並び、その景観は、どこにでもある普通の都会のそれである。かろうじて碁盤の目の町割りに太閤割の痕跡が残っていて、それが山笠の「流れ」に生きているが、下川端、寿通り、は再開発でビルになり消滅した。「流れ」を歩いても江戸時代の商家や町家はおろか、明治、大正の建物すら残っていない。博多の町家はどこへ行ったのか。空襲で焼けた、というが、実際には戦後の高度成長期に区画整理や再開発で破壊されたほうが多い。この「太閤割」の基本的な都市構造は、太閤さんの本拠地、大阪の船場・島内の都市構造(筋と通りの碁盤の目状の町割り)を共有している。大阪の町も現代では大きくその姿を変えているが、それでも江戸時代、明治大正期の町家が現在でも道修町や北浜、上町筋、本町界隈には残っている。博多は、過去にもモンゴル襲来で町が焼き払われたし、戦国時代には大友、島津、大内の争いでまたまた町が壊滅し、太閤さんが再開発している。先の大戦ではアメリカの空襲で再び焼け野原になった。過去に度々壊滅的な破壊を受けており、博多っ子に歴史的建物を大事にする余裕がなかったとも言えるのだろう。そして近代化の過程で歴史へのレスペクトが薄れてしまったようだ。

駆け足で博多2000年の歴史を振り返ってみると、

弥生のムラ、クニ 奴国、伊都国 後漢書東夷伝に記録 阿曇族 大陸との交流

飛鳥、奈良、平安時代 太宰府による官製貿易 外港である那の津、鴻臚館貿易

平安末期・鎌倉時代、中世は私貿易 平清盛による袖の湊 謝国明などの博多鋼首、大唐街形成 元の襲来で壊滅も復興

室町時代〜江戸初期 明との勘合貿易で栄えるが、博多利権を巡る大内・大友・龍造寺、島津の争い戦乱で壊滅 太閤割(博多の再建) 神屋宗湛、嶋井宗室、大賀宗久、博多三傑が活躍 博多黄金の時代

江戸時代 鎖国で海外貿易は長崎へ 博多の衰退 黒田藩政下の博多へ

明治の廃藩置県後は、隣の城下町福岡と商業都市博多が合併し新しい市となる。市名は議会では一票差で福岡市となる。

アメリカ軍の空襲で町が焼ける

詳しくは、以前のブログ、2014年11月13日 日本最古の都市 博多をご参照願いたい。


櫛田神社

櫛田神社は博多総鎮守。博多祇園山笠、追い山の出発地点である。御供所町の聖福寺や東長寺、承天寺などの大陸伝来の中世の禅宗大寺院とともに博多のランドマークである。もとは肥前国神崎郡にあった平家が管理する荘園、神埼の庄の御神体を平清盛が博多津・袖の湊に勧請したのがはじまり。日宋貿易に力を入れた清盛は自ら大宰大弐の官職を望み、博多に袖の湊を築き、街の発展に貢献した。そしてその事業を代々継がせた。のちの太閤さんと共に博多の恩人だ。7月の「博多祇園山笠」は、櫛田神社の祇園社の祭礼で、博多を代表する祭り。疫病払いという点では、京都の祇園祭と同じルーツである。中でも「追い山」は「流れ」(町内)ごとの舁き山が櫛田神社を出発して、博多の町を周回して須崎の廻り止めにゴールする勇壮な祭り。また、10月には秋の大祭「博多おくんち」(長崎、唐津とあわせて日本三大くんち)も御神幸行列が盛大に執り行われる。博多といえば櫛田神社、と言えるほど博多っ子の心の拠り所となっている。


博多町家

櫛田神社門前に、博多の町家が並んでいる一角がある。「博多町家ふるさと館」と銘打った観光施設であるが、復元町家とお土産屋と展示施設の3棟で構成されており、櫛田神社と相まって、一種の「博多歴史地区」といった風情である。復元町家は、冷泉町に明治20年に建てられた博多織元の旧家(旧三浦家住宅)を移築したもので、当時の外観、間取り、内装、庭園、蔵を忠実に再現している。見事な白漆喰に重厚な瓦屋根、連子格子の商家建築である。建物の中は、手前から店、奥、機織り工房が並び、真ん中を「うなぎの寝床」の土間が貫いている。高い吹き抜けとむき出しの梁、裏には庭と蔵がある。典型的な京町家などと同様の構造だ。ただ、塀はいわゆる「博多塀」という独特のものだ。戦乱で焦土と化した博多を再建した太閤秀吉の区画整理事業「太閤割」のときに、瓦礫を利用して築かれた土塀が原型となっている。土塀に瓦や石がリズムカルに配された独特のデザインで、今でも町の何箇所かで再現されている。かつてはこのような町家が博多の町並みを形成していたのであろう。よくぞ復元してくれたと、関係者の努力に感謝する反面、このような町並みが失われ、テーマパーク然としてしか残せなかったことに悲しみを覚える。そう言えば、博多銘菓「鶴乃子」や「鶏卵素麺」の老舗「石村萬盛堂」の本店も、伝統的な町家建築(後述の写真参照)であったが、改築されて現代風のビルに建て替えられていた。この場所は、祇園山笠の追い山「廻り止め」(ゴール)であるので、多少は外見に博多の伝統を生かした作りを残しているが、これもまた寂しい限りだ。

