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2024年10月15日火曜日

徳川家康に使節を送った英国王ジェームス1世とは 〜「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?〜




ジェームス1世


2013年発行の日英交流400周年記念金貨
イギリス東インド会社から発行された



「古書をめぐる旅」でベーコンを二回にわたって紹介した。2024年8月10日「ベーコン書簡集」2024年9月1日「ベーコン書簡集」(2) 特に(2)ではベーコン/コーク論争については少し立ち入って「法の支配」の歴史を辿ってみた。そこで、そもそもベーコンやコークが活躍した時代、すなわち国王ジェームス1世治世とはどういう時代だったのか。ともすればヘンリー8世やエリザベス1世というチューダー朝の国王/女王のカリスマ性の陰に隠れて印象が薄いイメージがあるジェームス1世とはどのような国王であったのか。少し振り返ってみたい。


徳川家康とジェームス1世

 ジェームス1世は実は日本との関係が深く、イングランド国王(在位1603年〜1625年)として初めて徳川家康に使節を送り、日英の交易を始めた国王である。1600年、豊後に漂着したオランダのリーフデ号の航海士であったイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康の側近、外交顧問として活躍した時代である。アダムスはイギリス東インド会社を通じて国王に手紙を送り、日本との通商を勧めた。この手紙が国王に届くまでには10年の時間を要したが、ついにイギリス東インド会社のバンタム所属のジョン・セーリス率いる第二艦隊(グローヴ号を旗艦とする)が、国王ジェームス1世の使節として日本に派遣されることとなる。1613年、セーリスは無事に日本に到着し、徳川家康に謁見してジェームス1世の親書を渡した。イギリスは貿易許可証である家康の朱印状を得て平戸に商館を開設し、日英の交流と通商活動が始まった。

ジェームス1世は、先行するポルトガルやスペイン、あるいは新興国オランダとの対抗上、東洋との北西航路(北極海経由ルート)開拓に強い関心を持ち、アダムスもこれを強く支持した。というのも徳川家康も同じ構想を抱いていたからだ。イギリスと日本を直接結ぶルートができれば最短コースとなることから競争優位に立てるし、スペインを刺激することも少ないと考えた。家康もスペインやポルトガルがすでに確保している南回りよりもヨーロッパとの最短コースである北西航路の方が優位と考えた。これは多分にアダムスの助言によるものと考えられ、家康は彼に外洋船の建造、イギリスとの交易のハブ港として浦賀港築造を命じた。しかし、イギリスはこののちオランダとの東インド交易をめぐる争いに敗れ(アンボイナ事件)、1623年には東インド市場から撤退し、平戸の商館も閉鎖して日本から撤退する。これ以降はアジアはインドに集中することになるが、この時のジェームス1世は、高価な陶磁器や絹、刀剣などの工芸品を買い付けできる日本、中国との交易にこだわったという。ジョン・セーリスの「日本航海記」を繰り返し愛読したと言われている。1673年、彼の孫であるチャールズ2世(王政復古後の)の時代に再度日本に使節(サイモン・デルポー率いるリターン号)を送るが、この時は幕府側によって拒絶されている。以来、250年後の幕末の安政五カ国条約の時まで日英の正式な国交はない。この時にジェームス1世から家康、秀忠に贈られた献上品(望遠鏡、茶器セット、毛織物等)は現存しない。また家康、秀忠から贈られた金屏風10隻は行方不明だが、甲冑2式はロンドン塔に展示されている。

2023年8月23日「家康の駿府外交」


ジェームス1世の事績

このように日本に関心を抱き、交易を目指した英国王ジェームス1世だが、彼はイングランドではどのような国王であったのだろう。そもそも王位継承から波乱含みであった。エリザベス1世崩御後、女王に子供がいなかったのでスコットランド王であったジェームス6世(処刑されたスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子、ヘンリー8世の姉の子孫)が、1603年にイングランド王位を承継し、ジェームス1世として即位した。母のメアリー・スチュアートはフランスに亡命していたが、帰国してスコットランド女王に即位したが、イングランド貴族のダンリー卿と結婚し一子を設ける。それがジェームスである。メアリーはカトリックで、イングランド王位の正当な承継者であることを主張してエリザベス1世の王位を継承することを主張していたが、スコットランド国内でのプロテスタントの反乱や、宮廷内の陰謀(ダンリー卿謀殺の疑い)に巻き込まれてイングランドに亡命。エリザベスの庇護を求めた。しかし、エリザベスへの叛逆の疑いあり、という陰謀により1587年に処刑される。ジェームスはこの悲劇のスコットランド女王メアリーの息子である。そしてイングランド王となり、スコットランド王を兼ねる。イングランド、スコットランド同君連合の始まりであり、チューダー朝からスチュアート朝に代替わりした最初の国王である。その在位中の事績を振り返ってみよう。


1)スコットランドとイングランドの統合問題

両国の王を兼ねているため、即位早々、統合に熱心で、議会の協力を得ようとするが、イングランド、スコットランド双方からの抵抗でうまくいかない。しかし、同君連合を象徴すべく、1604年にはグレート・ブリテン王:King of Great Britainを自称した。また1606年にはユニオンジャック旗(現在も使われている旗の原型、アイルランドが入っていない)を制定した。アイルランドは以前からイングランドの植民地とされ、各地で反乱が起きたがスコットランドのプロテスタントを入植させ(アルスター、ロンドンデリー)、カトリックの土地を奪い、公職から追放するなど、アイルランドの抵抗運動を徹底的に弾圧した。

2)宗教政策

ジェームス1世はカトリックであった。かといってローマ教皇にひれ伏すカトリック教徒ではない。王権神授説(Divine Right of Kings)の信奉者で国王自身が神の付託を受けて統治を行なっていると信じている。国王は神のみに責任を負い、そのほかの権威、すなわち議会、ローマ教皇に影響を受けることはないと主張した(後述の著作「The Works of James I」)。また「欽定訳聖書」(英語訳)を1611年に出し、イギリスではこれで典礼、儀礼を行なった。カトリックと国教会と非国教会プロテスタント(ピューリタン)の融和を図ろうとするが、これもそれぞれから抵抗を受け、結局は両極端のカトリックとピューリタンを排除する。このためカトリック過激派からは命を狙われ、議会に仕掛けられた爆発物で暗殺されそうになる(Gun Powder Plot:ガイフォークス事件1605年)。またピューリタンは圧政を逃れ、新大陸に移住する集団が現れる(メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ1620年)。この間スコットランドでは長老派プロテスタントが勢力を伸ばす。