今年3月に地下鉄七隈線が、天神南から博多駅まで延伸され、途中に「櫛田神社前」駅が新設された。天神からも博多駅からもアクセスが良くなった。駅コンコースに博多の伝統工芸品の展示ショーケースがある。博多人形、博多織、博多独楽、博多鋏などの著名作家の作品が展示されているのが嬉しい。博多の伝統文化が感じられる駅である。2000年年博多の痕跡を一つでも多く発見し、残し、保存修景してほしいものだ。


櫛田神社門前の「博多町家ふるさと館」


博多織元の旧家を移設、復元

博多旧市街を彷彿とさせる家並み

魔除けの猿


「うなぎの寝床」の土間

博多織の織機


漆塗りの豪華な内装



「博多塀」
人気漫画「博多っ子純情」の主人公たち




三階までの吹き抜け

今年3月開業の地下鉄七隈線「櫛田神社」駅

駅コンコースの博多工芸品ショーケース
博多塀があしらわれている

博多人形「黒田官兵衛と松寿丸」

博多人形「「菅原道真公」

博多献上

山笠っ子



在りし日の「石村萬盛堂」本店(同店HPより)
追い山「廻り止め」の計測結果が表示されている



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年10月6日金曜日

太宰府に幕末・維新史の痕跡を探す 〜オーバーツーリズムと歴史の町並み〜


太宰府天満宮楼門


本殿修復工事が始まり「仮殿」が設けられた





墓参で帰郷し、久しぶりに太宰府天満宮へ参拝した。太宰府といえば、この菅原道真公が祀られる天満宮で、福岡の、いや九州でも有数の観光スポットである。私は太宰府といえば、天満宮もさることながら、古代史ロマンの漂う都府楼跡、観世音寺、水城、大野城といった、太宰府政庁と条坊制の都城遺構、筑紫歌壇の万葉歌人に大きな関心を寄せるのであるが、今回は天満宮へ直行した。まずは本殿に向かう。檜皮葺の本殿は、令和5年5月から3年かけて、実に124年ぶりの大改修工事が行われており、すでに壮麗な本殿は工事用の覆いが掛けられている。天神様ゆかりの「飛梅」もその傍らにひっそりと佇んでいる。その本殿の前にユニークな仮殿が設けられている。楕円形の屋根を持つ現代的建築物で、一見、古式豊かな天満宮のイメージではない。さらにユニークなのは、その屋根に草木が鬱蒼と生い茂っているではないか。天神様のイノベーティブかつエコなご神威を表しているのだろう。不思議に神域にマッチした佇まいである。この仮殿は、大阪・関西万博の設計を担当する藤本壮介設計事務所の手になるものだそうだ。本殿改修が終わっても、残してほしいものだ。

大宰府は我が故郷でもあり、何度も来ているので、今回はなにか新しいテーマで巡ってみたいと思い、太宰府天満宮とその門前町の歴史的景観と伝統的建造物を探訪しようと考えた。特に参道の両側に連なる町家建築には以前から興味を持っていたものの、お土産屋街の雑踏を抜けて、早く天神様のおわします聖域に到達したい想いで、いつも急ぎ足に通り過ぎたものだった。帰りには、民芸品店を覗いたり、名物の梅が枝餅とお茶で一服したり、ゆっくりと参道散策を楽しんだが、伝統的な門前町の景観という視点で、じっくり眺めたことがなかった。しかし、そう思って改めて参道を見渡すと、その佇まいは、歴史の景観を今に残すというよりも、ごく現代的な観光客のニーズを満たすお土産屋街、飲食街になってしまっている。すくなくとも伝統的な町家建築の風貌を通りから確認することは難しい。いわゆる「伝統的建造物群保存地区」の指定はないので建物の改築も自由だ。最近はインバウンドが激増し、看板や案内板に簡体中文やハングルが踊り、韓国語と中国語が眼前を飛び交い、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚になっている。ツーリズム・カオスのなかでは、なかなかその「歴史的景観」の世界に浸るのは難しい。

そういう昨今の風潮の中、いくつかの町家建築は、残念ながら取り壊されてしまったが、仔細に観察すると天満宮参道には歴史的建造物の原型をとどめている町家がまだいくつも確認できる。一階の外見はすっかり店舗として改変されてしまっているものの、二階を見上げ、看板や外装を取り除いてみると、その基本的な切妻の町家構造は維持されている。しかも、最近では店舗建物の建替えに当たり、当初の姿に復元されたものもある。歓迎すべき傾向だ。ただ、残念なことに、その大半は参道沿いにお土産屋、飲食店、しかも最近流行りのファーストフード、スイーツ、キャラクターグッズを扱う店が幅をきかせている。懐かしい太宰府名物「梅ヶ枝餅」すら影が薄くなっている。ソフトクリーム舐めながら、飲み物飲みながら、立ち食いが横行し、スマホいじりながら、自撮り棒つきだしながら佇み歩き回る、品のない観光客に参道が占拠されてしまっているので、ここが歴史的な町並みだと気が付かない。

かつて天満宮参道には、有名な「梅ヶ枝餅」の香ばしい香りと、「お餅焼けてますよ」の掛け声があり、うれしいワクワク感を与えてくれたものだった。それに、昔ながらのお土産屋さんが軒を連ね、「根性」とかいたキーホールダー、ペナント、まんじゅう、せんべい、博多人形、太宰府参拝記念の手ぬぐいなどが「お土産」の定番であった。なぜか木刀が男の子の人気だった。その他にも、実はここは、書画骨董や筆、墨、和紙などの文房八珍を扱う老舗が軒を連ねていた。場所柄、天満宮の周辺には文人墨客の邸宅や別荘や書斎が立ち並んでいた。茶の湯も盛んで、和菓子の老舗も繁盛している。また、小石原焼、高取焼や古賀人形、久留米絣といった民芸品を扱う店も軒を連ねていた。参拝客向けの「梅ヶ枝餅」とお土産物だけの通りではなかった。一種の文化サロン、伝統工芸品のショーケース的な通りであった。しかし、気づくとそのような老舗は次々と姿を消し、かわりに観光客向けにキャラクターグッズを扱うお土産屋やカフェ、ファーストフード店に変身しているではないか。文人墨客に愛される店は無くなってしまい、ツーリスト向け繁華街になってしまった。今回行ってみてショックだったのは、そうした文化サロン的な老舗の一つであった「小野東風軒」が閉店してしまったことだ。とうとうここも閉店なのか!天満宮参拝の帰りには必ず立ち寄っていた店で、いつも品のある老婦人が店先に座っってた。店の奥には談話室もあり、珍しい品々を拝見しながらの店の人との会話が楽しかった。随分前に骨董専門の「日田屋」が廃業して、お土産屋になったことがあったが、それ以来の大ショックだ。集まってくる客層がすっかり変わってしまったからだろう。

ところで太宰府天満宮参道には、幕末・維新の激動期に、勤王の志士が集まり尊王攘夷運動の舞台となった宿屋が多く存在していたことをご存知だろうか。幕府御用の宿もあった。なぜ太宰府なのか?そのほとんどが今はお土産屋に改造されているが、江戸末期の旅籠の風情を今に残している。たとえば、

薩摩藩の定宿、「松屋」(木造三階建て)
長州藩の定宿、「大野屋」(現在は「まめや」)
土佐藩の定宿、「泉屋」(現在は「梅園」)
幕府御用、「日田屋」(現在は「石ころ館」)
旅籠、「大和屋」(現在は「カフェ風見鶏」)

などがそうで、現在でも、西鉄太宰府駅に近い大鳥居周辺に当時の建物が残っている。いまはお土産屋や和菓子舗、カフェなどに変わっているが、よく見ると、店先以外は江戸末期の旅籠の構造がよく残されている。門前町なので天満宮参拝の旅人向けに旅籠があるのは、不思議ではないが、なぜ幕府や西南雄藩が太宰府に定宿を設けていたのだろう。