3)議会対策

無視はしなかったが相互不信関係にあり、議会は開催したものの(彼の子のチャールズ1世は議会を開かず無視したが)、たびたび国王大権侵害を主張して解散した。そもそも王権神授説を固く信奉する彼はイングランドの議会(Parliament)が王権に優越するものだとは思っていない。議会とは対立した。特に王妃の浪費癖と贅沢三昧は民衆の非難の的となり議会でも問題視された。また寵臣バッキンガム公の身内優先、情実政治への議会の反発も激化し、大法官ベーコンの失脚につながる。さらに議会を無視した課税や資産の売却などがやがては国王に対するコークらの「大抗議:Protestation」1621年へと発展する。この議会の反王権闘争は、その子チャールズ1世の専制政治に対する「権利の請願:Petition of Right」へ、そしてついには清教徒革命(1642〜1649年)へ。反王党派のオリバー・クロムウェルによって国王チャールズ1世が裁判の上、公開処刑される事態につながってゆく。

4)コモン・ロー/司法の独立

イングランド伝統のコモン・ロー優位「法の支配」(Rule of Law)を受け入れず、王権神授説に立って「国王は法の上にある」「裁判官は国王の廷臣である」として国王大権の優位を主張して司法とも対立する。大法官フランシス・ベーコンは一貫して国王大権擁護にたち、コモン・ロー優位を主張するエドワード・コークと対立する。結局コモン・ロー裁判所のトップ、コークを罷免するが、コークは議会に論争の場を移して王権に抵抗する(コーク/ベーコン論争)。また大陸法/ローマ法のスコットランドとの統合にはコモン・ロー側からも強い抵抗があった。最後までイングランドのコモン・ローの法思想を受け入れない「スコットランドから来た王」のままであった。

2024年9月1日「ベーコン/コーク論争」

 

5)海外進出、交易拡大

エリザベス時代と異なり、スペインに対する融和策(弱腰姿勢)で、海軍力強化を怠り、私掠船を禁止するなど交易活躍が停滞した。これを批判するウォルター・ローリーを政敵の密告により投獄、やがてはスペイン王の圧力に屈して処刑する。1604年にはエリザベス1世時にアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃滅したにもかかわらずスペインと和解。スペイン艦隊復活を許してしまう。さらに、反スペインで関係を強化していたオスマン・トルコ帝国とも対立するなど東方貿易に支障をきたす事態を招いた。また同じく、反スペインアライアンスでこのころ海洋進出を活発させていたオランダの後塵を排する事態となっていた。一方で、新大陸、北米植民地開拓事業はバージニア会社(1606年)設立し、ジェームスタウンの建設、ロンドンからの移住植民地が建設されたが、南米ギアナでの金鉱山探索にはスペインとの確執で失敗に終わる。先述の通りスペインとの戦闘を口実にウォルター・ローリーを処刑する。東インド(アジア)には強い憧れを持っていたが、香料をめぐる争いの中、先述の通りポルトガルを駆逐したオランダに先行を許し、ついにはモルッカ諸島のアンボイナ島で起きたイギリス商館のイギリス人、日本人、ポルトガル人がオランダ東インド会社のオランダ人に殺害された事件(アンボイナ事件1623年)がきっかけとなってオランダとの東インド海洋覇権をめぐる競争に敗れ撤退する。同年には平戸のイギリス商館も閉鎖して日本からも撤退する。これ以降、イギリスはインド亜大陸に主軸を移す。しかし英蘭の海洋派遣をめぐる争いは激化し、イギリスはクロムウェルの航海条例でオランダと戦争状態となり3度にわたり英蘭戦争(1652〜1677)を戦い、チャールズ2世の時代に英蘭戦争に勝利したのち、再度東インド、日本への進出を進めるが、日本(徳川幕府)は勝手に平戸商館を閉鎖したことを咎めこれを拒絶されている。

2022年9月12日「ウォルター・ローリー著作」


英国史における評価:「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?

ジェームス1世の国王として事績をこのように列挙すると、まるで失敗続きの暗君にしか見えない。概して評価の高い国王とは見做されていないようだが、英国史の中でその評価は必ずしも定まっていない。エリザベス1世というカリスマ性を持った君主の後継者としてその権威を維持しようと苦労した。ベーコンやシェークスピアを育み、自らも多くの著作を残す知性ある啓蒙君主であるとする評価もあるが、「王権神授説」の熱烈な信奉者として国王大権を振りかざす余り、伝統的に議会とコモン.・ローが優位なイングランドにあって、「イギリス革命」の時代の幕開けを果たした王として記憶されることになる。その結果として国王大権の強化どころか「君臨すれども統治せず」という立憲君主制が生まれることになる。こうしたことから「最も賢明にして愚かな国王」と揶揄された。ただし在位中、対外戦争をしなかったので「平和王」などと称されることもあるが、むしろスペインの挑発や威嚇に対する「弱腰外交」というべきであろう。エリザベス1世時代に築いたイングランドの世界進出のポジション(特に対スペイン)を拡大させるどころか、スペインに譲歩し、スペインから独立を勝ち取った新興国のオランダとの競争にも負け、停頓の時代の国王となってしまった。彼の長男であるヘンリーはウォルター・ローリーにも薫陶を受けた英明な皇太子で人望があり議会からも将来が期待されていたが、18歳で夭折。跡を継いだ次男のチャールズは、父親の専制主義をそのまま引き継ぎ、さらに議会を無視してフランス、スペインとの戦争のために税金を課し戦費の借金する。これに抵抗するものは逮捕監禁処刑するという暴君ぶりを発揮。ついには反王党派のオリバー・クロムウェル率いる議会勢力と衝突、戦闘になり国王軍が敗北。1649年捕えられて公開処刑される(清教徒革命)。歴史にたらればはないというがが、もしヘンリー皇太子が次期国王になっていたら、イギリスはどのような歴史を歩んでいたのだろう。

ジェームス1世は、王権神授説の信奉者という中世的な一面を持ちつつも、最新の科学や海外情報に関心を持つ知的で啓蒙君主的な一面もあった。この時代はジャコビアン(ジェームスのヘブライ語名ジェイコブ)と言われた。自身も多くの著作も残している(スコットランド王時代の「悪魔論」や、王権神授説に基づいた政治論、宗教論集である「The Works of James I」がある)。フランシス・ベーコンはジェームス1世の絶対王権を支持する大法官であった一方、この時代が産んだ経験論哲学、科学の祖であり、ジェームス1世も彼を重用すると共に彼の著作にも影響を受けた。また、エリザベス時代の精華とみなされているウィリアム・シェイクスピア(1616年没)もジェームス1世時代には国王が劇団のパトロンとなり、「国王一座:The King's Men」、すなわち宮廷官として厚い庇護を受けた。一方で、コモン・ローの守護者で、ジェームス1世に抵抗した主席司法官:Chief Justice(コモン・ロー裁判所所長)エドワード・コークもこの時代の人物である。彼は国王の裁判所長を罷免され、議会に移ってからは王権の専制に抗議する「大抗議:Protestation」のリーダーとなる。また「権利の請願:Petition of Right」の起草者であり、名誉革命:Glorius Revolutionの「権利章典:Bill of Rights」に引き継がれるなど、近代法思想の原点である「法の支配」(Rule of Law)を確立した法律家として歴史に名を残している。これもジェームス1世という「王権神授説」の専制君主という、いわば反面教師があったればこそである。皮肉なことであるが。イギリスが産んだ世界の歴史に名を刻む偉人たち。ウィリアム・シェイクスピア、ベン・ジョンソン、フランシス・ベーコン、エドワード・コーク。いずれもジェームス1世治世下の人物である。そして彼らに影響を受けたトマス・ホッブスやジョン・ロック、アイザック・ニュートン、さらにはデヴィッド・ヒューム、アダム・スミスを産むことになる。イギリス啓蒙主義の始まりである。時代は中世から近代へと転換する過渡期であった。しかし、そういった変化の時代にも、中世的な思想と姿勢を引きづり、近代的な啓蒙君主として存在感を示すことはできなかった。また彼は、終生スコットランド人であり、イングランドのコモン・ローの精神や、議会の優位性を理解しようとも尊重することもなかった。彼の国王としての理念の基礎にあったのは「王権神授説」に基づく専制君主の思想である。やはり「最も賢明にして愚かな王」であったと言わざるを得ないだろう。


「ファースト・コンタクト」の250年後の「セカンド・コンタクト」

徳川家康とジェームス1世。徳川家康が磐石の徳川幕藩体制(封建領主体制)を打ち立て、また徹底した管理貿易体制(いわゆる「鎖国政策」)をとって250年の(平和な)江戸時代を築いた一方で、ジェームス1世はむしろ絶対王政から立憲君主制へと移行する時代の入り口にいた。それは彼が積極的にその歴史の歯車を回す役割を果たした、あるいはその歴史的転換を受け入れたと言う意味においてではなく、彼の専制主義的支配と混乱を、息子のチャールズ1世に引き継ぎ、「イギリス革命」の発火点となったという意味においてである。そして立憲君主制の大英帝国繁栄への道を歩む第一歩の時代を皮肉な形で築いた。この徳川家康とジェームス1世の「ファースト・コンタクト」から250年後、その日本とイギリスは再び出会うことになる。日本にとっては、この「セカンド・コンタクト」が「ファースト・コンタクト」以上に衝撃的な出会いであったことは言うまでもない。かたや「七つの海を支配する大英帝国」。かたや「太平の眠りから寝覚めたばかりの日本」であった。ただ皮肉なことにその閉ざされた日本の門を最初に叩きこじ開け、西欧文明との「セカンド・コンタクト」の第一歩を記したのはイギリスではなく、ジェームス1世の時代にはイギリスのバージニア植民地であったアメリカであった。


2022年1月8日「ファースト・コンタクト」カピタンの世紀(イギリス編)



ジェームス1世の徳川家康宛の親書(「英国ニュース・ダイジェスト」より)

ロンドン塔収蔵の家康/秀忠からの甲冑(「英国ニューズ・ダイジェスト」より)

北西航路(北極航路)図(「英国ニューズダイジェスト」より)



2024年10月12日土曜日

ニコン・ミュージアム、創業の地西大井にリニューアルオープン

ニコン・ミュージアム リニューアル・オープン

ニコン本社/イノベーションセンター


2024年10月12日、ニコンの予告通り、西大井、光学通りゆかりの地に新装開業したニコン本社・イノベーションセンターに、ニコン・ミュージアムがリニューアルオープンした。品川からの本社移転のため今年の3月から長期休館していた。早速ご近所さんなので駆けつけた。予告では「開場前、深夜早朝に近隣の道路などで一番乗りを狙って泊まり込んだり、列を作るすることはご遠慮ください」とあったので少々恐れをなしたが、私が出掛けたのは12時過ぎ。土曜日ではあるがそんなに混雑しておらず、ニコンファン、カメラマニア、家族連れなどで賑わっていたが、列を作るほどではなかった。朝イチで並んだ人もいたのだろうか?西大井駅周辺には人を呼べる施設が何もないのでこの「世界のニコン」のミュージアムは新しい「西大井名所」になることは間違いない。カメラマニアのおじさん、おばさんが額をくっつけんばかりにのぞいているカメラショーケースばかりではなく、子供連れの家族が群がる顕微鏡や望遠鏡や光学実験装置も人気だった。