これにはある歴史的な事件が関係がある。1863年(文久3年)、「八月一八日の政変」で三条実美など尊王攘夷派の公家5名が、京都を追われ太宰府に落ち延び、太宰府天満宮の宮司、大鳥居信全の邸宅「延寿王院」に三年にわたって滞在した。そのときには西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、伊藤俊輔、坂本龍馬など勤王の志士たちが、これらの天満宮参道の定宿に滞在して、頻繁に延寿王院に五卿を訪ね密議を交わした。一種の朝廷の「亡命政権」が太宰府にあったと言ってもよいだろう。薩摩藩は早くから太宰府に拠点を構えており、「安政の大獄」のときには、西郷は京都から鹿児島下向の途中、月照上人をここ薩摩藩定宿の「松屋」に匿った。また幕府も日田代官所の役人が「日田屋」を拠点に、こうした動きを監視した。当時はまだ薩摩藩と長州藩は対立関係にあり、土佐の坂本龍馬、筑前の加藤司書、月形洗蔵なども薩長同盟に向けて五卿と密談を交わしたと言われている。こうして倒幕派、佐幕派入り乱れての情報戦、謀議が展開された現場がここである。なぜ大宰府だったのか。三条実美は菅原道真公を深く敬愛しており、天皇に忠誠を尽くしつつも無実の罪で左遷され、この地に没した道真公に自らの境遇を重ね合わせたといわれている。古代より「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府を、自らの再起、そして王政復古の場所と考えた。維新成就に当たって、三条実美は太宰府天満宮にその「お礼」として螺鈿の柄杓を奉納している。また天神様は、学問の神様としてだけではなく、庶民にとっても手習いや至誠の神様として敬愛され、太宰府は天満宮参詣、名所旧跡めぐりなど、「さいふまいり」として多くの人々が頻繁に訪れる土地柄であった。勤王の志士にとっても、往来が比較的自由であった。また筑前福岡藩は、当時は勤王派と佐幕派が藩内で対立しており、藩主は五卿の扱いに苦慮した。幕府の意向を勘案して五卿を九州各地に送り出す、いわば厄介払いを考えたようだが、太宰府天満宮の意向には口を挟まなかった。太宰府天満宮は、幕末維新史の中で、いわば一種の治外法権の場として、重要な時代の画期の役割を担った。京都や伏見のように、かつての尊王派の根城となった寺田屋や池田屋などの旅籠が現在は失われたのとは違って、その遺構としての延寿王院、幕府、各藩御用達の旅籠が現存する土地なのである。そんな歴史をもっと知ってもらいたいし、そうした歴史の遺構をきちんと将来に残してほしいものだ。

そんな幕末・維新の時代から、ふと現実に戻り、参道に佇む我がいる。それにしても、平日だというのに太宰天満宮一帯は観光客でごった返している。太宰府駅からの参道は、韓国、中国からのツーリストがひしめき合っている。コロナ明け海外渡航解禁、国慶節連休ということもあるのか、この人出はなんとしたことだ。日本は「放射能汚染水垂れ流し」の危険な国ではなかったのか? 訪日を控えるべきではないのか? そんなの関係ない!という民の強かさ。かつての太宰府は、華やぎと賑わいはあるが、どこか凛とした空気があって、神聖な特別感があったものだが、そうした静謐な佇まいは何処かへ行ってしまったようだ。団体客といえば制服を着た中高生の修学旅行生であった。受験の神様に合格祈願するという、学生ならではの格好の参拝理由があった。しかし、少子化で日本の修学旅行生よりも、経済発展著しい隣国に近いので、インバウンド観光客の手軽なお出かけ先になってしまったようだ。日本に好感を持ってくれるのはありがたいが、アニメやコスプレ、インスタ映え、アレ食った、コレ買っただけのツーリズムでどれほど日本を理解して帰ってゆくのやら。大宰府を訪れる人の波、この入れ替わり様は時代を象徴する光景だ。「旅の恥はかき捨て」、「オーバーツーリズム」という言葉が脳裏をかすめる。インバウンド歓迎!どんどん来て、じゃんじゃんお金使ってちょうだい、か?傍若無人で行儀の悪い観光客でも、お金使ってくれるなら誰でも歓迎? 円安で経済が低迷する日本では訪日観光客が成長の救世主というわけか。「欲望の資本主義」は、ここ、天神様の御神域でも大手を振ってのし歩く。それで良いのか日本。嗚呼、またジイさんの繰り言が始まった。



天満宮宮司の邸宅「延寿王院」
奥に「五卿遺蹟碑」がある


幕府御用宿「日田屋」
かつては文人墨客ご贔屓の骨董品店であったが廃業し、現在はお土産屋になっている

旅籠「大和屋」
現在は古民家カフェとなっている

薩摩藩定宿「松屋」




土佐藩定宿「泉屋白水楼」(現在は菓子舗「梅園」)
長州藩定宿「大野屋」(現在はお土産屋「まめや」)


参道の大鳥居

参道の賑わい

老舗の「小野東風軒」は閉店 別の店に変わっていた

復元町家「かさの家」

復元された町家


炭鉱王伊藤伝右衛門寄進の鳥居


(撮影機材:Nikon Z8+Nikkor Z 24-120/4)