入館するとまず、正面に光学ガラスインゴットがでんと鎮座し異彩を放っている。これは以前の品川時代以来のシンボルである。館内には1300点の製品や技術を展示。なんといってもコンシューマーゾーンの歴代カメラとレンズ群の展示が圧巻である。レンジファインダー機、1948年のニコンI型に始まり、あの伝説の一眼レフニコンFシリーズから最新のデジタルミラーレス、ニコンZ9まで。ニコンの歴史、そしてニコンファンのカメラ遍歴を辿る歴史が長大なガラスケースに展示されている。また、そのガラスは写り込みを防止するコーティングが施された特殊ガラスで、非常に見やすい。さすが光学メーカーだ。また歴代の交換レンズが圧巻だ。スポーツ、報道の現場で活躍した望遠ズームの砲列。数々の名場面、決定的瞬間を切り取った名機のオーラが発せられていている。そのほかプロトタイプ機や、試行錯誤の後を残す試作機、NASA向けのスペースニコンも展示されている。またタッチアンドトライコーナーは最新機だけでなく、往年の名機が手に取って試せるのが良い。展示スペースも従来より約2倍に増えたのでゆったりと見学できる。また半導体ステッパーや半導体用露光装置、測定装置、顕微鏡、天体望遠鏡などのインダストリー向けの展示ゾーンンも充実している。品川の展示では、ニコンの歴史のゾーンで戦艦大和の測距儀の展示があったが、ここでは見えなかったのはなぜ?海軍の日本光学、というイメージを払拭しようと考えたのだろうか。戦後の民生品重視の展示になっているようだ。

このオフィスビル自体、レジェンダリー・ニコンFが開発製造され、F3まで製造された日本光学工業の主力大井工場跡地に開業したもので、まさに創業の地への回帰である。本社機能と研究開発機能が同居するニコン専用の新しいオフィスコンプレックスだ。自然を生かした広々したスペースを重視した低層ビルで環境にも配意した素敵な空間である。ライカが創業の地ウェツラーにライツ・パークを建設して、本社、研究開発、製造機能を集約し、ミュージアムやホテルまで揃え「ライカの聖地」ウェツラーとしてブランド化して「聖地巡礼」観光スポットになっている。ニコンも創業の地、大井町にニコン・パークか、と期待したがそこまでではない。しかし、品川インターシティーのビルの中にあったニコン・ミュージアムが専用ビルの中にゆったりとしたスペースを確保してオープンしたのは嬉しい。カフェバーもあり(この日はまだ開業していなかった)散歩で立ち寄るのにちょうど良さそうだ。ニコンファンの聖地になることは間違いない。しかも単なる企業のPR展示ではなく、長年地域に根ざしてきた日本を代表する企業であり、世界に羽ばたくニコンの貴重な文化遺産施設としての役割を果たすことだろう。(毎週月曜日と日曜祝日が休館。入場は無料)

ちなみに開業初日限定の記念品をゲットできたのは嬉しい。


リニューアル・オープン入場記念メダル
エントランス
開場初日なので献花が見事だ



ミュージアムのシンボル光学ガラスインゴット

1948年の初号機から最新のデジタル機まで、圧巻の歴代カメラ展示ケース

圧巻の歴代ニコン群


もう一つの圧巻は歴代の交換レンズ群


ここから始まったニコン



1948年のニコンレンジファインダーI号機

I型の改良版S

究極の可変型レンジファインダーを搭載したSP
Leica Mを意識した斬新なカメラであったが
これを最後に一眼レフへ転換


一眼レフカメラ ニコンF初号機
「世界のニコン」への第一歩

ニコンF2シリーズ
システムカメラ化志向

ニコンF3のファミリーツリー

ニコマート初号機と8ミリカメラ

インダストリーゾーンへ

半導体露光装置

精密顕微鏡


天体望遠鏡

光学ガラスインゴットの断面






新オフィスビル内散策(一階の一部分のみオープン)





床材には光学ガラスの残欠が散りばめられている。


図書/資料スペース

カフェスペース

マンホールにもニコンレンズキャップ!

ミュージアム・エントランス。



(撮影機材:ニコンへのレスペクトを込めて、Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)




2024年10月7日月曜日

懐かしき我が母校 〜開学の祖が刻んだ校訓「英知、勤勉、礼節」を忘るな〜

 

福岡市立城南中学校HPより
1961年(昭和36年)開校時の写真
油山まで何にもないところにポツンと立っていたんだ。


初代校長 大部勝利先生

開校した時の大部先生(前列真ん中)と恩師集合写真
1年生担任:田嶋敏子先生(前から二列目右から二人目)
2年生担任:伊藤一雄先生(前列右から3人目)
3年生担任:高城保先生(最後列右端)
岩渕先生、吉安余羽根先生、中村先生、村田先生、用田先生、西田先生、教頭先生.....
懐かしい先生方



順番が変更になったようだ。


英知を養い、勤勉に学び、勤勉に働く、そして礼節を持って人に接する。この「英知、勤勉、礼節」は私が在学した中学校の校長先生がその開学の精神を表す校訓として掲げた言葉である。今も学校の正面玄関に掲げられている。そしてスローガンが「若人我ら今日に完全燃焼す」

私が通った中学校は1961年(昭和36年)に開校した。戦後べビーブーマー世代は50年代半ばに入ると一斉に就学時期に至り、60年代には児童数、生徒数が爆発的に増え、既設の小学校も中学校も定員オーバーで受け入れられず、新設校ラッシュとなった。そんな時代に福岡市立城南中学校は産声を上げた。急遽田んぼを埋め立てた敷地に、木造モルタル塗の校舎を二棟建て、取り急ぎ開校したような学校であった(開校時の写真)。校庭は赤土剥き出しで風が吹くと砂埃、雨が降るとぬかるみ。講堂も体育館もなく、1クラス50人の1学年10クラス、3学年1500人をとりあえず収容する教室だけは用意できた。小学校もそうだった。何もかもがとりあえずで始まり、小学校時代は教室も間に合わず、プレハブ校舎で2部授業という時期もあった。朝礼は校庭で行われた。夏は炎天下の校庭で倒れるものが続出したものだ。入学式、卒業式は教室の窓を取り外して校内放送を使って廊下でやった。ともすれば生徒の受け入れ体制を整え、ハコモノを作ることを優先し中身は後回しというのが、団塊世代の小中学校の実態であった。

そんな時にこの新設校の初代校長として赴任してきたのが大部勝利(おおぶかつとし)先生(上記写真)であった。恰幅がよく、口髭を生やした威風堂々とたる人物であったが、その目は優しく慈愛に満ちていた。「我が校は生徒増に伴いとりあえず作った学校じゃない。ちゃんと建学の理念と教育の方針持って子供達を受け入れ、未来に向けて生徒一人一人を育てる学校なのだ。そういう気概を持って校長になったのだ」と。その表明が玄関に掲げられた校訓「英知、勤勉、礼節」であった。当時公立小中学校でこうした教育理念を明確に掲げる学校は少なかった。特に新設校では皆無と言って良い。校長先生は、校長室にふんぞりかえっているのではなく、毎朝、登校時間には校門に立ち生徒を「おはよう」の挨拶で迎え、朝礼では元気にラジオ体操して、大きな声で生徒に向かって話し、校内では生徒一人一人に話しかけ、放課後も生徒たちと部活に参加し、父兄会では車座ミーティングをする。熱血校長であった。私も入学したての頃、廊下で大部先生と出会った時に「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。覚えておきなさい」と大きな手で頭を撫ぜてもらったのを覚えている。浅学非才な私がその意味を知ったのはずっと後のことだった。先生方も熱意に溢れた方が多かった。卒業時の担任の高城保先生は、特に印象深い先生であった。小柄だが精悍な風貌で、是々非々を通す厳しい先生であった。授業中ふざけていて怒られた。たまにはビンタも飛んだ(今じゃ暴力教師と糾弾されるが)。しかし、その心は常に人の迷惑になることをするな。人に迎合するな。自分から逃げるな、であった。御宅にお邪魔したこともあった。高校受験の時、試験会場まで来てくれて、黙って目を見開いて頷いていた姿が目に焼き付いている。特に卒業式の日、先生はクラスの教え子全員を教室に集めてこう言った。「君たち絶対死ぬなよ。絶対生きろよ!」これが先生の贈る言葉であった。みんな泣いた。先生が若い頃に満州で多くの仲間を失い自らも死線を超えてきたことを知っていたから。岩渕鉄男先生は化学の先生であった。私が修猷館在学中に病気休学し大学受験を一年待ったが、運悪くその年は大学紛争の影響で東京の志望校が入試中止となった。がっくりした。この時、岩渕先生はわざわざ我が家まで訪ねてくださり「余計なことかもしれんが、君は病気で休学してるんだから、こんなご時世に無理して東京に行かん方がいい。地元の大学じゃなぜダメなんだ」と、がっかりするなと言いに来てくださったのだ。卒業生のことをいつまでも気にかけてくださったあの時の先生のお地蔵さんのような風貌を今思い出しても涙が出る。他にも印象深い先生方が多かった。人望のある校長先生と志の高い先生方が一丸となって新設校の船出に尽力される様を生徒も見聞きし感じ取ることができたは幸せであった。日教組からは城南中学は目をつけられていたようだが、多くの教員、生徒、父兄からこの学校方針は支持されていた。そんな気骨ある先生があの頃はいた。今や創立63周年の伝統校となったこの母校のHPを見ると、あの木造校舎は建て替えられて立派な鉄筋校舎に変わっているが、この校訓が今でも誇らしく掲げられている。その伝統が今も脈々と受け継がれていることに胸が熱くなる。そして城南中学校は、全校生徒1000人の福岡市内でも屈指の規模の人気校だそうだ。発展する福岡市の市立中学校として輝き続けているのは卒業生として誇らしい。人気の小中学校の校区には人が集まり教育に熱心な地域コミュニティーが生まれる。今やお隣には県立城南高校、市立城南小学校が並んでいて、別に小中高一貫校「城南学園」じゃあないけれど一大教育センターとなっている。少子高齢化で都会でも学校が次々と廃校になる姿を、あの頃の我々は想像すらできなかった。しかし、そんな時代に開学の精神を掲げて今もなお発展する我が母校を誇らしく思う。そして大部勝利先生を想う。高城保先生を想う。岩渕鉄男先生を想う。感謝、感謝、感謝。「仰げば尊し我が師の恩」である。

「英知、勤勉、礼節」。この校訓の意味を良く理解せず、おバカな中学生であった我々はふざけて「ウンチ、検便、排泄」などと囃し立てて先生に叱られたものだが、今になってこの言葉を噛み締めてみる。思えば世の中いつの間にか、真面目に勉強し、真面目に働く人を揶揄したり、英知を軽んじてバカさ加減を売りにしたり、人に対する思いやり、共感、相手へのレスペクトを忘れ、自分さえ良ければ良いなどという人間ばかりになってしまったようだ。礼節なぞ言葉自体が死語になっている。日本人はどうなってしまったのだ。日本人は勤勉で良く働くし、良く勉強するので頭が良い。日本人は利己的でなく、他人への思いやりがある。仲間を大事にして全員で力を発揮できる。公徳心が高い。高度経済成長期にロンドンやニューヨークなど海外生活が長かった私にとって、そんな日本、日本人のイメージが刷り込まれていた。多分に海外の仲間からの評価により形成された、いわば外部の目の受け売りだし、日本への世辞も多分にあっただろう。それに気持ち良くなってしまっていた自分もある。しかし、確かに、かつてそんなこと言われた時代もあった。今はそんなふうに日本人を形容する友人も少なくなった。特に1990年以降生まれの海外の若者にとって日本のイメージはマンガやアニメのようなサブカルチャーを通じて形成されたもので、日本が経済大国で科学技術の進んだ国だとは思っていない。日本人を勤勉で頭が良いというイメージも持っていない。ましてアメリカが吹聴した「働きすぎ」「不公正貿易国」「エコノミック・アニマル」というプロパガンダは過去のものになっている。そんな前世紀のイメージから未だに抜け出せていないのはトランプと、新しい時代に乗り遅れた勉強不足の年寄りくらいのものだ。ニューヨークのタイムススクエアーに立ってみるが良い。つい20年ほど前は、怪しげなオニイさんが近づいてきて、「日本人デスカ?」「コンニチワ」「シャチョー」「トモダチ」「ホンダ、ソニー、ナイコン、」とまとわりついて来たものだ。今しつこく近づいてくるオニイさんは「ニーハオ」「シェーシェー」「ポンユー」「TikTok」と声かけてくる。客引きは金の匂いに敏感だ。今やアジア系といえば中国人。経済大国の金持ち日本人というイメージは消え失せた。人口が減少し、経済も縮小し。科学技術は停頓し。留学生も激減。あっという間に世界から忘れられた国になってしまいつつある日本。まるで13世紀のマルコ・ポーロの「黄金の国ジパング」は幻影であることがわかり、16世紀大航海時代になってからはマゼランも、ドレイクもキャベンディッシュも世界就航の途中寄って見ようともしなかった。ポルトガル船が種子島に漂着して「ここがあのジパングなのか!」と「発見」されるまでその存在すら忘れられていた。このスルー感、デジャヴだ。

昭和の人間はつい愚痴っぽくなる。学生の頃は「坂の上の雲」を見つめてひたすら坂を駆け上っていった明治人の心を思い胸を熱くしたものだ。戦後の昭和人もそんな坂の上の雲を目指してがむしゃらに坂を駆け上った。我々は明治の偉人が昭和戦後のロールモデルであった時代に育った。司馬遼太郎が人気作家であった。そんな面影を背負った明治老人が昭和の子供の頃にはまだいた。土佐のいごっそうで大大阪道修町で事業を起こし、西宮夙川に邸宅を構えた祖父母もそうであった。戦争に負けても、日露戦争以前の明治人の気迫が残っていた。明治生まれは頑固で時代遅れだなどと言われながらもオーラがあった。後世の人々は、昭和老人にそんなレスペクトの感情を抱くだろうか。気迫を感じるだろうか。あの戦後復興、高度経済成長、ジャパンアズナンバーワン、グローバル化の先頭を切って世界に雄飛したのだが、そのあとバブル崩壊後30年も思考停止したのちに坂の上から転がり落ちていった。その戦後昭和がいつまでも明治維新の英傑に憧れているうちに、21世紀、世界は不確実な時代に突入していった。先行モデルがない、英雄がいない時代になった。司馬遼太郎が言うように「まことに小さな国が黎明期を迎えていた」「もし坂の上に一朶の雲があるとすれば、それを目掛けて皆駆け上がって行くだろう」と。はつらつとした時代の空気を感動的に描いた。胸が震えた。しかし今はそんな時代ではない。「一等国への道」という達成すべき目標が明確で、そして欧米先進国というロールモデルがはっきりしていた「文明開花、殖産興業、富国強兵」ナラティブはもはや通じない。坂の上に明確な「雲:ゴール」は無い。その坂の上の「雲:クラウド」は自分で中身を創造しなければならない。「正解が必ずある問題を解ける優等生」では太刀打ちできない。しかし、その明治人の英知と、勤勉さと礼節は忘れられるべきではない。その資質と精神はどんなハードルを超える時にも必要である。それが忘れ去られた時に日本人は長い下り坂から這い上がることはできないであろう。昭和人にはそれがなかった、平成、令和は停頓の時代であった、などと後世に批評されることになるだろう。「英知、勤勉、礼節」。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」。いつの間にか忘れてしまった初心。日暮れて道遠し。悔悟の念にとらわれる今日この頃だ。もはや次世代人に託すしかない。若き城南中学の在校生、卒業生諸君、先人の教えが生きるこの伝統校に学んだ幸運とチャンスを人生に活かして欲しい。開学の祖が遺した校訓を今一度読み直してみてほしい。昭和老人の悔悟で終わってほしくない。


追記:今年の10月からのNHK朝ドラ「おむすび」のヒロイン橋本環奈の出身校は城南中学だそうだ。


2024年9月18日水曜日

古事記は「やまとごころ」の原典? 〜「日本紀の御局」紫式部はなぜ参照しなかったのか〜

 

古事記 神武天皇東征の図


今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代の「源氏物語」の作者、紫式部が主人公の物語だ。NHK大河の主人公といえば戦国武将か幕末維新の英傑、というお定まりのパターンを打ち破る快挙だ。日本の歴史は、軟弱な平安貴族ではなく猛々しい武士によって作られたものだ、と刷り込まれた頭には新鮮な驚きだ。武断的な政治よりも文人政治。武士道よりももののあわれ。剣よりも筆。今年の平安娯楽エンターテイメントには歴史を俯瞰する新たな視座を与えてくれる楽しみがある。そしてまた思いがけない気づきを与えてくれる。


日本書紀の位置付け

その一つが平安時代の朝廷コミュニティーにおける「日本書紀」(日本紀)の重要性である。源氏物語を読んだ一条天皇は「源氏物語の作者は日本紀の知識を持っているようだ。物語とは別に日本紀を講じてもらいたいものだ」と評したと、紫式部は「紫式部日記」に誇らしげに書いている。そのため彼女は「日本紀の御局」とあだ名をつけられた。この一条天皇の指摘は、源氏物語にはそのストーリーや登場人物のモデルに、日本書紀の隠喩が通奏低音として流れていることを示唆するとともに、日本書紀が正史として重要視され宮廷人の重要な教養科目であったことを明らかにしたものである。平安時代には、男性貴族の間では白楽天や李白のような漢籍、漢詩の素養が重視され、公文書はすべて漢文で書かれたので漢文は必須能力であった。ひらがなは女性の文字とされ和歌や男女間の交歓に用いられた。日本書紀は和書であるが正史であるので漢文で書かれている。主人公の紫式部(まひろ)が和歌だけでなく漢詩の優れた才能を持ち、「女性ながら」漢文で日本紀に通じる才女であった事から、道長に彰子中宮の女御として抜擢されたに違いない

このように日本書紀(日本紀)は正史として、当時の朝廷では、基礎的な知識・素養書として、定期的に文章博士によって講書され読み習わされた。いわば宮廷学の基本テキストという位置付けであった。この事がこのドラマでも描かれている。日本書紀がドラマの中で言及されるとは、さすが倉本宏一先生の時代考証、大石静さんの脚本である。また、源氏物語はモデルとなる人物やエピソードが日本書紀に登場する人物や説話に仮託されていると論ずる著作があり話題となっている(倉西裕子「源氏物語が語る古代史」)。まだ読んでいないが興味深いので今後是非取り上げてみたい。このように平安時代には日本書紀が朝廷における嗜み、学びの対象になっていたわけだが、その理由の一つは、おそらくその編纂の経緯にあろう。日本書紀の編纂には、藤原一族繁栄の基礎を築いた藤原不比等が深く関わっており、「大化の改新」における不比等の父、中臣鎌足の事績を大きく取り上げるなど、日本書紀には、いわば「藤原史観」が色濃く現れている。藤原一族による摂関政治全盛時代の平安時代に正史、教科書として取り扱われたのも故なしとしない。


古事記はどう扱われたか?

一方で、「古事記」の方はどうであったのか。現代人の我々は「記紀」として日本書紀と一括して取り上げることが多いが、意外にも平安時代には古事記が歴史書として論じられることは少なかった。とりわけ古事記で詳細に語られる神代の物語はほとんど朝廷で取り上げられていなかったようだ。紫式部も源氏物語の中で古事記を引用したり、神話の物語に仮託したりした形跡はほとんど見えない。『紫式部日記』に言及のあった、一条天皇の「日本紀」は明らかに日本書紀のみを指している。そもそも古事記は日本書紀とは異なり、漢文ではなく漢字を音に用いた和語(いわゆる「変体漢文」)で書かれており、公式な文書(もんじょ)という理解ではなかったようだ。さらに当時は稗田阿礼の実在性や太安万侶という人物への懐疑などがあり、古事記が勅撰の歴史書かどうかも疑わしいと考えられていた。編年体で書かれた日本書紀と比べると、古事記は神話(神代の物語)が全体の三分の一を占め、日本書紀には記述のない高天原神話や出雲神話に多くの紙幅が費やされているなど内容が大きく異なっている。「女子供が好む有象無象の物語」(酷い言い方だが)とみなされていた節がある。せいぜい日本書紀の副読本的な位置付けで学者に読まれたことはあったようだ。そもそもこの頃になると万葉仮名で書かれた日本初の歌集「万葉集」が解読困難になっていたように、「古事記」の変体漢文を解読できる人が限られていた。その後は時代を経るにつれ、さらに顧みられることがなくなり朝廷の表舞台から姿を消してゆく。鎌倉時代には、一部の公卿家や神道の卜部家、吉田家などで秘本扱いで書写が行われたが、世間の日の目を見る機会はなかった。現存する最古の写本である真福寺本が登場するのは室町時代のことであり、江戸時代に入ると、一部の研究者によって古事記は偽書であるとしてその存在と内容の信憑性を疑う意見まで登場する。


本居宣長登場と「やまとごころ」の古事記復権

ところが江戸時代も18世紀末、寛政年間になると、本居宣長が、賀茂真淵の影響を受けて(いわゆる「松坂の一夜」)、日本の古典を学び直し、「やまとごころ」を思い起こせよと、古事記や源氏物語をを取り上げて解題、注釈しようという古典研究活動が始まった。とりわけこの頃、解読不能になっていた変体漢文(和語)で書かれた古事記の写本を集め、読みを確定し、意味を正し、文脈を読み解く研究が続けられた。そして、苦心の末に古事記の注釈書として、「古事記伝」が完成し、1798年(寛政10年)に刊行された。宣長は「古事記伝」の冒頭で、日本書紀は漢文で書かれ「からごころ」を意識したもので日本の本当の姿を表していない。和語で書かれた古事記こそが「やまとごころ」を表した古典である。として日本書紀を排除している。しかしのちには、古事記は日本の「心」と「姿」を描いたもので、日本書紀は日本の「歩み」を描いたものである。として日本書紀の重要性も否定していない。本居宣長は仏教や儒教といった外来の宗教や思想を「からごころ」として排し、日本古来の思想や神道を「やまとごころ」として重視した。古事記を。いわば「やまとごころ」の原典として尊重し、そこに日本人の精神があるとした。神道に関しても従来の「からごころ」の影響を受けた仏家神道や儒家神道を批判し、日本古来の神典である古事記によるべきであるとした。この研究と著作の発表により、長きにわたって忘れられていた古事記が俄かに脚光を浴びることとなり、こうした研究が国学の隆盛を導き、やがて水戸学が起き、幕末の「尊皇攘夷思想」、維新の「王政復古」、そして「万世一系の天皇」「皇国史観」の流れを産んだ。古事記はこうして、いわば「皇国史観の神典」「神道の聖典」に祭りげられていった。もっとも本居宣長自身は必ずしも上古の制度の復活を勧めたわけではない。国学という呼び方にも異議を唱え「古学」と称した。すなわち「やまとごころ」の源流を辿る古典研究を目指したものであった。

ちなみに、宣長は「源氏物語」の注釈も行なっていて、一連の講義を開いている。それをまとめたものが『源氏物語玉の小櫛」である。現代でも源氏物語の解説書として重視されしばしば引用される。ここで宣長は源氏物語を「もののあわれ」の文学と説明し、その根底に「やまとごころ」があると断じた。当時は仏教や儒教など外来の思想と日本古来の思想の融合の文学であるとした北村季吟の「湖月抄」が源氏物語注釈の定本とされていた。現代でもその季吟の重要性は変わらないが、宣長の注釈書はこれへに批判書とされている。ただ、紫式部は漢籍に通じる才女であり、また「日本紀の御局」と称せられたくらいで、「源氏物語」も漢籍(白氏文集など)からの引用や、仏教の教え、漢文で記述された日本書紀からインスピレーションを得ている。すなわち漢詩の「からごころ」と和歌の「やまとごころ」を習合した作品でなのである。「蛍の巻」で光源氏が玉鬘と物語論を語る場面がある。日本紀のような歴史書は物事の一面しか語っていないが、虚構である物語は物事を多面的に描き、結局より多くの真実を語っている、と語っている。ここでも北村季吟の『湖月抄』は漢文で書かれた日本紀と和文で書かれた物語を重ね合わせた物語が源氏物語であると注釈しているのに対し、宣長は「からごころ」の日本紀の影響を無視する。「やまとごころ」の物語こそ「もののあはれ」を描くものであると、かなり強引な解釈を示している。


古事記は皇国史観の聖典に〜明治維新の二面性〜

このように古事記が日本人の思想の基本的な神典として脚光を浴びたのは、18世紀末という比較的新しい時代の出来事であったことを思い起こす必要がある。古事記は712年(和銅5年)の元明天皇への献上以来、一貫して日本の歴史の原典、皇国史観の神典、神道の聖典として表舞台で取り上げられたわけではないのだ。それまで長く忘れ去られていた古籍がこのように本居宣長によって発掘されたことで、やがて幕末維新の尊皇攘夷思想、討幕運動、そして王政復古へとつながっていった。さらには廃仏毀釈、皇国史観による「万世一系の天皇」「現人神」「神国日本」「八紘一宇」といったスローガンも、こうした寛政年間に再発見された古事記に起源を求めることができる。しかし、寛政年間といえば、天明の飢饉を乗り越え、社会が安定し、平和が続き経済も安定していた江戸幕藩体制の爛熟期であった。なぜそうのような時代に盛んになった古典研究たる国学が、やがて幕末維新という国の近代化の時期に尊皇攘夷や討幕といった「革命思想」につながっていったのか。古事記がその聖典になったのか。明治維新の持つ二面性がその背景にあるように思う。明治維新(文明開花、殖産興業、富国強兵)は国の近代化、西欧化を進める一大国家事業であったが、同時に650年続いた武家政権、260年続いた徳川幕藩体制の解体と国家再建事業でもあった。国の近代化もハードルが高いのだが、この長く続いた武士の世を終わらせることのハードルは途方もなく高かった。このために国学が果たした思想的役割は大きい。そして古事記に語られる「皇国史観」の再認識が、すなわち「天皇中心の政治体制への回帰」が、社会の基層に岩盤のように存在する「武士の世」を終わらせる新思想となり、新国家建設のロジックとして活用された。したがって「明治維新:Meiji Restoration」は「革命: Revolution」ではなく「王政復古:Restoration」なのである。西欧諸国に伍した国の近代化のために古事記の古代世界に戻る必要があった。なんと皮肉なことであろう。これは必ずしも本居宣長の目指した国学/古学の帰結ではなかったかもしれないが、後世において「王政復古」のイデオローグとして担ぎ出されたことになる。天皇が主権者として支配する国家。それは大日本帝国憲法第一条に明文化された。ただそれは古代の統治制度をそのまま踏襲するのではなく、イギリスの立憲君主制のようでいて、ドイツの専制皇帝制のようでもあるという、日本の古代天皇制(まさに古事記が成立した8世紀初頭の)に、西欧の近代君主制と議会制を潤色したような「王政復古」であった。しかしその理念である「皇国史観」だけはしっかりと根付かせた。その根拠としての古事記をいわば聖典化して、皇民はそこに書かれていることは史実であると、戦前まで教育されそう信じてきたのである。


戦後の古事記批判的研究

戦後は民主化政策に伴い、「皇国史観」の否定が行われ、天皇が自ら人間であることを宣言し、「国民主権」が憲法に謳われる。天皇は「国民統合の象徴」となる。そして古事記も「聖典」の呪縛から解き放たれ、自由な研究が進められるようになった。しかし、いまだに古事記に関しては国家創世神話へのノスタルジア、日本古来の歴史書の存在というプライドから、意識無意識のうちに書かれていることは史実であると信ずる(信じたい)という心情から抜け出せていない。しかもこれは仏教や儒教や、まして西欧思想などの外来思想の影響を受ける以前の日本独自(やまとごころ)の姿だという理解に心動かされる人も多い。そうした歴史観、国家観が披瀝されている著作を今でも目にすることがある。これはもはや合理的な史実認識というより、超越的なストーリーへの信仰である。歴史書というからには、書いてある物語を鵜呑みにするのではなく、その背景を理解し史実を確定するために批判的に解読するという、科学的文献研究が不可欠であることは言うまでもない。また日本の文化が、大陸からの稲作農耕伝来に始まる様々な外来文化を受容し、独自に変容してきたものであることは紛れもない事実である。元来、文明や文化というものは人の交流に伴って伝搬し、受容され、変容されてその地域に根付いていったものである。この古事記もそうした外来思想の影響の例外ではない。古事記編纂は仏教も儒教も伝来後の所為であるし、そこに展開された多神教的神話は世界中の神話にその痕跡が読み取れるし、多くの伝承も大陸や南方のそれに「祖型」を見ることができる。多分に儒教的思想も随所に表れている。そこで宣言された国家観は明らかに華夷思想の受容と日本的変容である。大陸の王朝の存在を強く意識しつつもう一つの「中華世界」の存在を主張している。それを記した文字自体が外来の漢字を受容し変容させたものではないか。あるいは、古事記が日本精神の神典、神道の聖典であると言うのであれば、それは聖書がキリスト教の聖典であるのと同じである。その意味においては聖書は歴史書ではない。そこに記録された神の教義を信仰しその奇跡を信じても、それは人間の歴史を語ってはいない。神話と歴史、神の摂理と人間の理性。神学と哲学。信仰と科学。17世紀のベーコンやデカルトが開いた近代合理主義哲学思想と科学の発展の恩恵を共有するならば、そして科学的合理主義を明治期に受容し近代化を図ってきたことを自負するならば、神話と歴史を分けて考えなくてはいけない。本居宣長が言うように、古事記に記述されているのは「日本のあゆみ」:歴史ではなく神話に仮託された「やまとごころ」である。古事記は、世界から伝わった思想、伝承や習俗といった多様な文化の受容と、日本独自の多神教的習合、変容から生まれた稀に見る古典遺産である。「やまとごころ」はそのようにして育まれそのような視点で古事記を読むべきであろう。であるが故に多くの言語に翻訳され(ウェイリーやサイデンステッカ)世界の人々に広まり愛されているのである。文化の持つ普遍性である。





参考過去ログ: